第145話 日曜日の余韻と、まだ知らない君の好きな時間
日曜日の朝、水瀬彩花は、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。昨夜は悠真と中央図書館で過ごした一日を思い返しながら眠りについたためか、目を開けた瞬間にも、古い写真集のページや冬の広場で見上げた木々の姿が浮かんできた。窓の外では小鳥が短く鳴き、住宅街には休日らしい穏やかな空気が流れている。
枕元の時計を確かめると、普段の休日より少し早い時間だった。もう一度眠ることもできそうだったが、不思議と眠気は残っていない。彩花は布団の中で小さく伸びをしてから身体を起こし、机の上に置いた葉模様の日記帳へ目を向けた。
昨日、悠真と過ごした時間について書き留めた日記だった。
中央図書館で待ち合わせたこと。昔の街並みの写真を一緒に見たこと。植物の本を開き、まだ名前の分からない木の蕾について話したこと。そして、図書館の近くを歩きながら、何気ない景色がいつもと違って見えると伝え合ったこと。
どれも、昨日のうちに言葉にしたはずだった。
それなのに、朝になって思い返すと、まだ書き残していないことがたくさんあるように感じられた。
(悠真君、写真を見るとき、私が読み終わるまで待ってくれてたな。それに、植物の本を探そうって言ったときも、急がなくていいよって笑ってくれた)
彩花は膝の上で手を重ね、昨日の悠真の表情を思い出した。
大きな出来事ではない。誰かに話せば、そんなことは当たり前だと言われるかもしれない。それでも、自分の読む速さに合わせてくれたことや、興味を持ったものを一緒に眺めてくれたことが、彩花には嬉しかった。
そして、もう一つ気づいたことがあった。
悠真は、彩花の希望を聞いてくれるだけではなく、自分が面白いと思ったことも以前より自然に話してくれるようになっていた。
昔の街並みの本を見たいと言ってくれたことも、写真の中の建物や道路について楽しそうに説明してくれたことも、彩花には大切な思い出になっている。
(もっと知りたいな。悠真君がどんな本を好きなのかも、学校でどんな時間を過ごしているのかも。昨日はいろいろ話せたけど、まだ知らないことがたくさんあるんだよね)
そう考えたところで、彩花は少しだけ頬を赤くした。
悠真のことをもっと知りたいと思う気持ちは、以前からあった。けれど最近は、その思いが少しずつ強くなっているように感じる。
知りたいのは、特別な秘密ではない。
学校で友人と笑ったことでも、帰り道で見つけた小さな変化でも、休日に何気なく選んだ本でもいい。
悠真が大切にしている時間を、自分も少しずつ知っていきたい。
彩花はそんな気持ちを抱えながら、ベッドを整えて一階へ向かった。
◇
水瀬家の台所では、紗月が朝食の準備をしていた。休日の朝らしく、食卓には焼きたてのパンと温かいスープが並び、窓際には冬の日差しが穏やかに落ちている。父の耕助は新聞を広げ、姉の凛花は湯呑みを手に、何かを考えるように窓の外を眺めていた。
「おはよう、お父さん、お母さん、お姉ちゃん」
「おはよう、彩花。今日は早いのね」
紗月が振り返ると、彩花は微笑みながら席へ着いた。
「うん。自然に目が覚めちゃった。昨日はたくさん歩いたから、もっと眠るかと思ってたんだけど」
「楽しかった日の次の日って、意外と早く目が覚めることもあるよね」
凛花がそう言って笑うと、彩花は少し照れたように頷いた。
昨日、帰宅してから家族に図書館で見た本の話をした。昔の商店街の写真や、現在の図書館ができる前の読書施設について、覚えている範囲で伝えたのだが、話しているうちに自分でも驚くほど言葉が増えていた。
凛花はそのときも、楽しそうに話す妹を穏やかに見守ってくれた。
「そういえば彩花、昨日見た植物の本って、冬の間の管理についても書いてあった?」
朝食を食べ始めたところで、凛花が尋ねた。
「うん。冬から春にかけて咲く花の本だったから、育て方についても少し載ってたと思う。でも、私が見てたのは蕾の写真が多いところだったから、詳しくは読めなかったんだ」
「そっか。私はまだ置く場所も決めてないし、急いで買うつもりはないんだけど、冬の室内って思ってたより気をつけることがありそうなんだよね」
凛花は手元のメモ帳を開き、窓際の日当たりについて書き留めたページを見せた。
植物の種類も、置く場所も、まだ決まっていない。
それでも姉は、育て始めてから困らないように、少しずつ情報を集めているらしかった。
「お姉ちゃん、すごく丁寧に考えてるね」
「せっかく育てるなら、ちゃんと元気でいてほしいからね。でも、調べれば調べるほど、何を選べばいいか迷っちゃう」
凛花は困ったように笑った。
彩花はその表情を見て、昨日の悠真との会話を思い出した。
木の名前を調べようとしても、蕾の形だけでは決められない。枝のつき方や葉の特徴など、いくつかの情報を合わせて考える必要がある。
すぐに答えが出ないことは、必ずしも悪いことではないのだろう。
「昨日、悠真君とも似たような話をしたんだ。木の名前を調べるときも、分からないことを無理に決めつけない方がいいよねって」
「へえ。悠真君も植物に興味があるんだ?」
「最近、帰り道で気になる木を見つけたんだって。まだ名前は分からないみたいだけど、毎日少しずつ見てるらしいの」
凛花は興味深そうに頷いた。
「それなら、彩花と似てるね。毎朝、蕾を見てるんでしょう?」
「うん。私もまだ花が咲くところは見てないけど、毎日見るのが楽しみなんだ」
彩花が答えると、耕助が新聞を畳みながら顔を上げた。
「毎日見ていると、変化が分からない日もあるだろう。でも、あとから振り返ると、少しずつ進んでいたことに気づく場合もあるからな」
彩花は父の言葉を聞き、静かに頷いた。
通学路の蕾も、文芸部の部誌も、自分が書いている物語も、すぐには完成しない。
けれど、毎日少しずつ向き合っている。
昨日、悠真と一緒に見た本にも、長い時間をかけて変わってきた街の姿が記録されていた。
「そうだね。私も、ちゃんと見ていきたいな」
彩花が微笑むと、耕助も穏やかに頷いた。
朝食の時間は、いつもどおりゆっくりと流れていった。
◇
九条家では、悠真が朝食を終えたあと、庭へ出てハクと過ごしていた。
冬の空気は冷たかったが、日差しの当たる場所では思っていたほど寒さを感じない。ハクは白い毛並みを揺らしながら芝生の上を歩き、ときどき悠真の方へ顔を向けては、何かを確かめるように鼻を動かしていた。
「今日はゆっくりできそうだね、ハク」
悠真が声をかけると、ハクは尻尾を揺らして近づいてきた。
悠真はしゃがみ込み、柔らかな毛並みを撫でた。
昨日は彩花と中央図書館で過ごした。
帰宅してから家族にその日の出来事を話し、夜には彩花とも短いメッセージを交わしている。
それでも、朝になって思い返すと、昨日の時間がまだ胸の中に残っているようだった。
(彩花さん、昔の商店街の写真を見て、そこにいた人たちの暮らしを想像していたな。俺は建物の形ばかり見ていたから、あの話は新鮮だった)
悠真はハクを撫でながら、静かに微笑んだ。
同じ本を開いていても、彩花と自分では目を留める場所が違う。
けれど、だからこそ、一緒に読むことが楽しい。
昨日はそのことを何度も感じた。
彩花が店先の植木鉢に気づかなければ、自分は写真の端にある植物を見過ごしていたかもしれない。
反対に、自分が昔の道路の形について話したことで、彩花も今の街並みを違う角度から眺めてくれた。
互いの見方を知ることで、景色が少しずつ広がっていく。
その感覚が、悠真には心地よかった。
ハクが悠真の手へ鼻先を押しつけてきた。
「どうしたの? もう少し撫でてほしいのかな」
悠真が笑いながら頭を撫でると、ハクは満足そうに目を細めた。
その様子を見ているうちに、悠真はふと考えた。
彩花は、ハクと一緒に過ごす自分の時間について、どのくらい知っているだろう。
ハクのことは以前から話しているし、家族の一員として大切にしていることも伝えている。
けれど、休日の朝に庭で過ごす時間や、散歩の途中で立ち止まる場所など、細かなことまでは話していないかもしれない。
(彩花さんが、俺の好きなものを知りたいって言ってくれたんだよね。今度は、こういう何気ない時間のことも話してみようかな)
悠真はそう思いながら、ハクと一緒に庭をゆっくり歩いた。
特別な出来事がなくても、大切な時間はある。
昨日の外出を通して、そのことを改めて感じていた。
◇
午前中、彩花は自室の机に向かい、星模様の創作ノートを開いていた。
祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語は、まだ完成していない。
手紙の冒頭には、以前から書いている二行が残っている。
「おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。」
「毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。」
彩花はその文章を読み返し、少女が祖母の使っていた園芸道具を見つける場面へ視線を移した。
持ち手に残された小さな傷。
何度も使われたことで少し色の変わった部分。
少女はそれを見つめながら、祖母と庭へ出た日のことを思い出す。
そこまでは少しずつ書けていた。
けれど、そのあと少女が何をするのかについて、彩花はまだ迷っていた。
(祖母のことを思い出して、すぐに手紙を書き始めるのは少し違う気がするな。でも、ただ立ち止まっているだけだと、少女の気持ちが伝わりにくいかもしれない)
彩花はペンを置き、昨日の広場で見た木々を思い浮かべた。
葉を落とした枝が、冬の空へ向かって広がっていた。
悠真と一緒に見上げたとき、彩花はその形をきれいだと思った。
春になれば葉が茂り、今とは違う姿になるのだろう。
けれど、冬の姿にも、冬にしか見えない美しさがある。
少女が見つめている庭も、同じなのかもしれない。
祖母がいた頃と、今の庭は少し違っている。
けれど、違っているからといって、大切なものがすべて失われたわけではない。
彩花はノートの余白へ、短い言葉を書き留めた。
今の庭にも、今の庭の時間がある。
祖母が大切にしていたものを、そのまま残すことだけが大切なのではない。
少女自身が、これから何を大切にしたいのかを考える。
そこまで書くと、彩花は少しだけ手を止めた。
この考え方なら、少女が手紙を書く理由を、もう少し自然に描けるかもしれない。
ただ祖母を懐かしむためではなく、今の自分が見つけたものを伝えるために手紙を書く。
その気持ちが、冒頭の二行へつながっていくように思えた。
(そうか。少女は、昔のことだけを書きたいわけじゃないんだね。今、自分が見ている庭のことも、祖母に伝えたいんだ)
彩花は静かに微笑んだ。
昨日、悠真と昔の街並みについて話したことが、思いがけない形で物語へつながっている。
昔の景色と今の景色。
変わったものと、変わらずに残っている気持ち。
その二つを無理に分けなくてもいいのかもしれない。
彩花はペンを取り、少女が庭の土へ視線を落とす場面を書き始めた。
祖母の使っていた道具を手にした少女は、以前と同じ場所に立ちながら、今まで気づかなかった小さな芽を見つける。
それは祖母との思い出を消してしまうものではない。
むしろ、祖母から教わった見方が、今の少女の中にも残っていることを感じさせるものだった。
彩花は一段落を書き終え、文章を読み返した。
まだ直したいところはある。
少女の感情を説明しすぎている部分もあるかもしれない。
それでも、昨日までより少しだけ、物語の進む方向が見えてきたように感じられた。
彩花はノートを閉じず、しばらく続きを考えた。
◇
昼食のあと、彩花は凛花と一緒に居間で過ごしていた。
凛花は植物についてのメモを整理しており、彩花は借りている小説を読み進めている。
幼なじみの二人が別々に故郷へ戻り、それぞれの記憶と向き合う物語は、彩花が読んでいるところではまだ再会していない。
今日は、一人が昔の友人から届いた手紙を読み返す場面に差しかかっていた。
手紙には、故郷の街が少しずつ変わっていることや、昔よく通った場所についての思い出が書かれている。
彩花はその文章を読みながら、昨日悠真と見た写真を思い出した。
古い街並みの写真には、今とは違う建物や道路が写っていた。
けれど、その場所で過ごした人々にとっては、それが当たり前の日常だったのだろう。
物語の登場人物も、昔の街を思い出しながら、今の街を歩いている。
その姿が、昨日よりも身近に感じられた。
(昨日、悠真君と話したからかな。街の景色が変わることを、前より具体的に想像できる気がする)
彩花はページをめくり、登場人物が手紙を読み終えたあとの描写へ目を向けた。
すぐに返事を書くのではなく、窓の外を眺めながら考えている。
その沈黙が、彩花には印象的だった。
言葉にするまでには、時間が必要なこともある。
自分が書いている少女の物語も、同じなのかもしれない。
彩花は栞を挟み、本を閉じた。
そのとき、隣にいた凛花が顔を上げた。
「彩花、何か考えてる?」
「うん。読んでる小説のことなんだけど、登場人物がすぐに返事を書かない場面があってね。どうしてかなって考えてたの」
「手紙の返事?」
「うん。昔の友人から届いた手紙なんだけど、読んですぐには書き始めないの。何を伝えたいのか、考えてるのかなって」
凛花は少し考え、手元のメモ帳を閉じた。
「大切な相手からの手紙だと、すぐに返事を書けないこともあるかもしれないね。伝えたいことが多すぎて、どこから書けばいいか分からなくなるとか」
彩花はその言葉に、静かに頷いた。
「そうかもしれない。私も、自分の物語を書いてるとき、登場人物が何を言いたいのか分からなくなることがあるんだ」
「それって、ちゃんと考えてるからじゃない?」
凛花は穏やかに微笑んだ。
「もちろん、考えすぎて進まなくなることもあると思うけど、大切な言葉ほど、すぐには決められないこともあるんじゃないかな」
彩花は姉の言葉を胸の中で繰り返した。
大切な言葉ほど、すぐには決められない。
それは、物語の登場人物だけではなく、自分自身にも当てはまることかもしれない。
悠真へ伝えたいことは、以前より増えている。
楽しかったことも、嬉しかったことも、感謝していることも、少しずつ言葉にできるようになった。
けれど、その奥にある気持ちを、まだ自分でも十分に説明できないことがある。
彩花はそのことを考え、少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう、お姉ちゃん。ちょっと参考になったかも」
「それならよかった」
凛花は笑い、再び植物のメモへ目を戻した。
彩花も本を開いたが、しばらくは同じページを見つめていた。
◇
午後、悠真は自室で青凪市の歴史写真集を開いていた。
昨日、中央図書館で彩花と見た資料とは別の、以前から読み進めている本だった。
まだ最後まで読み終えていないため、今日は少しだけ続きを確かめようと思っていた。
机の上には、航平と整理している古い駅前写真のメモも置かれている。
撮影地点の候補は二つ。
どちらにも似ている部分はあるが、決め手となる情報はまだ見つかっていない。
悠真は昨日見た図書館の写真集を思い出しながら、今読んでいる資料の説明文を確かめた。
ただし、昨日の資料と今の資料では扱っている時期が異なる部分もある。
似た建物が写っていたとしても、それだけで同じ場所だと判断することはできない。
悠真はその点を意識しながら、気になったページに付箋を挟んだ。
(昨日の本も面白かったけど、あの写真が調査の答えにつながるかどうかは別の話だよね。航平とも、もう一度資料を比べてみよう)
悠真は手帳へ短いメモを書き込んだ。
新しい候補地点を増やしたわけではない。
既存の二つの候補について、どの資料を確かめればよいかを整理しただけだった。
それでも、次に航平と話すときの手掛かりにはなるだろう。
そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には航平からのメッセージが表示されていた。
『昨日はどうだった? 図書館、楽しめたか?』
悠真は思わず微笑んだ。
航平らしい、簡潔な聞き方だった。
『うん、とても楽しかったよ。彩花さんと昔の街並みの本を見て、植物の本も少し読んだんだ。そのあと、図書館の近くを歩いてきたよ』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『よかったじゃん。昔の街並みの本って、俺たちが調べてる写真の参考にもなりそうだった?』
悠真は少し考えてから返信した。
『興味深い写真はあったけど、撮影地点を決められるような情報はまだ見つかっていないよ。資料の年代も違うところがあるから、慎重に比べた方がよさそうだね』
『了解。じゃあ、今度また時間が合うときに整理しようぜ。昨日の外出を調査の宿題にしなくていいからな』
その文章を読んで、悠真は小さく笑った。
航平はいつも、必要なところで気遣ってくれる。
調査を一緒に進めている友人でありながら、彩花との時間を大切にしてほしいとも思ってくれているのだろう。
『ありがとう、航平。昨日は彩花さんと本を楽しむことができたよ。調査の方も、また一緒に進めよう』
『おう。楽しめたなら何よりだ』
やり取りを終え、悠真はスマートフォンを置いた。
そして、昨日の彩花の笑顔を思い出した。
写真の中の植木鉢を見つけたとき。
冬の花の本を開いたとき。
広場の木々を見上げたとき。
彩花はそれぞれ違う表情をしていた。
悠真はその一つひとつを思い返し、静かに微笑んだ。
(彩花さんは、何かを見つけたときに、本当に嬉しそうな顔をするんだよね。俺は、その表情を見るのが好きなんだと思う)
そう考えた瞬間、悠真は少しだけ手を止めた。
彩花が嬉しそうにしていると、自分まで嬉しくなる。
その気持ちは以前からあった。
けれど最近は、彩花が何かを見つけた瞬間を、自分も隣で見ていたいと思うようになっている。
それは、ただ相手を喜ばせたいという気持ちとは少し違うのかもしれない。
悠真はその違いを急いで言葉にしようとはせず、写真集へ視線を戻した。
◇
夕方が近づく頃、彩花は自室で星模様のノートをもう一度開いていた。
午前中に書いた文章を読み返し、少女が祖母の園芸道具を手に取る場面を少し修正している。
最初は、道具を見つけた少女がすぐに祖母のことを思い出すように書いていた。
けれど、読み返してみると、少女の視線が少し急いでいるように感じられた。
道具を見つけた瞬間、懐かしい思い出が一度に押し寄せることもあるだろう。
それでも、彩花が描きたい少女は、まず目の前にあるものを確かめるのではないかと思った。
持ち手に残った傷。
土が入り込んだ小さなくぼみ。
祖母が使っていた頃には気づかなかった、道具の重さ。
そうしたものを一つずつ見つめるうちに、少女の中で思い出が形になっていく。
(そうだよね。懐かしいって言葉だけで終わらせないで、何を見てそう感じたのかを書きたいな)
彩花は文章の順番を少し入れ替え、少女の動作を丁寧に描き直した。
道具を手に取る。
持ち手の傷へ指を添える。
祖母が庭で使っていたときの姿を思い出す。
そして、今の庭へ目を向ける。
その流れを整えると、少女の気持ちが以前より自然につながったように感じられた。
彩花は書き終えた部分を読み返し、小さく息をついた。
まだ完成ではない。
手紙の続きを書くには、少女が何を伝えたいのか、もう少し考える必要がある。
けれど、今日は確かに前へ進めた気がした。
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、ふと悠真との約束を思い出した。
物語が完成したら、最初に読んでもらう。
悠真はその約束を大切にしてくれている。
けれど、まだ物語の詳しい内容は伝えていない。
少女が祖母へ手紙を書こうとしていることも、庭の花について書いていることも、悠真は知らない。
彩花はそのことを思い出し、少しだけ微笑んだ。
(完成したとき、悠真君はどんなふうに読んでくれるのかな。きっと、急がずに最後まで読んでくれるんだろうな)
想像すると、胸の奥が温かくなった。
誰かに読んでもらうためだけに書いているわけではない。
それでも、自分が大切に考えている物語を、悠真に読んでもらいたい。
その気持ちは、以前よりも強くなっていた。
◇
夕食の前、九条家の居間では琴葉が押し葉の台紙について考えていた。
淡い緑色と白に近い色の紙を並べ、どちらが合うのか見比べている。
押し葉はまだ乾燥の途中で、今日も取り出してはいない。
悠真が居間へ入ると、琴葉は顔を上げて微笑んだ。
「お兄様、少し相談してもいいですか?」
「もちろん。どうしたの?」
「押し葉の台紙なんですけど、色を決める前に、どんなふうに見せたいのか考えた方がいいのかなって思ったんです」
悠真は妹の隣へ座り、二枚の紙を見比べた。
「どんなふうに見せたいか、か。琴葉は今、どんなことを考えているの?」
「葉っぱの形がきれいに見えるようにしたいんです。でも、拾ったときのことも思い出せるようにしたくて。だから、ただ目立つ色を選べばいいわけじゃないのかなって」
琴葉は少し真剣な表情で答えた。
悠真はその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
妹は押し葉を完成させることだけではなく、そこに残したい思い出についても考えている。
それは、昨日彩花と見た昔の写真にも通じるものがあるように思えた。
「それなら、完成した押し葉を見たときに、琴葉がどんなことを思い出したいか考えてみてもいいかもしれないね」
「思い出したいこと、ですか?」
「うん。葉っぱを拾った日のことでも、そのときに見た景色でも。琴葉が大切にしたいものを考えたら、合う色も少しずつ見えてくるかもしれないよ」
琴葉はしばらく考え、二枚の紙へ視線を落とした。
「……そうですね。私、まだ決めなくてもいい気がしてきました」
「うん。急がなくても大丈夫だと思うよ」
悠真が微笑むと、琴葉も安心したように笑った。
「ありがとうございます、お兄様。彩花さんにも、完成したら見てもらいたいです」
「きっと喜んでくれると思うよ。ただ、まだ具体的な予定は決めていないから、完成してから考えようね」
「はい。ちゃんと完成させてからにします」
琴葉はそう答え、台紙を丁寧に重ねた。
その様子を見ながら、悠真は彩花のことを思い出した。
彩花も、自分が大切にしているものについて、急がずに考えることがある。
妹と彩花は違う人間で、興味も年齢も違う。
それでも、何かを大切にしようとする姿勢には、少し似たところがあるのかもしれない。
◇
夜、彩花は夕食と入浴を終え、自室の机で葉模様の日記帳を開いていた。
昨日の日記を読み返すと、悠真と過ごした時間が鮮やかによみがえってくる。
中央図書館の入口で名前を呼ばれたこと。
昔の街並みの本を一緒に開いたこと。
冬の広場で木々を見上げたこと。
そして、別れ際にまた図書館へ行きたいと伝え合ったこと。
彩花はその一つひとつを思い出しながら、今日の日記を書き始めた。
『日曜日。昨日のことを思い返しながら過ごした。朝は家族と図書館の話をして、午前中は自分の物語を少し進めた。昨日見た景色が、物語の中の少女の気持ちを考える助けになった気がする』
そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。
今日は悠真と会っていない。
けれど、昨日の時間が今日にもつながっている。
自分が書いている物語も、読んでいる小説も、悠真と話したことで少し違って見えるようになった。
彩花はそのことが嬉しかった。
日記の続きを書こうとしたところで、スマートフォンが小さく震えた。
画面には悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日はゆっくり過ごせたかな? 俺は午前中にハクと庭で過ごして、午後は少し本を読んでいたよ』
彩花は自然と微笑んだ。
悠真が休日にどんな時間を過ごしているのか、こうして教えてくれることが嬉しかった。
『こんばんは、悠真君。うん、今日は家でゆっくりしてたよ。午前中は自分の物語を少し書いて、午後は借りてる小説を読んでたの。ハク君も元気だった?』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『うん、とても元気だったよ。庭を歩いていると、何度も俺のところへ来てくれてね。今日は日差しがあったから、少しのんびりできたんだ』
彩花はその文章を読み、ハクの白い毛並みを思い浮かべた。
悠真がハクを大切にしていることは知っている。
けれど、休日の朝に庭で過ごしている様子を想像すると、今まで知らなかった悠真の日常が少し見えたように感じられた。
『なんだか楽しそう。悠真君がハク君と過ごしてるところ、想像すると温かい気持ちになるな』
『ありがとう。ハクと過ごす時間は、俺にとっても大切なんだ。特別なことをしなくても、一緒に庭を歩くだけで落ち着くことがあるよ』
彩花はその言葉を読み、少し考えた。
昨日、悠真と一緒に図書館へ行ったことは、とても楽しかった。
けれど、悠真にとって大切な時間は、彩花と過ごす時間だけではない。
家族と過ごす時間も、ハクと過ごす時間も、航平と調べ物をする時間も、学校で生徒会の仕事をする時間もある。
彩花は、その一つひとつをもっと知りたいと思った。
『悠真君、私ね、昨日一緒に図書館へ行って、もっと悠真君の好きなものを知りたいなって思ったの。昔の街並みの本も楽しかったし、今日みたいにハク君と過ごす時間の話も聞けると嬉しい』
送信したあと、彩花は少しだけ緊張した。
相手のことを知りたいと伝えるのは、嬉しい気持ちだけではなく、少し勇気が必要だった。
けれど、昨日の悠真の笑顔を思い出すと、自分の気持ちを隠したくはなかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、しばらく画面を見つめていた。
もっと好きなものを知りたい。
その言葉が、胸の奥へ静かに広がっていく。
彩花は以前から、自分の話を丁寧に聞いてくれていた。
けれど、昨日の外出を通して、その気持ちがさらに強くなったのだと伝えてくれた。
悠真は嬉しさを感じると同時に、自分も同じことを考えていたと気づいた。
(俺も、彩花さんのことをもっと知りたい。好きな本のことだけじゃなくて、家でどんなふうに過ごしているのかとか、何を考えながら物語を書いているのかとか)
悠真は机の上の手帳へ目を向けた。
昨日の予定は、もう終わっている。
けれど、そこで生まれた気持ちは、今日も続いている。
悠真はスマートフォンを手に取り、ゆっくりと返信を打った。
『彩花さん、ありがとう。そう言ってもらえて、とても嬉しいよ。俺も、彩花さんが普段どんなことを考えているのか、もっと知りたいと思っているんだ』
送信したあと、悠真は少し考え、もう一通書き加えた。
『昨日は一緒に本を見られて楽しかったけれど、今日みたいにそれぞれの休日の話をする時間も好きだよ。彩花さんが物語を書いていることも、いつも応援しているからね』
彩花からの返事を待つ間、悠真は淡い青色の花模様のカードを思い出した。
彩花から贈られたそのカードには、互いの好きなものを大切にしたいという気持ちにつながる言葉が書かれている。
悠真は、その言葉を受け取ったときの嬉しさを今も覚えていた。
けれど、最近はそれだけではない。
彩花が何を好きなのかを知ることが、自分にとっても楽しみになっている。
そして、自分が好きなものを彩花に知ってもらうことも、同じくらい嬉しい。
その気持ちを、悠真は大切にしたかった。
◇
彩花は悠真からの返信を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真も、自分のことをもっと知りたいと思ってくれている。
その言葉が嬉しかった。
『ありがとう、悠真君。私も、悠真君が応援してくれてるから、自分の物語をちゃんと完成させたいって思えるんだ。まだ途中だけど、少しずつ進んでるよ』
彩花はそう返信した。
祖母へ手紙を書く少女の物語について、詳しい内容はまだ伝えていない。
けれど、完成へ向けて少しずつ書いていることは、悠真に知っていてほしかった。
『うん。彩花さんが大切に書いている物語だから、焦らずに完成させてほしいな。読ませてもらえる日を楽しみにしているよ』
その返事に、彩花は静かに微笑んだ。
悠真はいつも、完成を急かさない。
自分が大切にしているものを、同じように大切に扱ってくれる。
そのことが、彩花には何より嬉しかった。
『ありがとう。完成したら、約束どおり最初に読んでね』
『もちろん。楽しみにしているよ』
短いやり取りを終え、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
窓の外には、冬の夜の静けさが広がっている。
昨日は悠真と同じ場所で過ごした。
今日は別々の家で、それぞれの休日を過ごした。
けれど、一日の終わりには、互いの大切な時間について話すことができた。
彩花は葉模様の日記帳を開き、先ほど書きかけていた文章の続きを記した。
『夜、悠真君と休日の過ごし方について話した。悠真君はハク君と庭で過ごす時間を大切にしているみたい。私は、そういう何気ない時間のことも、もっと知りたいと思った』
彩花は少し考え、最後にもう一文を書き加えた。
『悠真君も、私のことをもっと知りたいと言ってくれた。嬉しかった。これからも、お互いの好きなものを少しずつ知っていけたらいいな』
書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。
明日からは、また学校が始まる。
文芸部では冬の部誌の最終承認を待ちながら、必要な確認を進めることになる。
自分の物語も、まだ完成していない。
借りている小説も、読み終えていない。
そして、悠真と次に会う日程も、まだ決まっていない。
それでも、彩花は不安を感じていなかった。
すべてを急いで決める必要はない。
今日のように、互いの毎日を少しずつ知っていく時間も、大切なのだから。
◇
同じ頃、悠真も自室で明日の予定を確認していた。
月曜日には通常の授業があり、生徒会の仕事も予定されている。
航平と進めている古い駅前写真の調査についても、次に時間が合うときに資料を整理するつもりだった。
ただし、撮影地点を決めるための十分な情報は、まだそろっていない。
悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた歴史写真集へ目を向けた。
昨日、彩花と一緒に見た昔の街並み。
今日、ハクと庭で過ごした時間。
航平と調べている古い写真。
どれも、自分にとって大切なものだった。
そして、その一つひとつを彩花に話したいと思うようになっている。
(彩花さんと話していると、自分が大切にしているものを、改めて大切にしたくなるんだよね)
悠真は静かに微笑んだ。
彩花が自分の好きなものを知りたいと言ってくれたことが、嬉しかった。
同時に、自分も彩花のことをもっと知りたいと思っている。
その気持ちを、今すぐ何かの言葉で決めつける必要はないのかもしれない。
これからも、互いの話を聞き、同じ景色を眺め、ときには別々の場所で過ごした時間を伝え合っていけばいい。
悠真はそう考えながら、部屋の明かりを落とした。
日曜日の夜は、穏やかに更けていく。
彩花と悠真は、それぞれの家で今日の出来事を振り返りながら、静かに眠りについた。
昨日、一緒に見つけた景色は、今日も二人の中に残っていた。
そして今日は、互いが過ごす何気ない時間について、また一つ知ることができた。
まだ開かない蕾も、答えの出ていない古い写真も、完成していない物語も、すぐに結論へ向かうわけではない。
けれど、その途中にある時間にも、大切な意味がある。
彩花と悠真の関係もまた、そんな小さな積み重ねの中で、ゆっくりと深まっていた。
次に会う日が決まっていなくても、互いの毎日を知りたいと思う気持ちは、確かに続いている。
その温かな思いを胸に、二人は新しい一週間を迎えようとしていた。




