第144話 土曜日の図書館と、君の隣で見つけた新しい景色
土曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには冬らしい淡い青空が広がっていた。昨夜まで空を覆っていた雲はところどころに残っているものの、朝日を遮るほどではなく、カーテンの隙間から差し込む光が机の上の手帳を照らしている。部屋の空気は冷たかったが、彩花は布団から出ることをいつもの休日ほどためらわなかった。
今日は、九条悠真と会う約束をしている。
午後一時半、青凪市中央図書館の入口付近。図書館で一時間半ほど本を見て、天気や寒さに問題がなければ近くを少し歩く。何度も手帳で確認した予定なのに、目を覚まして最初に思い浮かんだのは、待ち合わせの時刻ではなく、悠真が自分を見つけたときに浮かべる穏やかな笑顔だった。
(今日は、悠真君に会えるんだ。昨日までメッセージで話していたことを、今度は顔を見ながら話せるんだね)
彩花は枕元の時計を確かめ、まだ十分に時間があることを知って小さく息をついた。約束は午後だから、朝から急いで準備する必要はない。それでも、今日はいつもより丁寧に一日を過ごしたい気分だった。
ベッドを整え、窓を少しだけ開けると、冷たい空気が頬に触れた。住宅街の向こうでは、休日らしいゆっくりとした時間が流れている。遠くから車の走る音が聞こえ、近所の庭木では小鳥が短く鳴いていた。
彩花は窓を閉め、クローゼットへ向かった。
昨日の夜に考えておいた服を取り出し、ベッドの上へ並べる。落ち着いた色のニットに、動きやすいスカート、そして冬用のコート。図書館の中では暖かく過ごせても、外へ出れば冷えるかもしれないため、手袋とマフラーも用意してあった。
鏡の前で服を合わせてみると、普段の休日と大きく違うわけではない。それでも、悠真と会う日の服装だと思うだけで、どこか特別なものに見えてくる。
(悠真君、気づいてくれるかな。……ううん、気づいてもらうためだけじゃなくて、私がこの服で会いたいんだよね)
彩花は少し照れながら微笑んだ。
悠真がどんな反応をするかは分からない。それでも、自分で考えて選んだ服を着て会いに行くことが、今は嬉しかった。
着替えを済ませて一階へ下りると、台所から朝食の香りが漂ってきた。母の紗月が味噌汁をよそっており、父の耕助は食卓で新聞を読んでいる。姉の凛花は湯呑みを手に、窓の外を眺めていた。
「おはよう、お父さん、お母さん、お姉ちゃん」
「おはよう、彩花。今日は早いのね」
紗月が振り返ると、彩花は少し笑って頷いた。
「うん。目が覚めちゃったから。まだ時間はあるんだけどね」
その言葉に、凛花がゆっくりと顔を向けた。
「今日は楽しみにしてた日だもんね。昨日、服もちゃんと選んでたでしょう?」
「お姉ちゃん、見てたの?」
「廊下を通ったときに、クローゼットの前で考えてるのが見えただけだよ。別にからかってるわけじゃないからね」
凛花は笑いながら言ったが、彩花の頬は少し熱くなった。
紗月は二人のやり取りを穏やかに見守り、朝食の皿を並べ終えると席へ着いた。
「午後一時半に中央図書館だったわね。移動の時間も考えて、余裕を持って出かけるのよ」
「うん。早めに着けるようにする。図書館を出る頃に、帰る時間の目安も連絡するね」
「そうしてくれると安心だわ。今日は日差しがあるけれど、午後から風が出るかもしれないし、外を歩くなら無理しないでね」
彩花は頷き、温かい味噌汁を口に運んだ。
家族に予定を伝えることは、特別な手続きではない。けれど、こうして気持ちよく送り出してもらえることがありがたかった。悠真と過ごす時間を楽しみにできるのも、帰る場所があり、待っていてくれる人たちがいるからなのだと思う。
耕助は新聞を畳み、彩花へ目を向けた。
「九条君とは、今日はどんな本を見る予定なんだ?」
「青凪市の昔の街並みが分かる本を見たいって話してるの。悠真君、古い写真に興味があるから。時間があれば植物の本も一緒に探してみようって」
「なるほど。昔の街並みか。今の街と比べてみるのも面白そうだな」
「うん。私もそう思う」
彩花が答えると、耕助は満足そうに微笑んだ。
「何か面白いものが見つかったら、帰ってきてから教えてくれ」
「うん。お父さんにも話すね」
彩花は笑顔で答えた。
まだ何も見つけていないのに、帰宅してから話したいことまで増えていく。そのことが少し可笑しくて、彩花は食卓の温かさを感じながら、ゆっくり朝食を食べ終えた。
◇
同じ朝、九条家では悠真が自室の机で手帳を開いていた。
午後一時半、青凪市中央図書館の入口付近。
その予定は昨日も確認したばかりだったが、今朝も自然と目が向いてしまう。悠真は手帳を閉じ、窓の外へ視線を移した。
庭には柔らかな日差しが落ち、白い毛並みのハクが芝生の端でのんびりと歩いている。冬の冷たい空気を気にする様子もなく、時折鼻先を地面へ近づけては、気になる匂いを確かめていた。
(今日は彩花さんと会えるんだ。図書館でどんな本を見つけられるかな。昨日話していた昔の街並みのことも、ゆっくり聞いてもらえたら嬉しいな)
悠真は立ち上がり、用意しておいた服を確かめた。
外出用の落ち着いた色のコートに、動きやすい服装。図書館では長い時間立って本を探すこともあるため、靴も歩きやすいものを選んでいる。
彩花と会う日は、服装を決めるだけでも少し考える時間が長くなる。
以前は相手に失礼のない格好であれば十分だと思っていた。もちろん、今も清潔感や場に合った服装を大切にしている。けれど、それだけではなく、彩花が自分を見たときにどんな表情をしてくれるだろうと考えるようになった。
その変化を自覚すると、悠真は少しだけ照れくさくなった。
階下へ下りると、居間では琴葉が押し葉に使う台紙の見本を眺めていた。淡い緑色と白に近い色の二枚を並べ、どちらが合うのか考えているらしい。押し葉そのものはまだ乾燥の途中で、今日も無理に取り出すつもりはないようだった。
「お兄様、おはようございます」
「おはよう、琴葉。今日も台紙を考えているんだね」
「はい。まだ決められないんですけど、考えている時間も楽しくて」
琴葉はそう言って微笑んだ。
悠真は妹の隣へ座り、二枚の紙を見比べた。
「どちらもきれいだね。押し葉が乾いてから合わせてみれば、今とは違う印象になるかもしれないよ」
「そうですよね。お母様にも同じことを言われました。だから、今日は見本だけ眺めておこうと思います」
琴葉は紙を丁寧に重ね、それから兄の顔を見上げた。
「お兄様、今日は彩花さんと図書館へ行くんですよね?」
「うん。午後から会う予定だよ」
「いいですね。彩花さんに、私の押し葉はまだ途中ですけど、ちゃんと考えているって伝えていただけますか?」
「もちろん。琴葉が楽しみにしていることも伝えるよ」
琴葉は嬉しそうに頷いた。
そこへ母の麗華が入ってきて、二人の様子を見ながら穏やかに微笑んだ。
「悠真、今日は外を歩くかもしれないのよね。日差しはあるけれど、風が冷たいから気をつけて」
「はい。図書館を出る頃に様子を見て、無理のない範囲で過ごすつもりです」
「それなら安心ね。彩花さんにもよろしく伝えてちょうだい」
悠真は頷いた。
父の正樹も朝食の席で予定を確認し、帰宅が遅くなりすぎないようにと声をかけてくれた。悠真は家族に感謝を伝えながら、今日の時間を大切に過ごそうと思った。
◇
昼前、彩花は自室で最後の準備をしていた。
鞄には財布と手帳、ハンカチ、スマートフォンを入れ、借りている小説も持っていくことにした。図書館で読み進める時間があるかは分からないが、悠真と話しているうちに、今読んでいる場面について伝えたくなるかもしれない。
星模様の創作ノートは机の上に残した。
まだ完成していない少女の物語を、悠真に最初に読んでもらいたいという約束は変わっていない。だからこそ、完成するまでは自分の手元で丁寧に書き進めたいと思っていた。
彩花はノートの表紙へそっと触れ、それから鞄の口を閉じた。
(今日は物語を完成させる日じゃないけど、悠真君と話したことが、また何かを書くきっかけになるかもしれないな)
鏡の前で髪を整え、コートを羽織る。マフラーを巻くと、首元が柔らかな暖かさに包まれた。
階下へ下りると、凛花が玄関近くで待っていた。
「彩花、忘れ物はない?」
「うん。たぶん大丈夫」
「たぶん、なの?」
凛花が笑うと、彩花もつられて笑った。
「ちゃんと確認したよ。手帳も財布も入れたし、スマートフォンも持ってる」
「それなら大丈夫そうだね。楽しんできて」
彩花は姉の言葉に頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん。行ってきます」
玄関の扉を開けると、冬の空気が頬へ触れた。
少し冷たいけれど、日差しは穏やかだった。
彩花は家族に見送られながら、中央図書館へ向かって歩き出した。
◇
青凪市中央図書館の周辺には、休日らしい落ち着いた賑わいがあった。
入口へ続く歩道では親子連れが手をつないで歩き、買い物袋を持った人々がゆっくりと行き交っている。図書館の前にある植え込みは冬らしく葉を落としているものが多かったが、常緑の低木だけは鮮やかな色を保っていた。
彩花が入口付近へ着いたのは、約束の時刻より少し前だった。
時計を確かめ、周囲を見渡す。
まだ悠真の姿は見えない。
彩花は入口から少し離れた、通行の邪魔にならない場所へ移動した。
建物のガラス扉には空の色が映り込み、出入りする人々の姿が重なって見える。中からは暖かな空気が流れてくるが、外に立っているとやはり指先が少し冷たくなった。
(悠真君、もうすぐ来るかな。……今日はどんな顔で挨拶しよう)
彩花はそんなことを考えながら、マフラーの端を整えた。
そのとき、歩道の向こうから見覚えのある姿が近づいてくるのが見えた。
落ち着いた色のコートを着た悠真だった。
彼は入口付近を見渡し、彩花を見つけると、すぐに表情を柔らかくした。
「彩花さん」
名前を呼ばれた瞬間、彩花の胸が小さく弾んだ。
「悠真君。こんにちは」
「こんにちは。待たせてしまったかな?」
「ううん。私も少し前に着いたところだよ」
悠真は安心したように微笑んだ。
彩花はその笑顔を見つめながら、昨日までメッセージで話していた相手が、今は目の前にいるのだと実感した。
いつもと同じ穏やかな声。
自分の顔を見たときに浮かべてくれる、優しい表情。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
「今日は来てくれてありがとう、彩花さん」
「こちらこそ、ありがとう。私、今日をすごく楽しみにしてたの」
彩花が素直に答えると、悠真は少しだけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「俺もだよ。昨日から、どんな本を一緒に見ようか考えていたんだ」
彩花は頷いた。
「私も。昔の街並みの本、楽しみだね」
「うん。じゃあ、まず中へ入ろうか。外は少し冷えるから」
二人は並んで図書館の入口へ向かった。
自動扉が開くと、暖かな空気と紙の匂いが迎えてくれる。
彩花はその空気を吸い込み、自然と微笑んだ。
ここは、悠真と初めて出会った場所でもある。
何度訪れても落ち着く場所だったが、今日はいつもより少しだけ特別に感じられた。
◇
図書館の中は、休日らしい静かな賑わいに包まれていた。
閲覧席には本を広げる人々が座り、児童書の棚では親子が小さな声で話している。受付の近くでは職員が返却された本を整理しており、台車の車輪が床を滑る音がかすかに聞こえた。
悠真と彩花は入口付近の案内図を確かめ、地域資料の棚へ向かった。
途中、彩花は以前にも通った書架の前で足を緩めた。
初めて悠真と話した頃は、彼がどんな人なのかほとんど知らなかった。
丁寧な言葉遣いと落ち着いた雰囲気に、少し緊張したこともある。
けれど今は、同じ場所を並んで歩くことが自然になっている。
(あのときは、こんなふうに一緒に本を探す日が来るなんて思ってなかったな)
彩花が小さく微笑むと、悠真が隣から顔を向けた。
「何か気になる本があった?」
「ううん。本じゃなくて……ここに来ると、悠真君と初めて話したときのことを思い出すなって」
悠真は一瞬足を止め、それから穏やかに微笑んだ。
「俺も、時々思い出すよ。あのとき彩花さんと話せて、本当によかったと思ってる」
彩花の頬が少し熱くなった。
何気なく口にした思い出を、悠真が同じように大切にしてくれている。
そのことが嬉しかった。
「私もだよ。悠真君と出会ってから、読む本の幅も広がったし、いろんなことを話せるようになったから」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
図書館の中なので声を大きくすることはできない。
けれど、その小さな笑顔だけで、互いの気持ちは十分に伝わっているようだった。
◇
地域資料の棚には、青凪市の歴史や文化についてまとめられた本が並んでいた。
古い写真集、街の変遷を記録した資料、地域の行事について書かれた冊子など、内容はさまざまだ。
悠真は棚の前で立ち止まり、一冊ずつ背表紙を確かめた。
「この辺りに、昔の街並みが分かる本がありそうだね」
「うん。思ってたより種類が多いんだね」
彩花は隣の棚を見ながら答えた。
悠真が手に取ったのは、青凪市の昔の風景を紹介した写真集だった。
表紙には、現在とは少し違う駅前の景色が写っている。
「これ、見てみてもいいかな?」
「もちろん。私も気になる」
二人は近くの閲覧机へ移動し、並んで腰を下ろした。
悠真は本を開き、彩花からも見やすい位置へ置いた。
最初のページには、昔の青凪市の中心部を写した写真が掲載されている。
今より建物が低く、道路の幅も違って見えた。
「わあ……本当に今とは雰囲気が違うね」
彩花は思わず小さく声を漏らした。
悠真は頷き、写真の端を指さした。
「この辺り、今は別の建物が並んでいる場所だと思うんだけど、写真だけでは細かい位置までは分からないね。説明文も見てみようか」
二人は写真の下にある文章を読み、撮影された時期や場所について確かめた。
ただし、説明は大まかな地域を示しているだけで、細かな撮影位置までは書かれていなかった。
「昔の写真って、今と同じ場所だと分かっていても、どこから撮ったのかまでは難しいんだね」
彩花が言うと、悠真は穏やかに頷いた。
「そうなんだ。航平と調べている写真も、候補は二つあるんだけど、まだ決められなくて。似ているところがあっても、それだけでは確かな証拠にならないから」
「でも、こうして比べていくのは楽しそうだね」
「うん。すぐに答えが出なくても、知らなかった街のことを少しずつ知るのが面白いんだ」
彩花はその言葉を聞き、写真へ視線を戻した。
建物の形や道の幅だけではなく、そこに写っている人々の姿も気になった。
写真の中では、荷物を持った人が道を歩き、店の前には数人の人影が見える。
その一人ひとりにも、当たり前の日常があったのだろう。
「悠真君、私ね、この写真を見てると、ここを歩いていた人たちがどんな一日を過ごしてたのかなって考えちゃう」
悠真は彩花の方を向いた。
「どんな一日を?」
「うん。例えば、この人は買い物の帰りなのかなとか、こっちの人は誰かと待ち合わせしてるのかなとか。写真だけじゃ分からないけど、そういうことを想像すると、昔の街が少し近く感じるんだ」
悠真はしばらく写真を眺め、それから静かに微笑んだ。
「彩花さんらしい見方だね。俺は建物や道の形に目が向きやすいけど、彩花さんはそこにいた人たちの気持ちを考えるんだね」
「でも、悠真君も前に、昔の街で過ごしていた人たちのことを考えるって言ってたでしょう?」
「うん。ただ、彩花さんの話を聞くと、もっと具体的に想像できる気がするよ」
その言葉に、彩花は嬉しくなった。
自分の見方が正しいかどうかではなく、悠真が興味を持って聞いてくれることが嬉しい。
同じ写真を見ていても、気づくところは少し違う。
けれど、その違いを話し合うことで、写真の中の景色が広がっていくように感じられた。
◇
しばらく写真集を眺めていると、彩花は一枚の写真の前で手を止めた。
そこには、昔の商店街の一角が写っていた。
建物の前には小さな植木鉢が並び、軒先には季節の飾りらしいものが見える。
彩花はその写真を見つめ、ふと笑顔になった。
「悠真君、ここを見て。お店の前に植物が置いてある」
悠真は彩花の指先を追い、写真の端へ目を向けた。
「本当だね。今みたいに大きな花壇があるわけじゃないけど、店先を飾っていたのかな」
「そうかもしれないね。昔の人も、こうして植物を楽しんでいたんだなって思うと、なんだか嬉しい」
彩花は写真を眺めながら、通学路の蕾を思い出した。
毎朝見守っている小さな蕾は、まだ開いていない。
けれど、花が咲くのを楽しみにする気持ちは、昔も今も大きく変わらないのかもしれない。
「私、最近ね、通学路の蕾を見るのが毎朝の楽しみになってるんだ。まだ咲いてないんだけど、今日はどうかなって思いながら見に行くの」
悠真は優しく微笑んだ。
「うん。前にも話してくれたね。彩花さんが毎日大切に見ているのが伝わってくるよ」
「悠真君も、帰り道の木を見てるんだよね?」
「そうだよ。まだ名前も分からない木なんだけど、枝の先に小さな蕾がたくさんついていてね。見る角度によって、今まで気づかなかった蕾が見つかることもあるんだ」
彩花は興味深そうに頷いた。
「どんな花が咲くのかな。名前が分かったら、教えてね」
「もちろん。彩花さんにも見てもらえたら嬉しいな」
悠真はそう言ってから、少しだけ考えた。
木のある場所は自分の通学路の途中だ。
彩花が普段通る道とは違うため、すぐに一緒に見に行けるわけではない。
けれど、いつか機会があれば、その木を見てもらいたいと思った。
彩花も同じように、悠真が見守っている蕾を想像していた。
今はまだ見たことのない景色。
それでも、悠真が大切に見ているものだと思うだけで、少し特別に感じられる。
◇
写真集を見終えたあと、二人は地域資料の棚へ戻った。
悠真は別の本を手に取り、彩花へ見せた。
「これは、昔の青凪市の暮らしについて書かれた本みたいだね。写真だけじゃなくて、当時の人たちの生活についても載っているみたい」
「面白そう。少し見てみたいな」
二人は再び閲覧机へ戻り、本を開いた。
そこには昔の商店街の様子や、地域の行事、日常生活についての説明が載っていた。
彩花は特に、昔の人々が季節ごとにどんなことを楽しんでいたのかに興味を持った。
悠真は道路や建物の変化について書かれた部分を読み、現在の街並みとの違いを考えている。
同じ本を開きながら、それぞれ違うところへ目を留める。
そして、気になったことがあれば小さな声で伝え合う。
その時間が、彩花にはとても心地よかった。
ふと、悠真がページをめくる手を止めた。
「彩花さん、ここに昔の図書館についての記述があるよ」
「えっ、本当?」
彩花は少し身を乗り出した。
悠真は本を二人の中央へ寄せ、該当する部分を示した。
そこには、現在の中央図書館が建てられる前の地域の読書施設について、簡単な説明が載っていた。
ただし、詳しい歴史がすべて分かる内容ではなく、施設の変遷を紹介する短い記述だった。
「今の図書館ができる前にも、本を読むための場所があったんだね」
彩花が言うと、悠真は頷いた。
「うん。こうして見ると、街の形が変わっても、本を読みたい人がいることは変わらないんだなって思うよ」
彩花はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
今、自分たちが座っているこの場所にも、たくさんの人が本を読みに来ている。
そして、昔にも同じように、本を開いて物語や知識に触れたいと思った人々がいた。
時代が変わっても続いているものがある。
そのことが、彩花には嬉しかった。
「なんだか不思議だね。昔の人たちも、私たちみたいに本を選んで、誰かと感想を話したりしてたのかな」
「きっと、そういう時間もあったんじゃないかな。ただ、どんなふうに過ごしていたかは、もっと資料を見ないと分からないね」
「うん。でも、想像するだけでも楽しいな」
彩花が微笑むと、悠真も穏やかに笑った。
そのとき、二人の間に置かれた本のページが、空調の風でわずかに揺れた。
悠真はそっとページを押さえ、彩花が読み終えるまで待った。
その何気ない仕草に、彩花は小さな温かさを感じた。
急かされることなく、自分の速さで本を読める。
悠真と一緒にいると、そうした小さな安心が積み重なっていく。
◇
時計を見ると、図書館へ入ってから一時間ほどが過ぎていた。
彩花は少し驚き、悠真へ顔を向けた。
「もうこんなに時間が経ったんだね。夢中になってたから、あっという間だった」
「本当だね。彩花さんと話していると、時間が早く感じるよ」
悠真は微笑み、手元の本を閉じた。
「まだ少し時間があるけど、植物の本も見てみる?」
「うん。もし悠真君もよかったら」
「もちろん。俺も気になっていたから」
二人は本を所定の場所へ戻し、植物に関する本が並ぶ棚へ向かった。
園芸や植物図鑑の棚には、色とりどりの花が表紙になった本が並んでいる。
彩花はその中から、冬から春にかけて咲く花について紹介した本を見つけた。
「これ、見てみたいな」
「いいね。俺も、蕾の形が分かる本があったら見てみたい」
二人はそれぞれ気になる本を手に取り、近くの閲覧席へ移動した。
彩花が開いた本には、冬の終わりから春にかけて咲く花の写真が載っていた。
小さな蕾から少しずつ花が開いていく様子が、何枚もの写真で紹介されている。
「わあ、きれい……」
彩花は思わず小さく呟いた。
悠真は隣から本を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「同じ花でも、咲く前と咲いたあとでは印象が違うね」
「うん。でも、蕾のときもかわいいなって思う」
彩花は写真を見つめながら、通学路の蕾を思い浮かべた。
まだ咲いていない花を、毎朝見守っている。
その時間が、今では自分にとって大切なものになっている。
「私、花が咲いたらもちろん嬉しいと思うけど、今みたいに蕾を見ている時間も好きなんだ」
彩花が言うと、悠真は静かに頷いた。
「分かる気がするよ。俺も、木の蕾がどう変わるのか楽しみだけど、今の姿を見ている時間も大切にしたいと思ってる」
彩花はその言葉に微笑んだ。
同じようなことを考えている。
そのことが、嬉しかった。
悠真が手に取った本には、木の芽や蕾の形についての説明が載っていた。
ただし、種類を見分けるためには枝のつき方や葉の特徴など、複数の情報が必要だと書かれている。
「やっぱり、蕾だけで木の名前を決めるのは難しそうだね」
悠真が言うと、彩花は本を覗き込んだ。
「そうなんだ。でも、こうして調べてみると、今まで気づかなかったところも見えるようになりそう」
「うん。次に木を見るときは、枝のつき方も少し確かめてみようかな。ただ、今はまだ名前を決めつけない方がよさそうだね」
彩花は頷いた。
答えを急がず、分からないことをそのまま大切にする。
悠真らしい考え方だと思った。
そして、その姿勢は自分が物語を書くときにも通じるものがあるように感じられた。
登場人物の気持ちをすぐに決めつけず、少しずつ考えていく。
そうすることで、今まで見えなかったものが見えてくることもある。
彩花は本を閉じながら、静かに微笑んだ。
◇
午後三時が近づく頃、二人は図書館の本を元の場所へ戻し、入口へ向かった。
予定していた一時間半ほどが、驚くほど短く感じられた。
彩花は館内の時計を確かめ、少し名残惜しそうに周囲を見渡した。
「もっといろいろ見たかったな。でも、今日はすごく楽しかった」
「俺もだよ。昔の街並みの本も、植物の本も、一緒に見られてよかった」
悠真はそう言って微笑んだ。
「また来たときに、今日見られなかった本を探してもいいね」
「うん。そうしたいな」
彩花は嬉しそうに頷いた。
今日ですべてを見終える必要はない。
また次に来たときの楽しみが残っていることも、悪くないと思えた。
入口の近くまで来ると、ガラス扉の向こうに冬の午後の景色が見えた。
朝より雲は増えているものの、雨が降りそうな様子はない。
ただ、植え込みの葉がときどき揺れており、少し風が出ているようだった。
「彩花さん、外は少し寒そうだけど、どうしようか。少し歩いてみる?」
悠真が尋ねると、彩花は窓の外を眺めてから頷いた。
「うん。少しなら歩いてみたいな。でも、寒かったら無理しないで帰ろうね」
「そうしよう。近くの道を少し歩いて、様子を見ながら考えようか」
二人は頷き合い、図書館の外へ出た。
冬の空気が頬へ触れたが、思っていたほど強い風ではなかった。
彩花はマフラーを整え、悠真と並んで歩き始めた。
図書館の周辺には、休日の午後を過ごす人々の姿があった。
買い物帰りらしい家族連れや、散歩を楽しむ年配の夫婦。少し離れた場所では、小さな子どもが植え込みの近くで立ち止まり、何かを見つけて保護者へ話しかけている。
彩花はその様子を眺めながら、自然と微笑んだ。
「こうして歩いてみると、図書館の周りにもいろんな景色があるんだね」
「うん。普段は図書館へ来ることが目的になっているから、周りをゆっくり見る機会は意外と少ないかもしれないね」
悠真は周囲を見渡しながら答えた。
二人は歩道を進み、信号のある交差点へ向かった。
途中、彩花は道沿いに並ぶ小さな店へ目を向けた。
昔から営業していそうな落ち着いた外観の店もあれば、新しい看板を掲げた店もある。
図書館で見た古い写真を思い出すと、今の街並みも少し違って見えた。
「悠真君、さっき昔の街並みの本を見たからかな。今歩いている道も、前より気になるところが増えた気がする」
悠真は彩花の方を向いた。
「どんなところが気になる?」
「例えば、あのお店の建物。新しい看板がついてるけど、建物そのものは少し前からありそうだなって思ったの。でも、本当のことは分からないから、ただの想像なんだけどね」
悠真は店の方へ視線を向け、穏やかに頷いた。
「確かに、そう見えるね。ただ、外観だけではいつ建てられたか分からないし、昔の写真があれば比べてみたくなるな」
「うん。そういうふうに考えるの、楽しいね」
彩花は微笑んだ。
悠真と一緒に歩いていると、何気ない景色にも話題が生まれる。
特別な観光地へ行かなくても、こうして街を眺めながら話すだけで楽しい。
そのことが、彩花には新鮮だった。
◇
交差点を渡った先には、小さな広場があった。
中央には低い植え込みがあり、その周囲にはベンチがいくつか置かれている。広場の端には葉を落とした木々が並び、冬の空へ細い枝を伸ばしていた。
彩花はその景色を見て、少し足を緩めた。
「悠真君、あそこ、少し見てみてもいい?」
「もちろん。何か気になるものがあった?」
「うん。木の枝が、なんだかきれいだなって思って」
二人は広場の端へ向かった。
葉を落とした木々は、夏のような華やかさこそないものの、枝の形がはっきりと見える。
細い枝が空へ向かって広がり、その先には小さな芽のようなものがついていた。
彩花は少し離れた場所から見上げた。
「冬の木って、葉っぱがないから寂しいと思ってたけど、こうして見ると枝の形がよく分かるんだね」
悠真も隣で見上げた。
「そうだね。俺が帰り道で見ている木も、葉がないから蕾が目立つんだと思う」
「悠真君が見ている木も、こんな感じなのかな」
「少し似ているところもあるけど、枝の広がり方は違う気がするよ。まだ名前も分からないから、同じ種類かどうかも分からないけどね」
彩花は頷き、もう一度木を見上げた。
枝の間から見える冬の空は、淡い青色をしている。
風が吹くと、細い枝がわずかに揺れた。
その景色を眺めているうちに、彩花はふと、悠真へ伝えたいことが浮かんだ。
「悠真君、私ね、今日一緒に本を見られてすごく嬉しかった」
悠真は彩花の方を向いた。
「俺も嬉しかったよ。彩花さんと話していると、同じ本でも新しい見方ができるから」
「うん。私もそうなの。悠真君が昔の街並みの本を見たいって言ってくれたから、今まで気づかなかったことをたくさん知れたんだ」
彩花は少しだけ照れながら続けた。
「それに、こうして一緒に歩いていると、普段なら通り過ぎちゃうような景色も、ちゃんと見てみたくなるの」
悠真はしばらく彩花を見つめた。
彼女の言葉は、特別に飾られたものではない。
けれど、その一つひとつが、悠真の胸へ静かに届いていた。
「彩花さん、ありがとう。俺も、彩花さんと一緒にいると、いつもの景色が少し違って見えるんだ」
悠真は穏やかに微笑んだ。
「だから、今日こうして一緒に歩けて、本当によかったと思ってる」
彩花の胸が、静かに温かくなった。
同じことを考えていた。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
広場を出る頃には、風が少し強くなっていた。
彩花はマフラーを整え、悠真と並んで歩きながら空を見上げた。
雲がゆっくりと流れ、日差しがときどき弱くなる。
冬の午後らしい寒さが、少しずつ戻ってきていた。
「彩花さん、寒くない?」
悠真が尋ねると、彩花は微笑んで答えた。
「少し冷えてきたけど、大丈夫だよ。でも、そろそろ帰る方向へ向かってもいいかなって思ってたところ」
「うん。俺もそう思っていたよ。無理して長く歩くより、今日はこのくらいにしておこうか」
二人は頷き合い、図書館の方へ戻る道を選んだ。
帰り道では、さっき見た広場の木や、図書館で読んだ本について話した。
彩花は、昔の商店街の写真に写っていた植木鉢が印象に残っていると伝えた。
悠真は、昔の読書施設についての記述が興味深かったと話した。
同じ時間を過ごしていても、心に残るものは少し違う。
けれど、その違いを知ることが、二人には楽しかった。
図書館の近くまで戻ると、彩花はスマートフォンを取り出した。
「お母さんに、帰る時間の目安を連絡しておくね」
「うん。俺も家に連絡しておくよ」
二人はそれぞれ家族へ連絡を入れた。
彩花は図書館での予定を終え、これから帰ることを伝えた。
悠真も、無事に外出を終えて帰路につくことを知らせた。
連絡を終えると、彩花はスマートフォンを鞄へしまった。
少し離れた場所では、図書館へ入っていく親子連れの姿が見える。
今日、自分たちもあの入口から入ったのだと思うと、まだ数時間しか経っていないのに、少し懐かしく感じられた。
◇
別れ際、彩花は悠真へ向き直った。
「悠真君、今日は本当にありがとう。すごく楽しかった」
悠真は穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう。彩花さんと一緒に本を見られて、街も歩けて、嬉しかったよ」
彩花は頷いた。
今日の時間を思い返すと、いろいろな景色が浮かんでくる。
昔の街並みの写真。
図書館で見た植物の本。
広場に並ぶ冬の木々。
そして、その隣にいた悠真の姿。
どれも特別に大きな出来事ではない。
けれど、彩花にとっては大切な思い出になっていた。
「また、一緒に図書館へ来たいな」
彩花がそう言うと、悠真は嬉しそうに頷いた。
「うん。俺も、また一緒に来たい」
その返事に、彩花は自然と笑顔になった。
次にいつ会うかは、まだ決まっていない。
けれど、また一緒に過ごしたいと思っていることは、互いに伝えられた。
それだけで、十分に嬉しかった。
「じゃあ、気をつけて帰ってね、悠真君」
「彩花さんも。家に着いたら、ゆっくり休んでね」
二人は手を振り、それぞれの帰路についた。
彩花は少し歩いてから、一度だけ振り返った。
悠真も同じように振り返っていた。
目が合うと、二人は少し照れたように笑い、もう一度小さく手を振った。
それから彩花は前を向き、冬の道を歩き始めた。
◇
帰宅した彩花は、玄関で靴を脱ぎながら、家の中の暖かさにほっと息をついた。
「ただいま」
「お帰り、彩花」
居間から紗月の声が聞こえた。
彩花が顔を出すと、母は穏やかに微笑んだ。
「寒くなかった?」
「少し風が出てきたけど、大丈夫だったよ。図書館で本を見て、そのあと近くを少し歩いてきたの」
「そう。楽しかった?」
彩花は迷わず頷いた。
「うん。すごく楽しかった」
その返事に、紗月は嬉しそうに微笑んだ。
凛花も居間へ顔を出し、妹の表情を見て笑った。
「お帰り、彩花。いい一日だったみたいだね」
「うん。昔の街並みの本を一緒に見たんだけど、すごく面白かったよ」
彩花はコートを脱ぎながら、今日見た写真について話し始めた。
昔の商店街の様子。
建物や道の形の違い。
店先に並んでいた植木鉢。
そして、今の図書館ができる前にも、本を読むための場所があったこと。
凛花は興味深そうに耳を傾け、紗月も時折頷きながら話を聞いてくれた。
「そんなにいろいろ見られたのね」
「うん。悠真君が気づいたことを教えてくれるから、私も新しい見方ができたんだ」
彩花は嬉しそうに答えた。
その表情を見て、凛花は穏やかに微笑んだ。
妹が誰かと過ごした時間を、こんなにも楽しそうに話している。
そのことが、姉として嬉しかった。
◇
同じ頃、九条家へ帰宅した悠真は、居間で琴葉に迎えられていた。
「お兄様、お帰りなさい。今日は楽しかったですか?」
「ただいま、琴葉。うん、とても楽しかったよ」
悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに微笑んだ。
「彩花さんと、どんな本を見たんですか?」
「昔の青凪市の街並みが分かる本と、植物の本を少し見たんだ。昔の商店街の写真には、店先に植木鉢が並んでいるものもあってね」
「植木鉢ですか?」
「うん。彩花さんが気づいてくれたんだ。昔の人たちも、植物を楽しんでいたんだなって話したよ」
琴葉は興味深そうに頷いた。
「素敵ですね。私も、押し葉が完成したら、彩花さんに見てもらいたいです」
「うん。今日も琴葉が楽しみにしていることを伝えたよ」
悠真がそう言うと、琴葉は嬉しそうに目を輝かせた。
「本当ですか? ありがとうございます、お兄様」
悠真は微笑み、妹の頭を優しく撫でた。
その様子を見ていた麗華も、穏やかな表情を浮かべていた。
「悠真、今日はいい時間を過ごせたみたいね」
「はい。彩花さんと一緒に本を見て、街を歩いてきました。普段なら気づかないような景色も、今日は少し違って見えました」
麗華は息子の言葉に微笑んだ。
「誰かと一緒にいることで、見えるものが増えることもあるものね」
「はい。俺も、そう思いました」
悠真は静かに頷いた。
◇
夜、彩花は自室で葉模様の日記帳を開いていた。
今日の出来事を書こうとすると、思い出したいことが次々に浮かんでくる。
中央図書館で悠真と待ち合わせたこと。
昔の街並みの本を一緒に見たこと。
植物の本を開き、まだ咲かない蕾について話したこと。
そして、図書館の近くを歩きながら、冬の木々を眺めたこと。
彩花は一つずつ丁寧に書き留めた。
『土曜日。悠真君と中央図書館で会った。昔の街並みの本を一緒に見て、今とは違う青凪市の景色を知ることができた。悠真君は建物や道の形に気づいて、私はそこにいた人たちのことを考えた。同じ写真を見ていても、気づくことが違うのが面白かった』
そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。
今日いちばん心に残っているのは、どの場面だろう。
図書館で初めて出会った頃のことを話した時間。
昔の写真を一緒に見た時間。
冬の広場で、枝の形を眺めた時間。
どれも大切で、一つには決められなかった。
彩花は少し考えたあと、最後に短い一文を書き加えた。
『悠真君と一緒にいると、いつもの景色が少し違って見える。今日見つけたものを、これからも大切にしたい』
彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。
今日、悠真と過ごした時間は、何か大きな出来事が起きたわけではない。
けれど、二人で本を開き、同じ景色を眺め、互いの考えを話すことができた。
その時間が、彩花にとっては何より大切だった。
机の上には、星模様の創作ノートが置かれている。
祖母へ手紙を書く少女の物語は、まだ完成していない。
けれど、今日見た昔の街並みや、冬の木々の姿は、少女の気持ちを考えるときにも何かの助けになるかもしれない。
彩花はノートを開かず、今日は日記帳だけを閉じた。
今夜は、今日の思い出をそのまま大切にしておきたかった。
◇
同じ頃、悠真も自室で手帳を開いていた。
今日の予定の欄には、午後一時半に中央図書館で彩花と会うと書かれている。
その約束は、無事に終わった。
けれど、悠真の中には、まだ温かな余韻が残っていた。
彩花と一緒に見た昔の写真。
植物の本を開いたときの彼女の笑顔。
冬の広場で、枝の形を見上げていた姿。
どれも、今日の大切な思い出だった。
悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた淡い青色の花模様のカードへ視線を向けた。
彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。
今日、彩花は自分が興味を持っている昔の街並みの本を、一緒に楽しんでくれた。
そして、自分では気づかなかったところにも目を向けてくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
(彩花さんと一緒にいると、同じ場所でも新しい発見があるんだね。今日の時間を、俺も大切にしたい)
悠真はカードを元の場所へ戻し、スマートフォンを手に取った。
画面には、彩花からのメッセージが届いていた。
『悠真君、今日はありがとう。図書館も散歩も、すごく楽しかったよ。また一緒に本を見に行けたら嬉しいな』
悠真は自然と笑顔になった。
『こちらこそ、ありがとう。俺も本当に楽しかったよ。また一緒に図書館へ行こうね。今日見られなかった本も、次の楽しみにしておこう』
送信すると、ほどなくして彩花から返事が届いた。
『うん。楽しみにしてるね。今日はゆっくり休んでね』
『彩花さんも。おやすみなさい』
『おやすみなさい、悠真君』
短いやり取りを終え、悠真はスマートフォンを置いた。
次に会う日程は、まだ決まっていない。
けれど、また一緒に図書館へ行きたいという気持ちは、互いに伝えられた。
そのことが、悠真には嬉しかった。
窓の外には、冬の夜の静けさが広がっている。
今日、二人は同じ本を開き、同じ街を歩いた。
けれど、そこで見つけたものは、少しずつ違っていた。
彩花は昔の写真に写る人々の暮らしへ思いを向け、悠真は建物や道の変化に興味を持った。
彩花は冬の木々の形を美しいと感じ、悠真は枝の先にある蕾へ目を向けた。
その違いを話し合うことで、二人の世界は少しずつ広がっていく。
まだ開かない蕾も、答えの出ていない古い写真も、完成していない物語も、今日の時点では大きく変わっていない。
けれど、彩花と悠真の中には、新しい景色が増えていた。
それは、誰かと一緒に過ごすことで初めて見つけられる、小さくて大切な景色だった。
土曜日の夜、二人はそれぞれの家で今日の思い出を胸に抱きながら、静かに眠りについた。




