第143話 金曜日の帰り道と、明日を待つ二人の小さな約束
金曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日の澄んだ青空とは違い、冬の空は淡い灰色を帯びている。それでも、雲の切れ間から差し込む朝日は柔らかく、カーテンの端を静かに照らしていた。
彩花は布団の中で少しだけ身体を伸ばし、枕元の時計を確かめた。いつもと変わらない起床時間だったが、今日は目覚めた瞬間から胸の奥に小さな期待があった。
明日は土曜日。
午後一時半には、青凪市中央図書館の入口付近で九条悠真と待ち合わせることになっている。
図書館では昔の街並みが分かる本を一緒に見て、時間に余裕があれば植物についての本も探す。そのあと、天気や寒さを確かめながら近くを少し歩き、暗くなる前にはそれぞれ帰宅する予定だ。
具体的な散歩道は、まだ決めていない。
けれど、彩花はそのことを不安には感じていなかった。
(明日、悠真君と会えるんだ。何を話そうかな。昔の街並みの本も楽しみだけど、悠真君がどんなところに目を留めるのか、もっと知りたいな)
彩花はゆっくりと起き上がり、制服へ着替えた。
鏡の前で髪を整えていると、ふと明日の服装が気になった。
図書館で過ごす時間が長いとはいえ、そのあと外を歩くかもしれない。冬の午後は日差しがあっても冷えることがあるため、暖かさを優先した方がよさそうだった。
彩花はクローゼットの扉を開き、普段の外出で着ているコートを眺めた。
落ち着いた色のコートは、以前悠真と会ったときにも着たことがある。
特別に新しい服を用意する必要はない。
そう思いながらも、明日の自分がどんな格好で悠真の前に立つのかを想像すると、少しだけ頬が熱くなった。
(いつもどおりでいいよね。でも、せっかく会うんだから、ちゃんと考えて選びたいな)
彩花はコートを元の場所へ戻し、朝食のために一階へ向かった。
◇
水瀬家の食卓には、温かい味噌汁と焼き魚が並んでいた。
父の耕助は新聞を畳み、母の紗月は湯気の立つ茶碗を運んでいる。姉の凛花はすでに席に着いており、彩花が入ってくると軽く手を振った。
「おはよう、彩花。今日は少し寒そうだね」
「おはよう、お姉ちゃん。うん、昨日より曇ってるみたい」
彩花は椅子へ座り、両手で湯呑みを包んだ。
温かさが指先へ伝わり、朝の冷えた空気が少しずつ遠ざかっていく。
紗月は彩花の様子を見ながら、穏やかに尋ねた。
「明日の予定は、午後一時半に中央図書館で待ち合わせだったわね?」
「うん。入口の近くで会うことになってるよ。図書館で本を見て、そのあと少し歩くかもしれないけど、暗くなる前には帰るつもり」
「分かったわ。帰る時間の目安が決まったら、連絡してね。天気によっては早めに帰ってきてもいいんだから」
「うん、ありがとう」
彩花は素直に頷いた。
明日の外出は楽しみだが、家族に心配をかけないことも大切にしたい。
どこを歩くか決めていない以上、帰宅時間も細かくは決められない。それでも、図書館を出る頃に一度連絡を入れれば、母も安心するだろう。
耕助は娘の話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「図書館なら、落ち着いて過ごせそうだな。九条君も本が好きなんだったね」
「うん。悠真君は昔の街並みが分かる本に興味があるんだって。私も一緒に見てみたいと思ってるの」
「そうか。好きなものについて話せる相手がいるのは、いいことだな」
父の言葉に、彩花は嬉しくなった。
悠真と出会ってから、本を読む時間が以前よりも広がったように感じている。
自分が好きな物語を紹介するだけでなく、悠真が興味を持っている本を知ることで、今まで目を向けなかった分野にも関心が生まれていた。
凛花はそんな妹の表情を見つめ、少しだけ笑みを深めた。
「彩花、明日は寒くならないようにしてね。図書館の中は暖かくても、外を歩くなら手袋があった方がいいかも」
「うん。そうする」
彩花は頷き、朝食を食べ始めた。
家族との何気ない会話が、明日の約束を少しずつ現実のものにしていく。
そのことが、彩花には嬉しかった。
◇
通学路へ出ると、空気は昨日より冷たく感じられた。
彩花はコートの襟元を軽く整え、いつもの道を歩いた。
住宅街を抜ける途中、道沿いの小さな蕾が目に入る。
彩花は歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならない場所から静かに眺めた。
蕾は今日もまだ開いていない。
昨日より少し色が濃く見えるような気もするが、曇り空の下では光の当たり方が違うため、はっきりした変化とは言い切れなかった。
(今日もまだ咲いてないね。でも、毎朝見るのが楽しみになってるな)
彩花は鞄から小さなメモ帳を取り出し、今日の日付を書き込んだ。
蕾が開いたかどうかだけではなく、空の色や風の強さも短く記録していく。
その作業をしていると、ふと星模様の創作ノートに書いている少女のことを思い出した。
祖母へ手紙を書こうとしている少女も、庭の花を毎朝見守っている。
まだ開かない蕾を見つめる時間は、少女にとってどんな意味を持つのだろう。
祖母と過ごした日々を思い出す時間なのかもしれない。
あるいは、今の自分が少しずつ変わっていくことを確かめる時間なのかもしれない。
彩花はそんなことを考えながら、メモ帳を閉じた。
物語の続きを書くときには、少女が花を見つめる理由を、もう少し丁寧に考えてみたい。
その思いを胸に、彩花は学校へ向かって歩き出した。
◇
桜華学園高等部では、悠真が朝の教室で手帳を開いていた。
今日の授業予定と放課後の生徒会活動を確認し、必要な資料を机の中へしまう。
そのとき、教室の扉が開き、森川航平が入ってきた。
「悠真、おはよう。明日はいよいよ土曜日だな」
航平は挨拶をしながら近づき、悠真の隣の席へ腰を下ろした。
「おはよう、航平。うん。彩花さんと中央図書館で会う予定だよ」
悠真が答えると、航平は少しだけ笑った。
「楽しみそうだな」
「うん。とても楽しみだよ」
悠真は迷わず頷いた。
その素直な返事に、航平は少し驚いたように目を丸くした。
「お前、前よりそういうことを普通に言うようになったな」
「そうかな?」
「そうだって。前は水瀬さんのことになると、妙に慎重だっただろ。もちろん今も慎重だけど、最近は嬉しいとか楽しみだとか、ちゃんと口にするようになった気がする」
悠真は少し考えた。
彩花のことを大切にしたい気持ちは、出会った頃から変わっていない。
けれど、以前は自分の気持ちを言葉にすることで、相手を困らせてしまわないかと考えることが多かった。
今も、その慎重さが完全になくなったわけではない。
ただ、彩花が自分の気持ちを丁寧に伝えてくれるからこそ、自分も少しずつ素直になれているのかもしれない。
「彩花さんが、自分の気持ちを話してくれるからだと思う。俺も、ちゃんと伝えたいと思うようになったんだ」
悠真がそう答えると、航平は満足そうに頷いた。
「それなら、いいことだな。明日は楽しんでこいよ」
「ありがとう、航平」
悠真は微笑み、手帳を閉じた。
明日の予定は、午後一時半に中央図書館の入口付近で待ち合わせること。
図書館では一時間半ほど本を見て、そのあと天気や寒さに合わせて近くを歩くこと。
それ以上の細かな予定は、まだ決まっていない。
けれど、悠真はその余白を楽しみにしていた。
彩花と一緒に考えながら過ごす時間が、きっと新しい思い出になる。
そう感じていた。
◇
青葉高校の昼休み、彩花は教室で借りている小説を読んでいた。
幼なじみの二人が別々に故郷へ戻り、それぞれの思い出と向き合っていく物語。
彩花が読み進めた場面では、一人が昔の友人から手紙を受け取り、懐かしい場所について語り合うことになる。
しかし、二人が直接再会する場面は、まだ訪れていなかった。
彩花はページをめくりながら、登場人物たちの距離について考えた。
同じ街に戻ってきているのに、すぐには顔を合わせない。
それぞれに過ごしてきた時間があり、今の自分の気持ちを確かめる必要があるのかもしれない。
(会いたいと思っていても、すぐに会えるとは限らないんだね。でも、だからこそ、会えたときの気持ちが大切になるのかな)
彩花は本を閉じ、栞を挟んだ。
明日には悠真と会える。
学校が違うため、普段は毎日顔を合わせられるわけではない。
それでも、メッセージを交わし、互いの学校での出来事を話すことで、少しずつ相手の毎日を知ることができている。
その積み重ねがあるからこそ、実際に会う時間が特別に感じられるのだろう。
彩花は窓の外へ視線を向けた。
曇り空の向こうには、淡い光が広がっている。
明日の天気がどうなるのかは、まだ分からない。
けれど、図書館で悠真と一緒に本を開く時間は、きっと楽しいものになる。
彩花はそう思いながら、午後の授業の準備を始めた。
◇
放課後の文芸部室では、冬の部誌『いつか、ここに』についての確認作業が続いていた。
佐々木先輩は部員たちへ、先生から届いた連絡について説明していた。
「昨日整理した質問のうち、修正記録の書き方については、先生から確認をいただきました。ただし、部誌全体の最終承認については、まだ確認中とのことです」
部員たちは静かに頷いた。
佐々木先輩は続けて、変更箇所を記録するときには、どの部分をどのように直したかが分かるようにすること、必要に応じて先生へ再確認することを説明した。
ただし、実際に修正が必要になった場合の細かな扱いについては、変更内容に応じて確認する方針だった。
彩花は手元の資料へ目を落とし、昨日までに整理した質問の一覧を確かめた。
先生からの返事によって、いくつかの疑問は解消された。
けれど、最終承認が出たわけではないため、印刷へ進むことはできない。
そのことを部員たちも理解していた。
「先生から正式な許可が出るまでは、今の原稿を勝手に変更しないようにしましょう。もし気になるところが見つかったら、まず相談してください」
佐々木先輩の言葉に、部員たちは頷いた。
彩花もその方針を確認し、資料へ必要なことを書き込んだ。
作業が一段落すると、佐々木先輩が彩花へ声をかけた。
「水瀬さん、今日は少し早めに片づけても大丈夫だよ。確認することは整理できたし、先生からの連絡を待つ時間も必要だから」
「はい。ありがとうございます」
彩花は頷いた。
そのとき、佐々木先輩は少しだけ笑った。
「そういえば、最近は自分の創作も進んでる?」
彩花は少し驚き、星模様のノートを思い浮かべた。
「はい。少しずつですけど、書いています。まだ完成には遠いんですけど、登場人物の気持ちを考えるのが楽しくて」
「それならよかった。部誌の準備も大切だけど、自分が書きたいものを大切にする時間も忘れないでね」
佐々木先輩の言葉は、以前にも聞いたことがある。
けれど、今日はその意味が少し違って感じられた。
部誌の確認作業に関わることで、誰かの文章を届けるための大切さを知った。
同時に、自分の物語を書く時間も、以前より大切に感じられるようになっている。
「ありがとうございます。私、自分の物語もちゃんと完成させたいです」
彩花が答えると、佐々木先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。楽しみにしてるね。でも、焦らなくていいからね」
彩花は頷き、資料を片づけ始めた。
冬の部誌は、まだ完成していない。
けれど、少しずつ前へ進んでいる。
自分の物語も、同じように丁寧に進めていきたい。
彩花はそう思いながら、部室をあとにした。
◇
同じ頃、悠真は生徒会の活動を終え、校舎を出るところだった。
今日の仕事は予定どおり進み、特別な問題も起きていない。
明日は彩花と会う約束があるため、悠真は必要な確認を済ませてから帰宅することにしていた。
校門を出ると、冷たい風が頬へ触れた。
空は朝より少し明るくなっていたが、冬の夕方らしい寒さが残っている。
悠真はコートの襟元を整え、いつもの道を歩いた。
しばらくすると、以前から気になっている木が見えてきた。
枝の先には、まだ開いていない小さな蕾がいくつもついている。
悠真は歩道の端へ寄り、静かに見上げた。
昨日と比べても、はっきりした変化は分からない。
けれど、今日は少しだけ違うことを考えていた。
(彩花さんと明日会ったら、この木のことも話してみたいな。まだ名前も分からないけど、毎日見ているうちに気になってきたんだ)
悠真は枝の形を眺めながら、彩花が通学路で見守っている蕾のことを思い出した。
彩花は毎朝、小さな変化を確かめている。
自分も同じように、木の蕾を見守る時間が楽しみになっていた。
悠真はそのことを嬉しく感じた。
同じ場所にいなくても、似たような景色を見ている。
それだけで、彩花との距離が少し近く感じられるようだった。
悠真は木を見上げるのをやめ、帰路についた。
◇
夕方、水瀬家へ帰宅した彩花は、母の紗月と明日の予定についてもう一度確認していた。
居間には温かい飲み物が用意されており、窓の外では日がゆっくりと傾いている。
「明日は午後一時半に中央図書館の入口付近で待ち合わせるのね?」
「うん。図書館で一時間半くらい本を見て、そのあと少し歩くかもしれないけど、暗くなる前には帰るつもり」
「分かったわ。帰る時間の目安が決まったら、連絡してね」
「うん。図書館を出る頃に、一度連絡するようにする」
紗月は安心したように頷いた。
彩花は明日の服装についても相談し、外を歩くことを考えて暖かい服を選ぶことにした。
凛花はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「彩花、明日のこと、すごく楽しみにしてるんだね」
「……うん。楽しみだよ」
彩花は少し照れながらも、素直に答えた。
以前なら、こうした気持ちを家族に話すことにも少し迷いがあった。
けれど、今は自分の楽しみを言葉にすることが、自然になってきている。
その変化を、彩花自身も感じていた。
◇
夜、彩花は自室で星模様の創作ノートを開いていた。
祖母へ手紙を書く少女の物語は、まだ完成していない。
手紙の冒頭には、二行の文章が残っている。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花はその二行を読み返し、少女が祖母の使っていた園芸道具を見つける場面について考えた。
昨日までは、懐かしさと寂しさの両方を描きたいと思っていた。
けれど、今日はもう一つ、少女の中に残っている温かさについて考えてみたかった。
祖母が使っていた道具には、長い時間の中でついた傷がある。
その傷を見つけた少女は、祖母と一緒に庭へ出た日のことを思い出す。
けれど、その記憶は悲しいだけではない。
祖母が笑っていたこと。
花の名前を教えてくれたこと。
土に触れた手の温かさ。
そうした思い出が、少女の中に残っている。
彩花はペンを取り、ノートへ短い文章を書き加えた。
少女が道具の持ち手を指でなぞり、祖母の手の形を思い出す場面だった。
書き終えると、彩花はしばらくその文章を眺めた。
(少しだけ、少女の気持ちが見えてきた気がするな。でも、まだ手紙を完成させるには早いかもしれない)
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
物語はまだ途中だ。
けれど、少女が祖母へ伝えたい言葉を見つけるまで、丁寧に書いていきたい。
その気持ちは変わらなかった。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。
◇
『彩花さん、こんばんは。明日のことなんだけど、予定どおり午後一時半に中央図書館の入口付近で大丈夫かな?』
彩花はその文章を読み、自然と笑顔になった。
明日の約束を、悠真も楽しみにしてくれている。
そのことが嬉しかった。
『こんばんは、悠真君。うん、大丈夫だよ。私も予定どおり行けるよ。明日、楽しみにしてるね』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『ありがとう。俺も楽しみにしてるよ。天気や寒さを見ながら、無理のないように過ごそうね』
『うん。図書館で本を見て、そのあと少し歩けたら嬉しいな。もし寒かったら、無理せずに帰ろうね』
『そうしよう。昔の街並みの本も、植物の本も、時間に余裕があったら一緒に見てみたいね』
彩花はその言葉に頷いた。
図書館で過ごす時間は、一時間半ほどを目安にしている。
その中で、どんな本を見つけられるかは分からない。
けれど、悠真と一緒に選ぶ時間そのものが楽しみだった。
『悠真君、明日はどんな本が見つかるかな。私、悠真君と一緒に本を選ぶ時間が好きなんだ』
彩花は送信したあと、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
自分の気持ちを素直に伝えたつもりだったが、改めて文章を読むと、少し照れくさい。
それでも、取り消したいとは思わなかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに微笑んだ。
彩花が、自分と一緒に本を選ぶ時間を好きだと言ってくれた。
その言葉が、胸の奥へ温かく広がっていく。
悠真も同じだった。
彩花と本を選ぶときには、自分では手に取らなかった本に出会うことがある。
彼女がどんなところに興味を持ち、どんな言葉に心を動かされるのかを知ることができる。
その時間が、悠真にとっても大切なものになっていた。
『俺も同じだよ、彩花さん。彩花さんと本を選んでいると、いつも新しい発見があるんだ。明日も一緒に楽しめたら嬉しいな』
送信すると、悠真は少しだけ緊張した。
彩花と会う前日の夜は、いつも少し落ち着かなくなる。
けれど、その緊張は嫌なものではなかった。
明日、彼女の顔を見られること。
同じ本を開き、同じ景色を眺めながら話せること。
そのすべてが楽しみだった。
悠真は机の上に置いていた手帳を開き、明日の予定をもう一度確認した。
午後一時半、青凪市中央図書館の入口付近。
図書館で本を見たあと、天気や寒さに合わせて近くを歩く。
暗くなる前には、それぞれ帰宅する。
予定は変わっていない。
悠真は安心したように手帳を閉じた。
◇
彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を振り返りながら、丁寧に文字を書いていく。
朝、通学路で蕾を見守ったこと。
昼休みに借りている小説を読み進めたこと。
文芸部で先生からの確認内容を共有したこと。
そして、夜には悠真と明日の予定を確かめ合ったこと。
彩花は一つずつ書き終えたあと、最後に短い一文を加えた。
『明日は悠真君と中央図書館で会う日。どんな本や景色に出会えるのか、今からとても楽しみ。二人で過ごす時間を大切にしたい』
彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。
明日は、特別な何かをしなければならない日ではない。
図書館で本を見て、時間があれば街を歩く。
それだけの予定だ。
けれど、悠真と一緒に過ごす時間は、彩花にとって特別だった。
同じ本を開き、同じ景色を眺め、互いの好きなものについて話す。
その時間を思い浮かべるだけで、胸の奥が温かくなる。
(明日、悠真君に会ったら、ちゃんと笑顔で挨拶したいな。それから、今日までに考えてたことも、少しずつ話してみたい)
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
明日の服装をもう一度確かめ、必要なものを鞄へまとめる。
手帳、財布、ハンカチ、そして借りている小説。
図書館で読む時間があるかどうかは分からないが、持っていけば話のきっかけになるかもしれない。
彩花は準備を終えると、部屋の明かりを落とした。
窓の外には、冬の夜の静けさが広がっている。
明日が楽しみで、少しだけ眠るのが惜しいような気もした。
それでも、元気な顔で悠真に会うためには、きちんと休むことが大切だ。
彩花は布団へ入り、目を閉じた。
◇
同じ頃、悠真も自室で明日の準備を終えていた。
外を歩くことを考えて暖かい服を選び、手帳と財布を鞄へ入れる。
中央図書館で見る本については、特定の一冊を必ず探すと決めているわけではない。
昔の街並みが分かる本を見て、彩花と気になったページについて話せたら嬉しい。
時間に余裕があれば、植物の本も一緒に探してみたい。
悠真はそう考えながら、机の上に置いていた淡い青色の花模様のカードへ視線を向けた。
彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。
明日は、また彩花と話せる。
彼女がどんな本を手に取り、どんな景色に目を留めるのかを知ることができる。
そのことが、何より楽しみだった。
(彩花さんと過ごす時間を、俺も大切にしたい。明日は、二人でゆっくり楽しめたらいいな)
悠真はカードを大切にしまい、部屋の明かりを消した。
金曜日の夜は、穏やかに更けていく。
彩花と悠真は、それぞれの家で明日を楽しみにしながら眠りについた。
まだ開かない蕾も、答えの出ていない古い写真も、完成していない物語も、今日の時点では大きく変わっていない。
けれど、二人の中には確かな変化があった。
自分の好きなものを伝えること。
相手の好きなものを知ろうとすること。
そして、一緒に過ごす時間を、互いに大切にしたいと思うこと。
その小さな積み重ねが、二人の関係を少しずつ深めていた。
明日は土曜日。
午後一時半、青凪市中央図書館の入口付近で、二人はまた顔を合わせる。
その約束を胸に、彩花と悠真は静かな夜を終えた。




