第142話 木曜日の図書室と、君に見せたい景色が増えていく
木曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには冬らしい澄んだ青空が広がっていた。昨夜は風が強かったものの、今朝は庭の木々もほとんど揺れておらず、隣家の屋根に差し込む朝日が、いつもより明るく感じられる。彩花は布団の中から少しだけ顔を出し、枕元の時計を確かめてから、ゆっくりと身体を起こした。
土曜日に悠真と会う約束をしてから、二日が過ぎた。昨日の夜には、中央図書館で見たい本について互いの希望を話し、散歩する場所も二人で相談して決めようと約束している。そのやり取りを思い出すと、彩花は自然と笑顔になった。
(悠真君、昔の街並みが分かる本を見たいって言ってたな。私も興味があるけど、悠真君がどんなところに目を留めるのか、もっと知りたい)
以前の彩花なら、相手の希望を聞いたあと、自分も同じものを楽しめるだろうかと少し不安になっていたかもしれない。けれど、悠真と何度も本の話をするうちに、興味のあるものが違うからこそ新しい発見があるのだと感じるようになっていた。
悠真が昔の写真に興味を持つ理由を聞けば、自分では見過ごしてしまうような道の形や建物の違いに気づけるかもしれない。反対に、自分が物語の登場人物の気持ちについて話したときには、悠真も真剣に耳を傾けてくれる。
互いに同じものを好きでなければならないわけではない。そのことを自然に受け入れられる関係が、彩花には心地よかった。
身支度を終えて一階へ下りると、台所から温かい味噌汁の香りが漂ってきた。母の紗月が朝食の準備をしており、父の耕助は食卓で新聞を広げている。姉の凛花は窓際の椅子に座り、昨日と同じように植物について書かれたメモ帳を眺めていた。
「おはよう、お母さん。今日はいい天気だね」
「おはよう、彩花。昨日より日差しがあるから、昼間は少し暖かく感じるかもしれないわね。でも朝は冷えているから、上着は忘れないでね」
紗月が振り返って微笑むと、彩花は頷きながら食卓へ向かった。凛花も顔を上げ、妹の表情を見て少しだけ目を細める。
「彩花、今日は朝から楽しそうだね。何かいいことでもあった?」
「えっ、そんなに分かる?」
「うん。いつもより表情が柔らかい気がする。土曜日が楽しみなのかなって思っただけだけど」
凛花の言葉に、彩花は少し頬を赤くした。特別に何かを話したわけではないのに、姉には気持ちが伝わってしまうらしい。
「……うん。楽しみだよ。昨日、悠真君が見たい本についても教えてくれたから」
「そっか。どんな本なの?」
「青凪市の昔の街並みが分かる本なんだって。今も歴史写真集を読んでいるみたいで、ほかの資料も見比べてみたいって話してたの」
凛花は興味深そうに頷いた。
「へえ、面白そう。昔の街並みって、今と比べると意外な発見がありそうだよね。建物が変わっていても、道の形が残っていたりするかもしれないし」
「うん。悠真君も友達と古い駅前の写真について調べてるんだ。でも、まだ撮影した場所は分かってないみたい」
「そうなんだ。じゃあ、土曜日は調べ物もできるね」
彩花は少し考えてから、穏やかに首を横へ振った。
「もちろん本を見るのは楽しみだけど、調べ物を終わらせるために会うわけじゃないんだ。悠真君も、私と気になった景色を見ながら話したいって言ってくれたから」
その言葉を聞いた凛花は、妹の顔をしばらく見つめたあと、優しく微笑んだ。
「それなら、きっと楽しい一日になるね。何かを見つけることも大切だけど、一緒に過ごした時間そのものが思い出になることもあるから」
彩花は姉の言葉を胸の中で繰り返した。
図書館でどんな本を見つけるのかも、街でどんな景色に出会うのかも、まだ分からない。それでも、悠真と一緒に過ごす時間を楽しみにしている自分がいる。
そのことが、彩花には少し不思議で、とても嬉しかった。
◇
家を出た彩花は、いつもの通学路を歩きながら、冬の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。昨日より風が穏やかなため、制服の上から羽織ったコートの裾もほとんど揺れない。道沿いの住宅からは朝食の匂いが漂い、少し離れた交差点では通勤する人々が信号を待っていた。
彩花は歩道の端にある、いつもの蕾の前で足を止めた。
数日前から見守っている小さな蕾は、今朝もまだ開いていない。けれど、澄んだ日差しの下で眺めると、先端の色が以前より少し明るく見えるような気がした。
彩花は周囲の通行を妨げない場所へ移動し、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
(今日は光が強いから、色が違って見えるだけかもしれない。でも、昨日より輪郭がはっきりしている気もするな)
彩花は蕾の状態を慎重に確かめながら、今日の日付を書き込んだ。
昨日までの記録を読み返すと、はっきり変化したと言い切れない日がいくつもある。けれど、毎朝同じ場所へ立ち寄るうちに、彩花は変化が見つからない時間も嫌いではなくなっていた。
花が咲く瞬間を見届けたいという気持ちはある。それでも、まだ開かない蕾を見つめる時間にも、小さな楽しみが生まれている。
彩花はメモ帳を閉じ、ふと悠真のことを思い出した。
悠真も学校からの帰り道で、名前の分からない木の蕾を見つけたと話していた。昨日は見る角度を変えることで、今まで気づかなかった蕾を見つけたという。
同じように小さな変化を見守っていることが、彩花には嬉しかった。
(今度会ったとき、悠真君が見ている木のことも聞いてみたいな。どんな形の蕾なのか、どんな場所にあるのか、まだ知らないことがたくさんあるもの)
彩花は顔を上げ、学校へ向かって歩き出した。
今日も授業があり、放課後には文芸部の活動がある。冬の部誌『いつか、ここに』についても、まだ先生の最終確認を待っているところだった。
土曜日を楽しみにする気持ちと、今日の学校生活を大切にしたい気持ち。その二つは、彩花の中で自然に並んでいた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が朝の教室で航平と話していた。
窓際の席には冬の日差しが差し込み、教室の後方では数人の生徒が昨日の授業について話している。悠真は机の上に手帳を置き、今日の生徒会活動を確認していたところだった。
「悠真、おはよう。昨日の資料整理の続きなんだけど、ちょっと気になることがあってさ」
航平は鞄から一枚の紙を取り出し、悠真の机へ置いた。
そこには、古い青凪市駅前の写真について、これまで確認した情報が整理されている。二つの候補地点はそのまま残されており、どちらにも未確認の項目がいくつか並んでいた。
「おはよう、航平。何か新しい資料が見つかったの?」
「いや、まだそこまではいってないんだけど、昨日作った表を見直してたら、俺たちが写真の中で注目してる場所が偏ってる気がしたんだ」
航平は写真の複写を取り出し、端の部分を指さした。
「建物の並びとか道の曲がり方ばっかり見てたけど、こっちに写ってる小さなものも、何か手掛かりになるかもしれないだろ。ただ、何なのか分からないから、今は決めつけない方がいいと思って」
悠真は写真を受け取り、航平が示した部分へ目を向けた。
古い写真の端には、輪郭のはっきりしないものが写っている。看板の一部なのか、道沿いに置かれた設備なのか、写真の状態だけでは判断できなかった。
「確かに、今まであまり見ていなかったところだね。でも、これが何か分からない以上、今は確認項目として残しておくのがよさそうだ」
「だよな。俺もそう思う。昔の写真って、見えてるもの全部に意味があるように感じるけど、実際には偶然写り込んだものもあるだろうし」
悠真は頷いた。
航平と調査を始めた頃は、写真の撮影地点を見つけることばかり考えていた。しかし、資料を見比べるうちに、答えへ近づくためには分からないことを丁寧に扱う必要があると感じるようになった。
祖父の俊治から聞いた、昔の記録を扱うときには思い込みを避けるべきだという話も、今では実感を伴って理解できる。
「航平が気づいてくれなかったら、俺も見過ごしていたと思うよ。次に資料を確認するとき、この部分も見比べてみよう」
「おう。まあ、いつ確認できるかはまだ分からないけどな。学校の用事もあるし、無理せず進めようぜ」
航平が笑うと、悠真も穏やかに微笑んだ。
そのあと、航平はふと思い出したように声を落とした。
「そういえば、土曜日のことなんだけどさ。水瀬さんと街を歩くって言ってたよな?」
「うん。図書館で本を見たあと、天気や寒さを見ながら近くを歩く予定だよ」
「具体的にどこを歩くかは決めたのか?」
「まだ決めていないよ。昨日、彩花さんと話して、二人で相談しながら選ぼうってことになったんだ」
悠真が答えると、航平は少しだけ感心したように頷いた。
「いいじゃん。お前、前より自分の希望を話すようになった気がするな」
「そうかな?」
「そうだよ。前は水瀬さんが何をしたいかばっかり気にしてたけど、最近は自分も何を楽しみにしてるか話してるだろ」
悠真は少し考えた。
彩花の希望を大切にしたいという気持ちは、今も変わっていない。けれど、昨日、彩花が自分の見たい本について尋ねてくれたとき、悠真は思っていた以上に嬉しかった。
自分の興味を知ろうとしてくれること。
自分が好きなものを、一緒に楽しもうとしてくれること。
それが、こんなにも温かい気持ちになるものだとは、以前は知らなかった。
「彩花さんが、俺の好きなものも知りたいって言ってくれたんだ。だから、俺もちゃんと伝えたいと思ったんだよ」
悠真がそう答えると、航平は少しだけ目を丸くした。
そして、何かを言いかけたあと、口元を緩めた。
「……そっか。それなら、よかったな」
航平の声は、いつもより穏やかだった。
悠真は友人の表情を不思議に思いながらも、その言葉を素直に受け取った。
◇
青葉高校の昼休み、彩花は教室で友人と昼食を取っていた。
窓の外では、校庭を歩く生徒たちの姿が見える。朝より気温が上がったのか、日なたにいる生徒の中にはコートを脱いでいる者もいた。
彩花が弁当箱を片づけていると、近くの席にいた女子生徒が声をかけてきた。
「水瀬さん、昨日話してた小説、少し進んだ?」
「うん。昨日の夜、少し読んだよ。まだ二人は再会してないんだけど、昔よく通っていた場所が変わっている場面があってね」
彩花は借りている小説について、内容を大きく明かさないようにしながら話した。
幼なじみの二人が別々に故郷へ戻り、それぞれの記憶と今の街並みを見比べていく物語。
彩花は、登場人物が昔の店の跡地を訪れた場面が印象に残っていると伝えた。
「昔の景色がなくなっていても、そこで過ごした時間までなくなるわけじゃないんだなって思ったの。それに、新しいお店にも、そこで過ごす人たちの思い出ができていくんだよね」
女子生徒は少し考えたあと、穏やかに頷いた。
「分かる気がする。私も小さい頃によく行ってたお店がなくなったことがあるんだけど、前を通ると今でも思い出すんだよね」
「そうなんだ」
「うん。別のお店になってるんだけど、前のお店で買ったものとか、家族と行った日のことは覚えてるから。水瀬さんの話を聞いて、ちょっと思い出しちゃった」
彩花は友人の表情を見つめた。
懐かしそうに笑っているけれど、その声には少しだけ寂しさも混じっているように感じられた。
彩花はすぐに言葉を返さず、相手が続きを話すのを待った。
「でも、今のお店も嫌いじゃないんだ。たまに寄るし。だから、昔と違うからって悪いことばっかりじゃないんだなって思う」
「うん。そうだね」
彩花は静かに頷いた。
物語を読んで感じたことが、友人自身の思い出へつながった。
そのことが嬉しかった。
自分が本を読むときには、登場人物の気持ちを考えることが多い。けれど、同じ本について話すことで、相手が大切にしている記憶を知ることもできるのだと気づいた。
昼休みが終わる頃、彩花は手帳へ短い言葉を書き留めた。
昔の景色と、今の景色。
変わったものと、変わらずに残っている気持ち。
その言葉は、土曜日に悠真と街を歩くことを考えたときにも、どこかつながっているように思えた。
◇
放課後、文芸部室にはいつものように部員たちが集まっていた。
窓際の机には冬の部誌『いつか、ここに』の確認用資料が置かれており、佐々木先輩が部員たちへ今日の活動について説明している。
「先生から、昨日まとめた質問について確認してくださるという連絡がありました。ただ、部誌全体の最終承認については、まだ返事をいただいていません」
佐々木先輩は落ち着いた声で続けた。
「だから、今日は新しい修正を進めるのではなく、確認が必要な項目をもう一度整理しておきたいと思います。印刷についても、先生から正式な許可が出るまでは進めません」
部員たちは頷き、それぞれ手元の資料を開いた。
彩花も昨日整理した質問の一覧を見ながら、先輩の説明を聞いていた。
修正記録の書式は仮に整っているものの、実際にどのように使うかは先生の確認を待つ必要がある。
そのことを部員全員が理解しているため、活動は落ち着いた雰囲気で進んでいた。
しばらくして、昨日相談してきた一年生が彩花へ小さく声をかけた。
「水瀬さん、昨日はありがとう。佐々木先輩にも聞けたし、ちょっと安心したよ」
「ううん。私も気になってたことだったから、一緒に確認できてよかった」
彩花が答えると、相手は少し照れたように笑った。
「私、原稿を提出したらもう終わりだと思ってたんだけど、こういう確認も必要なんだね。最初は面倒だなって思ったけど、今はちゃんと一冊になるのが楽しみになってきた」
その言葉に、彩花は嬉しくなった。
部誌を完成させるための作業は、華やかなものばかりではない。細かな確認や、先生からの連絡を待つ時間もある。
けれど、その積み重ねがあるからこそ、部員たちの作品を安心して読んでもらえるのだろう。
「私も楽しみだよ。みんなの作品が一冊になったら、きっと今とは違う気持ちで読めると思う」
「うん。早く完成してほしいけど、焦って間違えるのも嫌だしね」
二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
その様子を少し離れた場所から見ていた佐々木先輩は、安心したように表情を緩めた。
以前は部誌の進行について、自分がすべて把握していなければならないと思っていた。けれど、最近は部員たちが自分から疑問を出し、互いに相談する姿が増えている。
佐々木先輩にとって、それは嬉しい変化だった。
「水瀬さん、少しいいかな?」
先輩に呼ばれ、彩花は顔を上げた。
「はい。どうしましたか?」
「昨日まとめてくれた質問の一覧なんだけど、先生に確認する項目と、部内で確認できる項目が分かれていて、とても見やすかったよ。ありがとう」
彩花は少し驚き、手元の資料へ視線を落とした。
「いえ、先輩とみんなで考えたことなので。私だけでできたわけじゃないです」
「うん。もちろん、みんなのおかげだよ。でも、水瀬さんが気づいてくれたことも大切だったから、ちゃんと伝えたかったの」
佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。
彩花はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が何か特別なことをしたとは思っていなかった。ただ、分からないことをそのままにせず、必要な確認をしようと考えただけだった。
けれど、その小さな行動が誰かの役に立っていたのなら、とても嬉しい。
「ありがとうございます。私も、先輩やみんなと一緒に活動できてよかったです」
彩花が答えると、佐々木先輩は少し照れたように笑った。
部室の窓から差し込む夕方の光が、机の上の資料を柔らかく照らしている。
冬の部誌は、まだ完成していない。
それでも、部員たちが一冊の本を作るために協力していることは、確かだった。
◇
同じ頃、悠真は生徒会の仕事を終え、校舎を出るところだった。
今日は予定していた確認作業が順調に進み、特別に大きな問題は起きていない。
帰り道では、朝に航平と話した古い写真のことを思い返していた。
二つの候補地点は、まだどちらも確定していない。
けれど、写真の端に写っているものにも注目することで、今までとは違う角度から調べられるかもしれない。
悠真はそのことを考えながら、いつもの道を歩いた。
しばらくすると、以前から気になっている木が見えてきた。
枝の先には小さな蕾がいくつもあり、冬の空へ向かって伸びている。
悠真は歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならない場所から見上げた。
昨日と比べても、はっきりした変化は分からない。
けれど、朝に彩花のことを思い出したせいか、今日はいつもより長く木を眺めていた。
(彩花さんも、毎朝こんなふうに蕾を見ているんだよね。何か変わったところがないか探す時間も、きっと楽しいんだろうな)
悠真は少しだけ位置を変え、枝の重なり方を確かめた。
昨日は別の角度から見ることで、今まで気づかなかった蕾を見つけた。
今日はその蕾も含めて眺めてみたが、まだ開いているものはない。
それでも、見上げる場所によって枝の形が違って見えることに気づき、自然と微笑んだ。
悠真は木の名前を知りたいと思った。
ただし、今の段階では種類を判断できるほどの情報がない。
葉が出ていない時期だからこそ、枝や蕾の形だけで調べるのは難しいかもしれない。
それでも、いつか分かる日が来るのなら、そのときには彩花へ伝えてみたい。
悠真はそう思いながら、帰路についた。
◇
夕方、水瀬家では彩花が帰宅し、居間で温かい飲み物を飲んでいた。
母の紗月は台所で夕食の準備を進めており、父の耕助はまだ帰宅していない。姉の凛花は窓際の机に座り、植物について調べた内容を整理していた。
「お帰り、彩花。今日は部活どうだった?」
凛花が顔を上げると、彩花は鞄を置きながら微笑んだ。
「ただいま。今日は冬の部誌の確認事項をもう一度整理したんだ。先生から最終的な許可はまだ出てないけど、質問については確認してくださるみたい」
「そっか。少しずつ進んでるんだね」
「うん。佐々木先輩も、みんなで協力して進められるように考えてくれてるから、私もできることを頑張りたいなって思う」
凛花は頷き、妹の表情を見つめた。
「彩花、最近ちょっと変わったよね」
突然の言葉に、彩花は目を丸くした。
「えっ、どういうこと?」
「前から真面目だったけど、最近は自分から何かを考えて動くことが増えた気がする。部活のこともそうだし、悠真君との予定も、自分の希望をちゃんと話してるでしょう?」
彩花は少し考えた。
自分では大きく変わったつもりはない。
けれど、以前よりも、自分がどうしたいのかを言葉にすることが増えたのは確かだった。
文芸部では、分からないことを先輩へ相談するようになった。
悠真とのやり取りでも、自分から街を歩きたいと伝えたり、悠真の希望を聞いたりできるようになっている。
「……そうかもしれない。前は、自分から言っていいのかなって迷うことも多かったけど、最近は少しずつ話せるようになってきた気がする」
彩花が答えると、凛花は嬉しそうに微笑んだ。
「いいことだと思うよ。相手のことを大切にするのも、自分の気持ちを大切にするのも、どっちも必要だもんね」
彩花はその言葉に頷いた。
悠真はいつも、自分の気持ちを丁寧に聞いてくれる。
だからこそ、自分も悠真の気持ちを大切にしたい。
その思いが、少しずつ行動につながっているのかもしれなかった。
◇
夕食を終えたあと、彩花は自室で星模様の創作ノートを開いていた。
祖母へ手紙を書く少女の物語は、まだ完成していない。
手紙の二行も、そのまま残されている。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花はその文章を読み返し、少女が祖母の使っていた園芸道具を見つける場面について考えた。
昨日は、道具を見つけたあと、すぐに手紙の言葉を探すのではなく、庭の中で立ち止まる時間を描きたいと思った。
今日は、その場面をもう少し具体的に考えてみたかった。
少女が道具を手に取ると、持ち手には長年使われた跡が残っている。
祖母が庭仕事をするとき、いつも同じ場所を握っていたのかもしれない。
その傷を見つめるうちに、少女は以前、祖母と一緒に庭へ出た日のことを思い出す。
けれど、彩花はそこでペンを止めた。
(思い出すだけじゃなくて、少女が今どんな気持ちになるのかを考えたいな。寂しいだけじゃないと思うし、嬉しいだけでもない気がする)
祖母と過ごした時間は、少女にとって大切な思い出だ。
その思い出を振り返れば、懐かしさと同時に、今は祖母がそばにいないことを感じるかもしれない。
けれど、祖母が使っていた道具が残っていることは、少女にとって心強さにもつながるのではないだろうか。
彩花は少し考えたあと、ノートの余白へ短いメモを書いた。
思い出したことを、すぐに悲しみへ結びつけない。
懐かしさの中に、温かさも残す。
少女が祖母へ伝えたいことを、自分で見つけるまで待つ。
書き終えると、彩花は少しだけ満足した。
物語はまだ途中だ。
けれど、少女の気持ちを考える時間が、以前よりも楽しくなっている。
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。
◇
『彩花さん、こんばんは。今日も一日お疲れさま。今日は学校からの帰り道で、前に話した木の蕾をまた見てきたんだ』
彩花はその文章を読み、自然と笑顔になった。
今朝、自分もいつもの蕾を見ていたことを思い出す。
『こんばんは、悠真君。お疲れさま。私も今朝、いつもの蕾を見てきたよ。まだ咲いてなかったけど、今日は日差しがあったから、少し違って見えた気がするの』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『そうなんだね。俺が見ている木も、まだ蕾は開いていなかったよ。でも、見る角度を変えると枝の形が違って見えて、少し面白かったんだ』
彩花はその言葉に、今朝の景色を思い浮かべた。
自分も蕾を見つめるとき、光の当たり方や見る位置によって印象が変わることに気づいていた。
『分かる気がする。私も、毎日同じ場所から見ているつもりでも、天気や光で違って見えることがあるんだ。だから、本当に変わったのかどうか、ちょっと迷うこともあるよ』
『うん。俺も同じだよ。まだ木の名前も分からないから、いつか調べてみたいと思っているんだ』
彩花はその文章を読み、少しだけ考えた。
土曜日には、中央図書館で昔の街並みの本を見る予定だ。
けれど、もし時間に余裕があれば、植物について書かれた本も一緒に見てみたい。
そう思ったものの、図書館で過ごす時間は一時間半ほどを目安にしている。
あれもこれもと予定を増やしすぎれば、かえって落ち着かなくなるかもしれない。
彩花は少し迷ったあと、自分の気持ちを素直に伝えることにした。
『悠真君、土曜日の図書館なんだけど、もし時間に余裕があったら、植物の本も少し見てみない? もちろん、昔の街並みの本をゆっくり見るのが先でいいんだけど』
送信すると、悠真からすぐに返事が届いた。
『いいね。俺も興味があるよ。ただ、時間は無理に詰め込まなくてもいいと思う。昔の街並みの本を見て、余裕があったら植物の本も見ようか』
彩花はその言葉に頷いた。
悠真はいつも、予定を無理に増やそうとはしない。
一緒に楽しめる時間を大切にしながら、できる範囲で考えてくれる。
その姿勢が、彩花にはとても心地よかった。
『うん、そうしよう。ありがとう、悠真君』
彩花は返信を送ったあと、少しだけ指を止めた。
そして、今日の昼休みに考えていたことを思い出した。
昔の景色と、今の景色。
変わってしまった場所にも、残っている思い出があること。
悠真が古い写真に興味を持っている理由を、もっと知りたいと思った。
『それから、今日読んでた小説で、昔よく通っていた場所が変わっている場面があったんだ。悠真君が昔の街並みに興味を持ってることを思い出して、ちょっと話してみたくなったの』
悠真はそのメッセージを読み、机の上の歴史写真集へ目を向けた。
彩花が読んでいる小説の詳しい内容は知らない。
けれど、彼女が本の中で見つけたことを、自分と話したいと思ってくれたことが嬉しかった。
『そうなんだね。俺も、昔の写真を見ると、今は変わってしまった場所でどんな人たちが過ごしていたのかなって考えることがあるよ。写真だけでは分からないことも多いけど、そこに誰かの日常があったんだと思うと、興味深いんだ』
彩花はその返事を読み、しばらく画面を見つめた。
悠真が昔の写真を見る理由は、建物や道の形を調べるためだけではないのだろう。
そこに暮らしていた人々の時間にも、思いを向けている。
そのことが、彩花には新鮮だった。
『悠真君って、写真の中に写ってるものだけじゃなくて、その場所で過ごした人たちのことも考えてるんだね。なんだか素敵だなって思った』
送信したあと、彩花は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
素敵だと思ったことを、そのまま伝えてしまった。
けれど、嘘ではない。
悠真の考え方を知るたびに、自分も新しい見方ができるようになる。
それが嬉しかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに息をついた。
素敵だと思った。
その言葉が、胸の奥へゆっくりと広がっていく。
彩花はいつも、悠真が何かを話すと真剣に聞いてくれる。
分からないことがあれば質問し、興味を持ったことを自分の言葉で伝えてくれる。
けれど、今夜の言葉は少し違って感じられた。
自分の考え方そのものを、彩花が大切に受け取ってくれたように思えたからだ。
(彩花さんは、俺が何を見ているかだけじゃなくて、どうしてそれを見たいのかまで知ろうとしてくれるんだね)
悠真は机の上に置いてある淡い青色の花模様のカードへ視線を向けた。
彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその言葉を思い出しながら、スマートフォンを手に取った。
『ありがとう、彩花さん。そう言ってもらえて嬉しいよ。俺も、彩花さんが本の中の人の気持ちを丁寧に考えているところが好きなんだ。話していると、自分では気づかなかったことに気づけるから』
送信すると、悠真は少しだけ緊張した。
彩花の好きなところを言葉にすることは、以前より自然になってきた。
けれど、こうして改めて伝えると、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
それでも、言わなければよかったとは思わなかった。
自分が感じたことを、彩花へ伝えたい。
その気持ちは、はっきりしていた。
しばらくして、彩花から返事が届いた。
『ありがとう、悠真君。そんなふうに言ってもらえると、すごく嬉しいな。私も、悠真君と話していると、いつも新しい発見があるよ』
悠真はその文章を読み、自然と笑顔になった。
土曜日には、また彩花と顔を合わせられる。
同じ本を開き、同じ景色を眺めながら話すことができる。
その時間が、今まで以上に楽しみになった。
◇
彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を振り返ると、朝からいろいろなことがあった。
通学路で蕾を見守ったこと。
昼休みに友人と小説の話をしたこと。
文芸部で冬の部誌の確認作業を進めたこと。
そして、夜には悠真と昔の街並みや、そこに暮らしていた人々について話したこと。
彩花は一つずつ思い出しながら、丁寧に文字を書いていった。
『木曜日。文芸部では、冬の部誌の確認事項を整理した。まだ最終的な許可は出ていないけれど、みんなで協力して準備を進めている。今日は佐々木先輩に、質問の整理が役に立ったと言ってもらえて嬉しかった』
そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。
そして、悠真とのやり取りについて書き加えた。
『夜、悠真君と昔の街並みの話をした。悠真君は、写真に写っている建物や道だけじゃなくて、そこで過ごしていた人たちのことも考えているみたい。私はその考え方が素敵だと思った。土曜日に一緒に本を見るのが、ますます楽しみになった』
彩花は書き終えた文章を読み返し、静かに微笑んだ。
悠真のことを知るたびに、好きなところが増えていく。
それは、何か特別な出来事が起きたからではない。
日々の会話の中で、悠真が何を考え、何を大切にしているのかを少しずつ知っていく。
その積み重ねが、彩花の中で大切なものになっていた。
(悠真君と出会ってから、私の毎日には新しい楽しみが増えた気がするな。本を読むことも、街を歩くことも、今までと少し違って感じるんだ)
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
星模様の創作ノートには、まだ完成していない少女の物語が残っている。
借りている小説も、まだ読み終えていない。
冬の部誌も、先生の最終確認を待っている。
そして、土曜日の約束までは、あと少し時間がある。
すべてを急いで進める必要はない。
今の自分にできることを大切にしながら、一つずつ向き合っていけばいい。
彩花はそう思いながら、部屋の明かりを落とした。
◇
同じ頃、悠真も自室で明日の予定を確認していた。
金曜日には通常の授業があり、生徒会の確認作業も予定されている。
土曜日の午後一時半には、青凪市中央図書館の入口付近で彩花と待ち合わせる。
その予定を手帳で確かめると、悠真は自然と笑みを浮かべた。
図書館では、昔の街並みが分かる本を見てみたい。
時間に余裕があれば、植物の本も一緒に探してみる。
そのあと、天気や寒さを見ながら近くを歩く。
具体的な道順は、まだ決まっていない。
けれど、それでいいと思った。
彩花と一緒に考えながら選ぶ時間も、きっと楽しい。
悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた歴史写真集へ目を向けた。
まだ読み終えていないその本には、昔の青凪市中央図書館の建物についても書かれている。
土曜日に彩花と一緒に本を見たら、今までとは違うことに気づけるかもしれない。
そのことを思うと、胸の奥が温かくなった。
(彩花さんと一緒にいると、同じ景色でも違って見えることがあるんだよね。土曜日も、そんな時間を過ごせたら嬉しいな)
悠真は静かに微笑み、部屋の明かりを消した。
木曜日の夜は、穏やかに更けていく。
彩花と悠真は、今日も別々の学校で、それぞれの時間を過ごした。
けれど、一日の終わりには、互いが大切にしているものについて、また一つ知ることができた。
まだ開かない蕾も、答えの出ていない古い写真も、完成していない物語も、すぐに結論を求める必要はない。
少しずつ見つけ、考え、言葉にしていく時間にも、大切な意味がある。
そして、二人の関係もまた、そんな小さな積み重ねの中で、ゆっくりと形を変え始めていた。
土曜日まで、あと二日。
次に会う日を楽しみにしながら、二人はそれぞれの夜を静かに終えた。




