第141話 貸出カードの余白と、言えなかったひと言
水曜日の昼休み、青葉高校の図書室は、廊下の賑わいから一枚の扉を隔てただけとは思えないほど静かだった。窓際の長机には冬の日差しが斜めに落ち、ページをめくる音に混じって、暖房の送風口がかすかに鳴っている。水瀬彩花は借りている小説を鞄に入れたまま、入口近くの返却台に積まれた本の背表紙を眺めていた。
今日は何かを借りるつもりで来たわけではなかった。午前中の授業で文章の読み方について考える機会があり、気になった言葉を確かめたくなったのだが、棚を前にすると別のことが目に留まった。図書室の奥で、二人の生徒が一冊の本を挟んで小声で相談している。片方が目次を指さし、もう片方が首を傾げてから笑う様子を見ていると、彩花は土曜日の約束を思い出した。
(悠真君と一緒に本を選ぶときも、こんなふうに同じページを見ているのかな。自分では手に取らない本を教えてもらえるのが、私は好きなんだと思う)
昨日の夜、待ち合わせは土曜日の午後一時半、青凪市中央図書館の入口付近と決まった。図書館で本を見たあと、寒さや天気に合わせて近くを歩く予定で、具体的な道順までは決めていない。彩花はその余白を心地よく感じていたものの、同時に、悠真がいつも自分の興味に合わせてくれていることも気になっていた。
悠真は自分の好きな本の話をしてくれるし、青凪市の古い写真について調べているときには、分からないことを分からないまま丁寧に扱う。けれど、二人で過ごす時間に関しては、彩花が何をしたいかを先に聞いてくれることが多かった。もちろん、それは嬉しい。それでも今度は、悠真自身が行きたい場所や見てみたいものを、もっと聞いてみたいと思った。
書架の間を歩いていると、薄い冊子が何冊か並んだ棚の前で足が止まった。地域の暮らしや散歩道について紹介した資料らしいが、発行年はそれぞれ違い、掲載されている施設が今も同じ姿で残っているとは限らない。彩花は一冊を手に取り、写真と文章をゆっくり見比べた。
川沿いの遊歩道、商店街の軒先、季節によって色を変える並木道。どれも楽しそうではあるけれど、今度の外出で必ず行きたいと思える場所を、すぐには選べなかった。地図を見れば距離の目安は分かっても、冬の午後に歩きやすいかどうかまでは、この資料だけでは判断できない。
(場所を決めるために探すというより、どんな景色が好きなのかを話してみたいな。悠真君が見たいものを聞いてから、一緒に考えてもいいんだよね)
彩花は冊子を元の場所へ戻し、図書室の時計を見上げた。昼休みが終わるまで、あと少ししかない。窓辺の机へ移って手帳を開き、「土曜日に悠真君の見たいものも聞く」と書き留めたところで、近くから控えめな声が聞こえた。
「水瀬さん、ここにいたんだ。少しだけいい?」
顔を上げると、同じ文芸部の一年生が立っていた。手には折り目のついた紙があり、昼休みに急いで探しに来たのか、肩で小さく息をしている。
「もちろん。どうしたの?」
「冬の部誌の確認表のことで、昨日から気になってたことがあるんだ。私の作品、最後の段落で改行の位置を変えたでしょう。もし先生からまた確認が来たら、変更前の文章まで全部書き直して残すのかなって」
彩花は相手の紙を覗き込む前に、椅子を少し引いて隣の席を示した。昨日部室で整えたのは、修正が必要になった場合の記録用の書式であって、実際にどこを直すかを決めたものではない。相手もそのことは理解しているようだったが、自分の作品に関わるだけに気になったのだろう。
「昨日の話だと、変更した場所と内容が分かるように残すことになってたと思う。でも、どこまで書くかは実際の指示によるかもしれないから、私だけでは決められないかな。放課後、佐々木先輩に一緒に聞いてみようか」
「うん、そうしたい。勝手に直したことにしてしまうのも違うと思って。水瀬さんに聞いたら、何か分かるかなって思ったんだ」
相手は少しほっとしたように笑った。彩花も微笑み返したが、すぐに答えを出せなかったことに申し訳なさを覚えるより、確認すべき相手を一緒に考えられたことが大切なのだと感じた。先輩の仕事を増やすのは気が引けるものの、曖昧なまま進めてあとから困る方が、きっと負担は大きくなる。
「ありがとう、水瀬さん。私、細かいことを気にしすぎかなって思ってたから、話せてよかった」
「自分の文章だもん。気になるのは自然だと思うよ。私も、ちゃんと確認してから進めたいな」
予鈴が鳴り、二人は図書室を出た。廊下には教室へ戻る生徒たちの足音が重なり、さっきまでの静けさが遠ざかっていく。彩花は手帳を鞄へしまいながら、昼休みに書いた小さな一文を思い出していた。
◇
桜華学園高等部では、午後の授業を終えた悠真が、航平と一緒に校内の資料閲覧室へ向かっていた。窓の外には薄い雲が流れ、廊下を歩く生徒たちの制服の袖が、冬の冷たい空気を避けるように揺れている。航平はいつもより大きな封筒を持ち、その角を指先で軽く叩いていた。
「昨日の地図の件なんだけど、家で整理してみたら、俺たちが比べてた資料の年代がばらばらなのが、思ったより厄介だったんだよな。写真に写ってる道の形と似てるからって、同じ時期の道だとは限らないし」
「うん。だから、今日はまず資料の出典と年代を並べてみよう。写真そのものの撮影年も分かっていないから、比較する順番を決めておいた方がよさそうだね」
悠真が答えると、航平は封筒を持ち直して頷いた。二人は以前から、古い青凪市駅前の写真がどこから撮られたものなのか調べている。候補は二つまで絞っていたが、どちらかに決める根拠はまだなく、悠真も航平も、その曖昧さを無理に埋めようとはしていなかった。
閲覧室では、校内で利用できる地域資料の目録を確かめることができた。二人は窓際の机に座り、航平が持参したメモと、閲覧できる資料の一覧を照らし合わせた。悠真は鉛筆で線を引く前に、目録に記された発行年を一つずつ確認していく。
「これ、写真の年代が分かるわけじゃないけど、当時の駅前の工事について触れているかもしれないな。ただ、題名だけじゃ中身までは分からない」
航平が示したのは、地域の交通についてまとめた古い資料だった。悠真は書名と閲覧方法を確かめ、すぐに答えへ結びつけないように注意しながら、調査候補としてメモに加えた。
「そうだね。載っていなければ別の資料を探せばいいし、載っていても写真と同じ場所だと決めつけないようにしよう。俺たちが知りたいのは、あの写真を撮った位置だから」
「分かってるって。……いや、分かってるつもりでも、見つけた瞬間に飛びつきそうになるから、言ってくれて助かる」
航平は笑ってから、机に肘をつきかけて姿勢を直した。いつもは気軽に冗談を言う彼が、調べ物の話になると資料の小さな違いまで気にしている。その変化を悠真は頼もしく感じ、二人で調べ始めてよかったと思った。
しばらく作業を続けたところで、航平が封筒から一枚の紙を取り出した。候補地点を比較するために作った表の、新しい版だった。前のものより欄が増え、「写真から直接確認できること」「資料から分かること」「推測にとどまること」が分かれている。
「これなら、俺が勢いで書いた予想も、ちゃんと予想の欄に入れられるだろ。悠真の言ってたこと、形にしてみたんだ」
悠真は表を受け取り、しばらく黙って目を通した。撮影位置を探すという目的は変わらないのに、調べ方が前より確かになったように見える。まだ何も解決していないことと、何も進んでいないことは違うのだと、改めて感じた。
「すごく見やすいね。これなら、あとから別の資料を見つけても、どの情報を確かめ直せばいいか分かりやすい。作ってくれてありがとう、航平」
「おう。こういうの、案外嫌いじゃないんだよな。写真一枚に振り回されてる感じもするけど、昔の街のことを知らなかった自分に気づくのが面白いし」
航平は少し照れたように目をそらし、窓の外へ視線を向けた。悠真も表を机へ置き、しばらく静かに考えたあと、今日調べた資料のうち、次に確認するものだけを二人で決めた。撮影地点の候補は依然として二つのままであり、調査の結論を出すにはまだ早かった。
閲覧室を出る頃、廊下には放課後の光が差し込んでいた。航平は封筒を鞄へしまいながら、ふと思い出したように悠真へ尋ねた。
「そういえば、土曜日の約束、決まったのか?」
「うん。彩花さんと午後一時半に中央図書館で会うことになったよ。本を見たあと、天気がよければ近くを少し歩こうって話しているんだ」
悠真の返事を聞いた航平は、少しだけ口角を上げた。しかし、すぐに冗談を言う代わりに、悠真の顔を横から見て、考えるように首を傾げた。
「お前、最近さ、水瀬さんの話をするときに、予定が決まったことより、その時間をどう過ごしたいかを話すようになったよな。前は待ち合わせの場所とか、ちゃんと着けるかとか、そういう心配の方が先だった気がする」
悠真は思いがけない指摘に、歩く速度を少し落とした。航平はからかっているのではなく、長く一緒にいる友人として気づいたことを口にしたのだろう。その声はいつもより穏やかだった。
「そうかもしれないね。彩花さんといると、予定どおりに進めることより、二人で何を見つけられるかの方が楽しみになるんだ。もちろん、無理のない予定にすることは大切だけど」
「それなら、いいんじゃないか。……ただ、あんまり全部お前が決めようとするなよ。水瀬さんだって、自分で考えたいことがあるだろうし」
悠真は足を止めずに頷いた。昨日、彩花が自分から街を歩いてみたいと提案してくれたことが、嬉しかった理由の一つはそこにある。相手の希望を聞くだけでなく、二人で決めていけることを、悠真は大切にしたかった。
「うん。彩花さんが何を見たいか聞くつもりだったけれど、俺も自分の希望を伝えてみようと思う。航平、ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃないって。俺はお前が楽しそうなら、それでいいんだよ」
航平はそう言って笑い、別の廊下へ曲がっていった。悠真は友人の背中を見送ってから、手帳の土曜日の欄を思い浮かべた。中央図書館で待ち合わせることは決まっているが、その先にある時間は、まだ二人で考えられる余地が残っている。
◇
青葉高校の文芸部室では、放課後の活動が始まっていた。窓の外で運動部の掛け声が聞こえるなか、佐々木先輩は昨日仮に整えた修正記録の表を机へ広げ、部員たちから出た質問を確認していた。彩花は昼休みに相談してきた一年生と隣に座り、先輩の説明を待っていた。
「確認してくれてありがとう。改行の位置を変更した場合、どこまで記録するかってことだよね。昨日の表はまだ仮のものだから、実際に先生から指示が来たときには、変更箇所が分かる形にして確認するつもりだよ」
佐々木先輩は一度言葉を切り、資料の余白へ小さく印をつけた。表の使い方については、先生にも確認してから決めたいという。彩花の隣の部員は安心したように頷き、持っていた紙を机へ置いた。
「私、改行を直しただけでも、前の原稿を全部書き直すのかなって思ってしまって。そこまでしなくても分かるようにできるなら、助かります」
「うん。でも、どこまで必要かは変更の内容によるから、今ここで全部決めてしまわない方がいいかな。先生に聞いて、分かったことを共有するね」
佐々木先輩の返事は慎重だったが、突き放すような響きはなかった。彩花は、昨日から続いている確認作業が、部員の不安を少しずつ減らすためにも役立っていると感じた。最終承認はまだ届かず、印刷も始まっていない。それでも、必要なことを確かめながら進む時間には意味があった。
その後、部員たちはそれぞれの作業へ移った。彩花は配られた確認用の資料を見直していたが、ふと佐々木先輩が机の端に置いた付箋の束に気づいた。付箋には部員から寄せられた質問が短く記されており、同じような疑問が別の言葉でいくつも書かれている。
「先輩、質問が重なっているところは、一緒に整理した方が見やすいでしょうか。先生に確認する内容と、部内で決められることを分けておくと、少し楽になるかもしれません」
彩花が提案すると、佐々木先輩は付箋を見下ろし、少し考えてから頷いた。部員たちにも意見を聞きながら、二人は付箋を机の上で並べ替えた。勝手に結論をつけるのではなく、誰に何を確認する必要があるかを分かりやすくする作業だった。
「こうしてみると、似た質問が多いね。みんなが不安に思っているところも分かるし、先生に聞くことも整理できそう」
「はい。私も昼休みに相談されたとき、どう答えたらいいか迷ったんです。でも、先輩に確認することが分かっていたから、曖昧な返事をしなくて済みました」
佐々木先輩は手を止め、彩花の顔を見た。少し驚いたような表情のあと、目元が柔らかくなる。
「水瀬さん、そうやって相談してくれてよかったよ。私も全部知っているわけじゃないけど、一人で抱えなくていいんだって、最近ようやく思えるようになってきたから」
彩花は返事を急がず、先輩の言葉を受け止めた。いつも落ち着いて説明してくれる佐々木先輩にも、迷うことはあるのだろう。部誌の準備が進むほど、先輩が一人で抱えているものの大きさが見えてくるようだった。
「私も、分からないことをそのままにしないようにしたいです。先輩だけが大変にならないように、できることはみんなで考えられたらいいなって思います」
「ありがとう。じゃあ、この質問の整理は、今日の活動の成果として残しておこうか。先生からの連絡が来るまでは、これ以上勝手に原稿を動かさないことも、みんなに伝えておくね」
部員たちはその方針を確認し、片づけを始めた。彩花は机の上の付箋をまとめながら、文章を書くことと、誰かの文章を届ける準備をすることの違いを改めて考えた。どちらも簡単ではないが、だからこそ、一冊になったときには今とは違う気持ちでページを開けるのだろう。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って、借りている小説を少し読み進めた。幼なじみの二人が別々に故郷へ戻り、それぞれ変わった街を歩く物語は、今も二人が直接顔を合わせるところまでは進んでいない。彩花が読んだ場面では、一人が昔よく通った店の跡地を訪れ、そこに新しい店ができていることを知る。
以前の景色がなくなっていたことを、登場人物はすぐに悲しいとも嬉しいとも言わなかった。新しい店の窓越しに見える人々の姿を眺めながら、そこにも誰かの日常が続いていることを感じているようだった。彩花はその描写に引っかかり、ページの端へ指を添えたまま、しばらく考え込んだ。
(昔の場所が変わってしまっても、そこで過ごした時間までなくなるわけじゃないんだね。でも、今そこにいる人にとっては、新しい景色が大切な場所になっていくのかもしれない)
昨日までの自分なら、登場人物が再会する場面を早く読みたいと思っていたかもしれない。けれど今日は、その前に二人が別々の場所で何を見ているのか、もう少し知りたくなった。彩花は本を閉じず、残りの時間を使って丁寧に読み進めた。
夕食の支度が始まる頃、凛花が部屋の扉を軽く叩いた。彩花が返事をすると、姉はメモ帳を持って顔を覗かせた。
「彩花、ちょっと聞いてもいい? この前図書館で見た植物の本、日当たりのことが詳しく書いてあったでしょう。あれ、どの棚にあったか覚えてる?」
彩花は本へ栞を挟み、椅子を回して姉の方を向いた。凛花が調べている植物はまだ決まっておらず、部屋の置き場所も検討中だ。先週末に一緒に図書館で見た本の場所なら、おおよその記憶がある。
「園芸の棚だったと思うよ。詳しい場所は、次に行ったときに案内図で確かめた方がいいかもしれないけど。お姉ちゃん、また調べたいことが増えたの?」
「うん。置く場所を先に決めようと思ってたんだけど、日当たりだけじゃなくて、風が当たる場所も考えた方がいいみたいで。今の部屋だと、窓の近くは明るいけど、寒い日もあるから迷ってるんだ」
凛花はメモ帳を開き、朝と午後の日差しについて書き込んだページを見せた。彩花は、姉が思いつきだけで植物を選ぼうとしていないことに、改めて感心した。自分が物語の一場面を何度も考え直すのと、少し似ているようにも感じる。
「お姉ちゃん、ちゃんと育てたいんだね。私、植物のことは詳しくないけど、また一緒に本を探すのは楽しいと思う」
「ありがとう。でも、今週の土曜日は悠真君と約束してるんでしょう? その日は気にしなくていいからね。私も急いで決めるつもりはないし」
凛花の言葉に、彩花は少し頬を赤くした。家族に予定を伝えたのだから姉も知っているのは当然なのに、改めて名前を出されると照れくさい。凛花はその様子を見て小さく笑ったが、それ以上からかうことはしなかった。
「うん、ありがとう。土曜日は中央図書館で会って、そのあと少し歩く予定なんだ。どこを歩くかはまだ決めてないけど、明るいうちに帰るつもりだよ」
「いいと思う。……そういえば彩花、悠真君が見たい場所って聞いてみた? 彩花の好きな本を一緒に探すのも楽しそうだけど、相手の好きなものを知る時間もあるといいよね」
彩花は思わず姉の顔を見た。昼休みに図書室で考えていたことと、ほとんど同じだったからだ。凛花は不思議そうに首を傾げたが、彩花が笑い始めると、つられるように笑った。
「私も、今日ちょうどそれを考えてたの。悠真君、いつも私が何をしたいか聞いてくれるから、今度は私からも聞いてみたいなって」
「それならよかった。二人で考える方が、きっと楽しいもんね」
凛花はそう言い、メモ帳を閉じた。彩花は姉を見送りながら、胸の中にあった小さな迷いが、少し形を変えたように感じた。自分から希望を伝えるだけでなく、相手の希望を聞くことも、二人で約束を作るための大切な一歩なのだろう。
◇
その夜、九条家の居間では、琴葉が押し葉に使う台紙の色を見比べていた。まだ乾燥の途中にある葉は取り出さず、手元には淡い緑色と白に近い紙の見本だけを並べている。麗華は隣で本を閉じ、娘が何度も紙の順番を入れ替える様子を見守っていた。
「お母様、どちらの色がいいと思う? 緑色だと葉っぱと似ているし、白い方だと形がよく見える気がするの」
琴葉が尋ねると、麗華はすぐに一つを選ばず、二枚の紙を少し離して並べ直した。暖かな照明の下では色が柔らかく見えるため、昼間に見たときと印象が違うかもしれない。
「どちらにも良さがあるわね。押し葉がちゃんと乾いてから、上にそっと置いてみると分かりやすいかもしれないわ。今はまだ仕上がりを想像している段階でしょう?」
「うん。早く見てみたいけど、まだ触らない方がいいんだよね」
琴葉は少し残念そうに頷いたが、乾燥を急いで葉を傷めたくない気持ちもあるらしい。足元ではハクが伏せており、琴葉が紙を動かすたびに、白い耳を小さく揺らしていた。
そこへ悠真が居間へ入ってくると、琴葉は嬉しそうに顔を上げた。悠真は妹の隣へ座り、並べられた紙の色を見比べる。押し葉の出来上がりをまだ見ていない以上、どちらが合うかは自分にも分からなかった。
「お兄様、土曜日に彩花さんと会うんでしょう? 私の押し葉のこと、まだ完成してないって伝えてくれる?」
「うん。彩花さんも、琴葉が楽しみにしていることを聞いたら嬉しいと思うよ。ただ、完成するまで急がなくていいんじゃないかな。琴葉が納得できる形になってから見てもらおう」
琴葉は兄の言葉を聞き、紙の見本をもう一度眺めた。すぐに選べないことを少し気にしていたようだが、悠真が穏やかに話すうちに、表情が和らいでいく。
「そうする。彩花さんに見てもらうとき、どうしてこの色にしたのかも話したいから。ちゃんと考えて決めるね」
悠真は頷き、妹が紙を丁寧に重ねるのを見守った。彩花も、何かを選ぶ前にじっくり考えることがある。琴葉と彩花は年齢も興味も違うが、自分の好きなものを大切にするところは少し似ているのかもしれない。
麗華は二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んでいた。悠真が彩花のことを話すとき、妹の希望も自然に気にかけるようになっているのが嬉しかった。恋愛のことを直接尋ねるより、今の息子が大切にしている時間を、そのまま見守りたいと思った。
◇
彩花が悠真からのメッセージを受け取ったのは、夕食と入浴を終え、机の上に手帳を広げた頃だった。窓の外はすっかり暗くなり、遠くを走る車の音が、ときどき静かな住宅街に響いている。画面には、今日の調査について短い報告が届いていた。
『彩花さん、こんばんは。今日は航平と古い駅前写真の資料を整理していたんだ。まだ撮影地点は分からないけれど、確認できることと推測を分けた表を作ってくれて、前より調べやすくなったよ』
彩花は椅子へ深く座り直し、ゆっくり返信を打った。悠真が友人と楽しそうに調べている様子を思い浮かべると、自分まで嬉しくなる。結果が出なかった日にも、何が進んだのかを伝えてくれることが、彩花にはありがたかった。
『こんばんは、悠真君。航平君が表を作ってくれたんだね。すぐに答えが出なくても、調べ方が整理できると次に何をすればいいか分かりやすそう。今日は私も文芸部で、みんなの質問を整理したんだよ』
悠真から返事が届くまで、彩花は手帳の土曜日の欄を眺めた。午後一時半という時間が、昨日よりもずっと現実味を帯びて見える。楽しみな気持ちに変わりはないが、今日はそこへもう一つ、聞いてみたいことが加わっていた。
『彩花さんたちも整理をしていたんだね。違う学校で過ごしているのに、似たようなことを考えていたんだと思うと、なんだか嬉しいな』
その言葉を読んで、彩花は小さく笑った。昨日までなら、自分も同じことを思ったと伝えて会話を終えていたかもしれない。けれど今夜は、昼休みに図書室で感じたことを、もう少しはっきり伝えたい。
『私も嬉しいよ。それから、土曜日のことなんだけど、一つ聞いてみたいことがあるの。悠真君は、図書館で見たい本とか、歩いてみたい場所ってある? いつも私の希望を聞いてくれるから、今度は悠真君が楽しみにしてることも知りたいな』
送信したあと、彩花はスマートフォンを机へ置き、指先を軽く組んだ。自分が行きたい場所を伝えるときとは、少し違う緊張がある。相手が何を好きなのか知りたいという気持ちは、答えを求めるだけではなく、その答えを大切にしたいという願いにもつながっていた。
悠真はそのメッセージを自室で読み、思わず手を止めた。彩花が自分の希望を聞いてくれたことは、予想していなかったわけではない。それでも、彼女が普段のやり取りを覚え、自分にも楽しんでほしいと思ってくれていることが、胸の奥へ静かに染み込んでくる。
(彩花さんは、自分の好きなものを話してくれるだけじゃなくて、俺の好きなものも知ろうとしてくれるんだね。嬉しいな。せっかくだから、遠慮して何でもいいとは言わずに、ちゃんと考えて伝えたい)
悠真は机の上に置いていた青凪市の歴史写真集へ目を向けた。まだ読み終えていないその本には、中央図書館の建物が時代とともに変わってきた様子が載っている。土曜日は調査の結論を出すためではなく、彩花と本を楽しむために会う。それでも、古い街の写真を見ることが好きだという自分の興味を、彼女へ話してみてもいいだろう。
『ありがとう、彩花さん。俺は、中央図書館で青凪市の昔の街並みが分かる本をもう少し見てみたいな。今読んでいる写真集にも興味深いところがあって、別の本と見比べたら新しい発見があるかもしれないと思っているんだ』
悠真は一度文章を読み返し、続けてもう一通送った。
『それから、街を歩くなら、何かを調べるためだけじゃなくて、彩花さんと気になった景色を見ながら話したい。道順はまだ決めていないけれど、二人で選べたら嬉しいよ』
彩花は二通のメッセージを読み、顔をほころばせた。古い写真の本を見たいという希望は悠真らしいし、散歩の時間を調査とは別に楽しみたいという言葉にも、彼の気持ちが表れているように思う。自分が聞かなければ、悠真はまた彩花の希望を優先してくれたかもしれない。
『教えてくれてありがとう。私も昔の街並みの本、悠真君と一緒に見てみたいな。知らない場所の写真でも、悠真君が気になったところを聞いたら、私も違う見方ができそう』
彩花はそこで少し考え、もう一つだけ言葉を加えた。
『歩くときも、私ばかりが行きたい場所を決めるんじゃなくて、二人で相談したいな。土曜日、楽しみにしてるね』
悠真はその文章を読んで、しばらく画面から目を離せなかった。彩花の言葉は飾り気がなく、だからこそ、彼女が本当にそう思ってくれているのだと感じられる。以前なら、相手に負担をかけないようにと、自分の希望を後回しにしていたかもしれない。
しかし今は、二人で選ぶことそのものが楽しみだった。悠真は指先を動かし、短くても自分の気持ちが伝わるように返信した。
『うん。俺も、彩花さんと二人で考えたい。今日は聞いてくれてありがとう。土曜日は、お互いの好きなものをたくさん話せたらいいね』
その後、二人は互いの明日の予定を簡単に話し、遅くなりすぎないうちに挨拶を交わした。彩花はスマートフォンを伏せてから、机の上の星模様のノートへ視線を向けた。まだ完成していない少女の物語は、今夜もそこにある。
彩花はノートを開き、昨日考えた場面の続きを少しだけ読み直した。祖母の使っていた道具を見つけた少女は、すぐに手紙の言葉を探すのではなく、そこに残された時間を感じ取ろうとしている。彩花はその姿を思い浮かべながら、少女が庭で立ち止まる理由を一段落だけ書き足した。
手紙の二行には手を加えなかった。祖母へ伝えたい言葉がまだ見つからないからではなく、少女がその言葉を選ぶまでの気持ちを、もう少し丁寧に描きたいと思ったからだ。彩花はペンを置き、今夜悠真と交わした会話を静かに思い返した。
(好きなものを知りたいって、ただ質問することじゃないんだね。相手が大切にしている時間を、自分も一緒に大切にしたいと思うことなのかもしれない)
窓の外で風が鳴り、カーテンの裾がかすかに揺れた。彩花はノートを閉じてから、葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を短く書き留めた。文芸部で質問を整理したこと、借りている小説を少し読み進めたこと、そして悠真が土曜日に見たい本を教えてくれたことを、順番に記していく。
日記の最後に、彩花は少しだけペンを止めた。今日、悠真へ「会いたい」と改めて書いたわけではない。それでも、彼が見たいものを知りたいと伝えた自分の気持ちは、その言葉とどこかでつながっているように思えた。
同じ頃、悠真は机の引き出しを開け、彩花から贈られた淡い青色の花模様のカードをそっと確かめていた。彼女が好きなものを大切にしてくれることへの感謝と、一緒に話す時間が好きだという言葉は、何度読んでも心を落ち着かせてくれる。今夜はその言葉が、以前とは少し違う意味を持って感じられた。
彩花は自分の好きなものを話してくれるだけではない。悠真が何を見たいのか、どんな時間を過ごしたいのかを知ろうとしてくれる。そのことが嬉しくて、彼はカードを元の場所へ戻したあとも、しばらく手帳の土曜日の欄を眺めていた。
まだ水曜日で、待ち合わせまでには学校へ通う日が残っている。図書館でどの本を開くかも、どの道を歩くかも決まっていないが、二人で選びたいという気持ちは確かめられた。悠真は明日の授業に備えて手帳を閉じ、部屋の明かりを落とした。
その夜、彩花は日記帳の最後に書いた一文をもう一度読み返してから、静かにページを閉じた。
『土曜日は、悠真君の好きな景色も一緒に見つけたい。』
その願いはまだ、約束の場所へ向かう前の小さな気持ちにすぎない。けれど彩花には、二人で過ごす時間を自分から大切にしようと思えたことが、今日いちばんの変化だった。




