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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第140話 火曜日の小さな相談と、君と歩く道を選ぶまで



 火曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗く、隣家の屋根の向こうには灰色がかった雲が広がっている。昨日の朝よりも冷え込んでいるらしく、布団から出た途端、足元を冷たい空気が通り抜けた。


 彩花は肩にカーディガンを羽織り、机の上に置いてある手帳を開いた。


 週末の欄には、昨日の夜に書き加えた小さな印がある。


 悠真と次に会う日について、予定を確認していることを忘れないための印だった。


(昨日、悠真君も予定を見てくれたんだよね。まだ決まったわけじゃないけど、今度は図書館のあとに少し街を歩けたらいいな)


 彩花は昨日のやり取りを思い出し、自然と口元を緩めた。


 中央図書館で一緒に本を見る時間は、もちろん好きだ。けれど、以前、悠真と並んで歩いた帰り道にも、忘れられない思い出がある。


 何か特別な出来事が起きたわけではない。


 同じ景色を眺め、気になったものについて話し、歩く速さを合わせながら過ごしただけだった。


 それでも、彩花にとっては大切な時間になっていた。


 昨日、自分から街を歩いてみたいと伝えられたことが、今朝になっても嬉しかった。


 彩花は手帳を閉じ、身支度を整えて一階へ下りた。


 台所では母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は食卓で新聞を読んでいる。姉の凛花は窓際の椅子に座り、小さなメモ帳へ何かを書き込んでいた。


「おはよう、お母さん。お姉ちゃんも、もう起きてたんだね」


「おはよう、彩花。今日は少し寒いから、温かいものを食べていきなさいね」


 紗月が声をかけると、凛花も顔を上げた。


「おはよう。昨日考えてた植物の置き場所なんだけど、今朝も光の入り方を見てたの。やっぱり、天気によって結構違うんだね」


 凛花はメモ帳を閉じ、彩花の方へ向き直った。


「昨日は曇ってたから、部屋の奥の方が思ったより暗くて。今日はまだ朝だから分からないけど、置き場所を決める前に気づけてよかったと思う」


「そっか。晴れの日だけ見てたら、気づかなかったかもしれないね」


「うん。だから、置き場所はもう少し考えてみるつもり。植物そのものも、まだ候補を調べてるところだし」


 彩花は姉の話を聞きながら、少しだけ考えた。


 凛花は植物を育てたいと思ってから、すぐに何かを買ったわけではない。


 図書館で本を探し、家の日当たりを調べ、自分の生活の中で世話ができるかどうかを考えている。


 その時間を楽しんでいる姿が、彩花にはとても印象的だった。


「お姉ちゃん、なんだか楽しそうだね」


「楽しいよ。まだ何も決まってないんだけどね」


 凛花は少し照れたように笑った。


「でも、調べてるうちに、ちゃんと育てたいなって気持ちが強くなってきたの。最初は部屋に緑があったらいいなって思っただけだったのに、不思議だよね」


 耕助は新聞を畳み、娘たちの会話を聞きながら穏やかに頷いた。


「それだけ大切に考えているなら、きっと選ぶときも納得できるだろうね。ただ、準備ばかりで疲れないようにな」


「分かってるよ、お父さん。今は楽しんでるから大丈夫」


 凛花が笑うと、食卓にも和やかな空気が広がった。


 彩花は朝食を食べながら、今日の予定を思い浮かべた。


 学校の授業があり、放課後には文芸部の活動予定もある。


 冬の部誌『いつか、ここに』については、昨日、修正が必要になった場合の確認方法を話し合ったばかりだった。


 最終的な許可が出たわけではなく、印刷もまだ始まっていない。


 今日、何か新しい連絡があるかどうかは分からないが、今の段階でできることを丁寧に進めたいと思った。


 そして、もう一つ。


 悠真と次に会う日について、家族にも確認しておきたかった。


 彩花は少し迷ったあと、食事を終えてから紗月へ声をかけた。


「お母さん、今週の土曜日って、家族で何か予定があったかな?」


 紗月は食器を片づける手を止め、少し考えた。


「土曜日? 今のところ、家族みんなで出かける予定はなかったと思うけれど。どうしたの?」


「えっと……もし予定が合ったら、悠真君とまた図書館へ行けたらいいなって思ってて」


 彩花が答えると、凛花が少しだけ顔を上げた。


 けれど、すぐにからかったりはせず、彩花の言葉の続きを待っている。


「まだ約束したわけじゃないんだ。お互いに予定を確認してるところで、場所もこれから相談するんだけど……」


「そうなのね」


 紗月は穏やかに微笑んだ。


「今のところ土曜日に家族の用事はないわ。ただ、出かけることが決まったら、行き先と帰る時間の目安は教えてちょうだいね」


「うん、もちろん。ありがとう、お母さん」


 彩花が答えると、凛花がようやく口を開いた。


「今度は二人で何をする予定なの?」


「まだ決まってないよ。でも、図書館で本を見たあとに、少し街を歩くのも楽しそうだねって話したの」


「へえ、いいね。ずっと建物の中にいるより、少し外を歩くのも気分が変わりそう」


 凛花はそう言ってから、窓の外へ目を向けた。


「ただ、最近は夕方になると結構寒いから、歩くなら明るいうちがいいかもね」


 彩花はその言葉に頷いた。


 自分は悠真と一緒に歩けることばかり考えていたが、季節や帰宅時間も大切だった。


 特に冬は日が暮れるのが早い。


 図書館で長く過ごしすぎれば、街を歩く時間がなくなるかもしれない。


(そっか。会う時間だけじゃなくて、帰る時間も考えないといけないんだね)


 彩花は姉の助言を胸に留め、朝食の片づけを手伝った。


     ◇


 学校へ向かう途中、彩花はいつもの蕾の前で足を止めた。


 今日は風が少し強く、細い枝が時折小さく揺れている。


 蕾はまだ開いていない。


 けれど、先端の輪郭が以前より少しはっきりしているようにも見えた。


 彩花は歩道の端へ寄り、昨日と同じくらいの距離から眺めた。


 朝の光は雲に遮られているため、昨日とは見え方が違う。


 それでも、数日前より蕾の先が柔らかくなっているように感じられた。


(少しずつ変わってるのかな。でも、まだ咲いたとは言えないよね)


 彩花はメモ帳を取り出し、今日の日付とともに短く記録した。


 昨日までの記録を読み返すと、毎日大きな変化があるわけではないことが分かる。


 変わらないように見える日もあれば、光の当たり方で少し違って見える日もある。


 その積み重ねを眺めているうちに、彩花は自分の創作ノートに書いた言葉を思い出した。


 変わらない日も、見に行く理由がある。


 少女が庭を見つめる理由について考えたときに書き留めた言葉だった。


 今の自分も、少し似た気持ちなのかもしれない。


 花が咲く瞬間だけを見たいのではない。


 咲くまでの時間も、できることなら覚えていたい。


 彩花はメモ帳を閉じ、学校へ向かって歩き出した。


 その途中、ふと悠真のことを考えた。


 悠真も、学校へ向かう道で名前の分からない木の蕾を見つけたと話していた。


 あの木は、今どうなっているのだろう。


 まだ変わらない姿のままなのか、それとも少しずつ何かが進んでいるのか。


 今夜、聞いてみたいことが一つ増えた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が朝の教室で手帳を開いていた。


 昨日の夜、彩花と次に会う日について話したあと、今週の予定をもう一度確認している。


 学校の用事は今のところ土曜日には入っていない。


 家族の予定についても、母の麗華から大きな行事はないと聞いていたが、父の正樹の仕事の都合で変更がないか、最終的に確認する必要があった。


 悠真はそのことを手帳の余白へ書き留めた。


 すると、隣から航平の声がした。


「悠真、おはよう。朝から予定表とにらめっこか?」


 悠真が顔を上げると、航平が鞄を肩に掛けたまま立っていた。


「おはよう、航平。少し今週の予定を確認していたんだ」


「へえ。生徒会の仕事でも増えた?」


「いや、そういうわけじゃないよ。学校の予定は今のところ大きく変わっていないから」


 悠真が答えると、航平は何かに気づいたように目を細めた。


「……もしかして、水瀬さんと会う予定でも考えてる?」


 悠真は少し驚いたものの、否定する理由もないため素直に頷いた。


「うん。まだ決まっていないけれど、また会えたらいいねって話しているんだ。お互いの予定を確認しているところだよ」


「なるほどな。それで朝から真面目に予定表を見てたわけか」


 航平は笑いながら隣の席へ腰を下ろした。


 その表情にはからかうような雰囲気もあったが、悠真が困るほど踏み込むつもりはないらしい。


「で、今度も図書館?」


「それも候補の一つだよ。彩花さんが、本を見たあとに少し街を歩くのも楽しそうだって言ってくれて」


「へえ、いいじゃん。青凪市の中央図書館の周りなら、歩ける場所もいろいろあるしな」


 航平はそう言ってから、少し考えるように顎へ手を添えた。


「ただ、今の時期は夕方になると寒いから、あんまり遅くならない方がいいかもな。歩くなら、昼間の方が景色も見やすいだろうし」


 悠真は頷いた。


「俺もそう思っていたところだよ。彩花さんと相談するときに、帰る時間も含めて考えたいんだ」


「それがいいと思う。せっかく楽しみにしてるなら、無理のない予定にした方がいいし」


 航平は穏やかに笑ったあと、鞄から昨日のメモを取り出した。


「そういえば、駅前の写真の方も、少し整理してきたんだ。昨日話してた道の曲がり方だけど、地図の年代が違うと比較が難しいところがあってさ」


 悠真は自然と表情を引き締め、航平のメモへ目を向けた。


 そこには、二つの候補地点について、確認できていることと不明なことが分けて記されていた。


 航平は写真の周辺部分を見直すために、いくつか確認項目を書き加えたらしい。


「この地図だと、道の形は似てるんだけど、写真と同じ時期のものかは分からないんだよ。だから、今のところは参考にするだけにしておいた方がいいと思う」


「うん。その方がいいね。年代が違う資料を同じ時点のものとして扱うと、間違った結論になりかねないから」


 悠真はメモを読みながら答えた。


 二つの候補地点は、まだどちらも否定できない。


 写真に写っている建物の並びや道の形についても、見方によって判断が変わる可能性がある。


 だからこそ、今は一つの答えを急ぐより、確かめる方法を整理することが必要だった。


「次に資料を見られるとき、写真の端の方も確認してみよう。建物以外のものが、何か手掛かりになるかもしれない」


「そうだな。俺もそのつもり。まあ、すぐ答えが出るとは思ってないけど、こうやって少しずつ調べるのも面白いよな」


 航平はそう言って笑った。


 悠真も微笑み、手元の資料を返した。


「うん。航平と一緒に考えているから、気づけることも多いと思うよ」


「またそういうことをさらっと言うんだよな、お前は」


 航平は少し照れくさそうに笑い、資料を鞄へしまった。


 その直後、教室へ教師が入ってきたため、二人は会話を切り上げて授業の準備を始めた。


     ◇


 青葉高校では、午前中の授業が終わる頃、教室の中が少し賑やかになっていた。


 彩花が教科書を片づけていると、近くの席の女子生徒が声をかけてきた。


「水瀬さん、昨日の部活はどうだった? 冬の部誌、そろそろ印刷になるの?」


「まだ最終的な許可は出てないんだ。でも、昨日は修正が必要になったときの確認方法をみんなで考えたよ」


「そっか。もう原稿はまとまってるんだよね?」


「うん。原稿の確認は進んでるけど、印刷へ回す前に先生の確認が必要だから。そこはまだ待ってるところなの」


 彩花が説明すると、女子生徒は納得したように頷いた。


「なるほどね。私、部誌って原稿を集めたらすぐに印刷するのかと思ってた」


「私も最初は、こんなにいろいろな確認があるって知らなかったよ。でも、みんなの作品を一冊にするんだから、丁寧に進めた方がいいんだろうなって思う」


 彩花はそう答えながら、昨日の佐々木先輩の説明を思い出した。


 変更が必要になった場合、どこを直したのかが分かるように記録する。


 その作業は目立つものではないが、誰かがあとで確認するときには大切になる。


 女子生徒は少し考えたあと、笑顔を見せた。


「完成したら、私も読んでみたいな。水瀬さんがどんな作品を書いてるのか気になるし」


「ありがとう。まだ完成してないけど、読んでもらえたら嬉しいな」


 彩花は笑顔で答えた。


 そのあと、二人は昼食を取りながら、最近読んでいる本の話をした。


 彩花は借りている小説について、まだ幼なじみの二人が再会していないところまで読んだことを伝えた。


 相手は先の展開を知っているらしかったが、彩花が読み終わるまで内容を話さないように気を遣ってくれた。


「水瀬さんって、登場人物の気持ちを考えながら読むのが好きなんだね」


 女子生徒がそう言うと、彩花は少し考えてから頷いた。


「うん。何をしたかだけじゃなくて、どうしてそうしたのかなって考えるのが好きなのかもしれない。自分で物語を書くときも、そこを大切にしたいなって思ってるんだ」


「へえ、そうなんだ。だから文芸部なんだね」


 その言葉に、彩花は少し照れくさくなった。


 文芸部に入った理由は一つではない。


 本を読むことが好きだったし、自分でも何かを書いてみたいと思っていた。


 けれど、最近は以前よりも、登場人物が何を感じているのかを考える時間が増えている気がした。


 それは、悠真と出会ってからの自分の変化とも、少し関係しているのかもしれない。


     ◇


 午後の授業が終わり、彩花が文芸部室へ向かうと、廊下には帰宅する生徒たちの声が響いていた。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を広げていた。


 昨日話し合った修正記録の書式について、部員たちが確認できるように準備しているらしい。


「水瀬さん、こんにちは。昨日の話で出た確認項目を、少し整理してみたんだけど、見てもらえる?」


「はい。もちろんです」


 彩花は鞄を置き、先輩の隣へ座った。


 机の上には、変更箇所、変更理由、確認者、再確認の要否などを書き込める簡単な表が置かれている。


 昨日、部員たちが話し合った内容をもとに作られたものだった。


「先生から修正の指示が来たときに、これを使えば分かりやすいかなって思って。ただ、まだ正式に決めたわけじゃないから、今日みんなにも見てもらおうと思うの」


 佐々木先輩はそう説明し、表の一部分を指さした。


「ここなんだけど、確認した日付も入れた方がいいかな?」


 彩花は少し考えた。


 修正した内容だけでなく、いつ確認したのかが分かれば、あとから見直すときにも役立つだろう。


「入れた方がいいと思います。同じ場所を何度か確認することになった場合も、順番が分かりやすくなると思うので」


「そうだよね。ありがとう」


 佐々木先輩は頷き、表へ項目を書き加えた。


 しばらくして部員たちが集まると、先輩は昨日の話し合いを振り返りながら、今日の確認事項を説明した。


「先生からは、まだ印刷へ進めるという最終的な連絡は来ていません。だから、今日は昨日考えた修正記録の形を整えるところまでにしたいと思います」


 部員たちは頷き、それぞれの手元へ資料を配った。


 彩花も一枚受け取り、書かれている項目を確かめた。


 変更箇所。


 変更前の内容。


 変更後の内容。


 確認日。


 確認者。


 先生への再確認が必要かどうか。


 どれも難しい言葉ではない。


 けれど、こうして一つの表にまとめると、作業の流れが以前より分かりやすくなった。


 部員の一人が手を挙げた。


「これって、修正が出なかった場合は使わないんですよね?」


「うん。その場合は必要ないと思う。ただ、もし使うことになったときに、誰が何を確認したのか分からなくならないようにしておきたいんだ」


 佐々木先輩が答えると、別の部員が頷いた。


「じゃあ、今のうちに準備しておけば、急に連絡が来ても慌てずに済みそうですね」


「そうだね。もちろん、実際に修正するかどうかは先生の確認を待ってからだけど」


 部員たちは資料を見ながら、必要な項目について意見を交わした。


 彩花も、実際に使うときのことを想像しながら話し合いへ加わった。


 たとえば、表記を一か所直した場合、その部分だけを確認すればいいのか。


 配置が変わった場合、前後の文章とのつながりも確かめた方がいいのか。


 そうした疑問が出るたびに、佐々木先輩は今までの確認方法を振り返りながら、無理のない形を考えていった。


 最終的に、今日の活動では修正記録の書式を仮に整えるところまで進んだ。


 ただし、先生からの指示が出た場合には、その内容に合わせて使い方を確認することになった。


 彩花は資料を片づけながら、少しだけ達成感を覚えた。


 印刷はまだ始まっていない。


 部誌が完成したわけでもない。


 それでも、昨日より一つ、準備が整ったことは確かだった。


     ◇


 活動が終わったあと、彩花は佐々木先輩と一緒に部室の机を片づけていた。


 先輩は資料を揃えながら、少しだけ肩の力を抜いた。


「水瀬さん、今日もありがとう。昨日から確認の話ばかりで、少し地味な活動になっちゃったね」


 彩花は首を横に振った。


「そんなことないです。私、こういう準備も大切なんだなって思いました。実際に修正が必要になったとき、慌てずに済みそうですし」


 佐々木先輩はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「そう言ってもらえると助かるな。私も、みんなに何をお願いすればいいのか整理できてきた気がする」


 彩花は先輩の手元にある資料へ目を向けた。


 部誌を一冊にまとめるためには、原稿を書いた人だけでなく、それを確認する人や、全体を管理する人の仕事も必要になる。


 佐々木先輩は、その中心に立っている。


 彩花は改めて、先輩の負担の大きさを感じた。


「先輩、もし私にできることがあったら、また声をかけてくださいね」


「ありがとう。でも、水瀬さんも自分の時間を大切にしてね。部誌のことばかり考えて、好きな本を読む時間がなくなったらもったいないから」


 その言葉に、彩花は少し驚いた。


 佐々木先輩は穏やかに笑いながら続けた。


「文芸部って、作品を作ることも大切だけど、本を読んだり、いろいろなことを感じたりする時間も大事だと思うんだ。そういう時間があるから、書けることもあるでしょう?」


 彩花はその言葉を聞き、自分の創作ノートを思い浮かべた。


 祖母へ手紙を書く少女の物語。


 庭を見つめる時間。


 何気ないものの変化に気づく気持ち。


 そうしたものは、机に向かっている時間だけで生まれたわけではなかった。


 通学路の蕾を見たこと。


 家族と話したこと。


 悠真と一緒に本を選んだこと。


 日々の中で感じたことが、少しずつ物語の中へつながっている。


「はい。私も、そう思います」


 彩花は穏やかに答えた。


「今、個人的にも書いている物語があるんですけど、普段の生活の中で気づいたことが、あとから役に立つことがあって」


「そうなんだ。いいね。無理に完成を急がずに、書きたいことを大切にしてね」


 佐々木先輩はそう言って微笑んだ。


 彩花は礼を言い、部室をあとにした。


 廊下へ出ると、窓の向こうには夕方の空が広がっていた。


 今日も一日が終わろうとしている。


 けれど、彩花の胸には、まだ考えてみたいことがいくつも残っていた。


     ◇


 その頃、悠真は生徒会の活動を終え、校舎を出るところだった。


 今日は通常の確認作業が中心で、予定していた仕事は大きな問題なく終わっている。


 帰り道では、航平と話した駅前写真のことを思い返していた。


 二つの候補地点は、まだどちらも確定していない。


 地図の年代や写真の撮影角度についても、確認が必要なことが残っている。


 悠真はそのことを考えながら、学校の敷地を出た。


 少し歩いたところで、以前から気になっている木が見えてきた。


 名前はまだ分からない。


 枝の先には小さな蕾のようなものがあり、悠真は何度かその様子を確かめていた。


 今日も木の近くへ足を向け、通行の邪魔にならない場所から見上げた。


 蕾はまだ開いていない。


 昨日と比べても、はっきりした変化は分からなかった。


 けれど、枝の先を眺めているうちに、彩花が話していたことを思い出した。


 見る角度によって、蕾の形が違って見えることがある。


 悠真は少し位置を変え、別の方向から枝を見上げた。


 すると、重なって見えていた枝の間に、いくつか小さな蕾があることに気づいた。


(今まで一つの枝ばかり見ていたけれど、ほかにもあるんだね)


 悠真は静かに微笑んだ。


 木の名前も、花が咲くのかどうかも、まだ分からない。


 それでも、少し見方を変えるだけで、新しく気づくことがある。


 彩花が蕾を見守る楽しさを話してくれた理由が、以前より少し分かった気がした。


 悠真はスマートフォンを取り出しかけたが、すぐにしまった。


 今はまだ、何か大きな変化があったわけではない。


 けれど、今夜彩花と話すときに、今日気づいたことを伝えてみたいと思った。


 悠真は木をもう一度見上げ、帰路についた。


     ◇


 夕方、水瀬家では彩花が帰宅し、居間で母の紗月と話していた。


 今日の文芸部の活動について伝えると、紗月は興味深そうに頷いた。


「修正が必要になったときのために、記録の形を整えたのね。ちゃんと準備しているのね」


「うん。佐々木先輩が中心になって、みんなで考えたんだ。まだ先生から最終的な連絡はないけど、今のうちにできることは進めておこうって」


「そういう準備も大切ね。彩花も、いろいろ経験できているみたいでよかったわ」


 紗月はそう言って微笑んだ。


 彩花は温かい飲み物を受け取り、少しだけ息をついた。


 学校で過ごした時間を家族へ話すと、自分の中でも一日の出来事が整理されていく。


 そのあと、彩花は今朝話した週末の予定について、もう一度確認した。


「お母さん、土曜日のことなんだけど、今のところ家族の予定はないんだよね?」


「ええ。お父さんにも確認したけれど、特に決まった用事はないわよ」


 紗月は頷いたあと、少しだけ表情を柔らかくした。


「悠真君と会うことになりそう?」


「まだ決まってないけど、お互いに予定を確認してるところなの。図書館へ行ったあと、少し街を歩くのもいいねって話してるよ」


「そうなのね。楽しそうね」


 紗月はそう言ってから、彩花の顔を見た。


「ただ、今の時期は日が暮れるのが早いから、帰る時間は余裕を持って考えてね。図書館で夢中になっていると、思ったより時間が過ぎることもあるでしょう?」


 彩花は少し照れくさくなった。


 以前、悠真と一緒に本を見ていたときも、時間が過ぎるのが早く感じられたことがある。


「うん。そこはちゃんと考えるね。お姉ちゃんにも、明るいうちに歩いた方がいいって言われたんだ」


「それならよかった。予定が決まったら、また教えてちょうだい」


「ありがとう、お母さん」


 彩花は笑顔で答えた。


 家族の予定について確認できたことで、少しだけ安心した。


 あとは悠真の予定が確かめられれば、具体的な相談ができるかもしれない。


 そのことを思うと、胸の奥に小さな期待が広がった。


     ◇


 九条家では、悠真が夕食の前に父の正樹と話す機会を得ていた。


 正樹は仕事から戻ったばかりで、居間で麗華と短い会話を交わしているところだった。


 悠真が近づくと、正樹は顔を上げた。


「悠真、何か用事か?」


「はい。今週の土曜日について、家族の予定を確認したくて。お母様からは、今のところ大きな予定はないと伺っていますが」


 正樹は少し考え、麗華へ視線を向けた。


「土曜日か。私の仕事の予定は入っているが、家族全員で出かけるような用事はなかったはずだな」


「ええ。こちらでも確認したけれど、今のところ家族の予定はないわ」


 麗華が答えると、正樹は悠真へ向き直った。


「何か予定を入れたいのか?」


「はい。まだ決まっているわけではありませんが、彩花さんとまた会えたらいいなと思っているんです。お互いに予定を確認しているところで」


 悠真が答えると、正樹は少しだけ表情を緩めた。


「そうか。なら、今のところ土曜日は問題ないだろう。ただし、学校の用事が入らないかは自分でも確認しておきなさい」


「はい。学校の予定も確認しています。今のところ、土曜日に活動の予定はありません」


「それならいい。相手の都合もあるだろうから、無理のない時間で相談するといい」


 正樹はそう言って頷いた。


 悠真は礼を述べ、少し安心した。


 父は普段から仕事で忙しいが、必要なことについてはきちんと話を聞いてくれる。


 今回も、特別に何かを尋ねるわけではなく、悠真が予定を確認したい理由を受け止めてくれた。


「ありがとうございます。予定が決まったら、またお伝えします」


「うむ。気をつけて出かけるんだぞ」


 正樹が答えると、麗華も穏やかに微笑んだ。


「彩花さんにも、よろしく伝えてね」


「はい」


 悠真は頷き、自室へ戻った。


 机の上には、今週の予定を記した手帳が開かれている。


 土曜日の欄には、まだ具体的な予定を書き込んでいない。


 けれど、家族の確認も取れたことで、彩花へ伝えられることが増えた。


(彩花さんも予定を確認してくれているし、今夜、もう少し具体的に相談してみよう)


 悠真は手帳を閉じ、夕食の時間まで少し読書をすることにした。


     ◇


 夜、彩花は自室の机へ向かい、星模様の創作ノートを開いていた。


 昨日までに書いた部分を読み返しながら、少女が祖母の使っていた道具を見つける場面について考えている。


 少女は庭の端へ歩き、以前祖母が使っていた道具の置き場所を確かめる。


 そこで長く使われた持ち手の傷を見つけ、祖母と一緒に庭仕事をした記憶を思い出す。


 その流れは以前より自然になったと思う。


 けれど、彩花は一つだけ気になることがあった。


 少女がその道具を見つけたあと、すぐに手紙のことを考えるのでは、少し急ぎすぎているように感じる。


 祖母との思い出がよみがえったなら、少女はしばらくその場に立ち止まるのではないだろうか。


 道具を手にした感触や、庭の空気、祖母と一緒に過ごした時間を思い出す。


 そのあとで、今は祖母がそばにいないことを改めて感じるのかもしれない。


(手紙を書こうと思う気持ちって、急に生まれるものじゃないのかな。思い出したことが少しずつ重なって、伝えたいことが見えてくるのかもしれない)


 彩花はペンを取り、ノートの余白へ短いメモを書いた。


 少女が道具を手にしたあと、すぐに動き出さず、庭の中で少し立ち止まる。


 祖母と過ごした時間を思い出す。


 その記憶が、手紙に何を書きたいのかを考えるきっかけになる。


 彩花はそこまで書くと、少しだけ満足した。


 まだ本文を大きく書き直す必要はない。


 今夜は、少女の気持ちの流れを整理するところまでにしておこうと思った。


 手紙の二行は、今日もそのままだ。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 彩花はその二行を読み返し、静かに微笑んだ。


 この先に何を書くかは、まだ決めていない。


 けれど、少女が何を伝えたいのかについては、少しずつ考えられるようになってきた。


 完成したら、最初に悠真へ読んでもらう約束をしている。


 そのことを思い出すと、少しだけ緊張した。


 悠真はまだ、物語の詳しい内容を知らない。


 祖母への手紙であることも、庭の花を見守っていることも、まだ話していない。


 だからこそ、完成したときにどんなふうに読んでくれるのか、楽しみでもあった。


 彩花はノートを閉じ、机の端へ置いた。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。


     ◇


『彩花さん、こんばんは。今日も一日お疲れさま。昨日話していた週末の予定なんだけど、家族にも確認できたよ。今のところ土曜日は大丈夫そうなんだ』


 彩花はその文章を読み、思わず顔をほころばせた。


 自分も今日、母と父に確認したばかりだった。


 お互いに予定を確かめていたことが、なんだか嬉しかった。


『こんばんは、悠真君。ありがとう。私も今日、お父さんとお母さんに確認できたよ。今のところ土曜日は家族の予定がないみたい』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『そうなんだね。それなら、もし彩花さんがよければ、今週の土曜日に会わない?』


 彩花はその文章を見つめた。


 今週の土曜日。


 まだ何も決まっていなかった予定が、具体的な日に変わろうとしている。


 胸の奥が少し温かくなり、自然と笑みがこぼれた。


(悠真君と、また会えるんだ)


 彩花は少しだけ指を止めたあと、返信を打った。


『うん。ぜひ会いたいな。私も楽しみにしてたの』


 送信すると、すぐに悠真から返事が届いた。


『ありがとう、彩花さん。俺も楽しみにしていたよ。じゃあ、土曜日にしよう』


 彩花はその言葉を読み、静かに頷いた。


 まだ時間も場所も決まっていない。


 けれど、次に会う日が決まったことが嬉しかった。


 彩花は手帳を開き、土曜日の欄へ小さく「悠真君と会う予定」と書き込んだ。


 その文字を見つめていると、胸の奥に柔らかな期待が広がった。


     ◇


 悠真は彩花からの返事を読み、静かに微笑んだ。


 土曜日に会える。


 そのことが決まっただけで、今週の残りの日々が少し楽しみになった。


 けれど、まだ相談することはある。


 どこで待ち合わせるのか。


 何時頃に会うのか。


 図書館でどれくらい過ごし、そのあとどこを歩くのか。


 悠真は手帳を開き、土曜日の欄へ日付を確認しながら、彩花へメッセージを送った。


『彩花さん、待ち合わせは中央図書館の入口付近でどうかな。前に一緒に行った場所だから、分かりやすいと思うんだ』


 彩花から返事が届いた。


『うん、分かりやすくていいと思う。私も中央図書館なら迷わず行けるよ』


 悠真は頷き、続けて時間について相談した。


『それなら、午後の早い時間に会うのはどうかな。図書館で本を見たあと、明るいうちに少し街を歩けると思うから』


 彩花は少し考えてから返信した。


『いいね。私も、夕方になる前に帰れるようにしたいなって思ってたの。お母さんにも、帰る時間の目安を伝えておきたいから』


 悠真はその文章を読み、彩花が家族との約束も大切にしていることを改めて感じた。


 自分も同じように、無理のない予定を考えたい。


『じゃあ、午後一時半頃に中央図書館で待ち合わせるのはどうかな。図書館で一時間半くらい過ごして、そのあと少し歩いて、夕方になる前に解散する形ならどうだろう』


 悠真は送信したあと、少しだけ考えた。


 図書館で過ごす時間は、いつもあっという間に感じられる。


 けれど、今回は街を歩くことも楽しみにしている。


 時間を細かく決めすぎる必要はないが、目安があれば安心できるだろう。


 やがて、彩花から返事が届いた。


『うん、それなら大丈夫だと思う。午後一時半に中央図書館の入口付近だね。図書館で本を見て、そのあと少し歩くの、楽しみだな』


 悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。


『俺も楽しみだよ。歩く場所は、当日の天気や寒さも見ながら相談しよう。無理に遠くまで行かなくても、図書館の近くを少し歩くだけでも楽しそうだと思うんだ』


『うん。私もそう思う。悠真君と一緒なら、いつもの道でも新しい発見がありそうだね』


 悠真はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彩花は、特別な場所でなくても一緒に過ごすことを楽しみにしてくれている。


 そのことが、何より嬉しかった。


     ◇


 彩花は悠真とのメッセージを読み返しながら、手帳へ予定を書き込んだ。


 土曜日。


 午後一時半。


 青凪市中央図書館の入口付近で待ち合わせ。


 図書館で本を見たあと、天気や寒さを確かめながら近くを少し歩く。


 夕方になる前に解散する予定。


 書き終えると、彩花はしばらくその文字を見つめた。


 昨日までは、まだ具体的な約束になっていなかった。


 けれど、今は違う。


 日付も、時間も、待ち合わせる場所も決まった。


 そのことが、彩花にはとても嬉しかった。


(今度の土曜日、悠真君とまた会えるんだね)


 彩花は静かに微笑んだ。


 中央図書館へ行くこと自体は、これまでにも何度かあった。


 けれど、悠真と一緒に行く日は、いつも少し違う気持ちになる。


 どんな本を見つけるだろう。


 どんな話をするだろう。


 そして、図書館を出たあと、どんな景色を一緒に眺めるのだろう。


 考えているだけで、胸の奥が温かくなった。


 彩花はスマートフォンを手に取り、最後にもう一度メッセージを送った。


『悠真君、今日は予定を確認してくれてありがとう。土曜日、楽しみにしてるね』


 すぐに返事が届いた。


『こちらこそありがとう、彩花さん。俺も楽しみにしているよ。今週もお互い、学校を頑張ろうね』


 彩花はその言葉に頷き、笑顔で返信した。


『うん。おやすみなさい、悠真君』


『おやすみなさい、彩花さん』


 会話を終えると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 胸の奥には、静かな喜びが残っていた。


     ◇


 その夜、彩花は葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を振り返ると、学校でも家でも、いろいろなことがあった。


 朝、凛花が植物の置き場所について話していたこと。


 通学路で、まだ咲いていない蕾を見守ったこと。


 文芸部で、冬の部誌の修正記録の書式を整えたこと。


 そして、悠真と次に会う約束をしたこと。


 彩花は一つずつ思い出しながら、丁寧に文字を書いていった。


『火曜日。文芸部では、冬の部誌の修正が必要になったときの記録方法を確認した。まだ印刷は始まっていないけれど、準備が少し進んだ。帰り道では、いつもの蕾を見た。まだ咲いていないけれど、毎日見ていると、少しずつ変わっているように感じる』


 そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。


 そして、今日一番嬉しかったことを書き加えた。


『夜、悠真君と土曜日に会う約束をした。午後一時半に中央図書館で待ち合わせて、本を見たあとに少し街を歩く予定。まだどこを歩くかは決めていないけれど、それも楽しみ。悠真君と一緒なら、何気ない景色も大切な思い出になる気がする』


 彩花は書き終えた文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 まだ火曜日だ。


 土曜日までは、学校へ通う日が続く。


 文芸部の活動もあり、授業もある。


 自分の創作ノートも、借りている小説も、まだ途中だ。


 けれど、その一つ一つを大切にしながら、土曜日を楽しみに待てばいい。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートへ目を向けると、少女が祖母へ手紙を書く物語が、まだ静かに続いている。


 その物語も、急いで完成させる必要はない。


 自分が大切にしたいことを、少しずつ言葉にしていけばいい。


 彩花はそう思いながら、部屋の明かりを落とした。


     ◇


 九条家では、悠真が寝る前に手帳を閉じたところだった。


 土曜日の欄には、彩花と会う予定が書き込まれている。


 午後一時半に中央図書館。


 本を見たあと、近くを少し歩く。


 夕方になる前に解散する。


 その文字を見つめると、自然と笑みがこぼれた。


 まだ火曜日なのに、土曜日が楽しみで仕方がない。


 けれど、悠真はその気持ちを少し不思議にも思っていた。


 彩花と会うことが、どうしてこんなにも楽しみなのだろう。


 本の話をしたいから。


 一緒に歩きたいから。


 彩花がどんなものに目を留めるのか、知りたいから。


 どれも間違いではない。


 けれど、それだけでは説明しきれない気持ちがある。


 悠真は机の上に置いた淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花が以前、自分へ贈ってくれたものだった。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 その言葉を思い出すたびに、悠真は胸の奥が温かくなる。


 彩花が大切にしているものを、自分も大切にしたい。


 そして、彩花と過ごす時間を、これからも増やしていきたい。


 その気持ちは、以前よりもはっきりしていた。


(彩花さんと一緒にいると、何でもない時間まで特別に感じるんだよね)


 悠真は静かに微笑んだ。


 土曜日に会う約束ができた。


 それだけで、今週の残りの日々が少し明るく感じられる。


 けれど、約束の日までの時間も大切にしたい。


 学校のこと。


 生徒会のこと。


 航平との調べ物。


 家族との時間。


 そうした日々を丁寧に過ごしながら、彩花と会える日を待ちたいと思った。


 悠真は手帳を閉じ、机の上の明かりを消した。


 火曜日の夜は、静かに更けていく。


 彩花と悠真は、今日も別々の学校で、それぞれの時間を過ごした。


 けれど、一日の終わりには、次に会う約束が具体的な形になった。


 土曜日の午後一時半。


 青凪市中央図書館の入口付近。


 そこで再び顔を合わせることを、二人は心から楽しみにしている。


 まだ咲かない蕾も、答えの出ていない写真も、完成していない物語も、すぐに結論を求める必要はない。


 そして、彩花と悠真の気持ちも、今すぐ名前をつけなければならないものではなかった。


 ただ、次に会う日を楽しみにできること。


 その時間を大切にしたいと思えること。


 それだけで、二人にとっては十分に嬉しい変化だった。


 火曜日の終わりに生まれた小さな約束は、土曜日へ続く日々を、静かな期待で満たしていた。

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