第139話 月曜日の予定表と、君に会いたい理由
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日は休日らしい穏やかな日差しが続いていたけれど、今朝は少し冷え込んでいるらしく、布団から出ると足元にひんやりとした空気が触れた。
彩花はカーテンを開け、向かいの家の屋根を眺めながら、今日から始まる一週間の予定を思い浮かべた。学校では授業があり、放課後には文芸部の活動もある。冬の部誌『いつか、ここに』については、最終確認を終えた原稿が印刷へ進むまで、もう少し手続きが残っているはずだった。
(今日は、先生から何かお話があるかな。印刷が始まる前に、私たちにできることも確認しておきたいな)
彩花は制服へ着替えながら、机の上に置いた星模様のノートへ目を向けた。昨日は祖母の使っていた道具を少女が見つける場面を書き直し、物語の流れが少し自然になったように感じている。手紙はまだ二行のままだが、以前よりも少女の気持ちが分かるようになってきた。
ノートを鞄へ入れることはせず、いつもの場所へ丁寧に戻した。学校で思いついたことがあれば小さなメモ帳に書き留められるし、今は自分の部屋で落ち着いて物語と向き合いたかった。
一階へ下りると、台所では母の紗月が朝食を用意していた。父の耕助は食卓で新聞を広げ、姉の凛花は窓際に立って外の明るさを確かめている。
「おはよう、お姉ちゃん。今日も日当たりを見てるの?」
彩花が声をかけると、凛花は振り返って笑った。
「おはよう、彩花。うん。昨日より雲が多いから、こういう日も見ておこうと思って。晴れの日だけで置き場所を決めちゃうと、あとで困るかもしれないでしょう?」
「そっか。昨日は明るい時間が長かったもんね。今日みたいな日だと、部屋の中も少し違って見えるのかな」
「そうなの。まだ植物を決めたわけじゃないけど、調べ始めると気になることが増えちゃって」
凛花は少し照れたように笑い、食卓へ戻ってきた。紗月が二人の前に朝食を並べると、耕助も新聞を畳み、家族の会話へ加わった。
「何かを始める前に調べるのはいいことだね。ただ、考えすぎて決められなくならないようにしないとな」
「それはちょっと心配かも。写真を見てると、どれもかわいく見えてくるんだよね」
凛花が苦笑すると、紗月は穏やかに頷いた。
「最初から一つに決めようとしなくてもいいんじゃないかしら。置き場所に合いそうなものをいくつか考えて、それから比べてみればいいと思うわ」
彩花はその会話を聞きながら、昨日悠真と交わしたメッセージを思い出した。何かを決める前の時間も大切なのだと、二人で話したばかりだった。
次に会う日についても、まだ具体的な約束はしていない。けれど、お互いにまた会いたいと思っていることは、すでに言葉にして確かめ合っていた。
(今日は学校の予定を確認してみよう。悠真君も、自分の予定を見てくれるって言ってたし)
そう考えると、いつもの月曜日が少し違ったものに感じられた。
朝食を終え、家族に挨拶をして家を出る頃には、雲の隙間から淡い光が差し始めていた。彩花は鞄の持ち手を握り直し、青葉高校へ続く道を歩き始めた。
◇
通学路の途中で、彩花はいつもの蕾の前に足を止めた。
休日に歩いたときとは光の向きが違い、枝の先には朝の冷たい空気が残っている。蕾はまだ花を開いていなかったが、先端の形が少しだけ柔らかくなったようにも見えた。
彩花は歩道を通る人の邪魔にならない場所へ寄り、少し離れたところから眺めた。昨日は見る角度によって印象が変わることに気づいたため、今日は正面だけでなく、横からも確かめてみる。
(昨日と比べて、はっきり変わったとは言えないかな。でも、こうして見ていると、咲くまでの時間もちゃんと続いているんだなって思う)
彩花は小さなメモ帳を取り出し、「月曜日・朝。まだ開花なし。横から見ると先端の輪郭が少し分かりやすい」と書き留めた。昨日の記録と比べられるように、見えたことと自分の印象を分けておく。
その作業を終えて顔を上げると、少し先を歩いていた同じ学校の生徒たちが、楽しそうに週末の出来事を話していた。月曜日の朝らしい賑やかさを感じながら、彩花も学校へ向かって歩き出した。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。窓際では週末の課題について話している生徒がおり、黒板の近くでは日直が連絡事項を書き込んでいる。
彩花が鞄を置いて教科書を取り出していると、近くの席の女子生徒が声をかけてきた。
「水瀬さん、おはよう。昨日言ってた小説、少し読めた?」
「おはよう。うん、少し進んだよ。でも、まだ二人がちゃんと再会するところまでは読んでないの」
彩花が答えると、相手は興味深そうに身を乗り出した。
「そうなんだ。あの本、途中の街の描写がけっこう好きなんだよね。昔の場所を歩いてるだけなのに、登場人物が何を考えてるのか伝わってくる感じがして」
「分かる気がする。昨日読んだところも、街が変わってることを確かめながら、昔の思い出を少しずつ振り返ってたの。すぐに会えないのがもどかしいけど、その時間にも意味があるのかなって思ったよ」
女子生徒は嬉しそうに頷いたものの、続きを話しかけたところで少し口を閉じた。
「私、先のこと言わない方がいいよね。読み終わったら、また感想聞かせて」
「うん、ありがとう。私も読み終わったら話したいな」
彩花は笑顔で答え、机の上にノートを広げた。
まだ読んでいない部分について、相手が気を遣ってくれたことが嬉しかった。結末を知らないまま読む楽しさを、大切にしてくれているのだと思う。
予鈴が鳴り、教室の生徒たちがそれぞれの席へ戻り始めた。
彩花は筆箱を開きながら、今日の授業へ気持ちを切り替えた。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が教室の窓際で森川航平と話していた。
航平は週末に整理したというメモを手にしており、机の上には古い駅前写真について書き込んだ表が置かれている。二人は先週の金曜日、放課後に資料を見比べたものの、撮影地点を一つに絞るだけの根拠は得られていなかった。
「昨日、家で地図をもう一回見てたんだけどさ。俺たち、建物の位置を中心に比べてただろ。でも、道の曲がり方もちゃんと見ないと、角度を勘違いするかもしれないと思ったんだ」
航平は表の端を指さしながら説明した。候補になっている二つの場所について、地図上で分かることと、写真から読み取れることが別々に記されている。
悠真は椅子を少し引き、航平の指が示した部分を確かめた。
「確かに、写真の中で建物が近く見えていても、実際の距離が近いとは限らないね。撮った位置によって、重なり方が変わることもあるだろうし」
「そうなんだよ。だから、前に考えた二つの候補も、どっちかを消すにはまだ早いと思う。俺、最初は一つ目の方が有力かなって思ってたけど、今は自信ないんだ」
航平は少し悔しそうに笑ったが、その声には調べること自体を楽しんでいる響きもあった。
悠真は昨日読んでいた歴史写真の本を思い出し、祖父と話したことを航平へ伝えた。
「祖父からも、写真には意図して残されたものと、偶然写り込んだものがあるって聞いたんだ。今まで重要だと思っていなかった部分にも、手掛かりがあるかもしれない」
「へえ、いいこと言うな。じゃあ、次は写真の端の方も見直してみようぜ。建物の影とか、道の端とか、今まで気にしてなかったところをさ」
「うん。ただ、影から時間帯を考えるにしても、方角が確かじゃないと難しいと思う。分かることと推測を混ぜないようにしよう」
悠真が答えると、航平は大きく頷いた。
「了解。そういうところは悠真に任せる。俺、面白いと思うと先に答えを決めたくなるからな」
「航平がいろいろな可能性を見つけてくれるから、俺も考えやすいんだよ。二人で確認していけばいいと思う」
その言葉に、航平は少し意外そうな顔をしたあと、照れくさそうに笑った。
「そう言われると悪い気はしないな。じゃあ、今日のところは、この確認項目を残しておこう。放課後は俺もちょっと用事があるし、また時間が合うときに見ようぜ」
二人は資料を片づけ、授業の準備を始めた。
悠真は航平のメモを見ながら、週末に彩花と交わした会話を思い出していた。違う場所で過ごしていても、似たことを考える瞬間がある。その嬉しさを知ったばかりだった。
(彩花さんにも、調べ方を少し変えてみようと思っていることを話したいな。写真の答えが出ていなくても、今考えていることなら伝えられる)
悠真はノートを開き、今日の授業へ意識を向けた。
◇
青葉高校の午前中の授業が終わる頃、教室には昼休みを待ちかねたような空気が広がっていた。
彩花が教科書を片づけていると、田辺大地が教卓の近くで担当教員と話している姿が見えた。以前提出した地域の祭り会場についての調査資料を手にしており、先生はそれを確かめながら何か説明している。
彩花は特に近づくことなく、自分の昼食の準備を始めた。
しばらくして田辺が席へ戻ると、近くにいた男子生徒が声をかけた。
「田辺、あの調べたやつ、発表することになったの?」
「いや、まだ決まってない。先生が提出した資料を見てくれて、内容について少し確認しただけ。発表するかどうかは、ほかの人の分も見てから考えるって」
「そっか。でも、ちゃんと読んでもらえてるんだな」
「うん。調べたところは見てもらえたみたいだから、そこはよかったよ」
田辺は少し安心したように笑い、資料を鞄へしまった。
彩花はその会話を聞きながら、以前、田辺が調べたことについて話していた姿を思い出した。調査を終えて提出したあとも、結果がすぐに決まるわけではない。それでも、先生が内容を確認してくれたことは一つの進展なのだろう。
昼食を食べながら、彩花は午後の予定を確認した。
今日は放課後に文芸部の活動がある。
冬の部誌について、何か新しい連絡があるかもしれない。
印刷へ進むまでの手続きは、部員が原稿を確認するだけでは終わらない。先生の最終的な確認や、学校側で必要な手続きもあるため、今の段階で完成したものとして考えることはできなかった。
彩花はそのことを思い出し、部活動で確認したいことを小さなメモ帳へ書き留めた。
印刷前に自分たちが行うこと。
最終的な許可が出た場合の連絡方法。
そして、もし修正が必要になったとき、どこまで対応できるのか。
書いてみると、ただ待っているだけでは分からなかったことが整理された。
(今日、佐々木先輩に聞いてみよう。私が分かってないだけで、もう決まってることもあるかもしれないし)
彩花はメモ帳を閉じ、午後の授業に備えた。
◇
放課後の文芸部室には、窓から傾いた光が差し込んでいた。
部員たちが集まる頃には、廊下を歩く生徒の声も少しずつ遠ざかり、部室の中には紙をめくる音や椅子を動かす音が響いていた。机の上には冬の部誌『いつか、ここに』の確認用資料が置かれ、佐々木先輩が部員たちへ声をかけている。
「みんな、今日は冬の部誌について先生から連絡があるから、先にその話をするね。そのあとで、今のうちに準備しておいた方がいいことを確認したいと思います」
彩花は席につき、メモ帳を開いた。
佐々木先輩は手元の紙を見ながら、落ち着いた口調で説明を始めた。
「まず、提出していた原稿と確認記録については、先生が受け取ってくださっています。ただし、印刷へ回していいという最終的な連絡は、まだ来ていません。だから、今の段階では印刷開始が決まったわけではないので、そこは間違えないようにしてください」
部員たちは頷き、それぞれの手元へ必要なことを書き留めた。
「それから、もし先生から修正の指示があった場合に、誰がどこを確認するかを先に整理しておきたいんです。大きく内容を変えることにならなくても、表記や配置について確認が必要になる可能性はあるから」
先輩の説明を聞きながら、彩花は自分が昼休みに考えていたことと重なる部分があると気づいた。
原稿を作る作業と、完成したものを実際に届けられる形にする作業は、少し違う。
書いた文章が整っていても、印刷へ進むためには確認する人が必要で、手順を守らなければならない。そこを曖昧にしたまま進めれば、あとで誰かが困ることになる。
佐々木先輩は机の上の資料を指さし、担当の確認方法を説明した。
「前に見てもらった部分を、もう一度最初から全部読み直すということではありません。今までの確認結果は残してあるから、もし変更が出たら、その変更した場所と前後を中心に確認することになります」
部員の一人が手を挙げた。
「修正が出なかった場合は、そのまま次の手続きへ進めるんですか?」
「そうなる可能性はあるけど、まだ先生から最終的な連絡がないから、今日はそこまで決められないかな。分かったことがあったら、部員みんなに伝えるようにします」
佐々木先輩は曖昧な部分を曖昧なままにせず、今分かっていることだけを説明した。
彩花はその姿を見て、少し安心した。
作業が進まないことに焦るのではなく、必要な準備を整えながら待つことも大切なのだろう。
説明が一段落したところで、彩花は手を挙げた。
「あの、佐々木先輩。もし修正の連絡が来た場合、私たちは確認した結果を、今までと同じ記録の形で残せばいいですか?」
佐々木先輩は彩花の方へ顔を向け、少し考えてから答えた。
「うん、基本的にはそれでいいと思う。ただ、変更前と変更後が分かるようにしておいた方が、先生にも確認していただきやすいかな。そこは私からも確認しておくね」
「ありがとうございます。今までの記録と混ざらないようにした方がいいのかなと思って」
「そうだね。気づいてくれてありがとう、水瀬さん」
先輩が微笑むと、近くにいた部員も頷いた。
「確かに、どこを直したのか分からなくなると困りますよね。修正が来たときに慌てないように、記録用の紙だけ先に準備しておきませんか?」
その提案をきっかけに、部員たちは具体的な準備について話し始めた。
彩花も会話へ加わり、必要な項目を一緒に考えた。
変更する箇所。
変更の理由。
確認した人。
先生へ再確認が必要かどうか。
項目を並べてみると、作業の流れが以前よりはっきり見えてきた。
ただし、今はまだ修正の指示が来たわけではない。あくまで必要になった場合に備えた準備であり、実際の変更内容を勝手に決めることはできなかった。
佐々木先輩はその点も確認しながら、部員たちの意見をまとめていった。
彩花は先輩の説明を聞き、自分のメモ帳へ今日の決定事項を書き留めた。
最終許可は未了。
印刷は未開始。
修正が必要になった場合の確認方法を準備する。
こうして書くと、今日の活動で何が進み、何がまだ決まっていないのかが分かりやすかった。
◇
部活動が終わる頃には、窓の外が少し暗くなり始めていた。
彩花は資料を片づけながら、佐々木先輩へ改めて声をかけた。
「先輩、今日はありがとうございました。印刷が始まる前に、確認することがまだあるんですね」
「そうだね。原稿がまとまったからって、すぐに全部終わりになるわけじゃないんだよね。私も最初は、もう少し簡単に進むと思ってたんだけど」
佐々木先輩は苦笑しながら、机の上に残った紙を揃えた。
「でも、みんなが確認してくれたおかげで、今までの記録はちゃんと残ってるから。あとは先生からの連絡を待ちながら、必要なことに対応していけばいいと思う」
彩花はその言葉に頷いた。
「はい。私も、できることがあったら手伝いたいです」
「ありがとう。水瀬さんが記録のことを聞いてくれたのも助かったよ。何となく進めてたら、あとで困ったかもしれないから」
先輩の声は穏やかだったが、その表情には少しだけ疲れも見えた。
彩花は、部誌をまとめる立場の大変さを改めて感じた。自分の原稿だけでなく、部員全員の作品や学校への確認まで考えなければならないのだから、簡単な仕事ではない。
部室を出ると、廊下には帰宅する生徒たちの足音が響いていた。
彩花は鞄を肩へ掛け直し、校舎の外へ向かった。
冷たい空気が頬に触れたものの、今日の活動を思い返すと、気持ちは少し落ち着いていた。
(印刷はまだだけど、ちゃんと次の準備はできたんだよね。焦らずに、必要なことを一つずつ確認していこう)
彩花は校門を出て、家へ続く道を歩き始めた。
◇
桜華学園では、悠真が放課後の生徒会活動を終えたところだった。
今日は通常の確認事項が中心で、大きな問題が起きたわけではない。必要な連絡を整理し、担当している仕事の進行状況を確かめたあと、悠真は机の上の資料を片づけていた。
同じ部屋にいた生徒が、帰り支度をしながら声をかけてきた。
「九条君、今日はもう帰るの?」
「うん。確認することは終わったから、今日はこれで失礼するつもりだよ」
「そっか。最近、いろいろ予定が重なってたみたいだけど、無理してない?」
悠真は少し意外に思いながら、相手の顔を見た。
「ありがとう。大丈夫だよ。忙しい日はあるけど、今のところ無理な予定にはしていないから」
「それならよかった。九条君って、頼まれるとちゃんとやってくれるから、つい仕事をお願いしちゃうんだよね」
相手は申し訳なさそうに笑った。
悠真は首を横に振り、穏やかに答えた。
「必要なことなら協力したいと思っているよ。でも、全部を一人で引き受けるのは違うと思うから、難しいときはちゃんと相談するつもりだよ」
「うん、そうして。私たちもいるんだから」
その言葉に、悠真は微笑んだ。
生徒会の活動では、自分だけで決められないことも多い。誰かと確認し、必要な仕事を分担することで、ようやく進められることがある。
今日の航平との会話も、少し似ていた。
一人では見落とすことでも、二人で考えれば気づける場合がある。
悠真は帰り支度を終え、部屋に残る生徒たちへ挨拶をした。
廊下へ出ると、窓の向こうには冬の夕空が広がっていた。校庭から聞こえる運動部の声が遠く響き、夕方らしい冷たさがガラス越しにも感じられる。
悠真は歩きながら、今週の予定を頭の中で整理した。
学校の授業。
生徒会の活動。
航平との調べ物。
そして、彩花と次に会える日。
最後の一つを思い浮かべると、自然と口元が緩んだ。
(彩花さんも予定を確認してくれるって言っていたし、俺も今日のうちに今週の予定を整理しておこう)
急いで日程を決める必要はない。
けれど、会いたいと思っているだけでは、いつまでも具体的な約束にはならない。
悠真はそのことを考えながら、帰路についた。
◇
彩花が帰宅したとき、居間では凛花が母の紗月と話していた。
テーブルには植物について書いたメモ帳が置かれており、二人は置き場所のことを相談しているらしい。
「ただいま」
「おかえり、彩花。今日は部活だったんでしょう? お疲れさま」
紗月が声をかけると、彩花は笑顔で頷いた。
「うん。今日は冬の部誌について、先生からの連絡を待つ間にできる準備を確認したんだ」
「そうなの。印刷はもう始まるの?」
「まだだよ。最終的な許可は出ていないから、印刷は始まってないの。でも、もし修正が必要になったときに、どうやって確認するかをみんなで考えたんだ」
彩花が説明すると、凛花は興味深そうに頷いた。
「なるほどね。作るだけじゃなくて、最後に確認することもいろいろあるんだ」
「うん。私も、原稿がまとまったらすぐに次へ進むのかなって思ってたけど、ちゃんと順番があるんだね」
彩花は鞄を置き、温かい飲み物を受け取った。
紗月は娘の話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「みんなで作るものだからこそ、確認も大切なのね。彩花も、いろいろ勉強になっているみたい」
「うん。佐々木先輩が丁寧に説明してくれるから、分かりやすいんだ」
彩花はそう答え、湯気の立つカップを両手で包んだ。
部活動の話を家族へ伝えると、今日の出来事が自分の中でも整理されていくように感じられた。
そのあと、凛花が今日の日当たりについて話し始めた。
曇っている時間が長かったため、昨日よりも部屋の奥まで光が届きにくかったこと。置き場所として考えていた棚の一つは、天気によって明るさがかなり変わりそうなこと。
彩花は姉の説明を聞きながら、すぐに結論を出さずに確かめている姿が、少し頼もしく思えた。
「お姉ちゃん、だんだん置き場所の候補が絞れてきたんだね」
「そうかもしれない。でも、まだ決めないよ。植物によって必要な光も違うみたいだし、先に場所だけ決めちゃうのも違うかなって」
「そっか。じゃあ、また本を見ながら考えるんだね」
「うん。昨日一緒に探してくれてありがとうね。彩花がいてくれたから、いろいろ比べられたよ」
凛花の言葉に、彩花は嬉しくなった。
「私も楽しかったよ。また何か調べたいことがあったら、一緒に探そうね」
姉妹は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
◇
夕食までの時間、彩花は自室で学校の予定表を開いた。
今週の授業と課題を確認し、文芸部の活動がある日についても手帳へ書き込む。まだ学校側から確定していない予定については、決まったものとして扱わず、確認が必要なことだけを余白へ残した。
その作業を終えると、彩花は週末の欄へ目を向けた。
今のところ、家族との約束や学校の用事は入っていない。
けれど、予定がないからといって、すぐに悠真と会えると決まったわけではない。悠真にも学校や家族の予定があるだろうし、どこで何をするかについても、まだ相談していなかった。
(今週末は、今のところ空いてるんだよね。悠真君にも、そう伝えてみようかな)
彩花はスマートフォンを手に取ったものの、すぐにはメッセージを送らなかった。
次に会うことを楽しみにしている気持ちは、もう伝えてある。
それでも、具体的な日程の話をするとなると、少し緊張した。
相手が忙しかったらどうしようという不安ではない。むしろ、悠真なら無理なときはきちんと伝えてくれるだろうと思っている。
ただ、自分から会いたい気持ちをもう一歩はっきり示すことに、少し照れくささがあった。
彩花はスマートフォンを机へ置き、深呼吸をした。
(でも、悠真君もまた会いたいって言ってくれたんだよね。私だけが楽しみにしてるわけじゃないんだから、変に考えすぎなくてもいいのかな)
そう思うと、胸の奥の緊張が少し和らいだ。
彩花は手帳の週末の欄をもう一度確認し、今夜、落ち着いて話せる時間に伝えてみようと決めた。
◇
九条家では、悠真が自室で予定を整理していた。
机の上には学校の予定を記した手帳が開かれ、今週の生徒会活動や授業に関する用事が書き込まれている。週末については、今のところ確定した学校の予定はなかった。
ただし、家族の用事が入る可能性もあるため、悠真は夕食の前に母の麗華へ確認しておくことにした。
居間へ下りると、麗華は琴葉と話しているところだった。
琴葉は今日も押し葉の本を見ていたらしく、机の上には淡い色の紙の見本が置かれている。ハクはその近くで静かに伏せており、琴葉の声に時折耳を動かしていた。
「お母様、少しよろしいですか」
悠真が声をかけると、麗華は顔を上げた。
「ええ、どうしたの、悠真」
「今週末の予定について確認したいんです。学校の方では今のところ用事がないのですが、家族で何か決まっていることはありますか」
麗華は少し考え、手元の予定を確認した。
「今のところ、家族全員で出かける予定は入っていないわ。ただ、お父様のお仕事の都合で変更になることもあるから、必要ならもう一度確認しておくわね」
「ありがとうございます。まだ具体的に決まっているわけではないので、急ぎません」
悠真が答えると、琴葉が興味深そうに顔を上げた。
「お兄様、どこかへお出かけするの?」
悠真は妹へ視線を向け、穏やかに答えた。
「まだ決まっていないけれど、彩花さんとまた会えたらいいなと思っているんだ。お互いの予定を確認してから相談するつもりだよ」
琴葉の表情がぱっと明るくなった。
「彩花さんと? いいなあ。図書館へ行くの?」
「それもまだ決めていないよ。彩花さんが行きたいところもあるかもしれないから、二人で相談したいと思っているんだ」
琴葉は納得したように頷いたものの、少しだけ羨ましそうな顔をした。
「そっか。私も、押し葉ができたら彩花さんに見てもらいたいな」
「うん。完成したときに、また相談しようね」
悠真が答えると、麗華は二人のやり取りを見ながら微笑んだ。
「悠真、彩花さんと過ごす時間が本当に楽しいのね」
その言葉に、悠真は少しだけ頬を緩めた。
「はい。彩花さんと話していると、今まで気づかなかったことにも目が向くんです。本の話だけでなく、普段の小さな出来事について話す時間も、俺は好きなんだと思います」
麗華は息子の言葉を静かに聞いていた。
悠真は以前から落ち着いていて、人との約束も大切にする性格だった。けれど、彩花の話をするときには、普段よりも少し柔らかな表情になることがある。
麗華はその変化を嬉しく思いながら、必要以上に踏み込むことはしなかった。
「それなら、お互いに無理のない日に会えるといいわね。予定が決まったら教えてちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
悠真は礼を言い、自室へ戻った。
まだ約束は決まっていない。
けれど、自分の予定については少し確認できた。
あとは彩花と相談しながら、二人にとって都合のいい時間を見つければいい。
悠真は手帳を開き、週末の欄に小さく印をつけた。
◇
夜、彩花は夕食と入浴を終えてから、机の前へ座った。
学校の課題はすでに済ませてあり、今日は少しだけ創作ノートを開くつもりだった。けれど、その前にスマートフォンの画面を確かめると、悠真からメッセージが届いていた。
『彩花さん、こんばんは。今日も一日お疲れさま。学校はどうだった?』
彩花は自然と微笑み、返信を打った。
『こんばんは、悠真君。ありがとう。今日は文芸部で冬の部誌について話し合ったよ。まだ印刷は始まってないけど、もし修正が必要になったときの確認方法をみんなで考えたの』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『そうなんだね。原稿がまとまったあとにも、いろいろな確認があるんだね。彩花さんたちが丁寧に準備していることが伝わってくるよ』
彩花はその文章を読み、今日の部活動を思い返した。
自分たちが行ったのは、目に見える完成品を作る作業ではなかった。けれど、もし修正が必要になったときに備えることも、部誌を完成させるための大切な仕事なのだと思う。
『うん。佐々木先輩がちゃんと説明してくれたから、私も分かりやすかったよ。早く完成したところを見たいけど、今は必要なことを確認しながら待とうと思ってる』
『きっと、その準備も大切な時間なんだろうね。完成したら、俺も読んでみたいな』
彩花はその言葉に、胸が温かくなるのを感じた。
悠真は以前から、彩花が書くものを大切にしてくれている。冬の部誌に載る作品についても、完成したら読みたいと言ってくれることが嬉しかった。
『ありがとう。完成したら、ぜひ読んでほしいな』
そう送ると、悠真から穏やかな返事が届いた。
『うん。楽しみにしているよ』
彩花はしばらく画面を眺めたあと、今日の予定表を思い出した。
今なら、週末のことも自然に話せるかもしれない。
彩花は少しだけ緊張しながら、新しい文章を打ち始めた。
『それからね、悠真君。昨日話してた次に会う日のことなんだけど、今日、学校の予定を確認してみたの。今のところ、今週末は特に予定が入ってないみたい』
送信ボタンを押したあと、彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、静かに息を吐いた。
たったそれだけの文章なのに、送るまでに少し勇気が必要だった。
けれど、今は後悔していない。
自分が楽しみにしていることを、相手へきちんと伝えられたのだから。
◇
悠真は彩花から届いたメッセージを読み、思わず表情を緩めた。
今週末は、今のところ予定が入っていない。
その言葉が、彩花も次に会うことを具体的に考えてくれている証のように感じられた。
悠真は机の上の手帳へ目を向けた。
自分も今日、学校と家族の予定を確認したばかりだった。まだ完全に確定したわけではないものの、現時点で大きな用事は入っていない。
(彩花さんも、ちゃんと予定を見てくれたんだね。俺も今日確認したことを伝えよう)
悠真は少し考え、返信を打った。
『実は俺も、今日予定を確認してみたんだ。学校の用事は今のところ入っていないし、家族の予定も大きなものはなさそうだよ。ただ、まだ変更がないか確認したいから、もう少しだけ待ってもらってもいいかな』
送信すると、悠真は椅子の背もたれへ軽く寄りかかった。
彩花と会いたい気持ちは確かにある。
だからこそ、曖昧なまま約束をして、あとから変更することは避けたかった。
しばらくして、彩花から返事が届いた。
『もちろんだよ。私もまだ家族にちゃんと確認したわけじゃないから、もう少し予定を見てみるね。急がなくても大丈夫だよ』
悠真はその言葉を読み、安心した。
彩花はいつも、相手の都合を大切にしてくれる。
それが嬉しい一方で、自分も同じように彩花の気持ちを大切にしたいと思う。
『ありがとう、彩花さん。お互いに確認できたら、どこへ行くかも相談しよう。俺はまた中央図書館へ行くのも楽しそうだと思っているけど、彩花さんが行きたい場所も聞いてみたいな』
悠真は送信したあと、少しだけ考え込んだ。
中央図書館は二人が出会った場所であり、何度訪れても新しい発見がある。
けれど、彩花と過ごしたい理由は、図書館へ行きたいからだけではない。
同じ本棚を眺める時間も、帰り道で話す時間も、互いの好きなものを知る時間も大切だった。
だから、次に会う場所は必ずしも図書館でなくてもいい。
彩花がどこへ行きたいのか、何をしてみたいのか。
それを聞いてみたいと思った。
◇
彩花は悠真のメッセージを読み、しばらく考えていた。
中央図書館へ行くのは、もちろん楽しみだ。
けれど、悠真が自分の行きたい場所も聞いてくれたことが、少し意外で、嬉しかった。
(私、悠真君と会うなら図書館が一番自然かなって思ってたけど、ほかにも一緒に行ってみたい場所があるのかな)
彩花はすぐに答えを決めず、これまで悠真と過ごした時間を思い返した。
本棚を一緒に見たこと。
気になった本について話したこと。
図書館からの帰り道で、何気ない景色に目を向けたこと。
そうした思い出は、どれも特別な場所でなければ生まれなかったものではない。
彩花は少し考え、返信を打った。
『私も中央図書館へ行くのは好きだよ。でも、もし時間が合ったら、今度は本を見たあとに少しだけ街を歩くのも楽しそうだなって思ったの。前に悠真君と歩いたとき、普段なら気づかない景色が見つかって嬉しかったから』
送信すると、彩花は少し緊張した。
まだ具体的な場所も時間も決まっていない。
けれど、次に会えたらしてみたいことを、自分の言葉で伝えられた。
悠真から返事が届くまでの時間、彩花は机の上の星模様のノートへ目を向けた。
物語の中の少女も、毎日庭を見ている。
同じ場所を見つめていても、その日の光や風によって違うことに気づく。
自分が悠真と一緒に歩いたときも、少し似たことを感じていたのかもしれない。
やがて、スマートフォンが震えた。
『それ、すごくいいね。俺も彩花さんと街を歩いてみたいな。図書館の近くにも、まだゆっくり見たことのない景色があると思うし、無理のない時間で相談できたら嬉しいよ』
彩花はその文章を読み、頬を緩めた。
悠真が自分の提案を喜んでくれたことが、何より嬉しかった。
『ありがとう。じゃあ、お互いの予定がはっきりしたら、また相談しようね』
『うん。楽しみにしているよ、彩花さん』
彩花はスマートフォンを胸元へ引き寄せ、静かに微笑んだ。
まだ約束の日は決まっていない。
けれど、次に会えたら何をしたいかについて、二人で少しだけ話すことができた。
そのことが、今夜の彩花には大きな一歩のように感じられた。
◇
メッセージのやり取りを終えたあと、彩花は葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を書き留めようとして、最初に思い浮かんだのは文芸部の活動だった。
冬の部誌『いつか、ここに』は、まだ印刷へ進んでいない。
けれど、修正が必要になったときの確認方法を考え、準備を整えることができた。
田辺が提出した調査資料についても、先生が確認を進めているらしい。
どちらも結果はまだ決まっていないが、今日という一日の中で、少しずつ進んでいることがあった。
彩花はペンを動かしながら、そのことを丁寧に書き留めた。
そして、最後に悠真との会話についても書き加えた。
『月曜日。文芸部では冬の部誌の確認方法について話し合った。印刷はまだ始まっていないけれど、必要な準備を進められた。夜は悠真君と、次に会う日のことを少し相談した。まだ日程は決まっていないけれど、本を見たあとに街を歩くのも楽しそうだねって話せた。悠真君も楽しみにしてくれているみたいで、とても嬉しかった』
そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。
次に会う日が決まっていないことは、以前なら少し寂しく感じていたかもしれない。
けれど、今は違う。
お互いに会いたいと思っていて、予定を確認しながら相談している。
その時間も、二人の間に生まれた大切なものの一つなのだと思う。
彩花は最後に短い一文を書き加えた。
『約束が決まる前から、こんなに楽しみな気持ちになれるんだね』
日記帳を閉じると、彩花は机の上を整えた。
星模様の創作ノートは、今日もまだ途中のままだ。
少女が祖母へ書く手紙も、二行から先へ進んでいない。
けれど、彩花は焦っていなかった。
自分の中にある気持ちを、少しずつ言葉にしていけばいい。
そう思いながら、部屋の明かりを落とした。
◇
九条家では、悠真が寝る前に手帳を閉じたところだった。
今週の予定は、まだすべて確定したわけではない。
けれど、彩花と次に会うことについて、少しだけ具体的な話ができた。
中央図書館へ行くこと。
そのあと、時間が合えば街を歩いてみること。
どちらもまだ候補の段階だが、彩花が自分から提案してくれたことが嬉しかった。
悠真はスマートフォンの画面を見つめ、彩花から届いた文章をもう一度読み返した。
普段なら気づかない景色が見つかって嬉しかった。
その言葉を読んだとき、悠真は以前一緒に歩いた道のことを思い出していた。
彩花は、何気ないものにも丁寧に目を向ける。
道端の蕾や、図書館の古い写真、読んでいる本の一場面。
そうしたものを大切にしている彩花と一緒にいると、自分の周りにもまだ知らない景色があるのではないかと思う。
(次に会えたら、彩花さんがどんなものを見つけるのか、また一緒に見てみたいな)
悠真は静かに微笑んだ。
会いたい理由は、一つではない。
本の話をしたいから。
同じ場所で過ごしたいから。
彩花が何を見て、何を感じるのかを知りたいから。
そして、彩花と一緒にいる時間そのものが、大切だから。
悠真はその気持ちを胸に、机の上の明かりを消した。
月曜日の夜は、静かに更けていく。
彩花と悠真は、今日も別々の学校で、それぞれの時間を過ごした。
けれど、一日の終わりには、次に会うための小さな相談ができた。
日程も、場所も、まだ決まっていない。
それでも、二人が同じ未来の時間を楽しみにしていることだけは、以前よりもはっきりしていた。
そして、その温かな期待を胸に、二人はそれぞれの夜を穏やかに終えた。




