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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第138話 日曜日の午後、まだ知らなかった君の好きな時間


日曜日の朝、水瀬彩花は窓の外から聞こえてきた小鳥の声で目を覚ました。昨日よりも空は明るく、カーテンの隙間には柔らかな日差しが差し込んでいる。布団の中でしばらくその光を眺めていると、昨日、姉の凛花と中央図書館へ行ったときのことが自然に思い出された。


凛花は植物を育てるための本を何冊も見比べ、気になったことを小さなメモ帳へ書き留めていた。まだどの植物を選ぶかは決まっていないけれど、帰り道の姉はとても楽しそうだった。彩花も一緒に本を探した時間が嬉しくて、昨夜は悠真へその出来事を伝えた。


(悠真君も、また一緒に本を選びたいって言ってくれたんだよね)


彩花は枕元のスマートフォンへ目を向けたものの、すぐには手を伸ばさなかった。昨日の夜はお互いに挨拶をして会話を終えているし、まだ朝も早い。今日は自分の時間を大切に過ごしながら、何か話したいことができたら連絡してみようと思った。


身支度を整えて一階へ下りると、台所から温かな味噌汁の香りが漂ってきた。母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は食卓で新聞を読んでいる。凛花はまだ部屋にいるらしく、階段の方から物音が聞こえていた。


「おはよう、お母さん。何か手伝うことある?」


「おはよう、彩花。ありがとう。それじゃあ、お箸を並べてもらえるかしら」


彩花は食器棚から家族の箸を取り出し、人数分を食卓へ並べた。紗月が味噌汁を運んでくる頃には凛花も下りてきて、昨日図書館で書いたメモ帳を手にしていた。


「お姉ちゃん、おはよう。昨日の続き、もう調べてたの?」


「おはよう。うん、少しだけね。朝起きて窓の近くを見てみたら、昨日考えてた場所にも、思ったより光が入ってたんだ」


凛花は席につきながら、メモ帳を彩花の方へ向けた。そこには昨日までの記録に加えて、朝の光が差し込む位置について短い書き込みが増えている。


「でも、朝だけ明るくても、それで決めちゃいけないんだよね。午後はどうなるか、今日も確かめてみようと思って」


「そっか。昨日、本に時間によって明るさが変わるって書いてあったもんね」


「そうなの。だから今日は、部屋の中を少し整理しながら置き場所を考えてみるつもり。まだ植物を買うわけじゃないけど、置ける場所が分かってた方が選びやすいでしょう?」


凛花の声は明るく、何かを始める前の楽しさがにじんでいた。耕助は新聞を畳み、二人の会話を聞きながら穏やかに笑った。


「ずいぶん熱心だね。昨日は図書館でいい本が見つかったみたいだ」


「うん。彩花が一緒に探してくれたから、いろいろ比べられたよ。最初は写真を見るだけでも楽しかったんだけど、育て方を読んでるうちに、ちゃんと考えて選びたくなったの」


凛花が答えると、紗月は味噌汁の椀を置きながら頷いた。


「大切に育てたいと思うなら、急がなくてもいいものね。置き場所を考えるのも楽しそうだけど、今あるものを無理に動かさないようにしてね」


「分かってるよ、お母さん。今日は棚の上を少し片づけるくらいにしておく」


彩花は姉の話を聞きながら、昨日図書館で過ごした時間が今日の行動へつながっていることに気づいた。本を読んで終わりではなく、そこで知ったことを実際の暮らしに当てはめて考えている。その様子が、なんだかとても素敵に思えた。


朝食のあと、彩花は食器を運ぶのを手伝い、自室へ戻った。今日は午後に少し散歩をしたいと考えているが、午前中にはまだ十分な時間がある。机の上には、読みかけの小説と星模様の創作ノートが並んでいた。


彩花は椅子へ座り、どちらを先に開こうか考えた。


昨日は姉と植物の本を見たことで、庭を観察する少女の物語についても新しいことを考えられそうだった。けれど、借りている小説もそろそろ先を読みたい。迷った末に、まずは小説を少し読み進め、そのあとで自分の物語へ向き合うことにした。


窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。


◇


九条家では、悠真が朝食を終えたあと、居間で祖父の俊治と話していた。


俊治は窓際の椅子へ腰掛け、手元にある本を閉じたところだった。悠真が近づくと、穏やかな表情で顔を上げる。


「悠真、今日は学校の用事はないのか」


「はい。今日は特に予定がありません。午前中は読書をして、午後は少し調べ物をしようと思っています」


「そうか。休みの日に自分の時間を持てるのはいいことだな。何を調べるつもりなんだ?」


悠真は祖父の向かいに座り、航平と調べている古い駅前写真について簡単に説明した。撮影場所の候補が二つあること、古い地図や建物の角度を比べていること、まだ撮影地点も年代も確定していないことを順に伝える。


俊治は途中で口を挟まず、最後まで話を聞いていた。


「なるほど。写真に写った建物だけでなく、周囲の道や建物の並び方も手掛かりになるわけだな」


「はい。ただ、資料によって記録されている時期が違う可能性もありますから、似ているというだけで決めるのは難しいと思っています」


「慎重に考えているんだな。それでいい。昔のことを調べるときは、分からないものを分かったことにしないのが大事だ」


俊治はそう言って、手元の本の表紙を指で軽く撫でた。


「古い写真には、撮った人が残そうとしたものもあれば、偶然写り込んだものもある。どちらが後になって大切な手掛かりになるかは、調べてみなければ分からんものだ」


悠真はその言葉を聞き、少し考え込んだ。


航平が気にしているのは、写真の中の駅舎や周囲の建物の位置関係だ。けれど、写っている道の幅や影の落ち方など、まだ十分に見ていない部分もあるかもしれない。


「確かに、最初から重要だと思っているものばかり見ていると、ほかの手掛かりを見落とすかもしれませんね」


「そういうこともあるだろうな。もっとも、私もその写真を見ているわけではないから、何が正しいとは言えんが」


俊治は穏やかに笑った。


悠真も微笑み、祖父の言葉を胸に留めた。具体的な答えが見つかったわけではない。それでも、調べるときの考え方について新しい視点をもらえた気がした。


「ありがとうございます。今度、航平にも話してみます」


「うむ。友人と一緒に考えるのも楽しいものだ。結論が出るまでの時間も、大事にするといい」


その言葉に、悠真は自然と彩花のことを思い出した。


彩花と一緒に図書館へ行ったときも、何か特別な答えを見つけようとしていたわけではない。同じ本棚を眺め、気になった写真について話し、互いの好きなものを少しずつ知っていった。


(調べ物でも、読書でも、誰かと一緒だから気づけることがあるんだろうな)


悠真は祖父に礼を言い、自室へ戻った。


机の上には借りている歴史写真の本がある。今日は残りのページを少し読み進めながら、気づいたことを自分なりに整理してみようと思った。


◇


彩花が読んでいる小説では、故郷へ戻った二人の幼なじみが、まだ互いの姿をはっきり確かめられずにいた。


以前読んだところでは、一人が懐かしい場所の近くで、もう一人によく似た後ろ姿を見かけていた。彩花はその場面を思い出しながら続きを開き、登場人物が何を考えていたのかを丁寧に追っていった。


物語は、すぐに二人を再会させるわけではなかった。


故郷へ戻った人物は、昔と変わった街並みを歩きながら、自分が覚えていた場所と今の景色を比べている。かつてよく通った道が少し違って見えたり、思い出の店の前で足を止めたりする描写が続き、彩花はその静かな時間に引き込まれていった。


(会いたい気持ちがあっても、すぐに会いに行けるとは限らないんだね。昔のことを覚えているからこそ、今の相手がどうしているのか気になるのかな)


彩花はページをめくる手を止め、窓の外へ目を向けた。


自分と悠真は、幼い頃からの知り合いではない。中央図書館で出会い、本の話をするようになってから、少しずつ互いを知ってきた。


だから、小説の登場人物たちと同じではない。


それでも、会いたい相手がいるときの気持ちについては、どこか共感できるところがあった。


悠真と次に会う日は、まだ決まっていない。


けれど、次に会えたら話したいことがある。読んでいる本のこと、昨日姉と図書館へ行ったこと、通学路で見守っている蕾のこと。そうした小さな話題を思い浮かべるだけで、彩花の胸には柔らかな期待が広がった。


彩花は再び本へ視線を戻した。


物語の中では、主人公が昔の知り合いと偶然言葉を交わし、懐かしい場所について話していた。その会話の中で、幼なじみが以前と変わらず大切にしていたものの存在が、少しだけ示される。


彩花はその部分をゆっくり読み返した。


まだ二人は再会していない。


けれど、相手が今も何かを大切にしていると知ることで、主人公の気持ちがわずかに変わっているように感じられた。


彩花は栞を挟み、本を閉じた。


続きは気になるが、今日はここで一度区切ることにした。急いで結末へ進むより、今読んだ部分について考えてみたい気持ちがあった。


机の上の星模様のノートへ目を向けると、そこには自分が書いている物語が待っている。


祖母へ手紙を書く少女。


庭の花が咲くのを待ちながら、毎日少しずつ変わる景色を見つめている。


彩花はノートを開き、これまで書いた部分を読み返し始めた。


◇


昼前になると、彩花は創作ノートの一か所でペンを止めた。


少女が祖母の使っていた道具を見つける場面だ。


昨日は、持ち手に残った小さな傷を見つけたことで、少女が祖母と庭仕事をした記憶を思い出す描写を書いていた。けれど、読み返してみると、少女がその道具を見つけるまでの動きが少し急に感じられた。


道具はどこに置かれていたのか。


少女は何をしようとして、そこへ手を伸ばしたのか。


彩花はノートの余白へ短いメモを書き、場面の流れを考え直した。


(ただ思い出すだけじゃなくて、何かをしようとしたときに見つける方が自然かな。庭を見に来た少女が、道具の置いてある場所へ目を向ける理由も必要だよね)


彩花はしばらく考えたあと、少女が庭の様子を確かめながら、祖母と一緒に使っていた道具のことを思い出す流れへ書き直すことにした。


少女は庭の端へ歩き、以前祖母が使っていた道具の置き場所を確かめる。そこに残されたものを手に取り、長く使われた持ち手の傷へ指を添えることで、過去の時間が自然に浮かび上がってくる。


そのように動きを整えると、祖母との思い出も以前より伝わりやすくなった気がした。


彩花は書き直した文章を声に出さずに読み返し、少しだけ頷いた。


手紙の二行は、まだそのままにしてある。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


この先へ何を書くかは、まだ決めていない。


けれど、少女が手紙を書く理由を少しずつ深く考えられるようになってきた。


彩花はペンを置き、ノートを閉じた。


完成したら、最初に悠真へ読んでもらう約束をしている。


そのことを思い出すと少し緊張するけれど、今は焦らず、自分が納得できる物語を書きたいと思った。


◇


午後、悠真は自室の机で歴史写真の本を読んでいた。


窓から差し込む光は午前中よりも傾き、机の端へ細長い影を落としている。ページをめくる音だけが静かに響く中、悠真は古い街並みの写真に目を留めた。


写真には、今とは違う形の建物が並んでいた。


説明文を読むと、撮影された当時の街の様子が簡潔に記されている。ただし、すべての写真に詳しい撮影地点が示されているわけではなく、場所が分かるものと、説明が限られているものがあった。


悠真はその違いを見ながら、航平と調べている駅前写真について考えた。


古い資料を読むとき、写真の説明文だけで分かることには限界がある。建物の形や周囲の景色を見比べることはできても、それだけで撮影場所を断定できるとは限らない。


昨日、祖父が話していたことも思い出された。


写真に偶然写り込んだものが、あとから大切な手掛かりになることもある。


悠真は本を閉じず、手元のメモ帳を開いた。


そこには、航平と話した二つの候補地点について、まだ確認が必要な点が書かれている。


悠真は新しく、写真の周辺部分も丁寧に見直すという項目を書き加えた。


すぐに答えが見つかるとは思っていない。


けれど、調べ方を少し変えることで、これまで見落としていたことに気づけるかもしれなかった。


そのとき、スマートフォンが震えた。


画面を見ると、航平からメッセージが届いていた。


『悠真、昨日の表をもう一回見てたんだけど、地図と写真を比べるとき、建物の位置だけじゃなくて道の曲がり方も見た方がよさそうだな。まだどっちが正しいかは分からないけど』


悠真は思わず微笑んだ。


自分が考えていたことと、航平が気づいたことが少し重なっている。


『俺も似たことを考えてたよ。今日は古い写真の本を読んでいて、周りに写っているものも手掛かりになるかもしれないと思ったんだ。道の形も、次に資料を見るときに確かめてみよう』


送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『了解。次に一緒に見られるとき、候補を決めつけずに比べようぜ。俺ももう少し整理しとく』


悠真はその文章を読み、頷いた。


具体的にいつ集まるかは、まだ決まっていない。


けれど、調べる方向は少しずつ見えてきている。


悠真はスマートフォンを置き、再び本へ目を向けた。


答えが分からない時間にも、できることはある。


そのことを、今日の読書を通して改めて感じていた。


◇


彩花が午後の散歩へ出かけたのは、昼食を終えて少し休んでからだった。


母の紗月に近所を歩いてくると伝え、上着を羽織って家を出る。冬の空気は冷たいものの、日差しがあるため、歩いているうちに少しずつ体が温まってきた。


今日は通学路の方へ足を向けてみることにした。


学校へ行く日はいつも通る道だが、休日に歩くと、周囲の景色が少し違って見える。急いでいる人の姿は少なく、道沿いの家々からは穏やかな生活の気配が感じられた。


彩花は歩道の端をゆっくり進み、いつも見守っている蕾のある場所へ近づいた。


その植物は、今日も静かにそこにあった。


蕾の先は以前より少し緩んでいるように見えるが、花びらが大きく開いているわけではない。彩花は立ち止まり、近づきすぎない距離から様子を確かめた。


(まだ咲いてないね。でも、少しずつ変わってるのかな)


彩花はしばらく眺めたあと、目線を少し変えてみた。


いつもは通学途中に正面から見ることが多い。今日は時間に余裕があるため、歩道の位置を少し移動し、光の当たり方によって蕾がどう見えるのか確かめてみた。


すると、先端の形がいつもよりはっきり見える場所があった。


昨日までと比べて本当に変化しているのか、光の具合でそう見えるだけなのかは分からない。それでも、同じものを違う角度から眺めると、新しく気づくことがあるのだと感じた。


彩花はその場で小さく微笑んだ。


悠真にも、いつかこの花が咲いたことを伝えたい。


けれど、まだ咲いていない今の姿にも、見守る楽しさがある。


彩花はスマートフォンを取り出しかけたが、写真を撮る代わりに、しばらく自分の目で蕾を眺めることにした。


風が吹くと、細い枝がわずかに揺れた。


彩花はその動きを見届け、再び歩き始めた。


◇


散歩から帰ると、凛花が居間でメモ帳を開いていた。


テーブルには、昨日図書館で調べた内容を整理した紙が置かれている。凛花は部屋の窓から入る光を確認したあと、気づいたことを書き加えているところだった。


「おかえり、彩花。散歩、どうだった?」


「ただいま。気持ちよかったよ。いつもの通学路の方を歩いて、蕾も見てきたの」


「そっか。もう咲いてた?」


「ううん、まだ。でも、少しずつ開きそうな感じがして、見てると楽しいんだ」


彩花が答えると、凛花は穏やかに笑った。


「彩花、本当に毎日楽しみにしてるんだね」


「うん。最初は、いつ咲くのかなって思ってただけなんだけど、最近は少しずつ変わっていくのを見るのも好きになったみたい」


凛花はその言葉を聞き、手元のメモ帳へ視線を落とした。


「なんだか、私が植物を選ぶのと似てるかもしれないね。まだ何も決めてないのに、調べるのが楽しいんだもん」


彩花は頷き、姉の隣へ座った。


「お姉ちゃん、今日は置き場所を見てたんだよね。どうだった?」


「朝と午後で、思ったより明るさが違ったよ。だから、もう少し考えてみようかなって。置く場所が決まったら、育てやすいものを探したいんだ」


凛花はそう言って、今日書き加えたメモを見せた。


彩花は姉の説明を聞きながら、昨日の図書館での時間が少しずつ形になっていることを感じた。


まだ植物は決まっていない。


けれど、凛花がどんな場所で、どんなふうに育てたいのかは、以前よりはっきりしてきている。


彩花はその変化を嬉しく思いながら、姉としばらく話を続けた。


◇


夕方、悠真は居間へ下りると、琴葉が母の麗華と押し葉の本を見ているところに出会った。


テーブルには、以前から見比べている淡い色の紙の見本が置かれている。押し葉はまだ乾燥中で、今日は開いて確認する予定ではないらしい。


琴葉は本の中の写真を指さしながら、麗華へ何かを相談していた。


「お母様、この並べ方もかわいいと思うんだけど、葉っぱの形が違うと、少し難しいかな?」


「そうね。実際に乾いた葉を見てから考えた方がよさそうね。今は、どんな雰囲気にしたいか考えておくくらいでいいと思うわ」


麗華が答えると、琴葉は納得したように頷いた。


悠真が近づくと、琴葉は嬉しそうに顔を上げた。


「お兄様、見て。この本、葉っぱを並べた写真がたくさん載ってるの。昨日も少し見たけど、今日はお母様と一緒に考えてたんだ」


「そうなんだ。いろんな並べ方があるんだね」


悠真は本を覗き込み、葉の形や色によって印象が変わることに気づいた。


琴葉はまだ紙の色も配置も決めていない。けれど、実際に乾いた葉を見ながら考える日を楽しみにしているようだった。


「彩花さんにも、いつか見てもらいたいんだよね」


琴葉がそう言うと、悠真は微笑んだ。


「うん。彩花さんも楽しみにしてくれているよ。でも、まだ完成していないんだから、焦らなくていいと思う」


「分かってる。ちゃんと乾くまで待つよ」


琴葉は笑顔で答えた。


そのとき、足元にいたハクがゆっくり顔を上げた。琴葉が本を閉じる音に反応したらしく、尻尾を一度だけ動かしている。


「ハクも見たいの?」


琴葉が笑いながら話しかけると、ハクは穏やかな顔でこちらを見上げた。


麗華はその様子を見て微笑み、紙の見本を丁寧に片づけ始めた。


悠真は家族の穏やかな時間を眺めながら、彩花へ話したいことがまた一つ増えたように感じていた。


◇


夜になり、彩花は夕食と入浴を済ませて自室へ戻った。


机の上には、午前中に読み進めた小説が置かれている。今日は物語の中で幼なじみが再会するところまでは進まなかったが、主人公が故郷の街を歩きながら過去の思い出と向き合う場面が印象に残っていた。


彩花は本の表紙へ手を添え、少し考えた。


物語の中の人物たちは、長い時間を経て再び同じ街へ戻ってきている。


一方、自分と悠真は、出会ってから少しずつ関係を築いている途中だ。


状況は違うけれど、大切な相手と過ごした時間が心に残るというところには、どこか共通するものがあるのかもしれない。


彩花はスマートフォンを手に取り、悠真とのメッセージ画面を開いた。


昨日は図書館へ行ったことを伝えた。


今日は、読んでいる本のことや、散歩で見た蕾のことを話してみたい。


彩花は少し考え、文章を打ち始めた。


『悠真君、こんばんは。今日は借りている小説を少し読んだよ。まだ幼なじみの二人は再会してないんだけど、昔の街を歩きながら思い出を振り返る場面があって、なんだか印象に残ったの』


送信すると、彩花は椅子の背もたれへ軽く寄りかかった。


しばらくして、悠真から返事が届いた。


『こんばんは、彩花さん。少し読み進めたんだね。まだ二人は会っていないんだ。どんなところが印象に残ったの?』


彩花はその言葉を読み、嬉しくなった。


悠真は物語の結末を急いで尋ねるのではなく、彩花が何を感じたのかを聞いてくれている。


そのことが、彩花にはとても自然で、心地よかった。


『昔と今で街の景色が変わっていても、主人公にとって大切な場所は変わらず心に残ってるんだなって思ったの。悠真君と中央図書館へ行った日のことも、私はきっと長く覚えてるんだろうなって、少し考えちゃった』


送信したあと、彩花は頬が熱くなるのを感じた。


少しだけ踏み込んだことを書いてしまったかもしれない。


けれど、嘘ではなかった。


悠真と一緒に過ごした日曜日は、彩花にとって大切な思い出になっている。


そのことを、言葉にして伝えたかった。


◇


悠真は彩花からのメッセージを読み、しばらく画面を見つめていた。


中央図書館で過ごした日を、長く覚えていると思う。


彩花がそう伝えてくれたことが、胸の奥へ静かに響いた。


悠真にとっても、あの日は大切だった。


一緒に本棚を眺めたこと。


同じ場所で、それぞれの本を読んだこと。


帰り際に、また会いたいと思ったこと。


どれも特別な事件ではないけれど、思い出すたびに温かな気持ちになる。


(彩花さんも、同じように感じてくれているんだね)


悠真は少し考え、返信を打った。


『俺も、あの日のことはきっと長く覚えていると思うよ。彩花さんと一緒に本を見たり、静かに読書をしたりする時間が、俺にはとても大切だから』


送信すると、悠真は少しだけ息を整えた。


彩花と話していると、自分の気持ちを素直に伝えたくなることがある。


以前なら、楽しかったという言葉だけで済ませていたかもしれない。


けれど、今はもう少し具体的に伝えたいと思う。


彩花と過ごした時間が、どんなふうに自分の心へ残っているのか。


それを言葉にすることが、少しずつ自然になってきていた。


やがて、彩花から返信が届いた。


『ありがとう、悠真君。そう言ってもらえて嬉しいな。私も、悠真君と一緒に過ごす時間が大切だよ』


悠真はその文章を読み、静かに微笑んだ。


互いに同じ気持ちを伝え合えることが、こんなにも嬉しいのだと感じていた。


◇


そのあと、彩花は今日の散歩で見た蕾についても悠真へ伝えた。


まだ花は咲いていないこと。


見る角度によって、蕾の先が少し違って見えたこと。


そして、咲く日を待ちながら、今の姿を見守ることも楽しくなってきたこと。


悠真はその話を興味深そうに聞いてくれた。


『同じものでも、見る角度や光の当たり方で違って見えるんだね。今日は俺も写真の本を読んでいて、似たようなことを考えていたよ』


彩花はその返信に目を留めた。


『写真の本でも?』


『うん。古い建物の写真を見ていたんだけど、撮る角度によって形の見え方が変わることがあるんだ。航平と調べている駅前の写真も、まだ分からないことが多いから、周りに写っているものをもう少し丁寧に見てみようと思ってる』


彩花はその文章を読み、今日自分が蕾を見たときのことを思い出した。


同じ場所にあるものでも、見る位置を少し変えるだけで、気づくことがある。


悠真が調べている写真も、そうした小さな発見の積み重ねなのかもしれない。


『なんだか面白いね。私が蕾を見てたときと、悠真君が写真を見てたときで、少し似たことを考えてたんだ』


『本当だね。彩花さんの話を聞いて、俺も少し嬉しくなったよ』


悠真の返信を見て、彩花は微笑んだ。


今日は一緒に過ごしていない。


けれど、それぞれが違う場所で見つけたことを伝え合うと、思いがけない共通点が見つかる。


そのことが、彩花にはとても楽しかった。


◇


しばらく会話を続けたあと、悠真から琴葉の押し葉についての話が届いた。


『そういえば、今日は琴葉がお母様と押し葉の並べ方を考えていたよ。まだ葉は乾燥中で、紙の色も決めていないんだけど、いろんな写真を見ながら楽しそうにしていたんだ』


彩花はその文章を読み、嬉しくなった。


琴葉が押し葉を大切に作ろうとしていることは、以前から聞いている。


まだ完成していないけれど、少しずつ準備を進めている様子が伝わってきた。


『琴葉ちゃん、楽しそうだね。完成したら見せてもらえるのが楽しみだけど、作ってる時間もきっと楽しいんだろうな』


『うん。俺もそう思う。琴葉も、焦らずに決めたいみたいだよ』


彩花はその言葉を読み、姉の凛花のことを思い出した。


凛花も、まだ植物を選んでいない。


けれど、どこに置こうか、どんな世話が必要なのかを考える時間を楽しんでいる。


琴葉の押し葉も、同じなのかもしれない。


『お姉ちゃんもね、今日は部屋の日当たりをもう一度調べてたんだ。まだ植物は決まってないけど、すごく楽しそうだったよ』


彩花がそう送ると、悠真から返事が届いた。


『いいね。何かを決める前の時間も、大切なんだろうね』


彩花はその文章をゆっくり読んだ。


何かを決める前の時間。


その言葉は、今の自分たちにも少し当てはまるような気がした。


次に会う日は、まだ決まっていない。


けれど、いつかまた一緒に図書館へ行けることを楽しみにしている。


彩花は少し考え、返信を打った。


『うん。私も、次に悠真君と会う日を考える時間が楽しいよ。まだ決まってないけど、どんな本を見ようかなって思うだけで嬉しくなるの』


送信すると、彩花は胸の奥が温かくなるのを感じた。


すぐに返事が届く。


『俺も同じだよ、彩花さん。明日からまた学校だけど、お互いの予定を確認できたら、ゆっくり相談しようね』


彩花は微笑み、静かに頷いた。


約束は、まだ形になっていない。


けれど、互いに楽しみにしている気持ちは確かにある。


そのことが、今夜の彩花には何より嬉しかった。


◇


会話を終えたあと、彩花は葉模様の日記帳を開いた。


今日の出来事を振り返ると、朝から夜まで、いろいろな小さな発見があった。


凛花が植物の置き場所を考えていたこと。


借りている小説を読み進め、昔の街並みと大切な思い出について考えたこと。


創作ノートで、少女が祖母の道具を見つける場面を書き直したこと。


散歩へ出かけ、まだ咲いていない蕾を違う角度から眺めたこと。


そして、悠真と今日の出来事を伝え合い、思いがけない共通点を見つけたこと。


彩花はペンを動かしながら、今日一日を丁寧に思い返した。


同じものを見ても、見る角度によって違うことに気づく。


同じ場所へ行っても、一緒に過ごす相手によって違う思い出が生まれる。


そして、離れた場所で過ごしていても、似たことを考える瞬間がある。


彩花はそのことが、なんだかとても不思議で、嬉しかった。


『日曜日。借りている小説を少し読んで、昔の街と大切な思い出について考えた。午後は散歩をして、いつもの蕾を見てきた。まだ咲いていないけれど、見る角度によって違って見えることが面白かった。悠真君も今日は写真の本を読んで、似たことを考えていたみたい。違う場所で過ごしていても、同じような発見があるんだね』


そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。


そして、最後にもう一行を書き加えた。


『次に会う日を楽しみにできることも、今の私にとって大切な時間なんだと思う』


彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


明日は月曜日。


また学校が始まり、文芸部の冬の部誌についても、少しずつ作業が進んでいくだろう。


自分の創作ノートも、借りている小説も、まだ途中だ。


けれど、どれも急いで終わらせる必要はない。


彩花は窓の外へ目を向け、静かに微笑んだ。


◇


九条家では、悠真が寝る前に机の上を整えていた。


歴史写真の本は、今日も少し読み進めた。


航平と調べている駅前写真についても、まだ答えは出ていないが、次に確かめたいことが増えた。


琴葉の押し葉も、完成まではもう少し時間がかかりそうだ。


けれど、どれも少しずつ前へ進んでいる。


悠真はスマートフォンを手に取り、彩花とのメッセージを読み返した。


今日は互いに違う場所で過ごした。


彩花は小説を読み、散歩へ出かけ、蕾を眺めた。


悠真は歴史写真の本を読み、祖父と話し、航平と調べ物についてやり取りをした。


その中で、二人は似たことを考えていた。


同じものでも、見る角度を変えると違うことに気づける。


悠真はそのことを思い出し、静かに微笑んだ。


(彩花さんと話していると、自分が考えていたことも少し違って見えるんだよね)


彩花は、特別な答えを教えてくれるわけではない。


けれど、何気ない出来事を大切にしている。


道端の蕾が少し変わったこと。


家族と本を探したこと。


読んでいる小説の一場面が心に残ったこと。


そうした話を聞くたびに、悠真は自分の周りにもまだ気づいていないものがあるのではないかと思う。


そして、そのことを彩花へ伝えたくなる。


悠真は机の上の本へ目を向けた。


まだ読み終えていない歴史写真の本。


その中にも、次に彩花と話したくなるような発見があるかもしれない。


悠真は本を閉じ、部屋の明かりを落とした。


明日からまた学校が始まる。


航平との調べ物も、生徒会の活動も、少しずつ進めていくことになるだろう。


そして、彩花と次に会える日についても、予定を確かめながら相談できればいい。


そう考えると、月曜日を迎えることが少し楽しみになった。


冬の夜は静かに更けていく。


彩花と悠真は、今日もそれぞれ違う場所で過ごした。


けれど、互いに見つけた小さな発見を伝え合うことで、同じ時間を過ごしていない日にも、新しい思い出が生まれていた。


次に会う日は、まだ決まっていない。


それでも、二人の間には、少しずつ確かなものになっていく温かな気持ちがあった。


そして、その気持ちを胸に、二人はそれぞれの夜を穏やかに終えた。


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