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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第146話 月曜日の教室と、君に伝えたくなった何気ない一日


 月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には冬らしい薄い雲が広がっていた。昨夜のうちに降った雨の名残なのか、向かいの家の屋根にはわずかな水滴が残り、朝日を受けて淡く光っている。部屋の空気は冷たかったが、彩花は布団の中で少しだけ身体を伸ばすと、いつもよりすっきりした気持ちで起き上がった。


 昨日は日曜日だった。


 午前中には自分の物語を書き進め、午後は借りている小説を読み、夜には九条悠真とメッセージを交わした。土曜日に中央図書館で一緒に過ごした時間についても、まだ胸の奥に温かな余韻が残っている。


 彩花は机の上に置いた葉模様の日記帳へ目を向け、昨日書いた文章を思い出した。悠真と互いの好きなものをもっと知りたいと伝え合ったことは、特別に大きな約束を交わしたわけではないのに、今朝になっても嬉しさが薄れていなかった。


(悠真君、今日は生徒会の仕事もあるのかな。昨日はハク君と過ごしたって言ってたけど、学校ではどんな一日になるんだろう。私も、今日あったことを夜に話せたらいいな)


 彩花はそんなことを考えながら制服へ着替え、鏡の前で髪を整えた。


 以前は学校へ行く朝に、悠真がどんな一日を過ごすのかまで考えることは少なかった。けれど最近は、別々の学校に通っているからこそ、相手の毎日を想像する時間が増えている。


 そのことを不思議に思いながらも、彩花は自然と微笑んだ。


 階下へ下りると、台所から温かい味噌汁の香りが漂ってきた。母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は食卓で新聞を広げている。姉の凛花は窓際に立ち、外の天気を確かめていた。


「おはよう、お父さん、お母さん、お姉ちゃん」


「おはよう、彩花。今日は少し冷えるみたいよ」


 紗月が振り返ると、彩花は頷きながら席へ着いた。


「うん。窓の外も少し曇ってたね。昨日より寒そう」


「通学路もまだ湿っているところがあるかもしれないから、足元に気をつけてね」


 彩花は母の言葉に頷き、温かい味噌汁を口に運んだ。朝の冷えた身体へゆっくりと温かさが広がり、学校へ向かう準備が整っていくように感じられた。


 凛花は椅子へ座りながら、彩花の顔を見て少し笑った。


「彩花、今日はなんだか機嫌がいいね」


「そうかな?」


「うん。昨日も楽しそうだったけど、今日も朝から嬉しそうな顔してる」


 彩花は少しだけ頬を赤くした。


 特別なことをしているつもりはなかったが、姉には表情の変化が分かるらしい。


「昨日、悠真君といろいろ話せたからかな。お互いの好きなものをもっと知りたいねって話したの」


 凛花はその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「いいね。そういう話ができる相手がいるのって、素敵だと思うよ」


「うん。私も、そう思う」


 彩花は素直に頷いた。


 以前なら、こうした話を家族にするだけでも少し緊張したかもしれない。けれど今は、悠真との時間を大切に思っていることを、少しずつ自然に話せるようになっていた。


 耕助は新聞を畳み、娘へ目を向けた。


「好きなものを知るというのは、相手をよく見ることでもあるからな。何か特別なことをしなくても、普段の会話から分かることは多いと思うよ」


 彩花は父の言葉に頷いた。


 昨日、悠真がハクと庭で過ごす時間を大切にしていると話してくれたことを思い出す。大きな出来事ではないけれど、そうした何気ない時間を知ることで、悠真のことを少し近く感じられた。


「うん。私も、そういう時間を大切にしたいな」


 彩花が答えると、耕助は穏やかに微笑んだ。


 朝食の時間は、いつもどおり静かに流れていった。


     ◇


 通学路へ出ると、空気は思っていたより冷たかった。彩花はコートの襟元を整え、鞄の持ち手を握り直しながら歩道を進んだ。道端には昨夜の雨の名残があり、ところどころに小さな水たまりができている。


 いつもの住宅街を抜ける途中、彩花は道沿いの蕾がある場所へ目を向けた。


 小さな蕾は、今日もまだ開いていなかった。


 雨に濡れたせいか、表面が少し光って見える。彩花は歩道の端へ寄り、通行の邪魔にならない位置から静かに眺めた。


(今日もまだ咲いてないね。でも、雨のあとの蕾って、いつもと少し違って見えるな。悠真君が言ってたみたいに、見る角度や天気によって気づくことも変わるんだね)


 彩花は鞄から小さなメモ帳を取り出し、今日の日付を書き込んだ。


 蕾は未開花。


 昨夜の雨の影響で表面に水滴が残っている。


 はっきりした成長の変化は確認できない。


 彩花はその三つを短く記録し、メモ帳を閉じた。


 以前は、花が咲くかどうかだけを楽しみにしていた。けれど今は、蕾のまま過ごす時間にも、少しずつ興味が生まれている。


 そのことを考えると、昨日の創作ノートに書いた少女の姿が浮かんできた。


 祖母の使っていた園芸道具を手に取り、今の庭にある小さな芽を見つめる少女。


 彩花は、その場面をまだ完成させていない。


 けれど、今朝の蕾を見たことで、少女が庭へ向ける視線について、もう少し丁寧に考えてみたくなった。


 彩花は小さく微笑み、学校へ向かって歩き出した。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が朝の教室で手帳を開いていた。


 今日の授業予定と放課後の生徒会活動を確認し、必要な資料を机の中へしまう。週明けの教室には、休日の出来事を話す生徒たちの声が広がっており、窓際では数人が昨日の天気について話していた。


 悠真が手帳を閉じたところで、森川航平が教室へ入ってきた。


「悠真、おはよう。昨日はゆっくりできたか?」


 航平は鞄を机へ置きながら声をかけた。


「おはよう、航平。うん。昨日は家で本を読んだり、ハクと庭で過ごしたりしていたよ」


「そっか。土曜日は出かけてたんだし、日曜日くらいゆっくりするのもいいよな」


 航平はそう言って笑った。


 悠真は頷き、机の上に置いていた資料へ目を向けた。


「航平、駅前写真の調査なんだけど、昨日少し資料を見直してみたんだ。まだ新しい結論は出ていないけど、確認したいところがいくつか整理できたよ」


 航平は興味深そうに椅子へ座った。


「お、いいじゃん。どの辺り?」


「前に話していた二つの撮影地点の候補について、写真の年代と地図の年代をもう一度比べたいんだ。似ている建物があっても、同じ時期に存在していたかどうかを確かめないと、判断できないと思って」


 悠真が説明すると、航平は頷いた。


「確かに。写真と地図の時期がずれてるなら、そこを曖昧にしたまま決めるのは危ないな」


「うん。それに、前に航平が気づいてくれた写真の端の小さなものも、まだ何なのか分からないから」


 航平は少し考え、机の上へノートを広げた。


「看板かもしれないし、別の設備かもしれないってやつな。あれも、今の段階じゃ決めつけられない」


「そうだね。だから、今分かっていることと、まだ推測の段階のことを分けておきたいんだ」


 悠真がそう言うと、航平は満足そうに笑った。


「了解。じゃあ、今度時間があるときに一緒に整理しようぜ。今日は授業もあるし、無理に進めなくていいだろ」


「うん。ありがとう」


 悠真は微笑んだ。


 調査はまだ途中だ。


 けれど、急いで答えを出す必要はない。


 航平と一緒に確かめながら進めていけば、少しずつ分かることが増えていくだろう。


 そのことを考えると、悠真は昨日彩花と話した内容を思い出した。


 分からないことを、分からないまま大切にする。


 その姿勢は、古い写真の調査にも、植物の名前を調べることにも通じているように感じられた。


     ◇


 青葉高校の午前中の授業が終わると、彩花は教室で昼食の準備をしていた。


 窓の外には朝より明るい空が広がっており、校庭では体育の授業を終えた生徒たちが校舎へ戻ってくるところだった。廊下からは足音と話し声が聞こえ、教室にも昼休みらしい賑やかさが戻っている。


 彩花が弁当箱を開いたところで、近くの席にいた女子生徒が声をかけてきた。


「水瀬さん、週末は何してたの?」


 彩花は顔を上げ、少し考えてから答えた。


「土曜日は中央図書館へ行ってたよ。昔の街並みの本を見たり、植物の本を読んだりしてたの」


「へえ、楽しそう。中央図書館って、地域の資料も結構あるんだよね」


「うん。私も今回初めてじっくり見たんだけど、昔の青凪市の写真がたくさん載ってる本があって、面白かったよ」


 女子生徒は興味深そうに頷いた。


「昔の街並みかあ。今と比べてみると、意外と違うところが多そうだね」


「そうなの。建物の形も道路の幅も違っていて、同じ街なのに別の場所みたいに見える写真もあったよ」


 彩花はそう答えながら、昨日悠真と一緒に見た写真を思い出した。


 商店街の店先に並ぶ植木鉢。


 道を歩く人々の姿。


 昔の読書施設についての短い記述。


 どれも、今まで知らなかった青凪市の一面だった。


 女子生徒は弁当を食べながら、少し笑った。


「そういうの、誰かと一緒に見ると面白そうだね。一人だと気づかないところもありそう」


 彩花はその言葉に、自然と頷いた。


「うん。私もそう思ったよ。同じ写真を見ていても、気になるところが違うから、話してると新しい発見があるんだ」


 そう答えた瞬間、彩花は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 悠真の名前を出したわけではない。


 けれど、昨日一緒に過ごした時間を思い浮かべながら話していることが、自分でも分かった。


 女子生徒はそんな彩花の表情を見て、穏やかに微笑んだ。


「水瀬さん、本当に楽しかったんだね」


「……うん。すごく楽しかった」


 彩花は少し照れながらも、素直に答えた。


 以前なら、こうした気持ちを口にすることに迷いがあったかもしれない。


 けれど今は、楽しかったことを楽しかったと伝えることが、自然になってきている。


 その変化を、彩花自身も感じていた。


     ◇


 午後の授業が終わると、彩花は文芸部の部室へ向かった。


 廊下には放課後の生徒たちの声が広がり、運動部へ向かう生徒や帰宅する生徒が行き交っている。窓から差し込む冬の光は少し傾き始めており、校舎の床には長い影が伸びていた。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を広げていた。


「水瀬さん、お疲れさま。今日もよろしくね」


「お疲れさまです。よろしくお願いします」


 彩花は挨拶をし、鞄を所定の場所へ置いた。


 冬の部誌『いつか、ここに』については、先生から一部の確認事項に返事が届いているものの、全体の最終承認はまだ出ていない。


 そのため、今日も印刷へ進むことはできない。


 佐々木先輩は部員たちが集まるのを待ち、現在の状況を説明した。


「先生から、修正記録の書き方については確認をいただいています。ただし、部誌全体の最終承認については、まだ確認中とのことです。今日は、今までの記録に抜けがないかを見直しておきましょう」


 部員たちは頷き、それぞれ資料を手に取った。


 彩花も自分が担当している確認表を開き、変更箇所と確認日が正しく記録されているかを確かめ始めた。


 原稿そのものを勝手に書き換えることはしない。


 必要な修正が見つかった場合には、まず相談し、変更前と変更後の内容、理由、確認した人、日付を残す。


 その方針は、これまでの作業で共有されている。


 彩花は一つずつ記録を見直し、気になる箇所がないか確かめた。


 しばらくすると、近くで作業していた後輩が小さく声をかけてきた。


「水瀬先輩、少し聞いてもいいですか?」


「うん。どうしたの?」


 後輩は手元の確認表を示しながら、少し困ったように眉を寄せた。


「この欄なんですけど、修正した理由を書くときに、どこまで詳しく書けばいいのか迷ってしまって……。前に教えてもらったとおりに書こうと思ったんですけど、文章が長くなりすぎちゃって」


 彩花は後輩の資料へ目を向けた。


 そこには、変更した理由が丁寧に書かれていたが、確かに少し長くなっている。


 ただし、内容そのものが間違っているわけではなかった。


「ちゃんと理由を考えて書いてるのが分かるよ。まず、どこを変えたのかと、どうして変える必要があったのかが伝わればいいと思う」


 彩花はそう言いながら、資料の該当部分を指さした。


「例えば、この説明の中で一番大切なのは、表記をそろえるために確認したってことだよね。だったら、その理由を中心にして、必要な情報だけ残すと分かりやすくなるかもしれない」


 後輩は少し考え、頷いた。


「なるほど……。全部書こうとしなくても、確認する人が分かるようにまとめればいいんですね」


「うん。でも、勝手に内容を変えちゃうと困るから、迷ったところは佐々木先輩にも確認しようね」


 彩花がそう答えると、後輩は安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。少し整理してから、先輩にも見てもらいます」


 彩花は頷き、自分の資料へ視線を戻した。


 後輩へ説明しているうちに、自分自身も記録の目的を改めて考えることができた。


 ただ詳しく書けばいいわけではない。


 あとから確認する人が、何が起きたのかを正しく理解できるようにすることが大切なのだ。


 そのことを意識しながら、彩花は作業を続けた。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が生徒会室で資料の確認をしていた。


 週明けの生徒会活動では、各担当から提出された連絡事項を整理し、必要な確認を進めている。窓の外では冬の夕日が校舎を照らし、室内には紙をめくる音と、時折交わされる小さな会話が響いていた。


 悠真は手元の資料を読み、確認が必要な箇所へ印をつけた。


 作業自体は特別に難しいものではないが、複数の担当者が関わるため、内容を取り違えないように注意する必要がある。


 そのとき、近くで作業していた生徒が声をかけてきた。


「九条君、この連絡事項なんだけど、担当の先生への確認がまだ終わってないみたいなんだ。今日の記録にはどう書いておけばいいかな?」


 悠真は資料を受け取り、該当する欄を確かめた。


「確認待ちであることを明記しておこう。まだ返事が来ていないなら、決定事項として扱わない方がいいと思う」


「分かった。じゃあ、確認が必要な項目として残しておくね」


 生徒は頷き、資料を受け取った。


 悠真はその様子を見ながら、少しだけ微笑んだ。


 何かを進めるときには、分かっていることと、まだ分かっていないことを分けておく必要がある。


 それは、古い写真の調査でも、生徒会の仕事でも同じだった。


 そして、彩花が文芸部で取り組んでいる部誌の確認作業にも、似たところがあるのかもしれない。


(彩花さんも、今日は文芸部の活動があるのかな。部誌の準備、少しずつ進んでいるといいな)


 悠真はそう考えたが、すぐに手元の資料へ意識を戻した。


 彩花のことを思い浮かべる時間は嬉しい。


 けれど、今は自分が担当している仕事を丁寧に終えることが大切だ。


 悠真は残りの資料を確認し、必要な連絡事項を整理していった。


     ◇


 文芸部の活動が一段落した頃、佐々木先輩は部員たちへ声をかけた。


「今日はここまでにしましょう。確認表の整理は進んだけど、先生から最終承認が出るまでは印刷には進めません。何か新しく気になることが見つかったら、次の活動で共有してください」


 部員たちは頷き、資料を片づけ始めた。


 彩花も確認表を所定の場所へ戻し、鞄を手に取った。


 そのとき、佐々木先輩が近づいてきた。


「水瀬さん、さっき後輩に説明してくれてありがとう。落ち着いて話してくれていたから、あの子も安心したと思う」


 彩花は少し驚き、顔を上げた。


「いえ、私もまだ分からないことがあるので……。でも、少しでも役に立てたなら嬉しいです」


 佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。


「分からないことがあるって自覚してるのも大切だよ。何でも一人で決めようとしないで、必要なときに相談できるのはいいことだと思う」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 以前は、後輩に質問されると、自分がきちんと答えなければならないと思って緊張することがあった。


 けれど最近は、分かる範囲で丁寧に説明し、分からないことは一緒に確認すればいいと考えられるようになっている。


 その変化を、佐々木先輩も感じてくれているのかもしれない。


「ありがとうございます。これからも、ちゃんと確認しながら進めたいです」


「うん。よろしくね」


 佐々木先輩はそう言って微笑んだ。


 彩花は挨拶をして部室を出た。


 廊下には夕方の光が差し込み、窓の外では運動部の生徒たちが練習を続けている。


 彩花は鞄を持ち直し、校舎の出口へ向かった。


     ◇


 帰り道、彩花は朝に見た蕾のことを思い出していた。


 学校へ向かうときには、雨の水滴が残っていた。


 今は空が少し明るくなっており、風も朝より穏やかに感じられる。


 彩花はいつもの道を歩きながら、蕾のある場所へ近づいた。


 朝と同じように、歩道の端から静かに眺める。


 蕾は、まだ開いていなかった。


 けれど、朝に残っていた水滴はほとんど見えなくなっている。


 彩花はその違いに気づき、小さく微笑んだ。


(同じ日の朝と夕方でも、見え方が違うんだね。花が咲いてなくても、ちゃんと変わっているところがあるんだな)


 彩花はメモ帳を取り出し、朝の記録の下へ短い言葉を書き加えた。


 夕方には水滴がほとんど見えなくなっていたこと。


 蕾そのものの大きな変化は確認できないこと。


 そして、朝と夕方では光の当たり方が違っていたこと。


 書き終えると、彩花はメモ帳を閉じた。


 そのとき、ふと悠真へこのことを話したくなった。


 大きな発見ではない。


 けれど、昨日までなら自分の中だけで終わっていたかもしれない小さな出来事を、今は悠真にも伝えたいと思う。


 彩花はその気持ちを大切にしながら、家へ向かって歩き出した。


     ◇


 桜華学園高等部からの帰り道、悠真もまた、いつもの木の前で足を緩めていた。


 枝の先には、まだ開いていない小さな蕾が並んでいる。


 昨日は庭でハクと過ごしていたため、この木を直接見るのは金曜日以来だった。


 悠真は歩道の端から枝を見上げ、少し考えた。


 以前は蕾の形ばかり気にしていたが、土曜日に図書館で読んだ植物の本には、枝のつき方も見分ける手掛かりになると書かれていた。


 そのことを思い出し、悠真は枝の広がり方へ目を向けた。


 ただし、今見えている情報だけで種類を決めることはできない。


 悠真は無理に答えを出そうとはせず、気づいたことを手帳へ短く書き留めた。


(彩花さんと一緒に本を見たから、今まで気づかなかったところにも目が向くようになったんだね。次に話すとき、今日のことも伝えてみたいな)


 悠真は静かに微笑んだ。


 彩花と出会ってから、何気ない景色を見つめる時間が少しずつ増えている。


 それは、彼女が特別な何かを教えてくれたからだけではない。


 自分が見つけたものを、彩花にも話したいと思うようになったからだ。


 悠真は手帳を閉じ、帰路についた。


     ◇


 夕方、水瀬家へ帰宅した彩花は、母の紗月へ挨拶をしてから自室へ向かった。


 制服を着替え、机の上へ鞄を置くと、まず文芸部で使った確認表について手帳へ短く記録した。


 今日は後輩から質問を受け、修正理由の書き方について一緒に考えた。


 そのとき、自分が以前より落ち着いて説明できたことが、少し嬉しかった。


 彩花は手帳を閉じ、星模様の創作ノートを開いた。


 昨日書き進めた少女の物語が、机の上に広がる。


 祖母の使っていた園芸道具を手に取り、今の庭にある小さな芽を見つめる少女。


 その場面を読み返しながら、彩花は今日の通学路で見た蕾を思い出した。


 朝には水滴が残っていた。


 夕方には、その水滴がほとんど消えていた。


 蕾そのものは大きく変わっていない。


 けれど、同じものを見ていても、時間によって違う表情がある。


(少女も、毎朝庭を見ているんだよね。だったら、同じ花を見ていても、昨日と今日では感じ方が違うこともあるのかな)


 彩花はペンを取り、ノートの余白へ短い言葉を書き加えた。


 少女が見つめているのは、花が咲く瞬間だけではない。


 毎朝庭へ出ることで、祖母と過ごした時間を思い出しながら、今の自分の気持ちも少しずつ確かめている。


 その考え方が、物語の中で自然に伝わるようにしたい。


 彩花はしばらく文章を読み返し、少女の視線が庭の小さな芽へ向かう場面を少し修正した。


 まだ完成ではない。


 けれど、今日も少しだけ前へ進めた気がした。


     ◇


 夕食後、彩花は居間で凛花と少し話していた。


 凛花は植物についてのメモを整理しており、彩花は今日の通学路で見た蕾のことを話した。


「朝と夕方で、同じ蕾なのに見え方が違ったんだ。朝は雨の水滴が残ってたけど、帰りにはほとんど消えてたの」


 凛花は興味深そうに頷いた。


「そういう小さな違いって、毎日見てないと気づかないかもしれないね」


「うん。私も、前だったら気にしなかったと思う」


 彩花はそう答えながら、少し考えた。


 毎日同じ道を歩いている。


 けれど、見ているものは少しずつ変わっている。


 そのことに気づけるようになったのは、悠真と話す時間が増えたことも関係しているのかもしれない。


 凛花は妹の表情を見て、穏やかに微笑んだ。


「彩花、最近は本当にいろんなことを楽しそうに話すね」


「そうかな?」


「うん。前から本の話は好きだったけど、今は本以外のこともよく話してくれるようになった気がする」


 彩花は少し照れながら笑った。


「悠真君と話してると、いろんなことが気になるようになったからかな」


 凛花はその言葉に頷いた。


「それって、いい変化だと思うよ。誰かと話すことで、自分の世界が広がることもあるからね」


 彩花は静かに微笑んだ。


 昨日、悠真と交わした言葉が思い出される。


 もっと互いの好きなものを知りたい。


 その気持ちは、今日も変わっていなかった。


     ◇


 夜、彩花は自室で葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書こうとすると、思い出したいことがいくつも浮かんでくる。


 朝、家族と話したこと。


 通学路で蕾を見たこと。


 昼休みにクラスメイトと図書館の話をしたこと。


 文芸部で後輩へ説明したこと。


 そして、帰り道で朝とは違う蕾の姿を見つけたこと。


 彩花は一つずつ丁寧に書き留めた。


『月曜日。学校では文芸部の確認作業をした。後輩に説明する場面があって、少し緊張したけど、落ち着いて話せたと思う。先生からの最終承認はまだだけど、必要な準備を続けていきたい』


 そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。


 今日のことを、悠真にも話したい。


 そう思ったところで、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日は学校、どうだった? 俺は生徒会の仕事をしてから帰ってきたよ』


 彩花は自然と笑顔になった。


 まるで、自分が話したいと思ったことを、悠真も同じように考えてくれていたみたいだった。


『こんばんは、悠真君。今日は文芸部の活動があったよ。後輩から質問されて、一緒に確認表の書き方を考えたの。少し緊張したけど、ちゃんと説明できたと思う』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『それはよかったね。彩花さんが丁寧に考えていることが、後輩にも伝わったんじゃないかな』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が頑張ったことを、悠真が自然に受け止めてくれる。


 そのことが嬉しかった。


『ありがとう。佐々木先輩にも、落ち着いて説明できてたって言ってもらえたんだ。まだ分からないこともあるけど、少しずつできることが増えてる気がする』


『うん。分からないことを一緒に確認できるのも、大切なことだと思うよ。俺も今日は生徒会で、まだ確認が終わっていない連絡事項を整理していたんだ』


 彩花はその文章を読み、少し驚いた。


 自分たちは別々の学校で、違う活動をしている。


 けれど、今日取り組んでいたことには、どこか似たところがある。


『なんだか、私たち似たようなことをしてたんだね。分かってることと、まだ確認が必要なことを分けるのって、大切なんだなって思ったよ』


『本当だね。彩花さんの話を聞いて、俺もそう思ったよ』


 彩花は微笑み、スマートフォンを持ち直した。


 今日の小さな出来事が、悠真との会話につながっている。


 そのことが、嬉しかった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読みながら、静かに微笑んでいた。


 彩花は文芸部で後輩へ説明し、少しずつ自信をつけているらしい。


 その話を聞いて、悠真は嬉しくなった。


 彩花が自分の学校で頑張っていることを、こうして知ることができる。


 別々の場所で過ごしていても、互いの一日を少しずつ共有できることが、今では大切な時間になっていた。


 悠真はスマートフォンを手に取り、もう一通メッセージを送った。


『そういえば、今日は帰り道で例の木を見てきたよ。まだ蕾は開いていなかったけど、土曜日に一緒に植物の本を見たから、枝のつき方にも目が向くようになったんだ』


 彩花からの返事は、すぐに届いた。


『本当? 私も今日、通学路の蕾を見てきたよ。朝は雨の水滴が残ってたけど、帰りにはほとんど消えてたの。花はまだ咲いてないけど、朝と夕方で違うところが見つかって嬉しかった』


 悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。


 彩花も、今日の小さな変化を見つけていた。


 同じ場所にいなくても、似たようなことを考えている。


 そのことが、嬉しかった。


『彩花さんらしい発見だね。俺も、花が咲くまでの時間を楽しみたいと思うようになったよ』


『うん。私もそう思う。いつか咲いたら、悠真君にも話したいな』


『楽しみにしているよ。俺の方も、何か分かったら伝えるね』


 悠真はそう返信し、少しだけ考えた。


 今日、彩花と話しているのは、学校での出来事と、帰り道の蕾のことだけだ。


 けれど、その何気ない会話が、悠真にはとても大切だった。


 昨日、互いの好きなものをもっと知りたいと伝え合った。


 そして今日は、別々の場所で過ごした一日を、少しずつ話している。


 その積み重ねが、二人の関係を自然に深めているように感じられた。


     ◇


 彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳へ視線を戻した。


 今日の最後に、もう一つ書きたいことがあった。


『夜、悠真君と学校での出来事を話した。別々の学校で過ごしているのに、似たようなことを考えていたのが嬉しかった。通学路の蕾の話もできて、今日の小さな発見を伝えられたことが楽しかった』


 彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 土曜日に一緒に過ごした時間は、確かに特別だった。


 けれど、今日のように別々の学校で過ごした一日を話す時間も、同じくらい大切に感じられる。


 悠真が何をしていたのかを知ること。


 自分が何を感じたのかを伝えること。


 その一つひとつが、少しずつ積み重なっていく。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートも、まだ完成していない。


 文芸部の冬の部誌も、先生からの最終承認を待っている。


 借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 そして、通学路の蕾も、まだ開いていない。


 けれど、どれも少しずつ進んでいる。


 彩花はそのことを思いながら、部屋の明かりを落とした。


     ◇


 同じ頃、悠真も自室で明日の予定を確認していた。


 火曜日には通常の授業があり、生徒会の活動も続く。


 航平と進めている古い駅前写真の調査についても、次に時間が合うときに資料を整理するつもりだった。


 ただし、撮影地点の候補はまだ二つのままで、確かな結論は出ていない。


 悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。


 今日も、彩花と話す時間があった。


 学校での出来事も、帰り道の小さな発見も、互いに伝え合うことができた。


 その時間が、悠真には嬉しかった。


(彩花さんと話していると、何気ない一日も大切に思えるんだね。明日も、自分の一日をちゃんと過ごして、また話せたら嬉しいな)


 悠真はカードを元の場所へ戻し、部屋の明かりを消した。


 月曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 彩花と悠真は、それぞれの家で今日の出来事を振り返りながら、静かに眠りについた。


 土曜日に一緒に見つけた景色は、月曜日の何気ない日常にもつながっていた。


 同じ場所にいなくても、互いの一日を知りたいと思う気持ちは続いている。


 そして、今日もまた、二人の間には小さな思い出が一つ増えていた。


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