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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第136話 金曜日の放課後、それぞれの場所で見つけた次の約束への一歩



 金曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの向こうから差し込む光は昨日より明るく、布団の中で耳を澄ませると、窓の外から小鳥の鳴き声がかすかに聞こえてくる。冬の冷たい空気はまだ部屋に残っていたが、昨日の曇り空とは違う一日が始まりそうだった。


 枕元の時計を確かめてから、彩花はゆっくりと上半身を起こした。今日は金曜日で、学校へ行けば週末がやってくる。普段なら休日に読みたい本や書きたい物語のことを考えるところだが、今朝はそれに加えて、昨夜悠真と交わしたメッセージが頭に浮かんでいた。


(また会いたいって、ちゃんと伝えられたんだよね。悠真君も同じように思ってくれていたのが、すごく嬉しかったな)


 彩花は布団の端を握りながら、昨日のやり取りを思い返した。日曜日に中央図書館で過ごした時間が楽しかったこと、また一緒に本を見たり話したりしたいこと、そしてお互いの予定を確かめてから次に会う日を考えようと話したこと。そのどれもが特別に大げさな言葉ではなかったのに、思い出すだけで頬が緩んでしまう。


 次に会う日付は決まっていない。場所も、何をするかも、まだ何一つ具体的には決めていなかった。


 それでも、彩花にとっては十分に嬉しい出来事だった。自分だけが次の時間を楽しみにしているのではないと分かったことで、これまで少し遠慮していた気持ちを、前よりも素直に受け止められるようになった気がする。


 ベッドから下りた彩花は、窓辺へ歩いてカーテンを開いた。青空には細い雲がいくつか浮かび、朝日を受けた近所の屋根が柔らかく輝いている。庭の木々はまだ冬の姿だったが、枝先へ目を向けると、昨日見守っていた通学路の蕾のことが自然に思い出された。


(今日は、昨日よりはっきり見えるかな。花が咲くまではまだ時間がかかるかもしれないけど、毎朝見に行くのが楽しみになってる)


 机の上には、星模様のノートと葉模様の日記帳が並んでいる。昨夜、彩花は自分の物語を少し書き進め、少女が祖母との思い出を胸に庭の植物を見守る場面を整えていた。


 祖母へ宛てた手紙は、まだ二行だけだ。


 けれど、少女がどうしてその言葉を書いたのかについては、以前より少し理解できたように思う。手紙の続きを急いで書くより、少女が庭で過ごした時間を丁寧に積み重ねることが、今は大切なのだろう。


 彩花はノートの表紙をそっと撫でると、制服へ着替えるために立ち上がった。


 今日は学校でどんなことがあるだろう。


 帰り道では蕾を確かめたいし、文芸部の冬の文集についても何か連絡があるかもしれない。夜には、悠真が航平と進めている昔の駅前写真の調査について、話を聞けるだろうか。


 そんなことを考えながら身支度を整えているうちに、彩花の胸には、金曜日を迎えたときの軽やかな気持ちが広がっていった。


     ◇


 水瀬家の朝食の席では、父の耕助が週末の天気について話していた。


「今朝はよく晴れているね。昨日はずいぶん雲が多かったけれど、今日は日差しがあるぶん、昼間は少し過ごしやすそうだ」


 耕助が窓の外へ目を向けると、母の紗月も頷いた。台所から運ばれてきた温かなスープの湯気が食卓の上に立ち上り、焼いたパンの香りが部屋に広がっている。


「そうね。でも朝晩は冷えるみたいだから、彩花も凛花も帰りが遅くなるなら気をつけてね。日が落ちると、急に寒く感じるでしょう」


「うん、ありがとう。今日は学校が終わったら、寄り道しないで帰るつもりだよ」


 彩花が答えると、向かいに座っていた凛花が顔を上げた。


「彩花、今日もあの蕾を見てくるの?」


「うん。昨日は先のところが少し開いているように見えたから、今日も確かめたいなって思ってるの」


「そっか。昨日より変わってたらいいね。でも、変わってなくても、ちゃんと見てると面白いことがありそう」


 凛花はそう言って笑ったあと、自分の手元に置いていた小さなメモ帳へ目を落とした。


 姉はここ数日、部屋に置く植物について調べている。まだ購入するものは決まっておらず、置き場所の日当たりや育て方を確認している段階だが、調べるほどに気になることが増えているらしい。


「お姉ちゃんの植物は、候補が決まりそう?」


「いくつか気になるものはあるんだけど、もう少し調べてからにするよ。せっかく育てるなら、部屋に合っていて、ちゃんと世話できるものがいいからね」


 凛花はメモ帳を閉じ、少し考えるように続けた。


「それに、図書館で本を見てから決めるのも楽しそうだなって思ってるんだ。彩花が教えてくれた園芸の棚、まだ行けてないでしょう?」


「うん。今度一緒に行こうね。私も、どんな本があるのかもう少し見てみたいな」


 二人の会話を聞いていた紗月が、微笑みながら果物の皿を置いた。


「二人で図書館へ行くのもいいわね。凛花が植物を選ぶとき、彩花も一緒に考えてあげられそうだし」


「私も楽しみ。でも、育てるのはお姉ちゃんだから、最後はお姉ちゃんが好きなものを選んでほしいな」


「もちろん。彩花にも相談するけど、自分でちゃんと決めるよ」


 凛花の返事に、彩花は嬉しくなって笑った。


 図書館へ行きたい理由が、また一つ増えた気がする。姉と園芸の本を探す時間も楽しそうだし、悠真と一緒に本棚を眺める時間も、できればまた作りたい。


 ただ、二つの予定を無理に一度へまとめる必要はない。凛花にも悠真にも、それぞれの都合があるのだから、落ち着いて考えていけばよいだろう。


 彩花はそんなことを思いながら朝食を終え、食器を片づけた。


 玄関で靴を履くと、紗月がマフラーの端を整えてくれた。いつもと変わらない母の仕草に少し照れながらも、彩花は「行ってきます」と笑顔で告げ、明るい冬の朝へ踏み出した。


     ◇


 桜華学園高等部へ向かう車の中で、九条悠真は今日の予定を確認していた。


 午前中には通常の授業があり、午後の授業が終わったあとには、森川航平と昔の駅前写真について資料を見直す約束がある。生徒会で急ぎの用事が入らなければ、放課後の時間を使って落ち着いて確認できるはずだった。


 窓の外では、朝日を受けた街路樹がゆっくりと後方へ流れていく。悠真はその枝先へ目を向けながら、昨日帰り道で見つけた芽のようなものを思い出した。


(彩花さんは今日も蕾を見に行くんだろうな。昨日は少し開いているように見えたって言っていたけど、今日はどうなんだろう)


 昨夜、彩花は花が咲いたら悠真にも教えたいと言ってくれた。


 その言葉を思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。彼女が毎日見守っているものの変化を、自分にも伝えたいと思ってくれていることが、悠真には嬉しかった。


 そして、もう一つ。


 昨夜は、また会いたいという気持ちを互いに伝え合うことができた。


 彩花から届いた返信を読んだときの嬉しさは、今朝になっても薄れていない。彼女も日曜日の時間を楽しかったと思ってくれていて、次に会える日を一緒に考えたいと言ってくれた。


(予定を確かめるって伝えたんだから、まずは自分の方を整理しておこう。彩花さんに聞くときも、無理に急がせないようにしたいな)


 悠真は予定帳を開き、学校と家庭の用事を確かめた。


 週末に必ず外せない予定があるかどうかは、家族にも確認しておきたい。生徒会の活動についても、今後の予定を確認してからでなければ、安易に空いているとは言えないだろう。


 だから、今日の時点で具体的な日付を提案するつもりはなかった。


 けれど、彩花と過ごしたい時間について考えること自体が、すでに楽しみになっている。


 中央図書館で本を読むのもいいし、以前のように街を歩きながら話すのもいい。どちらにしても、彼女が何をしたいと思っているのかを聞きながら決めたい。


 悠真は予定帳を閉じ、窓の外へ視線を戻した。


 冬の街はいつもどおりに動いている。


 それでも、自分にとっての金曜日は、昨日までとは少し違って感じられた。


     ◇


 青葉高校へ向かう途中、彩花はいつもの植え込みの前で足を緩めた。


 通学する生徒たちが歩道を進んでいくなか、彩花は人の流れを妨げない場所へ寄り、枝先にある小さな蕾を見つめた。昨日は雲の多い空の下で見たため、今日は朝日が当たる位置を確かめながら、慎重に観察する。


 蕾はまだ閉じているように見えた。


 ただ、先端の部分には昨日と同じような細い隙間があり、その周りが少し明るく見える。花びらなのか、蕾を包んでいる部分なのかまでは分からなかったが、彩花は昨日の自分が気になった理由を、少しだけ理解できた気がした。


(昨日の光のせいだけじゃなかったのかもしれない。でも、まだ咲いてはいないんだね)


 彩花は鞄からメモ帳を取り出した。


 昨日の記録を開くと、朝と夕方の観察について書いた短い文章が並んでいる。そこへ今日の日付を添え、朝日が当たる状態で見ても先端に細い隙間があるように見えたことを書き加えた。


 その途中で、彩花は少しだけ手を止めた。


 昨日より大きくなった、と書こうとしていたのだ。


 けれど、実際に大きさを測ったわけではない。昨日の記憶だけを頼りにしている以上、そう断定するのは少し違う気がした。


 彩花は書きかけた言葉を消し、見たままのことだけを残すことにした。


(分からないことは、分からないままでいいんだよね。明日も見られたら、そのときまた考えよう)


 メモ帳を閉じると、朝の光が枝の間から差し込み、蕾の小さな影を浮かび上がらせた。


 彩花はその様子をもう一度眺めてから、学校へ向かって歩き出した。


 今日も大きな変化はなかった。


 それでも、昨日とは違う光の中で同じものを見ることができた。それだけで、朝の短い時間が少し豊かになったように感じられた。


     ◇


 青葉高校の午前中、彩花は授業の合間に文芸部の佐々木先輩から声をかけられた。


 廊下の窓際で、先輩は数枚の確認用資料を手にしていた。冬の文集『いつか、ここに』について、印刷へ向けた最終確認の進め方を整理しているらしい。


「水瀬さん、ちょっといいかな。昨日までに確認していた文集の件なんだけど、最後の引き渡し前に、もう一度全体を見直す時間を取ろうと思ってるの」


 佐々木先輩は穏やかな口調で説明し、手元の資料を軽く揃えた。


「大きな問題が見つかったわけじゃないんだけどね。本文と目次の対応とか、表紙の表記とか、最後に確認しておきたいところがあるでしょう。印刷へ渡してから気づくより、今のうちに見ておいた方が安心だから」


「はい。私も、最後まできちんと確認したいです」


 彩花は頷いた。


 冬の文集は、部員たちがそれぞれ時間をかけて作ってきたものだ。自分の作品だけでなく、ほかの部員の文章も一冊に収められるのだから、印刷前の確認は大切な作業になる。


 佐々木先輩は彩花の返事を聞き、少し安心したように笑った。


「ありがとう。今日は全員が揃う活動日じゃないから、正式な確認は次に集まれるときにしようと思ってる。日程は先生とも相談してから連絡するね」


「分かりました。私も、確認が必要なところを整理しておきます」


「助かるわ。急いで完成させたい気持ちもあるけど、ここまで来たからこそ丁寧に進めたいの」


 その言葉に、彩花は深く頷いた。


 佐々木先輩と別れたあと、彩花は教室へ戻りながら、文集が完成したときのことを想像した。


 まだ実際の本にはなっていない。


 けれど、何度も確認してきた原稿が一冊にまとまる日が、少しずつ近づいている。


(完成したら、きっと嬉しいだろうな。みんなで作ったものだから、最後まで大切にしたい)


 彩花は席へ戻り、次の授業の準備を始めた。


 窓の外では、朝から続く青空が広がっていた。


     ◇


 桜華学園では、午前の授業を終えた悠真が、教室で航平と昼食を取っていた。


 航平は鞄から小さな資料袋を取り出し、中に入れた写真の複写とメモを確かめている。昨日のうちに整理してきたらしく、以前よりも紙の並びが分かりやすくなっていた。


「悠真、今日の放課後だけど、まずはこの二つを見比べたいんだ。撮影場所の候補として考えてるところを、別々に整理してみた」


 航平は声を少し落とし、資料袋の端を指で押さえた。


「ただ、片方が正しいっていう決め手はまだない。昨日も写真を見てたんだけど、屋根の形だけで判断するのは危ない気がしてさ」


「うん。候補を分けて考えるのはいいと思う。どちらにも当てはまる情報と、どちらかだけに当てはまる情報を整理できれば、次に何を調べればいいか見えてくるかもしれないね」


 悠真が答えると、航平は少し表情を明るくした。


「それなんだよ。今までは、こっちかな、いやこっちかもって考えてばっかりだったからさ。今日は答えを決めるんじゃなくて、比べるための表を作ってみようと思う」


「いいね。撮影された年代もまだ分からないから、建物の形が違って見える理由も一つとは限らないし」


 悠真は写真へ目を向けた。


 古い駅前の風景には、現在とは違う建物の並びが写っている。写真の端に見える屋根や道路の向きから撮影地点を推測しているが、角度の違いによって印象が変わるため、簡単には判断できない。


 航平は資料を袋へ戻しながら、少し照れくさそうに笑った。


「こういうの、最初はすぐ分かると思ってたんだよな。昔の写真なんだから、今の場所と比べれば見つかるだろうって。でも実際にやってみると、思ってたよりずっと難しい」


「そうだね。でも、難しいからこそ面白いところもあると思うよ。今まで気づかなかったことが、一つずつ見えてくるから」


「悠真、最近そういう言い方するよな」


 航平の言葉に、悠真は顔を上げた。


「そうかな?」


「うん。前から丁寧に考える方だったけど、最近は答えが出ない時間も楽しそうにしてる気がする。図書館でいろんな本を見てるからかな」


 航平はからかうような口調ではなく、純粋に気づいたことを話している様子だった。


 悠真は少し考えたあと、自然に微笑んだ。


「そうかもしれないね。彩花さんと話していると、何かをすぐに決めなくても、見ている時間そのものに意味があるんだって感じることがあるから」


「なるほどな。じゃあ、今日の資料整理にも役立ってるわけだ」


「うん。航平が調べていることにも、少し似ていると思うよ」


 航平は嬉しそうに頷き、昼食へ戻った。


 悠真は友人の様子を見ながら、彩花との出会いが自分の日常へ与えている影響を改めて感じていた。


 彼女と過ごす時間だけが特別なのではない。


 彼女と話したことが、別の場所で誰かと向き合うときにも、自然に思い出されるようになっている。


 その変化を、悠真は大切にしたいと思った。


     ◇


 昼休みの青葉高校では、田辺大地が友人たちと地域の祭りについて話していた。


 彩花が教室へ戻ると、田辺は机の上に置いた資料を見ながら、少し困ったような顔をしている。以前提出した祭りの会場の変遷についての調査を、改めて読み返しているところらしかった。


「田辺君、何か気になるところがあったの?」


 彩花が尋ねると、田辺は顔を上げた。


「ああ、水瀬さん。いや、提出した内容をもう一回見てたんだけど、調べたことを短く説明するのって難しいなと思ってさ」


 田辺は資料の一部を指で示した。


「昔と今で祭りの会場がどう変わったかっていうのは調べられたんだけど、その理由まで全部分かったわけじゃないんだ。発表することになったら、そこをどう話せばいいのか考えてて」


「まだ発表する人は決まってないんだよね?」


「うん。選ばれるかどうかはこれから。でも、もし選ばれたら、分からないことを分かったみたいに話すのは違うだろうなって」


 彩花はその言葉に頷いた。


 今朝、蕾の観察についてメモを取ったとき、自分も同じようなことを考えていた。見たことと、そこから想像したことは、きちんと分けておいた方がよい。


「調べて分かったことと、まだ分からないことを分けて話したらどうかな。田辺君がどこまで調べたのかも伝わると思うし、聞く人も続きを考えやすい気がする」


 彩花が答えると、田辺は少し考えるように資料へ目を落とした。


「そっか。分からないところを隠すんじゃなくて、ここまでは分かったって説明すればいいのか。そう考えたら、少し整理しやすそうだな」


「うん。私も、調べたことをまとめるときはそうしたいなって思う」


「ありがとう、水瀬さん。発表することになったら、その辺も意識してみるよ」


 田辺は笑顔で資料を揃えた。


 彩花は自分の席へ戻りながら、昔の駅前写真を調べている航平と悠真のことを思い出した。


 扱っている題材は違うけれど、分からないことを一つずつ確かめようとしている点では似ているのかもしれない。


 ただ、田辺の調査と航平の調査を結びつけられるような情報があるわけではない。彩花はそれぞれが自分の興味を大切にしていることを、素敵だと思った。


     ◇


 午後の授業が終わる頃、青葉高校の窓から見える空には、薄い雲が増え始めていた。


 彩花はノートを閉じ、黒板の最後の内容を確かめてから帰り支度を始めた。今日は文芸部の集まりが予定されていないため、放課後は自宅で過ごすつもりだった。


 教室を出る前に、午前中に佐々木先輩から聞いた文集の話を思い返す。


 次の確認日程は、まだ決まっていない。


 それでも、最後に確認するべきことを整理しておけば、集まったときに落ち着いて作業できるだろう。彩花は鞄の中のメモ帳へ、目次と本文の対応、表紙の表記、原稿の最終確認という項目を書き加えた。


 そのあと、友人たちへ挨拶して校舎を出た。


 外では冬の風が吹いていたが、朝よりも日差しが柔らかく感じられる。彩花はマフラーを整え、いつもの通学路を歩き始めた。


 植え込みの近くまで来ると、朝と同じ枝先を探す。


 小さな蕾は、今日もそこにあった。


 夕方の光の中では、先端の細い隙間が朝より少しはっきり見えるような気がした。けれど、それが実際に広がったためなのか、光の当たり方によるものなのかは判断できない。


 彩花はしばらく観察したあと、鞄からメモ帳を取り出した。


『金曜日の夕方。先端の隙間が朝より見えやすい。まだ開花はしていない』


 そこまで書いてから、彩花はペンを止めた。


 昨日までは、花が咲くかどうかばかりを気にしていた気がする。


 けれど、今日は少し違った。


 蕾の形を確かめるために立ち止まり、昨日の記録と比べる時間そのものが楽しかった。まだ答えが出ていなくても、今日見つけたことを残しておけば、次に見るときの楽しみが増える。


(少女が庭を見に行くのも、こんな気持ちなのかな。何かが変わるのを待っているだけじゃなくて、今日の様子を知りたいから、また見に行くんだね)


 彩花はメモ帳を閉じた。


 星模様のノートに書いている少女の気持ちが、少しだけ身近になったように感じられる。


 もちろん、自分が感じたことをそのまま少女へ当てはめればよいわけではない。少女には祖母と過ごした時間があり、その思い出を通して庭を見つめている。


 彩花はその違いを大切にしながら、今日の気づきを物語へ生かせたらいいと思った。


 帰り道を歩き始めると、冬の風が髪の端を揺らした。


 今夜、悠真へ蕾のことを話すのが楽しみだった。


     ◇


 桜華学園の放課後、悠真と航平は校内の落ち着いて資料を広げられる場所へ移動していた。


 机の上には、航平が持参した古い駅前写真の複写と、これまでに調べた内容をまとめたメモが並んでいる。窓から差し込む午後の光が紙の端を照らし、少し離れた場所からは、部活動へ向かう生徒たちの足音が聞こえていた。


 航平は二枚のメモを並べ、鉛筆を手に取った。


「じゃあ、まずは候補を分けてみるか。今のところ、撮影場所として考えてるのはこの二つなんだけど、どっちも決め手がないんだよな」


「うん。最初に、写真から確かに読み取れることを書き出してみよう。そのあとで、それぞれの候補と合うところを比べれば、思い込みで判断しにくくなると思う」


 悠真の提案に、航平は頷いた。


 二人は写真を机の中央へ置き、建物の屋根の形、道路の向き、写真の端に写っている構造物などを一つずつ確認していった。


 最初に航平が注目したのは、駅舎の近くに見える屋根の傾きだった。


「ここ、今までずっと同じ建物だと思ってたんだけどさ。よく見ると、屋根の端が少し違うようにも見えるんだ」


 航平が指し示した部分を、悠真も注意して眺めた。


 複写された写真は細かな部分まで鮮明に写っているわけではない。影になっている箇所もあり、屋根の形が違って見える理由が、建物そのものにあるのか、撮影角度によるものなのかは判断しにくかった。


「確かに、少し違って見えるね。でも、写真の角度が変われば、同じ屋根でも形が違って見えるかもしれない」


「そうなんだよ。だから、ここだけで場所を決めるのはやめた方がいいと思ってる」


 航平はメモの一部に印を付けた。


 続いて二人は、道路の向きと建物の位置関係を確かめた。


 写真に写っている道が、現在のどの道に対応するのかはまだ分からない。昔と今では街並みが変わっている可能性があるため、現代の地図へそのまま当てはめることもできなかった。


 悠真は資料を見ながら、少し考え込んだ。


「航平、この二つの候補について、今の段階で確かに言えることは何だろう」


「うーん……どちらも、写真の建物の並びと似ているところがある。でも、全部が一致しているわけじゃない、かな」


「そうだね。じゃあ、似ているところと、まだ説明できないところを分けておこう。そうすれば、次に資料を探すときも、どこを確かめればいいか分かりやすくなると思う」


 航平はその提案を聞き、表の欄を増やした。


 二人で作った整理表には、候補ごとの一致点と疑問点が少しずつ書き込まれていく。すぐに結論へ近づくわけではなかったが、これまで頭の中で曖昧になっていたことが、紙の上ではっきり分かれていった。


 しばらく作業を続けたあと、航平は椅子の背へ軽く体を預けた。


「なんか、思ってたより整理できたな。場所はまだ分からないけど、何が分からないのかは前よりはっきりした気がする」


「うん。今日はそれだけでも十分進んだと思うよ」


 悠真は表を見つめながら答えた。


 写真の撮影地点も、年代も、まだ確定していない。


 けれど、二つの候補を比べるために必要な情報が整理できたことで、次に何を調べるべきかが少し見えてきた。


 航平は鉛筆を置き、窓の外へ目を向けた。


「最初はさ、今日こそ場所が分かるかもしれないって期待してたんだ。でも、こうやって考えてみると、分からないままでも前へ進めるんだな」


 その言葉に、悠真は微笑んだ。


「そうだね。無理に答えを決めてしまうより、今分かっていることを大切にした方が、あとで確かめやすいと思う」


「うん。次は、撮影された時期の手がかりも探してみたいな。年代が少しでも絞れれば、建物のことも調べやすくなるかもしれない」


「それはよさそうだね。ただ、写真だけで分からないこともあるから、ほかの資料が見つかるかどうかも考えてみよう」


 航平は頷き、整理表を見直した。


 すぐに答えが出なかったことを残念がる気持ちは、もうあまり強くないようだった。


 むしろ、次に調べたいことが見つかったことで、少し楽しそうに見える。


 悠真はそんな友人の変化を嬉しく思いながら、資料の片づけを手伝った。


     ◇


 資料を片づけ終えた頃には、窓の外の光が少し傾いていた。


 航平は整理表を資料袋へ入れ、忘れ物がないことを確かめている。悠真も机の上を見回し、使った筆記具を鞄へ戻した。


「今日はありがとう、悠真。一人だったら、また同じところで悩んでたと思う」


「俺も面白かったよ。航平がここまで調べてきたから、整理することができたんだと思う」


 悠真が答えると、航平は少し照れたように笑った。


「そう言ってもらえると嬉しいな。まだ答えは出てないけど、せっかくだから最後まで調べてみたい」


「うん。無理のない範囲で続けよう。俺も、また時間が合えば一緒に考えたいよ」


 二人は廊下へ出て、校舎の出口へ向かった。


 放課後の校内には、部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒たちの姿がある。階段の近くでは友人同士が週末の予定について話しており、その声が廊下へ明るく響いていた。


 航平はその様子を見ながら、ふと思い出したように悠真へ尋ねた。


「そういえば、悠真。週末は何か予定があるのか?」


 悠真は少し考えた。


 学校の用事については、まだ確認しておきたいことがある。家族の予定も、帰宅してから確かめるつもりだった。


「まだ全部は決まっていないんだ。家に帰ってから、少し確認しようと思ってる」


「そっか。俺も家の用事があるかもしれないから、調べ物の続きはまた学校で相談しよう」


「うん。それがいいと思う」


 悠真は頷いた。


 航平はそれ以上尋ねず、話題を今日の資料整理へ戻した。


 友人と別れて帰路につく頃、悠真は昨夜の彩花とのやり取りを思い出していた。


 また会いたいという気持ちは、互いに伝え合えた。


 けれど、次の約束を決めるためには、自分の予定を確かめなければならない。


(今日、家族に聞いてみよう。彩花さんにも予定があるから、すぐに決められなくても大丈夫だけど、まずは自分の方を整理しておきたいな)


 悠真はそんなことを考えながら、冬の夕方の街を眺めた。


     ◇


 彩花が帰宅した頃、水瀬家の居間には柔らかな夕日が差し込んでいた。


 紗月は台所で夕食の準備を進めており、凛花は机の上に植物の資料を広げている。彩花が「ただいま」と声をかけると、二人は顔を上げて迎えてくれた。


「おかえり、彩花。今日は学校どうだった?」


 紗月の問いに、彩花は鞄を置きながら答えた。


「うん、いつもどおりだったよ。でも、文芸部の冬の文集について、佐々木先輩から少しお話があったの」


「そうなの。何か決まったの?」


「最後の確認をもう一度することになりそう。まだ日程は決まってないけど、印刷へ渡す前に、目次とか表紙の表記とかをちゃんと見直そうって」


 彩花が説明すると、紗月は安心したように頷いた。


「丁寧に進めているのね。みんなで作ったものだから、完成したときはきっと嬉しいでしょうね」


「うん。私も楽しみなんだ」


 彩花は微笑んだ。


 凛花も資料から顔を上げ、興味深そうに尋ねた。


「彩花、完成したら家でも見せてくれる?」


「もちろん。まだいつ完成するかは分からないけど、できたら見てほしいな」


「楽しみにしてるね。彩花が一生懸命取り組んでるの、見てたから」


 姉の言葉に、彩花は少し照れながら頷いた。


 文集の原稿を考えていた時間や、部員たちと確認を重ねてきたことを思い出すと、完成がますます楽しみになる。


 けれど、まだ印刷へ渡したわけではない。


 今は最後の確認を丁寧に進めることが大切だろう。


 彩花はそう考え、上着を片づけるために自室へ向かった。


     ◇


 自室へ戻った彩花は、机の上に鞄を置き、今日のメモ帳を開いた。


 朝と夕方に観察した蕾についての記録が、昨日の文章の下に続いている。短い言葉ではあるが、二日分を並べて読むと、自分がどんなところに目を向けていたのかが分かる。


 彩花はそのページをしばらく眺めてから、星模様のノートを取り出した。


 昨日、少女が庭の植物を見つめながら、祖母との思い出を振り返る場面を書いた。


 今日は、その続きを少し考えたい。


 少女は庭へ出るたびに、何か大きな変化を探しているわけではない。祖母と一緒に過ごした場所を、今も自分の目で確かめたいと思っている。


 その気持ちを文章にするため、彩花は前に書いた部分をゆっくり読み返した。


 少女がしゃがみ込み、葉の向きや土の色を眺める場面。


 祖母が以前、植物を観察するときには急いで答えを決めなくてもよいと教えてくれたこと。


 そして、昨日と同じように見える庭を、今日も見に来てよかったと思う気持ち。


 彩花はそこまで読んでから、ペンを手に取った。


(少女は、祖母に何を伝えたいんだろう。花が咲きそうなことだけじゃなくて、自分が毎日庭を見ている理由も、少しずつ分かってきたのかな)


 少女の手紙には、まだ二行しか書かれていない。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 彩花はその二行を読み返した。


 最初に書いたときは、少女が庭の変化を祖母へ知らせたいのだと思っていた。


 けれど、今は少し違う。


 少女は、祖母と過ごした時間を覚えているからこそ、毎朝庭へ出ているのかもしれない。変わっていく植物を見ることで、祖母が教えてくれたことを思い出し、今もその時間が自分の中に残っていると感じているのだろう。


 彩花は新しい文章を書こうとして、いったんペンを止めた。


 その気持ちを、すぐに手紙の三行目へ書き込む必要はない。


 少女が庭で過ごす時間をもう少し描いてからでも、遅くはないと思った。


 彩花は手紙の部分には触れず、その前の場面へ短い文章を加えることにした。


 少女は、祖母が以前使っていた小さな道具を見つめる。


 それは特別に高価なものではなく、庭の手入れをするときに何度も使われていたものだった。持ち手には長く使った跡があり、少女はそこに触れるたび、祖母が庭で笑っていた姿を思い出す。


 彩花はそこまで書き、少し考えた。


 道具の細かな形や置き場所は、まだ決めなくてもよい。


 今大切なのは、少女にとって何でもないものが思い出につながっていることだ。


 彩花は文章を読み返し、少女の動作と気持ちが自然につながるように整えた。


 しばらくして、ノートを閉じる。


 今日も大きく進んだわけではない。


 それでも、少女の気持ちが少しずつ見えてきたことに、彩花は満足していた。


(悠真君に読んでもらうのは、まだ先になりそう。でも、完成したときにちゃんと自分の言葉で書けたって思えるようにしたいな)


 彩花はノートを机の端へ置き、夕食までの時間を静かに過ごすことにした。


     ◇


 九条家へ戻った悠真は、玄関で琴葉とハクに迎えられた。


 琴葉は居間から出てきたところらしく、手には植物についての本を持っている。ハクは悠真の姿を見つけると、嬉しそうに尻尾を揺らしながら近づいてきた。


「おかえりなさい、お兄様。今日は少し遅かったね」


「ただいま、琴葉。今日は航平と学校で資料を見直していたんだ。昔の駅前写真について、分かっていることを整理してきたよ」


「そうなんだ。写真の場所は分かったの?」


 琴葉が興味深そうに尋ねると、悠真は首を横へ振った。


「まだ分からないよ。でも、次に何を調べればいいか、少し整理できたんだ」


「そっか。じゃあ、また調べるんだね」


「うん。航平も楽しそうだったから、俺もまた一緒に考えたいと思ってる」


 悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに頷いた。


 居間へ入ると、テーブルの端には押し葉について考えるための紙の見本が置かれていた。以前見ていた淡い色の紙もあるが、まだどれを使うかは決まっていないらしい。


「琴葉、押し葉の方はどう?」


「まだ乾かしてる途中だよ。今日は本で、葉っぱの形を見てたの。押し葉ができたら、どんなふうに並べようかなって考えてるところ」


 琴葉は本を開き、いくつかの葉の形を見せてくれた。


「この葉っぱは細長いでしょう。でも、こっちは丸くて、端が少し違うの。並べるときも、形が見やすい方がいいかなって」


「なるほど。色だけじゃなくて、形も大切なんだね」


「うん。でも、まだ決めてないよ。ちゃんと乾いてから、実際に見て考えたいから」


 悠真は妹の言葉に微笑んだ。


 琴葉もまた、完成を急がずに待っている。


 乾燥させている葉を無理に取り出すことなく、今できることを楽しんでいる様子だった。


「彩花さんも、完成したら見てみたいって言ってくれていたね」


 悠真がそう話すと、琴葉はぱっと表情を明るくした。


「うん! だから、きれいにできたらいいなって思ってるの。でも、まだどうなるか分からないから、ちゃんと乾くまで待つね」


「そうだね。琴葉が大切に作っているものだから、焦らずに考えればいいと思うよ」


 琴葉は嬉しそうに頷き、ハクの背中を撫でた。


 悠真はその様子を見守りながら、自分も彩花との次の約束を急がずに考えたいと思った。


     ◇


 夕食の席で、悠真は家族に週末の予定について尋ねた。


 父の正樹は仕事の予定を確認しており、母の麗華は琴葉の話を聞きながら食事を進めていた。祖父の俊治も同席していて、悠真が予定帳を開いたことに気づくと、穏やかに顔を向けた。


「悠真、何か予定を考えているのかい?」


「はい。まだ具体的には決まっていないのですが、学校の用事と家の予定を確認しておきたくて」


 悠真は少し姿勢を正して答えた。


「彩花さんと、また都合が合う日に会えたらいいねと話しているんです。ただ、お互いに予定がありますから、先に自分の方を確かめておこうと思いました」


 麗華はその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。


「そうなのね。日曜日の図書館、とても楽しかったみたいだったものね」


「はい。彩花さんと一緒に本を見たり、話したりする時間が、とても楽しかったです」


 悠真は素直に答えた。


 正樹は予定を確かめながら、落ち着いた口調で言った。


「家族全員で出かける予定については、今のところ新しく決まったものはない。ただ、仕事の都合で変更があるかもしれないから、必要なことがあればその都度確認してほしい」


「分かりました。ありがとうございます」


 悠真が頷くと、麗華も続けた。


「悠真自身の学校の予定もあるでしょう。無理のない日を考えて、彩花さんにも都合を聞いてみるといいわ」


「はい。そうしようと思っています」


 そのやり取りを聞いていた琴葉が、少し身を乗り出した。


「お兄様、また彩花さんと図書館へ行くの?」


「まだ場所は決めていないよ。でも、また一緒に本を見られたら嬉しいと思ってる」


「そっか。もし会えたら、またよろしくって伝えてね」


 琴葉は嬉しそうに笑った。


 俊治は孫たちの会話を聞きながら、穏やかに頷いている。


「楽しみにしている時間があるのは、いいことだね。ただ、相手にも自分にも都合がある。二人で無理なく決められるなら、それが一番だろう」


「はい。僕もそう思います」


 悠真は祖父の言葉を受け止め、予定帳を閉じた。


 具体的な日付を決めるには、まだ確認が必要だ。


 けれど、家族に話せたことで、次の約束を考えるための一歩を踏み出せた気がした。


     ◇


 夜、水瀬家では夕食を終えた彩花が、居間で紗月と凛花の会話を聞いていた。


 凛花は週末の予定について考えているらしく、植物の資料を広げながら、図書館へ行くならいつがよいだろうと話している。ただし、まだ具体的な日付は決めていないようだった。


「彩花、図書館へ行くときは、また相談してもいい?」


「もちろん。お姉ちゃんが行きたい日が決まったら教えてね。私も予定を確かめるから」


 彩花が答えると、凛花は少し不思議そうに顔を上げた。


「彩花も何か予定があるの?」


 その問いに、彩花は一瞬だけ言葉を止めた。


 悠真とまた会いたいと話していることを、家族へ隠す必要はない。けれど、まだ具体的な約束になっていないため、どう説明すればよいか少し迷った。


「まだ決まってないんだけど……悠真君と、また都合が合う日に会えたらいいねって話してるの」


 彩花はそう答え、手元のカップへ視線を落とした。


 凛花は一瞬目を丸くしたあと、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「そうなんだ。日曜日、すごく楽しそうだったもんね」


「うん。図書館で一緒に本を見たり、お話ししたりできて、すごく楽しかったの」


 彩花が答えると、紗月も穏やかに微笑んだ。


「それなら、また会えるといいわね。でも、予定を決めるときは、二人とも無理をしないようにね」


「うん。悠真君も、急いで決めなくていいって言ってくれたよ」


「そう。お互いに相手のことを考えながら決められるなら、安心ね」


 紗月の言葉に、彩花は頷いた。


 凛花は少し考えたあと、資料を閉じた。


「じゃあ、私の図書館の予定も、急いで決めなくていいね。彩花と一緒に行ける日があれば嬉しいけど、別の日でも大丈夫だし」


「ありがとう、お姉ちゃん。でも、私も一緒に行きたいから、ちゃんと相談しようね」


「うん。約束ね」


 凛花は笑顔で頷いた。


 彩花はその様子を見ながら、家族との時間も、悠真との時間も、どちらも大切にしたいと思った。


 誰かと会いたい気持ちが増えたからといって、ほかの大切な時間が減ってしまうわけではない。


 それぞれの予定を考えながら、無理なく過ごせる日を見つけていけばよいのだろう。


 彩花はそう思い、温かいお茶を一口飲んだ。


     ◇


 自室へ戻った彩花は、机の上に置いていた読みかけの小説を手に取った。


 日曜日に中央図書館で読み進め、そのあと木曜日にも少しだけ読んだ本だ。


 物語の中では、故郷へ戻った幼なじみの一人が、昔の待ち合わせ場所の近くで相手の背中を見つけている。しかし、名前を呼ぶ直前でためらってしまい、二人はまだ言葉を交わしていない。


 彩花はしおりを挟んだページを開いた。


 続きが気になっていたが、今日は少し落ち着いて読む時間がある。


 物語の中で、名前を呼べずにいた人物は、相手が歩き出そうとするのを見ていた。


 今声をかけなければ、また会えなくなるかもしれない。


 けれど、久しぶりに会う相手が自分をどう思っているのか分からず、足がすくんでしまう。


 彩花はその場面を読みながら、胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。


(会いたかった人が目の前にいるのに、声をかけられないんだね。でも、久しぶりだからこそ、怖くなることもあるのかな)


 小説の人物たちは、長い時間を別々に過ごしてきた。


 彩花と悠真のように、普段からメッセージを交わせる関係ではない。


 だからこそ、相手が今どんな気持ちでいるのか分からず、再会を喜んでもらえるかどうかさえ不安なのだろう。


 彩花は少しだけページを進めた。


 相手が歩き出す前に、名前を呼ぼうとする。


 けれど、声はまだ届かない。


 その場面で、彩花は本を閉じた。


 続きを読みたい気持ちは強かったが、今日はここまでにしておこうと思った。


 物語の二人が再会するとき、どんな言葉を交わすのだろう。


 昔と同じように笑えるのか、それとも、長く離れていた時間を感じるのか。


 その答えを、急いで知る必要はない。


 彩花はしおりを挟み直し、本を机へ置いた。


 そして、ふと昨夜の悠真とのやり取りを思い出した。


 自分は、また会いたいという気持ちを伝えられた。


 悠真も同じように思ってくれていた。


 それがどれほど嬉しいことなのか、小説を読んでいるうちに、改めて感じられた。


(次に会ったとき、きっと少し照れちゃうかもしれない。でも、楽しみだな)


 彩花は小さく微笑み、スマートフォンへ目を向けた。


 そろそろ悠真へ今日のことを話してみたい。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は学校の課題を終え、机の上を片づけていた。


 航平と整理した昔の駅前写真のメモは、必要なところだけ確認できるようにまとめてある。今日の作業で撮影場所や年代が分かったわけではないが、次に調べたいことが整理できたため、悠真は充実した気持ちでいた。


 机の引き出しには、彩花から受け取った淡い青色の花柄のカードが大切にしまわれている。


 悠真はそのカードを取り出し、静かに眺めた。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 その二行を読むたびに、悠真は彩花と過ごした時間を思い出す。


 中央図書館で一緒に本を読んだこと。


 彼女が好きな物語について話してくれたこと。


 何でもない街の風景を、以前よりも丁寧に見るようになったこと。


 そして、昨夜はまた会いたいという気持ちを伝え合えた。


(彩花さんと出会ってから、いろんなことが楽しみになったな。次に会うときも、彼女が好きなものを一緒に見られたら嬉しい)


 悠真はカードを元の場所へ戻した。


 次の約束を考えるとき、何か特別な場所を用意しなければならないとは思わなかった。


 彩花と一緒に過ごせることが、何より大切だったからだ。


 ただ、彼女にも行きたい場所や、やりたいことがあるかもしれない。


 だからこそ、まずは聞いてみたい。


 悠真はスマートフォンを手に取り、彩花へメッセージを送った。


『彩花さん、こんばんは。今日も学校お疲れさま。今日は航平と昔の駅前写真について資料を整理してきたよ。場所はまだ分からないけど、次に何を調べればいいか少し見えてきたんだ』


 送信すると、悠真は椅子へ深く座り直した。


 少しして、彩花から返信が届いた。


『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。航平君との調べ物、進んだんだね。まだ場所は分からなくても、次に調べることが見つかったのは嬉しいね』


 悠真はその文章を読み、自然に笑顔になった。


『うん。航平も楽しそうだったよ。彩花さんは、今日はどうだった?』


 しばらくして、彩花から返信が届いた。


『私は今日も蕾を見てきたよ。朝も夕方も見たんだけど、先のところに細い隙間があるように見えたの。まだ花は咲いてないけど、昨日より少し分かりやすかった気がする』


 悠真はその言葉をゆっくり読んだ。


 昨日から気にしていた蕾を、彩花は今日も見守っていた。


 まだ花は咲いていない。


 けれど、彼女にとっては、その小さな変化を確かめる時間が大切なのだろう。


『そうなんだね。毎日見ているからこそ、気づけることがあるんだろうね。花が咲く日が、俺も楽しみだよ』


 送信すると、彩花からすぐに返事が届いた。


『ありがとう。咲いたら、きっとすぐ悠真君に話したくなると思う』


 悠真はその文章を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彩花が何かを見つけたとき、自分へ伝えたいと思ってくれる。


 そのことが、何より嬉しかった。


     ◇


 彩花は悠真からの返信を読み、少しだけ頬を緩めた。


 今日見た蕾のことを話すだけで、こんなにも楽しい気持ちになるとは思わなかった。


 自分が大切にしている小さな出来事を、悠真も一緒に楽しみにしてくれる。


 その安心感が、彩花には嬉しかった。


 スマートフォンを手にしたまま、彩花は昨夜のやり取りを思い出した。


 また会いたいという気持ちは、すでに伝え合っている。


 けれど、次の予定についてはまだ何も決まっていない。


 今日、家族にも少し話してみた。


 凛花と図書館へ行く予定もあるが、そちらも日付は未定だ。


 彩花は少し考え、悠真へ新しいメッセージを送ることにした。


『そういえば、悠真君。昨日話してた次に会う日のことなんだけど、私も家で少し予定を確認してみたよ。まだ決まってないこともあるけど、また一緒に図書館へ行けたら嬉しいなって思ってるの』


 送信したあと、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 少しだけ緊張していた。


 昨夜も会いたいと伝えたのに、今日も同じようなことを話している。


 けれど、今度は少しだけ具体的な気持ちを伝えられた。


 中央図書館へ、また一緒に行きたい。


 その希望を、悠真に知ってもらいたかった。


 しばらくして、返信が届いた。


『彩花さん、ありがとう。俺も今日、家族に予定を確認してみたよ。まだ学校の予定も確かめたいけど、また中央図書館へ行けたら嬉しいと思ってる。彩花さんと一緒に本を見たり、話したりする時間が好きだから』


 彩花はその文章を読み、思わずスマートフォンを両手で持ち直した。


 悠真も、また中央図書館へ行きたいと思ってくれていた。


 しかも、一緒に本を見たり話したりする時間が好きだと、はっきり書いてくれている。


(……悠真君も、同じなんだ)


 胸の奥が温かくなり、頬が少し熱くなる。


 彩花は画面を見つめたまま、しばらく返事を考えた。


 嬉しい気持ちを、どう伝えればよいだろう。


 大げさな言葉にする必要はない。


 今感じていることを、そのまま伝えればよいのだと思った。


『私もだよ、悠真君。日曜日に一緒に本を読んだ時間が、今もすごく楽しかったなって思い出すの。だから、また都合が合う日を一緒に考えられたら嬉しい』


 送信すると、彩花は小さく息を吐いた。


 まだ次の約束は決まっていない。


 それでも、昨日より少しだけ具体的な話ができた。


 そのことが、嬉しかった。


     ◇


 悠真は彩花から届いた返信を読み、静かに微笑んだ。


 日曜日に中央図書館で過ごした時間を、彼女も今も思い出してくれている。


 そのことが、想像していた以上に嬉しかった。


 悠真は予定帳を開き、週末と翌週の欄を見直した。


 学校の予定について、まだ確認しておきたいことがある。彩花にも文芸部や家族との予定があるだろう。


 だから、今夜すぐに日付を決める必要はない。


 ただ、次に会うときに何をしたいかを、少しずつ話してみるのは楽しそうだった。


『ありがとう、彩花さん。俺も楽しみにしているよ。予定がはっきりしたら、また相談しよう。今度は彩花さんが気になっている本も、一緒に見られたら嬉しいな』


 悠真はそう送信した。


 少しして、彩花から返事が届いた。


『うん。私も、悠真君が気になっている本を見てみたいな。お互いに好きな本を紹介し合うのも楽しそうだね』


 悠真はその提案を読み、自然に笑顔になった。


 前回は昔の閲覧室を写した写真や、彩花が読んでいる小説について話した。


 次は、まだ知らない本を一緒に探すのも楽しそうだ。


 ただし、どの本を見るかは、そのときの気分で決めてもよい。


 図書館には、まだ二人が知らない本がたくさんあるのだから。


『それは楽しそうだね。彩花さんと一緒なら、今まで気づかなかった本にも出会えそうな気がするよ』


 送信すると、悠真はスマートフォンを机へ置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 次の約束は、まだ日付も場所も確定していない。


 けれど、また一緒に中央図書館へ行きたいという希望は、二人の間で少しずつ形になり始めていた。


     ◇


 彩花は悠真からのメッセージを読み、机の上に置いた本へ目を向けた。


 まだ読み終わっていない幼なじみの小説。


 星模様のノートに書いている、自分だけの物語。


 そして、中央図書館に並ぶ、まだ知らないたくさんの本。


 そのどれもが、今は少し違って見える。


 悠真と一緒に本を探す時間を想像すると、知らない本に出会うことまで楽しみになってくる。


(次に図書館へ行けたら、どんな本を見ようかな。悠真君が選ぶ本も、もっと知りたいな)


 彩花は小さく微笑み、スマートフォンを置いた。


 今夜はこれ以上、予定について話を進めなくてもよいだろう。


 お互いの気持ちは、ちゃんと伝わっている。


 あとは、それぞれの予定を確かめながら、無理のない日を探していけばよい。


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