第135話 木曜日の小さな発見と、君と過ごす次の時間を考える理由
木曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。昨日のような明るい青空ではなく、冬の朝らしい白っぽい光がカーテンの隙間から差し込んでいる。枕元の時計を確かめると、目覚ましが鳴るまでにはまだ少し時間があったが、彩花はそのまま起きることにした。
布団から出ると、足元に冷たい空気が触れた。昨日よりも部屋の温度が低いように感じられ、彩花は肩をすくめながら上着を羽織る。窓辺へ歩いてカーテンを開くと、庭木の枝が弱い風に揺れていた。
(今日は曇ってるんだね。昨日より寒そうだけど、雨は降るのかな)
彩花は窓の外をしばらく眺めたあと、机へ視線を移した。
星模様のノートは昨夜閉じたままの状態で置かれている。その隣には葉模様の日記帳があり、昨日の出来事を書き留めたページには、通学路の蕾についての短い記録が残っていた。
昨日、彩花は物語の中の少女が祖母へ手紙を書く理由について、一つの考えにたどり着いていた。
少女は、何か特別な変化を見つけるためだけに庭へ出ているのではない。祖母と過ごした時間を覚えているからこそ、今も同じように植物を見守っているのかもしれない。
その気づきを、彩花はノートの余白に書き留めている。
『変わらない日も、見に行く理由がある』
彩花はその言葉を思い出しながら、机の前へ座った。
ノートを開いてみたい気持ちはあったが、朝の準備を考えると、ゆっくり文章を書く時間はない。少しだけ読み返してから学校へ行くこともできるが、急いで続きを考えようとすれば、昨夜見つけた気持ちを十分に確かめられないように思えた。
(帰ってきてから、落ち着いて考えよう。今はまだ、少女が何を伝えたいのかを大切にしたいから)
彩花はノートへ手を伸ばさず、制服へ着替えることにした。
鏡の前で髪を整え、鞄の中身を確かめる。教科書やノート、筆記具を揃えたあと、昨日使った小さなメモ帳も入れた。
そこには、学校で思いついたことや、帰り道で気づいたことを書き留めている。
今日も何かを見つけられるかもしれない。
そう考えたところで、彩花はふと悠真のことを思い出した。
昨夜、彼は帰り道の街路樹に小さな芽のようなものを見つけたと話していた。何の木なのかは分からないものの、彩花が通学路の蕾を見守っていることを思い出し、自分も少し気になったらしい。
今日も同じ道を通ると言っていたから、また見てみるのだろうか。
(悠真君、今日は何か見つけるかな)
自分の通学路にある蕾も、昨日は大きな変化がなかった。
今日も同じかもしれないし、少し違って見えるかもしれない。
彩花はそのどちらでも楽しみだと思いながら、鞄を持って階下へ向かった。
◇
水瀬家の食卓には、温かなスープと焼いたパンが並んでいた。
母の紗月は台所で果物を切っており、父の耕助は新聞を畳んでいる。姉の凛花はすでに席へ着いていて、彩花が入ってくると、少し眠そうな顔で微笑んだ。
「おはよう、彩花。今日は昨日より寒いね。窓を開けたら、思ったより冷たい空気が入ってきてびっくりしちゃった」
「おはよう、お姉ちゃん。私もそう思ったよ。今日はマフラーをしっかり巻いていこうかな」
「それがいいと思う。昼間もあまり暖かくならないみたいだし」
凛花の言葉に、彩花は頷いた。
椅子へ座ると、紗月がスープを運んできてくれた。器から立ち上る湯気を見ているだけで、冷えていた指先が少し温かくなるように感じられる。
「彩花、今日は文学部の活動があるの?」
紗月が尋ねた。
「今日は特別な活動の予定はないよ。昨日、文集の確認をしたから、次の連絡を待つことになると思う」
「そうなのね。印刷の準備も、少しずつ進んでいるみたいね」
「うん。でも、まだ正式に渡したわけじゃないから、最後までちゃんと確認したいな」
彩花が答えると、紗月は穏やかに頷いた。
冬の文集『いつか、ここに』は、本文や表紙の確認を重ねながら完成へ近づいている。しかし、印刷へ向けた正式な引き渡しはまだ終わっていない。
ここまで進めてきたからこそ、最後の手続きを急がず、部員たちと確認していきたい。
彩花はそう考えていた。
その話が一段落したところで、凛花が昨日整理した植物の資料について話し始めた。
「私もね、候補を少し絞ってみたんだ。でも、まだ買うものは決めてないよ。置く場所の日当たりをもう少し見てからにしようと思って」
「そうなんだ。お姉ちゃん、ちゃんと考えてるんだね」
「最初は、気に入ったものをすぐ買いたいって思ってたんだけどね。調べてみたら、長く育てるためには先に考えておいた方がいいこともあるんだなって」
凛花は少し照れたように笑った。
耕助は二人の会話を聞きながら、温かな茶を飲んでいた。
「植物も本も、手に入れたら終わりではないからね。凛花が大切に育てたいと思っているなら、選ぶ時間も意味があるんじゃないかな」
「うん。そう思うことにしたよ」
凛花は頷き、彩花へ顔を向けた。
「図書館へ行くときは、また相談させてね。彩花が日曜日に教えてくれた園芸の棚、私も見てみたいから」
「もちろん。一緒に行ける日を考えようね」
彩花は微笑んで答えた。
日曜日、悠真と中央図書館で過ごした時間を思い出す。
あの日は、昔の閲覧室を写した写真を一緒に眺めたり、読みかけの小説について話したりした。
何か大きな出来事があったわけではない。
それでも、今も思い出すたびに嬉しくなる。
(また、悠真君と図書館へ行きたいな)
そう考えたところで、彩花は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
次に会う約束は、まだ決まっていない。
けれど、会いたいと思う気持ちは、日曜日から少しずつ強くなっているように思えた。
彩花はその気持ちを胸の奥へしまい、朝食を食べ進めた。
◇
家を出た彩花は、曇り空の下を学校へ向かって歩いていた。
冬の冷たい空気が頬に触れ、マフラーの端が風に揺れる。歩道には通学途中の学生たちがいて、信号の前では何人かが肩を寄せながら寒そうにしていた。
彩花は周囲の人の流れを確かめ、いつもの道を進んだ。
しばらくすると、通学路の植え込みが見えてきた。
昨日も一昨日も足を止めた場所だ。
彩花は通行の邪魔にならない位置へ移動し、枝先を眺めた。
小さな蕾は、今日も同じ場所にあった。
曇り空の下では昨日より色が少し暗く見えたが、それが蕾そのものの変化なのか、光の違いによるものなのかは分からない。
彩花は少し顔を近づけるようにして眺めたあと、ゆっくり息を吐いた。
(……今日は、先のところが少し違うように見えるけど)
昨日は閉じているように見えた先端の部分に、わずかな隙間があるような気がした。
しかし、彩花はすぐに花が咲き始めたとは考えなかった。
昨日の見え方を正確に覚えているわけではないし、曇り空の光によって影の形が違って見えている可能性もある。
それでも、気になったことは確かだった。
彩花は鞄から小さなメモ帳を取り出し、短く書き留めた。
『木曜日。蕾の先が少し開いて見えた。光の違いかもしれないので、明日も確かめたい』
書き終えると、彩花はメモ帳を閉じた。
昨日と同じように見える部分もあれば、少し違って見える部分もある。
どちらが正しいのかを急いで決めなくても、今日見たことを残しておけば、明日また比べられる。
(こういうの、ちょっと楽しいな)
彩花は微笑み、もう一度蕾を見つめた。
まだ花は咲いていない。
けれど、その小さな蕾を見守る時間が、少しずつ自分の朝の楽しみになっていた。
彩花は学校へ向かって歩き始めた。
今日のことも、夜になったら悠真へ話してみたい。
そんな思いが、自然に胸の中へ浮かんでいた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が朝の準備を終えたところだった。
教室には登校してきた生徒たちの声が響いている。悠真は机の上に教科書とノートを揃え、今日の授業予定を確かめた。
「おはよう、悠真」
声をかけてきたのは航平だった。
「おはよう、航平。今日は少し寒いね」
「本当にな。朝、外へ出たときにびっくりしたよ。昨日より風が冷たい気がする」
航平はそう言いながら、自分の席へ鞄を置いた。
明日の放課後には、二人で昔の駅前写真について資料を見直す予定がある。
悠真は昨日のうちに、確認したいことをいくつか整理していた。
「航平、明日の資料確認だけど、今ある写真とメモを持ってくれば大丈夫だと思う。新しい資料を無理に探さなくても、まずは分かっていることを整理しよう」
「うん。俺もそう思ってた。昨日、候補の場所をもう一回見比べたんだけど、やっぱり決め手がないんだよな」
航平は少し困ったように笑った。
「屋根の形は似てるんだけど、写真の角度が違うと、同じ建物なのか分からなくなるんだ」
「そうだね。似ているというだけでは、同じ場所だと決められないと思う。明日は、その判断に必要な情報を整理してみよう」
「了解。結論が出なくても、次に調べることが分かれば十分だな」
航平は頷いた。
悠真もその考えに同意した。
何かを調べるとき、必ずしも一度で答えが見つかるとは限らない。
むしろ、分からないことを分からないまま整理する時間も大切なのだろう。
そのことを考えたとき、悠真は昨夜の彩花との会話を思い出した。
彼女が見守っている蕾も、昨日は大きく変わっていなかったらしい。
それでも、彩花は見に行ってよかったと話していた。
(彩花さんが言っていたことと、少し似ているかもしれないな)
変化が見つからない日もある。
答えが出ない日もある。
それでも、確かめたことが無駄になるわけではない。
悠真はそう考えながら、授業開始の準備へ戻った。
◇
青葉高校の午前中は、普段どおりに授業が進んでいた。
彩花は教師の説明を聞きながら、必要なところをノートへ書き留めている。窓の外は朝より少し明るくなっていたが、雲はまだ空に広がっていた。
授業の合間、近くの席の友人が彩花へ声をかけた。
「水瀬さん、昨日の文学部の活動、どうだった?」
「うん。文集の確認をしてきたよ。まだ印刷には渡していないけど、最後の手続きに向けて少しずつ進んでると思う」
「そっか。完成したら見せてもらえるの、楽しみにしてるね」
「ありがとう。私もちゃんと完成するのが楽しみなんだ」
彩花が微笑むと、友人も嬉しそうに頷いた。
そのあと、友人は机の上に置いていた本へ目を向けた。
「そういえば、水瀬さん、前に読んでた小説はもう読み終わった?」
彩花は少し驚いた。
その友人は以前、彩花が借りている小説について、読み終わったら感想を聞かせてほしいと言っていた。
「まだなんだ。日曜日に少し読んだけど、途中で止めてるの。続きが気になってるんだけど、ゆっくり読みたいなって思って」
「そうなんだ。じゃあ、読み終わったらでいいよ。急がなくて大丈夫だから」
「ありがとう。ちゃんと読み終わったら話すね」
彩花は頷いた。
借りている小説では、故郷へ戻ってきた幼なじみの二人が、昔の待ち合わせ場所の近くまで来ている。
片方がもう一人の背中に見覚えを感じ始めたところまで読んだが、まだ二人は直接言葉を交わしていない。
その続きを、彩花は楽しみにしていた。
(今日、帰ってから少し読もうかな。でも、星模様のノートも考えたいし……)
彩花は少し迷った。
どちらも大切にしたい。
けれど、無理に両方を進めようとすれば、どちらも落ち着いて向き合えなくなるかもしれない。
その日の気持ちに合わせて決めればよいだろう。
そう考え、彩花は次の授業の準備を始めた。
◇
昼休み、桜華学園の食堂では、悠真と航平が昼食を取っていた。
午前中の授業について話したあと、航平はふと思い出したように尋ねた。
「悠真、最近、中央図書館には行ってるのか?」
「うん。日曜日に彩花さんと行ってきたよ」
「そうだったな。前に話してた写真集も持っていったんだっけ?」
「うん。昔の閲覧室の写真を一緒に見たんだ。彩花さんは、写真の中にいる利用者のことを考えていて、俺とは少し違うところに目を向けていたよ」
悠真が答えると、航平は興味深そうに頷いた。
「へえ。俺だったら建物の方を見ちゃいそうだな」
「俺も最初はそうだったよ。でも、彩花さんの話を聞いていると、そこにいた人たちがどんなふうに本を読んでいたのかも気になってきたんだ」
「なるほどな。同じ写真でも、見る人によって違うんだな」
航平はそう言って笑った。
悠真も微笑んだ。
彩花と一緒に本を読む時間は、いつも新しい気づきを与えてくれる。
それは、彼女が特別な知識を披露するからではない。
自分が見落としていたものへ、自然に目を向けさせてくれるからだった。
航平は少し考えたあと、悠真へ尋ねた。
「また彩花さんと図書館へ行く予定はあるのか?」
悠真は一瞬だけ言葉を止めた。
次に会う約束は、まだ決まっていない。
しかし、また会いたいと思っていることは確かだった。
「まだ決まっていないよ。でも、また一緒に本を見られたら嬉しいと思ってる」
「そっか。じゃあ、都合が合うといいな」
航平はそれ以上踏み込まず、穏やかに答えた。
悠真はその気遣いに感謝しながら、頷いた。
彩花にも学校や家族との予定がある。
自分にも生徒会や勉強、家族との時間がある。
だからこそ、次に会うときには、お互いが無理をしない形で予定を決めたい。
(……今度、彩花さんに聞いてみようかな)
そう考えると、胸の奥に少しだけ期待が広がった。
ただし、今日すぐに誘わなければならないわけではない。
彼女の予定を確かめながら、自然に話せるときに聞いてみればよい。
悠真はそう考え、昼食を食べ進めた。
◇
午後の授業を終えた彩花は、教室で帰り支度をしていた。
今日は文学部の活動がないため、普段より少し早く帰宅できそうだった。
教科書を鞄へ入れ、机の中に忘れ物がないことを確かめる。
窓の外では、雲の隙間から淡い日差しが差し込んでいた。
彩花は鞄を肩へ掛け、友人たちへ挨拶して教室を出た。
廊下を歩きながら、今日の帰り道で何をしようかと考える。
今朝見た蕾をもう一度確かめることもできる。
ただし、朝と夕方では光の当たり方が違うため、見え方も変わるかもしれない。
(朝に見たことを、帰りにも確かめてみようかな。でも、無理に違いを探さなくてもいいよね)
彩花はそう考え、校舎を出た。
外の空気は朝ほど冷たく感じられなかったが、風はまだ冬らしい冷たさを残している。
マフラーを整え、いつもの道を歩き始めた。
途中、通学路の植え込みが見えてくると、彩花は自然に足を緩めた。
朝と同じ枝先に、小さな蕾がある。
夕方の光の下では、先端の部分が少し明るく見えた。
彩花はしばらく眺めたあと、朝のメモを思い出した。
今朝は、蕾の先にわずかな隙間があるように感じた。
夕方になっても、その部分は同じように見える。
けれど、花が咲き始めたと断言できるほどの変化ではなかった。
(やっぱり、少し開いてるように見えるな。でも、明日も見てから考えよう)
彩花は小さく微笑んだ。
何かを見つけたとき、すぐに答えを決めなくてもよい。
分からないことを残したまま、明日また確かめる楽しみがある。
そのことを、今は自然に受け入れられるようになっていた。
彩花は鞄からメモ帳を取り出し、朝の記録の下へ短く書き足した。
『夕方も同じように見えた。まだ花は咲いていない』
書き終えると、メモ帳を閉じた。
そして、ふと悠真のことを思い出した。
昨日、彼が見つけた街路樹の芽は、今日どうなっているだろう。
同じように見えたのか、それとも何か違いを感じたのか。
その話を聞くのが楽しみだった。
◇
悠真が桜華学園を出た頃、空にはまだ薄い雲が残っていた。
午後の授業と必要な用事を終え、帰り道を歩き始める。
今日は昨日より少し早く帰れそうだった。
歩道を進みながら、悠真は昨日見つけた街路樹へ目を向けた。
葉を落とした枝が空へ伸び、その先には小さな芽のようなものがいくつか見える。
昨日と同じ場所だった。
悠真は通行の邪魔にならない位置で足を緩め、少しだけ眺めた。
(昨日と、あまり変わっていないかな)
枝先の形は、昨日見たときとほとんど同じように感じられた。
何の木なのかは、まだ分からない。
芽のように見えているものが、これからどのように変わるのかも知らない。
けれど、昨日よりも少し注意して眺めたことで、枝の向きや小さな膨らみの位置が目に入った。
悠真はそのことを面白く感じた。
今まで何度も通っていた道なのに、こうして立ち止まって見たことはほとんどなかった。
彩花が蕾を見守っていると聞かなければ、今日も気づかず通り過ぎていたかもしれない。
(彩花さんが話してくれたから、俺も見つけられたんだね)
悠真は小さく微笑んだ。
彼女と出会ってから、自分の周りにあるものの見え方が少しずつ変わっている。
本を読む時間も、街を歩く時間も、以前とまったく同じではない。
それは、彩花が何かを無理に変えようとしているからではなかった。
彼女が大切にしているものを聞くうちに、自分も自然に興味を持つようになったのだ。
悠真は街路樹から視線を戻し、歩き始めた。
今日のことを、夜になったら彩花へ話したい。
そして、もし自然な流れになったら、次に会える日についても少し相談してみたい。
そんな思いを胸に抱きながら、冬の街を進んだ。
◇
彩花が帰宅すると、居間では紗月が夕食の準備をしていた。
凛花は机の上に資料を広げ、植物の育て方について書かれた部分を読み返している。
「ただいま」
「おかえり、彩花。今日は早かったのね」
「うん。文学部の活動がなかったから、授業が終わってから帰ってきたよ」
彩花が答えると、紗月は頷いた。
「それなら、少しゆっくりできるわね。温かいお茶を用意するから、先に手を洗ってきなさい」
「ありがとう、お母さん」
彩花は手を洗い、上着を脱いでから居間へ戻った。
凛花は資料を閉じ、彩花へ顔を向けた。
「彩花、今日は通学路の蕾、どうだった?」
突然の質問に、彩花は少し驚いた。
「お姉ちゃん、覚えてたんだ」
「もちろん。前に話してくれたでしょう。毎日見てるって聞いて、どうなったのかなって思ってたんだ」
凛花は穏やかに笑った。
彩花は嬉しくなり、今朝と夕方に見たことを説明した。
「今日はね、先のところが少し開いているように見えたんだ。でも、光の当たり方で違って見えてるだけかもしれないから、まだ分からないの」
「そっか。じゃあ、明日も楽しみだね」
「うん。まだ花は咲いてないけど、少しずつ見ていきたいな」
彩花が答えると、凛花は頷いた。
「私も植物を育て始めたら、そういうふうに毎日見ることになるのかな」
「きっとそうだと思うよ。でも、毎日大きく変わるわけじゃないんだろうね」
「そうだよね。変わらない日もあるって、ちゃんと覚えておかないと」
凛花はそう言って笑った。
彩花も微笑んだ。
姉が植物を育て始めたら、どんなことを見つけるのだろう。
まだ鉢植えは購入していないが、その日を想像するだけで少し楽しみだった。
◇
夕食までの時間、彩花は自室で読みかけの小説を開いていた。
日曜日に中央図書館で読んだところから、少しだけ続きを進めるつもりだった。
幼なじみの二人は、昔の待ち合わせ場所の近くまで来ている。
一人は相手の背中に見覚えを感じ始めているが、まだ名前を呼んでいない。
彩花はその場面を読み返し、ゆっくり次のページを開いた。
物語の中では、相手の背中を見つめていた人物が、昔の記憶を思い出していた。
子どもの頃、二人で歩いた道。
待ち合わせに遅れた日のこと。
何でもない話をしながら帰った夕方。
その一つひとつが、今目の前にいる人物の姿と重なっていく。
彩花は静かにページをめくった。
やがて、その人物は声をかけようとした。
けれど、名前を呼ぶ直前で言葉を止めてしまう。
相手が振り返ったとき、どんな顔をするのか分からなかったからだ。
彩花はそこで、思わず息を止めた。
(……まだ呼べないんだね)
読者としては、早く再会してほしいと思う。
けれど、その人物がためらう理由も分かる気がした。
長い時間を経て会う相手に、昔と同じように声をかけてよいのか。
相手が自分を覚えているのか。
その不安を抱えながら、簡単に一歩を踏み出せないこともあるのだろう。
彩花は本を膝の上へ置いた。
日曜日、悠真と中央図書館で待ち合わせたときのことを思い出す。
自動扉の向こうに彼の姿を見つけた瞬間、胸の奥が温かくなった。
会う前には少し緊張していたが、実際に顔を合わせると、自然に言葉を交わせた。
小説の二人とは事情が違う。
けれど、誰かと会う前に感じる期待や緊張には、少し似たところがあるのかもしれない。
(悠真君に会う前も、何を話そうって考えてたな)
彩花は小さく微笑んだ。
日曜日には、特別なことをしなければならないと思っていたわけではない。
ただ、一緒に本を見て、好きなことを話したかった。
それだけで十分に楽しかった。
彩花はもう一度小説を開いた。
物語の中の人物は、まだ名前を呼べずにいる。
その先が気になったが、今日はここで読むのを止めることにした。
しおりを挟み、本を閉じる。
続きは、また落ち着いた時間に読めばよい。
彩花は本を机へ置き、星模様のノートへ視線を移した。
自分の物語も、今は急がずに進めたい。
そう考え、ノートを開いた。
◇
九条家では、悠真が帰宅すると、琴葉が居間で本を読んでいた。
ハクはその近くでくつろいでおり、悠真の姿を見つけると尻尾を揺らした。
「おかえりなさい、お兄様」
「ただいま、琴葉。今日は何を読んでいるの?」
悠真が尋ねると、琴葉は本の表紙を見せた。
植物の葉や花の形が紹介されている本だった。
「押し葉のことを考えてたら、ほかの葉っぱも気になったの。今はどんな形があるのか見てるところだよ」
「そうなんだね。面白そうだね」
悠真は微笑んだ。
琴葉が集めた葉は、まだ乾燥させている途中だった。
完成するまで無理に開かず、紙の色や使い方を考えながら待っている。
その時間も、妹にとって楽しみになっているようだった。
「お兄様、今日は彩花さんとお話しした?」
「まだだよ。夜になったら、今日のことを少し話せたらいいなと思ってる」
「そっか。彩花さん、今日も蕾を見たのかな」
琴葉の言葉に、悠真は少し驚いた。
「琴葉も覚えていたんだね」
「うん。お兄様が前にお話ししてくれたでしょう。花が咲くのを楽しみにしてるって」
琴葉は嬉しそうに笑った。
悠真は頷いた。
「きっと今日も見ていると思うよ。でも、実際にどうだったかは、まだ聞いていないんだ」
「じゃあ、夜のお楽しみだね」
「そうだね」
悠真は微笑んだ。
彩花が今日何を見つけたのか、まだ分からない。
そのことが、今は楽しみだった。
自分も帰り道で街路樹を見た。
昨日と大きく変わっていなかったが、枝先の小さな膨らみを前より注意して見ることができた。
その話をすれば、彩花はどんなふうに受け止めてくれるだろう。
悠真はそんなことを考えながら、ハクの背中を撫でた。
◇
夕食後、彩花は星模様のノートを開き、書きかけの物語を読み返していた。
昨日、少女が庭へ出る場面を少し書き進めた。
今日は、その続きを考えたいと思っていた。
少女は祖母と一緒に植物を世話していた日のことを思い出している。
祖母は先に答えを教えるのではなく、少女自身が土や葉の様子を確かめられるように問いかけていた。
彩花はその場面を読みながら、今日見た蕾のことを思い出した。
朝と夕方で、先端の部分が少し違って見えた。
けれど、それが本当の変化なのかは分からない。
だから、明日も見てみたいと思った。
(少女も、そういうふうに考えるのかな)
彩花はペンを取り、続きを書き始めた。
少女は庭の植物を見つめながら、祖母が以前話してくれたことを思い出した。
毎日同じように見えるものでも、よく見ると違うところがある。
けれど、違いが見つからない日もある。
そんな日は、何も起きていないと決めつけるのではなく、今日もそこにあることを確かめればよい。
少女はしゃがみ込み、葉の向きや土の色をゆっくり眺めた。
昨日と変わっていないように見える。
それでも、今日も庭へ来てよかったと思った。
彩花はそこまで書いて、ペンを止めた。
少女の気持ちが、少しずつ見えてきたように感じられる。
けれど、祖母へ宛てた手紙の三行目は、まだ書かなかった。
今は、少女が庭で何を感じているのかを丁寧に描きたい。
その時間が、手紙の言葉へつながっていくのだと思った。
彩花は文章を読み返し、少しだけ表現を整えた。
同じ意味の言葉が続いているところを直し、少女の動作が自然につながるようにする。
大きく書き直す必要はなかったが、読み返すことで気づくこともあった。
(……うん。今日はここまでにしようかな)
彩花はノートを閉じた。
完成までは、まだ時間がかかりそうだった。
けれど、焦りはなかった。
悠真は、完成したら最初に読ませてほしいという約束を覚えていてくれる。
そして、急がずに書いてほしいと言ってくれた。
その言葉が、彩花にとって大きな支えになっていた。
◇
夜、悠真は自室で学校の課題を終え、机の上を片づけていた。
明日は金曜日だ。
放課後には航平と昔の駅前写真について資料を見直す予定がある。
悠真は必要なメモを確認し、鞄へ入れるものを整理した。
そのあと、スマートフォンを手に取った。
彩花へメッセージを送ろうと思ったが、少しだけ言葉を考えた。
今日も学校で過ごし、帰り道で街路樹を見た。
そのことを話したい。
そして、次に会う時間についても、もし都合が合えば相談してみたい。
ただし、いきなり予定を決めるような聞き方はしたくなかった。
(まずは、今日のことを話そう。彩花さんにも予定があるんだから、急いで決めなくてもいいよね)
悠真はそう考え、メッセージを打ち始めた。
『彩花さん、こんばんは。今日も学校お疲れさま。昨日見つけた街路樹の芽みたいなものを、今日も見てきたよ。大きな変化は分からなかったけど、昨日より少し注意して見ることができた気がする』
送信すると、悠真はスマートフォンを机へ置いた。
しばらくして、彩花から返信が届いた。
『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。今日も見てきたんだね。私も蕾を見てきたよ。朝と夕方に見たんだけど、先のところが少し開いているように見えたの。でも、まだ本当に変わったのかは分からないんだ』
悠真はその文章を読み、自然に微笑んだ。
彩花も今日、蕾を見守っていた。
しかも、朝と夕方の両方で確かめたらしい。
『そうなんだね。少し開いているように見えたんだ。明日も楽しみだね』
『うん。でも、もし変わってなくても、また見てみたいなって思ってるよ』
悠真は頷いた。
その言葉は、昨夜彩花が話してくれたこととつながっている。
変化が見つからない日も、大切にできる。
悠真はその考えを、素敵だと思った。
『彩花さんがそうやって見守っているから、花が咲いたときはきっと嬉しいだろうね』
送信すると、少しして彩花から返信が届いた。
『うん。咲いたら、悠真君にも教えたいな』
悠真はその一文を読み、胸の奥が温かくなった。
花が咲いたとき、自分にも教えたいと思ってくれている。
それは、彩花の日常の中に、自分へ伝えたいことがあるということだった。
(……嬉しいな)
悠真はしばらく画面を見つめたあと、返事を打った。
『ありがとう、彩花さん。楽しみにしているよ』
◇
彩花は悠真からの返信を読み、少しだけ頬を緩めた。
自分が見守っている蕾のことを、彼も楽しみにしてくれている。
それが嬉しかった。
彩花はスマートフォンを机へ置き、窓の外を眺めた。
夜の街には静かな明かりが灯っている。
今日は曇り空だったが、雨は降らなかった。
明日も同じ道を歩く。
そして、また蕾を見る。
そのことを考えていると、ふと日曜日の中央図書館が思い出された。
悠真と並んで本棚を見ていた時間。
昔の閲覧室の写真について話したこと。
読みかけの小説を一緒に考えたこと。
そのどれもが、今も心に残っている。
(また、悠真君と会いたいな)
彩花は静かにそう思った。
次に会う約束は、まだしていない。
けれど、また一緒に本を見たい。
何か特別な予定がなくても、同じ場所で過ごす時間が欲しい。
その気持ちは、日曜日から変わっていなかった。
むしろ、学校で過ごす日々の中で、少しずつ強くなっているように感じられた。
彩花はスマートフォンをもう一度手に取った。
悠真へ、また図書館へ行きたいと伝えてみようか。
そう考えたが、すぐには文字を打てなかった。
彼にも学校や生徒会の予定がある。
自分にも文学部や家族との時間がある。
無理に予定を決める必要はない。
けれど、会いたいと思っていることを伝えるだけなら、迷惑ではないのかもしれない。
(……どうしようかな)
彩花は少し考えた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
悠真から新しいメッセージが届いていた。
『彩花さん、少し聞いてもいいかな。日曜日に一緒に図書館へ行った時間がすごく楽しかったから、また都合が合う日に会えたら嬉しいと思ってるんだ。もちろん、彩花さんの予定があるだろうから、急いで決めなくても大丈夫だよ』
彩花はその文章を読み、しばらく動けなかった。
今、自分が考えていたことと、ほとんど同じだった。
また会いたい。
その気持ちを、悠真も持っていてくれた。
胸の奥に、嬉しさがゆっくり広がっていく。
(……悠真君も、同じことを考えてくれてたんだ)
彩花はスマートフォンを両手で持ち、少しだけ深呼吸した。
急いで返事をしなくてもよい。
けれど、今の気持ちは素直に伝えたい。
彩花はゆっくり文字を打ち始めた。
『私もだよ、悠真君。日曜日はすごく楽しかったし、また一緒に本を見たり、お話ししたりできたら嬉しいなって思ってたの。予定はまだ分からないけど、都合が合う日を一緒に考えられたら嬉しい』
送信したあと、彩花はスマートフォンを胸元へ近づけた。
少し照れくさい。
けれど、伝えられてよかったと思った。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いた返信を読んでいた。
彼女も、また会いたいと思ってくれていた。
そのことが、想像していた以上に嬉しかった。
日曜日に中央図書館で過ごした時間は、悠真にとって大切な思い出になっている。
彩花と並んで本を見て、同じ写真を眺め、互いに感じたことを話した。
何か特別なことをしようと決めていたわけではない。
それでも、あの日の時間は、今も心に残っている。
(彩花さんも、また会いたいと思ってくれてたんだね)
悠真は静かに微笑んだ。
すぐに次の予定を決めたい気持ちもあった。
けれど、彩花が言ってくれたように、お互いの都合を確かめながら考えればよい。
無理に急ぐ必要はない。
悠真はそう考え、返信を打った。
『ありがとう、彩花さん。そう言ってもらえて嬉しいよ。俺も予定を確かめてみるね。無理のない日に、また一緒に過ごせたら嬉しいな』
送信すると、悠真はスマートフォンを机へ置いた。
次に会う日付も、場所も、まだ決まっていない。
それでも、また会いたいという気持ちは、二人の間で確かめ合えた。
そのことが、今は何より嬉しかった。
◇
彩花は悠真からの返信を読み、ほっとしたように微笑んだ。
予定を急いで決めなくてもよい。
けれど、また会いたいという気持ちは伝えられた。
それだけで、胸の奥が温かくなっている。
『うん。私も予定を見てみるね。ありがとう、悠真君』
彩花はそう返事を送り、スマートフォンを机へ置いた。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。
明日は金曜日だ。
学校へ行き、授業を受け、帰り道で蕾を見てくる。
悠真は放課後、航平と昔の駅前写真について資料を見直す予定があるらしい。
それぞれに過ごす時間がある。
けれど、その先にまた一緒に過ごせる日があるかもしれない。
そう思うと、明日という日も少し楽しみに感じられた。
彩花は葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を、ゆっくり書き留めていく。
朝、蕾の先が少し開いているように見えたこと。
学校で友人と話したこと。
帰宅してから、小説を少し読んだこと。
星模様のノートの続きを書いたこと。
そして、悠真とまた会いたいという気持ちを伝え合えたこと。
彩花は最後の一文を書くとき、少しだけペンを止めた。
何と書けばよいだろう。
しばらく考えてから、ゆっくり文字を綴った。
『まだ次の約束は決まっていないけれど、また会いたいと思っていることを伝えられた。悠真君も同じように思ってくれていて、嬉しかった』
書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。
その隣には、星模様のノートが置かれている。
少女の手紙は、まだ二行のままだ。
けれど、彩花自身は今日、大切な気持ちを一つ言葉にすることができた。
会いたいと思っていること。
また一緒に過ごしたいと思っていること。
それを伝えるには、少し勇気が必要だった。
けれど、伝えたことで、気持ちが軽くなったように感じられる。
(少女も、いつか自分の言葉で伝えられるといいな)
彩花はそう考え、机の明かりを消した。
◇
九条家では、悠真が寝る前に明日の予定を確かめていた。
金曜日の放課後には、航平と資料を見直す。
そのほかにも、学校で必要なことを済ませなければならない。
悠真は予定帳を開き、週末の欄へ目を向けた。
まだ、彩花と会う予定は書かれていない。
けれど、今夜のやり取りを思い出すと、その空白が以前とは少し違って見えた。
何も決まっていないことが、不安なのではない。
これから一緒に考えられることが、楽しみだった。
(次は、どんな時間を過ごせるかな)
中央図書館で本を読むのもいい。
気になる本について話すのも楽しいだろう。
けれど、場所や予定を先に決めるより、彩花が何をしたいと思っているのかを聞いてみたい。
自分も、彼女と一緒に過ごしたい時間について考えてみよう。
悠真はそう思い、予定帳を閉じた。
机の引き出しには、彩花から受け取った淡い青色の花柄のカードが大切にしまわれている。
そこに書かれた言葉を、悠真は今も覚えていた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
その言葉を思い出すと、胸の奥が温かくなる。
彩花が好きなものを大切にしたい。
彼女と話す時間を、これからも大切にしたい。
その気持ちは、今日も変わらなかった。
悠真は部屋の明かりを消し、ベッドへ入った。
明日も学校がある。
早く休んで、落ち着いて一日を過ごそう。
そう考えながら目を閉じる。
冬の夜は静かに更けていった。
まだ咲かない蕾も、答えの出ていない写真も、完成していない物語も、すぐに結論を求める必要はない。
そして、次に会う約束も、今はまだ決まっていない。
それでも、彩花と悠真は、また一緒に過ごしたいという気持ちを確かめ合うことができた。
木曜日の終わりに生まれたその小さな約束の始まりは、二人の心に、静かな楽しみを残していた。




