第134話 水曜日の帰り道、まだ咲かない花と君に話したい明日のこと
水曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。窓の外はまだ淡い青色をしており、冬の朝らしい冷たさが部屋の中にも残っている。布団から出る前に時計を確かめると、いつも起きる時間まであと数分あったが、もう一度眠るほどの余裕はなかった。
彩花は枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。昨夜、悠真と交わしたメッセージをもう一度読みたい気持ちはあったが、朝の準備を済ませてからでも遅くはない。そう考えて身体を起こすと、足元に触れた床の冷たさに小さく肩をすくめた。
机の上には星模様のノートと葉模様の日記帳が並んでいる。昨日は書きかけの物語を読み返し、少女が庭へ出る前の場面を少し整えた。祖母へ宛てた手紙はまだ二行のままだが、彩花はそのことを以前ほど気にしなくなっていた。
(書きたいことが見つからないわけじゃないんだよね。ただ、少女がどんな気持ちで次の言葉を書くのか、もう少し考えていたいだけ)
物語の中の少女は、離れた場所で暮らす祖母へ手紙を書こうとしている。庭の花がもうすぐ咲きそうなことと、毎朝見ていると昨日とは違うところが見つかること。その二つを伝えたあとに続く言葉は、少女自身が何を大切に思っているかによって変わるはずだった。
彩花はノートを開かず、表紙に描かれた小さな星を眺めた。今日は学校へ行き、授業を受け、文学部の予定を確かめる。帰宅してから時間があれば続きを考えたいが、無理に書き進めるつもりはなかった。
制服に着替えて髪を整えると、彩花は窓辺へ歩いた。庭木の枝が朝の風に揺れ、遠くの屋根には薄い日差しが当たり始めている。昨日見た通学路の蕾も、今頃は同じような冷たい朝を迎えているのだろう。
(今日はどうなっているかな。昨日より変わっていなくても、ちゃんと見てみたいな)
昨夜、悠真へ蕾の話をしたとき、彼は以前から気にかけていたことを覚えていてくれた。大きな変化がなくても、彩花が見つけたことを聞けるのは嬉しいと言ってくれたことが、今も心に残っている。
彩花はその言葉を思い出して微笑み、鞄の中身を確かめた。教科書、ノート、筆記具、財布、ハンカチ。必要なものが揃っていることを確認してから、階下へ向かった。
◇
水瀬家の食卓には、温かな味噌汁と卵焼きが並んでいた。母の紗月は台所で最後の皿を用意しており、父の耕助は食卓に座って朝の新聞を読んでいる。姉の凛花は少し眠そうな顔をしていたが、彩花が入ってくると穏やかに挨拶した。
「おはよう、彩花。今日は早いんだね。昨日は夜更かししなかった?」
「おはよう、お姉ちゃん。うん、いつもどおりに寝たよ。目覚ましが鳴る前に起きちゃっただけ」
彩花が答えると、凛花は安心したように頷いた。最近、植物について調べる時間が増えている凛花自身も、昨夜は資料を読みながら少し時間を忘れそうになったらしい。
「私の方が気をつけないといけないかも。昨日、花屋でもらった資料を見直していたら、思っていたより遅くなっちゃって」
「そんなに遅くまで起きていたの?」
「夜更かしってほどじゃないよ。ただ、気になることを調べ始めると、もう少しだけって思っちゃうんだよね」
凛花は苦笑しながら味噌汁の椀を手に取った。
植物を育てたいという気持ちは変わっていないが、まだ購入する種類は決めていない。部屋の日当たりや室温を確かめ、候補を見比べている段階だった。
耕助は新聞を畳み、凛花の話へ耳を傾けた。
「調べることは大切だけど、全部分かってから始めようとすると、いつまでも決められないこともあるからね。どこまで確認できたら安心して育てられそうか、考えてみてもいいかもしれない」
「そうだね。今度図書館で本を見て、それからもう一度花屋へ行こうかなって思ってる」
凛花はそう答え、彩花へ顔を向けた。
「彩花、今度一緒に図書館へ行ける日があったら、園芸の棚を案内してくれる?」
「もちろん。日曜日に場所を確かめたから、たぶん迷わず行けると思うよ」
「ありがとう。じゃあ、お互いの予定が合う日にしようね」
彩花は頷いた。
日曜日に悠真と中央図書館へ行ったとき、園芸の本が置かれている場所を確認しておいた。あのときは凛花のために覚えておこうと思っただけだったが、こうして実際に頼ってもらえると嬉しかった。
紗月は二人の会話を聞きながら、温かな茶を用意してくれた。
「図書館なら、育て方だけじゃなくて、植物の写真が載っている本もありそうね。凛花がどんなものを育てたいのか、ゆっくり考えるのも楽しそう」
「うん。見た目だけで選ばないようにしたいけど、やっぱり好きだなって思えるものがいいから」
凛花の言葉に、彩花は小さく頷いた。
何かを大切にしたいと思うとき、条件だけで決められないこともある。育てやすさや置き場所は重要だが、その植物を見て嬉しくなる気持ちも、きっと同じくらい大切なのだろう。
彩花は自分の書いている物語を思い出した。少女が庭の植物を大切に思う理由も、単に育て方を知っているからではない。祖母と過ごした時間や、毎朝庭を見る習慣が、その気持ちにつながっている。
(そういうところを、ちゃんと書けたらいいな)
朝食を終える頃には、窓から入る光が少し強くなっていた。
彩花は食器を片づけ、上着を羽織って玄関へ向かった。今日は昨日よりも風が強そうだったため、マフラーをしっかり巻いてから靴を履く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。寒いから気をつけてね」
家族の声に見送られ、彩花は玄関の扉を開いた。
外の空気は冷たかったが、空には明るい晴れ間が広がっていた。
◇
通学路を歩きながら、彩花は昨日の朝と同じ植え込みへ目を向けた。
冬の街路樹は葉を落としているものが多く、歩道の端には乾いた落ち葉が少し残っている。車道を走る車の音や、通学途中の学生たちの話し声が聞こえる中、彩花は周囲の人の流れを確かめながら歩いた。
植え込みが見えてくると、自然に足が少し緩んだ。
昨日、先端がわずかに開いているように見えた蕾は、今日も同じ枝先にあった。
彩花は通行の邪魔にならない位置で立ち止まり、少し離れたところから眺めた。
(……今日は、あまり変わっていないかな)
昨日と比べて、はっきり分かるほどの変化はない。
先端の形も、蕾の大きさも、見た目にはほとんど同じだった。
けれど、彩花は残念には思わなかった。
花が咲くまでには時間がかかる。
昨日少し変わって見えたからといって、今日も同じくらい変化するとは限らない。むしろ、毎日少しずつ様子を確かめているからこそ、変わらない日があることにも気づけるのだろう。
彩花は枝先を見つめながら、昨夜の悠真の言葉を思い出した。
『毎日大きく変わらなくても、彩花さんが見つけたことを聞けるのは嬉しいな』
(悠真君、今日は変わってなかったよって話しても、きっとちゃんと聞いてくれるんだろうな)
そう考えると、胸の奥が少し温かくなった。
彩花はもう一度蕾を眺めてから、学校へ向かって歩き始めた。
今朝は写真を撮らなかった。
昨日と同じように見えたことも、今日の自分が確かめた大切なことだったから、あとで言葉にして伝えればよいと思った。
◇
桜華学園高等部の教室では、九条悠真が朝の準備を終え、窓際の席でノートを見直していた。
教室には登校してきた生徒たちの声が少しずつ増えている。悠真は今日の授業で必要な教材を確かめ、机の上に置いた筆記具を揃えた。
「おはよう、悠真。昨日言ってた予定、確認できたか?」
声をかけてきたのは森川航平だった。
「おはよう、航平。うん。今週は金曜日の放課後なら、少し時間が取れそうだよ。ただ、長くはならないようにしたいと思ってる」
「金曜日か。俺もその日は大丈夫そうだな。じゃあ、写真の資料を少し見直してみるか」
航平は自分の席へ鞄を置きながら答えた。
二人が調べている昔の駅前写真には、撮影地点の候補が二つ残っている。建物の屋根の形や道路の向きから考えられる場所はあるものの、まだ確かな根拠は見つかっていない。
昨日、航平は昔の地図も見比べてみたいと話していた。
「資料を見直す前に、どこまで分かっているか整理しておこうか。候補が二つある理由と、まだ確認できていないことを分けておけば、調べやすいと思う」
悠真が提案すると、航平は頷いた。
「それがいいな。昨日も屋根の形を見てたんだけど、似てるってだけで同じ建物だと思い込みそうになったんだよ」
「写真が不鮮明だと、そういうこともあると思う。だから、地図や別の資料と照らし合わせられるといいね」
「うん。金曜日までに、俺も手元のメモをまとめておくよ」
航平はそう答え、ノートを開いた。
悠真も自分の予定帳へ金曜日の放課後に資料確認と書き留めた。
長時間の調査ではなく、まずは二人で分かっていることを整理する時間にする。必要な資料が見つからなければ、その日は無理に結論を出さず、次に調べることを決めればよい。
悠真はそのように考えていた。
「そういえば悠真、昨日は彩花さんと話したのか?」
航平が何気なく尋ねた。
悠真は少しだけ驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。夜にメッセージを交わしたよ。彩花さんが通学路で見ている蕾のことを話してくれたんだ」
「蕾?」
「前から気にかけている植物があるんだ。昨日は少し変わって見えたらしくて、花が咲くのを楽しみにしているみたいなんだよ」
航平は興味深そうに耳を傾けた。
「へえ。毎日見てると、そういう変化にも気づくんだな。俺だったら、たぶん通り過ぎちゃうかもしれない」
「俺も、彩花さんから聞かなかったら気づかないことが多いと思う。でも、そういう話を聞いていると、自分も少し周りを見てみたくなるんだ」
悠真が答えると、航平は穏やかに笑った。
「いいことだと思うぞ。俺も昔の写真を調べるようになってから、駅前の建物を前より気にするようになったしな」
その言葉に、悠真は頷いた。
興味を持つものが変われば、同じ景色の見え方も変わる。
彩花が蕾を見守ることと、航平が昔の写真を調べることは、まったく違うようでいて、少し似ているところがあるのかもしれない。
悠真はそう考えながら、授業開始の準備へ戻った。
◇
青葉高校では、午前中の授業が普段どおりに進んでいた。
彩花は教師の説明を聞きながら、必要なところをノートへ書き留めている。窓の外には冬の青空が広がり、校庭の木々が風に揺れていた。
授業の合間には、近くの席の友人と昨日の課題について話した。
「水瀬さん、昨日の問題、最後のところまでできた?」
「うん。でも、途中で少し迷ったところがあったよ。授業で説明を聞いたら、ようやく分かった気がする」
彩花が答えると、友人は安心したように笑った。
「私もそこが難しかったんだ。水瀬さんでも迷ったって聞くと、ちょっと安心するかも」
「私も全部すぐに分かるわけじゃないよ。分からないところは、あとで確かめることも多いし」
彩花はそう言って、自分のノートを開いた。
二人は教師が説明した部分を見直し、どこで考え方が変わるのかを確かめた。
答えだけを見れば簡単に思える問題でも、そこへ至るまでの過程を理解するには時間がかかる。彩花は友人と話しながら、自分が昨日より少し理解できていることに気づいた。
休み時間が終わる頃、友人は礼を言って席へ戻った。
彩花もノートを閉じ、次の授業の準備を始めた。
何かを理解するまでの時間は、人によって違う。
そのことを考えたとき、ふと自分の書いている物語が頭に浮かんだ。
少女が祖母へ手紙を書くまでの時間も、きっと同じなのだろう。
誰かが正しい言葉を教えれば、すぐに書けるというものではない。
少女自身が見つけたことを、自分の言葉で伝えようとするからこそ、その手紙には意味がある。
(そうだよね。私が先に答えを決めちゃったら、少女が考える時間がなくなっちゃうのかもしれない)
彩花はその気づきを忘れないよう、授業用のノートとは別の小さなメモ帳へ短く書き留めた。
『手紙の言葉は、少女が見つけるもの』
それだけ書くと、メモ帳を閉じた。
具体的な文章は、帰宅してから考えればよい。
◇
昼休み、彩花は教室で友人たちと昼食を取っていた。
窓から差し込む日差しは朝よりも明るく、教室の中には穏やかな賑わいが広がっている。友人たちは午前中の授業について話したあと、放課後の予定へ話題を移した。
「水瀬さん、今日は文学部の活動があるの?」
「うん。今日は短い確認だけになると思うけど、冬の文集について少し話し合う予定だよ」
「もう印刷に出したんだっけ?」
「まだなんだ。本文や表紙の確認は進んでいるけど、最後の手続きが残ってるから、正式に渡すのはもう少しあとになると思う」
彩花が説明すると、友人は頷いた。
「そうなんだ。完成したら見てみたいな」
「ありがとう。ちゃんと完成したら、読んでもらえたら嬉しいな」
彩花はそう答え、少し照れくさくなった。
冬の文集『いつか、ここに』には、部員たちがそれぞれ大切にしている文章が収められる予定だ。
自分の文章を誰かに読んでもらうことには、楽しみな気持ちと緊張がある。
けれど、読んでもらえる日を想像すると、やはり嬉しかった。
昼食を終えたあと、彩花は窓の外を眺めた。
校庭の端では、風に揺れる枝の影が地面へ落ちている。
今朝見た蕾のことを思い出し、彩花は少しだけ微笑んだ。
今日は昨日と大きく変わっていなかった。
それでも、明日はどうだろう。
そんなことを考えながら、午後の授業の準備を始めた。
◇
桜華学園の昼休み、悠真は航平と食堂で昼食を取っていた。
午前中の授業について話しながら、二人はそれぞれ食事を進めている。周囲にはほかの生徒たちの声が響いていたが、会話の内容が聞き取れないほど騒がしいわけではなかった。
「金曜日の資料確認、昔の地図が見つからなかったらどうする?」
航平が尋ねた。
「その場合は、今ある写真とメモを整理するだけでもいいと思うよ。どこが分からないのかをはっきりさせれば、次に調べる資料も考えやすくなるから」
「なるほどな。確かに、見つからないから何もできないってわけじゃないか」
航平は頷き、少し考え込んだ。
「そういえば、昔の駅前写真って、撮影した人の名前も分かってないんだよな。そこから調べる方法もあるのかな」
「可能性はあると思うけど、写真の出典がどこまで記録されているかによるね。まずは資料に書かれている情報を確かめた方がいいかもしれない」
悠真が答えると、航平は納得したように頷いた。
すぐに調査の範囲を広げるのではなく、今ある情報を整理する。
その方が、無理なく進められるだろう。
話が一段落すると、航平は食堂の窓へ目を向けた。
「今日は天気いいな。風は冷たそうだけど」
「そうだね。朝も晴れていたし、帰りも雨の心配はなさそうだね」
「こういう日は、少し歩いて帰るのも気持ちよさそうだな」
悠真は頷いた。
自分も今日は、帰り道で少し周囲の景色を見てみようと思っていた。
彩花が通学路の蕾を見守っているように、自分にも何か小さな変化を見つけられるかもしれない。
ただし、無理に探す必要はない。
いつもの道を歩きながら、自然に目に入ったものを大切にすればよい。
悠真はそう考えた。
◇
放課後、青葉高校の文学部では、冬の文集について短い確認が行われていた。
机の上には、これまでに整理した資料と確認記録が並べられている。部員たちはそれぞれ担当した部分について報告し、まだ残っている手続きが何かを確かめていた。
彩花も席へ着き、昨日確認した記録を開いた。
印刷前の最終確認は少しずつ進んでいるが、正式な引き渡しはまだ行われていない。
今日も、新しい修正を増やすのではなく、これまで確認した内容を整理することが中心だった。
「水瀬さん、昨日先生に見てもらった資料、ここにまとめておいたよ」
部員の一人が声をかけた。
「ありがとう。確認したところが分かるようになってるね」
「うん。あとから見直すときに、どこまで終わったか分からなくならないようにしたくて」
彩花は頷いた。
資料には確認した日付と担当者が記されており、まだ確認が必要な部分も分けられている。
こうして整理しておけば、同じところを何度も確認することを減らせるだろう。
別の部員が、文集の完成後にどのように保管するかという話題を出した。
「せっかく作るんだから、部室にも一冊残しておきたいよね。次の学年の人たちにも見てもらえたら嬉しいし」
その言葉に、何人かの部員が頷いた。
「そうだね。去年までの文集も残っているし、並べておけたらいいな」
「でも、まずはちゃんと完成させないとね」
部員の一人が笑いながら言うと、周囲にも穏やかな笑いが広がった。
彩花はその会話を聞きながら、文集が完成したあとのことを想像した。
今は机の上に並んでいる資料が、いつか一冊の本になる。
自分たちが書いた文章が、同じ表紙の中に収められる。
そのことを考えると、胸の奥が少し温かくなった。
活動の終わりには、次回までに確認することを共有した。
今日も正式な引き渡しは行われなかったが、必要な作業は整理できている。
彩花は部員たちと挨拶を交わし、鞄を持って部室を出た。
廊下には夕方の光が差し込み、窓の向こうでは校庭の木々が揺れていた。
彩花は少しだけ足を止め、空を見上げた。
(今日も、ちゃんと一日が進んだんだね)
何か大きな成果があったわけではない。
けれど、文集の準備も、自分の勉強も、少しずつ進んでいる。
そう思うと、帰り道の足取りが軽くなった。
◇
桜華学園を出た悠真は、いつもの帰り道を歩いていた。
冬の夕方は日が傾くのが早く、建物の影が歩道へ長く伸びている。朝よりも風が冷たく感じられたため、悠真は上着の襟元を少し整えた。
歩きながら、ふと道沿いの街路樹へ目を向けた。
葉を落とした枝が空へ伸びており、その先には小さな芽のようなものがいくつか見える。
悠真は通行の邪魔にならない位置で足を緩め、少しだけ眺めた。
(あれは、春に向けて準備している芽なのかな)
植物について詳しいわけではないため、すぐに名前や状態を判断することはできない。
けれど、枝先に小さなものがあることへ気づけたのは、彩花の話を聞いていたからかもしれなかった。
悠真はそのまま歩き始めた。
自分が見つけたものを、彩花へ話してみたい。
ただし、何の木なのか分からないまま決めつけるのは避けたかった。
家へ帰ってから、気になったこととして伝えればよいだろう。
そう考えながら、悠真は街路樹の並ぶ道を進んだ。
途中、信号待ちで立ち止まると、日曜日の中央図書館を思い出した。
彩花と並んで本棚を見ていたこと。
同じ写真集を眺めながら、違うところに目を向けていたこと。
彼女が自分の話を丁寧に聞いてくれたこと。
その一つひとつが、今も心に残っている。
(また会いたいな)
悠真は素直にそう思った。
次の約束はまだ決まっていない。
けれど、会いたいと思う気持ちがあることを、自分の中で否定する必要はなかった。
彩花にも予定がある。
自分にも学校や家族との時間がある。
その中で、また都合の合う日を見つけられたら嬉しい。
悠真はそう考えながら、信号が青へ変わるのを待った。
◇
彩花が帰宅すると、居間では凛花が花屋でもらった資料を整理していた。
机の上には小さなメモ帳と、いくつかの植物について書かれた紙が並んでいる。
「ただいま、お姉ちゃん」
「おかえり、彩花。今日は文学部、どうだった?」
「うん。文集の確認をしてきたよ。まだ印刷には渡してないけど、必要なことを整理できたから、少しずつ進んでると思う」
彩花が答えると、凛花は嬉しそうに頷いた。
「そっか。完成が楽しみだね」
「うん。私も早く見てみたいけど、今はちゃんと確認しておきたいな」
彩花はそう答え、鞄を置いた。
凛花は手元の資料をまとめながら、今日考えていたことを話し始めた。
「私もね、植物を買う前に何を確認したいのか、少し整理してみたんだ。育てやすさだけじゃなくて、部屋に置いたときにどんなふうに見えるかも考えたいなって」
「そうなんだ。候補は少し絞れた?」
「うん。でも、まだ決めてないよ。今度図書館で本を見てから、もう一回考えようと思ってる」
凛花はそう言って笑った。
彩花は姉の言葉を聞き、今朝の食卓で話したことを思い出した。
調べることも大切だが、好きだと思える気持ちも大切にしたい。
その考えは、自分の物語を書くときにも似ているように感じられた。
「お姉ちゃん、楽しそうだね」
「うん。まだ何も買ってないのに、考えてるだけで結構楽しいんだよね」
凛花は少し照れたように笑った。
彩花も微笑んだ。
何かを始める前の時間にも、楽しさがある。
そのことを、姉の姿から改めて感じた。
◇
夕食までの時間、彩花は自室で星模様のノートを開いていた。
昨日書き直した場面を読み返し、今日の授業中に思いついたことを確かめる。
少女が祖母へ手紙を書くまでの時間を、もう少し丁寧に描きたい。
その気持ちは変わっていなかった。
彩花はペンを持ち、少女が庭へ出る場面の続きを考えた。
窓から見えていた庭へ実際に出ると、部屋の中から眺めていたときとは違うものが目に入る。
冷たい空気。
土の色。
葉の向き。
小さな蕾。
少女はそれらを見ながら、祖母と一緒に植物を世話した日のことを思い出す。
彩花はその場面を少しずつ文章にしていった。
少女が庭へ出ると、朝の冷たい空気が頬に触れた。窓から見ていたときには分からなかった土の湿り気や、葉の裏側に残る小さな水滴が目に入る。少女はしゃがみ込み、祖母と一緒に植物を見ていた日のことを思い出した。
祖母はいつも、先に答えを教えるのではなく、少女へ問いかけていた。
土はどう見えるか。
昨日と何が違うか。
水をあげる前に、何を確かめればよいか。
少女はその問いを思い出しながら、目の前の植物を眺める。
彩花はそこまで書いて、ペンを止めた。
少女が祖母の言葉を思い出す場面は、以前より自然につながったように感じられた。
けれど、まだ何か足りない気もする。
(少女は、ただ教わったことを思い出してるだけじゃないんだよね。今は自分で見つけようとしてるんだ)
彩花は文章を読み返し、少女が自分で気づく瞬間をもう少し描きたいと思った。
ただし、すぐに続きを書くのではなく、少し考える時間を取ることにした。
窓の外では、夕方の光が薄くなっている。
彩花は今朝見た蕾を思い出した。
昨日とほとんど変わっていなかった。
それでも、今日も見に行ってよかったと思っている。
少女も同じように、変化が見つからない日を大切にできるだろうか。
彩花はその問いを胸に置き、ノートの端へ小さな印をつけた。
手紙の三行目は、まだ書かなかった。
今は、その言葉へ向かう少女の時間をもう少し描いていたかった。
◇
九条家では、悠真が帰宅すると、琴葉とハクが居間にいた。
ハクは悠真の姿を見つけると尻尾を揺らし、琴葉も嬉しそうに顔を上げた。
「おかえりなさい、お兄様」
「ただいま、琴葉。ハクも元気そうだね」
悠真はハクの背中を撫でながら、妹へ微笑んだ。
琴葉は今日は押し葉を開かず、以前選んだ紙の候補をもう一度見比べていたらしい。
「お兄様、今日は新しい紙を増やさなかったの。今あるものを見ていたら、どれもきれいだなって思って」
「そうなんだね。葉が乾いてから比べるのが楽しみだね」
「うん。でも、まだどれにするかは決めてないよ」
琴葉はそう言って、少し得意そうに笑った。
悠真は妹が急いで決めようとしていないことに頷いた。
「それでいいと思うよ。完成した葉を見てから考えた方が、琴葉も納得できるかもしれないしね」
「うん。彩花さんにも、いつか見てもらえたら嬉しいな」
琴葉の言葉に、悠真は穏やかに微笑んだ。
「完成したら、彩花さんに聞いてみよう。きっと、琴葉が大切に作ったことも伝わると思うよ」
琴葉は嬉しそうに頷いた。
悠真はそのあと自室へ戻り、学校の課題を進めた。
机の上には地域の歴史写真集が置かれている。
金曜日には航平と資料を見直す予定があるため、必要なページを確かめておきたい。
ただし、まずは今日の課題を終えることにした。
悠真はノートを開き、落ち着いて作業を進めた。
◇
夕食を終えた彩花は、葉模様の日記帳を開いていた。
今日の出来事を振り返りながら、少しずつ文章を書いていく。
朝、通学路の蕾を見たこと。
昨日と大きく変わっていなかったこと。
学校で友人と勉強したこと。
文学部で冬の文集の確認を進めたこと。
帰宅してから、星模様のノートの続きを少し書いたこと。
彩花は順番に書き留め、ペンを止めた。
今日は、何かが大きく変わった日ではなかった。
けれど、昨日とは違うことを考え、違う言葉を見つけることができた。
それだけでも、十分に大切な一日だったと思う。
日記帳を閉じたところで、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、悠真からメッセージが届いていた。
『彩花さん、こんばんは。今日も学校お疲れさま。今日は帰り道で、街路樹の枝先に小さな芽みたいなものを見つけたんだ。何の木なのかは分からないけど、彩花さんの蕾の話を思い出して、少し気になったよ』
彩花は文章を読み、思わず微笑んだ。
悠真も、今日の帰り道で小さなものを見つけていた。
しかも、自分が話した蕾のことを思い出してくれたという。
(悠真君も、見つけたんだ)
彩花は嬉しくなり、すぐに返事を打った。
『こんばんは、悠真君。今日もお疲れさま。街路樹の芽を見つけたんだね。何の木か分からなくても、そういう小さなものに気づくと嬉しいよね。私も今日は蕾を見てきたよ』
少しして、悠真から返信が届いた。
『今日はどうだった? 昨日より変わっていたかな』
彩花は画面を見つめ、少し考えた。
昨日より大きく変わっていなかったことを、そのまま伝えよう。
『今日はね、昨日とほとんど同じに見えたんだ。でも、ちゃんと見に行ってよかったなって思ったよ。毎日変わるわけじゃないんだなって分かったから』
送信すると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
しばらくして、悠真から返事が届く。
『そうなんだね。変わっていないように見える日もあるんだね。でも、彩花さんが毎日見ているからこそ、そういうことにも気づけるんだと思う』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。
自分が今日感じたことを、悠真は自然に受け止めてくれている。
何か特別な発見をしなければならないわけではない。
ただ、今日見たことを話すだけでよい。
その安心感が、彩花には嬉しかった。
『ありがとう、悠真君。そう言ってもらえると嬉しいな。悠真君が見つけた芽も、これからどうなるのか楽しみだね』
『うん。明日も通る道だから、少し見てみようと思うよ。彩花さんみたいに、毎日気づけるかは分からないけど』
彩花は思わず笑みをこぼした。
『毎日じゃなくてもいいと思うよ。気づいたときに見てみるだけでも、楽しいと思うから』
送信すると、悠真から感謝の言葉が返ってきた。
二人はしばらく、今日の学校での出来事についても話した。
彩花は文学部の文集の確認が進んでいることを伝え、悠真は金曜日に航平と昔の駅前写真の資料を見直す予定だと話した。
どちらも、まだ完成や結論には至っていない。
それでも、少しずつ進んでいることを伝え合えるのが嬉しかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み返していた。
今日、彩花が見守っている蕾には大きな変化がなかったらしい。
それでも、彼女は見に行ってよかったと感じている。
その言葉が、悠真の心に残った。
何かが変わることだけを楽しみにするのではなく、変わらない日も大切にする。
それは、彩花らしい考え方だと思った。
(彩花さんは、そういう時間もちゃんと見ているんだね)
悠真は机の上に置かれた写真集へ目を向けた。
昔の中央図書館の閲覧室を写した写真。
そこには、今とは違う机や窓の配置が残されている。
けれど、本を読む人たちの姿には、今の図書館と重なるものもあった。
変わったものと、変わらないもの。
その両方を見つけることが、歴史の資料を読む楽しさの一つなのかもしれない。
悠真はそう考えながら、写真集を開いた。
しばらくページを眺めていると、以前彩花と話したことが思い出された。
彼女は写真の中にいる人々の気持ちへ目を向けていた。
自分は建物や記録の変化に興味を持っていた。
同じ写真を見ていても、二人が気づくことは違う。
けれど、その違いがあるからこそ、一緒に見る時間が楽しかった。
(また、彩花さんと写真集を見たいな)
悠真はそう思い、静かに微笑んだ。
次に会う約束は、まだ決まっていない。
けれど、今度会ったときに話したいことは、今日もまた一つ増えた。
街路樹の芽のこと。
航平と調べている写真のこと。
彩花が見守っている蕾のこと。
そして、彼女が書いている物語が、どんなふうに進んでいるのかということ。
ただし、書きかけの物語については、完成まで急かさず待つつもりだった。
悠真は写真集を閉じ、机の上を片づけた。
◇
彩花はスマートフォンを置き、窓の外を眺めていた。
冬の夜空には雲が薄く広がり、遠くの街灯が静かに光っている。
今日も悠真と話せた。
それだけで、一日の終わりが少し温かく感じられる。
彩花は星模様のノートへ目を向けた。
少女が祖母へ書いている手紙は、まだ二行のままだ。
けれど、今日書き進めた場面によって、少女が何を見つめ、何を思い出しているのかが少しずつ見えてきた。
彩花はノートを開き、手紙の二行を読み返した。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
その言葉を見つめながら、彩花は今朝の蕾を思い出した。
今日は昨日とほとんど変わっていなかった。
けれど、見に行ったことを後悔していない。
少女も、きっと同じような日を過ごすことがあるのだろう。
祖母へ伝えたいことが見つからない日もあるかもしれない。
それでも、庭へ出て植物を眺める時間そのものが、少女にとって大切なのだと思う。
(……そうか。少女は、何かが変わったから見に行くんじゃないんだ)
彩花は静かに息を吸った。
変化を見つけるためだけではなく、そこにあるものを大切に思っているから、毎朝庭へ出る。
祖母と過ごした時間が、その習慣の中に残っている。
そう考えると、少女が手紙を書こうとしている理由も、少し違って見えてきた。
祖母へ何か特別な出来事を報告したいだけではない。
今も庭を見ていること。
祖母と過ごした時間を覚えていること。
その気持ちを伝えたいのかもしれない。
彩花はペンを取り、ノートの余白へ短く書き留めた。
『変わらない日も、見に行く理由がある』
それは手紙の三行目ではなかった。
物語を書く自分のためのメモだった。
彩花はその言葉をしばらく眺め、ゆっくりノートを閉じた。
今すぐ続きを書かなくてもよい。
今日見つけたことを、明日もう一度考えてみたい。
そう思った。
◇
夜が深まる少し前、彩花のスマートフォンがもう一度震えた。
悠真からのメッセージだった。
『彩花さん、今日は蕾の話を聞かせてくれてありがとう。俺も帰り道で見つけたものを、明日また少し気にしてみようと思う。お互い、寒いから気をつけようね』
彩花はその文章を読み、微笑んだ。
今日の会話を、悠真も大切にしてくれている。
そのことが嬉しかった。
『こちらこそありがとう、悠真君。明日も寒そうだから、暖かくして学校へ行ってね。私も蕾を見てみるよ。おやすみなさい』
送信すると、少しして悠真から返事が届いた。
『うん。彩花さんも暖かくして休んでね。おやすみなさい』
彩花はスマートフォンを机へ置き、明日の準備を確かめた。
教科書とノートは鞄に入っている。
制服も用意できている。
星模様のノートは机の上に置いたままだ。
彩花は部屋の明かりを消し、布団へ入った。
目を閉じると、今朝見た蕾が浮かんできた。
昨日とほとんど変わらない姿。
けれど、今日も確かにそこにあった。
明日はどうだろう。
少し変わっているかもしれない。
今日と同じかもしれない。
どちらでも、また見に行こうと思う。
そして、悠真にも話したい。
(明日も、悠真君に伝えたいことが見つかるといいな)
彩花はそう考えながら、ゆっくり眠りへ落ちていった。
水曜日の夜は、静かに更けていく。
まだ咲かない花を見守る時間も、次に会う約束を急がず待つ時間も、二人にとって少しずつ大切なものになっていた。




