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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第133話 火曜日の小さな変化と、君に伝えたいことがまた一つ増えました


 火曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には昨日よりも明るい空が広がっていた。冬らしい冷え込みは続いているものの、薄い雲の向こうから朝日が差し込み、カーテンの隙間に細い光の線を作っている。彩花は布団の中で少しだけ身体を伸ばし、枕元の時計を確かめてから、ゆっくり起き上がった。


 昨日は学校から帰ったあと、星模様のノートに書いている物語を少し進めることができた。少女が庭へ出る前の場面を整え、祖母との思い出につながる気持ちを考えていたが、手紙の三行目はまだ書いていない。彩花は机の上に置かれたノートを見つめ、昨夜の自分がそこで手を止めた理由を思い出した。


(昨日は、あそこで終わりにしてよかったと思う。次に何を書くか、まだちゃんと決まってないから)


 無理に続きを書けば文章は増えるかもしれないが、それが少女の気持ちに合っているとは限らない。彩花は最近、物語を完成させることと、物語の中にいる人の気持ちを大切にすることは、必ずしも同じ速度で進まないのだと感じていた。


 そのことを考えると、日曜日に中央図書館で悠真から言われた言葉が自然に浮かんでくる。完成したら読ませてもらえるのを楽しみにしているけれど、急がなくていい。そう伝えてくれた悠真の穏やかな声を思い出すたびに、彩花は自分の物語を丁寧に書き続けたいと思えた。


 昨夜のメッセージでも、二人はまた一緒に本を読みたいと伝え合っている。次に会う日程は決まっていないが、その約束を急いで作らなくても、悠真と話したいことは毎日の中で少しずつ増えていくようだった。


 彩花は制服へ着替え、鏡の前で髪を整えた。今日は学校の授業が終わったあと、文学部の活動予定を確かめることになっている。冬の文集『いつか、ここに』については、印刷前の最終確認が続いており、まだ正式な引き渡しは完了していない。


 学校でやるべきことを思い浮かべながら、彩花は鞄へ教科書をしまった。机の上の星模様のノートはそのまま置いていく。学校へ持っていく必要はないし、今は家で落ち着いて書き進める方が、自分には合っていると思った。


 最後にスマートフォンを確かめると、昨夜の悠真とのやり取りが残っていた。


『また一緒に本を見たり、ゆっくり話したりできたら嬉しいな』


 その言葉を読み返し、彩花は小さく微笑んだ。


(うん。私も、また会いたいな)


 声には出さずにそう答えてから、彩花はスマートフォンを鞄へしまい、階下へ向かった。


     ◇


 水瀬家の食卓には、温かなスープと焼いたパンが並んでいた。母の紗月は台所で飲み物を用意しており、父の耕助は朝の新聞を畳んでいる。姉の凛花は食卓の端に小さなメモ帳を置き、何かを確かめていた。


「おはよう、お姉ちゃん。今日も植物のことを調べてるの?」


 彩花が尋ねると、凛花は顔を上げ、少し照れたように笑った。


「おはよう、彩花。うん。でも、朝からずっと調べていたわけじゃないよ。昨日の夜に書いたメモを見直していただけ。窓辺の明るさを確かめた時間が、少し分かりにくくなっていたから」


 凛花はメモ帳を閉じ、彩花が座るための場所を空けてくれた。植物を育てたいという気持ちは変わっていないものの、まだ購入する種類を決めていないため、今は部屋の環境を確かめることを優先しているらしい。


 紗月がスープを運んできたところで、凛花は昨日気づいたことを話し始めた。


「部屋の中でも、窓のすぐ近くと少し離れたところじゃ、明るさが結構違うんだよね。最初は窓辺ならどこでも同じだと思っていたんだけど、実際に見てみるとそうでもなくて」


「そうなのね。冬と夏でも日差しの入り方は違うでしょうし、長く育てるなら季節のことも考えた方がいいかもしれないわ」


 紗月がそう答えると、凛花は頷いた。花屋でもらった資料にも、季節によって置き場所を調整する必要がある場合について書かれていたという。


 彩花は二人の話を聞きながら、今朝考えていた物語のことを思い出した。


「お姉ちゃん、実際に見てみないと分からないことって、やっぱりあるんだね」


「そうだね。調べたことは大事だけど、それだけで全部分かるわけじゃないんだなって思ったよ。彩花はどうしてそう思ったの?」


「私も、お話を書くときに似たことがあるなって思って。頭の中で考えているときには自然に思えても、文章にして読んでみると、ちょっと違うなって感じることがあるから」


 凛花は興味深そうに彩花の話を聞いた。


「なるほどね。書いてみてから気づくこともあるんだ」


「うん。だから、最初に考えたとおりに全部進めなくてもいいのかなって、最近思ってるの」


 彩花がそう答えると、耕助も穏やかに頷いた。何かを作るときには、最初の計画を大切にしながら、途中で分かったことを受け止める柔軟さも必要なのだろうという。


 彩花は父の言葉を聞き、少し考え込んだ。


 自分が書いている物語には、少女が祖母へ手紙を書くという大切な場面がある。そこへ向かう流れは変えたくないが、少女がどんな気持ちで言葉を選ぶのかは、書き進めながら少しずつ見えてきている。


 今は、その変化を急いで一つの答えにまとめる必要はないのかもしれない。


 朝食を終える頃には、窓から差し込む光が少し強くなっていた。彩花は食器を片づけ、上着を羽織って玄関へ向かう。紗月から今日は風が冷たいと聞いていたため、襟元をしっかり整えてから靴を履いた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 家族の声に見送られ、彩花は外へ出た。


 冷たい空気が頬に触れたが、空は晴れ間が広がっている。彩花は鞄を持ち直し、いつもの通学路へ歩き始めた。


     ◇


 青葉高校へ向かう道では、朝の日差しが街路樹の枝を照らしていた。冬の木々は葉を落としているものが多く、枝の形が空にはっきり浮かんで見える。彩花は信号を渡りながら、昨日も通った植え込みのことを思い出した。


 あの小さな蕾は、今日はどうなっているだろう。


 毎朝大きく変わるわけではないと分かっているが、それでも確かめたいと思う。彩花は通学路の曲がり角を抜け、植え込みが見える場所まで歩いた。


 枝先には、昨日と同じように小さな蕾が並んでいた。


 けれど、朝日を受けているためか、昨日より輪郭がはっきり見える。彩花は通行の邪魔にならない場所で足を止め、少しだけ近づいて眺めた。


(あれ……この蕾、昨日より少し開いてる?)


 枝の先にある一つの蕾は、先端の形が以前より緩んでいるように見えた。まだ花びらが開いているわけではなく、花が咲いたと言える状態でもない。それでも、何かが少しずつ進んでいることを感じられる変化だった。


 彩花は嬉しくなり、スマートフォンを取り出しかけた。


 悠真へ写真を送ってみようかと思ったのだ。


 けれど、すぐに手を止めた。今は登校途中で、周囲には歩いている人もいる。写真を撮るために長く立ち止まるより、まずは学校へ向かう方がよいだろう。


(あとで話せばいいよね。写真がなくても、今日見たことを伝えられるし)


 彩花は蕾へもう一度目を向けてから、歩き始めた。


 今朝見つけた小さな変化は、誰かにすぐ知らせなければ消えてしまうものではない。けれど、悠真に話したら、きっと自分と同じように興味を持って聞いてくれるだろう。


 そう考えるだけで、彩花の足取りは少し軽くなった。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が朝の教室でノートを整理していた。昨日の授業で扱った内容を確認し、今日必要な教材を机の上へ揃える。窓際から差し込む朝日は冬らしい淡い色をしており、教室の床へ細長い影を落としていた。


「おはよう、悠真。今日はずいぶん早いな」


 声をかけてきたのは航平だった。


「おはよう、航平。いつもとそれほど変わらないと思うけど、今日は少し余裕を持って来られたんだ」


「そうか。俺は途中でノートを忘れたかと思って鞄をひっくり返したから、朝からちょっと慌ただしかったよ」


 航平は苦笑しながら自分の席へ鞄を置いた。結局、ノートは別の教科書の間に挟まっていたらしく、忘れ物ではなかったという。


 悠真はその話を聞き、思わず微笑んだ。


「見つかってよかったね。今日はそのノートを使う授業があるから、忘れていたら困っていたかもしれない」


「本当にな。昨日、写真の資料を見てたときに机の上を広げすぎたんだと思う。片づけたつもりだったんだけどな」


 航平はそう言って、鞄からノートを取り出した。


 昨日話していた駅前写真の調査は、まだ続いている。撮影地点の候補は二つ残っており、年代も確定していない。悠真は友人が何か新しい資料を見つけたのか気になったが、朝の準備を終えるまでは急いで尋ねなかった。


 航平が席へ着き、必要なものを揃えたところで、悠真は声をかけた。


「昨日、写真の資料を見直したんだよね。何か気になるところはあった?」


「ああ。建物の屋根の形をもう一度比べてみたんだけど、写真が少し不鮮明でさ。似てるとは思うんだけど、まだ決め手にはならないな」


 航平はノートの端に描いた簡単な図を見せてくれた。


 そこには二つの候補地点から見えるはずの建物の位置が整理されていた。悠真は図を眺めながら、実際の写真に写っているものと、航平が推測していることを分けて考えた。


「この建物が同じものだと確認できれば、少し進みそうだね。でも、今の段階では別の建物の可能性も残っていると思う」


「そうなんだよ。だから、昔の地図も見てみようと思ってる。道路の向きが分かれば、候補を減らせるかもしれないし」


「いいと思う。俺も時間があるときに、写真集の関連するところをもう一度確かめてみるよ」


 航平は礼を言い、ノートを閉じた。


 悠真は友人が自分で調べることを楽しんでいる様子を見て、嬉しくなった。すぐに答えが出ないことを面倒だと思うのではなく、次に何を確かめればよいか考えている。


 その姿は、昨日の彩花が話していた小説の読み方とも、少し似ているように感じられた。


(彩花さんも、結末を急がずに読んでいるんだよね。何かが分かるまでの時間にも、ちゃんと意味があるのかもしれない)


 悠真はそう考えながら、授業の準備へ戻った。


     ◇


 青葉高校の教室では、彩花が朝のホームルームを終え、最初の授業へ向けて教科書を開いていた。周囲では生徒たちが必要な教材を取り出しており、教室には紙をめくる音や椅子を動かす音が重なっている。


 彩花は机の端に置いた小さなメモ帳へ視線を向けた。


 そこには、昨日の国語の授業で考えたことを忘れないよう、短い言葉が書かれている。


『説明しすぎず、行動で伝える』


 授業の内容をそのまま写したものではなく、自分の物語を書くときに意識したいことをまとめた言葉だった。


 彩花はそれを読み返し、昨日星模様のノートへ書き進めた場面を思い出した。


 少女が庭へ出る前、窓辺から外を眺める場面。


 その行動を通して、少女が何を気にかけているのかを伝えたいと思った。けれど、文章にしてみると、まだ説明が多い部分もあるように感じられた。


(今日帰ったら、もう一度読んでみようかな。昨日書いたときとは違うところが気になるかもしれないし)


 そう考えたところで、授業開始の合図が鳴った。


 彩花はメモ帳を閉じ、教科書へ視線を戻した。


 午前中の授業は、普段どおりに進んでいった。教師の説明を聞き、必要なところをノートへ書き留め、問題を解く。特別な出来事が起きたわけではないが、彩花は一つひとつの授業へ落ち着いて取り組むことができた。


 休み時間には、近くの席の友人と週末の課題について話した。


「水瀬さん、昨日の国語の授業で出てきた文章の構成って、少し難しくなかった?」


「うん。私も最初は迷ったよ。でも、どこで話題が変わっているのかを確かめたら、少し分かりやすくなった気がする」


 彩花は自分のノートを開き、授業で書き留めた内容を見せた。友人はそれを眺めながら、自分がどこで分からなくなったのかを説明してくれる。


 二人で教科書を確かめているうちに、文章のつながりについて少し理解が深まった。


「ありがとう、水瀬さん。家でもう一回読んでみるね」


「うん。私も復習しておこうと思ってる」


 友人が席へ戻ったあと、彩花はノートを閉じた。


 誰かに説明しようとすると、自分が理解できていなかった部分にも気づくことがある。今のやり取りも、ただ答えを伝えただけではなく、自分の考えを整理する時間になっていた。


 彩花はそのことを嬉しく思った。


     ◇


 昼休み、桜華学園の食堂では、生徒たちがそれぞれ昼食を取っていた。悠真は航平と向かい合って座り、午前中の授業について話していた。


 窓の外には青空が広がっているものの、校庭の木々は風に揺れている。室内は暖かく、食堂には食器の音や控えめな会話が響いていた。


「そういえば悠真、今週のどこかで写真の資料を見直すなら、放課後に少し時間を取れそうか?」


 航平が尋ねると、悠真は自分の予定を思い浮かべた。


「まだ今週の予定を全部確認できていないから、今日のうちに確かめてみるよ。無理に急がなくてもいいなら、都合の合う日にしよう」


「もちろん。俺もほかの用事がある日があるし、落ち着いて調べられるときでいい」


 航平はそう答え、昼食を続けた。


 悠真は友人の言葉に頷きながら、昨夜彩花と交わしたメッセージを思い出した。


 また一緒に本を読みたい。


 二人ともそう思っていることは分かったが、次に会う日程はまだ決めていない。学校生活や家族との時間、それぞれの予定があるため、無理に急いで約束する必要はなかった。


 それでも、いつかまた中央図書館で待ち合わせをする日を想像すると、自然に胸が温かくなる。


「悠真、何か考えごとか?」


 航平の声に、悠真は顔を上げた。


「うん。ちょっと、次に図書館へ行くときのことを考えていたんだ」


「写真の調査か?」


「それもあるけど……彩花さんとも、また一緒に本を見たいと思っていて」


 悠真が答えると、航平は少しだけ目を丸くしたあと、穏やかに笑った。


「そっか。日曜日、楽しかったって言ってたもんな」


「うん。昨日も少しメッセージで話したんだけど、彩花さんもまた一緒に行きたいって言ってくれたんだ」


「それなら、次の予定もそのうち決まりそうだな」


 航平は自然な調子でそう答えた。


 悠真は少し照れくさくなったが、否定はしなかった。


「そうだね。でも、お互いの予定もあるから、無理のないときに相談しようと思う」


「それがいいと思うぞ。楽しみな予定って、急いで決めなくても楽しみなままだろ」


 航平の言葉に、悠真は頷いた。


 友人は自分と彩花の関係について、必要以上に踏み込んでこない。それでも、楽しかったことを話せば素直に受け止めてくれる。


 悠真はその距離感をありがたく感じていた。


     ◇


 青葉高校の昼休み、彩花は教室で友人たちと昼食を取っていた。話題は午前中の授業から、放課後の予定へと移っている。


 文学部の冬の文集については、まだ印刷前の最終確認が続いている。今日は部員たちが集まる予定になっていたが、作業の内容は昨日までの確認状況によって変わる可能性があった。


「水瀬さん、今日も文学部?」


 近くの友人に尋ねられ、彩花は頷いた。


「うん。冬の文集の準備があるから、少し活動してくる予定だよ」


「もう完成しそうなの?」


「本文や表紙の確認は進んでいるんだけど、まだ印刷に渡す前の段階なんだ。だから、今は間違いがないか確かめているところだよ」


 彩花が説明すると、友人は興味深そうに頷いた。


「そうなんだ。文章を書くのも大変そうだけど、最後にまとめるのも大変なんだね」


「うん。でも、みんなで作っているものだから、ちゃんと確認してから完成させたいなって思う」


 彩花はそう答えながら、昨日の文学部での会話を思い出した。


 『いつか、ここに』という題名には、今いる場所を大切にする意味も感じられる。


 部員の一人がそうした考えを受け止めてくれたことが、彩花の心に残っていた。


 自分たちが今書いている文章は、完成すれば一冊の文集になる。いつか読み返したとき、当時の気持ちを思い出せるものになったら嬉しい。


 そのためにも、最後まで丁寧に確認したいと思った。


 昼食を終えたあと、彩花は窓の外へ目を向けた。


 朝よりも空が明るくなり、校庭には冬の日差しが広がっている。


 今朝見た蕾のことを思い出すと、悠真に話したいという気持ちがまた浮かんできた。


(悠真君、あの蕾のことを覚えてくれてるかな。前にも少し話したことがあるけど、今日の変化を聞いたら、どんなふうに思うんだろう)


 彩花は少し考えたあと、午後の授業が始まる前にスマートフォンを取り出すことはしなかった。


 今は学校の時間だ。


 今日見つけたことは、帰宅してから落ち着いて伝えればよい。


 そう考えると、不思議と焦る気持ちはなかった。


     ◇


 放課後、文学部の活動場所では、冬の文集についての確認が続いていた。


 机の上には印刷前の資料が並べられ、部員たちはそれぞれ担当している部分を見比べている。彩花も席へ着き、昨日確認した記録を開いた。


 すでに本文の配置や表紙の表記については、金曜日の段階で印刷担当の職員と確認を済ませている。昨日はその内容が正しく反映されているかを整理したが、正式な引き渡しはまだ終わっていない。


 今日は、担当の先生へ確認状況を報告するための資料を整えることになっていた。


「水瀬さん、昨日確認してもらったところ、記録にまとめておいたよ。もう一度見てもらえる?」


 部員の一人が声をかけ、彩花の前へ資料を置いた。


「うん。ありがとう。昨日の内容と違うところがないか、確かめてみるね」


 彩花は資料を受け取り、一つずつ目を通した。


 ページ順、題名の表記、確認した担当者の名前。細かな部分ではあるが、あとから分からなくならないよう、記録を残しておくことは大切だった。


 彩花は昨日の確認内容と照らし合わせ、問題がないことを確かめた。


「ここは大丈夫だと思う。昨日の記録と同じになってるよ」


「ありがとう。じゃあ、先生に見てもらう資料へ入れておくね」


 部員はそう答え、確認済みの印をつけた。


 しばらくすると、別の部員が表紙の題名について、文字の配置を改めて確かめたいと話した。


 すでに印刷担当者と確認した内容を勝手に変更するのではなく、今の資料が決定済みの形になっているかを確かめるためだった。


 彩花も一緒に見比べ、記録どおりになっていることを確認した。


「こういうのって、一度確認したから大丈夫って思っても、最後にもう一回見ると安心するよね」


 部員の一人がそう言うと、別の部員も頷いた。


「うん。早く完成したところを見たいけど、今はちゃんと確かめておきたいな」


 彩花はその会話を聞き、穏やかに微笑んだ。


 文集の完成を楽しみにしているのは、自分だけではない。


 部員たちもそれぞれの思いを込めて文章を書き、今は一冊の形にするための準備を進めている。


 そのことを感じると、確認作業も大切な時間に思えた。


 活動の終わりが近づいた頃、担当の先生が部室へ顔を出した。


 部員たちは今日までの確認状況を報告し、整理した資料を見せた。先生は内容を確かめたうえで、印刷前の最終的な手続きについては、必要な確認が揃ってから進めると説明した。


 そのため、この日も正式な引き渡しは行われなかった。


 彩花は少し残念に思う気持ちがないわけではなかったが、今は準備を整える段階なのだと理解していた。


 部員たちは資料を片づけ、次に確認することを共有してから活動を終えた。


 彩花も自分の持ち物を確かえ、部室を出た。


     ◇


 桜華学園では、悠真が放課後の予定を確認していた。


 今日は学校で必要な用事を終えたあと、特別な寄り道をせずに帰宅するつもりだった。航平との写真調査については、互いの予定を見比べてから日程を決めることになっている。


 教室へ戻ると、航平が自分の鞄を整理していた。


「悠真、今週の予定、確認できそうか?」


「うん。今日は帰ってからもう一度見てみるよ。明日には伝えられると思う」


「分かった。俺も家の予定を確かめておく」


 航平はそう答え、ノートを鞄へしまった。


 悠真は机の上に残っていた教科書を片づけながら、今日の授業を振り返った。


 朝には写真について話し、昼休みには彩花のことも少し話した。


 そのあとは普段どおり授業を受け、学校での用事を済ませている。


 昨日と同じように、今日も特別な出来事が続いたわけではない。


 けれど、悠真にはその何気ない時間が大切に思えた。


(彩花さんも、今日は学校でいろいろなことをしているんだろうな)


 彼女が文学部の文集を大切にしていることは知っている。


 書きかけの物語についても、少しずつ進めていると聞いていた。


 ただし、その具体的な内容はまだ知らない。


 悠真は完成したら最初に読ませてもらえるという約束を大切にしており、途中の内容を無理に尋ねるつもりはなかった。


 彼女がどんな物語を書いているのか気になる気持ちはある。


 それでも、今は待つ時間を楽しみたいと思っていた。


 校門を出ると、冬の夕方の空気が頬へ触れた。


 悠真は上着の襟元を整え、帰り道を歩き始めた。


 空には薄い雲が浮かんでいるが、西の方にはまだ明るさが残っている。


 歩きながら、ふと日曜日の図書館を思い出した。


 彩花が小説を読みながら、何かに気づいたようにページを止めていたこと。


 自分が声をかけずに待っていると、しばらくして彼女が顔を上げ、嬉しそうに続きを話してくれたこと。


 そのどれもが、悠真の中に静かに残っている。


(また、ああいう時間を過ごしたいな)


 そう思ったが、今すぐ予定を決めようとはしなかった。


 彩花には彩花の生活があり、自分にも学校や家族との時間がある。


 その中で都合の合う日を見つけられたら、また一緒に図書館へ行けばよい。


 悠真はそう考えながら、家へ向かった。


     ◇


 彩花が帰宅すると、居間では凛花が昨日のメモを整理していた。


 机の上には花屋でもらった資料と、部屋の日当たりについて書いた記録が並んでいる。


 彩花が挨拶すると、凛花は顔を上げて微笑んだ。


「おかえり、彩花。今日は文学部、どうだった?」


「ただいま。今日も文集の確認をしてきたよ。先生にも今の状況を見てもらったけど、まだ印刷に渡す前の確認が残ってるんだ」


「そっか。でも、少しずつ進んでるんだね」


「うん。完成が楽しみだけど、今は間違いがないようにしたいなって思ってる」


 彩花がそう答えると、凛花は頷いた。


 自分も植物を買う前に調べる時間を大切にしているため、彩花の言葉には思い当たるところがあるらしい。


「私も今日、もう一度候補を見比べてたんだけど、まだ決めなくていいかなって思ったよ。今度図書館へ行ったときに、本も見てみたいし」


「うん。私も一緒に探すよ。昨日見た棚の場所は覚えてるから」


「ありがとう。楽しみにしてるね」


 凛花は嬉しそうに笑った。


 彩花は姉と少し話したあと、自室へ戻った。


 制服から部屋着へ着替え、学校の鞄を机の横へ置く。


 窓の外では夕方の光が少しずつ薄くなっていた。


 彩花は机の上にある星模様のノートへ目を向けた。


 昨日は少女が庭へ出る前の場面を書き進めた。


 今日はその続きを考えてみたい。


 ただし、すぐにペンを走らせるのではなく、まずは昨日書いた文章を読み返すことにした。


 ノートを開くと、少女が窓から庭を眺めている場面が目に入った。


 朝の光、静かな部屋、外へ出ようとする少女の動き。


 彩花は一文ずつ読みながら、少女の気持ちが自然に伝わっているかを考えた。


(ここ、少し説明が多いかな。少女が何を考えているかを書きすぎてる気がする)


 彩花はペンを取り、気になった部分へ小さな印をつけた。


 すぐに消してしまうのではなく、どのように直せばよいか考えるための印だった。


 少女は庭へ出る前に、窓辺で少し立ち止まる。


 そのとき、何を見ているのか。


 何を思い出しているのか。


 彩花は祖母と少女が一緒に植物を見ていた日の回想を読み返した。


 祖母は少女へ何かを一方的に教えるのではなく、土の様子を確かめるよう問いかけていた。


 少女が自分で気づくことを大切にしていたのだろう。


 その思い出を持つ少女なら、今も植物を見るときに、祖母から教わったことを自然に思い出すかもしれない。


 彩花はそう考え、昨日書いた文章の一部を整えた。


 少女が窓辺で立ち止まり、庭の方へ目を向ける。


 それから、祖母と過ごした日のことを思い出す。


 説明を少し減らし、少女の動きが見えるように書き直すと、以前より自然につながるように感じられた。


 彩花はしばらく文章を眺め、静かに頷いた。


(うん。こっちの方が、少女らしい気がする)


 手紙の三行目は、今日もまだ書かなかった。


 今は少女がその言葉を選ぶまでの時間を、もう少し大切にしたかった。


     ◇


 九条家では、悠真が帰宅すると、琴葉が居間で麗華と話していた。


 近くではハクが穏やかに寝そべっており、悠真の姿に気づくと尻尾を揺らした。


「おかえりなさい、お兄様」


「ただいま、琴葉。今日は何をしていたの?」


「お母様と、押し葉に使う紙のことを少しお話ししていたの。でも、まだ葉っぱは開いていないよ」


 琴葉はそう言って、机の上に置かれた数枚の紙を見せてくれた。


 淡い生成り色や薄い緑色の紙が並んでいるが、どれを使うかはまだ決めていないらしい。


 悠真は妹の話を聞きながら、葉が乾くまで待つという約束を守っていることに頷いた。


「ちゃんと待っているんだね。どんな紙が合うか、考えるのも楽しそうだ」


「うん。でもね、今日は少し迷っちゃったの。葉っぱが乾いたら色が変わるかもしれないから、今決めても合わなくなるかもしれないでしょう?」


「そうだね。だったら、完成に近づいてからもう一度比べてみるといいと思うよ」


 琴葉は安心したように微笑んだ。


 麗華も隣で頷き、今は候補を考えるだけで十分だと伝えた。


 悠真はその様子を見て、彩花が書いている物語のことを思い出した。


 完成を急がず、今できることを少しずつ進める。


 琴葉の押し葉も、彩花の物語も、それぞれ違うものではあるが、大切にしたい気持ちには似ているところがあるのかもしれない。


 琴葉は紙を片づけながら、ふと思い出したように顔を上げた。


「お兄様、彩花さんは今日は学校だったんだよね?」


「うん。青葉高校へ行っているよ。俺も今日は学校だったから、まだ今日のことは話していないんだ」


「そっか。彩花さんも、学校で楽しいことがあったらいいね」


 琴葉の言葉に、悠真は穏やかに微笑んだ。


「そうだね。俺もそう思うよ」


 そのあと、悠真は自室へ戻り、学校の課題へ取りかかった。


 机の上には地域の歴史写真集が置かれている。


 航平と調べている写真について、今週もう一度資料を見直す予定があるため、必要なところを確認しておきたかった。


 けれど、まずは今日の授業で出された課題を終えることにした。


 悠真はノートを開き、落ち着いて作業を進めた。


     ◇


 夕食を終えた彩花は、自室で明日の準備をしていた。


 机の上には教科書とノートが並び、星模様のノートは先ほど書き直したところで閉じられている。


 窓の外はすっかり暗くなっており、部屋の明かりが机の上を柔らかく照らしていた。


 彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。


 朝、通学路の蕾が少し変わって見えたこと。


 学校で友人と授業の内容を確かめたこと。


 文学部で冬の文集の確認を進めたこと。


 帰宅してから、星模様のノートの文章を少し整えたこと。


 順番に書いていくうちに、今日もいろいろなことがあったのだと感じられた。


 特別に大きな出来事はなかった。


 けれど、どれも自分にとって大切な一日の一部だった。


 日記帳を閉じようとしたところで、彩花は今朝見た蕾のことを思い出した。


(そうだ。悠真君に、まだ話してなかった)


 彩花はスマートフォンを取り出した。


 昨日の夜に交わしたメッセージが残っている。


 次に会う日をまだ決めていなくても、こうして今日の出来事を伝えられることが嬉しい。


 彩花は少し考えてから、文章を打ち始めた。


『悠真君、こんばんは。今日も学校お疲れさま。今日はね、通学路でいつも見ている蕾が、昨日より少し変わっているように見えたんだ。まだ花は咲いていないけど、少しずつ開く準備をしているのかなって思ったよ』


 送信すると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 すぐに返事が来るとは限らない。


 悠真にも学校の課題や家族との時間があるのだから、落ち着いたときに読んでもらえればよいと思った。


 彩花はその間に、明日の授業で必要なものをもう一度確かめた。


 しばらくして、スマートフォンが小さく震えた。


『こんばんは、彩花さん。今日もお疲れさま。あの蕾、少し変わっていたんだね。彩花さんが前から気にかけていたから、俺もどうなっているのか気になっていたよ』


 彩花は文章を読み、嬉しくなった。


 悠真が通学路の蕾について覚えていてくれたことが、何より嬉しかった。


 大きな出来事ではない。


 誰かにとっては、ただの道端の植物かもしれない。


 けれど、彩花が大切に見守っていることを、悠真も覚えていてくれる。


(こういうところが、悠真君らしいな)


 彩花は微笑みながら返事を打った。


『覚えていてくれてありがとう。まだ咲いていないから、明日も見てみようと思ってるの。咲いたら、また悠真君にも話したいな』


『うん。楽しみにしているよ。でも、毎日大きく変わらなくても、彩花さんが見つけたことを聞けるのは嬉しいな』


 その言葉を読んだ瞬間、彩花の胸が温かくなった。


 自分が見つけた小さな変化を、悠真は大切に受け止めてくれる。


 何か特別な成果がなくても、話してよいのだと思える。


 彩花はその安心感を、うまく言葉にできなかった。


 少し考えてから、素直な気持ちを伝えることにした。


『ありがとう、悠真君。そう言ってもらえると嬉しいよ。私も、悠真君が学校で見つけたこととか、読んだ本の話を聞くのが好きだから』


 送信したあと、彩花は少し照れくさくなった。


 以前にも、悠真と話す時間が好きだと伝えたことがある。


 淡い青色の花柄のカードにも、その気持ちを書いた。


 それでも、こうして何度も同じようなことを伝えたくなる。


 自分でも少し不思議だった。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読んでいた。


 通学路の蕾が少し変わって見えたという話は、ほんの小さな出来事だった。


 けれど、悠真にはその文章から、彩花が朝の道で立ち止まり、枝先を丁寧に眺めている姿が想像できた。


 彼女は以前から、季節の変化や道端の小さなものによく目を向けている。


 そのことを思い出すと、悠真は自然に微笑んだ。


(彩花さんは、今日もあの蕾を見ていたんだね)


 自分が普段歩く道にも、きっと同じように小さな変化があるのだろう。


 ただ、気づかずに通り過ぎていることも多い。


 彩花と話すようになってから、悠真は以前よりも、身近な景色へ目を向けることが増えたように感じていた。


 彼女が見つけたものを、自分も知りたいと思う。


 そして、自分が見つけたものも、彼女に話したくなる。


 その気持ちは、少しずつ自然なものになっていた。


 彩花から届いた最後のメッセージを読み返す。


『私も、悠真君が学校で見つけたこととか、読んだ本の話を聞くのが好きだから』


 悠真はしばらく画面を見つめた。


 彼女が自分の話を楽しみにしてくれていることは、これまでも何度も感じていた。


 それでも、こうして言葉にしてもらえると、胸の奥に静かな嬉しさが広がる。


 悠真は返事を打ち始めた。


『ありがとう、彩花さん。俺も、彩花さんに話したいことが少しずつ増えている気がするよ。今日は航平と昔の駅前写真について話したんだ。まだ撮影した場所は決まっていないけど、昔の地図も見比べてみようって考えているところだよ』


 送信すると、しばらくして彩花から返事が届いた。


『そうなんだね。航平君、調べるのを楽しんでいるんだね。写真だけじゃ分からないことも、地図を見たら少し分かるかもしれないね』


 悠真はその言葉に頷いた。


 彩花は航平と直接調査をしているわけではない。


 それでも、友人が何を大切にしているのかを考えながら話を聞いてくれる。


 その姿勢が嬉しかった。


『うん。まだ分からないことも多いけど、急がず確かめてみるよ。彩花さんの文集も、準備が進んでいるんだよね』


『うん。今日も確認をしてきたよ。先生にも今の状況を見てもらったけど、まだ印刷前の確認が残っているんだ。完成したら嬉しいけど、今は最後まで丁寧に進めたいなって思ってる』


 悠真はその文章を読み、日曜日に図書館で交わした会話を思い出した。


 彩花は、自分が書いている物語についても、納得できるまで大切に書きたいと話していた。


 冬の文集も同じように、完成を楽しみにしながら、途中の時間を大切にしているのだろう。


『彩花さんたちが大切に作っているものだから、きっと完成したときは嬉しいだろうね。俺も楽しみにしているよ』


 そう送ると、彩花から感謝の言葉が返ってきた。


 悠真はスマートフォンを置き、机の上の写真集へ目を向けた。


 今日も彩花と話せた。


 それだけで、一日の終わりが少し温かく感じられる。


 けれど、まだ話したいことは残っている。


 今度会ったときには、写真集の続きを一緒に見たい。


 彩花が読んでいる小説についても、どんな展開になったのか聞いてみたい。


 そして、彼女が見守っている蕾が咲いたら、その話も聞きたい。


 悠真はそう考えながら、穏やかに微笑んだ。


     ◇


 彩花はスマートフォンを机へ置き、葉模様の日記帳をもう一度開いていた。


 先ほど今日の出来事を書き終えたばかりだったが、悠真と話したことで、最後に少しだけ書き添えたいことができた。


 今朝見た蕾の変化を、悠真が一緒に楽しみにしてくれたこと。


 そして、悠真も自分に話したいことが少しずつ増えていると伝えてくれたこと。


 彩花はその二つを書き留め、ペンを置いた。


 文字を読み返すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 日曜日に会ってから、まだ二日しか経っていない。


 それなのに、昨日も今日も、悠真へ伝えたいことが生まれている。


 学校での出来事、読んでいる本、文学部の文集、通学路の蕾。


 どれも特別に大きな話題ではない。


 けれど、悠真と話すと、その一つひとつが大切なものに感じられた。


(悠真君に話したいことって、毎日少しずつ増えていくんだね)


 彩花はそう考えながら、日記帳を閉じた。


 机の上には星模様のノートが置かれている。


 少女の手紙は、まだ二行のままだ。


 けれど、今日書き直した文章によって、少女が庭へ向かう気持ちは少し見えやすくなったように思う。


 彩花はノートの表紙を軽く撫でた。


 いつか完成したら、最初に悠真へ読んでもらう。


 その約束は、今も変わっていない。


 ただ、完成する日を急いで決める必要はなかった。


 明日も学校があり、文学部の活動があり、家族との時間がある。


 その中で、少しずつ物語を書き進めていけばよい。


 彩花は机の明かりを消し、布団へ入った。


 窓の外では、冬の夜風が静かに吹いている。


 目を閉じると、今朝見た小さな蕾が浮かんできた。


 まだ花は咲いていない。


 けれど、昨日とは少し違う姿を見せていた。


 それは、自分と悠真の間にある気持ちにも、少し似ているように感じられた。


 昨日と今日で、何かが大きく変わったわけではない。


 次に会う約束も、まだ決まっていない。


 それでも、互いに話したいことが増え、相手の一日を知りたいと思う気持ちは、確かに積み重なっている。


(明日も、何か見つけられたらいいな。悠真君に話したくなるような、小さなことでも)


 彩花はそう思いながら、ゆっくり目を閉じた。


 火曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 まだ咲かない蕾を見守るように、二人の時間もまた、急がず静かに続いていた。

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