第132話 月曜日の教室で、昨日の君を思い出してしまうのはどうしてだろう
月曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の外には冬らしい薄い雲が広がっていた。昨日は日差しのある穏やかな日曜日だったが、今日は少し冷え込みが強いらしく、布団から出した指先に冷たい空気が触れる。枕元の時計はいつもの起床時間を示しており、彩花はまだ眠気の残る目をこすりながら、ゆっくり身体を起こした。
机の上には、昨夜閉じた葉模様の日記帳が置かれている。その隣には星模様のノートがあり、さらに少し離れた場所には、学校へ持っていく教科書と筆記具が揃えられていた。日曜日の夜に片づけたときと何も変わっていないはずなのに、彩花には机の上の景色が少し違って見えた。
(昨日、悠真君と図書館に行ったんだよね。もう月曜日なのに、まだ昨日のことを考えてる)
思い出したのは、図書館の入口で悠真を見つけた瞬間だった。自動扉の向こうに彼の姿が見えて、目が合ったとたん、胸の奥がふわりと温かくなった。昨日はその嬉しさを十分に言葉にできたつもりだったが、一晩経った今も、あのときの悠真の表情が鮮明に残っている。
彩花はベッドから下り、制服へ着替えながら小さく息を吐いた。学校へ行けば授業も文学部の活動もあり、考えなければならないことはいくつもある。昨日が楽しかったからといって、今日の生活まで落ち着かなくなってしまうのは少し困る。
そう思いながらも、鏡の前で髪を整えていると、昨日の自分が同じように鏡を見つめ、マフラーの巻き方を何度も確かめていたことを思い出した。今日の身支度には迷う必要がないはずなのに、気づけば少しだけ頬が緩んでいる。彩花は鏡に映った自分を見て照れくさくなり、鞄を持って部屋を出た。
◇
水瀬家の食卓では、母の紗月が温かな味噌汁を器へよそっていた。父の耕助は新聞を読みながら朝のニュースについて話しており、姉の凛花は窓際に置いた小さな温度計の表示を確かめている。昨日から自分の部屋の日当たりを調べている凛花は、植物を置く場所についてまだ考えているらしかった。
「おはよう、彩花。今日は寒いから、いつもより少し厚手の上着にした方がいいかもしれないわね」
「おはよう、お母さん。うん、そうするね。外、昨日より曇ってるみたいだし」
彩花が席へ着くと、紗月は味噌汁を渡しながら、昨日の図書館は混んでいなかったかと尋ねた。彩花は利用者がそれなりにいたことや、悠真と一緒に一般書の棚を見てから閲覧席で本を読んだことを話した。母は頷きながら聞いていたが、昨日すでに帰宅後の話を聞いているため、同じことを詳しく尋ね直すことはなかった。
凛花はその会話が落ち着くのを待ってから、自分の調べものについて話し始めた。
「昨日、時間を変えて窓辺の明るさを見てみたんだけど、午後になると思っていたより日が入りにくいんだよね。花屋さんでもらった紙を読み返したら、やっぱり候補をもう少し考えた方がよさそうだった」
「そうなんだ。昨日、図書館で園芸の本がある棚を見つけたよ。今度一緒に行ったら、場所を案内できると思う」
「ありがとう。じゃあ、次に時間が合うときにお願いしようかな。まだ買う植物は決めていないし、急がず調べてみるね」
凛花はそう言って、手元のメモを折り畳んだ。そこには部屋の明るさや温度について、昨日確かめたことが書かれているらしい。彩花は姉が楽しそうに考えている様子を見て、自分が物語の続きを書くときにも、こんなふうに少しずつ確かめる時間が必要なのだろうと思った。
耕助は二人の話を聞きながら、何かを始める前に調べることも楽しみの一つだと話した。凛花は笑って頷いたが、彩花はその言葉を聞き、昨日悠真と見た歴史写真集のことを思い出す。昔の閲覧室の写真も、ただ眺めるだけでは分からないことがあり、説明文を読み比べることで新しい見方が生まれていた。
「彩花、どうしたの? 何か思い出した?」
紗月に尋ねられ、彩花は自分がしばらく箸を止めていたことに気づいた。慌てて首を振ると、母は急かすことなく、穏やかな表情で続きを待ってくれた。
「昨日、悠真君と見た写真集のことを考えてたの。昔の図書館の写真なんだけど、説明を読むと、写真だけでは分からなかったことが見つかるんだよね」
「そうなのね。彩花は昔から、本の中に書かれていないことまで想像するのが好きだったものね」
母の言葉に、彩花は少し照れながら頷いた。自分が好きなことを家族が覚えていてくれるのは嬉しいし、そのことを悠真も大切にしてくれている。昨日、写真集を自分の方へ寄せてくれた彼の何気ない仕草を思い出すと、胸の奥がまた少し温かくなった。
朝食を終えた彩花は食器を片づけ、玄関で上着を羽織った。凛花は今日は学校から帰ったあと、花屋でもらった資料を整理するつもりだという。彩花はそれを聞いて頷き、帰宅したらまた話を聞かせてほしいと伝えた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。寒いから気をつけてね」
紗月の声に見送られ、彩花は玄関の扉を開いた。冬の空気は思った以上に冷たかったが、昨日より少し厚手の上着を選んだおかげで、歩き始めればそれほど寒さは気にならない。彩花は鞄を持ち直し、いつもの通学路へ向かった。
◇
青葉高校へ向かう道には、通勤する人や登校中の生徒たちが行き交っていた。週の初めらしい少し慌ただしい空気が流れており、信号待ちをする人々の間からは、週末に出かけた場所や今日の授業について話す声が聞こえてくる。彩花はその中を歩きながら、以前から気にかけていた植え込みの近くへ差しかかった。
冬の枝先には、まだ小さな蕾がついていた。先週見たときと比べて大きく変わったようには見えないが、近づいてよく確かめると、いくつかの蕾が以前よりふっくらしているようにも感じられる。彩花は通行の邪魔にならない場所で少しだけ足を緩め、枝先へ目を向けた。
(昨日はここを通らなかったから、二日ぶりなんだよね。まだ咲いていないけど、少しずつ変わっているのかな)
彩花は手袋をした指を鞄の持ち手へ添え、蕾を眺めた。花が開く日を楽しみにしているものの、今すぐ咲いてほしいと焦る気持ちはなかった。昨日、悠真と話した書きかけの物語も、琴葉が乾くのを待っている押し葉も、時間をかけること自体に意味があるように感じられる。
植え込みから視線を戻すと、ちょうど青信号に変わったところだった。彩花は周囲の人の流れに合わせて歩き出し、学校へ向かう道を進む。今日の授業が終わったら、星模様のノートを開いてみようかと考えたが、何を書くかまではまだ決めなかった。
青葉高校の校門が見えてくる頃には、登校する生徒の数が増えていた。友人同士で週末の話をする生徒たちの声が重なり、校舎の窓には曇り空の淡い光が映っている。彩花は門をくぐり、いつもの教室へ向かった。
教室に入ると、すでに何人かの同級生が席についていた。週末の宿題を確かめている生徒や、窓際で友人と話している生徒がいて、彩花が挨拶すると、それぞれが自然に返してくれる。彩花は自分の席へ鞄を置き、机の中を整理してから、今日使う教科書を取り出した。
そのとき、近くの席にいた女子生徒が声をかけてきた。以前、彩花が読んでいる小説について、読み終わったら感想を聞きたいと言ってくれた同級生だった。
「水瀬さん、おはよう。あの小説、週末に読み終わった? この前、続きが気になるって言ってたでしょう」
「おはよう。まだ最後までは読めてないんだけど、少し進んだよ。幼なじみの二人が、ようやくお互いの存在に気づきそうなところまで来たの」
彩花が答えると、同級生は興味深そうに身を乗り出した。以前からその作品の題名が気になっていたらしく、どんなところが面白いのかをもう少し聞きたいという。彩花は結末を知らないまま話せる範囲を考え、登場人物の歩き方や、昔の場所が変わってしまったことへの反応が丁寧に描かれていると伝えた。
「大きな事件が起きるわけじゃないんだけど、二人が同じ場所に近づいていくところを読んでいると、すごく気になるんだ。早く会ってほしいと思うのに、まだ会わない時間も大切なんだろうなって感じるの」
「へえ、そういうお話なんだ。私は再会する場面が気になっちゃうけど、そこまでの気持ちもちゃんと書いてあるんだね」
「うん。だから、最後まで読んでから、どんなふうに感じたか話せたらいいなって思ってる」
同級生は嬉しそうに頷き、急がなくていいから読み終わったら教えてほしいと伝えた。彩花はその言葉に安心し、昨日悠真にも同じように感想を聞いてほしいと話したことを思い出す。同じ本について話す相手が二人いることは、彩花にとって少し新鮮だった。
会話が終わると、彩花は教科書を開き、朝の授業へ備えた。窓の外では雲の切れ間から少しだけ日差しが差し込み、机の端を淡く照らしている。昨日は図書館で悠真と同じ机を囲んでいたのに、今日は学校の教室で一人、自分の教科書を開いている。その違いを感じながらも、彩花は今日の時間を大切に過ごそうと思った。
◇
一方、桜華学園高等部では、九条悠真が朝の教室で森川航平と話していた。窓際の席からは冬の校庭が見え、運動部の朝練習を終えた生徒たちが校舎へ戻ってくる姿がある。悠真は鞄を机の横へ置き、授業の準備を済ませたところで、航平から声をかけられた。
「おはよう、悠真。昨日は中央図書館に行ってたんだろ? 前に話してた写真集、何か面白いところが見つかったか?」
「おはよう、航平。うん。昔の閲覧室について、写真の前後にある説明をもう少し読んできたよ。建物の使われ方が変わってきたことが分かって、写真を見るときの印象も少し変わったんだ」
悠真が答えると、航平は興味深そうに頷いた。彼自身も昔の駅前写真について調べているため、写真だけでは判断できないことがあるという話には思い当たるところがあるらしい。悠真は昨日の写真集で確かめた内容を、まだ分かっていない部分と区別しながら説明した。
「そういう説明が残ってると助かるよな。俺が調べてる駅前の写真は、候補を二つまで絞ったけど、どっちの場所から撮ったのか決める根拠が足りなくてさ。建物の形だけじゃ、似たような角度に見えるところもあるんだよ」
「撮影された年代も、まだはっきりしていないんだよね。無理に一つへ決めるより、確認できる資料をもう少し探した方がよさそうだと思う」
「俺もそう考えてる。せっかく調べるなら、なんとなく似てるって理由だけで結論を出したくないしな」
航平はそう言って、自分のノートを開いた。そこには写真に写っている建物や道路の向きについて、これまでに確かめたことが整理されている。悠真はノートを見せてもらいながら、二人が候補としている場所について話したが、その場で新しい結論が出ることはなかった。
それでも航平は、調べること自体を楽しんでいるようだった。分からないことが残っているからこそ、次にどんな資料を見ればよいのか考えられる。悠真は友人のそんな姿を見て、昨日彩花が小説の登場人物たちの再会を急がず読んでいたことを思い出した。
「そういえば悠真、昨日は一人で図書館に行ったわけじゃないんだよな?」
航平が何気ない調子で尋ねたため、悠真はノートから顔を上げた。金曜日に彩花と会う予定があることは、航平にも話していた。隠すようなことではないと分かっているのに、改めて尋ねられると少しだけ照れくさくなる。
「うん。彩花さんと待ち合わせて、一緒に本を見てきたんだ。お互いに読んでいるものの話ができて、楽しかったよ」
「そっか。よかったな。お前、今の顔を見る限り、かなり楽しかったみたいだし」
航平はからかうような大声を出すこともなく、穏やかに笑った。悠真は自分の表情がそんなに分かりやすかったのかと少し驚いたが、否定する理由も見つからなかった。
「……そんなに顔に出ていたかな」
「少なくとも、昨日のことを話してるときはな。別に悪い意味じゃないぞ。好きなことを誰かと一緒に楽しめるのは、いいことだろ」
航平の言葉に、悠真は素直に頷いた。昨日、彩花と並んで本を読んでいたときには、何か特別なことをしなければならないとは感じなかった。彼女が本を読む横顔を見て、自分も写真集を開き、気になったところがあれば言葉を交わす。それだけの時間が、思っていた以上に心地よかった。
「ありがとう、航平。俺も、そう思うよ」
悠真が答えると、航平は満足そうに笑い、ノートを閉じた。朝の予鈴が鳴るまでにはまだ少し時間があったが、周囲の生徒たちは次第に席へ戻り始めている。二人も授業の準備を整え、話の続きをまた時間があるときにすることにした。
◇
午前中の授業が進むにつれ、彩花は少しずつ学校の時間へ意識を戻していた。国語の授業では文章の構成について考える場面があり、教師が説明する例文を読みながら、書かれていることと書かれていないことの違いに目を向けた。彩花はノートへ必要な内容をまとめつつ、自分が書いている物語にも同じような難しさがあることを感じていた。
星模様のノートに書いている少女の物語では、祖母との思い出や、庭で育つ植物が大切な意味を持っている。けれど、そのすべてを説明してしまえば、読んだ人が自分で感じる余地が少なくなるかもしれない。逆に、何も書かなければ、少女がなぜ手紙を書こうとしているのか伝わりにくくなる。
(昨日、悠真君に話したことと似てるな。登場人物の気持ちを、言葉だけじゃなくて行動でも伝えられるようにしたいんだよね)
彩花は教師の説明を聞きながら、ノートの端へ小さく印をつけた。授業中に創作の続きを考え始めるわけにはいかないため、今は授業の内容を理解することへ集中する。あとで見返したときに、自分の物語にも応用できるところがあれば考えようと思った。
昼休みになると、教室の空気は朝よりも賑やかになった。机を寄せて弁当を食べる生徒や、購買へ向かう生徒たちがいて、週末の出来事についての会話もあちこちから聞こえてくる。彩花も昼食の準備をし、近くの友人たちと話しながら弁当を開いた。
話題は週末に見た映画や買い物のことから、今週の授業予定へと移っていった。彩花は友人たちの話を聞きながら、ときどき自分の考えを伝えた。昨日図書館へ行ったことを尋ねられたときには、悠真と本を見て過ごしたと自然に答えたが、それ以上のことを無理に説明する必要は感じなかった。
「水瀬さん、図書館って休日でも結構人がいるんだね。静かに読める場所はあった?」
「うん。閲覧席も使えたよ。人はいたけど、みんな静かに本を読んでいたから、落ち着いて過ごせたと思う」
「いいなあ。私も今度、試験前だけじゃなくて普通に本を探しに行こうかな」
友人の言葉に彩花は微笑み、気になる本があるなら棚を見て回るだけでも楽しいと話した。中央図書館には小説だけでなく、地域の歴史や園芸について調べられる本もある。昨日悠真と歩いた棚の並びを思い出しながら説明すると、友人は興味深そうに聞いてくれた。
その会話が落ち着いたあと、彩花は弁当の残りを食べながら窓の外へ目を向けた。午前中は曇っていた空が少し明るくなり、校庭の端にある木々の枝へ淡い日差しが届いている。昨日の今頃は、ちょうど悠真と図書館へ向かう準備をしていたのだろう。
そう考えたところで、彩花は思わず小さく笑ってしまった。
「どうしたの、水瀬さん?」
近くの友人に尋ねられ、彩花は慌てて首を振った。自分でも何がおかしかったのかうまく説明できなかったが、昨日の時間を思い出して自然に笑ってしまったことが少し恥ずかしい。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと昨日のことを思い出しただけ」
友人は不思議そうにしながらも、それ以上は追及せず、午後の授業の話へ戻った。彩花も会話へ加わりながら、昨日の思い出が今日の学校生活の中に静かに残っていることを感じていた。
◇
桜華学園の昼休み、悠真は航平と一緒に昼食を取っていた。午前中の授業で扱った内容について話したあと、航平は昔の駅前写真を調べるために、今週どこかで資料を見直したいと考えていることを伝えた。まだ具体的な日程は決めていないため、悠真は自分の予定を確認してから相談しようと答えた。
「急がなくていいよ。俺もまだ整理したいことがあるし、候補の場所を確かめるなら、今ある資料をもう一度見ておきたいんだ」
「そうだね。写真に写っているものを見落としていないか、確認してみよう」
悠真が頷くと、航平は少し考え込んだあと、話題を変えた。昨日の図書館で何か新しく借りた本はあるのかと尋ねられ、悠真は今読んでいる写真集がまだ途中なので、新しく借りることはしなかったと答える。彩花も読みかけの小説を持ってきており、二人でそれぞれの本を読んだ時間があったことを話した。
「へえ。一緒に行って、別々の本を読んでた時間もあったのか」
「うん。最初は棚を見ながら話していたんだけど、途中で閲覧席へ移動してね。彩花さんは小説を、俺は写真集を読んでいたんだ」
「それ、結構いい時間だったんじゃないか? ずっと話してなくても気まずくないってことだろ」
航平の言葉に、悠真は箸を止めて少し考えた。確かに、昨日は彩花が小説へ集中している間、自分も写真集を読んでいた。彼女がページを閉じたときには何か気になることがあったのだろうと思ったが、すぐに声をかける必要は感じなかった。
「そうだね。彩花さんが隣にいることは分かっていたけど、お互いに自分の本を読んでいられたんだ。あとで話したときも、自然に続きを聞けたし」
「だったら、相性がいいのかもしれないな。まあ、俺が決めることじゃないけど」
航平は笑いながらそう付け加えた。悠真はその言葉を聞いて、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。相性という言葉を、これまで深く考えたことはなかったが、彩花と一緒にいると落ち着くという感覚には、確かに思い当たるところがある。
(彩花さんも、昨日は同じように感じてくれていたんだよね)
帰り際、彩花は一緒にいると何を話そうか考えすぎなくても大丈夫だと言ってくれた。その言葉を思い出すと、悠真の胸には静かな嬉しさが広がる。自分だけが楽しいと思っていたのではなく、彩花も同じ時間を心地よく感じてくれていたのだ。
航平は悠真の表情を見て、何か言いかけたようだったが、結局それ以上はからかわなかった。代わりに、今度写真集の気になるページを見せてほしいと頼み、悠真も快く頷いた。昼休みの終わりが近づく頃には、二人の話題は午後の授業へ移っていた。
◇
放課後、彩花は文学部の活動場所へ向かっていた。廊下には部活動へ向かう生徒たちの足音が響き、窓の外では運動部の掛け声が聞こえてくる。冬の夕方は日が傾くのが早く、まだ放課後になったばかりなのに、校舎の端には少し長い影ができていた。
文学部では、冬の文集『いつか、ここに』について、印刷前の最終確認を待つ作業が続いていた。金曜日には印刷担当の職員と表紙や本文の配置について確認を済ませているが、正式な引き渡しが完了したわけではない。部員たちはそのことを理解したうえで、今できる範囲の確認を進めていた。
彩花が入室すると、すでに何人かの部員が机を囲んでいた。机の中央には確認用の資料が置かれており、ページ順や表紙の表記について、これまでに確かめた内容がまとめられている。彩花は挨拶をして席へ着き、担当していた部分の記録を開いた。
「水瀬さん、金曜日に確認したところ、もう一度見てもらってもいいかな。内容は変わっていないんだけど、最終的に渡す前に、記録と照らし合わせておきたくて」
部員から声をかけられ、彩花は頷いた。新しく文章を書き直す段階ではなく、これまでに決めたことが正しく反映されているかを確かめる作業だったため、彩花は資料を一つずつ見比べた。題名の表記、ページの順序、担当者の確認欄などを順番に追い、気になるところがあれば周囲の部員へ尋ねる。
作業は地味だったが、彩花には大切な時間に思えた。文集には部員それぞれが書いた文章が集まっており、その一つひとつを読者へ届けるためには、最後の確認を丁寧に進める必要がある。以前なら完成に近づくほど早く形にしたい気持ちが強くなったかもしれないが、今は急がず確かめることにも意味があると感じていた。
「ここは、金曜日に確認したとおりで大丈夫だと思う。表紙の表記も、記録と同じになってるよ」
「ありがとう。じゃあ、この部分は確認済みにしておくね。あとは担当の先生と印刷の方の最終的な確認を待つことになるかな」
部員はそう言って記録へ印をつけた。彩花は資料を元の位置へ戻し、周囲の部員たちが別の部分を確かめている様子を見守った。誰か一人が急いで進めるのではなく、互いに確認しながら形を整えていく空気が、今の文学部にはあった。
しばらくして、作業の区切りがついたところで、部員の一人が文集の題名について話し始めた。『いつか、ここに』という言葉を最初に聞いたときと、完成が近づいた今とでは、少し印象が違うという。彩花もその話に頷き、題名が持つ意味を考えた。
「最初は、これからどこかへ向かうような言葉だと思ってたんだけど、今は、今いる場所を大切にする言葉にも聞こえるんだよね」
彩花がそう話すと、近くの部員は興味深そうに顔を上げた。文集に集まった作品はそれぞれ違う内容だが、書いた人が今感じていることや、残しておきたいものが文章になっている。だからこそ、完成した文集をあとで読み返したとき、その頃の自分たちが何を考えていたのか思い出せるかもしれない。
「それ、いいね。今ここにいる私たちが書いたものが、あとで誰かのところへ届くって考えると、ちょっと楽しみになる」
部員の言葉に、彩花は微笑んだ。自分の星模様のノートに書いている物語は、まだ誰かへ渡す段階ではない。それでも、文学部の文集が少しずつ完成へ近づいていることを見ると、自分の文章もいつか最後まで書きたいという気持ちが強くなる。
ただし、今すぐ完成させなければならないわけではなかった。文集には文集の進み方があり、星模様のノートには別の時間が流れている。彩花はその違いを大切にしながら、残っている作業へ戻った。
◇
桜華学園では、悠真が放課後の用事を終え、教室へ戻っていた。窓から差し込む夕方の光は朝より柔らかく、机の上には授業で使ったノートが置かれている。悠真は忘れ物がないか確かめながら、今日の学校生活を振り返った。
朝には航平と写真について話し、授業では新しい内容を学び、昼休みには昨日の図書館のことを少し話した。特別な出来事が続いたわけではないが、普段どおりの一日を過ごせたことに安心している。悠真は鞄へノートをしまい、スマートフォンの画面を確かめた。
彩花から新しいメッセージは届いていなかった。昨日の夜におやすみを伝え合ってから、今日はまだ連絡を取っていない。お互いに学校がある月曜日なのだから、それは自然なことだと分かっている。
(彩花さんも、今頃は文学部の活動をしているのかな。冬の文集の確認が進んでいるって話していたし、忙しいかもしれないね)
悠真は画面を閉じ、鞄を肩へ掛けた。彩花がどんな一日を過ごしているのか気になるが、だからといってすぐに確かめる必要はない。会ったときやメッセージを交わしたときに、それぞれの出来事を話せることも楽しみの一つだった。
廊下へ出ると、ちょうど航平が別の教室から戻ってくるところだった。二人は自然に並んで歩き始め、校舎の出口へ向かう。途中、航平は今週のうちに写真の資料をもう一度整理するつもりだと話し、悠真も時間が合えば一緒に確かめようと答えた。
「悠真、昨日の写真集って、返却期限はまだ先なんだよな?」
「うん。まだ少し余裕があるよ。必要なら、気になっているページをまとめておくね」
「助かる。俺の調べてる駅前の写真と直接つながるかは分からないけど、昔の建物の記録の見方は参考になりそうだし」
航平はそう言って笑った。悠真も頷きながら、昨日彩花と見た閲覧室の写真を思い出す。彼女が昔の利用者たちの気持ちを想像していたことを航平へ話そうかとも考えたが、今は写真の調査について話しているため、無理に別の話題へ移す必要はなかった。
校門へ向かう途中、二人はそれぞれの帰り道について話した。航平は帰宅後に資料を少し見直す予定だという。悠真は自分も写真集の続きを読もうと思っていると伝え、校門を出たところで友人と別れた。
冬の夕方の空気は冷たかったが、空には薄い雲の切れ間から淡い光が残っていた。悠真は上着の襟元を整え、家へ向かって歩き始める。昨日は同じ時間帯に彩花と図書館の入口で別れたことを思い出し、少しだけ足を緩めた。
あのとき、彩花は帰り道へ歩き出してから一度振り返り、小さく手を振ってくれた。悠真はその姿を見送ったあと、自分も家へ帰った。ほんの短い出来事だったのに、今日になっても、その表情を思い出すことができる。
(また会える日を楽しみにしてるって、次に話したときに伝えられたらいいな)
悠真はそう考えながら、歩く速度を元へ戻した。次に会う予定はまだ決まっていないし、今すぐ約束を作る必要もない。けれど、また一緒に本を読みたいという気持ちは、昨日よりも少しはっきりしているように感じられた。
◇
文学部の活動を終えた彩花が校舎を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。部員たちと挨拶を交わし、昇降口で靴を履き替えると、外から冷たい風が入り込んでくる。彩花は上着の前を整え、鞄を肩へ掛けて校門へ向かった。
今日の活動では、冬の文集について確認できる部分を整理することができた。まだ正式な引き渡しは終わっていないため、印刷が始まったわけではないが、完成へ向かう準備が少しずつ整っていることを感じられた。彩花はそのことを嬉しく思いながら、帰り道を歩き始めた。
朝に見た植え込みの近くへ差しかかると、夕方の光の中で枝先の蕾が小さな影を作っていた。彩花は朝より少し離れた位置からその様子を眺め、今度は立ち止まらずに通り過ぎる。朝に確かめたばかりなのだから、数時間で大きく変わっていなくても不思議ではない。
それでも、明日もまた見てみようと思った。
帰宅すると、居間では凛花が花屋でもらった資料を広げていた。机の上には昨日記録した部屋の明るさや温度についてのメモが並び、候補にしている植物の特徴を見比べているらしい。彩花が挨拶すると、凛花は顔を上げて微笑んだ。
「おかえり、彩花。学校はどうだった?」
「ただいま。今日は文学部で、文集の確認をしてきたよ。まだ印刷には入ってないけど、少しずつ準備が進んでるの」
「そっか。完成が楽しみだね。私は今日も植物のことを調べてたんだけど、置き場所を考えると、最初にいいなって思っていたものとは違う候補も気になってきたんだ」
凛花は資料を少し横へ寄せ、彩花が座れる場所を空けてくれた。彩花は上着を脱いでから隣へ座り、姉が調べたことを聞いた。まだどの植物を買うかは決まっていないものの、凛花は自分の部屋で無理なく育てられるものを選びたいと考えているらしい。
「最初は見た目だけで決めそうになってたけど、調べてみると、育てる場所のことも大切なんだなって思ったよ」
「うん。お姉ちゃんが楽しそうに調べてるのを見ると、買う前の時間も大事なんだなって思う」
彩花がそう答えると、凛花は少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。二人はしばらく資料を見比べたが、今日のうちに何かを決めることはしなかった。彩花も、自分が昨日図書館で見つけた園芸の棚についてもう一度話し、今度一緒に行くときに本を探してみようと提案した。
そのあと、彩花は自室へ戻り、学校の鞄を机の横へ置いた。制服から部屋着へ着替え、今日の授業で使ったノートを取り出す。国語の授業で書き留めた文章の構成についての説明を読み返すと、朝に考えた自分の物語のことが再び浮かんできた。
星模様のノートを開く前に、彩花は少しだけ考えた。昨日、悠真と図書館で話したことを、そのまま物語へ入れる必要はない。けれど、言葉にしなくても伝わる気持ちや、誰かを待つ時間の大切さについて、自分なりに考えることはできる。
彩花はノートを開き、前回書いたところを読み返した。
物語の中では、少女が祖母と一緒に庭の植物を見ていた日の回想が続いている。少女が祖母へ書こうとしている手紙は、まだ二行のままだ。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花はその二行を読み、すぐに三行目を書き足すことはしなかった。今の少女がどんな気持ちで手紙を書いているのか、もう少し丁寧に考えたい。祖母と過ごした時間を思い出すことが、少女にとってどんな意味を持つのかを確かめてから、次の言葉を選びたかった。
(昨日、悠真君が急がなくていいって言ってくれたからかな。前より、ちゃんと考えてから書こうって思える)
彩花はペンを持ち、手紙そのものではなく、少女が庭へ出る前の場面について少し書き進めた。朝の光が窓辺へ届く様子や、植物の状態を確かめようとする少女の動きを、必要なところだけ選んで文章にしていく。何度か書き直しながらも、彩花は急がずに言葉を整えた。
しばらくして手を止めると、机の上には新しく書いた文章が残っていた。物語が大きく進んだわけではないが、少女が何を大切にしているのか、少しだけ見えやすくなった気がする。彩花はノートを閉じ、満足したように小さく息を吐いた。
◇
九条家では、悠真が帰宅すると、琴葉が居間で本を読んでいた。ハクはその近くで穏やかに寝そべっており、悠真の足音に気づくと顔を上げて尻尾を揺らす。悠真は妹へ挨拶をし、ハクの背中を撫でてから、琴葉が読んでいる本へ目を向けた。
「おかえりなさい、お兄様。今日は学校で、航平さんと写真のお話をしたの?」
「ただいま、琴葉。うん。昔の駅前の写真について、まだ分からないところを話してきたよ。琴葉は今日は何を読んでいるの?」
「葉っぱの形が載っている本だよ。押し葉を開くのはまだ先だけど、どんな形の葉っぱがあるのか見ていたくなったの」
琴葉はそう言って、本のページを少し悠真の方へ向けた。そこには形の違う葉がいくつも紹介されており、琴葉は自分が選んだ葉と似ているものを探しているらしい。悠真は妹の話を聞きながら、昨日彩花が押し葉の完成を楽しみにしていると言ってくれたことを思い出した。
「彩花さんも、琴葉の押し葉が完成するのを楽しみにしてくれているよ」
「うん。昨日聞いて嬉しかったから、今日は本を見ながら、どんなふうに残そうかなって考えてたの。でも、まだ決めないつもりだよ」
琴葉は少し誇らしそうに答えた。悠真はその姿を見て、妹が自分で考える時間を楽しんでいることを嬉しく思った。押し葉を乾かす作業はすぐに終わるものではないが、その間にもできることはある。悠真は琴葉の隣へ少し腰を下ろし、本に載っている葉の形について話を聞いた。
夕食の時間が近づくと、麗華が居間へ顔を出した。琴葉は本を閉じ、しおりを挟んでから片づける。悠真も自室へ戻り、鞄から今日の授業で使ったものを取り出した。
机の上には、まだ読み終えていない歴史写真集が置かれている。悠真はその表紙を見つめ、昨日彩花と一緒に開いたページを思い出した。写真の中に写る人々について彼女が考えていたことは、自分一人ではなかなか思いつかなかった見方だった。
(彩花さんと話すと、同じものを見ていても違うことに気づけるんだよね)
悠真は写真集を開き、昨日読んだ部分の続きを確かめた。そこには地域の施設が時代とともにどのように使われてきたかについて、いくつかの説明が記されている。写真だけで判断できることと、文章によって確かめられることを分けながら読み進めるうちに、航平と調べている写真についても、同じように資料を整理する必要があると感じた。
ただし、今夜のうちに何か新しい結論を出すつもりはなかった。悠真は気になったページをメモし、写真集を閉じる。学校での課題も残っているため、まずは今日やるべきことを済ませてから、必要なときに続きを読もうと考えた。
◇
夕食を終えた彩花は、自室で明日の準備を進めていた。机の上には教科書とノートが並び、星模様のノートは先ほど書き進めたところで閉じられている。窓の外はすっかり暗くなっており、部屋の明かりが机の上を柔らかく照らしていた。
今日の文学部では、冬の文集について確認できるところを整理した。家へ帰ってからは、姉の植物の話を聞き、自分の物語も少し書き進めることができた。月曜日らしい慌ただしさはあったものの、振り返ってみれば落ち着いた一日だったように思う。
彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を書き始めた。学校で同級生と小説の話をしたこと、文学部の文集が少しずつ完成へ近づいていること、帰宅後に凛花と植物について話したこと。順番に書いているうちに、ふと昨日の図書館のことが頭に浮かんだ。
今日も何度か、悠真のことを思い出していた。
朝に机を見たときも、通学路の蕾を眺めたときも、昼休みに友人と図書館の話をしたときも、昨日の時間が自然に心へ浮かんできた。けれど、そのせいで今日の出来事が薄れてしまったわけではない。むしろ、昨日の嬉しさが残っていたからこそ、今日の何気ない出来事にも少し違う目を向けられたように感じる。
(悠真君と会った次の日って、こんなふうになるんだね。昨日のことを思い出すたびに、また会いたいなって思っちゃう)
彩花はペンを止め、少し照れくさそうに微笑んだ。次に会う約束はまだしていないし、すぐに予定を決めなければならないわけでもない。それでも、また同じ場所で本を読みたいという気持ちは、昨日から変わらず胸の中にある。
そのとき、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、こんばんは。今日は学校、お疲れさま。昨日一緒に見た写真集の続きを少し読んだよ。彩花さんと話したことを思い出しながら読むと、前とは違うところが気になって面白かった』
彩花は文章を読み、思わず頬を緩めた。自分もちょうど昨日のことを考えていたため、悠真から同じ時間を思い出していたという言葉が届いたことが嬉しかった。彼がどんなところに気づいたのか気になったが、まずは今日の自分の出来事も伝えたいと思った。
『こんばんは、悠真君。悠真君も学校お疲れさま。私は今日、文学部で冬の文集の確認をしてきたよ。まだ印刷は始まっていないけど、少しずつ準備が進んでるの。それから、昨日話した小説のことを学校でも聞かれたんだ』
送信して少し待つと、悠真から返事が届いた。
『文集の準備、進んでいるんだね。彩花さんたちが大切に作っているものだから、完成が楽しみだよ。小説の方は、学校でも感想を聞きたい人がいるんだね』
彩花は悠真の言葉を読み、嬉しくなった。冬の文集について以前から話していることを覚えていてくれるのも、自分が読んでいる小説に興味を持ってくれるのもありがたい。何か特別な言葉を選ばなくても、今日の出来事を自然に伝えられることが心地よかった。
『うん。まだ読み終わってないから、最後まで読めたら話そうと思ってるよ。悠真君にも感想を聞いてほしいから、もう少し待っててね』
『もちろん。急がなくていいからね。彩花さんが最後まで読んで、どんなふうに感じたのか聞けるのを楽しみにしてるよ』
彩花はその返事を読み、昨日の図書館で交わした会話を思い出した。悠真はいつも、彼女が何かを完成させたり読み終えたりすることを楽しみにしてくれるが、急がせることはしない。その穏やかな気遣いが、今の彩花には何より嬉しかった。
少し迷ってから、彩花はもう一つメッセージを打った。
『それとね、今日も昨日の図書館のことを何度か思い出してたんだ。一緒に本を読めて、本当に楽しかったなって』
送信したあと、彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。昨日も楽しかったことは伝えているのに、今日になって改めて同じような言葉を送ってしまった。けれど、今の気持ちを伝えたいと思ったのだから、取り消すつもりはなかった。
◇
九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読んでいた。学校での出来事について話していた流れの中で、彼女が昨日の図書館を何度も思い出していたと伝えてくれたことに、胸の奥が温かくなる。悠真自身も今日、朝から何度も昨日の時間を思い返していた。
航平と話していたときも、写真集を開いたときも、帰り道を歩いていたときも、彩花が笑ってくれた場面が自然に浮かんできた。彼女も同じように過ごしていたと知ると、離れた場所にいても、昨日の時間が二人の中に残っているのだと感じられた。
(彩花さんも、昨日のことを思い出してくれていたんだ。俺だけじゃなかったんだね)
悠真は少し考えてから、返事を打ち始めた。嬉しい気持ちをそのまま伝えたいが、あまり大げさな言葉にして彼女を困らせたくはない。昨日、直接話したときと同じように、今の自分が感じていることを自然に言葉へすればよいと思った。
『俺もだよ、彩花さん。今日、学校で写真の話をしているときも、帰り道でも、昨日のことを思い出していたんだ。また一緒に本を見たり、ゆっくり話したりできたら嬉しいな』
送信すると、悠真はスマートフォンを机へ置き、少しだけ窓の外へ目を向けた。冬の夜空には雲がかかっており、遠くの街灯が淡く光っている。彩花が今どんな表情でメッセージを読んでいるのかは分からないが、彼女が嬉しいと思ってくれたらいいと願った。
しばらくして、スマートフォンが再び震えた。
『うん。私もまた一緒に行きたいな。次に会えるときも、いろんな本の話ができたらいいね』
悠真はその文章を読み、自然に微笑んだ。次に会う具体的な予定はまだ決まっていない。それでも、彩花もまた会いたいと思ってくれていることが分かり、胸の奥にあった期待が静かな喜びへ変わっていく。
悠真は返事を打ち、明日も学校があることを考えて、そろそろ休もうと伝えた。彩花からも同じようにおやすみの言葉が届き、二人のやり取りは穏やかに終わった。
スマートフォンを置いたあと、悠真は机の引き出しへ目を向けた。そこには以前彩花から受け取った淡い青色の花柄のカードが、大切にしまわれている。今夜は取り出さなかったが、そこに書かれた言葉は今もはっきり覚えていた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
昨日、彩花は自分と一緒にいると何を話そうか考えすぎなくても大丈夫だと言ってくれた。そして今日も、また一緒に本を読みたいと伝えてくれた。その言葉が少しずつ積み重なり、悠真の中で彼女と過ごす時間の大切さが、以前よりもはっきりしたものになっている。
けれど、その気持ちを今すぐ何かの形にしなければならないとは思わなかった。彩花が大切にしている物語を急がせたくないのと同じように、二人の間にあるものも、無理に先へ進める必要はない。今は彼女と話せること、また会いたいと思えることを大切にしたかった。
◇
彩花はスマートフォンを机へ置き、葉模様の日記帳をもう一度開いていた。先ほど今日の出来事を書き終えたばかりだったが、悠真とメッセージを交わしたことで、最後に少しだけ書き添えたいことができた。
昨日の図書館を、悠真も今日になって思い出していたこと。
そして、また一緒に本を読みたいと思ってくれていること。
彩花はその二つを短く書き留め、ペンを置いた。文字を読み返すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。今日一日はそれぞれ別の学校で過ごしていたのに、夜になって言葉を交わすと、昨日の図書館で隣に座っていたときのような安心感があった。
(また会いたいって、私だけが思ってるわけじゃないんだね)
そのことが嬉しくて、彩花は日記帳を閉じたあともしばらく机の前に座っていた。窓の外では冬の風が静かに吹いており、遠くから車の通る音が聞こえてくる。明日も学校があり、文学部の文集もまだ完成していない。読みかけの小説も、星模様のノートの物語も、これから少しずつ進めていくことになる。
けれど、今日の彩花は、そのどれかを急いで終わらせたいとは思わなかった。
昨日の図書館で過ごした時間が大切だったように、今日の学校で友人と話したことも、文学部で文集を確認したことも、姉と植物について考えたことも、それぞれに意味がある。そんな毎日の中で、悠真とまた会える日が訪れるのなら、そのときには今日までの出来事をたくさん話せるだろう。
彩花は机の明かりを消し、布団へ入った。
昨日の朝は、悠真に会うまでの時間が長く感じられた。
けれど今日は、次に会う日がまだ決まっていなくても、不思議と落ち着いていられる。悠真が同じようにまた会いたいと思ってくれていることを、今夜の言葉で知ることができたからかもしれない。
目を閉じると、図書館の入口で微笑んでくれた悠真の姿が浮かんだ。
その記憶は昨日より遠くなったはずなのに、彩花の胸の中では少しも色褪せていなかった。
月曜日の夜は、静かに更けていく。
二人が次に同じ場所で本を開く日は、まだ決まっていない。それでも、それぞれの毎日の中で相手を思い出す時間は、昨日の約束が終わったあとも、確かに続いていた。




