第131話 日曜日の図書館で、君に会うまでの時間がこんなにも長い
日曜日の朝、水瀬彩花は、いつもより少し早く目を覚ました。枕元の時計を確認すると、まだ七時を過ぎたばかりで、窓の外には冬の朝らしい淡い光が広がっている。休日ならもう少し眠っていてもよかったが、目を閉じ直してみても、昨夜から胸の奥に残っている楽しみな気持ちは静まらなかった。
今日は午後一時半に、青凪市中央図書館の入口で悠真と待ち合わせている。約束を交わしたのは金曜日の夜で、昨日もメッセージで時間と場所を確認したばかりなのに、彩花は何度もそのことを思い出していた。二人で図書館へ行くのは初めてではないし、顔を合わせればきっといつもどおり本の話ができるはずだが、それでも今日という日が少し特別に感じられる。
(まだ六時間以上もあるんだよね。こんなに早く起きたって、待ち合わせの時間が早くなるわけじゃないのに)
彩花は布団の中で小さく笑い、ゆっくり身体を起こした。机の上には昨日使った星模様のノートが閉じられており、その隣には葉模様の日記帳が置かれている。昨夜、明日の約束を書き残した日記帳を見つめると、あの短いやり取りが夢ではなかったことを確かめられるような気がした。
窓辺へ歩いてカーテンを開くと、庭木の細い枝が風に揺れていた。空は晴れているものの、冬らしい冷たさがガラス越しにも伝わってきそうで、彩花は昨日椅子の背に掛けておいたマフラーへ視線を向ける。悠真も暖かくして来てくれるだろうかと考えたところで、自分が昨夜同じことをメッセージで伝えていたのを思い出した。
着替えを済ませて机へ向かい、今日持っていく鞄をもう一度確認する。読みかけの小説、小さなメモ帳、筆記具、財布、ハンカチが入っていることを確かめたあと、彩花は星模様のノートに手を伸ばしかけて止まった。まだ完成していない物語を持っていけば、悠真に少しだけ見せることもできるかもしれないが、完成したら最初に読んでもらうという約束は、途中の文章を見せることとは違うように思えた。
(今日は、このノートは置いていこう。悠真君には、ちゃんと最後まで書けたときに読んでほしいから)
ノートを机の中央へ戻すと、彩花はその表紙を軽く撫でた。物語の中で少女が祖母へ書いている手紙は、まだ二行のままだが、昨日は少女と祖母が一緒に庭で植物を見ていた日の回想を書き進めることができた。すぐに完成へ近づいたわけではなくても、少女が何を大切にしているのか、以前より少し理解できた気がしている。
その物語を悠真に読んでもらう日を想像すると、胸の奥に期待と緊張が同時に広がった。けれど今日は、その日を急ぐためではなく、悠真と同じ場所で本を選び、好きなことを話せる時間を楽しみたい。彩花はそう考えながら、鞄の口を閉じて階下へ向かった。
◇
水瀬家の食卓には、焼きたてのパンと温かなスープが並んでいた。母の紗月は台所で最後の皿を用意しており、父の耕助は新聞を畳んで食卓の端へ置いている。姉の凛花はすでに席へ着いていて、彩花が入ってくると、いつもより少し楽しそうな顔をした。
「おはよう、彩花。今日はずいぶん早いんだね。昨日も早起きだったけど、日曜日までいつもの時間に起きるなんて、珍しくない?」
「おはよう、お姉ちゃん。なんとなく目が覚めちゃっただけだよ。まだ時間はあるから、朝ごはんを食べたら少し本を読もうかなって思ってるの」
彩花が椅子を引くと、凛花はそれ以上からかわず、スープの器を少し横へ寄せて場所を空けてくれた。その何気ない気遣いに礼を言って座ると、紗月が焼きたてのパンを皿へ載せながら、今日の予定について尋ねてきた。
「彩花、図書館へ行くのは午後一時半だったわよね。お昼ごはんは家で食べていくの?」
「うん。そのつもりだよ。少し早めに出るけど、慌てなくても間に合うようにしたいから」
「それなら、十二時より少し前に食べられるようにしておくわね。寒いから、外へ出る前に温かいものを食べていった方がいいでしょう」
紗月の言葉に彩花が頷くと、耕助も新聞から顔を上げて、中央図書館の周辺は日曜日になると人の出入りが増えることがあると話した。特に入口付近では待ち合わせをする人もいるため、相手が見つからなかったら無理に動き回らず、連絡を取って確かめるとよいという。彩花は父の助言を聞きながら、悠真とはすでに入口で会うと決めているものの、建物の外側なのか中へ入ったところなのかまでは細かく話していなかったことに気づいた。
「そういえば、入口って言っても、外と中があるよね。着いたら連絡するようにしようかな」
「それがいいと思うわ。寒い中でずっと待っている必要はないものね」
凛花はパンをちぎりながら二人の話を聞いていたが、彩花が落ち着いたところで、昨日花屋へ行ったときの話を始めた。窓辺の明るさや室温について店員に相談した結果、育てたいと思っていた植物の中にも、今の部屋では管理が難しいものがあると分かったらしい。候補を絞り込むため、今日は自分の部屋の日当たりを時間ごとに確かめるつもりだという。
「昨日は買わなくて正解だったと思う。見た目だけで決めたら、あとから困っていたかもしれないし。彩花も、お話を書くときに調べてから決めることってあるでしょう?」
「あるよ。自分が知らないことをそのまま書くと、あとで変だって気づくことがあるから。でも、調べて分かったことを全部書けばいいわけでもないんだよね」
彩花がそう答えると、凛花は興味深そうに眉を上げた。何を残して何を省くのかが難しいという話になり、彩花は昨日書いた祖母と少女の回想を思い出しながら、説明を増やしすぎると登場人物の気持ちが見えにくくなることもあると話した。ただし、物語の具体的な内容までは口にせず、自分が今考えている書き方についてだけ伝えた。
凛花は最後まで聞いてから、「それって、植物を育てるのにも似ているかもしれないね」と笑った。必要なことを知っていても、毎日全部をやればよいわけではなく、その日の状態を見て判断することが大切なのだという。彩花は姉の言葉に頷き、二人が別々のことに取り組みながら、少し似たところで悩んでいるのを面白く感じた。
朝食が終わる頃には、窓から入る光が先ほどより明るくなっていた。彩花は食器を台所へ運び、紗月の手伝いをしながら、今日の外出について家族が特別扱いしすぎずにいてくれることをありがたく思った。それでも、悠真と会うと口にしたときの自分の声が少し弾んでいたことには、きっと姉も気づいているのだろう。
◇
九条家では、悠真が朝食を終えたあと、妹の琴葉と一緒にハクの様子を見に行っていた。白い毛並みのサモエドは、兄妹の姿を見つけると嬉しそうに尻尾を揺らし、琴葉がしゃがむのを待ちきれないように鼻先を近づけてくる。悠真はハクが勢いよく飛びつかないよう声をかけながら、その背中をゆっくり撫でた。
「お兄様、今日は図書館へ行くんでしょう? 彩花さんと会うって、昨日お話ししていたものね」
「うん。午後一時半に中央図書館で待ち合わせているんだ。琴葉は今日は何をする予定なの?」
「押し葉はまだ開かないつもりだから、お母様と本を見ながら、できあがったときに使う紙を考えようと思っているの。でも、まだ決めない方がいいんだよね?」
琴葉は確認するように悠真を見上げた。昨日、押し葉をどんな形で残すか話し合ったとき、葉が完全に乾いてから背景の紙を比べようと決めている。悠真は妹がその約束を覚えていたことに頷き、紙の色や質感を見て楽しむだけなら、今からでもできると伝えた。
「実際に葉を置いてみるのは、もう少しあとにしよう。琴葉が選んだ葉だから、できるだけきれいに残したいしね」
「うん。お兄様が帰ってきたら、どんな紙がよさそうだったかお話しするね。彩花さんにも、押し葉のお話をするの?」
「昨日、彩花さんが聞いてみたいって言ってくれたんだ。だから、琴葉が楽しみにしていることも伝えてこようと思うよ」
琴葉は嬉しそうに微笑んだが、少し考えたあとで、押し葉が完成したら彩花にも見てもらえるだろうかと尋ねた。悠真はその場ですぐ約束するのではなく、琴葉自身が見せたいと思っているなら、完成したときに彩花へ聞いてみようと答える。押し葉はまだ乾燥途中であり、どのような形に仕上がるかも決まっていないため、先の予定を無理に作る必要はなかった。
そのやり取りを聞いていた母の麗華が、少し離れた場所から二人へ声をかけた。琴葉に午前中の予定を確かめたあと、悠真へ向き直り、今日は自分で中央図書館まで向かうつもりなのかと尋ねる。悠真は頷き、待ち合わせの少し前に着くよう、余裕を持って家を出る予定だと説明した。
「それなら、帰りの時間だけ分かったら知らせてちょうだい。予定が変わることもあるでしょうし、無理に早く帰ってくる必要はないけれど、こちらも心配せずに済むから」
「分かりました。彩花さんの予定もありますから、帰る時間は二人で相談して決めようと思います」
麗華は息子の答えを聞き、穏やかに微笑んだ。以前の悠真は、何かを決めるときに自分の予定や責任を先に整理することが多かったが、最近は相手の都合を確かめることを自然に口にするようになっている。その変化を母親として嬉しく感じながらも、麗華はあえて指摘せず、ハクと遊ぶ琴葉の方へ視線を戻した。
悠真は母の表情の意味を深く考えず、自室へ戻って持ち物を確認した。机には借りている地域の歴史写真集があり、昔の中央図書館の閲覧室について記されたページには、昨日まとめたメモのページ番号が控えられている。返却期限にはまだ余裕があるため、今日すべて読み終えなくても問題はないが、彩花と話したい箇所をすぐに開けるよう、しおりの位置を確かめておいた。
引き出しを開けると、以前彩花から受け取った淡い青色の花柄のカードが目に入った。悠真はそれを取り出し、折れや汚れがないことを確かめながら、書かれている言葉を静かに読み返す。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
文字を目で追ううちに、カードを受け取ったときの嬉しさが胸の奥によみがえった。彩花が大切にしている本や物語について、自分はどこまで理解できているのだろうと考えることもあるが、少なくとも彼女が話してくれる時間を大切にしたいという気持ちは変わらない。
(今日も、彩花さんが好きなことをたくさん聞けたらいいな。俺も話したいことはあるけれど、まずは会ってから考えよう)
悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを静かに閉めた。机の上には写真集と財布、スマートフォン、ハンカチが揃っており、外出の準備はほとんど終わっている。待ち合わせまでにはまだ時間があったが、気づけば時計を確かめる回数が増えていることに、自分でも少し驚いていた。
◇
午前十時を過ぎた頃、彩花は自室の窓際で、昨日の続きから借りている小説を読み始めた。幼なじみだった二人が、それぞれ別の事情で故郷へ戻ってきた物語で、今は昔の待ち合わせ場所の近くまで二人が来ている。彩花は昨日、二人の歩き方に気持ちの違いが表れていると感じたところで本を閉じていた。
今日もその場面を少し読み返してから、続きを開く。片方の人物は昔の目印がなくなった場所に立ち、もう片方は通りの向こう側から、変わってしまった景色を見つめている。すぐに声をかければ再会できそうな距離なのに、二人ともまだ相手の姿に気づいていない。
彩花は思わずページをめくる手を止めた。読者には二人が近くにいると分かっているのに、本人たちはそれを知らず、それぞれ違う思い出をたどっている。その距離の近さと心の遠さが、派手な出来事を起こさなくても緊張感を生んでいることに気づいた。
(ここで急に会わせないんだ。二人とも同じ場所へ来ているのに、それぞれに考える時間があるんだね)
彩花は本を膝の上へ置き、窓の外を眺めた。自分と悠真も今日は同じ場所へ向かうが、二人がそれぞれ家で何をしているのか、今この瞬間は知らない。昨日の夜にはメッセージを交わしたものの、今日の朝食や午前中の過ごし方までは話していないため、会ったときに初めて知ることもきっとあるのだろう。
そう考えると、相手と離れている時間が、必ずしも二人の距離を遠くするわけではないように思えた。別々の時間を過ごしているからこそ、会ったときに伝えたいことが生まれる。彩花はもう一度本を開き、二人が再会するまでの時間を急がず読もうと決めた。
物語の中では、一人が昔の店の跡地に建った建物の前で立ち止まり、子どもの頃に交わした約束を思い出していた。その約束が今でも相手にとって大切なものなのか分からず、声をかけることにためらいを覚えている。一方、もう一人は、思い出の場所が変わっていても、自分がここへ来た理由まで消えたわけではないと考え始めていた。
彩花はその対比を読みながら、作者が二人の気持ちを少しずつ近づけているのを感じた。結局、午前中に読み進めた範囲では二人はまだ直接言葉を交わさず、再会はもう少し先へ持ち越される。けれど、彩花はその展開に物足りなさを感じるどころか、二人が本当に会ったときの会話をますます楽しみにしていた。
時計を見ると、十一時を少し過ぎていた。彩花はしおりを挟み、鞄の中へ本を戻すと、鏡の前で今日の服装を確かめた。普段の休日にも着ている落ち着いた色の服に、昨日用意したマフラーを合わせてみると、外へ出るには十分暖かそうだった。
けれど、そこで少し迷いが生まれた。図書館へ行くのだから動きやすさを優先すればいいと思っていたのに、悠真に会うことを考えると、いつもより少しだけきちんとしていたくなる。何か特別な服を買ったわけでも、誰かに見せるためだけに選んだわけでもないが、鏡の前で襟元を整える自分に、彩花は頬が熱くなるのを感じた。
(悠真君、変だって思わないかな。……ううん、いつもの服なんだから、そんなに気にしなくてもいいよね)
そう考えながらも、マフラーの巻き方を一度変えてみる。最初の方が自然に見えたため元へ戻すと、彩花はようやく鏡から離れた。少し照れくさかったが、会う相手のことを考えながら服を選ぶ時間そのものは、嫌ではなかった。
◇
昼食の少し前、九条家の食堂では琴葉が母の麗華と並び、色の違う紙を見比べていた。机の上には淡い生成り色や薄い緑色の紙が置かれているが、押し葉そのものはまだ乾燥させているため、ここには持ってきていない。琴葉は紙を一枚ずつ手に取り、光にかざしたり、重ねたりしながら楽しそうに考えていた。
「お母様、白い紙もきれいだけど、少し色がある方が葉っぱの形が見えやすいかな。でも、葉っぱの色が変わったら、また違って見えるかもしれないよね」
「そうね。乾くと色が変わることもあるから、今のうちに一つへ決めなくてもいいと思うわ。琴葉は、どんなふうに残しておきたいの?」
麗華の問いに、琴葉は少し考え込んだ。しおりにして本へ挟むのも楽しそうだが、葉が傷まないように大切にしまっておくのもよい気がしているらしい。悠真は少し離れた席で二人の会話を聞きながら、妹が自分で考えを深めていることに気づき、口を挟まずに見守った。
やがて琴葉は、まだ完成していないのだから、今はどちらにも決めなくてよいのだと結論づけた。麗華がその考えを受け止めると、琴葉は嬉しそうに紙を重ね、次に開く日まで汚れないように保管すると話した。悠真はその姿を見て、昨日彩花が書きかけの物語を進めていたと聞いたことを思い出す。
何かを完成させようとしている人には、それぞれの時間がある。琴葉の押し葉も、彩花の物語も、完成を楽しみに待っているからこそ、その途中を大切にしたい。悠真はそう感じながら、自分もそろそろ昼食を済ませて出発の準備をしようと席を立った。
そのとき、琴葉が顔を上げて「お兄様、彩花さんによろしく伝えてね」と声をかけた。悠真が頷くと、妹は少し照れたように笑い、手元の紙へ視線を戻す。悠真はその様子に微笑みながら、今日彩花に会ったら、琴葉が押し葉の完成を楽しみにしていることを伝えようと思った。
◇
正午を少し前にして、彩花は家族と昼食を取っていた。紗月が用意してくれた温かなうどんから湯気が立ち、窓の外の明るさとは対照的に、食卓には冬の昼らしい落ち着いた空気が流れている。彩花は食べ終わる時間を気にしすぎないようにしながら、家族の会話へ耳を傾けていた。
「図書館では、何か借りる予定があるの?」と耕助が尋ねた。
「まだ決めてないよ。今読んでいる本も途中だから、今日は棚を見て、気になる本があったら考えようかなって思ってるの。悠真君とも、どんな本を読んでいるか話したいし」
彩花が答えると、耕助は「目的を決めすぎずに行くのも楽しそうだね」と頷いた。凛花は隣で静かに食事を進めていたが、ふと思い出したように、中央図書館には植物の本もいろいろあるのだろうかと尋ねる。彩花は園芸の棚を詳しく見たことはないものの、調べものに使える本はあると思うと答えた。
「じゃあ、今度私も行ってみようかな。花屋で聞いたことを、本でも確かめてみたいし。でも今日は彩花と悠真君の予定だから、私は家で日当たりを調べておくね」
凛花はそう言って笑い、彩花の反応を確かめるようにちらりと顔を向けた。彩花は姉が気を遣ってくれていることを理解しながらも、「別に一緒に図書館へ行くのが嫌なわけじゃないよ」と慌てて答える。すると凛花は「分かってるよ。今日は二人で約束してるんでしょう」と穏やかに返し、それ以上は何も言わなかった。
彩花はうどんの器へ視線を落とし、頬に少し熱が集まるのを感じた。姉の言う「二人で」という言葉は、ただ待ち合わせをしている人数を表しているだけなのに、なぜかそれ以上の意味が含まれているように聞こえてしまう。自分が意識しすぎているのだろうと思いながら、彩花は残っていたうどんをゆっくり食べ終えた。
食後、彩花は使った食器を片づけ、出発までの時間を確かめた。家から中央図書館までは、慌てずに向かっても約束の時間に間に合うよう余裕を見ている。少し早めに着くことになっても、入口付近で待つか、悠真へ連絡すればよいと考えていた。
玄関で靴を履いていると、紗月が奥から出てきて、マフラーの端が上着の内側へ入り込んでいることを教えてくれた。彩花が直そうとすると、母は手を出しすぎず、鏡の方を指して「そこなら見やすいわよ」と笑う。彩花は鏡で襟元を整え、鞄の肩紐がずれていないことも確かめた。
「行ってきます。帰る時間が分かったら連絡するね」
「行ってらっしゃい。楽しんできてね」
紗月の声に続いて、居間から耕助と凛花も見送りの言葉をかけてくれた。彩花は玄関の扉を開き、外へ一歩踏み出すと、冷たい空気を吸い込んだ。晴れた空の下では日差しが暖かそうに見えるものの、風が頬を撫でると冬の寒さがはっきり感じられ、マフラーを用意しておいてよかったと思った。
◇
悠真が家を出る少し前、父の正樹が廊下で声をかけてきた。仕事のために外出する予定があるらしく、手には薄い書類鞄を持っている。悠真が今日の待ち合わせについて伝えると、正樹は時計を確かめ、まだ十分余裕があることに頷いた。
「中央図書館だったな。今日は彩花さんと、何か調べものをする予定なのか?」
「特に一つの目的を決めているわけではありません。お互いに読んでいる本の話をしたり、気になる棚を見たりできたらと思っています」
「そうか。何かを決めて会う時間も大切だが、何をするかを一緒に考える時間もあるだろう。相手の予定を尊重しながら、楽しんでくるといい」
正樹はそれだけ言うと、悠真の返事を待って穏やかに頷いた。九条家の後継者として期待される立場にある悠真だが、父は今日の外出を特別な用事へ結びつけたり、必要以上に質問したりはしなかった。そのことに悠真は安堵し、行ってきますと伝えて玄関へ向かった。
外へ出ると、庭先の木々が冬の風に揺れていた。ハクは室内から見送りに来ており、琴葉がその隣で手を振っている。悠真は妹へ手を振り返し、彩花によろしく伝えると約束してから、中央図書館へ向かう道を歩き始めた。
道中、悠真はスマートフォンで待ち合わせのメッセージを確かめた。午後一時半、青凪市中央図書館の入口という約束は変わっていない。今朝は彩花へ連絡を送っていなかったが、昨日の夜に確認しているため、急いで何かを伝える必要はなかった。
それでも、歩いているうちに彼女が今どこにいるのだろうと考えてしまう。まだ家にいるのか、それとも同じように図書館へ向かっているのか、悠真には分からない。連絡すれば確かめられることだが、待ち合わせの場所で顔を見たときに交わす最初の言葉を楽しみにしている自分にも気づいていた。
(彩花さんは、今日はどんな本の話をしてくれるんだろう。昨日の小説の続きも気になるけれど、まずは会えたことをちゃんと伝えたいな)
そう考えた瞬間、悠真は自分の歩く速度が少し速くなっていることに気づいた。待ち合わせには十分間に合うのだから急ぐ必要はないと、歩幅を元へ戻す。けれど、彩花に会いたいという気持ちまで落ち着かせることはできず、胸の奥には静かな期待が広がり続けていた。
◇
中央図書館へ向かう途中、彩花は通り沿いの店先に並んだ小さな鉢植えを見つけた。昨日、凛花が花屋で育て方を聞いてきたことを思い出し、思わず足を緩める。店の前には寒さに強い植物について簡単な説明が添えられていたが、彩花は名前を確かめるだけにとどめ、待ち合わせの時間を考えて先へ進んだ。
街には休日らしい人の流れがあった。買い物袋を提げた人、家族連れで歩く人、友人同士で話しながら信号を待つ学生たちがいて、平日の通学路とは違う賑わいが感じられる。彩花はその中を歩きながら、自分も今日は学校ではなく、誰かと会うために出かけているのだと改めて思った。
信号待ちの間、鞄の中のスマートフォンが軽く震えた。取り出して確認すると、悠真からのメッセージが届いている。
『彩花さん、今、中央図書館へ向かっているところだよ。少し早めに着きそうだから、もし先に着いたら入口の中で待っているね。寒いから、急がずに来てほしい』
彩花はその文章を読み、思わず口元を緩めた。自分も少し早めに着く予定だったため、悠真が入口の中で待っていると分かれば安心できる。信号が青へ変わるまでの間に返事を打ち、周囲の人の流れを確かめてから送信した。
『ありがとう、悠真君。私も今向かっているところだよ。少し早めに着けそうだから、入口の中で会おうね。悠真君も寒いところで待たないでね』
送信したあと、彩花はスマートフォンを鞄へ戻した。まだ会っていないのに、同じ場所へ向かっていることを確かめ合えただけで、胸の奥が少し暖かくなる。歩く速度は変えないようにしていたが、図書館が近づくにつれて、周囲の景色がいつもより鮮やかに感じられた。
中央図書館の建物が見えてきたのは、約束の時間より少し前だった。ガラス張りの入口には冬の日差しが反射し、出入りする人々の姿が淡く映り込んでいる。彩花は建物を見上げながら、ここで悠真と初めて言葉を交わした日のことを思い出した。
あの頃は、九条悠真という名前も、彼がどんな家庭で育ち、どんなことを大切にしているのかも、ほとんど知らなかった。ただ、本を丁寧に扱い、相手の話をきちんと聞いてくれる人だという印象が残っていた。それから何度も会い、メッセージを交わし、家族のことや学校での出来事を話すうちに、最初の印象だけでは分からなかった一面を少しずつ知ることができた。
(最初は、こんなふうに待ち合わせをするようになるなんて思っていなかったな)
彩花は胸元のマフラーへ指を添え、静かに息を整えた。自動扉の前には何人かの利用者がいて、返却する本を抱えた人や、子どもの手を引いた親が順番に中へ入っていく。彩花もその流れに続き、暖房の効いた入口へ足を踏み入れた。
◇
悠真は中央図書館の入口付近で、壁際に設けられた案内表示を眺めていた。館内には本を返却する利用者の足音や、受付で交わされる控えめな声が響いており、外の冷たい空気とは違う穏やかな暖かさがある。待ち合わせの時間にはまだ少し余裕があったため、悠真は人の通行を妨げない場所へ移動し、彩花からの返信を確かめていた。
『入口の中で会おうね。』
その一文を読み返すと、自然に頬が緩んだ。彩花もこちらへ向かっていると分かっているのだから、落ち着いて待てばよい。それでも自動扉が開くたびに、視線がそちらへ向いてしまう。
何人かの利用者が入ってきたあと、明るい色のマフラーを巻いた少女の姿が見えた。肩に鞄を掛け、入口の人の流れを確かめながら歩いてくるその姿を見つけた瞬間、悠真の胸の奥にあった期待が、はっきりした喜びへ変わった。
彩花もすぐに悠真を見つけたらしく、目が合うと表情を柔らかくした。周囲にはほかの利用者がいるため大きく手を振ることはせず、二人は互いの方へ歩み寄る。距離が近づくにつれて、彩花の頬が外の寒さで少し赤くなっていることに気づき、悠真は自然に声をかけた。
「彩花さん、こんにちは。無事に来られてよかった。外は思ったより風が冷たかったけど、寒くなかった?」
「こんにちは、悠真君。うん、マフラーをしてきたから大丈夫だったよ。悠真君こそ、長く待たせちゃってないかな?」
「俺も少し前に着いたところだよ。中で待っていたから寒くなかったし、ちょうどよかったと思う」
悠真がそう答えると、彩花はほっとしたように微笑んだ。二人とも約束の時間より早く着いていたが、どちらかが無理をして急いだわけではない。お互いに相手を待たせたくないと思っていたことが分かり、悠真はその気持ちが嬉しかった。
彩花は鞄の肩紐を持ち直し、館内の案内表示へ目を向けた。今日は何か特別な予定を決めていたわけではなく、二人で本を見たり、読んでいる作品について話したりするつもりだった。悠真もそのことを思い出し、まずはどこへ向かおうかと尋ねる。
「彩花さん、今日は読みたい本や見たい棚がある? 俺は特に決めていないから、彩花さんが気になるところからでもいいよ」
「私もまだ決めてないんだ。今読んでいる小説の続きが気になっているけど、今日は別の本も見てみたいなって思ってて。悠真君は、昨日の写真集の続きを読んだんだよね?」
「うん。昔の閲覧室の写真について、説明文をもう少し読んだんだ。写真だけでは分からなかったこともあって、彩花さんにも話したいと思っていたよ」
彩花の目が少し輝いた。悠真はその反応を見て、自分が調べたことを話すのが楽しみになる一方、彼女が昨日読んだ小説についても聞きたいと思った。二人は入口付近で長く立ち止まらず、まずは館内の静かな場所へ移動しようと相談した。
歩き始める前、彩花がふと悠真を見上げた。何かを言おうとして少し迷ったようだったが、やがて小さく微笑み、落ち着いた声で話し始める。
「悠真君、今日は誘ってくれてありがとう。金曜日にメッセージをもらってから、ずっと楽しみにしてたんだ」
その言葉に、悠真は一瞬だけ返事を忘れた。彩花が今日を楽しみにしてくれていたことは、昨日のやり取りからも感じていたが、こうして目の前で直接聞くと、胸の奥に広がる嬉しさが想像以上に大きかった。彼女の声には照れが混じっているものの、目を逸らさずに伝えようとしてくれていることも分かる。
「俺もだよ、彩花さん。今日会えるのを、金曜日からずっと楽しみにしていたんだ」
悠真が答えると、彩花は少し驚いたように瞬きをしたあと、嬉しそうに頬を緩めた。二人の間に短い沈黙が生まれたが、それは何を話せばよいか分からなくなるような気まずさではない。言葉にした気持ちを互いに受け取るための、静かな時間だった。
やがて彩花は、照れくさそうにマフラーの端を整えながら、「じゃあ、今日はたくさん本の話をしようね」と言った。悠真はその言葉に頷き、彼女と並んで館内へ歩き出す。すぐ隣を歩く彩花の足音が、図書館の静かな空気の中で、自分の足音と穏やかに重なっていた。
◇
館内の通路を進むと、窓から差し込む午後の日差しが床へ長い四角形を作っていた。利用者たちはそれぞれ本を手に取り、静かに棚の前を歩いている。彩花と悠真は声を抑えながら、まずは一般書の棚をゆっくり見て回ることにした。
彩花は背表紙を眺めているうちに、昨日読んでいた小説と似た雰囲気の作品が並んでいる棚へ足を止めた。故郷へ戻る人々を描いた物語や、長い時間を経て再会する家族の話など、気になる題名がいくつも見つかる。悠真は少し離れた位置からその様子を見守り、彼女が一冊の本を手に取ったところで、控えめに声をかけた。
「彩花さん、その本が気になる?」
「うん。まだ今の本も読み終わってないんだけど、題名が少し気になって。故郷へ戻った人が、昔の自分と向き合うお話みたいなんだ」
彩花は裏表紙の紹介文を読みながら、今読んでいる小説と同じような題材でも、描き方はきっと違うのだろうと話した。悠真は彼女の言葉を聞き、同じ場所を題材にした歴史写真でも、撮影した人や時代によって見えるものが変わることを思い出す。二人は互いの興味が少し違う方向からつながっていることに気づき、声を抑えながらも自然に会話を続けた。
「そういえば、昨日の小説は少し進んだんだよ。幼なじみの二人が、昔の待ち合わせ場所の近くまで来ているんだけど、まだ会っていないの」
「そこまで近づいているのに、まだ会っていないんだね。何か理由があるのかな?」
「うん。二人とも、相手が今どう思っているのか分からなくて、それぞれに迷っているみたい。読んでいる私は二人が近くにいるって分かるから、早く会ってほしいと思うんだけど、すぐに会わない時間にも意味がある気がするんだ」
悠真はその説明を聞き、少し考えてから頷いた。自分たちも今日、別々の場所から同じ図書館へ向かってきたが、会うまでの時間にはそれぞれの生活があった。もちろん小説の二人とは事情が違うものの、相手が何を考えているのか分からない時間があるからこそ、直接話せることの嬉しさが増すのかもしれない。
「彩花さんがその場面を好きだと思った理由、少し分かる気がするよ。会ったあとの会話だけじゃなくて、会うまでに何を考えていたのかも、その人にとって大切なんだろうね」
彩花は悠真の言葉を聞き、嬉しそうに顔を上げた。自分が感じたことをそのまま受け止めてもらえたことに加え、悠真が少し違う言葉で考えを返してくれたことが嬉しかった。二人は棚の前でしばらく本を見比べたあと、彩花が気になった題名をメモ帳へ控え、今日は新しく借りるかどうかをあとで決めることにした。
そのとき、少し離れた棚から幼い子どもの声が聞こえてきた。保護者と一緒に本を探しているらしく、読みたい本が見つからず困っている様子だったが、近くの職員が穏やかに案内を始めると、子どもは安心したように頷いている。彩花はその光景を見て、図書館には一人で静かに読む時間だけでなく、誰かに本を見つけてもらう時間もあるのだと感じた。
悠真も同じ方へ目を向けていたが、職員が案内を終えたところで彩花へ視線を戻した。彼女が穏やかな表情で親子を見送っていることに気づき、以前から彩花は、目の前の本だけでなく、その本を手に取る人のこともよく見ているのだと思う。写真集の中に写った昔の利用者へ興味を持ったのも、きっとそうした彼女らしさの一つなのだろう。
◇
しばらく棚を見て回ったあと、二人は館内の閲覧席が並ぶ場所へ移動した。窓際には冬の日差しが差し込み、机の上に置かれた本の表紙を柔らかく照らしている。周囲では利用者が静かにページをめくっており、二人も空いている席を見つけると、荷物を邪魔にならない位置へ置いて腰を下ろした。
悠真は鞄から地域の歴史写真集を取り出し、昨日メモしておいたページを開いた。そこには昔の中央図書館の閲覧室を写した写真があり、木製の机や背の高い窓、当時の利用者たちの姿が残されている。彩花は以前一緒に見た写真だと気づき、少し身を乗り出してページを覗き込んだ。
「この写真、覚えてるよ。窓の近くで本を読んでいる人がいて、机の並び方も今とは違っていたんだよね」
「うん。昨日、前後の説明文を読んでみたら、建物の使われ方が少しずつ変わってきたことが書かれていたんだ。写真だけでは分からないこともあるから、説明と見比べると面白いと思って」
悠真はページの端を指で示しながら、写真に写っているものと説明文で確かめられることを分けて話した。彩花は頷きながら耳を傾け、昔の利用者がどんな気持ちでこの場所へ来ていたのかを想像する。二人は同じ写真を見ていても、悠真は建物や記録の変化へ、彩花はそこで過ごした人々の時間へ自然に関心を向けていた。
彩花がその違いを口にすると、悠真は楽しそうに微笑んだ。どちらか一方が正しいわけではなく、二人で見ているからこそ気づくことが増える。そのことを改めて感じながら、悠真は写真集を少し彩花の方へ寄せ、彼女が読みやすい位置に置き直した。
「悠真君、ありがとう。こうして一緒に見ていると、一人で読んでいるときとは違うところが気になるね」
「俺もそう思うよ。彩花さんが話してくれることを聞くと、写真の中にいる人たちのことまで考えたくなるんだ」
彩花はその言葉に微笑み、もう一度写真へ視線を落とした。窓の近くで本を読む人の姿を眺めていると、今の自分たちもまた、同じように図書館で時間を過ごしているのだと思う。時代も建物の様子も違うけれど、本を開いて誰かと静かな時間を共有することには、変わらないものがあるのかもしれない。
しばらくして、彩花は鞄から読みかけの小説を取り出した。まだ読み終わっていないため、今日ここで続きを読むこともできるが、今は悠真と話す時間をもう少し楽しみたい。表紙を見せながら、昨日気づいた登場人物の歩き方の違いについて説明すると、悠真は興味深そうに耳を傾けた。
「片方はゆっくり歩いていて、もう片方は迷うのを避けるみたいに足を速めているの。気持ちを直接書いていないのに、二人が何を考えているのか想像できるところが好きだったんだ」
「それは面白いね。言葉にしていないことが、行動から伝わるんだ。彩花さんが書いている物語でも、そういう表現を考えることがあるのかな?」
悠真の問いに、彩花は少しだけ考え込んだ。自分の創作について話すことはできるが、完成前の内容をどこまで伝えるかはまだ決めていない。彼に最初に読んでもらいたいという約束を大切にしたいからこそ、今は書き方についてだけ話すことにした。
「うん。最近、登場人物が何を考えているかを説明するだけじゃなくて、何をするかで気持ちが伝わるようにしたいなって思ってるの。でも、まだうまく書けているか分からないから、少しずつ直しているところなんだ」
「そうなんだね。完成したら読ませてもらえるのを楽しみにしているけど、急がなくていいからね。彩花さんが納得できるまで、大切に書いてほしいと思う」
悠真の声は穏やかで、何かを確かめようとするような響きはなかった。彩花はその言葉を聞き、胸の奥にあった小さな緊張がゆっくりほどけていくのを感じた。完成を楽しみにしてくれていることも、急がず待ってくれることも、どちらも嬉しかった。
「ありがとう、悠真君。ちゃんと書けたら、最初に読んでほしいっていう気持ちは変わってないよ」
彩花がそう伝えると、悠真は一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。最初に読むという約束を彼女が今も大切にしてくれていることが、言葉以上に胸へ響いてくる。けれど、その嬉しさを大げさに表すより、今は彼女が安心して書き続けられるようにしたかった。
「うん。楽しみに待っているよ、彩花さん」
二人はそれ以上、書きかけの物語について詳しく尋ねたり、説明したりはしなかった。彩花は星模様のノートを家へ置いてきたことを思い出し、その判断でよかったのだと思う。いつか完成した物語を渡すときには、今日のように向かい合って、悠真の感想をゆっくり聞けたら嬉しい。
◇
午後の光は少しずつ傾き始めていたが、図書館の中にはまだ穏やかな明るさが残っていた。彩花と悠真は写真集と小説をそれぞれ開き、しばらく言葉を交わさずにページをめくることにした。隣に誰かがいることを意識しながらも、読書の時間を邪魔されることはなく、紙の擦れる小さな音だけが二人の間に流れている。
彩花は小説の続きを読みながら、幼なじみの二人がまだ言葉を交わしていない場面へ戻った。片方が昔の待ち合わせ場所から歩き出そうとしたとき、もう片方はようやくその背中に見覚えがあることへ気づき始める。彩花は思わず息を詰めたが、声を出さないように気をつけながら、次の文章へ視線を移した。
その人物はすぐに名前を呼ばず、記憶の中の姿と目の前の背中を重ねようとしている。年月が経って変わったものもあれば、歩くときの肩の動かし方のように、変わらないものもある。彩花はその描写に胸を打たれ、しばらくページをめくることができなかった。
隣では悠真が写真集を読んでいる。彼は彩花が本を閉じたことに気づいたようだったが、すぐに声をかけることはせず、自分のページへ視線を戻した。彩花はその静かな気遣いに気づき、少しだけ悠真の横顔を見つめる。
(悠真君と一緒にいると、話している時間も好きだけど、こうして静かにしている時間も落ち着くな)
彩花はその思いを言葉にせず、再び小説を開いた。物語の中の二人は、まだ再会の言葉を交わしていない。けれど、読者として見守っている彩花には、もうすぐ何かが変わるのだという予感があった。
少し経ってから、悠真が写真集を閉じ、彩花の方へ顔を向けた。彼女がまだ読書を続けていることを確かめると、声をかけずに手元のメモを整理し始める。彩花はその気配を感じながら、あと少しだけ読み進めてから顔を上げた。
「悠真君、待たせちゃったかな?」
「ううん。俺も気になっていたところを読んでいたから、ちょうどよかったよ。彩花さんの本、何か進展があった?」
彩花は少し考えてから、嬉しそうに頷いた。まだ二人は直接話していないものの、片方が相手の存在に気づきかけていることを伝えると、悠真も興味深そうに微笑む。結末を知らないまま話しているからこそ、これからどうなるのだろうと一緒に考えることができた。
「私、今日はここまでにしておこうかな。続きが気になるけど、今読んだところを少し考えていたいんだ」
「それもいいと思うよ。彩花さんがその本を読み終わったら、どんなふうに感じたのか聞かせてほしいな」
悠真の言葉に、彩花は素直に頷いた。学校でも読み終わったら感想を聞きたいと言ってくれた同級生がいるため、いつかそれぞれに話すことになるだろう。相手によって同じ感想を伝えるとしても、返ってくる言葉はきっと違うはずで、その違いも楽しみに感じられた。
◇
閲覧席を離れる頃には、二人が図書館へ来てからしばらく時間が経っていた。彩花は本を鞄へ戻し、悠真と並んで通路を歩きながら、琴葉の押し葉について尋ねた。昨夜のメッセージで少し聞いていたが、今日はどんなふうに過ごしているのか気になっていたのだ。
「琴葉ちゃん、今日は押し葉を開かずに待ってるんだよね。どんな紙にするか考えるって言ってたけど、もう決まったのかな?」
「まだ決めていないと思うよ。今朝は母と一緒に何枚か紙を見比べていたけど、葉が乾いてから選ぶつもりみたいなんだ。彩花さんにもよろしく伝えてほしいって言っていたよ」
彩花はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。琴葉が自分のことを覚えていてくれるのも、押し葉の話を聞いてほしいと思ってくれているのも嬉しい。いつか完成したものを見せてもらえたらいいなと話すと、悠真は琴葉もきっと喜ぶと思うと答えた。
そのあと、悠真は航平が調べている昔の駅前写真についても少し話した。候補の場所を二つまで整理したものの、撮影地点や年代を決めるだけの根拠はまだ見つかっていないという。彩花はその話を聞き、学校で田辺大地が地域の祭りの場所の変化について調べていたことを思い出したが、別々の調査を無理につなげることはせず、それぞれの興味が地域の歴史へ向いていることを面白く感じた。
「昔の写真って、見たことのある場所でも、今と違うところがたくさんあるんだね。航平君も、調べるのが楽しそう」
「うん。まだ分からないことが多いけど、航平は自分で確かめたいと思っているみたいなんだ。俺も手伝えるところがあれば、一緒に調べたいと思ってる」
彩花はその言葉に頷き、悠真が友人の興味を大切にしていることを嬉しく思った。九条家の御曹司という立場を知ったばかりの頃には、悠真の学校生活がどんなものなのか想像できない部分も多かった。けれど今は、航平と図書館で調べものをしたり、琴葉と押し葉を見守ったりする姿を聞くたびに、彼の日常が少しずつ身近なものになっている。
悠真もまた、彩花が家族や学校の友人について話してくれることを大切に感じていた。今日の彼女は、朝から楽しみにしていたという言葉を直接伝えてくれたが、そのあとも無理に特別なことをしようとはせず、いつもどおり本を選び、読んだものについて丁寧に話している。その自然な姿を見ていると、自分も肩の力を抜いて一緒にいられることが嬉しかった。
◇
図書館の窓の向こうでは、冬の午後の日差しが少しずつ傾いていた。二人は入口へ戻る前に、館内の案内表示の前で立ち止まり、今日見られなかった棚について話していた。彩花は園芸の本が置かれている場所を確かめ、今度凛花と来たときに案内できるよう、棚の位置を覚えておこうと思った。
「お姉ちゃんがね、昨日花屋でいろいろ教えてもらったんだけど、まだ植物は買っていないの。置く場所に合うものを選びたいって言っていて、今日は家の日当たりを調べてるんだ」
「そうなんだね。凛花さん、ちゃんと育てられるように考えているんだ。琴葉も押し葉のことを大切にしているけど、何かを残したいと思う気持ちには、似ているところがあるのかもしれないね」
彩花は悠真の言葉を聞き、昨日自分も似たことを考えたのを思い出した。凛花の鉢植えと琴葉の押し葉は違うものだが、どちらもすぐに完成させたり決めたりするのではなく、大切にしたいからこそ時間をかけている。自分の書きかけの物語にも、同じような気持ちがあるのだろうと思った。
やがて二人は、今日のところはそろそろ帰る準備をしようと相談した。まだ話したいことは残っていたが、だからといって無理に時間を延ばす必要はない。彩花は家族へ帰る時間を知らせるためスマートフォンを取り出し、悠真も母へ連絡を送った。
連絡を終えると、二人は自動扉の近くまで歩いた。外には夕方へ向かう冬の光が広がり、ガラス越しに見える街路樹の枝が風に揺れている。入口の中で待ち合わせたときにはまだ高かった日が、いつの間にか少し低くなっていた。
「彩花さん、今日はありがとう。写真集の話もできたし、一緒に本を読めて楽しかったよ」
「私も楽しかったよ、悠真君。読んでいる本の話を聞いてもらえたのも嬉しかったし、昔の図書館の写真も、また違うところが見えて面白かった」
彩花はそう答えたあと、少しだけ言葉を探すように視線を落とした。今日の時間が楽しかったことは伝えられたが、それだけではまだ足りないような気がしている。悠真が急かさずに待ってくれていることに気づき、彩花はゆっくり顔を上げた。
「それにね、悠真君と一緒にいると、何を話そうって考えすぎなくても大丈夫なんだなって思ったの。今日は会う前に少し緊張してたんだけど、実際に会ったら、いつもどおり話せて嬉しかった」
悠真は彼女の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。自分も今朝、何を話そうかと考えながら準備をしていたことを思い出す。会う前には楽しみな気持ちと少しの緊張があったが、彩花と並んで本を見ているうちに、その緊張は自然にほどけていた。
「俺も同じだよ。彩花さんと会うのを楽しみにしていたけど、何を話すか全部決めていたわけじゃないんだ。それでも、一緒にいると話したいことが次々に見つかるから、不思議だね」
彩花はその言葉に微笑み、少し照れたようにマフラーへ指を添えた。二人はしばらく顔を見合わせていたが、周囲の利用者が入口へ向かって歩いてきたため、通行の邪魔にならないよう少し横へ移動する。そんな何気ない動きさえ、今は自然に息が合っているように感じられた。
外へ出ると、冷たい風が二人の頬を撫でた。彩花はマフラーを整え、悠真も上着の襟元を直しながら、帰り道の方向を確かめる。二人の家は同じ方向ではないため、ここからはそれぞれの道へ戻ることになる。
「じゃあ、悠真君。またメッセージするね。今日は本当にありがとう」
「うん。彩花さんも気をつけて帰ってね。家に着いたら、ゆっくり休んでほしい」
彩花は頷き、少し歩いてから振り返った。悠真はまだその場にいて、彼女が振り返ったことに気づくと穏やかに手を上げる。彩花も小さく手を振り返し、今度こそ帰り道へ歩き出した。
悠真は彼女の姿が人の流れの中へ遠ざかるのを見送りながら、今日交わした会話を思い出していた。彩花が自分と会うのを楽しみにしてくれていたこと、一緒にいると考えすぎなくても大丈夫だと言ってくれたこと、そのどれもが心に残っている。彼女の書きかけの物語が完成する日も楽しみだが、それより先に、またこうして同じ時間を過ごしたいという気持ちが静かに強くなっていた。
◇
帰り道、彩花は鞄の中に入れた小説の重さを感じながら、今日の図書館での時間を振り返っていた。幼なじみの二人が再会する直前の場面はまだ読み終えていないが、悠真と話したことで、会うまでの時間にも大切なものがあると改めて感じられた。自分たちも今日、別々の場所から同じ図書館へ向かい、それぞれの朝を過ごしたあとで顔を合わせたのだ。
信号待ちで立ち止まったとき、彩花はスマートフォンを取り出しかけたが、すぐに鞄へ戻した。まだ帰宅していないのだから、悠真へ今日の感想を急いで送る必要はない。家へ帰り、落ち着いてから言葉にした方が、今の気持ちを丁寧に伝えられるように思えた。
(今日、楽しかったな。次に会う約束はまだしていないけど、また一緒に本を読みたいって思う)
彩花はその気持ちを胸に抱きながら、冬の街を歩いた。通学路の蕾がある植え込みは今日の帰り道にも通らなかったため、花がどうなっているのかは分からない。けれど明日は月曜日で、いつもの道を歩くことになるから、そのときにまた確かめればよいと思った。
家へ着くと、紗月が居間から顔を出し、無事に帰ったことを確かめてくれた。彩花が図書館で本を見たり、悠真と写真集の話をしたりしたことを伝えると、母は嬉しそうに耳を傾けた。凛花も途中から会話へ加わり、園芸の本が置かれている棚を見つけたと聞いて、今度一緒に行きたいと笑った。
彩花は家族との会話を楽しんだあと、自室へ戻って鞄を机の横へ置いた。星模様のノートは朝と同じ場所にあり、葉模様の日記帳もその隣に並んでいる。今日は物語を書き進める時間はなかったが、悠真と話したことを思い出すと、次に机へ向かったときに考えてみたいことがいくつも浮かんできた。
ただし、今すぐノートを開いて書き始めることはしなかった。今日の出来事をそのまま物語へ入れるのではなく、自分が何を感じたのか、少し時間を置いて確かめたい。彩花は椅子へ腰を下ろし、窓の外に広がる夕方の空を眺めながら、悠真と交わした言葉をゆっくり思い返した。
◇
九条家へ戻った悠真は、玄関で琴葉とハクに迎えられた。ハクは悠真の姿を見るなり嬉しそうに尻尾を振り、琴葉はその隣で、兄が靴を脱ぎ終えるのを待っている。悠真がしゃがんでハクの背中を撫でると、琴葉は待ちきれない様子で声をかけてきた。
「お兄様、おかえりなさい。彩花さんには会えた? 今日は図書館で、どんな本を読んだの?」
「ただいま、琴葉。ちゃんと会えたよ。昔の図書館の写真を一緒に見たり、彩花さんが読んでいる小説の話を聞いたりしたんだ。琴葉がよろしくって言っていたことも、ちゃんと伝えてきたよ」
悠真が答えると、琴葉は安心したように微笑んだ。自分の言葉を彩花へ届けてもらえたことが嬉しかったらしく、何度も頷いている。悠真はそんな妹の様子を見ながら、彩花が琴葉の押し葉について楽しそうに尋ねてくれたことも伝えた。
「彩花さん、琴葉がどんな紙を選ぶのか気になっているみたいだったよ。押し葉が完成したら、いつか見せてもらえたら嬉しいって言っていた」
「本当? じゃあ、きれいにできるように頑張らなくちゃ。でも、まだ葉っぱを開いちゃいけないんだよね」
「うん。完成を急ぐ必要はないと思うよ。琴葉が大切にしたい形を、ゆっくり考えればいいんじゃないかな」
琴葉は嬉しそうに頷き、今日は母と一緒に見比べた紙をきれいに片づけたことを教えてくれた。結局どの色にするかは決めなかったものの、葉の色が変わってからもう一度考えるつもりだという。悠真は妹の話を最後まで聞き、押し葉が完成する日を自分も楽しみにしていると伝えた。
そのあと、悠真は居間へ向かい、母の麗華へ帰宅したことを知らせた。麗華は読んでいた本を閉じ、息子の表情を見て穏やかに微笑む。今日の外出が楽しいものだったことは、詳しく尋ねなくても伝わってくるようだった。
「おかえりなさい、悠真。彩花さんとは、ゆっくりお話しできた?」
「はい。お互いに読んでいる本の話ができましたし、一緒に静かに本を読む時間もありました。思っていた以上に、あっという間でした」
「そう。それならよかったわ。誰かと一緒にいる時間が短く感じられるのは、それだけ心地よく過ごせたということなのかもしれないわね」
麗華の言葉に、悠真は少し照れくさくなりながらも頷いた。今日の図書館では、何か大きな出来事があったわけではない。けれど、彩花が自分と会うことを楽しみにしてくれていたと知り、同じ本を見ながら違うことに気づき、静かに隣でページをめくることができた。
その一つひとつが、悠真には大切な時間だった。
◇
夕食を終えたあと、彩花は自室の机へ向かっていた。窓の外はすっかり暗くなり、部屋の明かりが机の上に柔らかな影を落としている。鞄から取り出した小説を置き、隣に葉模様の日記帳を並べると、今日一日の出来事をどんな言葉で残そうかと考えた。
図書館で悠真と会えたこと。昔の閲覧室の写真を一緒に見たこと。読んでいる小説について話し、まだ完成していない自分の物語を、悠真が急がず待ってくれると言ってくれたこと。
書き残したいことはたくさんあったが、彩花はそのすべてを一度に書こうとはしなかった。今日の中で、いちばん心に残っている場面を思い出してみる。すると浮かんできたのは、図書館の入口で悠真が自分を見つけ、嬉しそうに微笑んでくれた瞬間だった。
(あのとき、私もすごく嬉しかった。悠真君が待っていてくれるって分かっていたのに、顔を見たら、もっと嬉しくなったんだよね)
彩花は日記帳を開き、日付を書いたあと、ゆっくりペンを動かした。今日読んだ本の題名や、図書館で見た写真についても記したが、最後には、悠真と一緒にいると話している時間だけでなく、静かに本を読む時間まで楽しいと感じたことを書き添えた。
書き終えてから読み返すと、少し照れくさくなった。それでも消そうとは思わず、彩花は日記帳を閉じる。これは誰かに見せるためではなく、今の自分が感じたことを忘れないための言葉なのだから。
そのとき、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
『彩花さん、今日はありがとう。家に帰ってからも、図書館で話したことを思い出していたよ。昔の閲覧室の写真を一緒に見られて嬉しかった。また、気になる本が見つかったら話せたらいいな』
悠真からのメッセージを読み、彩花は自然に微笑んだ。自分もちょうど今日のことを思い返していたため、離れた場所にいる悠真も同じように過ごしていたのだと思うと、胸が温かくなる。
彩花は少し考えてから、返事を打ち始めた。
『こちらこそ、今日はありがとう。私もすごく楽しかったよ。悠真君と一緒に本を見ていると、一人では気づかなかったことが見つかるね。今読んでいる小説も、最後まで読めたら感想を聞いてほしいな』
送信してから、彩花は星模様のノートへ目を向けた。今日、悠真は完成を急がなくていいと言ってくれた。その言葉を思い出すと、物語を最後まで書きたいという気持ちが、焦りではなく静かな楽しみとして胸の中に残っていることに気づく。
少女が祖母へ書く手紙は、まだ二行のままだ。
けれど、今日の自分が感じたことをそのまま三行目に書き足す必要はない。物語の少女が何を見て、何を考え、どんな言葉を祖母へ届けたいと思うのか。それを丁寧に考える時間も、物語を書くことの一部なのだろう。
彩花はノートを開かず、表紙へそっと手を置いた。
「……もう少し、一緒に考えようね」
小さく呟いた言葉は、静かな部屋の中へ溶けていった。
◇
同じ頃、悠真は自室の机でスマートフォンを手にしていた。彩花から届いた返事を読み、今日の図書館で彼女が楽しそうに本の話をしていた姿を思い出す。読みかけの小説がどんな結末を迎えるのかはまだ分からないが、読み終えた彩花が何を感じるのかを聞ける日が楽しみだった。
机の上には、今日持っていった歴史写真集が置かれている。まだ読み終えていないページが残っており、森川航平と調べている昔の駅前写真についても、分からないことは多い。それでも、今日彩花と話したことで、写真に写る建物だけでなく、そこで時間を過ごした人々にも目を向けてみたいと思うようになっていた。
悠真は写真集を開き、今日二人で見た閲覧室の写真をもう一度眺めた。
昔の利用者たちが何を読んでいたのか、誰と会う約束をしていたのか、写真だけでは分からない。けれど、その一枚の中にも、それぞれの人にとって大切だった時間が残されているのだろう。
(今日の俺たちも、いつか振り返ったら、あの図書館で過ごした時間を思い出すのかな)
そう考えると、悠真は少し不思議な気持ちになった。今日という日は、特別な記念日として決められていたわけではない。けれど、彩花が笑ってくれたことも、一緒に本を読んだことも、できるだけ長く覚えていたいと思う。
スマートフォンを手に取り、悠真は彩花へ返事を送った。
『もちろんだよ。彩花さんが読み終わったら、ぜひ感想を聞かせてほしい。俺も写真集をもう少し読んでみるね。今日は暖かくして、ゆっくり休んでね』
しばらくすると、彩花からおやすみの言葉が届いた。悠真も同じように返し、スマートフォンを机へ置く。
窓の外には冬の夜が広がっていた。明日からはまた、それぞれの学校で過ごす一週間が始まる。彩花は青葉高校へ、悠真は桜華学園へ通い、今日のように同じ場所で本を読む時間がすぐに訪れるとは限らない。
それでも、次に話したいことはもういくつも見つかっている。
悠真は写真集を閉じ、しおりを挟んで机の端へ置いた。今日の図書館で、彩花は自分と一緒にいると何を話そうか考えすぎなくても大丈夫だと言ってくれた。その言葉を思い返すたびに、彼女の隣にいられることが嬉しくなる。
(また会いたいな、彩花さん)
声には出さず、悠真はそう思った。
◇
彩花は眠る前に、明日の学校の準備を済ませていた。机の上には教科書と筆記具が揃い、読みかけの小説は、しおりを挟んだまま棚の取りやすい場所へ置かれている。明日から始まる一週間には、文学部の冬の文集について最終確認を待つ時間もあり、学校での出来事もきっといくつか増えていくだろう。
彩花は部屋の明かりを消す前に、もう一度だけ葉模様の日記帳へ目を向けた。今日書いた言葉は、明日の自分が読み返せば少し恥ずかしくなるかもしれない。それでも、今夜はそのまま残しておきたかった。
布団へ入り、枕元の時計を確かめる。
朝にはあれほど長く感じられた待ち合わせまでの時間が、今はずっと昔のことのように思えた。図書館の入口で悠真を見つけた瞬間も、隣でページをめくった静かな午後も、帰り際に交わした言葉も、どれも鮮やかに思い出せる。
(また、一緒に行けたらいいな)
彩花はそう願いながら、目を閉じた。
今日の約束は、もう終わっている。
けれど、悠真と過ごした時間は、読み終えた本のように閉じられてしまったわけではなかった。次に会ったとき、また新しい話ができる。そのことが嬉しくて、彩花は小さく微笑んだまま、静かな眠りへ落ちていった。




