第128話 木曜日の小さな確認と、まだ形にならない大切なもの
木曜日の朝、青凪市の空には、昨日よりも明るい光が広がっていた。冬の雲はまだところどころに残っていたものの、その隙間から差し込む朝日が住宅街の屋根を照らし、冷えた窓ガラスにも淡い金色を落としている。
水瀬彩花は制服に着替える前、机の上に置いてある星模様のノートを開いた。昨夜書き足した文章を読み返すと、祖母から教わったことを思い出しながら鉢植えを見つめる少女の姿が、昨日よりも少し鮮明に浮かんできた。
物語の中の少女は、離れて暮らす祖母へ手紙を書こうとしている。便箋には今も二行だけが記されており、その先へ進めない理由も、彩花には少しずつ分かってきた気がしていた。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花は二行の文章を指先で追い、しばらくページを眺めた。
(この子は、何も思いつかないわけじゃないんだよね。伝えたいことがたくさんあるから、どれを最初に書けばいいのか分からなくなっているのかもしれない)
昨日、彩花は少女が祖母の教えを思い出しながら、自分で鉢植えの様子を確かめようとする場面を書いた。祖母がそばにいなくても、その人から受け取ったものが自分の暮らしの中に残っていることを、少女自身がまだうまく言葉にできずにいる。
彩花はノートの余白へ何かを書き足そうとして、ペンを持つ手を止めた。今朝は続きを急いで書くより、昨日の文章をもう少し心の中で温めておきたいと思ったからだ。
ノートを閉じると、隣に置いてあった葉模様の日記帳が目に入った。昨夜、悠真と交わしたメッセージについて書いたページが、まだ記憶に新しい。
冬の部誌の表紙について、最後まで丁寧に進めたいと話したこと。通学路の蕾がまだ開いていないことを伝えると、悠真が次に会ったときにもっと聞かせてほしいと言ってくれたこと。
どちらも、ほかの人から見れば小さな出来事かもしれない。
けれど、彩花にとっては、その日の終わりに思い出したくなる大切な時間だった。
(今日も、何か一つ見つけられたらいいな。悠真君に話すためだけじゃなくて、私自身がちゃんと見ていたいから)
彩花は窓の外へ視線を向けた。向かいの家の庭木は朝の光を受け、昨日とは違う濃さの影を地面に落としている。
階下から母の紗月が呼ぶ声が聞こえ、彩花は返事をしてノートを机へ戻した。制服の襟を整え、鞄の中身を確認すると、いつもの朝がゆっくり動き始めた。
◇
朝食の席では、父の耕助が新聞を畳みながら、食卓に置かれた湯飲みへ手を伸ばしていた。母の紗月は温かい汁物をよそい、姉の凛花はパンを口へ運ぶ前に、スマートフォンの天気予報を確かめている。
「今日は昨日より晴れそうだね。でも、朝はけっこう寒いみたい」
凛花が画面を見ながら言うと、耕助は窓の外へ目を向けた。
「晴れていても冬だからな。風がある日は、日なたと日陰でずいぶん違う。彩花も、帰りが遅くなるなら気をつけるんだぞ」
「うん。今日は文芸部があるけど、終わったら寄り道しないで帰るつもりだよ」
彩花が答えると、紗月は安心したように微笑んだ。
「部誌の準備、順調なの?」
「うん。昨日は、表紙の最終データをみんなで確認したの。前に試し刷りで比べた調整がちゃんと残っているか確かめて、印刷するときの条件も見直したんだ」
彩花は箸を置き、昨日の部室の様子を思い出した。
「ただ、確認する相手がいるところは、まだ残してあるの。今日、先生に聞けたらいいんだけど、先生の都合もあるから、全部終わるかは分からないかな」
紗月は頷き、彩花の茶碗へ目を向けた。
「そういう確認って、地味だけど大切よね。みんなで作ったものなら、なおさらでしょう」
「うん。表紙を描いた子も、完成が近づいて嬉しそうだったよ。でも、急いで間違えたくないって話してた」
彩花が答えると、凛花が興味深そうに身を乗り出した。
「いいね、そういうの。完成したものを見るのも楽しいけど、どうやって作ったのか聞くと、また違って見えるんだよね」
その言葉に、彩花は日曜日の図書館で見た昔の閲覧室の写真を思い出した。
悠真は窓の形や机の配置に注目していたが、彩花はそこで本を読んでいた人々の時間を想像した。同じ写真を見ながら、二人がそれぞれ違うところに気づいたことが、今も印象に残っている。
「うん。作った人が何を考えていたのか知ると、前は気づかなかったところが見える気がする」
彩花がそう言うと、凛花はにやりと笑った。
「最近の彩花、そういう話をするとき、すごく楽しそうだよね。本の話をしてるときもそうだけど」
彩花は少し頬を熱くし、湯飲みへ視線を落とした。
「そ、そうかな。文芸部でいろいろ教えてもらうことが増えたからだと思う」
「うんうん。それもあるんだろうね」
凛花はそれ以上追及せず、楽しそうにパンを口へ運んだ。
紗月は二人の様子を見ながら、穏やかに笑っている。耕助も新聞を脇へ置き、彩花が学校で充実した時間を過ごしていることを嬉しそうに聞いていた。
朝食を終えると、彩花は食器を運び、玄関でマフラーを巻いた。紗月から忘れ物がないか尋ねられ、鞄の中に教科書と読みかけの小説が入っていることを確かめてから、家族に挨拶をして外へ出た。
冷たい空気が頬に触れたが、朝日が差し込む道は昨日より少し明るく感じられた。
◇
通学路の植え込みへ近づくと、彩花はいつものように歩道の端へ寄った。
低い枝の先にある蕾は、今朝もまだ閉じている。昨日は曇り空の下で柔らかく見えた表面が、今日は斜めから差し込む日差しによって、少しだけ立体的に浮かび上がっていた。
彩花は近づきすぎない距離から、枝先を静かに眺めた。
蕾の大きさが変わったかどうかは、今日もはっきりしない。けれど、光が当たっている側と影になっている側では色の濃さが違い、その境目が昨日より分かりやすかった。
(まだ咲いていないんだね。でも、こうして見ると、表面にも小さな違いがあるんだ)
彩花は心の中でそう呟き、昨日の文芸部で確認した表紙の枝先を思い出した。
冬の部誌の表紙にも、細い枝が描かれている。淡い空の色を大切にしながら、枝の先が見えなくならないように、少しだけ濃さを調整した。
実際の植物と絵では、もちろん違うところが多い。
それでも、どこまで輪郭をはっきりさせれば自然に見えるのか、何を残せばその景色らしさが伝わるのかということは、どちらを眺めていても考えさせられる。
彩花は鞄の肩紐を直し、再び歩き始めた。
今日は帰り道でも蕾を確かめるつもりだったが、朝と夕方で同じように見えるとは限らない。その違いを見つけられたら、夜にノートへ少し書き留めておこうと思った。
◇
青葉高校の教室では、登校してきた生徒たちの声が重なり、朝らしい賑わいが広がっていた。
彩花が席へ向かう途中、田辺大地が机の上に広げたノートを片づけているのが見えた。昨日まで取り組んでいた調べ学習の資料が、クリアファイルへ丁寧に収められている。
「おはよう、田辺君。調べ学習のまとめ、もう提出したの?」
彩花が声をかけると、大地は顔を上げて笑った。
「おはよう、水瀬。うん、今朝出してきた。結局、祭りの場所が変わった理由は分からなかったけど、調べたことを整理したら、思ってたよりちゃんと文章になったよ」
大地は机の端に置いたファイルを指先で軽く押さえた。
「最初は、分からないことが残ってたら駄目なんじゃないかって思ってたんだ。でも、資料に書いてない理由を勝手に決めつけるより、そのまま残した方がいいって納得できた」
彩花は頷き、昨日の彼の言葉を思い出した。
「うん。田辺君が何を調べて、どこまで分かったのかが伝わるなら、それも大切なまとめ方だと思う」
「ありがとう。あと、妹に昔の祭りの写真を見せたら、出店の方ばっかり気にしてたんだよ。俺は道の形を見てたのに、妹は『このお店、今もあるの?』って聞いてきてさ」
大地は少しおかしそうに笑った。
彩花もつられて笑みを浮かべる。
「同じ写真でも、気になるところが違うんだね。妹さんには、お祭りの楽しそうな雰囲気が伝わったのかもしれない」
「そうかも。俺も最初は調べ学習の資料としてしか見てなかったけど、妹に言われてから出店の並びも見直したんだ。写真って、見ようと思えばいろんなところが見えるんだな」
その言葉に、彩花は思わず目を細めた。
日曜日に悠真と話したことと、どこか通じるものがある。
けれど、同じ話をそのまま持ち出すより、今は大地が自分で見つけたことを聞いていたかった。
「田辺君も、最初とは違う見方ができたんだね。調べ学習が終わっても、そういう発見が残るのっていいな」
大地は少し照れくさそうに頭をかいた。
「そう言ってもらえると嬉しいな。水瀬も文芸部で忙しそうだけど、そっちはどう?」
「冬の部誌が完成に近づいているところだよ。まだ確認することがあるから、今日はその続きをする予定なの」
彩花が答えると、大地は興味深そうに頷いた。
「そっか。完成したら読めるの、楽しみにしてるよ。水瀬の書いた話も載るんだろ?」
彩花は少し緊張しながらも、微笑んだ。
「うん。読んでもらえるのは嬉しいけど、やっぱりちょっと恥ずかしいな」
「それはそうだろうな。でも、俺は楽しみにしてるから」
大地は明るく笑い、授業の準備へ戻った。
彩花も自分の席へ座り、教科書を取り出した。誰かが自分の文章を楽しみにしてくれているということは、嬉しさと同時に、少しだけ緊張も連れてくる。
けれど、その緊張は以前ほど怖いものではなくなっていた。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が朝の授業前にノートを開いていた。
昨日、森川航平へ伝えた図書室の地域資料の案内が、まだ頭の片隅に残っている。昔の街並みについて調べることは、最初は借りた写真集を読む楽しみの一つだったが、今では友人と話すきっかけにもなっていた。
教室の窓からは、校庭を横切る生徒たちの姿が見える。
悠真は机の上のノートへ目を落とし、今日確認する予定の授業内容を整理していた。生徒会の仕事もあるため、放課後の時間をどう使うか、朝のうちに考えておきたかった。
「おはよう、九条。今日は昨日より顔色がいいな」
声をかけてきたのは航平だった。
悠真は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、航平。そうかな。昨日も特に疲れていたつもりはないんだけど」
「いや、疲れてたっていうより、何か考えてる顔だったんだよ。昔の写真のことか、水瀬さんのことか、どっちかなって思ってた」
航平は冗談めかして笑い、悠真の隣へ立った。
悠真は少し困ったように微笑んだものの、否定はしなかった。
「どちらも考えていたかもしれないね。彩花さんと話してから、写真を見るときに気になるところが増えたんだ」
「なるほどな。俺も昨日、家で昔の駅前の写真をもう一度見てみたよ。建物の並びだけじゃなくて、道を歩いてる人の服装とか、店先に置いてあるものも気になってさ」
航平は楽しそうに話しながら、鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「ただ、写ってるものが何なのか分からないところも多かった。古い写真って、見れば見るほど疑問が増えるんだな」
悠真はその言葉に頷いた。
「そうだね。写真に写っているものだけで、全部が分かるわけではないから。ほかの資料と照らし合わせて、少しずつ確かめていくのが大切なんだと思う」
「うん。今日、図書室へ行けたら、昨日の掲示にあった本を見てみるつもりなんだ。九条はどうする?」
悠真は少し考えた。
「今日は生徒会の仕事があるから、終わる時間によるかな。先に航平が見てきてもいいと思うよ。気になる本があったら、あとで教えてほしい」
航平は頷き、メモ帳を鞄へ戻した。
「分かった。じゃあ、見つけたことがあったら話すよ。何も見つからなくても、どんな本があったかくらいは報告する」
その言い方がどこか楽しそうで、悠真は小さく笑った。
「ありがとう。楽しみにしているよ」
航平が自分の席へ戻ったあと、悠真は窓の外へ視線を向けた。
昨日、彩花は冬の部誌の最終データを確認したと話してくれた。今日は残っている印刷条件について、何か進展があるのかもしれない。
(彩花さんは、今日もきっと一つずつ確かめているんだろうな。完成したときに、どんな顔で話してくれるのか楽しみだ)
悠真はそう考え、ノートを閉じた。
教室には授業開始を知らせる予鈴が響き、生徒たちがそれぞれの席へ戻り始めていた。
◇
昼休み、彩花は青葉高校の図書室へ向かった。
借りている小説はまだ読み終わっておらず、返却期限にも余裕がある。今日は続きを少し読み進めるつもりだったが、文芸部で使えそうな文章表現の参考書も気になっていた。
図書室の扉を開けると、静かな空気が彩花を迎えた。
窓際の席には数人の生徒が座っており、机の上には教科書や文庫本が広げられている。暖房の柔らかな音が聞こえる中、ページをめくる小さな音だけが時折重なっていた。
彩花は書架の間を歩き、文章表現に関する本が並ぶ棚へ向かった。
そこには、物語の構成や人物描写について書かれた本が何冊か置かれている。
彩花は背表紙を眺めながら、今の自分に必要なのはどんな本だろうと考えた。
冬の部誌へ載せる『いつか、ここに』は、すでに校正を終えている。今から大きく書き直すつもりはない。
けれど、星模様のノートに書いている新しい物語については、まだ迷っているところが多かった。
彩花は一冊の本を手に取り、目次を開いた。
そこには、登場人物の行動から感情を伝える方法や、会話の前後にある沈黙の扱いについて説明された章があった。
彩花は興味を引かれ、近くの席へ腰を下ろした。
ページを開くと、人物の気持ちを直接説明するだけでなく、その人が何を見て、どんな行動を選んだのかを描くことも大切だと書かれていた。
彩花は文章を読みながら、星模様のノートの少女を思い浮かべた。
祖母へ手紙を書こうとしている少女は、今、便箋の前で迷っている。
けれど、迷っていることを何度も説明するだけでは、その子の気持ちは十分に伝わらないのかもしれない。
祖母に教わったように土の様子を確かめようとすること。
水やりの前に、窓の外の光を見つめること。
祖母が今どんな景色を見ているのか、ふと考えること。
そうした小さな行動の中に、少女の気持ちは少しずつ表れている。
(そうか。三行目に何を書くかだけを考えていたけど、その前に、この子がどうして手紙を書きたいのか、もっと見てあげた方がいいんだ)
彩花は本から目を離し、窓の外を眺めた。
校庭の木々には冬の光が当たり、細い枝が風に揺れている。
自分が書いている物語の少女も、窓の外を見ながら、何かを思い出すことがあるのだろうか。
祖母と一緒に庭へ出た日のこと。
花が咲く前の蕾を見つけた日のこと。
水を与えすぎないようにと言われたときのこと。
彩花はそこまで考えて、少しだけ笑みを浮かべた。
すぐに新しい文章を書き始める必要はない。
今は、少女の暮らしをもう少し丁寧に想像してみたい。
彩花は参考書を閉じ、元の棚へ戻した。
そのあと、窓際の席で借りている小説を開いた。
幼なじみの二人は、まだ再会していない。
故郷へ戻った一人が、昔よく通っていた店を出たあと、駅へ続く道を歩いている場面から続きを読み始めた。
町の様子は少しずつ変わっているが、道の曲がり方や、遠くに見える建物の位置には、子どもの頃の記憶と重なるところがある。
彩花はその描写を読み、日曜日に悠真と見た昔の街並みの写真を思い出した。
写真と記憶は、同じではない。
写真には写っていない音や匂いが、記憶には残っていることもある。
反対に、記憶から抜け落ちてしまったものが、写真の中に残されていることもあるのだろう。
彩花はページをめくりながら、物語の中の人物がどんな気持ちで故郷を歩いているのか、静かに考えた。
昼休みの終わりが近づくと、彩花はしおりを挟み、本を閉じた。
まだ結末には届いていない。
けれど、今日読んだ部分には、二人が再会する前の時間を大切に描こうとする作者の意図が感じられた。
彩花は本を鞄へしまい、図書室をあとにした。
◇
放課後の文芸部では、佐々木先輩が顧問の先生と短い確認を終えて戻ってきたところだった。
部室の机には、昨日使った確認用紙と、元の表紙の試し刷り、調整案の試し刷りが並べられている。表紙担当の女子部員は、二枚の紙を汚さないように端をそろえ、保護用の袋を近くへ置いていた。
「お疲れさま、水瀬さん。ちょうどよかったわ。先生に、昨日残しておいた印刷条件について確認してきたところなの」
佐々木先輩の言葉に、彩花は鞄を置きながら頷いた。
「お疲れさまです。先生、確認してくださったんですね」
「ええ。昨日の試し刷りで使った条件を基準にして、最終データを準備してよいそうよ。ただ、印刷をお願いするときには、提出するデータと確認用紙を一緒に渡して、担当の方にも設定を見てもらう必要があるって」
彩花は机の上の用紙へ目を向けた。
昨日、確認が必要だと書き残していた項目の横には、佐々木先輩の丁寧な字で説明が加えられている。
先生から確認できたこと。
まだ印刷担当者へ伝える必要があること。
その二つが、はっきり分けられていた。
「じゃあ、今日の段階で全部決まったわけじゃなくて、印刷をお願いするときに確認することが残っているんですね」
彩花が言うと、佐々木先輩は頷いた。
「そうね。でも、こちらで準備できることはかなり整理できたと思うわ。今日は、提出するデータと確認用紙をそろえておきましょう」
表紙担当の女子部員も、少し安心したように微笑んだ。
「昨日から気になってたところが分かってよかった。先生に聞かないまま進めるのは、やっぱり不安だったから」
彩花は彼女の表情を見て、胸の奥が温かくなった。
表紙を描いた本人だからこそ、最後の仕上がりが気になるのだろう。
少し濃くした枝先も、読みやすく調整した下部の文字も、彼女が大切に考えてきた部分だった。
「うん。確認できてよかったね。昨日までの作業が、ちゃんと次につながっている感じがする」
彩花がそう言うと、女子部員は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。最初に描いたときは、こんなに細かいところまで考えると思ってなかったんだ。でも、みんなで見比べてみたら、自分だけじゃ気づかなかったことがたくさんあったよ」
彼女は机の上の試し刷りへ視線を落とした。
「枝先の濃さも、最初はこのくらいでいいと思ってたんだけど、実際に紙に印刷したら少し見えにくかったでしょう。画面で見ているだけじゃ分からないことがあるんだなって思った」
佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。
「だから試し刷りをした意味があったのよ。最初の案が悪かったわけじゃなくて、紙にしたときの見え方を確かめられたことが大切なんだと思う」
その言葉に、彩花も静かに頷いた。
最初の表紙には、最初の表紙のよさがあった。
調整案は、その雰囲気を残したまま、読みやすさを少し高めたものだった。
どちらか一方を否定するために比べたのではない。
よりよい形で部誌を届けるために、違いを確かめたのだ。
部員たちは、最終データのファイル名と保存場所を確認し、提出時に使う確認用紙を整理した。彩花は、表紙の下部に入る文字が試し刷りと同じ内容になっているかを、画面と紙を見比べながら確かめた。
細かな作業ではあったが、誰か一人に任せきりにせず、それぞれが確認できるところを担当していた。
途中、佐々木先輩がふと彩花へ声をかけた。
「水瀬さん、今日は少し楽しそうね。もちろん、いつも真面目に取り組んでくれているけど、今日は特に表紙を見ているときの表情が柔らかい気がするわ」
彩花は少し驚き、顔を上げた。
「そうですか? 自分では、あまり意識していなかったんですけど……」
「きっと、完成が近づいているのが嬉しいのね。私もそうだから、分かる気がするわ」
佐々木先輩はそう言い、机の上の試し刷りへ視線を戻した。
彩花は少し照れくさくなりながら、静かに頷いた。
「はい。自分の文章が載ることも嬉しいですけど、みんなで作ってきたものが一冊になるんだと思うと、すごく楽しみです」
佐々木先輩はその答えを聞き、満足そうに微笑んだ。
「そうね。完成したら、きっと今の気持ちも思い出すと思うわ」
彩花はその言葉を胸に留め、再び確認用紙へ目を落とした。
今日の活動では、最終データと確認用紙をそろえるところまで進んだ。
印刷そのものは、まだ始まっていない。
けれど、部誌が完成へ近づいていることは、確かに感じられた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が生徒会の仕事を終えたあと、図書室へ向かっていた。
廊下の窓から差し込む夕方の光は、朝より少し赤みを帯びている。授業を終えた生徒たちが部活動へ向かう声が遠くから聞こえ、校舎の中には放課後らしい空気が広がっていた。
図書室へ入ると、航平が地域資料の棚の前に立っていた。
手には一冊の本を持ち、ページを開きながら何かを確かめている。
「航平、もう来ていたんだね」
悠真が声をかけると、航平は顔を上げた。
「お、九条。生徒会、終わったのか。俺はさっき来たところだよ。昨日の掲示にあった本、何冊か見つけたんだけど、思ってたより面白いな」
航平は本を閉じ、表紙を悠真へ見せた。
地域の街並みの変化を紹介する資料で、古い写真と現在の風景を比べる構成になっているらしい。
悠真は興味深そうに頷いた。
「写真が多いんだね。駅前のことも載っているの?」
「少しだけ。でも、俺が探してた写真と同じ場所かどうかは分からないんだ。建物の形が似てるところもあるけど、撮られた時期が違うかもしれないし」
航平は少し考えながら答えた。
悠真は本を受け取り、航平が開いていたページを確かめた。
そこには、昔の商店街の様子が写っていた。
店先には商品が並び、通りには数人の人影が見える。
悠真は建物の配置を眺めたあと、写真の説明文へ目を移した。
「この写真は、場所の説明が少し書かれているね。でも、撮影された位置までは分からないみたいだ」
「そうなんだよ。だから、今の地図と比べる前に、もう少し資料を探した方がよさそうだなって思ってさ」
航平は頷き、別のページを開いた。
「でもさ、前だったらこういう本、たぶん最後まで見なかったと思うんだ。昔の写真って、ただ古いだけだと思ってたから」
悠真は友人の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「今は違うんだね」
「うん。調べてるうちに、昔の人もここで普通に暮らしてたんだなって思うようになった。写真の中の道を歩いてる人たちも、今の俺たちみたいに学校へ行ったり、買い物したりしてたんだろうなって」
悠真はその言葉に、日曜日の図書館で彩花が話してくれたことを思い出した。
昔の閲覧室に写っている人々も、ただ写真の一部として存在していたわけではない。
それぞれに読みたい本があり、過ごしていた時間があったはずだ。
「そうだね。建物や道が変わっても、そこで過ごしていた人の時間までなくなるわけじゃないんだと思う」
悠真が答えると、航平は少し嬉しそうに笑った。
「それ、いい言い方だな。俺も、そういうところを考えながら調べてみたい」
二人はしばらく資料を見比べたが、探していた昔の駅前の写真について、新しい結論が出たわけではなかった。
それでも、どんな資料を使えば調べられるのか、少しずつ分かってきたことは確かだった。
図書室を出る前、航平は本を元の棚へ戻し、悠真へ向き直った。
「今日は付き合ってくれてありがとう。九条が来てくれたおかげで、分からないところも整理できたよ」
「こちらこそ。航平が見つけた資料を一緒に見られて楽しかったよ」
悠真がそう答えると、航平は満足そうに頷いた。
二人は図書室をあとにし、夕方の校舎を歩き始めた。
◇
彩花が青葉高校を出る頃には、空の青色が少しずつ深くなり始めていた。
冬の日暮れは早く、校門の近くには帰宅する生徒たちの姿が続いている。彩花はマフラーを巻き直し、冷たい風の中を家へ向かって歩き始めた。
今日の文芸部では、印刷へ進めるための準備が一つ進んだ。
先生に確認できたことも、印刷担当者へ伝える必要があることも、分かりやすく整理された。
彩花はそのことを思い返しながら、自然と歩調を緩めた。
通学路の植え込みが見えてきたからだ。
朝と同じ枝先には、まだ小さな蕾がついている。
夕方の光は朝より低い位置から差し込み、枝の片側だけを淡く照らしていた。
彩花は歩道の端へ寄り、静かに眺めた。
(朝とは、やっぱり少し違って見えるね。でも、まだ開いていないのは同じなんだ)
蕾の形は、朝と大きく変わっていないように見える。
けれど、光の当たり方によって、表面の色が少し深く感じられた。
彩花はその違いを覚えておこうと思い、しばらく枝先を見つめた。
近くを通る人の足音が聞こえると、道を塞がないように身体を戻した。
今日も花は咲かなかった。
それでも、毎日見ているうちに、彩花はその蕾のことを少しずつ知っているような気持ちになっていた。
名前も、咲く時期も、まだ分からない。
けれど、どの枝についているのか、朝と夕方でどんなふうに見えるのかは、少しずつ覚えている。
彩花は小さく微笑み、家へ向かって歩き始めた。
◇
九条家では、夕食を終えた悠真が琴葉と一緒に押し葉の様子を確認することになっていた。
昨日の夜、琴葉から時間が合えば一緒に見てほしいと頼まれていたため、悠真は学校から帰ったあと、今日の予定を確かめていた。
押し葉を置いてある場所へ向かうと、琴葉はすでに準備をして待っていた。
近くにはハクが座っており、二人の様子を興味深そうに眺めている。
「お兄様、来てくれてありがとう。今日は少しだけ様子を見てみようと思うの」
琴葉は嬉しそうに微笑んだ。
悠真は頷き、押し葉を挟んでいるものへ目を向けた。
「そうだね。無理に開かずに、状態を確かめてみよう。まだ乾いていなかったら、もう少し待とうね」
「うん。私、ちゃんと待てるよ。きれいに残ってくれたら嬉しいから」
琴葉はそう言い、少し緊張したように手を伸ばした。
悠真は妹の動きを見守りながら、葉を傷めないように注意して、押し葉の状態を確かめた。
挟んでいた紙を慎重に開くと、葉の形は以前より平らになっているように見えた。
色は少し落ち着き、乾燥が進んでいることが感じられる。
けれど、まだ完全に仕上がったと判断するには早そうだった。
「形はきれいに残っているね。でも、もう少し乾かした方が安心かもしれない」
悠真がそう言うと、琴葉は葉をじっと見つめた。
「ほんとだ。前に見たときより平らになってる気がする。でも、まだ少し柔らかそうだね」
琴葉は慎重に頷き、葉へ直接触れないように手を引いた。
悠真はその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「うん。今は無理に使おうとしない方がいいと思う。もう少し待ってから、また確認しようか」
「分かった。私、早くしおりにしたいなって思ってたけど、今の形も好きだよ」
琴葉はそう言い、少し照れくさそうに笑った。
悠真は妹の言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
押し葉は、まだしおりにはなっていない。
けれど、琴葉にとっては、葉を拾った日から今までの時間も、大切な思い出になっているのだろう。
「そうだね。完成するまでの時間も、きっと思い出になると思うよ」
悠真が答えると、琴葉は嬉しそうに頷いた。
「うん。お兄様と一緒に見られてよかった」
そのとき、近くで待っていたハクが小さく鼻を鳴らした。
琴葉は思わず笑い、ハクの方へ振り返った。
「ハクも気になるの? でも、これはまだ触っちゃ駄目なんだよ」
ハクは言葉の意味を理解したかどうか分からないものの、琴葉の声に反応して尻尾を揺らした。
悠真はその様子を見て、静かに笑った。
押し葉は再び丁寧に戻され、もうしばらく乾燥を続けることになった。
琴葉は少し名残惜しそうに見つめていたが、無理に完成させようとはしなかった。
悠真はその姿を見ながら、彩花が話してくれた冬の部誌のことを思い出していた。
完成を楽しみにしているからこそ、急がずに確かめる。
その気持ちは、今の琴葉にも通じているように思えた。
◇
夕食後、彩花は自室で星模様のノートを開いた。
昼休みに図書室で読んだ文章表現の本の内容が、まだ頭の中に残っている。
登場人物の気持ちは、言葉で説明するだけではなく、行動や視線の中にも表れる。
彩花はそのことを思い出しながら、昨日までに書いた文章を読み返した。
少女は、祖母へ手紙を書こうとしている。
窓辺の鉢植えを見つめ、祖母から教わったことを思い出している。
けれど、今の文章では、少女がどんなふうに祖母のことを大切に思っているのか、まだ少し説明が多いように感じられた。
(この子は、ただおばあちゃんのことを思い出しているだけじゃないんだよね。教えてもらったことを、今も自分でやってみようとしているんだ)
彩花はペンを持ち、昨日の続きへ文章を書き足した。
少女は鉢植えの前にしゃがみ、土の表面をじっと見つめる。
祖母がそばにいた頃は、水やりの前に何を確かめればいいのか、何度も教えてもらった。
けれど、今は自分で考えなければならない。
少女はすぐに水差しを持ち上げるのではなく、少しだけ待ってみることにした。
窓から差し込む光が、葉の端を柔らかく照らしている。
祖母なら、きっとその光のことも気にするだろう。
少女はそう思いながら、葉の向きへ目を向けた。
彩花はそこまで書き、静かにペンを置いた。
少女の気持ちを、すべて説明しなくてもいいのかもしれない。
祖母の教えを思い出し、自分で確かめようとする行動の中に、二人が過ごしてきた時間が少しずつ表れている。
彩花は書いた文章を読み返し、先ほどより自然に感じられることに気づいた。
(うん。こっちの方が、この子らしい気がする。まだ全部分かったわけじゃないけど、少しずつ見えてきたかもしれない)
便箋の二行は、そのまま残してある。
三行目は、今日も書かなかった。
けれど、少女が祖母へ何を伝えたいのかは、少しずつ深まっている。
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、今日もお疲れさま。今日は学校の図書室で、航平と昔の街並みの資料を見たよ。探していた駅前の写真について新しいことが分かったわけではないけど、写真を見るときに気になるところが増えてきたんだ。彩花さんは、今日はどんな一日だった?』
彩花は文章を読み、自然と微笑んだ。
悠真は、今日も自分が見つけたことを話してくれている。
しかも、分かったことだけでなく、まだ分からないこともそのまま伝えてくれる。
彩花はそのことを嬉しく思いながら、返事を考えた。
『悠真君もお疲れさま。私は今日、文芸部で冬の部誌の印刷準備を進めたよ。先生に確認できたことがあって、最終データと確認用紙をそろえるところまで進んだの。まだ印刷をお願いするときに確認することはあるけど、少しずつ完成に近づいている感じがするよ』
送信して少しすると、悠真から返事が届いた。
『そうなんだね。昨日残っていたことを、今日ちゃんと確認できたんだね。彩花さんたちが大切に作っている部誌だから、完成するまでの時間もきっと大事なものになると思う』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。
今日、佐々木先輩が話してくれたことと、どこか似ている。
完成したときには、きっと今の気持ちも思い出す。
悠真も、同じように考えてくれているのかもしれない。
『ありがとう。今日、表紙を描いた子も、みんなで確認できてよかったって言ってたよ。私も、自分だけじゃ気づかなかったことがたくさんあったなって思った』
彩花がそう返すと、悠真から少し間を置いて返事が届いた。
『それは素敵だね。俺も今日、航平と資料を見ながら、自分では気づかなかったところを教えてもらったよ。同じものを見ても、人によって目を向けるところが違うのは面白いね』
彩花はその言葉を読み、日曜日の図書館での時間を思い出した。
昔の閲覧室の写真を、二人で並んで見たこと。
悠真が窓の形や机の配置を話してくれたこと。
彩花が、そこで本を読んでいた人々の時間を想像したこと。
そのどれもが、今も鮮やかに残っている。
『うん。日曜日に悠真君と写真を見たときも、そうだったね。私は人のことを考えていたけど、悠真君が建物のことを話してくれたから、前より写真が面白く見えたよ』
彩花が送信すると、悠真からすぐに返事が届いた。
『俺も同じだよ。彩花さんが話してくれたことを思い出すと、今まで気づかなかったところが見えるようになった気がする。また一緒に本を見られたら嬉しいな』
彩花はその文章を読み、頬が少し熱くなるのを感じた。
次に会う日が決まっているわけではない。
けれど、悠真もまた一緒に本を見たいと思ってくれている。
そのことが、胸の奥に柔らかな喜びを広げた。
『私も嬉しいな。そういえば、今日もあの蕾を見たよ。まだ咲いていなかったけど、朝と夕方で光の当たり方が違って、少し色が変わって見えたの』
彩花がそう送ると、悠真から穏やかな返事が届いた。
『毎日見ているからこそ、そういう違いに気づけるんだね。俺も、庭の木や道の景色をもう少し丁寧に見てみようと思う』
彩花はその文章を読み、静かに微笑んだ。
自分が見つけた小さなことが、悠真の一日にも何かを残している。
そう考えると、嬉しさが少し大きくなった。
◇
同じ夜、悠真は自室の机に向かっていた。
彩花とのメッセージを終えたあとも、彼女が話してくれた蕾のことが心に残っている。
まだ咲いていない花を、毎日同じ場所で眺めること。
その中で、朝と夕方の光の違いに気づくこと。
悠真は机の上に置いてある古い図書館の写真集へ目を向けた。
まだ読み終えていない本の中には、昔の閲覧室の写真が載っている。
悠真はそのページを開き、静かに眺めた。
窓から差し込む光は、写真の中で斜めに伸びている。
机の上には本を開いている人々の姿があり、それぞれが自分の時間を過ごしているように見えた。
悠真は写真を眺めながら、彩花と話したときのことを思い出した。
彼女は、そこにいた人々が何を読んでいたのか、どんな気持ちで本を開いていたのかを考えていた。
悠真自身は、建物の形や配置を先に見ていた。
けれど、今では写真の中にある人々の時間にも、自然と目が向くようになっている。
(彩花さんと話していると、俺が見ていた景色が少し広がるんだな。きっと、これからもそういうことが増えていくんだろう)
悠真はそう思い、写真集を閉じた。
机の引き出しには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードが大切にしまわれている。
今夜は取り出さなかったが、その言葉は今もはっきり覚えていた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。
彩花が好きなものを大切にしたい。
その気持ちは、最初に彼女と本の話をした頃から、少しずつ大きくなってきた。
けれど、今はただ彼女の好きなものを知りたいだけではない。
彩花が何を見て、何を感じ、どんなふうに考えているのかを、もっと知りたいと思っている。
そして、自分が見つけたものも、彼女へ伝えたい。
悠真は窓の外へ視線を向けた。
冬の夜空には、薄い雲が静かに流れている。
今日も彩花とは会っていない。
けれど、彼女がどんな一日を過ごしたのか、少し知ることができた。
そのことが、悠真には大切だった。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、朝の植え込み、教室での大地との会話、昼休みに読んだ本、文芸部での確認作業が順番に浮かんでくる。
そして、夜には悠真とメッセージを交わした。
彩花はペンを持ち、今日のことを書き始めた。
『今日は冬の部誌の印刷準備が少し進んだ。先生に確認できたことがあって、最終データと確認用紙をそろえるところまでできた。まだ確認することは残っているけど、みんなで丁寧に進められているのが嬉しい。完成したときには、きっと今のことも思い出すと思う。』
彩花はそこで一度ペンを止め、今日の部室の光景を思い出した。
表紙担当の女子部員が、最初に描いたときには気づかなかったことがたくさんあったと話していたこと。
佐々木先輩が、試し刷りをした意味があったと言ってくれたこと。
どれも、今日の大切な出来事だった。
彩花は日記帳へ続きを書いた。
『昼休みに、文章表現の本を少し読んだ。登場人物の気持ちは、説明するだけじゃなくて、行動や視線の中にも表れるんだと思った。星模様のノートの物語も、少しだけ書き足せた。まだ手紙の三行目は書いていないけど、少女が何を伝えたいのか、前より少し分かってきた気がする。』
書き終えると、彩花はしばらくその文章を眺めた。
物語は、まだ完成していない。
けれど、今日書いた場面には、昨日までとは少し違う手応えがあった。
少女が祖母の教えを思い出しながら、自分で鉢植えの様子を確かめようとする姿。
その行動の中に、二人が過ごしてきた時間を感じられるようになった気がする。
彩花はもう一度ペンを持ち、日記帳へ最後の文章を書き足した。
『悠真君と、今日も本や写真の話ができた。日曜日に一緒に見た昔の閲覧室の写真のことを思い出した。悠真君が見つけたものを聞くと、私の見ていた景色が少し広がる。私が見つけたものも、悠真君にとって何か新しい発見になっていたら嬉しい。』
彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。
悠真と話す時間は、いつも特別な出来事があるわけではない。
学校であったこと。
読んでいる本のこと。
帰り道で見つけた小さな変化。
そんな何気ないことを伝え合うだけで、心が温かくなる。
(悠真君と話していると、今日見つけたことを、明日も大切にしたくなるんだね)
彩花はそう思い、静かに微笑んだ。
日記帳を閉じると、隣には星模様のノートが置かれている。
祖母への手紙を書こうとしている少女は、まだ三行目を見つけていない。
けれど、今日の彩花は、そのことを焦っていなかった。
少女が何を感じ、どんなふうに祖母のことを思い出しているのか。
それを丁寧に見つめていけば、いつか自然に言葉が見つかるかもしれない。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ入った。
窓の外には、静かな冬の夜が広がっている。
今日、通学路の蕾はまだ咲かなかった。
冬の部誌も、印刷を待っている。
星模様のノートの物語も、まだ完成していない。
けれど、どれも昨日とまったく同じではない。
少しずつ確かめ、少しずつ考え、少しずつ形になっていく。
その時間を大切にしたいと思えたことが、今日の彩花には嬉しかった。
そして、明日もまた、悠真へ話したいことが見つかるかもしれない。
彩花はそのことを楽しみにしながら、ゆっくり目を閉じた。
木曜日の夜は、穏やかに更けていった。




