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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第127話 水曜日の図書室で見つけた言葉と、君に聞いてほしい帰り道


 水曜日の朝、彩花がカーテンを開けると、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。昨日のように明るい日差しが部屋の奥まで届くことはなかったものの、雲の向こうには淡い青色が透けており、冬らしい静かな朝の景色が住宅街を包んでいる。


 水瀬彩花は窓際に立ったまま、向かいの家の庭木を眺めた。細い枝が風に揺れるたび、まだ残っている数枚の葉が小さく震え、昨日とは違う光の中で、それぞれの輪郭を浮かび上がらせていた。


(今日は少し曇っているんだ。あの蕾も、昨日とは違って見えるのかな)


 通学路の植え込みにある小さな蕾は、まだ開いていない。毎朝のように確かめることが、いつの間にか彩花の楽しみの一つになっていたが、今日はその変化だけを気にしているわけではなかった。


 昨日、文芸部では冬の部誌の表紙について、顧問の先生から調整案を採用する方向で進めてよいと言ってもらえた。ただし、印刷前に最終データと印刷条件を確認する必要があり、部誌そのものが完成したわけではない。


 机の上には、星模様のノートと葉模様の日記帳が並んでいる。彩花はその二冊を見つめ、昨日の夜に悠真と交わしたメッセージを思い出して、自然と頬を緩めた。


 完成した部誌を読んでみたいと言ってくれたことも、彩花が大切にしている部分を覚えていてくれたことも、まだ胸の奥に温かく残っている。自分の書いたものを誰かに読んでもらう緊張は消えないが、悠真になら、その緊張まで含めて話せるような気がしていた。


 彩花は机へ近づき、星模様のノートをそっと開いた。


 離れて暮らす祖母へ手紙を書こうとしている少女は、窓辺の鉢植えを見つめながら、祖母から教わったことを思い返している。便箋に書かれた言葉は今も二行だけで、三行目はまだ見つかっていなかった。


 けれど、少女が何を伝えたいのかは、以前より少しだけ分かるようになってきた気がする。


(今日は、この子が誰に何を聞きたいのか、もう少し考えてみようかな。伝えたいことと、知りたいことは、きっと同じじゃないから)


 彩花はノートを閉じ、鞄の中へは入れずに机の上へ戻した。学校へ持っていくのは、授業で使うものと、借りている読みかけの小説だけにするつもりだった。


 階下から母の紗月が呼ぶ声が聞こえ、彩花は返事をして部屋を出た。


     ◇


 朝食の席では、父の耕助が湯気の立つお茶を飲みながら、窓の外を眺めていた。母の紗月は食卓へ小皿を並べ、姉の凛花はまだ少し眠そうな表情で椅子に座っている。


「おはよう、彩花。今日は昨日より寒く感じるかもしれないわね。曇っていると、同じ気温でも違うでしょう?」


 紗月の言葉に、彩花は頷きながら椅子へ腰を下ろした。


「うん。窓を開けたら、昨日より冷たい感じがしたよ。今日はマフラーをちゃんと巻いていくね」


「それがいいと思う。帰りも日が落ちると冷えるから、無理に薄着しないようにな」


 耕助が穏やかに続けると、凛花が小さく笑った。


「お父さん、彩花には毎日それ言ってる気がする。まあ、私も寒いのは嫌だから、今日は手袋を持っていこうかな」


 凛花はそう言いながら、食卓の端に置いていた自分の鞄を見た。昨日、駅前の花屋で見かけた鉢植えの話をしていたことを思い出したのか、ふと彩花へ視線を向ける。


「そういえば、彩花。昨日話してた植物のこと、夜に少し調べてみたんだ。育てやすいって書いてある種類でも、置く場所によっては難しいみたいだね」


 彩花は興味を引かれ、箸を置いた。


「そうなんだ。日当たりとか、水の量とか?」


「うん。それに、同じ植物でも季節によって世話の仕方が違うみたい。お店で見たときは可愛いなって思ったけど、ちゃんと育てるなら、もう少し調べてからの方がよさそう」


 凛花は少し残念そうに笑ったものの、急いで買おうとはしていなかった。


 彩花は姉の話を聞き、通学路の蕾を思い浮かべた。自分が毎日眺めている枝についても、何という植物なのか、どんな時期に花が咲くのか、まだ知らない。


「私も、あの蕾のことをもう少し知りたいな。見ているだけでも楽しいけど、どんな植物なのか分かったら、違う見方ができるかもしれない」


 彩花が言うと、紗月は微笑んだ。


「そうね。でも、名前が分からなくても、見て気づくことはあるでしょう。先に調べるのもいいし、しばらく観察してから本で確かめるのも面白そうね」


 その言葉に、彩花は静かに頷いた。


 すぐに答えを知ることもできるかもしれない。けれど、毎日見ているうちに何かを発見する時間も、今の彩花には大切だった。


 朝食を終えると、彩花は玄関でマフラーを巻き、鞄を肩に掛けた。家族に挨拶をして外へ出ると、薄い雲に覆われた空の下を、冷たい風が静かに通り抜けていった。


     ◇


 通学路の植え込みへ近づいたとき、彩花はいつものように歩道の流れを確かめてから、少し端へ寄った。


 低い枝の先にある蕾は、今朝もまだ閉じている。昨日は朝日が当たって輪郭がはっきりしていたが、今日は雲を通した光の中で、表面の色が柔らかく見えた。


 彩花は目を凝らし、昨日の様子を思い出そうとした。


 大きさが変わったのかどうかは、やはり分からない。けれど、枝の向きや蕾の重なり方を覚えていることに気づき、少しだけ嬉しくなった。


(毎日見ていると、変わっていないところも覚えるんだね。咲く日だけじゃなくて、その前の姿もちゃんと見ていたいな)


 彩花はそう思いながら、蕾へそっと微笑みかけた。


 近くを歩く人の足音が聞こえ、彩花は道を塞がないように身体を戻した。学校へ向かう生徒たちの姿も増えてきており、住宅街には朝らしい賑わいが戻り始めている。


 彩花は歩き出しながら、今日の帰りにも同じ場所を通ろうと思った。


 朝と夕方で光が違えば、見え方も変わる。昨日から何かが大きく進んでいなくても、その違いを見つけるだけで、一日が少し豊かになる気がした。


     ◇


 青葉高校の教室へ入ると、彩花は窓際に集まっている生徒たちの声を聞いた。


 誰かが昨日の授業で出された課題について話しており、別の生徒は机の上に広げたノートを見ながら、提出する文章を確認している。彩花が席へ向かう途中、田辺大地が顔を上げた。


「おはよう、水瀬。昨日の話なんだけど、提出する前に最後のところをもう一度見直したんだ。結局、昔の祭りの場所が変わった理由は分からなかったけど、分からないことは分からないまま書くことにしたよ」


 大地は少し照れくさそうに笑い、机の上のノートを閉じた。


 彩花は鞄を置きながら、穏やかに頷いた。


「おはよう、田辺君。それでいいと思う。調べても分からなかったことを、無理に理由があるように書かなくてもいいんじゃないかな」


「そうだよな。最初は、何か理由を見つけなきゃいけないと思ってたんだけど、調べた資料にはそこまで書いてなかったんだ。だから、場所が変わったことと、今も祭りが続いていることを中心にまとめた」


 大地はそう言い、少し安心したように肩を落とした。


 彩花は彼の表情を見て、昨日よりも自分の文章に納得しているのだと感じた。


「田辺君が最初に不思議だと思ったことも、ちゃんと残っているんだよね。それなら、調べた過程が伝わると思う」


「うん。ありがとう。水瀬に話してなかったら、たぶんもっと難しく考えてたと思う」


 大地は笑いながらそう言ったあと、窓の外へ目を向けた。


「それにしても、今日は曇ってるな。昨日はあんなに晴れてたのに、同じ教室でもずいぶん雰囲気が違う」


 彩花も窓の方を見た。


 校庭の木々は昨日ほど濃い影を落としておらず、窓ガラスには薄い空の色が映っている。


「うん。でも、こういう光だと、窓の外の色が落ち着いて見えるね。昨日とは違う感じがして、私はけっこう好きかもしれない」


 彩花が答えると、大地は少し意外そうに笑った。


「水瀬って、そういうところによく気づくよな。俺だったら、晴れてるか曇ってるかくらいしか考えないと思う」


 彩花は少し照れくさくなりながら、首を横へ振った。


「私も、前から全部気づいてたわけじゃないよ。最近、ちょっとした違いを見るのが楽しくなっただけだと思う」


 大地はその言葉に頷き、机の上の教科書を開いた。


 彩花も自分の席へ座り、授業の準備を始めた。窓の外の光は弱かったが、教室には朝の落ち着いた空気が満ちていた。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が教室の机に向かっていた。


 昨日、森川航平と話した昔の駅前の写真について、今朝も少し考えていたためだ。写真に写っている建物の並び方と、現在の地図の道筋が完全には一致していないことが気になっていた。


 悠真は自分のノートに、確かめたいことを簡単に書き留めた。


 撮影された場所。


 写真が撮られた時期。


 その頃の駅前の道の形。


 どれも、まだ答えが分かっていないことだった。


 しばらくして、航平が教室へ入ってきた。


「おはよう、九条。昨日、本屋へ寄ってきたんだけどさ、結局、最初に探してた本とは別の本も気になっちゃって、ずいぶん長く見て回ったよ」


 航平は楽しそうに笑いながら、悠真の机の近くへ来た。


 悠真は顔を上げ、微笑んだ。


「おはよう、航平。気になる本が見つかったんだね。どんな本だったの?」


「昔の街並みを紹介してる本があったんだ。写真が多くて、今と昔を比べられるようになってた。買うか迷ったんだけど、まずは図書館にあるか調べてみようと思ってさ」


 航平は鞄からメモを取り出し、そこに書いた本の題名を見せた。


 悠真は内容を確かめながら、興味深そうに頷いた。


「写真が多いなら、今調べていることにも参考になるかもしれないね。ただ、地域が違う場合は、直接同じように考えられるとは限らないから、比較するときは気をつけた方がいいと思う」


「そうなんだよな。そこは俺も考えた。だから、まずはどういうふうに昔の写真を調べているのか、見てみたいんだ」


 航平はそう言って、少し得意そうに笑った。


 悠真はその表情を見て、友人が調べること自体を楽しみ始めているのだと感じた。


「それなら、きっと面白いと思うよ。写真の見方が分かれば、今持っている資料も違って見えるかもしれない」


「だよな。そういえば九条、お前が借りてる古い図書館の写真集って、まだ読んでるんだっけ?」


 航平に尋ねられ、悠真は頷いた。


「うん。まだ全部は読んでいないよ。昔の閲覧室の写真があって、今の図書館と比べると面白いんだ。彩花さんとも、その写真を見ながらいろいろ話したよ」


 航平はその言葉に、少し笑みを深くした。


「そっか。水瀬さんと一緒に見ると、また違うところに気づきそうだな」


 悠真は穏やかに頷いた。


「そうだね。俺は建物の形や配置を先に見ていたけど、彩花さんは、そこで本を読んでいた人がどんな時間を過ごしていたのかを考えていたんだ。同じ写真でも、見るところが違うのが面白かったよ」


 航平は感心したように目を細めた。


「なるほどな。俺も、写真の中に写ってるものだけじゃなくて、そこにいた人のことも考えてみようかな」


 悠真はその言葉に微笑み、ノートを閉じた。


 昔の写真に残っているものは、建物や道だけではないのかもしれない。


 そこにいた人々の暮らしや、何気ない一日の時間も、写真の中に少しだけ残されている。


 悠真はそう考えながら、今日の授業へ意識を向けた。


     ◇


 昼休みの青葉高校では、彩花が教室の窓際で読みかけの小説を開いていた。


 物語の中では、故郷へ戻った幼なじみの一人が、昔よく通っていた店で、子どもの頃に見覚えのある品物を見つけていた。店の中は以前と少し変わっているものの、棚の奥には懐かしいものが残されている。


 彩花はその場面を読み進めながら、登場人物の気持ちを考えた。


 懐かしいものを見つけたとき、人は嬉しくなることもあれば、少し寂しくなることもある。


 そこに残っているものが、過ぎた時間を思い出させるからだろう。


 けれど、その寂しさが必ずしも悲しいだけではないことを、彩花は最近少しずつ理解し始めていた。


(この人は、昔の町に戻りたいというより、昔の自分が大切にしていたものを、今も大切に思っているのかな)


 彩花はしおりを指先で押さえ、少しだけ考えた。


 幼なじみの二人は、まだ再会していない。


 けれど、別々の場所で同じ町を思い出していることが、少しずつ伝わってくる。


 その距離が、物語の静かな緊張を生んでいるように感じられた。


 彩花がページをめくろうとしたとき、近くの席の女子生徒が声をかけてきた。


「水瀬さん、その本、昨日も読んでたよね。まだ二人は会えてないの?」


 彩花は顔を上げ、微笑んだ。


「うん、まだなんだ。でも、二人とも昔の町のことを思い出していて、少しずつ同じ場所へ近づいているような感じがするの」


 女子生徒は興味深そうに頷いた。


「へえ。早く会ってほしいけど、会うまでの時間も大事そうだね。水瀬さん、そういうお話が好きなんだよね」


 彩花は少し照れくさくなりながら頷いた。


「うん。登場人物が何を考えているのか、少しずつ分かっていくところが好きなのかもしれない。会えたときに、どんな言葉を交わすのかも気になるし」


 女子生徒は楽しそうに笑った。


「じゃあ、読み終わったら感想を聞かせてね。私も、どんな結末になるのか気になってきた」


「うん。最後まで読んだら、ちゃんと話すね」


 彩花はそう答え、本を閉じて鞄へしまった。


 まだ結末を知らない物語について、誰かと話せること。


 その楽しさは、悠真と本の話をするようになってから、以前より大きくなった気がした。


 彩花は窓の外へ目を向け、薄い雲の向こうに広がる空を眺めた。


 今日も、悠真は別の学校で過ごしている。


 けれど、彼も今頃、何か新しいことを見つけているのかもしれない。


 そう考えると、午後の授業へ向かう気持ちが少し軽くなった。


     ◇


 午後の授業が終わったあと、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。


 昨日、顧問の先生から表紙の調整案を採用する方向で進めてよいと言ってもらえたため、今日は最終データと印刷条件の確認を進める予定だった。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を並べていた。


「お疲れさま、水瀬さん。今日は、昨日先生に見ていただいた調整案のデータを、もう一度確認しておこうと思っているの。実際に印刷へ進める前に、設定が変わっていないか確かめたいから」


 彩花は頷き、鞄を置いた。


「お疲れさまです。昨日の試し刷りと同じ条件になっているか、確認するんですね」


「ええ。表紙担当の子も、もうすぐ来ると思うわ。今日は急いで決めるより、確認した内容をきちんと残しておきたいの」


 佐々木先輩の言葉に、彩花は静かに頷いた。


 昨日、先生から前向きな返事をもらえたことは嬉しかった。


 けれど、その嬉しさだけで最後の確認を省いてしまえば、これまで丁寧に進めてきた意味が薄れてしまう。


 彩花は机の上の確認用紙を見ながら、昨日までの作業を思い返した。


 元の表紙と調整案を、同じ紙と印刷条件で比べたこと。


 枝先の濃さと、下部の小さな文字の読みやすさを確認したこと。


 空の柔らかな雰囲気を残すため、全体の色や配置を大きく変えなかったこと。


 どれも、表紙担当の女子部員と部員たちが一緒に考えてきたことだった。


 しばらくすると、表紙担当の女子部員が部室へ入ってきた。


「お疲れさま。昨日は先生に見てもらえてよかったね。今日は、データの方を確認するんだよね?」


 彼女は少し緊張したように笑いながら、机の上へ自分の資料を置いた。


 佐々木先輩は頷き、確認用紙を見せた。


「そうよ。昨日の試し刷りで確認した調整案が、今のデータにも正しく反映されているか確かめましょう。印刷するときに条件が変わらないように、必要な項目も整理しておきたいの」


 女子部員は頷き、用意したデータを開いた。


 彩花は隣で画面を見ながら、昨日の試し刷りを思い出した。


 枝先の濃さは、元の表紙より少しだけはっきりしている。


 下部の小さな文字も、背景に埋もれず読めるように調整されていた。


 空の色や余白の印象は、最初に見たときの柔らかさを残している。


「昨日見た調整案と、同じように見えるね。枝先のところも、下の文字も、変わっていないと思う」


 彩花がそう言うと、女子部員は画面を拡大し、細かな部分を確認した。


「うん。数値も昨日の調整から変えてないよ。保存したあとに別のところを触ってないか心配だったけど、大丈夫そう」


 佐々木先輩は二人の確認を聞き、用紙へ印をつけた。


「では、変更した部分は確認できたわね。次は、印刷するときの設定を見ておきましょう」


 部員たちは、昨日の試し刷りで使った条件と、現在の設定を照らし合わせた。


 紙の種類、印刷の向き、余白の扱い。


 どれも大きな問題は見つからなかったが、最終的な印刷へ進める前に、もう一度担当者と確認する必要がある項目が残った。


 彩花はその項目を見ながら、少し考えた。


「ここは、今日の段階で決めきらなくてもいいんですよね。確認する相手がいるなら、ちゃんと聞いてからの方が安心だと思います」


 佐々木先輩は穏やかに頷いた。


「そうね。分からないまま進めるより、確認してから決めた方がいいわ。今日は、どこまで確かめられたかを整理できれば十分よ」


 表紙担当の女子部員も安心したように微笑んだ。


「よかった。昨日、先生に見てもらえたから、今日中に全部終わらせなきゃって少し思ってたんだ。でも、最後の確認を急いで間違えたら嫌だもんね」


 彩花は彼女の言葉に頷いた。


「うん。ここまで丁寧に作ってきたんだから、最後も同じように進めたいね」


 女子部員は嬉しそうに笑い、画面のデータを保存した。


 そのあと、部員たちは今日確認した内容を整理し、残っている項目を分かりやすく書き出した。


 部誌の完成は、昨日より少し近づいた。


 けれど、まだ最後の確認が残っている。


 彩花はそのことを理解しながら、今日の活動を終えた。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が放課後の生徒会の仕事を終えていた。


 今日は確認する資料がいくつかあり、昨日より少し時間がかかったものの、予定していた作業は無事に終わった。


 悠真は机の上を整理し、必要な書類を所定の場所へ戻した。


 窓の外には薄い雲が広がり、校庭の木々が夕方の光の中で静かに揺れている。


 教室へ戻る途中、悠真は廊下の掲示板に貼られた図書室の案内へ目を向けた。


 そこには、地域の歴史に関する資料を紹介する小さな案内があった。


 悠真は足を止め、内容を確かめた。


 昔の街並みを扱う本や、地域の変化を紹介する資料がいくつか並べられているらしい。


 航平が調べている昔の駅前の写真にも、何か参考になるものがあるかもしれない。


 ただし、実際にどの資料が役立つかは、見てみなければ分からない。


 悠真は案内の内容を覚え、あとで航平へ伝えようと思った。


 そのとき、廊下の向こうから航平が歩いてきた。


「九条、まだ学校にいたのか。生徒会の仕事、終わった?」


 悠真は振り返り、頷いた。


「うん、今終わったところだよ。ちょうど航平に話そうと思っていたことがあるんだ」


 航平は少し驚いたように眉を上げた。


「俺に? 何かあった?」


 悠真は掲示板の案内を示した。


「図書室で地域の歴史に関する資料を紹介しているみたいなんだ。昔の街並みを扱う本もあるらしいから、航平が調べていることに参考になるかもしれないと思って」


 航平は案内へ近づき、内容を読んだ。


「へえ、こんなのあったんだ。全然気づかなかった。明日、時間があったら見に行ってみようかな」


 悠真は頷いた。


「うん。ただ、駅前の写真が載っているかどうかは分からないから、まずは内容を確かめてみるといいと思う」


「そうだな。ありがとう、九条。最近、こういう案内を見るのも面白くなってきたよ」


 航平は笑いながら、掲示板から少し離れた。


 悠真はその様子を見て、友人が自分で調べる楽しさを見つけ始めていることを嬉しく思った。


 航平はふと、悠真の顔を見た。


「そういえば九条、水瀬さんとは最近どうなんだ? この前の日曜日に図書館で会ったんだろ?」


 悠真は少しだけ表情を和らげた。


「うん。昔の図書館の写真を一緒に見たり、読んでいる本の話をしたりしたよ。彩花さんが気づいたことを聞くのは、やっぱり楽しかった」


 航平はその答えを聞き、少し笑った。


「お前、ほんとに水瀬さんの話になると嬉しそうだな。前より表情が分かりやすくなった気がする」


 悠真は少し照れくさくなりながら、友人へ視線を向けた。


「そうかな。自分では、あまり意識していないんだけど」


「そうだよ。まあ、悪いことじゃないと思うけどな。お前が楽しそうにしてるのを見ると、俺もなんか安心するし」


 航平はそう言い、穏やかに笑った。


 悠真はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彩花と出会ってから、自分がどのように変わったのか、はっきり言葉にすることは難しい。


 けれど、彼女と過ごす時間を楽しみにする気持ちは、以前よりずっと大きくなっていた。


「ありがとう、航平。俺も、彩花さんと話す時間を大切にしたいと思っているよ」


 悠真がそう答えると、航平は満足そうに頷いた。


「そっか。じゃあ、また今度、図書館の話も聞かせてくれよ。俺も調べ学習が進んだら話すからさ」


「うん。楽しみにしているよ」


 二人は校門の近くまで一緒に歩き、そこで別れた。


 悠真は帰り道へ向かいながら、彩花が今日どんな一日を過ごしたのか考えていた。


 昨日は冬の部誌の表紙について、大きな進展があったと話してくれた。


 今日も、何か新しいことがあったのだろうか。


 そう思うと、夜にメッセージを送る時間が楽しみになった。


     ◇


 青葉高校からの帰り道、彩花はいつもの植え込みへ近づいた。


 空は朝より少し明るくなっていたが、雲はまだ薄く広がっている。


 蕾は今朝と同じように閉じていた。


 彩花は歩道の端へ寄り、静かに枝先を眺めた。


(今日も、まだ咲いていないね。でも、朝より少し柔らかい色に見えるのは、夕方の光のせいかな)


 彩花は昨日の朝、日差しが当たっていたときの姿を思い出した。


 同じ蕾でも、光の当たり方によって印象が変わる。


 それは、今日の文芸部で表紙の色や文字の見え方を確認したこととも、どこか似ている気がした。


 見やすさを確かめるには、実際に紙へ印刷してみる必要があった。


 植物の変化を知るにも、一度見ただけでは分からないことがある。


 彩花はその共通点を面白く感じながら、蕾へもう一度目を向けた。


 まだ花は開いていない。


 けれど、毎日見ているうちに、彩花の方が少しずつ変わっているのかもしれなかった。


 以前なら、気づかずに通り過ぎていた小さな枝先。


 今は、その前で立ち止まる時間が、一日の楽しみになっている。


 彩花はマフラーを直し、家へ向かって歩き始めた。


     ◇


 夕食後、彩花は自室で星模様のノートを開いた。


 祖母への手紙を書こうとしている少女は、窓辺の鉢植えを見つめながら、祖母から教わったことを思い出している。


 彩花は昨日書いた場面を読み返し、少し考えた。


 少女は、祖母へ庭の花のことを伝えたい。


 それだけではなく、離れた場所で暮らす祖母が、今どんな景色を見ているのかも知りたい。


 けれど、その気持ちをどう言葉にすればいいのか、まだ分かっていない。


(この子は、きっとおばあちゃんに会いたいんだよね。でも、会いたいって書くだけじゃなくて、今の自分が何を見つけたのかも伝えたいんだと思う)


 彩花はペンを持ち、手紙の前に置かれた場面へ文章を書き足した。


 少女は窓辺の鉢植えへ近づき、土の表面を眺める。


 朝より少し乾いているように見えるが、すぐに水を与えるべきかどうかは分からない。


 祖母なら、きっと土の状態をもう少し丁寧に確かめるだろう。


 少女はそう思い、鉢植えへそっと手を伸ばした。


 けれど、祖母の真似をするだけではなく、自分で考えようとしていることに気づく。


 教えてもらったことを覚えている。


 そのことは、離れて暮らしていても、祖母との時間が自分の中に残っている証拠なのかもしれない。


 彩花はそこまで書き、静かにペンを置いた。


 少女の手紙は、まだ二行のままだ。


 けれど、三行目に何を書きたいのか、少しずつ見えてきた気がした。


 彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。


 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、今日もお疲れさま。今日は航平と、昔の街並みの資料について話したよ。学校の図書室でも地域の歴史に関する本を紹介しているみたいで、航平が今度見に行ってみるって言ってたんだ。彩花さんは、今日はどんな一日だった?』


 彩花は文章を読み、自然に微笑んだ。


 悠真は、今日も自分の見つけたものを話してくれている。


 彩花はスマートフォンを両手で持ち、返事を考えた。


『悠真君もお疲れさま。私は今日、文芸部で冬の部誌の表紙の最終データを確認したよ。昨日先生に見てもらった調整案が、ちゃんと反映されているか確かめたの。大きな問題はなかったけど、印刷条件についてはもう一度確認するところが残っているんだ』


 送信して少しすると、悠真から返事が届いた。


『そうなんだね。昨日の進展を大切にしながら、今日も丁寧に確認できたんだね。最後の確認が終われば、いよいよ完成に近づきそうだね』


 彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真は、表紙のことを最初から一緒に考えていたわけではない。


 それでも、彩花がどんなところを大切にしていたのか、覚えていてくれる。


 そのことが嬉しかった。


『うん。今日、表紙を描いた子が、昨日先生に見てもらえたから早く全部終わらせなきゃって思ってたって話してたの。でも、最後まで丁寧に進めようって、みんなで確認できたよ』


 悠真は少しして、穏やかな言葉を返してきた。


『それはよかったね。完成が近づくと嬉しい気持ちも大きくなるけど、最後まで大切に作りたいって思えるのは素敵なことだと思う』


 彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。


 悠真は、彩花が感じていることを、いつも丁寧に受け止めてくれる。


 だからこそ、今日の出来事をもっと話したくなる。


『ありがとう。そういえば、今日も帰り道であの蕾を見たよ。まだ咲いていなかったけど、曇っていると昨日とは少し違う色に見えたの。毎日見ていると、変わっていないところにも気づくんだなって思った』


 彩花が送信すると、悠真から少し間を置いて返事が届いた。


『彩花さんらしい発見だね。咲いたかどうかだけじゃなくて、その前の姿も大切に見ているんだね。今度会ったとき、どんな蕾なのかもう少し聞かせてほしいな』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が静かに弾んだ。


 悠真は、まだその蕾を実際に見たことがない。


 けれど、彩花が毎日眺めていることを、楽しそうに聞いてくれる。


 そのことが嬉しかった。


『うん。今度、ちゃんと話すね。悠真君が見ている昔の写真のことも、また聞きたいな』


 彩花がそう返すと、悠真から短い返事が届いた。


『もちろん。次に会えたときも、いろいろ話そうね』


 彩花はスマートフォンを胸元へ少し近づけ、静かに息をついた。


 次に会う日が、今すぐ決まっているわけではない。


 けれど、また会って話したいと思っていることは、互いに伝わっている。


 それだけで、彩花には十分嬉しかった。


     ◇


 同じ夜、悠真は自室の机に向かっていた。


 彩花とのメッセージを終えたあとも、彼女が話してくれた蕾のことが心に残っている。


 毎日同じ場所を通り、まだ咲いていない花を眺めること。


 その中で、光の違いや、変わっていないところに気づくこと。


 悠真は机の上に置いた古い図書館の写真集へ目を向けた。


 まだ読み終えていない本の中には、昔の閲覧室の写真が載っている。


 悠真はそのページを開き、静かに眺めた。


 以前は、建物の形や本棚の配置に興味を持っていた。


 けれど、彩花と一緒に見たあとでは、その場所で本を読んでいた人々の時間にも思いが向くようになった。


(彩花さんと話していると、同じものを見ても、今まで気づかなかったところが見えてくるんだな)


 悠真はそう思い、写真集を閉じた。


 窓の外には、薄い雲の向こうに月の光がぼんやりと広がっている。


 彩花とは今日も会っていない。


 けれど、彼女がどんな一日を過ごし、何を嬉しいと思ったのか、少し知ることができた。


 そのことが、悠真には大切だった。


 ふと、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。


 続いて、控えめなノックの音が響く。


「お兄様、今少しだけいい?」


 琴葉の声だった。


 悠真が返事をすると、扉が開き、妹が顔をのぞかせた。


「お兄様、押し葉のことなんだけど、明日か明後日、少し時間があったら一緒に様子を見てみない? この前、もう少し待ってから確認しようって話したでしょう?」


 悠真は妹の言葉を聞き、微笑んだ。


「そうだね。明日は学校の予定を確認してからになるけど、時間が合えば一緒に見てみようか。乾き具合によっては、もう少し待った方がいいかもしれないけど」


 琴葉は嬉しそうに頷いた。


「うん。私、どんなふうになってるのか楽しみなの。でも、急いで開いて葉っぱが傷んだら嫌だから、お兄様と一緒に見たいな」


 悠真はその言葉に頷き、妹の表情を見つめた。


 琴葉は、押し葉が完成するのを楽しみにしている。


 けれど、完成するまでの時間も大切にしようとしているようだった。


「じゃあ、明日の予定を見てから決めよう。葉の状態を見て、まだ乾燥が必要なら、また丁寧に戻せばいいからね」


 琴葉は安心したように微笑んだ。


「ありがとう、お兄様。楽しみにしてるね」


 そう言って部屋を出ていく妹を見送り、悠真は机へ戻った。


 押し葉も、彩花の冬の部誌も、まだ完成していない。


 けれど、それぞれに完成を待つ人がいる。


 そのことが、悠真には少し嬉しかった。


     ◇


 彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を思い返すと、朝の植え込み、教室での大地との会話、昼休みに読んだ小説、文芸部での最終データの確認が順番に浮かんでくる。


 そして、夜には悠真とメッセージを交わした。


 彩花はペンを持ち、今日のことを書き始めた。


『今日は冬の部誌の表紙の最終データを確認した。昨日先生に見てもらった調整案がちゃんと反映されていて、大きな問題はなかった。でも、印刷条件についてはもう一度確認するところが残っているから、最後まで丁寧に進めたい。完成が近づいているのは嬉しいけど、急がずに大切に作りたいと思った。』


 彩花はそこで一度ペンを止め、部室での光景を思い出した。


 表紙担当の女子部員が、早く完成させなければと思っていたこと。


 佐々木先輩が、分からないところは確認してから進めようと言ってくれたこと。


 どれも、今日の大切な出来事だった。


 彩花は日記帳へ続きを書いた。


『悠真君に、今日も蕾のことを話した。まだ咲いていないけど、毎日見ていると、変わっていないところにも気づくんだなって思った。悠真君は、今度会ったときにもっと聞かせてほしいと言ってくれた。私も、悠真君が見ている昔の写真のことをまた聞きたい。』


 書き終えると、彩花はしばらくその文章を眺めた。


 悠真と話す時間は、いつも特別な出来事があるわけではない。


 学校であったこと。


 読んでいる本のこと。


 帰り道で見つけた小さな変化。


 そんな何気ないことを伝え合うだけで、心が温かくなる。


(悠真君に話したいことが、毎日少しずつ増えていくんだね。次に会ったとき、全部話せるかな)


 彩花はそう思い、少しだけ笑った。


 きっと、全部を一度に話すことはできないだろう。


 けれど、それでもいい。


 また会って、同じ場所で本を開き、互いの見つけたものを話せる時間があれば、それだけで嬉しい。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 隣には、星模様のノートがある。


 こちらの物語は、まだ完成していない。


 祖母への手紙の三行目も、まだ書かれていない。


 それでも、今日一日を過ごしたことで、少女が祖母へ伝えたい気持ちは少しずつ見えてきた。


 彩花はノートの表紙へそっと指先を触れた。


 いつか完成したら、この物語も悠真に読んでもらいたい。


 その約束は、まだ先のことだ。


 けれど、完成を急ぐ必要はない。


 今は、少女が何を感じているのかを大切にしながら、少しずつ書き進めていきたかった。


 彩花は机のライトを消し、ベッドへ入った。


 窓の外には、静かな冬の夜が広がっている。


 今日、通学路の蕾はまだ咲かなかった。


 読みかけの小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 冬の部誌も、最後の確認を待っている。


 けれど、昨日より少しだけ進んだことがある。


 そして、今日見つけたものを、悠真へ伝えることができた。


 彩花はそのことを嬉しく思いながら、ゆっくり目を閉じた。


 水曜日の夜は、穏やかに更けていった。


 明日もまた、別々の学校でそれぞれの一日が始まる。


 その中で見つけた小さな変化を、いつか顔を合わせたときに話せることを楽しみにしながら、彩花は静かな眠りへ落ちていった。


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