第126話 火曜日の窓辺に差し込む光と、君に伝えたい小さな変化
火曜日の朝、彩花が目を覚ましたとき、窓の外には前日よりも明るい空が広がっていた。昨夜のうちに雲が流れていったのか、住宅街の屋根には柔らかな朝日が届き、向かいの家の庭木が細い影を地面へ落としている。
水瀬彩花は布団の中で少しだけ身体を伸ばし、枕元の時計を確かめてから起き上がった。窓へ近づくと、ガラス越しにも冬の空気の澄んだ様子が感じられ、昨日とは違う朝が始まっていることに気づく。
(今日は、あの蕾が少し変わっているかな。昨日はまだ咲いていなかったけれど、毎日見ていると、同じように見える日でも何か違うところがあるのかもしれない)
彩花はカーテンを開け、机の上に並んだ二冊のノートへ目を向けた。
星模様のノートには、離れて暮らす祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語が続いている。昨夜は、少女が祖母の現在の暮らしに思いを巡らせる場面を書き足したものの、便箋に書かれた手紙はまだ二行のままだった。
隣には、葉模様の日記帳が置かれている。
こちらには昨日、文芸部で冬の部誌の表紙を見比べたことや、夜に悠真と交わしたメッセージについて書いた。書き終えたあとも少し眺めていたため、日記帳の位置が普段より手前になっている。
彩花は二冊を重ねず、それぞれの場所へ丁寧に戻した。
誰かに読んでもらうために書いている物語と、自分だけの気持ちを残している日記では、同じ文章でも意味が違う。どちらも大切だが、今はまだ、その二つを同じように誰かへ見せたいとは思っていなかった。
制服に着替え、髪を整えていると、階下から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
彩花は鞄の中身を確かめ、読みかけの小説を入れてから部屋を出た。
◇
朝食の席では、母の紗月が温かい味噌汁をよそっていた。
父の耕助は新聞を脇へ置き、姉の凛花は食卓に置かれた小さな天気予報の画面を眺めている。彩花が挨拶すると、三人はそれぞれ顔を上げ、いつもの穏やかな声で応じた。
「おはよう、彩花。今日は昨日より晴れそうね。朝は冷えているから、帰りが遅くなるならマフラーを忘れないようにしてね」
紗月に言われ、彩花は椅子へ座りながら頷いた。
「うん、ちゃんと持っていくよ。昨日は曇っていたから、今日は通学路の景色も少し違って見えそう」
凛花がその言葉に反応し、箸を取る手を止めた。
「そういえば彩花、前に話していた道沿いの蕾、まだ咲いていないの?」
「うん。昨日も見たけど、まだだったよ。でも、少しずつ見ているうちに、咲いていないときの姿も好きになってきたかもしれない」
彩花が答えると、凛花は面白そうに目を細めた。
「それって、なんだか彩花らしいね。私は花が咲いていたら気づくと思うけど、咲く前の蕾を毎日見に行こうとは、あんまり考えたことがなかったな」
姉の言葉にはからかう響きがなく、むしろ彩花の見つけた楽しみを不思議がるような優しさがあった。
彩花は少し考え、味噌汁の湯気を眺めながら答えた。
「私も、前だったら気づかなかったと思う。たまたま見つけたときに、まだ小さいんだなって思って、それから通るたびに気になるようになったの。咲いたら嬉しいけど、いつ咲くのか分からない時間も、ちょっと楽しみなんだ」
耕助は娘の話を聞き、静かに頷いた。
「毎日同じ道を歩いていると、景色が変わっていないように思うこともあるけれど、見ようと思うものができると違うんだね。ただ、観察するときは道の端で立ち止まりすぎないように気をつけるんだよ」
「うん。歩く人の邪魔にならないところから見るようにしてるよ」
彩花が答えると、紗月も安心したように微笑んだ。
食卓ではそのあと、凛花が駅前の花屋で見かけた鉢植えの話になった。以前から気になっている小さな植物について、凛花は育て方を調べてみたものの、室内の日当たりや水やりの頻度によって向き不向きがあるらしいと話した。
「見た目が可愛いからって、すぐ買うのはやめておこうと思ったんだ。置く場所も考えなきゃいけないし、ちゃんと育てられるか確かめてからの方がいいかなって」
凛花の言葉に、彩花は頷いた。
「私も、植物を育てるなら最初に調べたいな。図書館にも園芸の本があるだろうし、実際にお店で聞いてみるのもいいかもしれないね」
「そうね。今すぐ買わなくても、知るところから始められるもの。二人とも興味があるなら、少しずつ調べてみたら?」
紗月がそう勧めると、姉妹は顔を見合わせて笑った。
彩花はまだ自分で植物を育てたことがなく、何を選ぶかも決めていない。けれど、通学路の蕾を見つけたことが、家族との会話にまでつながっているのが嬉しかった。
朝食を終えた彩花は、玄関で靴を履き、家族に見送られながら外へ出た。
冬の空気は冷たかったが、雲の少ない空から差し込む日差しが、歩道の端を明るく照らしていた。
◇
いつもの植え込みが見えてきたとき、彩花は自然に歩く速度を落とした。
低い枝の先にある蕾は、昨日と同じ場所で小さく膨らんでいる。朝日が斜めから当たっているため、薄い表面の重なりが前より見やすくなっていたが、花びらが開いた様子はなかった。
彩花は通行する人の邪魔にならない位置へ寄り、少しだけ身をかがめて眺めた。
(昨日より大きくなったのかな。それとも、今日は光が当たっているから、そう見えるだけなのかな)
目で見ただけでは、はっきりした違いを判断できない。
それでも、彩花はがっかりしなかった。毎日見ているからといって、必ず変化を見つけなければならないわけではないのだと、最近は思うようになっていた。
枝の向こうでは、通学途中の生徒が友人と話しながら歩いている。
自転車のベルが遠くで鳴り、住宅街の角から小さな配送車がゆっくり姿を現した。彩花は道の流れを確かめ、もう一度だけ蕾へ目を向けてから歩き始めた。
今日は、花が咲いていないことを確認した朝だった。
けれど、光の当たり方によって、同じ蕾の見え方が違うことも分かった。
その小さな発見を、彩花は胸の中へ静かにしまった。
◇
青葉高校の教室では、朝のホームルームが始まる前から、何人かの生徒が窓際に集まっていた。
昨日まで曇りがちだった空が明るくなったためか、校庭の木々の影がいつもよりはっきりしている。窓の近くに座る生徒が眩しそうにカーテンを少し動かし、教室の中へ柔らかな光だけを残した。
彩花が席へ向かうと、田辺大地がノートを閉じるところだった。
「おはよう、水瀬。昨日はありがとう。あのあと原稿をもう一度読み直したら、最後のまとめも少し直したくなってさ。今朝、そこを整理してたんだ」
大地は少し眠そうな顔をしていたが、声には満足そうな響きがあった。
彩花は鞄を机の横へ置き、微笑んだ。
「おはよう、田辺君。最後のところも直したんだね。自分で読み返して気づけたなら、きっと前より納得できる文章になったんじゃないかな」
「そうだといいんだけどな。最初は昔の祭りの場所が変わったことだけ書こうと思ってたけど、調べているうちに、今の広場で続いていることにも意味があるんだなって思えてきたんだ」
大地はノートの表紙を指先で軽く押さえ、少し考えてから続けた。
「昔と同じ場所じゃなくても、行事を楽しみにしている人はいるわけだろ。だから、場所が変わったことを不思議だと思った自分の気持ちと、今も続いていることの両方を書いてみた」
彩花はその話を聞き、昨日悠真と交わしたメッセージを思い出した。
昔の写真を見て、建物や道の変化を知ること。
そして、その場所で過ごした人々の時間を想像すること。
大地が見つけたものも、どこかで同じようにつながっている気がした。
「いいと思う。最初に不思議だと思ったことが、調べたあとで少し違って見えるようになったんだね。そういう変化が書かれていたら、読む人にも田辺君が何を考えたのか伝わりそう」
彩花が答えると、大地は安心したように肩の力を抜いた。
「ありがとう。提出したあと、先生がどういうところを見るのかは分からないけど、とりあえず自分では納得できるところまで書けたよ」
大地はノートを鞄へしまい、窓の外へ目を向けた。
「そういえば、今日はいい天気だな。昨日は帰り道が寒かったけど、今日は少し暖かく感じるかもしれない」
「うん。朝は冷たかったけど、日差しがあると景色が明るく見えるね」
彩花も窓の外へ視線を向けた。
校庭の端にある木の影が、地面の上へ長く伸びている。
昨日と同じ学校なのに、光が違うだけで、少し新しい場所のように見えた。
ホームルームの開始を知らせる声が廊下から聞こえると、二人はそれぞれ席へ戻った。
彩花は教科書を取り出し、今日の授業へ意識を向けた。
◇
桜華学園高等部でも、火曜日の朝は穏やかに始まっていた。
九条悠真は教室の窓から差し込む光を眺めながら、机の上に置いた資料を整えていた。昨日、航平と話した昔の駅前の写真について、今朝も少し考えていたためだ。
資料には、学校の図書室で確認できる本の分類や、地域の歴史に関する項目が簡単に記されている。
航平が自分で調べるための手がかりを整理したもので、悠真が代わりに調べ学習を完成させるつもりはなかった。
その航平が教室へ入ってくると、悠真の机の近くで足を止めた。
「おはよう、九条。昨日話してた資料なんだけど、家でも少し見直してみたんだ。今の地図と昔の写真を比べてたら、同じ道だと思ってたところが、ちょっと違って見えてきてさ」
悠真は顔を上げ、興味深そうに頷いた。
「おはよう、航平。どんなところが違って見えたの?」
「道の形は似てるんだけど、写真の撮られた場所がはっきりしないんだ。最初は駅前の同じ角から撮ったものだと思ってたけど、建物の並び方を見ると、少し離れた場所かもしれない」
航平は鞄からノートを取り出し、二つの候補を書いたページを開いた。
悠真はその内容を見ながら、写真の撮影位置を決めつけない方がよさそうだと感じた。
「なるほど。建物の並び方が違うなら、撮影した位置をもう少し確かめた方がいいね。資料に撮影場所の説明があれば参考になるし、別の写真と比べる方法もあると思う」
悠真がそう伝えると、航平は頷いた。
「やっぱりそうだよな。昨日の時点で決めちゃわなくてよかった。今度、中央図書館でも関連する写真を探してみるよ」
「うん。もし見つからなくても、どこまで分かったかを整理しておけば、調べた過程は残るからね」
航平はその言葉を聞き、少し笑った。
「お前、最近そういう言い方するよな。前だったら、もっと効率よく答えに近づく方法を教えてくれそうだったのに」
悠真は意外そうに友人を見た。
航平はからかっているわけではなく、純粋に変化を感じているようだった。
「そうかな。自分では、あまり意識していなかったよ」
「そうだよ。もちろん今でも調べ方は教えてくれるけど、俺が途中で気づいたことを面白がってくれるようになった気がする」
航平はノートを閉じ、悠真へ穏やかな笑みを向けた。
「水瀬さんと本の話をするようになったからかもしれないな。昨日もそう言ってたし」
悠真は少しだけ視線を落とした。
彩花と一緒に図書館へ行くようになってから、自分が何を変えたのかを、はっきり数えたことはなかった。
けれど、彼女が一冊の本を手に取り、登場人物の小さな気持ちの変化を大切にする姿を見ているうちに、答えへ向かう途中にも目を向けるようになった気がする。
「彩花さんは、結論だけじゃなくて、そこへたどり着くまでの気持ちも大切にする人だからね。俺も、一緒に話しているうちに、そういう見方が面白いと思うようになったんだ」
悠真が答えると、航平は少し感心したように頷いた。
「そっか。そういうの、いいな。俺も、調べ学習が終わったら、どこが面白かったのかちゃんと話せるようにしておくよ」
その言葉に悠真は微笑み、友人のノートへもう一度目を向けた。
答えを早く見つけることだけが、学ぶ楽しさではない。
そう思えるようになった自分を、悠真は少し新鮮に感じていた。
◇
昼休みの青葉高校では、窓際の席に日差しが届き、教室の空気が朝よりも少し暖かくなっていた。
彩花は弁当を食べ終えると、読みかけの小説を鞄から取り出した。
昨日は友人たちと週末の話をしていたため、昼休みに本を開く時間があまりなかった。今日は少しだけ続きを読みたいと思い、机の上へ本を置いた。
物語では、故郷へ戻った幼なじみの一人が、昔よく通っていた小さな店を訪ねていた。
店の棚には、子どもの頃に見覚えのある品物が残っている。
けれど、当時と同じ場所に置かれているわけではなく、店内の様子も少し変わっていた。
主人公はその品物を見つめながら、昔の友人と交わした会話を思い出す。
彩花はページをめくり、静かに読み進めた。
懐かしいものを見つけたとき、人は必ずしも嬉しいだけではないのかもしれない。
そこにあるはずだと思っていたものが変わっていると、時間が過ぎたことを実感する。
それでも、変わった場所の中に、まだ残っているものを見つけられることがある。
(この人は、昔のままの町に戻りたいわけじゃないのかもしれない。今の町で、あの人ともう一度話せるかどうかが気になっているのかな)
彩花はしおりを指先で押さえ、少し考えた。
まだ二人は再会していない。
けれど、それぞれが故郷の景色を見つめる場面から、会えなかった時間の長さが少しずつ伝わってくる。
彩花は先を急ぎたい気持ちを抑え、今読んでいる場面を大切にしようと思った。
そのとき、近くの席の女子生徒が彩花の本へ目を向けた。
「水瀬さん、今日も読書してるんだね。その本、前にも読んでたよね。面白い?」
彩花は顔を上げ、しおりを挟んで本を閉じた。
「うん。昔、同じ町で育った二人が、大人になってから故郷へ戻ってくるお話なの。まだ途中なんだけど、昔と今の景色が少しずつ重なっていくところが好きだな」
女子生徒は興味深そうに頷いた。
「へえ、なんだか落ち着いた雰囲気のお話だね。二人はもう会えたの?」
「ううん、まだなんだ。お互いのことを思い出している場面はあるんだけど、今のところ別々に町を歩いているの。だから、これからどうなるのか気になってる」
彩花が答えると、女子生徒は微笑んだ。
「そういうのって、早く会ってほしいって思うけど、会うまでの時間も大事そうだね。水瀬さんが好きそうなお話だなって、ちょっと思った」
彩花はその言葉に、少し照れくさくなった。
自分がどんな物語を好きなのか、友人が何気なく覚えていてくれたことが嬉しかった。
「そうかもしれない。私、登場人物が何を考えているのか、ゆっくり分かっていくお話が好きなんだと思う」
彩花がそう答えると、女子生徒は楽しそうに笑った。
「読み終わったら、どんなお話だったか教えてね。私も気になってきた」
「うん。最後まで読んだら、感想を話せると思う」
彩花は頷き、本を鞄へしまった。
まだ結末を知らない物語について、誰かと話せること。
その楽しさを、彩花はまた一つ見つけた気がした。
◇
午後の授業が終わると、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。
昨日は冬の部誌の表紙を印刷して見比べたため、部室にはそのときの確認事項が残されている。今日も表紙について何か進展があるかもしれないと思いながら扉を開けると、佐々木先輩が机の上の書類を整理していた。
「お疲れさまです」
彩花が挨拶すると、佐々木先輩は顔を上げた。
「お疲れさま、水瀬さん。昨日の表紙の件だけど、今日は顧問の先生に実物を見てもらう時間が取れそうなの。まだ最終的な返事をいただいたわけではないから、先にみんなで確認した内容を整理しておこうと思って」
彩花は頷き、机の上へ置かれた確認用紙を見た。
そこには、昨日比較した二枚の試し刷りについて、部員たちが感じた違いが簡潔にまとめられていた。
元の表紙の柔らかな空の雰囲気。
調整案で少し見やすくなった枝先。
下部の小さな文字の読みやすさ。
紙の種類や印刷条件を揃えて比較したことも記されている。
「昨日の意見がちゃんと残っているんですね。こうして見ると、何を変えたかったのかと、変えたくなかったところが分かりやすいです」
彩花がそう言うと、佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。
「ええ。先生に見ていただくときも、どちらが好きかだけではなく、どういう意図で調整したのかを伝えたいから。表紙担当の子が考えたことも、みんなで話したことも、きちんと残しておきたいの」
彩花はその言葉を聞き、改めて先輩の丁寧さを感じた。
部誌の表紙は、誰か一人の好みだけで決めるものではない。
最初に描いた人の思いがあり、それを見た部員たちの感想があり、実際に印刷して確かめた結果がある。
それぞれを大切にしながら進めることが、作品を作る時間そのものなのだろう。
しばらくすると、表紙担当の女子部員も部室へやって来た。
彼女は机の上の確認用紙を見て、少し緊張したように笑った。
「先生に見てもらえるんだね。昨日、紙で比べたときは大丈夫そうだと思ったけど、やっぱり最後の確認となると、ちょっとどきどきするな」
彩花は彼女の隣へ立ち、穏やかに答えた。
「うん。でも、昨日はちゃんと同じ条件で比べられたし、変更したところも確認できたから、今まで考えてきたことは伝えられると思うよ」
女子部員はその言葉に頷いた。
「そうだね。もし先生から何か意見があっても、またみんなで考えればいいんだよね。最初から全部決まっていなきゃいけないわけじゃないし」
佐々木先輩は二人の会話を聞き、少し安心したように微笑んだ。
「そのとおりよ。今日は、昨日の比較結果をきちんと伝えることを大切にしましょう」
部員たちは必要な資料を揃え、顧問の先生を待つことにした。
彩花はその間、部誌の本文についても確認した。
自分の作品『いつか、ここに』は校正を終えており、題名の間隔や掲載位置もすでに確かめている。今は新しい修正を加える必要はなく、全体の完成を待つ段階だった。
しばらくして、顧問の先生が部室へ入ってきた。
佐々木先輩は挨拶をし、元の試し刷りと調整案を机の上へ並べた。
先生は二枚を見比べながら、まず部員たちがどのような変更を行ったのか尋ねた。
表紙担当の女子部員が、枝先の濃さと下部の文字のコントラストを調整したことを説明する。
彩花は隣で聞きながら、必要なところだけ補足した。
「元の表紙の空の雰囲気は残したかったので、全体の色や文字の位置は変えていません。昨日、同じ紙と印刷条件で比べたところ、調整案の方が細い枝と下部の文字を確認しやすいと感じました」
先生は頷き、二枚を少し離れた位置から眺めた。
それから机へ近づき、下部の文字を確かめる。
部室には紙の擦れる小さな音が響き、窓から差し込む午後の光が試し刷りの表面を照らしていた。
「なるほど。変更した部分は確かに見やすくなっていますね。全体の雰囲気も、大きく変わっていないように見えます」
先生はそう言い、表紙担当の女子部員へ目を向けた。
「最初に考えていた表紙の印象を残したまま、読みやすさを調整できていると思います。部員のみなさんが比較して納得しているのであれば、この調整案を採用する方向で進めてよいでしょう。ただし、実際の部誌として印刷する前に、最終データと印刷条件をもう一度確認してください」
その言葉を聞いた女子部員は、ほっとしたように息をついた。
彩花も胸の奥が温かくなるのを感じたが、先生が最後に伝えた確認事項を忘れないよう、佐々木先輩の方へ目を向けた。
佐々木先輩は頷き、確認用紙へ新たな項目を書き加えた。
「ありがとうございます。では、調整案を採用する方向で、最終データと印刷条件を確認します。そこまで終わったら、改めて印刷へ進めるようにします」
先生は部員たちの説明を聞き終えると、穏やかに微笑んだ。
「ここまで丁寧に確認できているのは、いいことですね。最後まで焦らず進めてください」
顧問の先生が部室を出たあと、表紙担当の女子部員は彩花と佐々木先輩へ向き直った。
「よかった……。先生にも、空の雰囲気が残っているって言ってもらえたね。まだ最終データの確認はあるけど、ここまで来られて嬉しいな」
その声には、長く抱えていた緊張が少しほどけたような柔らかさがあった。
彩花は彼女の表情を見て、自分まで嬉しくなった。
「うん。最初の表紙を見たときから、冬の静かな感じが素敵だと思ってたから、その雰囲気を残せてよかった。最後の確認も、一緒に頑張ろうね」
女子部員は大きく頷き、試し刷りへ目を向けた。
「ありがとう、水瀬さん。私、一人で見てたら、どこを変えるか迷ったままだったかもしれない。みんなと話せてよかったよ」
彩花は少し照れくさくなりながら、首を横へ振った。
「私も、表紙のことを一緒に考えられて楽しかったよ。紙に印刷してみないと分からないこともあったし、いろいろ勉強になったから」
佐々木先輩は二人を見守り、微笑んだ。
「二人とも、お疲れさま。今日は一つ大きな確認が進んだわね。でも、ここで気を緩めずに、残っているところを順番に確かめましょう」
部員たちは頷き、確認用紙を整理した。
調整案は採用する方向となった。
ただし、最終データと印刷条件の確認はまだ残っている。
彩花はその違いをしっかり意識しながら、今日の進展を心に刻んだ。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が放課後の生徒会の仕事を終えようとしていた。
机の上には今日確認した資料が整然と並び、必要な連絡事項には印がつけられている。
作業は予定より少し早く終わり、窓の外にはまだ明るい午後の光が残っていた。
悠真は資料を所定の場所へ戻し、椅子から立ち上がった。
廊下へ出ると、航平がちょうど階段の方から歩いてきた。
「九条、もう終わったのか? 今日は早いな」
「うん。確認することが少なかったからね。航平は、今日はもう帰るところ?」
悠真が尋ねると、航平は頷いた。
「そう。帰りに本屋へ寄ろうかと思ってたんだ。調べ学習とは関係ないけど、前から気になってた本があってさ」
航平は少し照れくさそうに笑った。
「最近、お前と資料の話をしてるせいか、普通に本屋へ行くのも前より楽しみになってきたんだよな。前は欲しい本だけ探してすぐ帰ってたけど、今は棚を見て回るのも面白そうだなって」
悠真はその言葉を聞き、嬉しくなった。
「それはいいね。思っていなかった本に出会えることもあるし、棚を見ているだけで新しい興味が見つかるかもしれない」
航平は笑いながら頷いた。
「お前、本当に本の話になると楽しそうだな。水瀬さんも、そういうところが好きなのかもしれないな」
何気ない言葉だったが、悠真は一瞬だけ返事を止めた。
航平はその反応を見て、少し驚いたように眉を上げた。
「……あれ、俺、変なこと言った?」
「いや、そうじゃないよ。ただ、彩花さんが俺のどんなところを好きだと思ってくれているのか、改めて考えたことがなかったから」
悠真は穏やかに答えたが、声には少しだけ照れが混じっていた。
彩花が自分と話す時間を好きだと言ってくれたことは、今も大切に覚えている。
淡い青色の花柄のカードに書かれた言葉も、机の引き出しにしまってある。
けれど、それをすぐに恋愛の答えへ結びつけようとは思わなかった。
彼女が自分の好きなものを大切にしてくれること。
自分も彼女の好きなものを大切にしたいと思うこと。
今は、その積み重ねを急がずに守りたかった。
「彩花さんがどう思っているかは、彩花さん自身の気持ちだからね。俺が勝手に決めることじゃないと思う」
悠真がそう続けると、航平は少しだけ表情を改めた。
「そっか。そうだよな。俺、つい軽く言っちゃったけど、お前にとっては大事なことだもんな」
「うん。でも、航平がそう言ってくれたのは嬉しかったよ。ありがとう」
悠真は微笑んだ。
航平は少し安心したように笑い、鞄を肩へ掛け直した。
「じゃあ、俺は本屋へ寄って帰るよ。また面白い本を見つけたら話すな」
「うん。楽しみにしているよ」
二人は校門の近くで別れ、それぞれの帰り道へ向かった。
悠真は歩きながら、航平の言葉を思い返していた。
彩花が自分のどんなところを好きだと思ってくれているのか。
それを知りたい気持ちは確かにある。
けれど、今は答えを急ぐよりも、彼女と過ごす時間の中で互いを知っていくことを大切にしたかった。
◇
青葉高校からの帰り道、彩花は今日の文芸部での出来事を思い出していた。
顧問の先生に実物を見てもらい、調整案を採用する方向で進めてよいと言ってもらえた。
それは、昨日の段階ではまだ分からなかったことだった。
ただ、印刷前の最終確認が残っているため、表紙が完全に仕上がったわけではない。
彩花はそのことを理解しながら、胸の中に小さな達成感を抱いていた。
いつもの植え込みへ近づくと、朝とは違う方向から光が当たっていた。
蕾はまだ開いていない。
けれど、夕方の光の中では、朝よりも少し柔らかな色に見えた。
彩花は立ち止まり、枝先を静かに眺めた。
(今日は、咲かなかったね。でも、朝と夕方でもこんなに見え方が違うんだ。私が見ていない時間にも、ここで少しずつ変わっているのかな)
彩花はその場で答えを出そうとはしなかった。
植物がどのように育つのか、まだ知らないことは多い。
今度図書館へ行ったとき、園芸の本を探してみるのも面白いかもしれない。
そう考えると、蕾を眺める時間がまた少し楽しみになった。
彩花はマフラーを直し、家へ向かって歩き始めた。
◇
夕食後、彩花は自室で星模様のノートを開いた。
今日も祖母への手紙の三行目は書かれていない。
けれど、少女が手紙を書こうとしている理由は、少しずつ見えてきていた。
少女は、祖母へ自分の庭の様子を伝えたいと思っている。
それだけではなく、離れた場所で暮らす祖母が、今どんな毎日を過ごしているのかも知りたい。
彩花はノートの前の方を読み返し、少女が祖母と庭で過ごした思い出を確かめた。
祖母は花を育てるとき、ただ水を与えるのではなく、土の状態を見てから考えていた。
少女はその姿を覚えている。
今、自分で鉢植えを見つめるようになって、ようやく祖母が何を大切にしていたのか少し分かり始めた。
(この子は、おばあちゃんに教えてもらったことを覚えているんだよね。でも、覚えているだけじゃなくて、今の自分が何を感じたのかも伝えたいんだと思う)
彩花はペンを持ち、手紙の前に置かれた場面へ文章を書き足した。
少女は便箋を机に置いたまま、窓辺の鉢植えへ目を向ける。
土の表面は朝より少し乾いているように見えるが、すぐに水を与えるべきかどうかは分からない。
祖母なら、きっともう少し丁寧に確かめるだろう。
少女はそう思い、鉢植えへ近づいた。
そこで彼女は、祖母の真似をするだけではなく、自分の目で確かめようとしていることに気づく。
教えてもらったことを、そのまま繰り返すのではない。
自分で見て、自分で考える。
それが、祖母と過ごした時間から受け取ったものなのかもしれない。
彩花はそこまで書き、静かにペンを置いた。
少女の手紙は、まだ二行のままだ。
けれど、三行目に何を書くかを考えるための時間は、少しずつ積み重なっている。
彩花はノートを閉じ、机の上へ置いた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。
『彩花さん、今日もお疲れさま。今日は学校で航平と昔の駅前の写真について話したよ。写真を撮った場所がまだはっきりしないみたいで、もう少し調べてみることになったんだ。彩花さんは、今日はどんな一日だった?』
彩花は文章を読み、自然に微笑んだ。
悠真は、今日も自分の見つけたものを話してくれている。
彩花はスマートフォンを両手で持ち、返事を考えた。
『悠真君もお疲れさま。私は今日、文芸部で冬の部誌の表紙を顧問の先生に見てもらったよ。調整案を採用する方向で進めていいって言ってもらえたの。でも、印刷前に最終データと条件をもう一度確認するから、まだ完全に完成したわけじゃないんだ』
送信して少しすると、悠真から返事が届いた。
『それは大きな進展だね。彩花さんが前から大切にしていた空の雰囲気を残しながら、読みやすさも確かめられたんだね。最後の確認まで丁寧に進められるといいね』
彩花はその文章を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真は、表紙のことを最初から一緒に考えていたわけではない。
それでも、彩花がどんなところを大切にしていたのか覚えていてくれる。
そのことが嬉しかった。
『うん、ありがとう。今日、表紙を描いた部員の子がすごく安心した顔をしてたの。それを見て、私も嬉しくなったよ。みんなで一緒に考えてきてよかったなって思った』
悠真は少しして、穏やかな言葉を返してきた。
『その子にとっても、彩花さんたちと一緒に確認できたことが心強かったんだろうね。完成した部誌を見るのが楽しみだよ』
彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。
悠真は、冬の部誌が完成するのを楽しみにしてくれている。
自分の作品『いつか、ここに』も、その中に載る。
まだ完成していないため、実際に見てもらえるのはもう少し先になるだろう。
けれど、その日を想像すると、胸の奥が静かに弾んだ。
『完成したら、悠真君にも見てもらいたいな。私の作品も載っているし、みんなで作った表紙も見てほしいから』
送信してから、彩花は少し緊張した。
悠真へ自分の作品を見てもらいたいと思う気持ちは、以前からあった。
それでも、こうして改めて言葉にすると、どこか特別な約束をしているような気がした。
返事はすぐに届いた。
『もちろん。彩花さんが大切に書いた作品も、みんなで作った表紙も、ぜひ見たいよ。完成したら、彩花さんがどんなところを大切にしたのか、また聞かせてほしいな』
彩花はその言葉を読み、思わず微笑んだ。
悠真は、ただ完成品を見たいと言っているわけではない。
彩花がそこへ込めた思いも、知りたいと言ってくれている。
そのことが、彩花には何より嬉しかった。
『うん。完成したら、ちゃんと話したいな。悠真君にも、読んでどう思ったか聞いてみたい』
彩花がそう返すと、悠真から短い返事が届いた。
『楽しみにしているよ。彩花さんの言葉で書かれた物語を読むのが、今から待ち遠しいな』
彩花はスマートフォンを胸元へ少し近づけ、静かに息をついた。
胸の奥に広がった温かさを、すぐに言葉へ変えることはできなかった。
けれど、悠真が楽しみにしてくれているという事実だけで、これまで書いてきた時間が少し違って感じられた。
◇
同じ夜、悠真は自室の机に向かっていた。
彩花とのメッセージを終えたあとも、彼女が話してくれた冬の部誌のことが心に残っている。
表紙の調整案が採用する方向になったこと。
それでも、最後の確認を丁寧に進めようとしていること。
そして、完成したら自分にも見てほしいと言ってくれたこと。
悠真は机の上に置いた写真集へ目を向けた。
昨日まで読んでいた古い図書館の写真のページには、今も栞が挟まっている。
彼は本を開き、昔の閲覧室の写真を静かに眺めた。
彩花と一緒に見たとき、彼女はそこで本を読んでいた人々の時間を想像していた。
自分は最初、建物の形や配置に興味を持っていた。
同じ写真を見ていても、気づくところは違う。
けれど、その違いを話すことで、互いの見ている景色が少し広がった。
(彩花さんが書いた物語を読んだら、俺はどんなことを感じるんだろう。彩花さんが大切にしているものを、今より少し深く知ることができるのかな)
悠真は写真集を閉じ、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空には、淡い月が浮かんでいる。
彩花とは今日も会っていない。
けれど、彼女がどんな一日を過ごし、何を嬉しいと思ったのか、少し知ることができた。
そのことが、悠真には大切だった。
ふと、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
続いて、控えめなノックの音が響く。
「お兄様、今少しだけいい?」
琴葉の声だった。
悠真が返事をすると、扉が開き、妹が顔をのぞかせた。
「お兄様、押し葉のことなんだけど、そろそろ一度様子を見てもいいかなって思って。前に、もう少し待ってから一緒に確かめようって話したでしょう?」
悠真は妹の言葉を聞き、微笑んだ。
「そうだね。まだ開いて確かめていなかったし、今度、時間があるときに一緒に見てみようか。乾き具合によっては、もう少し待った方がいいかもしれないけど」
琴葉は嬉しそうに頷いた。
「うん。私、どんなふうになってるのか楽しみなの。でも、急いで開いて葉っぱが傷んだら嫌だから、お兄様と一緒に見たいな」
悠真はその言葉に頷き、妹の表情を見つめた。
琴葉は、押し葉が完成するのを楽しみにしている。
けれど、完成するまでの時間も大切にしようとしているようだった。
「じゃあ、二人の都合が合うときに確認しよう。葉の状態を見て、まだ乾燥が必要なら、また丁寧に戻せばいいからね」
琴葉は安心したように微笑んだ。
「ありがとう、お兄様。楽しみにしてるね」
そう言って部屋を出ていく妹を見送り、悠真は机へ戻った。
押し葉も、彩花の冬の部誌も、まだ完成していない。
けれど、それぞれに完成を待つ人がいる。
そのことが、悠真には少し嬉しかった。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、朝の植え込み、教室での大地との会話、昼休みに読んだ小説、文芸部での顧問の先生との確認が順番に浮かんでくる。
そして、夜には悠真とメッセージを交わした。
彩花はペンを持ち、今日のことを書き始めた。
『今日は冬の部誌の表紙を、顧問の先生に実際に見てもらった。調整案を採用する方向で進めていいと言ってもらえて、みんなで少し安心した。でも、最終データと印刷条件の確認はまだ残っているから、最後まで丁寧に進めたい。表紙を描いた子が嬉しそうにしていたのを見て、私もすごく嬉しかった。』
彩花はそこで一度ペンを止め、部室での光景を思い出した。
先生が二枚の表紙を見比べていたときの静かな空気。
表紙担当の女子部員が、安心したように息をついたこと。
佐々木先輩が、まだ残っている確認事項を落ち着いて整理してくれたこと。
どれも、今日の大切な出来事だった。
彩花は日記帳へ続きを書いた。
『悠真君に、完成した部誌を見てもらいたいって伝えた。悠真君は、私の作品も表紙も楽しみにしていると言ってくれた。読んでどう思ったのか聞ける日が、私も楽しみ。自分が大切にしてきたものを、悠真君にも知ってもらいたいと思う。』
書き終えると、彩花はしばらくその文章を眺めた。
悠真に作品を見てもらうことを想像すると、嬉しさと少しの緊張が混ざる。
自分の言葉で書いた物語を読んでもらうのは、誰に対しても簡単なことではない。
けれど、悠真になら読んでほしい。
そう思えることが、彩花には不思議で、同時に嬉しかった。
(悠真君は、私が書いた物語のどんなところを見つけてくれるんだろう。私が気づいていなかったところまで、何か感じてくれるのかな)
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。
隣には、星模様のノートがある。
こちらの物語は、まだ完成していない。
祖母への手紙の三行目も、まだ書かれていない。
それでも、今日一日を過ごしたことで、少女が祖母へ伝えたい気持ちは少しずつ見えてきた。
彩花はノートの表紙へそっと指先を触れた。
いつか完成したら、この物語も悠真に読んでもらいたい。
その約束は、まだ先のことだ。
けれど、完成を急ぐ必要はない。
今は、少女が何を感じているのかを大切にしながら、少しずつ書き進めていきたかった。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ入った。
窓の外には、静かな冬の夜が広がっている。
今日、通学路の蕾はまだ咲かなかった。
読みかけの小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。
冬の部誌も、最後の確認を待っている。
けれど、昨日より少しだけ進んだことがある。
そして、今日見つけたものを、悠真へ伝えることができた。
彩花はそのことを嬉しく思いながら、ゆっくり目を閉じた。
火曜日の夜は、穏やかに更けていった。
明日もまた、別々の学校でそれぞれの一日が始まる。
その中で見つけた小さな変化を、いつか顔を合わせたときに話せることを楽しみにしながら、彩花は静かな眠りへ落ちていった。




