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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第125話 月曜日の教室に残る冬の光と、まだ知らない君の一日


 月曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。


 昨日の日曜日はよく晴れていたが、今日は朝日が雲の向こうに隠れ、住宅街の屋根も道路も淡い灰色の光に包まれている。雨が降りそうなほど暗いわけではないものの、窓を開けると冷たい空気が部屋へ流れ込み、彩花は思わず肩をすくめた。


 水瀬彩花は窓を閉め、机の上に置いた小説へ目を向けた。


 昨日、悠真と青凪市立中央図書館へ行ったときに持っていった本だ。古い駅舎と花壇が描かれた表紙には、日曜日の午後に二人で話した記憶が重なっている。


 物語の中では、故郷へ戻ってきた幼なじみたちが、それぞれの思い出をたどりながら、まだ互いの姿を見つけられずにいた。


 彩花は昨夜、続きを少し読もうと思っていたが、悠真と過ごした時間を日記に書いているうちに遅くなり、そのまま眠ってしまった。だから、物語の結末はまだ知らない。


(昨日、悠真君に話してよかったな。まだ読み終わっていなくても、今の私が面白いと思っているところを聞いてもらえたから)


 彩花は本を手に取り、しおりがきちんと挟まっていることを確かめた。


 悠真は、読み終わったらまた感想を聞かせてほしいと言ってくれた。


 その言葉が嬉しかったのは、単に本の話をする相手ができたからではない。自分がどんなところに心を動かされたのか、悠真が知りたいと思ってくれているからだった。


 彩花は本を机へ戻し、制服に着替えた。


 鏡の前で髪を整えていると、昨日の図書館で悠真が写真集を開いてくれた場面が浮かんでくる。


 古い閲覧室の窓。


 木製の長い机。


 静かに本へ向かう人々。


 同じ写真を見ながら、二人が違うところに気づいたことが面白かった。


(今日、学校でも何か見つけられるかな。昨日のことを思い出すだけじゃなくて、今日の景色もちゃんと見ていたいな)


 彩花は小さく微笑み、鞄を持って階下へ向かった。


 食卓では母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は新聞を読みながら温かいお茶を飲んでいた。姉の凛花は彩花の姿を見ると、昨日の図書館の話を思い出したように微笑んだ。


「おはよう、彩花。昨日はよく眠れた? 帰ってきてからも楽しそうだったから、夜更かしして本を読んでるんじゃないかと思ってた」


「おはよう、お姉ちゃん。昨日は日記を書いてたら、思ってたより時間が経っちゃった。でも、ちゃんと寝たよ。本の続きは今日、時間があったら読もうかな」


 彩花が答えると、凛花は少し安心したように頷いた。


「それならよかった。楽しみなことがあると、つい時間を忘れちゃうものね。私も昨日、読みかけの本を終わらせようとして、気づいたら結構遅くなってたし」


「凛花も彩花も、本を読むのはいいけれど、睡眠時間は大切にしてね」


 紗月が穏やかに言うと、姉妹は顔を見合わせて笑った。


 耕助は新聞を畳み、彩花へ目を向けた。


「昨日の図書館で見た昔の写真は、面白かったかい?」


「うん。悠真君が見せてくれたのは、昔の図書館の閲覧室の写真だったの。窓が高くて、木の机が並んでいて、今とはずいぶん違う雰囲気だったよ。でも、本を読んでいる人たちの姿は、今の図書館と少し似ている気がしたんだ」


 彩花は昨日の写真を思い出しながら話した。


 耕助は興味深そうに頷き、湯飲みを置いた。


「建物が変わっても、そこで人が何をするのかは続いていくことがあるんだね。昔の写真を見る面白さは、形が変わったものを探すだけじゃないのかもしれない」


「うん。悠真君も、最初は窓の形や机の配置が気になったって言ってたんだけど、一緒に見ているうちに、そこで本を読んでいた人のことも考えるようになったって」


 彩花が嬉しそうに答えると、紗月は娘の表情を見て微笑んだ。


「お互いに、好きなものを話せる時間だったのね。今日からまた学校だけど、昨日の楽しかった気持ちを大切にしながら過ごせるといいわね」


「うん。ありがとう、お母さん」


 彩花は頷き、朝食へ手を伸ばした。


 日曜日の特別な時間が終わっても、月曜日の日常がなくなるわけではない。


 むしろ、昨日見つけたものを胸に残したまま、今日を過ごせることが嬉しかった。


     ◇


 学校へ向かう途中、彩花はいつもの植え込みの前で足を緩めた。


 木曜日に初めて気づいた小さな蕾は、今日も枝先に残っている。


 昨日は朝日を受けて少し明るく見えたが、今朝は雲の下にあるため、表面の色が落ち着いて見えた。蕾そのものが大きくなったのかどうかは、まだ分からない。


 彩花は通行の邪魔にならない場所で少しだけ眺め、それから再び歩き始めた。


(今日も、まだ咲いてないんだね。でも、こうして見ていると、いつか咲いたときにすぐ気づけそう)


 日曜日、図書館で悠真にこの蕾の話をした。


 彼は小さな発見を嬉しそうに聞いてくれて、自分も庭の木の影が時間によって違う形になることに気づいたと話してくれた。


 彩花はそのことを思い出し、自然に頬を緩めた。


 同じ場所にいなくても、相手の見つけたものを聞くことで、少しだけ同じ景色を知ることができる。


 その感覚は、星模様のノートに書いている少女の気持ちにも、どこか似ているように思えた。


 青葉高校の校門が見えてくる頃には、通学する生徒たちの姿が増えていた。


 彩花はマフラーを少し直し、教室へ向かった。


     ◇


 教室へ入ると、田辺大地が机に向かってノートを広げていた。


 先週から取り組んでいる地域の行事についての調べ学習らしく、資料の内容を整理した紙が何枚か並んでいる。


 彩花が挨拶すると、大地は顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。


「おはよう、水瀬。ちょうどよかった。先週相談した文章、だいぶまとまったんだ。まだ提出前だけど、書き出しを変えたら、自分でも何を伝えたいのか分かりやすくなった気がする」


「おはよう、田辺君。そうなんだ。よかったね。昔と今で行事の場所が違うところから書き始めたんだっけ?」


「そうそう。昔の写真を見て驚いたことを最初に書いて、それから調べたことを続けたんだ。場所が変わった理由は、資料で分かるところと、まだはっきりしないところを分けて書いてみた」


 大地は原稿の一部を彩花へ見せた。


 彩花は許された範囲だけを読み、以前よりも文章の流れが自然になっていることに気づいた。


「うん。最初に田辺君が何を不思議に思ったのか分かるから、そのあとに続く説明も読みやすいね。分からないところを無理に決めつけていないのも、いいと思う」


 彩花がそう伝えると、大地はほっとしたように笑った。


「ありがとう。最初は調べたことを全部並べなきゃって思ってたけど、何を中心に書くか決めるだけで、ずいぶん違うんだな」


「私も小説を書いていて、何を先に伝えるか迷うことがあるよ。同じことでも、順番が違うと読み手の感じ方が変わるから」


 彩花が答えると、大地は興味深そうに頷いた。


「そう考えると、小説も調べ学習も似てるところがあるんだな。水瀬は、書いてる途中で迷ったらどうしてる?」


 思いがけない問いに、彩花は少し考えた。


 星模様のノートに書いている物語では、祖母への手紙の三行目がまだ決まっていない。


 けれど、書けないからといって、無理に言葉を足すことはしていなかった。


「私は、いったん前のところを読み返すことが多いかな。登場人物が何を考えて、どうしてその言葉を言おうとしているのか、もう一度確かめるの。すぐに答えが見つからないときは、少し時間を置くこともあるよ」


 大地はその説明を聞き、感心したように頷いた。


「なるほどな。急いで全部埋めようとしなくてもいいのか。俺も、まだ分からないところはあとで調べ直してみるよ」


 彩花は微笑み、大地の机から少し離れた。


 自分が物語を書くときに考えていることが、誰かの役に立つ。


 そのことが、彩花には素直に嬉しかった。


 朝のホームルームが始まると、教室の話し声は少しずつ静まっていった。


 彩花は席へ座り、今日の授業に必要な教科書を取り出した。


 窓の外には薄い雲が流れている。


 昨日とは違う月曜日の朝が、静かに始まっていた。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が朝の授業を終え、休み時間に廊下へ出ていた。


 窓の外には青凪市と同じような冬の空が広がり、校舎の周囲の木々が冷たい風に揺れている。


 森川航平が隣へやって来ると、悠真の顔を見て少し笑った。


「おはよう、九条。昨日は図書館、行けたんだろ? どうだった?」


 悠真は友人の声に振り返り、穏やかに頷いた。


「おはよう、航平。うん、彩花さんと一緒に中央図書館へ行ってきたよ。前に借りた写真集を見たり、彩花さんが読んでいる小説の話を聞いたりしたんだ」


「そっか。楽しそうだな。お前が前に話してた、昔の図書館の写真も見せたのか?」


「うん。古い閲覧室の写真だよ。最初は窓の形や机の配置が面白いと思っていたんだけど、彩花さんと話しているうちに、そこにいた人たちの時間まで想像するようになったんだ」


 悠真が答えると、航平は少し考えるように頷いた。


「なるほどな。俺だったら、昔の写真を見ても、今と違うところばっかり探しそうだ。でも、そこにいた人が何をしてたのか考えるのも面白そうだな」


「そうだね。俺も、彩花さんと話して初めて気づくことが多いよ。航平が調べている駅前の写真も、建物だけじゃなくて、そこを使っていた人のことを考えると、また違う見方ができるかもしれない」


 航平はその言葉を聞き、少し嬉しそうに笑った。


「それ、いいな。ちょうど資料を見ながら、昔の商店街が今とどう違うのか考えてたんだ。店の数とか道の広さだけじゃなくて、人がどう使ってたかも気にしてみるよ」


 悠真は頷き、昨日見た地域写真集のことを思い出した。


「そういえば、昨日、中央図書館の地域資料の棚で、昔の商店街の写真が載っている本を見つけたんだ。航平が調べている内容にも関係がありそうだったよ」


 航平は目を輝かせた。


「本当か? それ、今度俺も見てみたいな。どんな本だった?」


「地域の写真をまとめた資料だったよ。正確な書名までは覚えていないけど、中央図書館の地域資料の棚にあった。もし行くなら、館内の検索でも探してみるといいと思う」


 悠真が説明すると、航平はノートへ短く書き留めた。


「ありがとう。自分で探してみるよ。調べ学習、最初は面倒だと思ってたけど、今はちょっと面白くなってきたんだ」


 航平はそう言って笑った。


 悠真は友人の表情を見ながら、誰かが自分の興味を見つけていく時間を一緒に過ごせることが嬉しいと感じた。


 彩花と本を探すときも、航平と資料を探すときも、相手が何を面白いと思うのか知ることで、自分の見方が少しずつ広がっていく。


 その変化は、決して大きな出来事ではない。


 けれど、日常の中で積み重なっていくものなのだろう。


     ◇


 午前中の授業が終わると、青葉高校の教室には昼休みの賑やかな声が広がった。


 彩花は弁当を取り出し、近くの席の女子生徒たちと一緒に昼食をとっていた。


 窓の外では雲が少し薄くなり、校庭の端にある木々へ淡い日差しが届いている。


 話題は週末に何をしていたかという、ごく自然なものだった。


 一人の女子生徒が家族と買い物へ行った話をし、別の生徒は家で映画を見ていたと話した。


 彩花も、昨日図書館へ行ったことを尋ねられた。


「水瀬さんは、週末どうしてたの?」


「土曜日は家の本棚を整理して、日曜日は友達と中央図書館へ行ったよ。前に借りた本の話をしたり、昔の町並みの写真を見たりしたの」


 彩花が答えると、女子生徒は興味を示した。


「へえ、図書館で昔の写真を見るのって面白そう。青凪市の昔の写真?」


「うん。昔の図書館の閲覧室とか、商店街の写真が載っていたの。今とは違う建物が多かったけど、そこで本を読んだり、買い物をしたりしていた人たちの姿を見ると、なんだか身近に感じられたよ」


 彩花は昨日の写真を思い出しながら話した。


 女子生徒は頷き、少し考えるように窓の外へ目を向けた。


「そういうの、授業で見る写真とはまた違う感じがするね。自分が住んでる街のことだと、今の場所と比べられるし」


「うん。私も、今まで知らなかったことがたくさんあるんだなって思ったよ」


 彩花が答えると、もう一人の女子生徒が微笑んだ。


「水瀬さん、本の話をするとき楽しそうだよね。文芸部でもいろいろ読んでるんでしょう?」


「うん。本を読むのも好きだし、自分で物語を書くのも好きだから。でも、最近は誰かと感想を話すのも、すごく楽しいなって思うようになったの」


 彩花は素直に答えた。


 言葉にしてから、少しだけ照れくさくなる。


 悠真と出会ってから、自分の好きなものを誰かと分け合う楽しさを、以前より強く感じるようになっていた。


 けれど、それは悠真だけが与えてくれるものではない。


 文芸部で作品を読み合う時間も、教室で友人と話す時間も、家族と本について話す時間も、それぞれ違う大切さを持っている。


 彩花はそのことを嬉しく思いながら、弁当へ箸を伸ばした。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、青凪市の空に少しだけ青い部分が見え始めていた。


 彩花は教科書を鞄へしまい、文芸部の活動場所へ向かった。


 部室の扉を開けると、佐々木先輩と表紙担当の女子部員が机を囲み、資料を確認しているところだった。


「お疲れさまです」


 彩花が挨拶すると、佐々木先輩は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「お疲れさま、水瀬さん。ちょうど表紙の試し刷りについて確認していたところなの。今日は予定どおり、調整案を印刷して見比べられそうよ」


 その言葉に、彩花は少し表情を明るくした。


「本当ですか? 前に確認した条件で印刷できるんですね」


「ええ。元の試し刷りと同じ紙、同じ大きさ、同じ設定で比較できるように準備したわ。ただ、印刷してみた結果によっては、もう一度確認が必要になるかもしれないから、今日すぐに最終決定するとは限らないけれど」


 佐々木先輩はそう説明し、机の上にある確認用紙を示した。


 紙の種類。


 印刷する大きさ。


 色の設定。


 変更する箇所。


 それぞれの項目には、先週までに確認した内容が記されている。


 彩花は用紙を見ながら、部誌の表紙が少しずつ完成へ近づいていることを感じた。


 変更するのは、冬の枝先が少し見えやすくなるように濃さを調整した部分と、下部の小さな文字のコントラストを高めた部分だけだ。


 空の余白や文字の位置、表紙全体の構成は変えていない。


 表紙担当の女子部員は、画面に表示した調整案を見ながら、少し緊張したように笑った。


「画面では何度も確認したんだけど、やっぱり紙にするとどう見えるか気になるんだよね。元の雰囲気が好きだから、そこがちゃんと残ってるといいな」


「うん。私も、最初の空の感じがすごく好きだったから、そこを大切にしたいな。枝先や文字が見やすくなっても、全体が強くなりすぎていないか、一緒に確認したい」


 彩花が答えると、女子部員は嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。水瀬さんがそう言ってくれると、落ち着いて比べられそう」


 佐々木先輩は二人のやり取りを見守りながら、確認の手順をもう一度説明した。


 まず、調整案を印刷する。


 次に、保護袋に入れて保管していた元の試し刷りを取り出し、同じ明るさの場所で並べる。


 そのうえで、枝先と下部の文字の見え方を確かめる。


 彩花は一つずつ頷き、印刷が終わるのを待った。


 しばらくして、調整案の試し刷りが用意された。


 部員たちは机の上を片づけ、元の表紙と調整案を並べた。


 彩花は少し離れた位置から二枚を見比べた。


 元の表紙には、淡い冬空の広がりがある。


 枝先は控えめで、遠くの景色のように柔らかく見える。


 一方、調整案では、枝の細い部分が少しだけ見つけやすくなっていた。


 下部の小さな文字も、元の表紙より読み取りやすい。


 けれど、空の広さそのものは変わっていなかった。


(思っていたより、全体の雰囲気は変わっていないかもしれない。でも、近くで見るのと少し離れて見るのでは、また違うかな)


 彩花は机から少し離れ、二枚の表紙を見比べた。


 枝先の濃さは、近くで見ると違いが分かる。


 少し離れると、その違いは控えめになり、冬空の静かな印象が残っている。


 下部の文字については、調整案の方が読みやすく感じられた。


 ただし、どちらを最終的に採用するかは、彩花一人で決めることではない。


 表紙を作った女子部員の考えも、ほかの部員の意見も大切にしたかった。


「私は、調整案の方が枝先を見つけやすいと思いました。でも、空の余白が広く感じられるところは、元の表紙とあまり変わっていない気がします」


 彩花が感想を伝えると、佐々木先輩は頷いた。


「そうね。変更したところが分かりやすくなっている一方で、全体の印象は大きく変わっていないように見えるわ」


 表紙担当の女子部員は、二枚をじっと見つめていた。


 しばらくして、彼女は小さく息をつき、微笑んだ。


「よかった。私、枝を濃くすると空の柔らかさがなくなるんじゃないかって心配してたんだけど、これなら大丈夫そうな気がする」


 彼女は下部の文字へ視線を移した。


「文字も、前より読みやすいね。位置を変えなくても、ちゃんと見えるようになってる」


 彩花はその言葉を聞き、少し安心した。


 何度も画面で確認してきた調整案が、紙の上でも意図した形に近づいている。


 それは、部員たちが一つずつ確認してきた結果だった。


 佐々木先輩は二枚の試し刷りを見比べ、最後にこう言った。


「今日の比較では、調整案の方が読みやすさの面でよさそうね。ただ、最終的な採用については、顧問の先生にも実物を見てもらってから確認しましょう。ここまでの意見は記録しておくわ」


 部員たちは頷いた。


 調整案は好意的に受け止められたが、まだ正式に完成したわけではない。


 彩花はそのことを理解しながら、確認用紙へ今日の結果を書き留めた。


 元の試し刷りと調整案は、それぞれ傷まないように保護して保管することになった。


 机の上が片づくと、部室には少しだけ達成感のある空気が広がった。


「今日は、ちゃんと紙で比べられてよかったね」


 表紙担当の女子部員がそう言うと、彩花は微笑んだ。


「うん。画面だけで考えていたときより、どこが変わったのか分かりやすかった。実際に見てみるって大切なんだね」


「本当だね。何度も相談に付き合ってくれてありがとう、水瀬さん」


「こちらこそ。みんなの作品が載る部誌だから、最後まで一緒に考えられて嬉しいよ」


 彩花が答えると、女子部員は嬉しそうに笑った。


 部誌はまだ完成していない。


 けれど、今日は確かに一つの確認が進んだ。


 彩花はそのことを胸に留めながら、残りの片づけを手伝った。


     ◇


 桜華学園高等部の放課後、悠真は必要な生徒会の連絡事項を確認していた。


 今日の仕事は大きなものではなく、提出された資料の確認と、関係する生徒への簡単な連絡が中心だった。


 悠真は一つずつ内容を確かめ、必要なところだけを整理した。


 作業を終えた頃、航平が廊下で待っていた。


「九条、お疲れ。今日はもう帰れるのか?」


「うん。必要な確認は終わったよ。航平は調べ学習の資料、どうだった?」


 悠真が尋ねると、航平は鞄からノートを取り出した。


「今日、学校の図書室でもう少し探してみたんだ。駅前の写真が載ってる資料があってさ。昔の商店街には、今はない店も多かったけど、同じような場所に残ってる建物もあるみたいなんだ」


「それは面白いね。どの建物が残っているのか、資料で確かめられそう?」


「まだ全部は分からないけど、今の地図と比べながら考えてみようと思ってる。昨日お前が見つけた中央図書館の資料も、今度時間があるときに探してみるよ」


 航平は楽しそうに答えた。


 悠真は友人の話を聞きながら、昨日彩花と見た写真を思い出した。


 建物が変わっても、道や場所の記憶が残っていることがある。


 同じ街の中で、昔と今が静かにつながっている。


 そのことを考えるのは、悠真にとっても面白かった。


「もし資料を見つけたら、航平がどこを面白いと思ったのか聞かせてほしいな。俺も、自分とは違う見方を知りたいから」


 悠真がそう言うと、航平は少し驚いたように目を丸くした。


「九条、お前、本当にそういう話が好きなんだな。前は資料の探し方を教えてくれることが多かったけど、最近は俺が何を面白いと思ったのかまで聞いてくれるし」


 悠真は少し考え、穏やかに微笑んだ。


「そうだね。彩花さんと本を読むようになって、誰かが何を面白いと思うのか聞くのが、前より好きになったんだと思う」


 航平はその答えを聞き、楽しそうに笑った。


「なるほどな。水瀬さんの影響は大きいってわけだ」


 悠真は否定せず、静かに頷いた。


「うん。大きいと思うよ」


 その素直な返事に、航平は一瞬だけ驚いたような顔をした。


 けれど、すぐに笑みを浮かべた。


「そっか。それなら、俺も調べたことをちゃんと話せるようにしておくよ。お前が面白いと思うかどうかも聞いてみたいしな」


「楽しみにしているよ」


 二人はそう言って笑い合い、校門へ向かった。


     ◇


 青葉高校からの帰り道、彩花は鞄の中にある確認用紙の控えを思い出していた。


 今日、冬の部誌の表紙を実際に印刷して見比べることができた。


 画面では小さな違いに見えたものが、紙の上では少し違う印象になる。


 その一方で、変えたくなかった空の雰囲気は、調整案にも残っていた。


 彩花はそのことを嬉しく感じていた。


 ただ、顧問の先生の確認はまだ終わっていない。


 最終的にどちらの表紙を採用するかも、正式には決まっていない。


 今日進んだことと、まだ決まっていないことを分けて考えると、気持ちが落ち着いた。


 帰り道の途中、彩花はいつもの植え込みへ目を向けた。


 小さな蕾は、夕方の光の中で静かに枝先へついている。


 今朝と大きく変わったようには見えないが、雲の切れ間から差し込む光を受けて、少しだけ輪郭がはっきりしていた。


(今日も、ちゃんとここにあるんだね。いつ咲くのか分からないけど、こうして毎日見るのが楽しみになってきたな)


 彩花は小さく微笑み、歩き始めた。


 文芸部の表紙も、この蕾も、まだ完成した姿にはなっていない。


 けれど、途中の時間を見守ることにも、楽しさがある。


 彩花はそのことを、最近少しずつ実感していた。


     ◇


 夕食を終えたあと、彩花は自室で星模様のノートを開いた。


 今日の授業や文芸部の活動を思い出しながら、祖母へ手紙を書こうとしている少女の場面を読み返す。


 少女は庭の花を毎朝見つめている。


 遠くに暮らす祖母が今どんな景色を見ているのか知りたいと思っている。


 けれど、手紙の本文はまだ二行しか書かれていない。


『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』


『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』


 彩花はその二行を読み、今日の文芸部での出来事を思い出した。


 表紙の調整案は、画面で見ているだけでは分からないことがあった。


 実際に紙へ印刷して、初めて確かめられたことがある。


 それと同じように、少女も庭の花を毎日見ているからこそ、気づけることがあるのだろう。


 彩花はペンを持ち、少女が便箋を前にして考える場面へ少し文章を加えた。


 少女は、祖母が昔、庭の花を見ながら話してくれたことを思い出す。


 花が咲くのを待つ時間も、花が咲いてから眺める時間も、それぞれ違う楽しさがある。


 祖母はそんなことを、特別な教訓として話していたわけではなかった。


 ただ、庭で過ごす時間の中で、自然に口にしていたのだ。


 少女はその記憶を思い出しながら、今の祖母もどこかで同じように、何かを待っているのかもしれないと考える。


 庭の花かもしれない。


 窓辺へ差し込む朝日かもしれない。


 あるいは、誰かから届く手紙かもしれない。


 彩花はそこまで書き、ペンを止めた。


(この子は、おばあちゃんに返事をもらいたいだけじゃないんだよね。今のおばあちゃんが、何を楽しみにしているのか知りたいんだ)


 少女の気持ちは、少しずつはっきりしてきている。


 けれど、手紙の三行目を今すぐ決める必要はない。


 彩花は便箋へ書かれた二行をもう一度読み、ノートを閉じた。


 完成していない物語を、大切に育てていく。


 その時間も、自分にとって好きなものなのだと感じていた。


     ◇


 同じ夜、悠真は自室で写真集を開いていた。


 昨日、彩花と一緒に見た古い図書館の閲覧室の写真が、机の上に広がっている。


 悠真は窓の形や机の配置を確かめながら、彩花が話してくれたことを思い出した。


 そこで本を読んでいた人たちは、どんな時間を過ごしていたのだろう。


 どんな本を選び、どんな気持ちでページをめくっていたのだろう。


 写真だけでは分からないことが多い。


 けれど、分からないからこそ、想像する楽しさがある。


(彩花さんと一緒に見たあとだと、同じ写真なのに、また違うところが気になるんだな)


 悠真は静かに微笑んだ。


 昨日の図書館で過ごした時間は、すでに終わっている。


 けれど、そのとき交わした言葉は、今日の自分の中にも残っていた。


 写真集を閉じたあと、悠真はスマートフォンを手に取った。


 彩花へ、今日の学校での出来事を少し話したくなったからだ。


『彩花さん、今日もお疲れさま。昨日一緒に見た写真集を、また少し読んでいたんだ。今日は学校で航平と昔の駅前の資料について話したよ。彩花さんと写真を見たときのことを思い出して、前よりいろいろなところが気になるようになった気がする』


 送信すると、少しして彩花から返事が届いた。


『悠真君もお疲れさま。私も今日、昨日の写真のことを思い出してたよ。学校では冬の部誌の表紙を実際に印刷して、元の表紙と調整案を見比べたの。画面で見るのとは少し違っていて、面白かったよ』


 悠真はその文章を読み、嬉しそうに目を細めた。


 彩花が先週から準備していた表紙の比較が、今日実際に行われたのだ。


『そうだったんだね。前に、枝先の見え方と小さな文字の読みやすさを確かめたいって話してくれたよね。紙で見てみて、どうだった?』


 彩花からの返事は、少し長いものだった。


『調整案の方が枝先を見つけやすくて、下の小さな文字も読みやすかったよ。でも、空の柔らかい雰囲気はあまり変わっていないように感じたの。みんなで比べて、調整案はよさそうだねって話になったけど、顧問の先生にも実物を見てもらってから最終確認する予定なんだ』


 悠真は丁寧に読み、微笑んだ。


 彩花が大切にしていた空の雰囲気を残しながら、読みやすさを確かめられたことが嬉しかった。


『それはよかったね。彩花さんが大切にしていたところを残しながら、確認したかった部分を比べられたんだね。完成まであと少しなのかもしれないけど、最後まで丁寧に進められるといいね』


 彩花からは、すぐに返事が届いた。


『うん、ありがとう。私も、完成するのが楽しみ。でも、みんなで作ってる今の時間も好きだから、最後まで大切にしたいな』


 悠真はその文章を読み、胸の奥が温かくなった。


 彩花は完成したものだけではなく、そこへ至るまでの時間も大切にしている。


 その姿勢は、彼女が本を読むときにも、物語を書くときにも共通しているように思えた。


『彩花さんらしいね。俺も、何かが完成するまでの時間を大切にしたいと思うようになったよ。琴葉と乾かしている葉も、まだ途中だけど、一緒に待つ時間が楽しいんだ』


 彩花はその言葉を嬉しく受け止めたようだった。


『押し葉も、少しずつ進んでるんだね。完成したら、どんなふうになるのか楽しみだね。琴葉ちゃんにも、よろしく伝えてね』


 悠真は微笑みながら返事を打った。


『ありがとう。琴葉にも伝えるよ。彩花さんも、今日はゆっくり休んでね』


 二人はそのあと、短い挨拶を交わしてやり取りを終えた。


 悠真はスマートフォンを机へ置き、窓の外へ目を向けた。


 冬の夜空には、薄い雲の間からいくつかの星が見えている。


 今日、彩花とは会っていない。


 それでも、彼女がどんな一日を過ごしたのか少し知ることができた。


 自分の一日も、少しだけ伝えられた。


 そのことが、悠真には嬉しかった。


     ◇


 彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。


 今日の出来事を振り返ると、朝の植え込み、教室での大地との会話、文芸部で見比べた二枚の表紙が順番に思い出される。


 そして、夜には悠真とメッセージを交わした。


 昨日は一緒に図書館へ行き、今日は別々の学校で過ごした。


 けれど、二人の時間が完全に切り離されているわけではない。


 昨日見た写真が、今日の会話につながっている。


 今日見つけたことが、また明日以降の話題になるかもしれない。


 彩花はペンを持ち、ゆっくり書き始めた。


『今日は冬の部誌の表紙を、実際に紙へ印刷して見比べた。調整案は枝先が少し見やすくなっていて、下の小さな文字も読みやすかった。空の雰囲気は大きく変わっていないように感じたけれど、最終的に決めるのは顧問の先生にも見てもらってから。みんなで少しずつ確かめている時間が、私は好きだと思った。』


 彩花は一度ペンを止め、今日の部室を思い出した。


 表紙担当の女子部員が、印刷した紙を見て安心したように笑ったこと。


 佐々木先輩が、今日分かったことと、まだ確認が必要なことを分けてくれたこと。


 自分もその場で、一緒に考えられたこと。


 どれも大切な記憶だった。


 彩花は日記帳へ続きを書いた。


『悠真君とは今日は会えなかったけれど、夜に少し話せた。昨日一緒に見た写真を、悠真君は今日も読んでいたらしい。私も昨日のことを思い出していたから、同じものが別々の一日の中に残っているのが嬉しかった。』


 書き終えると、彩花はしばらく日記帳を見つめた。


 悠真と出会ってから、特別な日だけが大切になったわけではない。


 むしろ、何気ない一日の中にも、誰かへ伝えたいことが増えている。


 通学路の小さな蕾。


 学校で聞いた友人の話。


 文芸部で少しずつ完成へ近づく表紙。


 そんな出来事を、悠真へ話したいと思う。


 そして、悠真が見つけたものも知りたい。


(明日も、何か見つけられるかな。悠真君は、どんな一日を過ごすんだろう)


 彩花は静かに微笑み、日記帳を閉じた。


 机の上には、星模様のノートと、まだ読み終えていない小説が並んでいる。


 少女の手紙は、まだ二行のままだ。


 小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 冬の部誌の表紙も、最終確認を待っている。


 どれも、今は途中にある。


 けれど、途中だからこそ、明日が楽しみになることもあるのだろう。


 彩花はライトを消し、ベッドへ入った。


 窓の外には、冬の静かな夜が広がっている。


 明日もまた、青葉高校での一日が始まる。


 悠真も、桜華学園高等部で自分の時間を過ごすだろう。


 同じ場所にいなくても、互いの一日を知りたいと思う気持ちは変わらない。


 彩花はそのことを嬉しく感じながら、ゆっくり目を閉じた。


 月曜日の夜は、穏やかに更けていった。


 今日見つけた小さな変化は、明日へ続く時間の中で、静かに彩花の心へ残っていた。


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