第123話 約束の前日に選ぶ言葉と、君に見せたい冬の景色
土曜日の朝、青凪市には昨夜から続く冷たい空気が残っていた。水瀬彩花が目を覚ましてカーテンを開けると、向かいの家の屋根には薄い朝日が差しているものの、庭の木々はほとんど動かず、窓越しにも冬の静けさが伝わってくる。平日なら制服へ着替える時間だったが、今日は学校へ行く予定がないため、彩花は少しゆっくりと身支度を整えることにした。
机の上には、昨夜読みかけのまま置いた小説と、星模様のノートが並んでいた。小説は日曜日に悠真と中央図書館で借りたもので、故郷へ戻ってきた幼なじみたちが、それぞれ異なる記憶を抱えながら昔の場所を訪ねる物語だ。読み進めるうちに二人の距離は少しずつ近づいているが、彩花が昨夜読んだところでは、まだ顔を合わせていなかった。
彩花は机へ近づき、しおりの挟まったページを指先でそっと押さえた。明日、悠真と会うときには、この本について話せる。まだ結末を知らないからこそ、今感じていることを伝えるのも面白いかもしれない。
(悠真君は、私がどんなところを気にして読んでいるのか聞きたいって言ってくれたんだよね。全部読み終わってからじゃなくても、今の気持ちを話していいのかな)
そう考えたところで、彩花は小さく首を振った。読書の感想に、完成した答えが必要なわけではない。悠真と本を選んだときも、二人は知らないことや気になったことを、そのまま言葉にして楽しんでいた。
彩花は本を閉じたまま机に置き、階下へ向かった。今日は午前中に家の手伝いをする約束になっている。明日の午後を自由に過ごせることが嬉しいからこそ、今日の予定もきちんと大切にしたかった。
食卓では母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は新聞を畳んでいるところだった。姉の凛花は湯気の立つお茶を飲みながら、窓の外を眺めている。
「おはよう、彩花。今日はよく晴れそうだけど、朝はずいぶん寒いね。明日も冷えるかもしれないから、図書館へ行くなら暖かくしていきなさい」
紗月の言葉に、彩花は椅子へ座りながら頷いた。昨日、日曜日の午後に悠真と中央図書館へ行くことを家族に伝えているため、母はその予定を自然に覚えてくれていた。
「おはよう。うん、マフラーも持っていくつもり。明日は午後一時半に入口で待ち合わせだから、午前中は慌てなくて大丈夫だと思う」
「そうね。今日のうちに持ち物を確認しておけば、明日の朝も落ち着いて過ごせるわ。あとは、今日お願いしたいことを先に済ませてくれると助かるかな」
紗月はそう言いながら、食卓へ小鉢を並べた。彩花が手伝いの内容を尋ねると、午前中に洗濯物を干し、居間の本棚を軽く整理するのを手伝ってほしいという。
「本棚の整理なら私もできるよ。前にお父さんが探してた本、まだ見つかってないんだっけ?」
「いや、あれは見つかったよ。ただ、戻す場所が曖昧になっている本がいくつかあるからね。今日は使いやすいように並べ直せたらと思ってる」
耕助が穏やかに答えると、凛花が少し楽しそうに笑った。
「うちの本棚って、整理しようとすると誰かが読み始めちゃうから、なかなか終わらないんだよね。彩花なんて、昔の本を見つけたら絶対に中を開くでしょ」
「お姉ちゃんだって、前に写真集を見つけてずっと眺めてたじゃない」
「それは否定できないなあ。だから今日は、お互い気をつけようね」
姉妹が笑い合うと、紗月もつられて微笑んだ。彩花は温かい味噌汁を口に運びながら、家族と過ごす土曜日の朝が好きだと思った。明日が楽しみであることと、今日を大切にすることは、少しも矛盾しないのだった。
◇
朝食の片づけを終えたあと、彩花は紗月と一緒に洗濯物を干した。ベランダへ出ると、日差しは思っていたより暖かかったが、指先へ触れる風には冬らしい冷たさがある。彩花は洗濯物の端を丁寧に伸ばし、隣で作業する母の手元を見ながら、風で飛ばされないように留めていった。
「そういえば、明日会う九条君とは、最近もよく本の話をしているの?」
紗月は洗濯ばさみを一つ取ると、何気ない調子で尋ねた。彩花は少しだけ手を止めたものの、隠す必要はないと思い、素直に頷いた。
「うん。今はお互い、前に図書館で借りた本を読んでるの。悠真君は昔の町並みや建物の写真が載ってる本で、私は幼なじみが故郷へ戻ってくる小説。明日は、その本の話もできたらいいなって」
「違う種類の本を選んだのね。それでも一緒に話せることがあるなら、楽しそうだわ」
紗月は微笑みながら、干し終えた洗濯物の間隔を少し広げた。彩花はその仕草を見て、母が普段から家の中の小さなことに気を配っているのを改めて感じた。
「悠真君と話してると、自分が気づかなかったところを教えてもらえるんだ。写真を見ても、私はそこにいた人が何をしてたのかなって考えるけど、悠真君は建物がどう使われてたのかとか、昔と今で何が変わったのかとか、そういうところに気づくの」
「それはいいことね。自分と違う見方をする人と話すと、今まで当たり前だと思っていたものが、少し違って見えることもあるもの」
母の言葉に、彩花は頷いた。悠真と出会ってから、自分の世界が急に大きく変わったわけではない。けれど、通学路の蕾や、古い町並みの写真、何気ない文章の一行に目を向ける時間は、確かに増えていた。
「それに、彩花がその子の話をするとき、楽しそうなのがいいわ。何を話したかだけじゃなくて、一緒に話している時間が好きなんでしょう?」
紗月は洗濯かごを持ち上げながら、優しい声で続けた。彩花は一瞬、返事に迷った。母は特別な意味を込めて尋ねたわけではないのかもしれないが、自分の気持ちを言葉にすると、胸の奥が少しくすぐったくなる。
「……うん。悠真君と話してる時間、好きだよ。何かすごいことを話さなくても、今日見つけたものとか、読んだ本のこととか、そういう話ができるのが嬉しいの」
彩花がそう答えると、紗月はそれ以上踏み込まず、穏やかに微笑んだ。母の表情には、娘が大切な時間を見つけたことへの静かな喜びが浮かんでいる。
「だったら、明日も楽しい時間になるといいわね。寒いから、帰る頃のことも考えておくのよ」
「うん。ありがとう、お母さん」
彩花は洗濯かごを受け取り、母と一緒に部屋へ戻った。明日の約束を家族に話せることが、こんなにも安心につながるのだと感じていた。
続いて居間の本棚を整理し始めると、凛花の言ったとおり、作業は簡単には進まなかった。棚の奥から昔読んだ児童書や家族旅行の案内本が出てきて、そのたびに誰かが思い出を口にするからだ。
「これ、彩花が小さい頃に何度も読んでた本じゃない?」
凛花が取り出したのは、少し色あせた表紙の物語だった。彩花は本を受け取り、懐かしい絵を眺めた。登場人物が遠くの町へ出かけ、そこで見つけたものを家族へ手紙で知らせる話だったことを、ぼんやり覚えている。
「懐かしい。私、これが好きだったんだ。主人公が旅先で見たものを、家にいる人にも見せたくなるところが好きで」
「そうだったね。彩花、読み終わると自分も手紙を書きたいって言って、便箋を探してたことがあったよ」
耕助が棚の前で振り返り、懐かしそうに笑った。彩花はその話を聞き、少し驚いた。自分でははっきり覚えていなかったが、父にとっては残っている思い出なのだろう。
「私、そんなこと言ってたんだ。覚えてなかったな」
「子どもの頃のことだからね。何を書いたかまでは覚えていないけど、誰かに見せたいものがあると、すぐ話したくなる子だったよ」
彩花は本の表紙を指先で撫でながら、星模様のノートに書いている少女を思い浮かべた。自分が小さい頃から、手紙というものに惹かれていたことが、今の創作とつながっているようで不思議だった。
(誰かに見せたいものがあるから、手紙を書く。あの子も、きっとそうなんだよね。でも今は、それだけじゃなくて、おばあちゃんが見ているものも知りたいんだ)
彩花は児童書を元の棚へ戻し、整理を続けた。昔の自分が好きだった物語と、今書いている物語が、思いがけないところで結びついた気がした。
◇
同じ土曜日の午前、九条家では悠真が自室の机に向かっていた。窓の外には穏やかな冬の日差しが広がり、庭の木々の影が石畳へ細く伸びている。机の上には学校の課題と、日曜日に借りた町並みの写真集が並んでいた。
悠真は課題を終えると、写真集を開いて古い図書館の写真が載っているページを確かめた。以前から彩花へ見せたいと思っていた写真で、木製の机が並ぶ閲覧室には、窓から斜めに光が差し込んでいる。建物の説明を読むと、今の中央図書館とは違う造りだったことが分かるが、静かに本へ向かう人々の姿には、どこか通じるものがあった。
(彩花さんなら、どこを見るだろう。俺が気になったのは窓の形や机の配置だけど、彩花さんはそこで本を読んでいた人たちのことを考えるかもしれない)
悠真は写真集を閉じ、鞄へ入れる前に返却期限を確かめた。明日、中央図書館へ行くのだから、借りた本を持っていくのは自然なことだ。まだすべてのページを細かく読み終えたわけではないが、返却するかどうかは明日までに決められるだろう。
机の引き出しには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまってある。悠真は一度そこへ視線を向けたものの、今朝は取り出さなかった。彼女が自分との時間を大切にしてくれていることは、昨夜のやり取りからも十分に伝わっていた。
廊下から軽い足音が聞こえ、控えめなノックが響いた。悠真が返事をすると、妹の琴葉が扉を開け、その後ろから白いサモエドのハクが顔を覗かせる。
「お兄様、お勉強は終わりましたか? 今日は少し時間があるので、ハクと庭を歩こうと思っているんです。よかったら一緒にどうですか?」
「ちょうど課題が終わったところだよ。少し外の空気を吸いたいと思っていたし、一緒に行こうか」
悠真が立ち上がると、琴葉は嬉しそうに笑った。ハクも尻尾を揺らしながら廊下へ戻り、二人が来るのを待っている。
庭へ出ると、日差しの当たる場所は思っていたより暖かかった。ハクは芝生の端をゆっくり歩き、時折鼻先を地面へ近づけて匂いを確かめている。琴葉はその様子を眺めながら、昨日の押し葉のことを話し始めた。
「お兄様、葉っぱは今日もそのままにしてあります。昨日、急いで触らない方がいいって言ってくれたので、もう少し待ってみようと思って」
「そうだね。形が落ち着くまで待つのも大切だと思うよ。乾いたあとで、どんなふうに使うか一緒に考えよう」
琴葉は頷き、ハクが立ち止まった場所へ目を向けた。そこには風で運ばれてきたらしい茶色い葉が一枚落ちている。彼女は拾おうとしかけたが、少し考えて手を止めた。
「今度は、乾いてから拾う葉っぱと、まだ柔らかい葉っぱで、仕上がりが違うのかも気になります。でも、今あるものが完成してから考えた方がよさそうですね」
「うん。試してみるのは面白そうだけど、まずは今の葉を大切にしよう。琴葉がどうしてそれを選んだのか、完成したときにも覚えていられたらいいね」
悠真の言葉に、琴葉は少し考え込んだ。葉を拾った日のこと、色がきれいだったこと、兄と一緒に紙へ挟んだこと。完成した形だけではなく、そこへ至るまでの時間も思い出になるのだと、彼女なりに感じたらしい。
「そうですね。私、あの日にお兄様と選んだことも覚えていたいです。しおりになったら、使うたびに思い出せるかもしれません」
琴葉は嬉しそうに微笑み、ハクの背中を優しく撫でた。悠真はその横顔を見ながら、自分も大切な思い出を形に残したいと思うことがあると感じた。
特別な橙色の葉は、今も自室の引き出しに別にしまってある。彩花と過ごした時間を思い出すための小さな記念だが、彼女にはまだそのことを話していない。いつか話す日が来るかもしれないが、今は急いで決める必要はなかった。
◇
昼食を終えた彩花は、自室で星模様のノートを開いた。午前中に見つけた懐かしい児童書のことが頭から離れず、祖母へ手紙を書こうとしている少女の場面を読み返していた。
少女は庭の花を毎朝見つめながら、遠くに暮らす祖母のことを考えている。祖母が元気に過ごしていることは電話で聞いているが、毎日どんな景色を見て、何を楽しみにしているのかまでは分からない。
彩花はその気持ちを、もっと自然に表したかった。遠くにいる相手を心配するだけではなく、相手の暮らしそのものを知りたいという願いが、少女の中に育っている。
(この子は、おばあちゃんに何かを教えてほしいんじゃなくて、おばあちゃんの今日を知りたいんだよね。自分の庭のことを伝えたら、おばあちゃんも今見ている景色を話してくれるかもしれない)
彩花はペンを持ち、手紙を書く前の場面へ文章を加えた。少女は机の上の写真を見つめながら、祖母が昔、花の名前だけでなく、その日に咲いていた場所や、風の強さまで話してくれたことを思い出す。何気ない話だったからこそ、今になって懐かしく感じられるのだった。
けれど、彩花はそこで手を止めた。祖母の昔の言葉を具体的に書きすぎると、少女が自分で見つける余地を狭めてしまう気がしたからだ。
彩花は書いた文章を読み返し、一部を少し整えた。祖母が何を話したかを細かく説明するより、少女がその時間をどう覚えているのかを中心にした方が、今の物語には合っている。
手紙の本文は、まだ二行のままだった。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花はその二行をゆっくり読み、ペンを置いた。続きが書けないことに焦りはなかった。むしろ、今は少女の気持ちを確かめながら、自然な言葉が見つかるのを待ちたいと思っている。
机の端には、日曜日に借りた小説が置かれていた。彩花はノートを閉じ、少し休憩してから続きを読むことにした。
小説の中では、故郷へ戻ってきた幼なじみたちが、それぞれ別の場所で昔の思い出をたどっている。片方は駅前の花壇を覚えており、もう片方は古い時計の音を思い出していた。
彩花はページをめくりながら、二人が同じ時間を過ごしていたのに、違うものを覚えていることを面白く感じた。どちらかの記憶が間違っているわけではない。それぞれが大切にしていたものが違うだけなのだろう。
読み進めるうちに、物語の二人は同じ駅前の広場へ向かうことになった。しかし、彩花が読んだところでは、まだ互いの姿を見つけていない。
彩花はしおりを挟み、本を閉じた。明日、悠真と会う前に続きを読みたい気持ちもあるが、今のところまでの感想を話すのも楽しそうだった。
(悠真君に、二人が同じ場所を違うふうに覚えているところが好きって話してみよう。きっと、悠真君も何か感じたことを教えてくれるよね)
そう考えると、明日の図書館がますます楽しみになった。
◇
午後の九条家では、悠真が母の麗華と顔を合わせていた。麗華は居間の窓際で本を読んでおり、悠真が入ってくると穏やかな笑顔を向けた。
「悠真、今日はゆっくり過ごせているみたいね。明日は彩花さんと図書館へ行くんでしょう?」
「はい。父から日曜日の午後は家の用事がないと聞いたので、彩花さんに都合を確認しました。午後一時半に中央図書館の入口で待ち合わせることになっています」
悠真が答えると、麗華は嬉しそうに頷いた。息子が自分の予定を丁寧に説明する姿はいつもと変わらないが、その表情には以前より柔らかな期待が浮かんでいる。
「そう。よかったわね。前に図書館へ行ったときも、帰ってきてから楽しそうに本の話をしていたもの。今度も、二人でゆっくり過ごせるといいわ」
「ありがとうございます。彩花さんと話していると、自分が気づかなかったことを教えてもらえるんです。明日も、前に借りた本について話せたらと思っています」
麗華は息子の言葉を聞き、少しだけ目を細めた。悠真は以前から本を読むことも、人の話を聞くことも好きだった。しかし今は、誰かと一緒に考える時間そのものを、特別に楽しんでいるように見える。
「それは素敵なことね。相手の好きなものを知るのも大切だけれど、悠真自身が何を好きなのか伝えることも忘れないでね」
母の言葉に、悠真は少し驚いたように顔を上げた。昨日、父からも似たことを言われたばかりだったからだ。
「はい。最近、俺もそう思うようになりました。彩花さんは、俺が何を面白いと思うのか聞くのが嬉しいって言ってくれたんです」
「それなら、遠慮しすぎなくてもいいんじゃないかしら。お互いの好きなものを話せる関係は、きっと大切にできると思うわ」
麗華はそう言って微笑み、手元の本へしおりを挟んだ。悠真は母の言葉を胸に留めながら、明日持っていく写真集のことを思い浮かべた。
古い図書館の写真を見せるとき、建物の説明だけでなく、自分がどこに惹かれたのかも話してみよう。彩花がどんなことを感じるのか聞くのも楽しみだが、自分の気持ちを伝えることも、二人で過ごす時間の一部なのだろう。
◇
夕方が近づく頃、彩花は凛花と一緒に近所の買い物へ出かけた。夕食に使うものを頼まれたためで、二人はコートを羽織り、冷たい風の吹く住宅街を歩いていた。
道の途中には、彩花が木曜日から気にしている植え込みがある。今日も学校へ行くわけではないが、ちょうど同じ道を通ることになったため、彩花は自然にそちらへ目を向けた。
「彩花、何か見つけたの?」
凛花が妹の視線に気づいて尋ねると、彩花は少し照れくさそうに笑った。
「うん。ここに小さな蕾があるの、木曜日に初めて気づいたんだ。それから昨日も見たんだけど、今日もどうなってるかなって思って」
凛花は彩花の隣で足を緩め、枝先へ目を向けた。小さな蕾はまだ固く閉じており、すぐに花が咲きそうな様子ではない。それでも、冷たい季節の中で形を保っている姿には、静かな力強さがあった。
「本当だ。よく見つけたね。私だったら、たぶんそのまま通り過ぎちゃうな」
「私も今まではそうだったよ。でも、物語で毎朝庭の花を見てる子を書いてたら、自分も少し気になってきたの」
彩花が答えると、凛花は嬉しそうに微笑んだ。妹が書いている物語はまだ完成していないが、その物語が彩花自身の毎日にも小さな変化を与えているらしい。
「書いてるものに影響されて、普段の景色まで違って見えるんだね。なんだか面白いな」
「うん。あの子が見てるものを考えてたら、私も同じように見てみたくなったのかもしれない」
彩花は蕾をもう一度眺めてから、凛花と一緒に歩き始めた。買い物へ向かう道には、ほかにも冬の花が植えられた家や、落ち葉の残る小さな公園がある。今まで何度も通っていた道なのに、今日は少しだけ違う場所のように感じられた。
買い物を終えて帰る途中、凛花が何気なく口を開いた。
「明日、九条君にその蕾の話もするの?」
「うん。前にメッセージで見つけたことは話したんだけど、実際に毎日見てると、少しずつ気づくことがあるんだって伝えたいな」
彩花が答えると、凛花は少し考えるように頷いた。
「そういう小さなことを話せる相手って、いいよね。大きな出来事がなくても、今日の自分が何を見たか聞いてもらえるんだから」
彩花は姉の言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。悠真と話す時間が好きな理由を、また一つ言葉にしてもらえたような気がした。
「うん。私も、悠真君が今日何を見たのか聞くのが好きなんだ。自分の一日とは違うものを見てるのに、話してると少し近く感じられるの」
凛花は妹の横顔を見て、優しく微笑んだ。彩花はその視線に気づき、少し頬を赤くしたが、言ったことを取り消したいとは思わなかった。
◇
夕食のあと、彩花は明日の持ち物を確認することにした。鞄の中へ財布とハンカチ、必要なものを入れ、図書館の利用カードも取り出して確かめる。日曜日に借りた小説はまだ読み終えていないため、返却期限を確認し、明日どうするかは読書の進み具合を見て決めようと思った。
机の上には、葉模様の日記帳と星模様のノートが並んでいる。日記帳は自分だけの記録として置いたままにし、星模様のノートも明日持っていく予定はなかった。悠真には完成したら最初に読んでほしいと約束しているが、まだ途中の物語を無理に見せる必要はない。
彩花は鞄の口を閉じ、窓の外へ目を向けた。冬の夜は早く、まだそれほど遅い時間ではないのに、住宅街はすっかり暗くなっている。
(明日は、また悠真君に会えるんだ。前に図書館へ行ったときも楽しかったけど、今度は自分から話したいことがいくつもあるな)
彩花はスマートフォンを手に取り、悠真へ短いメッセージを送った。
『悠真君、今日もお疲れさま。明日の持ち物を確認してたら、なんだか楽しみになってきちゃった。午後一時半、中央図書館の入口で待ち合わせだよね』
少しして、悠真から返事が届いた。
『うん、午後一時半に入口で待ち合わせだよ。俺も写真集を持っていく準備をしていたところなんだ。彩花さんに見せたいページがあるから、楽しみにしているね』
彩花は画面を見つめ、自然に微笑んだ。悠真も同じように、明日のために準備をしている。そのことが嬉しかった。
『私も、読んでる小説のことを話したいな。まだ最後まで読めてないけど、気になったところがいくつもあるの』
『もちろんだよ。読み終わっていなくても、今どんなところが面白いと思っているのか聞けたら嬉しい。明日は無理せず、ゆっくり本を見ようね』
悠真の返事に、彩花は少し安心した。結末まで読んでいなければ感想を話せないわけではない。今の自分が何を感じているのかを、そのまま伝えればよいのだ。
『ありがとう。悠真君も、写真集で面白いと思ったところをたくさん教えてね。私も聞きたいから』
『うん。俺も、自分が気になったところをちゃんと話してみるよ。彩花さんと一緒に見ると、また違う発見がありそうだね』
二人はそのあと、今日の小さな出来事について少しだけ話した。彩花は姉と買い物へ行った帰りに蕾を見たことを伝え、悠真は琴葉とハクと一緒に庭を歩いたことを話した。
同じ冬の日でも、二人が見ていた景色は違っている。それでも、互いの話を聞くことで、自分の一日にはなかった風景が少しずつ心に加わっていく。
やがて、悠真から明日の天候や寒さに気をつけようというメッセージが届いた。彩花も頷くような気持ちで返事を打ち、最後におやすみと送った。
画面に悠真からの挨拶が表示されると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
◇
同じ夜、悠真は自室で明日の準備を終えていた。鞄には写真集と必要な持ち物を入れ、手帳には待ち合わせの時間と場所が書かれている。日曜日の午後一時半、青凪市立中央図書館の入口。昨日決まった約束は、今も変わらずそこにあった。
悠真は机の椅子へ座り、少しだけ窓の外を眺めた。庭の明かりは控えめで、遠くの木々の輪郭が夜の中に浮かんでいる。
(明日は、彩花さんとまた一緒に本を選べる。写真集を見せるのも楽しみだけど、彩花さんがどんな話をしてくれるのかも楽しみだな)
彼は自分の気持ちを考え、静かに微笑んだ。以前なら、彩花が楽しめるかどうかばかり気にして、自分が何を話したいのか後回しにしていたかもしれない。しかし今は、彼女も自分の好きなものを知りたいと言ってくれている。
だからこそ、明日は少しだけ自分から話してみようと思った。
古い図書館の写真で気になった窓の形や、閲覧室の机の配置。そこに座る人たちがどんな本を読んでいたのかという想像。彩花と一緒に考えてみたいことは、いくつもある。
悠真は机の引き出しを開け、淡い青色の花柄のカードを取り出した。そこには、彩花が以前書いてくれた言葉が残っている。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はその文字を静かに眺めた。あの日受け取ったときの嬉しさは、今も変わっていない。けれど、最近はその言葉を思い出すたびに、自分も彩花へ同じような気持ちを伝えたいと思うようになっていた。
(俺も、彩花さんと話す時間が好きだよ。明日も、その気持ちを大切にしながら過ごしたい)
悠真はカードを丁寧にしまい、引き出しを閉じた。明日の約束を楽しみにしながら、今日はゆっくり休もうと思った。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。今日の出来事を振り返ると、家族と本棚を整理したこと、懐かしい児童書を見つけたこと、凛花と買い物へ行った帰りに蕾を眺めたことが、順番に思い出される。
彩花はペンを持ち、ゆっくり書き始めた。
『今日は家の本棚を整理して、小さい頃に好きだった本を見つけた。遠くの町へ行った主人公が、家族へ手紙を書くお話だった。昔の私も、誰かに見せたいものがあると手紙を書きたくなっていたらしい。今書いている物語と少しつながっている気がして、不思議だった。』
そこまで書くと、彩花は星模様のノートへ目を向けた。祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語は、まだ完成していない。手紙の三行目も決まっていないが、今日見つけた懐かしい本の記憶が、少女の気持ちを考える助けになっていた。
彩花は日記帳へ続きを書いた。
『明日は悠真君と中央図書館へ行く。午後一時半に入口で待ち合わせ。写真集を一緒に見たり、借りた小説の話をしたりするのが楽しみ。前に会ったときより、自分から話したいことが増えている気がする。』
書き終えたあと、彩花はしばらくペンを持ったまま、机の上を見つめた。
悠真と出会った頃は、彼の優しさに戸惑うことも多かった。自分のことを大切に扱ってくれる理由が分からず、どう返せばよいのか迷うこともあった。
今でも、悠真の言葉に照れくさくなることはある。
けれど、それ以上に、彼と話す時間を楽しみにしている自分がいる。
明日、中央図書館の入口で悠真を見つけたら、きっと嬉しくなるだろう。少し緊張するかもしれないが、それも含めて大切な時間になる気がした。
(明日は、ちゃんと自分からも話してみよう。悠真君が見つけた景色を聞くだけじゃなくて、私が見つけたものも伝えたいな)
彩花は日記帳を閉じ、机のライトを消した。
窓の外には、冬の静かな夜空が広がっている。遠くの街灯が淡く光り、住宅街には穏やかな静けさが満ちていた。
明日は日曜日。
午後一時半、青凪市立中央図書館の入口で、悠真と会う約束がある。
彩花はその時間を思い浮かべながら、ゆっくり目を閉じた。明日どんな本に出会えるのか、どんな言葉を交わせるのか、まだ分からない。
けれど、分からないことを楽しみにできるのは、きっと幸せなことなのだろう。
土曜日の夜は静かに更けていった。彩花の胸には、明日へ続く柔らかな期待が、冬の夜の小さな灯りのように残っていた。




