第122話 金曜日の帰り道に見つけた小さな変化と、君に会える日が決まるまで
金曜日の朝、彩花が家を出る頃には、青凪市の空に薄い雲が広がっていた。雲の向こうから差し込む朝日は柔らかく、住宅街の屋根や電線を淡い色に染めている。玄関を出た瞬間に頬へ触れた空気は冷たかったが、風はそれほど強くなく、マフラーを巻いていれば気持ちよく歩けそうだった。
彩花は鞄の持ち手を握り直し、いつもの通学路へ足を向けた。昨日、道沿いの植え込みで見つけた小さな蕾のことが、家を出る前から気になっている。まだ花が咲く季節ではないのかもしれないが、同じ場所をもう一度見てみたいと思っていた。
(昨日は、今まで気づかなかったことに驚いたんだよね。今日は何か変わっているのかな。それとも、昨日と同じ姿なのかな)
角を曲がると、昨日の植え込みが見えてきた。低い枝には小さな蕾がいくつか並び、冷たい朝の空気の中で静かに形を保っている。彩花は通行の邪魔にならない場所で足を緩め、昨日覚えておいた枝先へ目を向けた。
蕾の大きさは、昨日とほとんど変わっていないように見えた。けれど、よく見ると、枝の先に残っていた小さな水滴は消え、表面の色が少しだけ明るくなっている。昨日は曇り空の下で見たため、光の当たり方が違うだけなのかもしれない。
彩花はその違いを、すぐに蕾が成長した証拠だとは決めつけなかった。たった一日で変わるものもあれば、変わったように見えて、実際には自分の見る角度が違うだけのものもある。そう考えると、昨日の国語の授業で話題になった、同じ場所を異なる視点から見るということにもつながる気がした。
(変わっていないことも、ちゃんと見て初めて分かるんだね。毎日少しずつ見ていたら、いつか本当に変わったときに気づけるのかな)
彩花は小さく微笑み、再び歩き始めた。植え込みの前にいたのはほんの短い時間だったが、今朝はその場所を通り過ぎたあとも、枝先の姿が心に残っていた。
学校へ向かう生徒たちの姿が増え、歩道には靴音と話し声が重なっていく。彩花は青葉高校の校門をくぐりながら、今日も文芸部の活動があることを思い出した。冬の部誌は少しずつ完成へ近づいているが、表紙の調整案はまだ紙で比較していない。今日どこまで準備が進むのか、少し楽しみだった。
◇
教室へ入ると、田辺大地が机に向かって何かを書いていた。彩花が挨拶すると、大地は顔を上げ、昨日よりも明るい表情を見せる。
「おはよう、水瀬。昨日はありがとうな。あれから調べ学習の文章を少し書き直してみたら、前よりまとまった気がするんだ」
「おはよう、田辺君。そうなんだ。よかったね。昨日は、昔と今で行事の場所が違うって話してたよね」
彩花が覚えていたことに、大地は嬉しそうに頷いた。机の上には昨日のノートと、新しく書き始めた原稿用の紙が並んでいる。彼はそのうち一枚を少し持ち上げ、書き出しをどう変えたのか説明した。
「最初は行事の歴史を順番に並べてたんだけど、昔の写真を見て驚いたことから始めてみたんだ。そうしたら、自分が何を調べたかったのか分かりやすくなった気がしてさ」
「うん。自分が気になったことから始めると、読む人も一緒に考えやすいと思う。ただ、調べた理由がまだ分からないところは、そのまま分からないって書いてもいいかもしれないね」
大地は原稿へ目を落とし、少し考えるように頷いた。彩花は彼が自分で文章を直していることを嬉しく思いながら、無理に細かいところまで口を出さないようにした。
「そうだな。全部知ってるみたいに書くより、今分かってることをちゃんと伝えた方がいいか。水瀬に聞いてよかったよ」
大地はそう言って笑い、原稿を机へ戻した。彩花は自分の席へ向かいながら、誰かの文章を一緒に考える時間が、文芸部とはまた違う楽しさを持っていることに気づいた。
朝のホームルームが始まると、教室のざわめきは少しずつ静まっていった。窓の外では雲がゆっくり流れ、校庭の木々が冷たい風に揺れている。彩花は教科書を取り出し、今日の授業へ気持ちを切り替えた。
午前中の授業では、短い文章を読んで登場人物の気持ちを考える課題があった。先生は一つの台詞について、言葉そのものだけではなく、その前後の行動や沈黙にも注目するように説明した。
彩花は本文を読みながら、星模様のノートに書いている少女のことを思い出した。祖母へ手紙を書こうとしている少女は、まだ二行しか書けていない。しかし、その二行にたどり着くまでに何を見て、何を考えたのかを描くことで、言葉の意味が少しずつ変わっていく。
(手紙の文章だけを読んだら、庭の花のことを知らせているように見えるかもしれない。でも、あの子が何を思って書いたのか知っていたら、同じ言葉でも違って感じるんだろうな)
彩花はノートへ先生の説明を書き留めながら、言葉の前にある時間を大切にしたいと思った。何かを伝えるために必要なのは、立派な表現を探すことだけではない。そこへ至るまでの気持ちが自然につながっているかどうかも、物語にとって大切なのだろう。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が午前の授業を終えて廊下へ出ていた。窓から差し込む光は弱かったが、校舎の中は暖かく、休み時間の生徒たちの声が階段の方から聞こえてくる。
森川航平が隣へやって来ると、手に持っていたノートを軽く掲げた。
「九条、昨日の図書室で教えてもらった検索の仕方、結構役に立ったよ。駅前の古い写真が載ってる資料、いくつか見つかったんだ」
「それはよかったね。調べたいことに合いそうな資料だった?」
「まだ全部は見てないけど、昔の商店街の写真が載ってるみたいなんだ。今の駅前と比べると面白そうでさ。週末に時間があれば、もう少し調べてみようと思ってる」
航平は楽しそうに話した。最初は調べ学習のテーマを決められずに困っていたが、今は自分から資料を探すことを面白がっている。悠真はその変化を見て、友人の興味が少しずつ形になっていくことを嬉しく感じた。
「航平が気になったところから調べていけば、きっと自分らしい内容になると思うよ。昔と今で変わったところだけじゃなくて、残っているものにも目を向けると面白いかもしれない」
「なるほどな。変わったところばっかり探してたけど、同じ場所に残ってるものもあるか。そういう見方、九条らしいな」
航平は笑いながら頷き、ノートへ短く書き込んだ。悠真はその様子を見ながら、日曜日に彩花と本を選んだときのことを思い出した。
古い町並みの写真を見ていると、どうしても建物の形や使われ方に目が向く。しかし彩花と話しているうちに、そこにいた人たちがどんな時間を過ごしていたのかも気になるようになった。
その変化は、今では自分の中で自然なものになっている。
「そういえば、九条。今日、家の予定が分かるかもしれないって言ってたよな」
航平が話題を変えると、悠真は頷いた。
「うん。父から、今日には少し見通しを伝えられると思うって聞いているんだ。まだ確定したわけじゃないけど、分かったら彩花さんに相談したいと思ってる」
「そっか。うまく予定が合うといいな。まあ、もし今週末が難しくても、また別の日を探せばいいんだし」
航平は気軽に言ったが、その言葉には友人を気遣う気持ちがあった。悠真は微笑みながら、窓の外へ目を向けた。
「そうだね。彩花さんも、無理のない日にしようって言ってくれているから。俺も、会える日を楽しみにしながら待とうと思うよ」
悠真が答えると、航平は少し嬉しそうに笑った。
「前のお前だったら、相手の都合を気にしすぎて、誘うこと自体を遠慮してたかもしれないな」
「そうかもしれないね。でも、彩花さんが俺と一緒に本を選ぶのを楽しみにしてくれているって分かったから、自分の気持ちも伝えていいんだと思えるようになったんだ」
悠真は穏やかに答えた。航平はそれ以上からかわず、友人の表情を見て頷いた。
廊下の向こうから予鈴が聞こえ、二人は次の授業へ向かった。悠真は教室へ戻りながら、今日の夕方には予定について少し分かるかもしれないと考えた。
まだ約束の日は決まっていない。それでも、彩花とまた会いたいと思う気持ちは、以前よりもはっきりしていた。
◇
昼休みの青葉高校では、彩花が弁当を食べながら、近くの席の女子生徒たちと話していた。窓の外には雲の切れ間から少しだけ青空が見え、校庭の端にある木々の影が淡く伸びている。
昨日、地図の違いについて一緒に考えた女子生徒が、弁当箱を閉じながら声をかけてきた。
「水瀬さん、昨日はありがとう。あのあと先生に聞いたら、やっぱり資料によって省略されているところがあるんだって。自分で気づけたのが嬉しかったな」
「ううん、私も一緒に考えられて楽しかったよ。同じ場所でも、見せ方が違うと印象が変わるんだね」
彩花が答えると、女子生徒は頷いた。
「そうそう。それで思ったんだけど、写真もそうだよね。撮る人によって、同じ場所でも全然違う写真になるし」
その言葉に、彩花は日曜日に悠真と見た本を思い出した。古い町並みの写真には、建物全体を写したものもあれば、道の一部や看板に注目したものもあった。撮影した人が何を残したかったのかによって、同じ場所でも違う姿が見えるのだろう。
「うん。写真を撮る人が何を見ていたのか考えるのも面白いかもしれないね。私、最近そういうことを考える機会が増えた気がする」
彩花が言うと、女子生徒は少し不思議そうに首を傾げた。
「何かきっかけがあったの?」
彩花は一瞬だけ言葉を探した。悠真と一緒に本を見たことを話してもよいが、どこまで説明するか少し迷う。けれど、隠さなければならないことではないと思い直した。
「この前、友達と図書館へ行って、昔の町並みの本を見たんだ。そのとき、同じ写真でも気になるところが違っていて、話しているうちに新しい見方ができたの」
「へえ、いいね。そういう話ができる友達がいるのって楽しそう」
女子生徒は素直に微笑んだ。彩花はその言葉に頷きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「うん。私も、すごく楽しかったよ」
それ以上詳しく聞かれることはなかったが、彩花は自分の言葉を思い返して少し照れくさくなった。悠真と過ごした時間を、誰かに自然に話せることが嬉しかった。
午後の授業が始まるまでの短い時間、彩花は窓の外を眺めた。朝見つけた蕾は、今頃も同じ場所で静かに風を受けているだろう。明日も通る機会があれば、また見てみたいと思った。
◇
放課後、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。部室の扉を開けると、佐々木先輩と表紙担当の女子部員が机を囲み、確認用の資料を広げているところだった。
「お疲れさま、水瀬さん。今日は印刷の準備について、少し進展があったの」
佐々木先輩が声をかけると、彩花は鞄を置いて近づいた。
「お疲れさまです。準備が整いそうなんですか?」
「ええ。同じ条件で比較できるように、必要な設定を確認できたの。まだ実際に印刷したわけではないけれど、次の活動で試し刷りを進められそうよ」
彩花は嬉しくなり、机の上の資料へ目を向けた。そこには、紙の種類や印刷する大きさ、確認する調整点が整理されている。変更するのは枝先の濃さと、下部の小さな文字のコントラストだけで、表紙全体の配置は変えない方針が維持されていた。
「よかったです。これなら、元の表紙と調整案をちゃんと比べられそうですね」
「そうね。ただ、印刷してみないと分からないこともあるから、そこでまた確認しましょう。今日の時点では、準備が進んだというところまでね」
佐々木先輩は穏やかに答えた。彩花は頷き、急いで完成を決めない姿勢が変わっていないことに安心した。
表紙担当の女子部員は、画面に表示した二つの案を見比べながら、少し照れくさそうに笑った。
「ここまで来ると、早く紙で見たくなるんだけどね。でも、せっかくみんなで確認してきたから、最後もちゃんと比べたいなって思う」
「うん。私も楽しみ。でも、今まで大切にしてきた空の雰囲気が残っているか、落ち着いて見たいね」
彩花が答えると、女子部員は嬉しそうに頷いた。
そのあと、部員たちは本文の確認用紙を揃え、掲載順や見出しの状態をもう一度確かめた。彩花の作品『いつか、ここに』は、以前確認したとおり詩のあとに配置されている。作者名にも変更はなく、気になっていた見出しの余白についても、意図された配置であることが確認済みだった。
彩花は自分の担当箇所を見ながら、少しずつ完成へ近づいていることを実感した。まだ最終的な表紙は決まっていないが、文章そのものは多くの確認を経て、部誌の中に収まる形になっている。
活動の終わり頃、佐々木先輩が部員たちへ声をかけた。
「来週は試し刷りの確認ができるように進めたいと思っています。ただ、準備の状況によっては少し変わるかもしれないから、今日のところは予定として考えておいてね」
部員たちは頷き、それぞれ資料を片づけ始めた。彩花も確認用紙を順番どおりに重ね、机の端へ揃えた。
完成が近づいていることは嬉しいが、少しだけ寂しさもあった。部誌を作るためにみんなで考え、迷い、話し合ってきた時間が、いつか終わるのだと思うと、その過程そのものが大切に感じられる。
(完成した部誌を読むのも楽しみだけど、こうしてみんなで作っている時間も好きなんだな)
彩花はその気持ちを胸にしまい、部室をあとにした。
◇
学校を出ると、夕方の空には淡い橙色が広がっていた。朝は雲に覆われていたが、今は西の空が明るく、建物の窓に夕日が反射している。
彩花はマフラーを少し直し、帰り道を歩き始めた。通学路の植え込みを通る頃には、朝見た蕾が夕方の光を受けて、少し違う色に見えていた。
彩花は足を緩め、枝先を見つめた。朝と比べても、蕾そのものが大きく変わったようには見えない。それでも、光の向きが変わるだけで、輪郭や色の印象が違っている。
(朝と夕方で、同じ蕾なのにこんなに違って見えるんだ。変わっているのは蕾だけじゃなくて、周りの光や、見ている私の気持ちもなのかもしれない)
彩花はその発見を、悠真に話してみたいと思った。昨日、彼もいつもの道で何か見つけられるかもしれないと言っていた。今日はどんな景色を見たのだろう。
そのことを考えると、帰り道の時間が少し楽しくなった。
◇
九条家へ戻った悠真は、着替えを済ませたあと、父の正樹と話す時間を得た。夕食前の落ち着いた時間で、正樹は手元の書類を片づけながら息子へ視線を向けた。
「悠真、昨日話していた週末の予定だが、確認が取れた。今週末については、少なくとも日曜日の午後に、お前が出席しなければならない家の用事はない」
悠真はその言葉を聞き、少しだけ表情を明るくした。ただし、予定が空いていることと、彩花と会う約束が成立することは別だと理解している。
「ありがとうございます。では、日曜日の午後について、彩花さんに都合を聞いてみてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。相手の予定もあるだろうから、無理のない時間を相談しなさい。もし都合が合わなければ、別の日にすればいい」
正樹は穏やかに答えた。悠真は礼を言い、父が話を続けるのを待った。
「それから、来月の家の予定については、まだ調整中のものがある。そちらは決まり次第伝えるが、今の時点でお前の予定をすべて空けておく必要はない」
「分かりました。ありがとうございます」
悠真は頷いた。今週末の日曜日午後については、家の用事がないことが分かった。一方で、来月の予定はまだ未確定のままだ。
自室へ戻る途中、悠真は窓の外へ目を向けた。庭には夕方の光が残り、ハクがゆっくり歩いている。琴葉は少し離れたところで、その様子を見守っていた。
(彩花さんに、日曜日の午後はどうか聞いてみよう。でも、まずは彩花さんの予定を確かめないと。会えるといいな)
悠真は胸の奥に広がる期待を感じながら、自室へ戻った。
◇
夕食のあと、彩花は自室で星模様のノートを開いていた。今日の帰り道で見た蕾のことが、まだ心に残っている。
少女が祖母へ手紙を書こうとしている場面を読み返すと、庭の花を毎朝見ているという二行目が、昨日までとは少し違って感じられた。
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
その言葉は、花が毎日大きく変化しているという意味だけではないのかもしれない。昨日は気づかなかったことを今日見つけたり、同じものを違う気持ちで眺めたりすることも、少女にとって大切な発見なのだろう。
彩花は手紙の続きを書く前の場面へ、少し文章を加えた。少女は庭の花を見つめながら、祖母が昔、毎朝同じ場所に立っていたことを思い出す。その頃は何をそんなに長く見ているのか分からなかったが、今は自分も同じように、昨日と今日の小さな違いを探している。
少女は、祖母が見つけていたものを全部知ることはできない。それでも、同じ庭を大切に思うことで、離れている時間の中にもつながりが残っていると感じるのだった。
彩花はそこまで書くと、ペンを止めた。
三行目は、まだ書かなかった。
けれど、少女が何を伝えたいのかは、以前より少しずつはっきりしている。祖母の昔の姿を懐かしむだけではなく、今の祖母がどんな景色を見ているのか知りたい。その気持ちが、手紙の続きを自然に生み出してくれるような気がした。
(急がなくてもいいんだよね。あの子が本当に言いたいことを見つけるまで、もう少し一緒に考えてみよう)
彩花はノートを閉じ、机の上の小説へ手を伸ばした。日曜日に借りた、古い駅舎と幼なじみの再会を描く物語は、まだ読み終えていない。
ページを開くと、二人がそれぞれ故郷の景色を見つめる場面が続いていた。片方は駅前の花壇を覚えており、もう片方は駅の時計や待合室のことを思い出している。同じ場所で過ごした時間なのに、記憶の中に残っているものは少しずつ違う。
彩花はその違いを面白く感じながら、ゆっくり読み進めた。
やがて、スマートフォンが小さく震えた。
画面には悠真からのメッセージが届いていた。
『彩花さん、今日もお疲れさま。今日は少し嬉しい報告があるんだ。家の予定を確認できて、日曜日の午後は空いていることが分かったよ。彩花さんの都合がよければ、また中央図書館へ行けないかな』
彩花はその文章を読み、思わず背筋を伸ばした。
日曜日の午後。
先週も、二人で中央図書館へ行った時間だった。
また一緒に本を選べるかもしれないと思うと、胸の奥に温かい期待が広がっていく。
けれど、彩花はすぐに返事を打たなかった。自分の家の予定をまだ確認していないことを思い出したからだ。
『悠真君、教えてくれてありがとう。私もすごく行きたいな。家の予定を確認してから返事してもいい?』
送信すると、すぐに返事が届いた。
『もちろんだよ。急がなくて大丈夫だから、彩花さんの都合を優先してね』
彩花は微笑み、スマートフォンを机へ置いた。
階下では、紗月が台所の片づけをしている音が聞こえている。彩花は部屋を出て、一階へ向かった。
◇
台所では紗月が食器を拭いており、凛花は食卓で雑誌を読んでいた。耕助は居間でテレビを見ていたが、彩花が声をかけると、三人とも自然に顔を向けた。
「お母さん、ちょっと聞いてもいい? 今週の日曜日の午後って、家の予定は何かあるかな」
紗月は手を止め、少し考えた。
「日曜日の午後? 今のところ、家族で出かける予定はなかったと思うけど。どうしたの?」
彩花は少し照れくさくなりながら、悠真から図書館へ誘われたことを伝えた。
「この前、一緒に中央図書館へ行った友達が、また本を見に行かないかって誘ってくれたの。日曜日の午後なら都合がつくみたいで、私も行きたいなって思ってるんだけど」
凛花は雑誌から顔を上げ、妹の表情を見て小さく微笑んだ。
「九条君でしょ? いいじゃない。また一緒に本を選べるんだね」
「うん。でも、まだ決まったわけじゃないよ。家の予定を確認してから返事しようと思って」
彩花が答えると、紗月は優しく頷いた。
「日曜日の午後なら大丈夫よ。午前中に家のことを少し手伝ってもらえたら助かるけど、午後は自由にしていいわ。帰る時間だけ、いつもどおり連絡してね」
「ありがとう、お母さん。午前中のお手伝いはちゃんとするよ」
彩花が嬉しそうに答えると、耕助も居間から声をかけた。
「日が暮れるのが早い季節だから、帰り道だけ気をつけるんだよ。図書館で本を読むのはいいことだけど、時間を忘れすぎないようにな」
「うん。気をつけるね」
彩花は頷いた。家族が自然に送り出してくれることが嬉しく、胸の奥が少し温かくなる。
凛花は妹の顔を見ながら、からかいすぎない程度に笑った。
「楽しみだね、彩花。前に借りた本の話もできるんじゃない?」
「うん。まだ読み終えてないけど、気になったところがいくつもあるの。悠真君も、古い図書館の写真を見せたいって言ってくれてるから」
彩花はそこまで話してから、自分が自然に悠真の名前を出していたことに気づいた。凛花は何も言わず、嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見て、彩花は少し頬を赤くした。
◇
自室へ戻った彩花は、机に座ってスマートフォンを手に取った。悠真からのメッセージは、先ほどのやり取りのまま残っている。
彩花は一度深呼吸をしてから、返事を打ち始めた。
『悠真君、家の予定を確認できたよ。日曜日の午後、大丈夫だって。私もまた一緒に中央図書館へ行きたいな』
送信すると、少しして返事が届いた。
『本当? ありがとう、彩花さん。すごく嬉しいよ。よかったら、前と同じように午後一時半頃に中央図書館の入口で待ち合わせるのはどうかな』
彩花はその文章を読み、日曜日の図書館の入口を思い出した。
待ち合わせの時間が近づくにつれて少し緊張したこと。悠真の姿を見つけた瞬間、胸の奥が温かくなったこと。そして、一緒に本を選ぶうちに、緊張よりも楽しさの方が大きくなっていったこと。
その記憶が、今度の約束へ静かにつながっていく。
『うん、午後一時半で大丈夫だよ。中央図書館の入口で待ち合わせようね』
『ありがとう。じゃあ、日曜日の午後一時半に。前に借りた本の話もできたら嬉しいな』
彩花は画面を見つめながら、ゆっくり微笑んだ。
日曜日の午後一時半。
中央図書館の入口。
今度は、二人とも予定を確認したうえで決めた約束だった。
彩花は胸の奥に広がる嬉しさを感じながら、もう一通メッセージを送った。
『私も楽しみにしてる。悠真君が見つけた古い図書館の写真、ぜひ見せてね。それから、私が読んでる小説のことも、少し話したいな』
悠真からは、すぐに温かい返事が届いた。
『もちろんだよ。彩花さんがどんなところを面白いと思ったのか、聞けるのを楽しみにしているね』
彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、しばらく画面を見つめていた。
また会える日が決まった。
それだけで、明日の土曜日まで少し違って感じられる。
もちろん、図書館へ行くためだけに週末を過ごすわけではない。家の手伝いもあるし、借りた本も読み進めたい。星模様のノートに書いている物語も、少しずつ形にしていきたい。
けれど、その一つ一つの時間の先に、悠真と会える日がある。
(楽しみだな。前に会ったときより、もっと自然に話せるかな。それとも、また少し緊張しちゃうのかな)
彩花は自分の気持ちを考え、少しだけ笑った。
緊張することも、きっと悪いことではない。大切な人と会う時間だからこそ、嬉しさと照れくささが一緒に生まれるのだろう。
◇
同じ夜、悠真は自室の机に座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
彩花から届いた、日曜日の午後は大丈夫だという返事が、まだ画面に残っている。
彼はその文章を読み返し、静かに息をついた。父へ予定を確認し、彩花の都合を聞き、二人で時間と場所を決めた。特別に難しいことをしたわけではないが、自分の希望をきちんと伝えられたことが嬉しかった。
(また彩花さんと一緒に本を選べるんだ。今度は、俺が面白いと思ったところも、もう少し自分から話してみよう)
悠真は机の上の写真集へ目を向けた。古い図書館の閲覧室が載っているページには、しおりが挟んである。日曜日には、その写真を彩花と一緒に見られるかもしれない。
写真の中には、木製の机に向かう人々の姿がある。建物の形や歴史だけでなく、そこにいた人たちが何を感じていたのか、彩花ならどんなふうに考えるだろう。
その答えを想像するだけで、胸の奥が温かくなった。
悠真は手帳を開き、日曜日の欄へ小さく予定を書き込んだ。
『午後一時半 青凪市立中央図書館入口 彩花さん』
文字を書き終えると、悠真はペンを置き、しばらくその一行を眺めた。
約束が形になるというのは、不思議なことだった。昨日までは、また会えたらいいという願いだったものが、今は日付と時間を持っている。
もちろん、当日まで何があるか分からない。天候や体調によって予定を変える必要が生じることもあるだろう。
それでも、今はその日を楽しみにしていていい。
悠真はそう思いながら、手帳を閉じた。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を振り返ると、朝見た小さな蕾、学校で話した文章のこと、文芸部で進んだ表紙の準備が順番に思い出される。どれも大きな出来事ではなかったが、一日を通して自分が何を大切に見ていたのかが、少しずつ分かるような気がした。
彩花はペンを持ち、ゆっくり書き始めた。
『朝、昨日見つけた蕾をもう一度見た。大きさはほとんど変わっていなかったけれど、朝と夕方では光の当たり方が違って、少し別のものみたいに見えた。毎日見ているからこそ分かることもあるし、同じものを違う気持ちで見ることもあるんだと思った。』
そこで一度ペンを止め、スマートフォンへ目を向けた。
日曜日の約束が決まったことを思い出すと、自然に頬が緩んだ。
彩花は日記帳へ続きを書いた。
『悠真君と、また中央図書館へ行く約束をした。日曜日の午後一時半、入口で待ち合わせる。前に借りた本の話をしたり、悠真君が見つけた古い図書館の写真を見たりするのが楽しみ。今度は、私が今日見つけた小さな蕾のことも話してみたい。』
書き終えると、彩花はしばらく日記帳を見つめた。
悠真と初めて図書館で出会った頃は、こんなふうに次の約束を楽しみにする日が来るとは思っていなかった。あの頃は、彼の優しさに驚くことも多く、どうして自分にそこまで気を配ってくれるのか分からずに戸惑うこともあった。
今でも、悠真の言葉に驚いたり、照れくさくなったりすることはある。
けれど、それだけではなくなっていた。
自分から話したいことがある。
自分から会いたいと思う。
そして、その気持ちを少しずつ言葉にできるようになっている。
(悠真君と会える日が決まって、こんなに嬉しいんだね。私、やっぱり悠真君のことが好きなんだな)
彩花は胸の奥に広がる温かさを感じながら、日記帳を閉じた。
机の上には星模様のノートと、日曜日に借りた小説が並んでいる。少女の手紙はまだ二行のままで、物語も完成していない。けれど、その途中で見つけたことが、少しずつ文章へつながっている。
彩花はライトを消し、ベッドへ入った。
明日は土曜日。
そして、その次の日には悠真と会える。
窓の外には冬の静かな夜空が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。
彩花は目を閉じながら、中央図書館の入口で悠真と再び会う場面を思い浮かべた。彼がどんな表情で挨拶してくれるのか、どんな本を一緒に見つけられるのか、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ楽しみだった。
金曜日の夜は静かに更けていった。彩花の胸には、次の日曜日へ続く小さな期待が、柔らかな灯りのように残っていた。




