第119話 伝えたい言葉を探す火曜日と、冬の空に見つけた約束
火曜日の朝、彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうでは細い雨が降っていた。
昨夜、眠る前に見た天気予報では、朝のうちに弱い雨が降るかもしれないと言っていた。けれど実際に窓辺へ近づいてみると、空は思っていた以上に低く、隣家の屋根を濡らす雨粒が、灰色の景色に細かな線を引いている。
彩花はカーテンを少し開けたまま、窓ガラスを伝う水滴を眺めた。雨の日は通学が少し大変になるものの、静かな部屋で雨音を聞いている時間は嫌いではない。
(昨日は、あんなに穏やかな夕方だったのに。たった一日で、空の色ってこんなに変わるんだね)
机の上には、日曜日に悠真と一緒に選んだ小説と、星模様のノートが並んでいた。
昨夜は借りた小説を少し読み進めたあと、悠真とメッセージを交わした。彼が「昨日の時間が、今日の中にも残っている感じがする」と送ってくれた言葉を思い出すと、彩花の頬には自然と笑みが浮かぶ。
昨日は、図書館へ一緒に行った翌日だった。今日はその次の日で、学校ではいつもどおりの授業が待っている。それでも、日曜日の出来事が遠ざかっていくようには感じられなかった。
むしろ、一緒に見た本の内容が日々の会話へつながるたび、あの時間が少しずつ自分の生活になじんでいくようだった。
彩花は机の上の小説へ目を向けた。
古い駅舎を舞台にした物語では、故郷へ戻った二人が、それぞれ違う思い出を抱えている。昨夜読んだところでは、主人公の一人が駅前の花壇を見つめ、幼い頃に誰かと植えた花の名前を思い出そうとしていた。
同じ花壇を見ていても、覚えていることは人によって違う。
その描写が、今朝の雨と重なった。
(悠真君なら、この雨を見て何を思うんだろう。私は窓の水滴が気になるけど、悠真君は街の建物とか、道路の色が変わることに気づくのかな)
そこまで考えて、彩花は少し恥ずかしくなった。
以前の自分なら、朝の天気を見て、離れた場所にいる誰かのことをこんなふうに考えることはなかっただろう。
けれど、今は違う。
自分が見たものを伝えたい相手がいる。そして、相手が何を見たのか知りたいと思う。
それは、思っていた以上に日常の景色を変えることだった。
彩花は窓を閉め、制服へ着替えるためにクローゼットへ向かった。雨音はそのあいだも途切れることなく、朝の静かな部屋を満たしていた。
◇
一階へ降りると、食卓には温かい朝食が並んでいた。
母の紗月が台所で弁当の準備をしており、父の耕助は窓の外を見ながら、傘立てに置いてある傘の本数を確認している。姉の凛花は椅子に座り、湯気の立つお茶を飲んでいた。
「おはよう、彩花。今日は雨だから、いつもより少し早く出た方がいいかもしれないわね」
紗月が振り返って言うと、彩花は頷いた。
「おはよう、お母さん。うん、そうする。靴も濡れそうだし、ゆっくり歩いていくね」
「そうしてちょうだい。急いで転んだら大変だから」
彩花が席へ座ると、凛花がこちらを見た。
「昨日は本を読んでたんでしょ。どうだった? 続き、面白くなってきた?」
「うん。まだ大きな出来事は起きてないんだけど、二人が覚えている故郷の景色が違っていて、それが気になるの。片方は駅の時計をよく覚えていて、もう片方は駅前の花壇のことを覚えてるんだ」
彩花が説明すると、凛花は少し考えるように首を傾げた。
「へえ。同じ場所にいたのに、見ていたものが違うんだね。でも、そういうのって現実でもあるかも。家族旅行の写真を見返すと、お父さんが覚えてることと私が覚えてること、結構違うし」
「そうなの?」
「うん。お父さんは道が混んでいたとか、駐車場を探すのが大変だったとか、そういうことを覚えてるんだよね。私は途中で食べたお菓子とか、見つけたお店のことばっかり」
凛花が笑うと、耕助も苦笑した。
「運転していた側と、後部座席で景色を見ていた側の違いかな。でも、凛花が覚えている話を聞くと、あの日はそんなこともあったんだなと思い出せるよ」
彩花はその言葉を聞き、少しだけ箸を止めた。
同じ出来事でも、一人では覚えていない部分がある。けれど、誰かと話すことで、自分の記憶にも新しい色が加わる。
日曜日に悠真と図書館で過ごした時間も、きっとそうなのだろう。
自分は小説の棚で話したことを強く覚えているけれど、悠真は歴史や文化の本を見たときのことを、もっと詳しく覚えているかもしれない。
「そういうの、いいね。自分が忘れていたことを、誰かが覚えていてくれるのって」
彩花が言うと、紗月が味噌汁を置きながら微笑んだ。
「そうね。だから、家族で昔の話をするのも楽しいのかもしれないわ。みんな少しずつ違うところを覚えているから」
彩花は頷き、朝食を食べ進めた。
何気ない会話だったが、今朝はその言葉がいつもより深く心に残った。
◇
雨の中を歩いて青葉高校へ到着すると、昇降口には濡れた傘を持つ生徒たちが集まっていた。
傘立ての周囲では水滴が床へ落ち、何人かの生徒が靴の裏を気にしながら上履きへ履き替えている。彩花も傘を丁寧に閉じ、周囲へ水が飛ばないようにしてから、いつもの場所へ収めた。
教室へ入ると、窓際の席にいた田辺大地が振り返った。
「おはよう、水瀬。今日の雨、思ったより冷たいな。途中で手がかじかんだよ」
「おはよう、田辺君。私も、傘を持ってる手が冷たくなっちゃった。風が強くなくてよかったけど」
彩花が答えると、大地は頷いた。
「それは助かったな。妹なんか、朝から長靴で行きたいって言ってたよ。もう長靴を履く歳でもないだろって思ったんだけど、本人は雨の日しか履けないからって譲らなくてさ」
大地は少し呆れたように言ったが、その表情には妹を気にかける兄らしい優しさがあった。
「いいと思うよ。雨の日だけ使うものって、ちょっと特別な感じがするし」
「そう言われると、確かにな。妹も同じこと言ってたよ。水瀬はそういう気持ち、分かるんだな」
彩花は微笑んだ。
「うん。私も小さい頃、雨の日にだけ使う傘が好きだったから。晴れの日には使えないのが、少し残念なくらいだったよ」
その言葉に、大地は笑った。
「なんか分かる気がしてきた。帰ったら妹に、好きな長靴を履けてよかったなって言ってやるか」
彩花は席へ座りながら、朝の会話を思い返した。
雨の日は少し面倒だと思っていたけれど、誰かにとっては楽しみにしていた日でもある。
同じ天気でも、感じ方は一つではない。
そんなことを考えているうちに、朝のホームルームが始まった。
午前中の授業では、先生の説明を聞きながらノートを取り、分からないところには印をつけた。窓の外では雨が降り続いていたが、教室の中には暖房の温かさがあり、時折聞こえる雨音が授業の声と重なっていた。
国語の授業では、短い随筆の一節を取り上げ、書き手が同じ場所を時間を置いて訪れたとき、何を違って感じたのかを考える時間があった。
彩花は本文を読みながら、昨日の小説のことを思い出した。
書き手は、子どもの頃には広く感じていた庭が、大人になって訪れると意外に小さかったことに驚いている。しかし、庭が小さくなったわけではない。変わったのは、自分の身体や、そこを見る気持ちの方だった。
先生は黒板へいくつかの言葉を書きながら、生徒たちへ問いかけた。
「では、この文章の書き手は、昔の庭と今の庭のどちらを大切にしていると思いますか。本文の表現をもとに考えてみましょう」
教室では何人かの生徒が手を挙げ、それぞれの考えを述べた。
昔の庭の方が好きなのではないかという意見もあれば、今の庭を見て初めて昔の思い出を理解できたのではないかという意見もあった。
彩花はその話を聞きながら、自分のノートへ小さく書き込んだ。
『景色が変わったのではなく、見ている人が変わったから気づくこともある。』
それは、以前にも考えたことのある内容だった。
けれど今日は、そこにもう一つの考えが浮かんでいた。
(自分が変わったことを、誰かに話せたら。その人が覚えている昔の自分と、今の自分をつなげてもらえるのかもしれない)
彩花はその考えをすぐには書き込まず、授業の続きを聞いた。
今はまだ、うまく言葉にできない。
けれど、その曖昧さも大切にしておきたかった。
◇
昼休みになると、雨は少し弱くなっていた。
彩花は弁当を食べながら、窓の外を眺めた。校庭の端にある木々は雨に濡れて色が濃くなり、枝先から落ちる水滴が、下の植え込みへ小さな輪を作っている。
近くの席の女子生徒が、弁当箱を閉じながら声をかけてきた。
「水瀬さん、昨日話してた手紙の本、ちょっと気になって調べてみたんだ。中央図書館にあるみたいだから、今度行ってみようかなって」
「本当? 写真が多くて読みやすそうだったよ。私も全部は見られなかったから、また読んでみたいな」
彩花が答えると、女子生徒は嬉しそうに笑った。
「私、昨日帰ってから祖母に電話したんだけど、昔の手紙の話をしたらすごく喜んでくれて。今度、実際に見せてもらえることになったんだ」
彩花は少し驚いた。
「そうなんだ。よかったね」
「うん。電話だけでも喜んでくれたのが意外でさ。そんなに特別な話をしたわけじゃないのに、昔のことを聞いてくれて嬉しいって言ってた」
女子生徒は照れくさそうに笑った。
「だから、今度会ったときに、もう少しゆっくり話を聞こうかなって思ってる」
彩花はその言葉を聞きながら、昨日メモした内容を思い出した。
手紙は、書く人の気持ちだけでなく、受け取る人の時間にも届く。
そして、話を聞くこともまた、相手の時間を大切にすることなのかもしれない。
「きっと、おばあさんも楽しみにしてると思う。昔のことを覚えていて、誰かに話せるのって嬉しいことだよね」
彩花が言うと、女子生徒は頷いた。
「そうだね。水瀬さんと話してなかったら、こんなこと考えなかったかも。ありがとう」
「ううん。私も、話を聞けて嬉しかったよ」
会話が終わったあと、彩花はしばらく考えていた。
自分の書いている物語の少女は、遠くに住む祖母へ手紙を書こうとしている。
けれど、少女は祖母の今の暮らしをどれくらい知っているのだろう。
昔、一緒に庭を眺めたことは覚えている。写真の中の笑顔も、大切にしている。
それでも、離れて暮らす今の祖母が何を楽しみにしているのか、どんな景色を見ているのかは、まだ知らない。
(あの子は、昔のおばあちゃんだけじゃなくて、今のおばあちゃんのことも知りたいんだよね)
彩花は胸の奥で、その考えが静かに形を持ち始めるのを感じた。
手紙の三行目は、まだ決まっていない。
けれど、何を書きたいのかは、少しずつ見えてきた気がした。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が昼休みの教室で本を開いていた。
日曜日に中央図書館で借りた、古い町並みについての本だった。
ページには昔の商店街の写真が載っており、同じ場所を現在の写真と比較できるようになっている。建物の形が変わったところもあれば、道路の幅や並木の位置がほとんど変わっていないところもあった。
悠真は写真を見比べながら、彩花が昨日話していたことを思い出した。
人が暮らしていた場所には、その人たちの時間が残っている。
それは、建物の形や歴史だけを見ていた頃には、あまり意識していなかったことだった。
「九条、また本読んでるのか」
声をかけてきた航平が、悠真の隣の席へ腰を下ろした。
「うん。日曜日に借りた本だよ。昔の町並みを写真で比較できるんだけど、思っていたより面白くて」
「へえ。どんなところが?」
航平が身を乗り出すと、悠真は開いていたページを少し傾けた。
「この商店街、昔は道路の真ん中に大きな木があったみたいなんだ。でも、今の写真ではなくなっていて、代わりに歩道が広くなっている。便利になった一方で、昔の人にとっては大切な目印がなくなったのかもしれないね」
航平は二枚の写真を見比べた。
「確かに、同じ場所には見えないな。でも、店の並びはちょっと残ってるのか」
「そうなんだ。全部が変わったわけじゃないところも、面白いと思う」
悠真が答えると、航平はしばらく写真を眺めてから口を開いた。
「こういうの見てるとさ、昔からそこに住んでる人に話を聞いてみたくなるな。写真だけじゃ分からないこともありそうだし」
悠真はその言葉に頷いた。
「俺もそう思った。写真には建物が写っているけど、そこにいた人が何を感じていたかまでは分からないから」
「そう考えると、歴史って建物とか年号だけじゃないんだな」
航平はそう言って笑った。
「まあ、俺はテストに出る年号を覚えるだけでも大変なんだけど」
悠真も小さく笑った。
「それは俺も同じだよ。でも、こういう本を読むと、少し違う見方ができる気がする」
航平は本を閉じようとする悠真を見て、ふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日の話だけどさ。水瀬さんとは、また図書館に行く予定あるのか?」
悠真は少し考えた。
「まだ決めていないよ。日曜日は一緒に本を選べて楽しかったけど、次の予定までは話していないんだ」
「そっか。でも、お互いに本が好きなら、また行く機会はありそうだな」
「うん。そうだと嬉しいね」
悠真は穏やかに答えたが、胸の奥には小さな期待が生まれていた。
日曜日の図書館で、彩花は何度も楽しそうに笑っていた。
小説の棚で好きな作品を見つけたときも、文化関係の本を一緒に見たときも、彼女は自分の感じたことを丁寧に言葉へしてくれた。
その表情を、また見たいと思う。
(次は、どんな本を一緒に選べるだろう。今度は彩花さんが気になっている棚を、もっとゆっくり見てもいいかもしれない)
悠真は本を閉じ、しおりを挟んだ。
まだ具体的な約束はない。
けれど、また会いたいと思う気持ちは、昨日よりも少しはっきりしていた。
◇
午後の授業が終わる頃には、雨はほとんど上がっていた。
青葉高校の廊下には、部活動へ向かう生徒たちの声が響いている。彩花は鞄を持って文芸部の活動場所へ向かった。
部室では、佐々木先輩が冬の部誌の確認用資料を広げていた。
「水瀬さん、お疲れさま。今日は表紙の調整案を少し見てもらいたいの。まだ最終決定ではないんだけど、昨日より比較しやすくなったから」
「お疲れさまです。はい、ぜひ見たいです」
彩花が答えると、表紙を担当している女子部員が画面をこちらへ向けた。
そこには、冬の淡い空を背景にした表紙が表示されていた。
枝先の線は以前より少しだけ見えやすくなっており、下部の小さな文字も背景から浮き上がりすぎない程度に調整されている。
ただし、表紙全体の印象は大きく変わっていなかった。
広い冬空の余白と、静かな季節の空気が残されている。
「前より枝先が見つけやすくなりましたね。でも、空の広さはそのままで、すごくきれいだと思います」
彩花が言うと、女子部員は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。そこを一番気にしてたんだ。枝を濃くしすぎると、冬の静かな感じが変わっちゃうから」
佐々木先輩も頷いた。
「そうね。下の文字も読みやすくなっていると思う。ただ、画面で見るのと印刷したときでは印象が違うこともあるから、もう少し確認しましょう」
彩花は画面を見つめながら、静かに頷いた。
表紙の調整は、ほんの小さな違いだった。
けれど、その小さな違いを大切にしているからこそ、全体の雰囲気が守られている。
女子部員は画面を元のデータへ切り替え、二つの案を見比べられるようにした。
「元の方も残してあるから、必要なら戻せるよ。まだ完成って決める段階じゃないし、焦らず見ていきたいんだ」
「うん。その方がいいと思う。どちらにもよさがあるから、ちゃんと比べたいね」
彩花が答えると、女子部員は安心したように笑った。
そのあと、佐々木先輩が別の確認用資料を取り出した。
「それから、前に気になっていた見出しの余白のことだけど、文章の欠落や順番の間違いはなかったわ。配置の見え方による違いみたいだから、今は全体のバランスを確認しているところよ」
「分かりました。内容に問題がなかったなら、少し安心しました」
彩花はそう答えた。
自分が気づいた違和感が、必ずしも修正すべき誤りではなかったことも、よい経験になったと思う。
大切なのは、気になったことを見過ごさず、確認すること。そして、確認した結果をもとに、必要な判断をすることなのだ。
部誌の制作は、まだ続いている。
けれど、少しずつ形になっていく過程を見られることが、彩花には嬉しかった。
◇
文芸部の活動が終わると、彩花は校舎を出た。
雨はすっかり上がり、空には薄い雲の切れ間が見えている。濡れた歩道には夕方の光が反射し、街路樹の枝先には小さな水滴が残っていた。
彩花は傘を鞄の横へ持ち替え、ゆっくり歩き始めた。
朝は灰色だった町が、夕方には少し明るく見える。
同じ道なのに、時間が違うだけで印象が変わることが面白かった。
交差点で信号を待っていると、道路の向こうに小さな花壇が見えた。雨に濡れた土の色が濃くなり、冬の花が風に揺れている。
彩花はその花壇を見つめながら、星模様のノートに書いている少女のことを思い出した。
少女は、遠くに住む祖母へ庭の花のことを伝えようとしている。
けれど、花が咲きそうだという事実だけではなく、毎朝それを見つめている自分の時間も、祖母へ届けたいのかもしれない。
(おばあちゃんは、今どんな花を見ているんだろう。あの子は、それを聞いてみたいんだよね)
彩花は信号が青へ変わるのを確認し、歩き始めた。
その考えは、まだ文章になっていなかった。
けれど、今日のうちに少し書いてみたいと思った。
◇
帰宅した彩花は、夕食までの時間を使って星模様のノートを開いた。
机のライトをつけると、白いページが柔らかな光に照らされた。窓の外では雨雲が少しずつ流れ、遠くの空には夕暮れの淡い色が残っている。
彩花はこれまで書いた文章を読み返した。
少女が庭の花を見つめる場面。
祖母と一緒に過ごした昔の時間を思い出す場面。
写真の中で微笑む祖母を見て、懐かしさと寂しさが同時に胸へ広がる場面。
そして、手紙を書こうとして、二行だけ言葉を並べた場面。
『おばあちゃん、庭の花がもうすぐ咲きそうです。』
『毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかります。』
彩花はその二行を見つめた。
これまで、少女が何を伝えたいのかを考えてきた。
けれど今日は、少し違うことを考えている。
少女は祖母へ何を聞きたいのだろう。
遠くに住む祖母のことを、どれくらい知っているのだろう。
彩花はペンを持ち、手紙を書く前の場面へ新しい文章を加え始めた。
少女は机の上の写真を見つめながら、祖母が今も朝になると庭へ出ているのかを考える。昔はいつも一緒に花を見ていたけれど、離れて暮らすようになってから、祖母がどんな一日を過ごしているのか、詳しく聞く機会は少なくなっていた。
電話では元気だと聞いている。
けれど、元気だという言葉だけでは分からないことがある。
今日、どんな花を見つけたのか。
どんな空を眺めたのか。
何を食べて、どんなことを楽しいと思ったのか。
少女はそれを知りたいと思った。
彩花はそこまで書くと、ペンを止めた。
以前より、少女の気持ちが少しはっきりした気がする。
少女は自分の寂しさを伝えるだけではなく、祖母の今の時間を知りたいと思っている。
それは、離れているからこそ生まれる気持ちなのかもしれない。
(私も、悠真君が今日どんな一日を過ごしたのか知りたい。昨日一緒にいたから、今日のことも気になるんだ)
彩花はその考えに少し照れくさくなった。
自分の物語の中に、今の自分の気持ちが少しずつ入り込んでいる。
それが悪いことだとは思わなかった。
むしろ、誰かを大切に思う気持ちを知ったからこそ、以前より丁寧に書けることがあるのかもしれない。
彩花は手紙の二行をもう一度読み返した。
三行目は、まだ書かなかった。
ただ、その前に置く文章が少し増えたことで、少女が次に何を言いたいのか、以前より自然につながるようになった気がした。
彩花はノートの端へ小さく書き留めた。
『伝えたいことだけでなく、知りたいことも手紙になる。』
書き終えると、胸の奥に静かな満足感が広がった。
まだ完成ではない。
けれど、今日の自分に書けるところまでは進めたと思えた。
◇
その頃、悠真は九条家の自室で、借りてきた本を読んでいた。
窓の外には夕暮れが広がり、庭の木々は雨に濡れたまま静かに揺れている。机の上には古い町並みの写真集が開かれ、ページにはかつての商店街の様子が載っていた。
悠真は写真を見比べながら、昼休みに航平と話したことを思い出した。
建物の形や道路の広さだけではなく、そこに暮らしていた人たちの時間を想像する。
それは、彩花と一緒に本を見たことで生まれた、新しい視点だった。
ページをめくると、昔の図書館の写真が載っていた。
木製の机が並ぶ閲覧室には、窓から光が差し込み、何人かの人が本を読んでいる。現在の図書館とは設備も雰囲気も違うが、本を開いて過ごす時間そのものは、どこか似ているように感じられた。
(彩花さんなら、この写真を見てどんなことを思うだろう。昔の人も、今の俺たちと同じように、本を選ぶ時間を楽しんでいたのかな)
悠真は写真の説明文を読みながら、日曜日の図書館を思い出した。
窓際の席に並んで座ったとき、彩花は本を開く前に、少しだけ嬉しそうに微笑んでいた。
その表情が、今もはっきり思い出せる。
悠真は本を閉じ、しおりを挟んだ。
次に会えたとき、この写真のことを話してみたい。
彩花なら、きっと自分とは違うところに気づいてくれるだろう。
そう考えると、自然に笑みが浮かんだ。
部屋の外からは、家の中を行き交う足音が聞こえている。遠くでは妹の琴葉が何かを話している声もした。
悠真は窓の外へ目を向けた。
雨上がりの庭には、淡い夕方の光が残っている。
日曜日に一緒に過ごした時間は、まだ新しい記憶だった。
けれど、その記憶が今日の自分の考え方を少し変えていることを、悠真は感じていた。
◇
夜、夕食を終えた彩花は、机の上のスマートフォンを手に取った。
画面には悠真からのメッセージが届いていた。
『彩花さん、今日もお疲れさま。朝は雨だったけど、帰る頃には少し晴れていたね。学校から帰る途中、濡れた道に夕方の空が映っていて、きれいだったよ』
彩花は微笑みながら返事を打った。
『悠真君もお疲れさま。私も帰り道で、雨上がりの空を見たよ。朝とは全然違う色で、同じ一日なのに不思議だなって思ったんだ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『同じことを感じていたんだね。俺は今日、日曜日に借りた本を読んでいたんだけど、昔の図書館の写真が載っていて、彩花さんにも見せたくなったよ』
彩花はその文章を読み、少し驚いた。
『昔の図書館? どんなところだったの?』
『木製の机が並んでいて、窓から光が入る閲覧室だったよ。今とは雰囲気が違うけど、本を読んでいる人たちの様子を見ていたら、日曜日のことを思い出したんだ』
彩花は画面を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
悠真も、日曜日のことを思い出していた。
自分だけではない。
離れた場所で別々の一日を過ごしていても、同じ時間を大切に思っている。
『素敵だね。昔の図書館も、きっと本を読むのが好きな人たちにとって、大切な場所だったんだろうな。私もその写真、見てみたい』
『今度会えたときに、見せるね。彩花さんがどんなところに気づくのか、聞いてみたいんだ』
その言葉に、彩花の指が少し止まった。
今度会えたとき。
自然な言葉だった。
けれど、彩花の胸には小さな期待が生まれた。
(また会いたいって思ってくれてるんだね。私も、悠真君に会いたい)
彩花は少し迷ってから、ゆっくり返事を打った。
『うん、楽しみにしてる。私も、また悠真君と一緒に本を見たいな。日曜日、本当に楽しかったから』
送信したあと、彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、返事を待った。
いつもより少しだけ、心臓の音が気になった。
やがて画面が明るくなる。
『俺も同じだよ。彩花さんと一緒に本を選ぶ時間が、すごく好きだった。また都合が合う日に、中央図書館へ行けたら嬉しいな』
彩花はその文章を何度も読み返した。
まだ次の日程が決まったわけではない。
けれど、二人ともまた一緒に行きたいと思っている。
そのことが、彩花には何より嬉しかった。
『うん。お互いの予定が合う日を、また相談しようね』
『そうだね。無理のない日に、ゆっくり行こう』
彩花はほっと息をついた。
日曜日の約束が終わっても、また次の時間を楽しみにしていいのだと思えた。
そのあと、二人は今日読んだ本のことを少し話した。
彩花は古い駅舎の物語で、二人がまだ再会していないことを伝えた。悠真は、昔の商店街の写真を見て、そこに暮らしていた人たちのことを考えるようになったと話した。
互いの話を聞きながら、彩花は今日の学校での出来事も思い出した。
友達が祖母へ電話をしたこと。
その会話が、自分の創作にも少しつながったこと。
彩花はそこまで詳しくは話さなかったが、今日、手紙について考える機会があったことを伝えた。
『今日、学校で昔の手紙の話になったんだ。誰かに言葉を届けるって、書く側だけじゃなくて、受け取る側の気持ちも大切なんだなって思ったよ』
悠真からは、少し間を置いて返事が届いた。
『そうだね。手紙でもメッセージでも、相手が読んでくれることを考えると、言葉の選び方が変わる気がする。彩花さんからの言葉も、俺はいつも大切に読んでいるよ』
彩花はその文章を見つめ、頬が熱くなるのを感じた。
悠真は、自分の言葉を大切にしてくれている。
以前から何度も感じていたことだったが、こうしてはっきり伝えられると、やはり胸が温かくなる。
『ありがとう。私も、悠真君からの言葉を大切にしてるよ。今日も話せて嬉しかった』
『俺も嬉しかった。明日も学校があるし、そろそろ休もうか。おやすみ、彩花さん』
『おやすみなさい、悠真君』
やり取りを終えたあと、彩花はスマートフォンを机へ置いた。
窓の外では雲が薄くなり、夜空の一部に星が見えていた。
彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を書き留めた。
『雨の日の朝は少し寒かったけれど、帰り道には空が明るくなっていた。学校で手紙の話を聞いて、誰かへ伝えたいことだけじゃなく、相手の今を知りたい気持ちも大切なんだと思った。悠真君も、また一緒に図書館へ行きたいと言ってくれた。まだ予定は決まっていないけれど、その日を楽しみにしている。』
書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。
机の上には、星模様のノートと借りてきた小説が並んでいる。
どちらも、まだ途中だった。
けれど、途中だからこそ、これから見つけられるものがある。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ向かった。
雨上がりの夜は静かで、窓の向こうには淡い星の光が残っていた。
明日も、きっと新しい一日になる。
そして、その一日の中で見つけたことを、また悠真へ話せる。
そう思いながら、彩花はゆっくり目を閉じた。




