第120話 冬の図書館へ続く水曜日と、まだ渡していない言葉
水曜日の朝、青凪市の空には昨夜の雨を洗い流したような青さが広がっていた。水瀬彩花がカーテンを開けると、向かいの家の屋根にはまだわずかな湿り気が残り、低い朝日を受けた雨樋が細く光っている。昨日の帰り道には濡れていた街路樹の枝も、今朝は冷たい風に揺れながら、乾いた影を歩道へ落としていた。
彩花は窓辺でしばらく外を眺め、それから机の上へ目を移した。日曜日に悠真と選んだ小説には、昨夜挟んだしおりが少しだけ顔を出している。隣に置いた星模様のノートには、遠くに暮らす祖母へ手紙を書こうとする少女の物語が、まだ完成しないまま続いていた。
(昨日は、あの子が何を聞きたいのか少し分かった気がした。でも、分かったからって、すぐ手紙の続きを書けるわけじゃないんだよね)
彩花はノートを開きかけ、時計を見て手を止めた。朝の支度を後回しにしてしまえば、せっかく余裕を持って起きた意味がなくなる。考えたことは忘れないように小さな付箋へ書き留め、制服へ着替えることにした。
階下からは食器の触れ合う音と、母の紗月が父の耕助へ何かを尋ねる声が聞こえてくる。いつもと変わらない家の音が、少し冷えた部屋に温かさを運んできた。
食卓では、姉の凛花が温かいお茶を飲みながら、窓の外を見ていた。彩花が挨拶をすると、凛花は笑顔で振り返り、昨日よりずいぶん明るくなった空を指さした。
「おはよう、彩花。今日は傘を持たずに済みそうだね。昨日、帰りに靴が濡れたって言ってたけど、ちゃんと乾いた?」
「おはよう。うん、玄関で乾かしておいたから大丈夫。昨日の雨は冷たかったけど、帰る頃には空がきれいだったよ」
「そういえば、昨日の夜も机で何か書いてたでしょ。部誌の原稿じゃなくて、自分の物語の方?」
彩花は椅子に座りながら頷いた。凛花は以前から、彩花が星模様のノートに物語を書いていることを知っている。ただし、細かな文章まで読んだことはなく、彩花もまだ完成するまでは自分の中で育てておきたいと思っていた。
「うん。まだ手紙の続きを書けていないんだけど、書こうとしている子の気持ちは少し分かってきたの。遠くにいる大切な人へ、自分のことを伝えるだけじゃなくて、相手のことも知りたいんだと思う」
凛花は湯飲みを置き、急いで答えを出さずに妹の言葉を受け止めた。紗月が味噌汁を運んでくる間、食卓には炊きたてのご飯の香りが広がり、耕助も新聞から顔を上げている。
「それって、手紙を書く理由としてすごく自然な気がするな。会えない時間があると、自分の話もしたいけど、向こうがどんな毎日を過ごしてるか気になるもんね」
「うん。でも、あの子がどういう言葉でそれを聞くのかは、まだ迷ってる。あまり急に立派なことを言わせたくなくて」
「だったら、今は迷っててもいいんじゃない? 彩花が書いてる子なんだから、その子が普段どんな言い方をするのか、もう少し考えてみたら」
凛花は気軽に言ったが、彩花にはその助言が思いのほか響いた。伝えたい内容を先に決めすぎると、少女自身の声ではなく、書き手が用意した答えを話させてしまうかもしれない。自分が大切にしたいのは、遠くにいる祖母を思いながら、ためらいも含めて言葉を探す少女の姿だった。
「ありがとう、お姉ちゃん。今日は、その子がどんなふうに話すのか考えてみる」
「うん。あ、でも学校でずっと考えて、授業のノートを真っ白にしないようにね」
凛花がいたずらっぽく笑うと、彩花も思わず笑ってしまった。耕助は二人のやり取りを聞きながら、温かい味噌汁に口をつけ、紗月は弁当箱の蓋を確かめている。朝の時間は限られていたが、話を途中で切り上げられたような寂しさはなかった。
彩花は食事を終えると、忘れ物を確認して家を出た。玄関先の空気は予想以上に冷たく、マフラーへ顎を埋めたとき、頬に触れる布の柔らかさが心地よかった。
◇
青葉高校へ向かう道では、昨日の雨を覚えているように、歩道の端に小さな水たまりが残っていた。彩花は濡れた場所を避けながら歩き、街路樹の下に落ちた葉の色を見つめた。茶色い葉の中に、まだ赤みを残した一枚が混じっている。
以前、悠真と一緒に歩いた川沿いの道にも、こうした葉が落ちていた。あの日は風の音や川面の光を見ながら、季節が変わることについて話したのだった。
(また一緒に歩けたらいいな。でも、次に会うときは図書館でもいいし、どこかで少し話すだけでも嬉しい)
昨日の夜、二人はまた中央図書館へ行けたらいいと話した。ただし、具体的な日付は決まっていない。彩花はそれを急ぐ必要はないと思っていたが、予定が決まるまで自分から何も言えないわけでもないのだと、少しずつ感じ始めていた。
教室に入ると、田辺大地が窓際で友人と話していた。彩花の姿に気づいた大地は軽く手を上げ、昨日の妹の長靴の話を思い出したように笑った。
「おはよう、水瀬。昨日さ、帰ったら妹が長靴を玄関で磨いてたんだよ。雨の日しか履けないから大事にするんだって。水瀬が言ってたこと、そのままだった」
「おはよう。そうだったんだ。大切にしてるんだね、その長靴」
「俺もそう思ってさ。前は濡れた靴をそこらへんに置いてたのに、昨日はちゃんと新聞紙まで詰めてた。好きなものって、人を几帳面にすることもあるんだな」
大地は少し感心した様子で話した。彩花はその言葉を聞き、文芸部の表紙を担当する女子部員の姿を思い出した。冬空の雰囲気を守りながら枝先の見え方を調整するため、何度も元のデータと比較している彼女も、きっと表紙を大切に思っているのだろう。
「好きだから、ちゃんと扱いたいって思うのかもしれないね。私も本にしおりを挟むとき、ページが折れないように気をつけるよ」
「それは水瀬らしいな。俺も妹の長靴を笑ってばかりいないで、自分の物も少し片づけるか」
大地が笑うと、近くの女子生徒が「それはいいことだと思う」と口を挟み、教室に小さな笑いが広がった。彩花は鞄を机へ置きながら、誰かの大切なものについて話す時間が、以前より自然になったと感じていた。
午前中の授業では、社会の資料に昔の町の地図が出てきた。道路の形や建物の位置を見比べる課題だったため、彩花は日曜日に悠真と見た文化関係の本を思い出した。説明を聞きながら、地図には建物の名前だけでなく、そこを使っていた人たちの暮らしも重なっていたはずだと考えた。
授業のあと、隣の席の女子生徒がノートを見せながら尋ねた。
「水瀬さん、ここの道って、地図だとまっすぐに見えるけど、昔の写真では少し曲がってるよね。私、見間違えたかな」
彩花は二つの資料を並べ、道の端にある建物の位置を確かめた。すぐに答えを決めつけず、先生が説明した縮尺の違いも思い出してから、気づいたことを伝えた。
「たぶん、地図の方が細かい曲がり方を省いてるんだと思う。写真だと、ここにある建物の前で道が少し広くなってるみたい。先生にも確認してみようか」
「そっか、そういう違いもあるんだね。ありがとう。あとで一緒に聞いてもいい?」
「もちろん。私も気になるから」
彩花は微笑んで頷いた。分からないことを一緒に確かめるのは、文芸部で表紙の案を比較するときにも似ている。正しい答えを一人で持っている必要はなく、違いに気づいたところから話し合えばよいのだと思えた。
◇
桜華学園高等部では、悠真が午前の授業を終え、机の上の資料を揃えていた。窓から差し込む光は明るいが、廊下へ出ると冬の冷気が残っている。森川航平が隣へやって来ると、手に持ったプリントを見ながら少し困ったように笑った。
「九条、これさ、来週までに提出する調べ学習のテーマなんだけど、まだ決められなくて。自由って言われると逆に難しいよな」
「そうだね。範囲が広いと、どこから考えればいいか迷うかもしれない。航平は、普段から気になっていることはない?」
「そう言われてもなあ。最近だと、駅前の店が入れ替わってるのが気になるくらいかな。昔からあった文房具屋がなくなって、別の店になってただろ」
悠真は少し考え、日曜日に借りた町並みの本を思い出した。古い商店街の写真には、建物が変わっても道の形が残っている場所があり、その変化を調べること自体が一つのテーマになりそうだった。
「それなら、駅前の店の変化を調べるのはどうかな。何が変わったかだけじゃなくて、昔はどんな人が利用していたのかも調べられるかもしれない」
「なるほど。確かに、それなら自分でも気になってることだし、資料を探すのも面白そうだな。でも、九条が借りてる本みたいな写真集が、学校の図書室にもあるかな」
「まずは蔵書を調べてみよう。なければ、中央図書館の資料を確認する方法もあると思うよ。ただ、借りられるかどうかは、実際に調べてからだね」
航平は納得したように頷き、プリントの余白へ短いメモを書いた。悠真はその様子を見て、自分が興味を持ったことが友人の課題にもつながったのを嬉しく感じた。
「ありがとう。お前と話してると、ぼんやりしてたことが形になるな。そういや、この前の図書館で水瀬さんと本を選んだって話も、こんな感じだったのか?」
「似ているところはあると思う。でも、彩花さんは俺が考えていなかったことを教えてくれるんだ。写真の中の建物だけじゃなくて、そこで暮らしていた人の気持ちを想像するところとか」
悠真が答えると、航平は友人の顔を見て笑った。以前の悠真は、誰かと過ごした時間について尋ねられても、何をしたかを正確に説明することが多かった。今は、その時間をどう感じたかまで自然に言葉にしている。
「それ、いい影響受けてるんだろうな。お前も水瀬さんに、いろいろ教えてるんじゃないか?」
「そうだと嬉しいね。俺ばかり何かをもらっているような気がすることもあるから」
「そこは本人に聞いてみたらいいんじゃないか。まあ、いきなり『役に立ってますか』って聞いたら、ちょっと変だけどさ」
航平の冗談に、悠真は声を立てずに笑った。相手に何かを返さなければと焦るより、二人で話したことを大切にしていけばよいのかもしれない。悠真はそう思いながら、午後の授業に必要な教科書を取り出した。
昼休みには、借りた写真集を数ページ読み進めた。古い図書館の閲覧室を写した写真が再び目に入り、悠真はその説明を丁寧に読んだ。写真の中の人たちがどんな本を読んでいたのかは分からないが、窓から入る光を頼りにページへ向かう姿には、日曜日に見た彩花の横顔と通じる静けさがあった。
(今度会えたら、このページを見せたいな。彩花さんなら、机や窓だけじゃなくて、読んでいる人の表情にも気づくかもしれない)
悠真はしおりを挟み、写真集を閉じた。次に会う約束はまだ決まっていないが、話したいことが少しずつ増えている。その事実だけで、午後の時間がいつもより明るく感じられた。
◇
青葉高校の昼休み、彩花は弁当を食べ終えてから、窓際で友人たちの話を聞いていた。午前中に地図のことを相談した女子生徒が、先生へ確認した結果を教えてくれる。やはり資料ごとの縮尺や表現方法に違いがあり、細かな曲がり方が省略されていたらしい。
「先生も、二つの資料を比べて気づけたのがいいって言ってたよ。水瀬さんが一緒に見てくれたから、ちゃんと質問できた。ありがとう」
「私も気になってたから、分かってよかったよ。同じ場所を表していても、資料によって見え方が違うんだね」
彩花は答えながら、午前中のノートへ小さな印をつけた。何かを正確に伝えようとするとき、どの部分を残して、どの部分を省くかという判断が必要になる。部誌の表紙にも、自分の物語にも、似たところがある気がした。
午後の授業が終わると、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。部室の扉を開けると、紙の匂いと、机を囲む部員たちの声が迎えてくれる。窓際には以前の試し刷りが保護用の袋に入れて置かれ、表紙担当の女子部員はパソコンの画面を確認していた。
「水瀬さん、お疲れさま。ちょうどよかった。今日、調整案を印刷するときの確認方法を相談してたんだ」
女子部員が言うと、佐々木先輩も頷いた。彩花は鞄を置き、二人のそばへ歩み寄る。画面には元の表紙と調整案が並んでおり、枝先の見え方と下部の小文字のコントラストだけが異なっていた。
「画面だと調整案がよさそうに見えるけど、紙にしたら印象が変わるかもしれないでしょう。だから、同じ条件で見比べられるようにしておきたいの」
「そうですね。前の試し刷りも残っていますし、紙の種類や印刷の設定が違ったら、どこが変わったのか分かりにくくなりそうです」
彩花が答えると、女子部員はほっとしたように微笑んだ。佐々木先輩は机の上のメモへ視線を落とし、今日の時点で決められることと、実際に印刷してから判断することを分けて書き込んだ。
「今日は比較の手順だけ確認しておきましょう。印刷の準備が整ってから、元のものと調整案を同じ条件で見て、それで最終判断に進めばいいと思う」
「はい。今ここで完成って決めない方が、私も安心です。元の空の雰囲気を残せているか、紙でもちゃんと見たいので」
女子部員の言葉には、表紙を作ってきた本人ならではの慎重さがあった。彩花はその横顔を見て、何度も調整を重ねる作業には、技術だけでなく愛着も必要なのだと感じた。
少し離れた机では、別の部員が本文の確認用紙を揃えている。彩花も自分の担当箇所を開き、作品『いつか、ここに』の掲載位置と作者名を改めて確かめた。以前の確認内容と食い違いはなく、詩のあとに続く配置も変わっていない。
その途中で、佐々木先輩が声をかけた。
「水瀬さん、昨日の見出しの余白のこと、確認済みの印をつけておいたわ。もともとの配置で問題ないって分かったから、そこはもう修正しなくて大丈夫」
「ありがとうございます。私も昨日の説明で納得できました。気になったままにしなくてよかったです」
彩花は資料に目を戻した。直す必要のないものまで変えてしまわず、確かめた結果をきちんと残しておく。それも制作を前へ進めるために大切な仕事なのだろう。
活動の終わり頃、表紙担当の女子部員が小さく息をつき、椅子の背にもたれた。彩花が隣で資料を片づけていると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「私、最初は表紙ってもっと一気に決められるものだと思ってた。絵を描いて、文字を置いて、それで完成って。でも、みんなの作品が入るって思うと、小さいところも気になるんだよね」
「うん。私も、自分の文章だけじゃなくて、ほかの人の作品と並ぶんだって考えると、見え方が気になるよ。でも、みんなで確認できるのは心強いね」
「そう言ってもらえると嬉しい。水瀬さんの作品も、ちゃんと気持ちよく読んでもらえる表紙にしたいから」
彩花は思わず相手の顔を見た。自分の書いた物語を、こんなふうに大切に思ってくれている人がいる。そのことが嬉しく、胸の奥が静かに熱くなった。
「ありがとう。私も、この表紙で読んでもらえたら嬉しい。だから、最後まで一緒に確認したいな」
二人が微笑み合うと、佐々木先輩が少し離れたところから「今日はそこまでにしましょう」と声をかけた。部員たちは机の上を片づけ、確認用紙を順番どおりに重ねていく。部誌はまだ完成していないが、それぞれの手で少しずつ守られながら、形を整えているのだった。
◇
放課後の桜華学園では、悠真が生徒会の確認作業を終え、廊下へ出たところだった。窓の外には夕方の光が差し込み、校庭の木々の影が長く伸びている。航平が階段の近くで待っており、悠真を見つけると片手を上げた。
「お疲れ。今日はもう帰れるのか?」
「うん。必要な確認は終わったよ。航平の調べ学習は、テーマを決められそう?」
「とりあえず駅前の変化で考えてみる。昔の写真が見つかるか調べてから、先生に相談するつもりだよ。お前が話してくれたおかげで、少し楽しみになってきた」
航平はそう言いながら、鞄の肩紐を直した。二人は昇降口へ向かい、ほかの生徒たちの流れに合わせて歩く。外へ出ると冷たい風が頬を撫でたが、空は朝から晴れたままだった。
「そういえば九条、昨日の夜、水瀬さんとは話したのか?」
「うん。雨上がりの空のことや、借りた本の話をしたよ。また都合が合えば中央図書館へ行きたいねって」
「お、次の約束の話になったんだな。日付は決まった?」
「まだだよ。お互い学校もあるし、家の予定も確かめないといけないから。でも、彩花さんもまた行きたいって言ってくれたんだ」
悠真が微笑むと、航平は嬉しそうに頷いた。友人の言葉には、以前よりも素直な喜びが表れている。相手の希望を尊重しようとするあまり、自分の望みを後ろへ置きがちだった悠真が、今は一緒に過ごしたいと口にできるようになっていた。
「だったら、都合が分かったときに相談すればいいさ。無理に急がなくても、また会いたいって分かってるだけで十分だろ」
「そうだね。俺も、そう思うよ」
悠真は答えながら、校門の向こうへ目を向けた。冬の夕方は日が傾くのが早く、帰り道の建物には柔らかな影が落ちている。彩花も今頃、文芸部の活動を終えて帰るところだろうか。
彼女がどんな一日を過ごしたのか、今夜聞いてみたい。けれど、忙しければ無理に返事を求める必要はない。そう思えることも、悠真にとっては以前から少し変わったところだった。
◇
九条家へ戻ると、玄関の奥から軽い足音が聞こえてきた。妹の琴葉が廊下の向こうから顔を出し、その後ろを白いサモエドのハクがゆっくりついてくる。ハクは悠真を見つけると尻尾を揺らし、足元へ近づいてきた。
「お兄様、おかえりなさい。今日は早かったんですね。ハクもさっきから玄関の方を気にしていたんですよ」
「ただいま、琴葉。ハクも迎えに来てくれたんだね」
悠真はしゃがみ、ハクの頭を優しく撫でた。白い毛は手のひらの下でふわりと広がり、ハクは満足そうに目を細めている。琴葉はその様子を見ながら、思い出したように声を弾ませた。
「そうだ、お兄様。前に挟んでいた葉っぱ、今日見たらずいぶん乾いていました。まだ触ると曲がりそうなので、そのままにしてありますけど」
「教えてくれてありがとう。紙の状態も確かめたいし、あとで一緒に見てみようか」
「はい。今度こそ、きれいに残せるといいですね」
琴葉は嬉しそうに頷いた。悠真は靴を脱ぎながら、以前二人で集めた葉を思い出した。吸い取り用の紙を替えながら乾かしてきたものだが、まだ完成したしおりにはなっていない。形を崩さず残すためには、もう少し様子を見た方がよさそうだった。
着替えを済ませたあと、悠真は琴葉と一緒に葉を挟んだ紙を広げた。机の上へ薄い紙を置き、端からゆっくり開くと、葉の輪郭が以前よりはっきりしている。色も少し落ち着いていたが、細い部分にはまだ慎重に扱う必要がありそうだった。
「前より平らになりましたね。最初は、こんなに形が変わるなんて思いませんでした」
「そうだね。乾くまで待つ時間も、こうして見ると面白いよ。急いで動かすと破れてしまうかもしれないから、もう少しこのままにしておこう」
琴葉は葉の端を見つめ、納得したように頷いた。彼女は途中で何度か紙を替える手伝いをしてきたため、完成を急ぎたい気持ちと、壊したくない気持ちの両方があるらしい。
「お兄様、これがちゃんと乾いたら、何に使うか決めてもいいですか? 私は、本の間に挟めるものにしてみたいです」
「いいと思うよ。どの葉を使うかは、乾いてから一緒に考えよう。まだ形が落ち着いていないものもあるからね」
悠真が答えると、琴葉は満足そうに笑った。二人は葉を元の紙へ戻し、折れないように重ねてから机の端へ置く。ハクは少し離れた床で伏せ、二人の手元を不思議そうに眺めていた。
琴葉が部屋を出たあと、悠真は自分の机の引き出しへ目を向けた。そこには以前、彩花と過ごした日に拾った特別な橙色の葉が、ほかのものとは別に包んでしまってある。彩花にはまだ話していない小さな記念であり、悠真はそれを取り出さず、引き出しを静かに閉じた。
(あの葉も、いつか何かの形にできるのかな。でも、今は大切にしまっておきたい)
悠真は窓の外を見た。庭ではハクが琴葉と一緒に歩いており、冬の夕方の光が白い毛を柔らかく照らしている。季節のものを残す方法はいくつもあるが、思い出をどう大切にするかは、急いで決めなくてもよいのだろう。
◇
彩花が帰宅した頃には、窓の外が少しずつ夕暮れの色に変わり始めていた。制服から部屋着へ着替えたあと、机へ向かう前に温かい飲み物を用意する。カップを両手で包むと、冷えていた指先がゆっくり温まっていった。
星模様のノートを開くと、昨日書き足した文章が目に入った。少女は祖母の写真を見ながら、遠くで暮らす今の祖母が何を見ているのか知りたいと思い始めている。しかし、手紙そのものはまだ二行のままだ。
彩花は朝、凛花から言われたことを思い出した。少女が普段どんな言い方をするのか考えてみること。自分の考えをきれいにまとめるより、少女が本当に使いそうな言葉を探すこと。
(この子は、たぶん急に難しいことを言わない。庭の花を見て、昔おばあちゃんと話したことを思い出して、それから今のおばあちゃんのことを聞きたくなるんだ)
彩花は手紙の続きへすぐにペンを入れず、その前の場面を少し読み返した。写真の中の祖母はじょうろを持って笑っている。少女はその写真を見て、祖母が花へ水をやるとき、いつも土の様子を確かめていたことを思い出す。
昔は、その仕草を特別だと思っていなかった。けれど今、自分が毎朝庭を見ていると、昨日と今日では土の色も葉の向きも違うことに気づく。祖母が何を見ていたのか、少しだけ分かった気がする。
彩花はその部分へ、新しい文章を丁寧に加えた。少女が祖母の真似をして花を育てているのではなく、一緒に過ごした時間が、今の少女の見方に残っていることを描きたかった。
少女は窓の外を見ながら、今度祖母と話せたら、最近どんな花を見たのか聞いてみようと思う。離れている時間を埋めるためではなく、祖母の今日を知るために。そして自分の今日も、同じように渡せたらいいと考える。
そこまで書くと、彩花はペンを置いた。文章は少し増えたが、手紙の三行目はまだ書いていない。けれど今は、無理にその一行を完成させなくてもよいと感じていた。
机の横には、日曜日に借りた小説がある。彩花はその表紙を見て、物語の中の二人が違う思い出を抱えていることを思い出した。大切なのは、同じものを同じように覚えていることではないのかもしれない。違う記憶を持つ二人が、互いの話を聞こうとするところから、新しい時間が始まるのだろう。
(私も、悠真君が見たものを全部同じように見られるわけじゃない。でも、悠真君が何を面白いと思ったのか聞くのは、すごく楽しい)
彩花はノートの余白へ、小さく一文を書き留めた。
『同じものを見ていなくても、相手の見た景色を知りたいと思うことがある。』
それは物語のためのメモであり、同時に、今の自分の気持ちにも近い言葉だった。彩花はしばらく眺めてから、ノートを閉じた。
◇
夕食のあと、彩花は借りた小説を読み進めた。古い駅舎へ戻ってきた二人のうち、一人がかつての花壇の前で立ち止まる場面に差しかかっている。そこには昔と違う花が植えられていたが、花壇の縁に残る小さな傷を見つけ、子どもの頃の記憶がよみがえる。
もう一人も同じ町へ戻っていることを、読者はすでに知っている。しかし二人はまだ出会っておらず、すれ違いそうな距離にいることさえ知らない。彩花はページをめくりたい気持ちを抑え、少しだけ本を閉じて考えた。
会えない時間があるからこそ、再会したときに話したいことが増える。そう考えると、物語の二人がどんな言葉を交わすのか、ますます楽しみになった。
机の上でスマートフォンが震えたのは、そのときだった。画面には悠真からのメッセージが表示されている。
『彩花さん、今日もお疲れさま。今日は晴れていたけど、朝はずいぶん冷えたね。帰ってから琴葉と、前に挟んでいた葉っぱの様子を見ていたよ』
彩花は微笑みながら返信した。
『悠真君もお疲れさま。葉っぱ、どうだった? 前に、乾くまで少し時間がかかりそうって話してたよね』
『前より平らになっていたよ。でも細いところはまだ慎重に扱った方がよさそうだから、もう少しそのままにしておくことにしたんだ。琴葉は、きれいに乾いたら本に挟めるものにしてみたいみたい』
彩花はその文章を読み、琴葉が葉を大切に扱っている姿を想像した。悠真の家での時間について聞けることが嬉しい。学校で会うことはできなくても、彼がどんなふうに家族と過ごしているのかを知ると、少し近くに感じられた。
『素敵だね。ちゃんと乾くまで待つのも楽しみの一つなのかも。琴葉ちゃんがどんなものを作るのか、私も楽しみだな』
『ありがとう。琴葉にも伝えておくね。彩花さんは今日はどんな一日だった?』
その問いに、彩花は指を止めた。悠真はいつも、自分が話したいことだけでなく、彩花の一日にも耳を傾けてくれる。何気ない問いかけなのに、今夜はそのことがいつもより嬉しく感じられた。
『今日は文芸部で、冬の部誌の表紙をどうやって比較するか相談したよ。枝先と下の小さい文字の調整案を、元の表紙と同じ条件で印刷して見比べたいんだ。まだ完成じゃないけど、みんなで少しずつ進めてるよ』
悠真からは、ほどなく返事が届いた。
『丁寧に進めているんだね。前に彩花さんが話してくれた、冬の空の雰囲気を大切にしたいっていう気持ちが、ちゃんと残っているといいね』
彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなった。悠真は表紙の細かな調整を実際に見たわけではない。それでも、彩花が何を大切にしているのか覚えていてくれた。
『うん。表紙を作ってる子も、空の余白を残したいって言ってたの。私、その気持ちが嬉しかった。自分の作品だけじゃなくて、みんなの作品を大切にしてくれてるんだなって』
『それは嬉しいね。彩花さんの物語が載る部誌、俺も楽しみにしているよ。完成したら、ぜひ読ませてほしい』
彩花は画面を見つめた。部誌に載る『いつか、ここに』は、すでに確認を重ねてきた作品だ。一方、星模様のノートに書いている物語は、まだ途中で、悠真には詳しい内容を話していない。
『ありがとう。部誌ができたら、読んでもらえたら嬉しいな。それから、今書いてる別のお話も、完成したら最初に悠真君に読んでほしいって思ってるよ』
送信すると、少しして返事が届いた。
『覚えているよ。大切な手紙を書こうとしている女の子のお話だよね。急がなくていいから、彩花さんが納得できるまで書いてね。読める日を楽しみにしている』
彩花は思わずスマートフォンを胸の近くへ引き寄せた。悠真は少女の手紙の相手が祖母であることも、庭の花のことも知らない。けれど、完成を急かさず待ってくれる。その信頼が、彩花には何より心強かった。
(悠真君に読んでもらいたい。でも、そのために急いで書くんじゃなくて、私が大切だと思えるお話にしたい)
彩花は少し時間をかけて返信した。
『ありがとう。そう言ってもらえると、安心して書けるよ。今日も少しだけ進んだんだ。まだ手紙の続きを書けてないけど、その子が何を伝えたいのか、前より分かってきた気がする』
『少しずつ見えてきたんだね。彩花さんがその子の気持ちを大切にしているのが伝わってくるよ』
そのあと、二人は今日の授業や読んだ本のことを話した。悠真が古い図書館の写真をもう一度見たと伝えると、彩花はその写真を実際に見てみたいと返した。彼が「今度会えたときに見せるね」と言ってくれたことが、昨日からずっと楽しみだった。
話が一段落したところで、悠真から新しいメッセージが届いた。
『そういえば、また中央図書館へ行く話だけど、今週末はまだ家の予定を確認しているところなんだ。はっきりしたら、彩花さんに相談してもいいかな』
彩花はその文章を読んで、背筋を少し伸ばした。次に会う約束について、悠真の方から具体的に話してくれたことが嬉しかった。けれど、彼の家にも予定があるのだから、無理に日を決めたくはない。
『もちろんだよ。私も家の予定を確認しておくね。今週末じゃなくても大丈夫だから、お互い都合のいい日を探そう』
『ありがとう。俺も無理のない日に、ゆっくり本を見られたら嬉しい。彩花さんとまた一緒に選びたいんだ』
彩花はその言葉を読み、静かに息を吸った。以前なら、嬉しくても相手に負担をかけない返事を考えすぎて、気持ちを隠してしまったかもしれない。けれど今は、自分も同じように楽しみにしていることを、きちんと伝えたいと思った。
『私もだよ。悠真君と一緒にいると、自分では見つけられなかった本に出会えるし、何より、悠真君が何を面白いと思うのか聞けるのが嬉しいの』
送信したあと、彩花は少しだけ頬を熱くした。自分の気持ちを言葉にすることには、まだ慣れていない。それでも、嘘のない言葉を送れたことが嬉しかった。
悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。
『ありがとう、彩花さん。俺も同じだよ。彩花さんが見つけるものを知るたびに、今まで見ていた景色が少し広がる気がする。また一緒に過ごせる日を楽しみにしているね』
彩花は画面を見つめながら、しばらく動けなかった。悠真が自分と同じように、二人で過ごす時間を楽しみにしてくれている。そのことはもう何度か言葉にして確かめているのに、聞くたびに新しい嬉しさが胸へ広がっていく。
『うん。私も楽しみにしてる。今日はありがとう。おやすみなさい、悠真君』
『こちらこそ、ありがとう。おやすみ、彩花さん』
やり取りを終えると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。窓の外では夜の冷たい空気が街を包み、遠くの家の明かりが静かに灯っている。部屋の中には時計の音が小さく響き、開いたままの小説のページが、机のライトを受けて白く浮かんでいた。
◇
同じ夜、悠真は自室の机に座り、スマートフォンの画面をもう一度見ていた。彩花が送ってくれた「悠真君が何を面白いと思うのか聞けるのが嬉しい」という言葉が、胸の奥に残っている。
彼はこれまで、相手が楽しめる場所や話題を選ぶことを大切にしてきた。それは間違いではないと思う。けれど、彩花は悠真自身が何を好きなのかも知りたいと言ってくれた。
(俺が好きなものを話すことも、彩花さんにとって嬉しいことなんだね。だったら、次に会えたときは、もう少し自分から話してみよう)
悠真は机の上の写真集へ視線を向けた。古い図書館の写真には、まだ伝えたいことがいくつもある。建物の変化だけではなく、そこにいた人たちの時間を想像する面白さを、彩花と一緒に確かめてみたかった。
机の引き出しには、以前彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまってある。悠真はそれを取り出し、丁寧な文字で書かれた言葉を眺めた。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
あの日受け取ったときも嬉しかったが、今はその意味を少し違って感じている。彩花は、自分の好きなものを理解してほしいだけではなく、悠真と話す時間そのものを大切に思ってくれていたのだろう。
悠真はカードを元の場所へ戻し、引き出しを静かに閉じた。今週末の予定はまだ確認が必要で、次の図書館行きも決まっていない。けれど、日付が決まる前から、次に話したいことを考える時間が楽しかった。
窓の外には、澄んだ冬の夜空が広がっている。悠真はカーテンを閉め、机のライトを少し落とした。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。今日の出来事を振り返ると、朝の凛花との会話、学校で比べた二つの地図、文芸部で表紙の確認方法を相談した時間が順番に思い出される。どれも大きな事件ではなかったが、何かを大切に扱うことについて考える一日だった。
彩花はペンを持ち、ゆっくり書き始めた。
『今日は、同じ場所でも見方が違うことを何度も考えた。地図と写真も、表紙の画面と印刷した紙も、見えているものが少しずつ違う。だからこそ、比べたり、誰かの話を聞いたりする時間が大切なのかもしれない。』
そこで一度ペンを止め、悠真から届いた言葉を思い出した。彼は彩花が大切にしているものを覚えていてくれた。そして、自分の好きなものを話すことも、彩花にとって嬉しいのだと受け取ってくれた。
『悠真君と、また中央図書館へ行く相談をした。まだ日付は決まっていないけれど、次に会えたら、悠真君が見つけた古い図書館の写真を一緒に見たい。私も、今日見つけたことを話したい。』
彩花は書き終えた文章を読み返し、日記帳を閉じた。机の上には、星模様のノートと借りた小説が並んでいる。どちらもまだ途中で、これから先のページには知らない言葉や景色が待っている。
少女が祖母へ書く手紙の三行目も、まだ決まっていない。けれど、今日はその一行を急がずにいられた。相手の今を知りたいと思う気持ちを、少女自身の言葉で表せる日が来るまで、丁寧に考えていこうと思う。
彩花は机のライトを消し、ベッドへ入った。カーテンの隙間から見える冬の空は静かで、遠くに小さな星が一つ光っている。
(明日も、悠真君と話せるかな。何か特別なことがなくても、今日見つけたことを一つずつ伝えられたら嬉しい)
そう思うと、胸の奥に穏やかな温かさが残った。まだ決まっていない次の約束も、書き終えていない物語も、今は焦らなくていい。大切にしたいものがあるからこそ、そこへ向かう時間まで好きになれるのだと、彩花は少しずつ知り始めていた。
水曜日の夜は静かに更けていった。明日もそれぞれの学校で違う一日を過ごす二人は、まだ知らない景色を見つけ、その話をまた相手へ届けようとしていた。




