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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第118話 月曜日の教室に残る、君と選んだ物語の余韻


 月曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。日曜日の澄んだ青空とは違い、窓の向こうに見える景色は少し白っぽく、住宅街の屋根も柔らかな光に包まれている。水瀬彩花は目覚まし時計の音を止めると、布団の中でゆっくり身体を起こした。


 休日の翌朝は、いつもならもう少し眠っていたいと思うことが多い。けれど今日は、目が覚めた瞬間から昨日の図書館での出来事が頭に浮かんでいた。


 小説の棚で自分の好きな物語について話したこと。悠真が普段よく見る歴史や文化の棚へ案内してくれたこと。そして、窓際の椅子に並んで座り、一緒に本を選ぶ時間が好きだと伝えられたこと。


(昨日は、本当に楽しかったな。いつも行っている図書館なのに、悠真君と一緒だと、知らなかった場所へ行ったみたいだった)


 彩花はベッドから降り、机の上へ視線を向けた。昨日借りてきた小説が、星模様のノートの隣に置かれている。淡い色の表紙に描かれた古い駅舎と花壇は、朝の光の中で見ると、昨日とは少し違った印象を与えた。


 昨夜は日記を書いたあと、物語の最初の数ページだけを読んだ。幼い頃に同じ町で過ごした二人が、それぞれ違う場所で成長し、久しぶりに故郷へ戻るところから物語は始まっている。


 まだ二人は再会していない。けれど、同じ駅を別々の記憶で思い出している描写が印象に残っていた。


(続きが気になるけど、今日は学校だもんね。帰ってから少し読めるかな)


 彩花は本の表紙をそっと撫で、身支度を始めた。


 制服に着替えて階下へ降りると、台所から温かい味噌汁の香りが漂ってきた。母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は新聞を畳んで食卓へ置いている。姉の凛花はすでに席についていたが、彩花の顔を見ると、少し楽しそうに微笑んだ。


「おはよう、彩花。今日はいつもより目が覚めてる感じだね。昨日は疲れなかった?」


「おはよう。うん、たくさん歩いたわけじゃないから大丈夫。昨日借りた本の続きが気になって、朝からちょっと考えてたんだ」


 彩花が答えると、凛花は納得したように頷いた。


「なるほどね。昨日の本、そんなに面白そうだったんだ。駅で再会するお話だったっけ?」


「うん。まだ最初の方しか読んでないけど、同じ場所を思い出していても、二人の記憶が少し違うみたいなの。それがどうつながっていくのか気になるんだ」


 彩花は椅子へ座りながら、昨夜読んだ場面を思い出した。物語の中の二人は、同じ駅の時計を覚えている。しかし、一人は待ち合わせの時間を気にしていた場所として、もう一人は誰かを見送った場所として記憶している。


 その違いが、彩花には興味深かった。


「同じ場所でも、覚えていることが違うんだね」


 耕助が穏やかに言うと、彩花は頷いた。


「そうなの。だから、再会したときにどんな話をするのか楽しみで。昨日、悠真君ともそんなことを少し話したんだ」


 悠真の名前を口にした瞬間、凛花がこちらを見た気がした。けれど姉はからかうことなく、味噌汁の椀を持ち上げながら微笑んでいる。


 紗月は彩花の前へ朝食を並べると、優しい声で言った。


「好きな本の話ができる相手がいるのは、いいことね。今日は学校もあるし、帰ってからゆっくり読めばいいわ」


「うん。そうする」


 彩花は返事をして箸を取った。


 朝食を食べながら、昨日のことを家族へ話せるのが嬉しかった。以前なら、自分の好きな本について話し始めると、つい長くなりすぎるのではないかと気にしていた。しかし、家族も悠真も、彩花が何に心を動かされたのかを聞こうとしてくれる。


 その安心感が、少しずつ彩花の言葉を増やしていた。


     ◇


 青葉高校へ向かう道では、冷たい風が街路樹の枝を揺らしていた。歩道には落ち葉が集まり、通学する生徒たちの靴音に合わせて小さく動いている。


 彩花はマフラーを整えながら、いつもの道を歩いた。


 昨日は休日だったため、同じ時間でも町の雰囲気が違っていた。今日は制服姿の生徒や仕事へ向かう人たちが行き交い、交差点では信号が変わるたびに人の流れが生まれている。


(昨日はこの時間、まだ家にいたんだよね。午後から図書館へ行くのが楽しみで、何度も時計を見てたっけ)


 思い出すと、自然に口元が緩んだ。


 校門をくぐると、朝の校舎には生徒たちの話し声が響いていた。教室へ入ると、すでに何人かのクラスメイトが席についており、週末の出来事について話している。


「おはよう、水瀬」


 鞄を机へ置こうとしたところで、田辺大地が声をかけてきた。


「おはよう、田辺君。今日は少し寒いね」


「だよな。朝、妹が窓を開けたらすぐ閉めてたよ。昨日は晴れてたから、今日も暖かいと思ったらしい」


 大地は苦笑しながら、自分の席へ鞄を置いた。


「でも、昨日の午後は結構気持ちよかったよな。水瀬はどこか出かけた?」


「うん。中央図書館へ行ってきたよ。友達と一緒に本を選んだんだ」


 彩花が答えると、大地は少し意外そうな顔をした。


「へえ、図書館か。水瀬らしい休日だな。でも、友達と一緒に本を選ぶって、どんな感じなんだ? 俺は図書館に行っても、必要な本だけ探して帰ることが多いからさ」


 彩花は少し考えた。


「自分では選ばない本を知ることができて、面白かったよ。昨日は小説だけじゃなくて、昔の町並みとか、手紙の歴史についての本も見たの」


「手紙の歴史? それはちょっと意外だな」


「私も最初はそう思ったんだけど、昔の人がどんな紙を使っていたのかとか、どうやって気持ちを伝えていたのかが分かって、面白かったんだ」


 彩花が説明すると、大地は興味深そうに頷いた。


「なるほどな。そういう見方もあるのか。妹が最近、手紙を書くのに凝ってるんだよ。友達に渡す小さいメモなんだけど、便箋を選ぶだけでずいぶん時間かけてる」


「そうなんだ。きっと、渡す相手のことを考えながら選んでるんだね」


 彩花が微笑むと、大地も笑った。


「たぶんな。俺には全部同じに見えるんだけど、妹には違いがあるらしい。今度、どこが違うのか聞いてみるかな」


 その会話を聞いていた近くの女子生徒が、机の上へ教科書を置きながら口を開いた。


「私も便箋選ぶの好きだよ。紙の色とか、封筒の形とか、結構違うんだよね。水瀬さんが見た本、ちょっと気になるかも」


 彩花はその女子生徒へ顔を向けた。


「中央図書館の文化関係の棚にあったよ。私も昨日は少ししか読めなかったけど、写真がたくさん載っていて分かりやすかった」


「へえ、今度行ってみようかな。最近、図書館に行ってなかったし」


 女子生徒はそう言って笑った。


 彩花は自分の席へ座りながら、少し嬉しくなった。昨日悠真に教えてもらった本の話が、今度はクラスメイトとの会話につながっている。


(こうやって、好きなものが少しずつ広がっていくんだね)


 彩花は机の中へ教科書を入れ、朝のホームルームが始まるのを待った。


     ◇


 一方、桜華学園高等部でも、悠真はいつもの月曜日を迎えていた。


 朝の校舎には冬らしい冷たい空気が残り、廊下の窓からは淡い光が差し込んでいる。悠真は教室へ入ると、自分の席へ鞄を置き、今日の授業に必要なものを取り出した。


「九条、おはよう」


 隣の席へ近づいてきた森川航平が、軽く手を上げた。


「おはよう、航平。今日は早いね」


「まあな。昨日、課題を早めに終わらせたから、今朝は余裕があったんだ。それより、お前は週末どうだった?」


 航平は何気ない調子で尋ねたが、悠真の表情を見て少し笑った。


「何かいいことあっただろ。朝から機嫌よさそうだぞ」


 悠真は一瞬だけ目を丸くしたあと、穏やかに微笑んだ。


「昨日、彩花さんと中央図書館へ行ってきたんだ。一緒に本を選ぶ約束をしていたから」


「へえ、そうだったのか。なるほど、それでか」


 航平は納得したように頷いた。


「で、どうだった? お前ら二人とも本が好きなんだろ。結構長い時間いたんじゃないか?」


「うん。小説の棚を見てから、歴史や文化の本も一緒に見たよ。彩花さんがどんな物語を好きなのか、前よりよく分かった気がする」


 悠真は昨日のことを思い出しながら答えた。


「彩花さんは、登場人物の気持ちが少しずつ変わっていく物語が好きなんだ。大きな出来事だけじゃなくて、日常の中で何かに気づくような話を大切にしているみたいで」


 航平は悠真の言葉を聞きながら、少しだけ眉を上げた。


「お前、ずいぶん楽しそうに話すな。いや、別に悪い意味じゃないけどさ」


「そうかな」


「そうだよ。前のお前なら、図書館に行ったって言われても、どんな本を読んだかくらいしか話さなかったと思うぞ」


 悠真は少し考えた。


 確かに、以前は自分が何をしたかを説明することはあっても、その時間をどう感じたかまで話すことは少なかったかもしれない。


「彩花さんといると、自分が楽しかったことを、そのまま言葉にしたくなるんだ。昨日も、一緒に本を選べてよかったって伝えたよ」


 航平はその言葉を聞き、少しだけ笑みを深めた。


「そっか。いいじゃん。九条がそういうふうに話すの、俺は結構好きだぞ」


 悠真は友人の言葉に微笑んだ。


「ありがとう。航平にそう言ってもらえると、少し安心するよ」


 教室の前方では、別の生徒たちが週末の部活動について話していた。窓際の席では、女子生徒が寒そうに手を擦り合わせている。


 そんな普段どおりの朝の中で、悠真は昨日の時間が自分にとってどれほど大切だったのかを、改めて感じていた。


     ◇


 青葉高校の午前中の授業は、いつもどおり進んでいった。


 彩花は黒板へ書かれた内容をノートへ写し、必要なところへ印をつけていく。昨日の余韻が残っているとはいえ、授業中は目の前のことへ集中しなければならない。


 昼休みになると、教室には弁当を広げる生徒たちの声が満ちた。


 彩花も自分の席で弁当を開き、窓の外へ目を向けた。午前中は曇っていた空に少しずつ青い部分が見え始め、校庭の端に並ぶ木々が淡い日差しを受けている。


 近くの席の女子生徒が、彩花の方へ身体を向けた。


「水瀬さん、さっきの図書館の話なんだけど、昔の手紙の本って、どんなことが書いてあったの?」


 彩花は箸を置き、少し考えた。


「私が見たところには、昔使われていた便箋や封筒の写真が載ってたよ。今みたいにすぐ連絡できない時代だから、手紙を書くこと自体が大切な時間だったんだろうなって思った」


「へえ、面白そう。私、祖母が昔書いた手紙を見せてもらったことがあるんだけど、字がすごくきれいでびっくりしたんだよね」


 女子生徒は懐かしそうに笑った。


「内容は普通の近況報告だったんだけど、何年も残してあったって聞いて、ちょっとすごいなって思った」


 彩花はその話に興味を引かれた。


「何年も残してあったんだね。きっと、その手紙が大切だったんだろうね」


「うん。祖母は、書いてあることより、誰が書いてくれたかが嬉しかったって言ってたよ」


 その言葉を聞いたとき、彩花の胸の奥で何かが静かに動いた。


 星模様のノートに書いている物語の少女は、遠くに住む祖母へ手紙を書こうとしている。庭の花が咲きそうなこと、毎朝見ていると昨日とは少し違うところが見つかること。今のところ、手紙にはその二行しかない。


 けれど、祖母がその手紙を受け取ったとき、何を嬉しいと思うのだろう。


(書いてあることだけじゃなくて、あの子が自分のことを思い出してくれたって分かるのが、嬉しいのかもしれない)


 彩花はその考えをすぐに言葉へすることはせず、女子生徒の話を最後まで聞いた。


「水瀬さんも、手紙を書くの好き?」


「うん。最近はメッセージの方が多いけど、手紙には手紙のよさがあると思う。時間をかけて書いたものって、あとから読み返せるのも素敵だよね」


 彩花が答えると、女子生徒は頷いた。


「そうだね。私も久しぶりに祖母へ手紙を書いてみようかな。電話はよくするけど、手紙はしばらく書いてないし」


 その会話が終わったあとも、彩花はしばらく考えていた。


 物語の中の少女は、自分の気持ちを伝えることばかり考えているのかもしれない。けれど、祖母にとっては、少女が今日も元気に過ごしていることを知るだけでも嬉しいはずだ。


 彩花は弁当を食べ終えると、小さなメモ帳を取り出した。


『手紙は、書く人の気持ちだけでなく、受け取る人の時間にも届く。』


 そう書き留めてから、彩花はペンを置いた。


 まだ物語の答えが見つかったわけではない。けれど、昨日の図書館で見た本と、今日クラスメイトから聞いた話が、自分の創作の中で少しずつつながり始めている気がした。


     ◇


 午後の授業が終わると、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。


 廊下には放課後のざわめきが広がり、部活動へ向かう生徒たちが行き交っている。窓の外では、校庭を走る運動部の生徒たちの声が聞こえてきた。


 文芸部の部室へ入ると、すでに何人かの部員が集まっていた。机の上には冬の部誌に関する資料が置かれ、佐々木先輩が確認用の紙を整理している。


「水瀬さん、お疲れさま。今日は少しだけ確認してほしいところがあるの」


 佐々木先輩が声をかけると、彩花は鞄を置いて近づいた。


「お疲れさまです。どの部分でしょうか?」


「前に話していた、見出しの周りの余白のこと。元のデータと照らし合わせてみたんだけど、どうやら文章が抜けているわけじゃなくて、配置の見え方の問題みたいなの」


 彩花は先輩が示した紙へ目を向けた。


 確かに、以前気になっていた見出しの周囲には、他のページより少し広く見える部分がある。けれど、文字の欠落や順番の違いはなく、元のデータと比べても内容に変更はなかった。


「本当ですね。文章そのものは大丈夫そうです。見出しの位置が少し違って見えるから、余白が広く感じたのかもしれません」


「そうなの。だから、ここはすぐに直すんじゃなくて、全体の配置を見ながら判断しようと思ってる。水瀬さんが気づいてくれたおかげで、確認できてよかったわ」


 佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。


「ありがとうございます。私も、気になったところをそのままにしなくてよかったです」


 彩花はほっと息をついた。


 部誌の制作では、小さな違和感が気になることがある。しかし、それが必ずしも誤りとは限らない。確認して初めて、直すべきところと、そのまま残してよいところが分かるのだと感じた。


 少し離れた机では、表紙を担当している女子部員が画面を見ながら作業していた。


「表紙の方も、前に話した二か所を調整してるところだよ。枝先の見え方と、下の小さい文字のコントラストね。元のデータは残してあるから、比較しながら確認してる」


 女子部員はそう説明し、画面を少し傾けて見せてくれた。


 淡い冬空を背景にした表紙は、以前と同じ静かな雰囲気を保っている。枝先は少しだけ見えやすくなっていたが、まだ最終的な判断をする段階ではないらしい。


「前の雰囲気が残っていて、いいですね。枝先も、少し見つけやすくなった気がします」


 彩花が答えると、女子部員は嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。でも、もう少し全体のバランスを見たいんだ。下の文字も、濃くしすぎるとそこだけ目立っちゃうから」


 佐々木先輩も画面を見ながら、慎重に言葉を選んだ。


「そうね。冬の空の余白が、この表紙のよさだから。急いで完成にするより、二か所の調整が全体になじんでいるか確認しましょう」


 彩花はその言葉に頷いた。


 部誌の完成が少しずつ近づいていることは嬉しい。けれど、急いで決めることで大切な雰囲気を失いたくはなかった。


 それは、自分が書いている物語にも似ている気がした。


(直すところと、残しておきたいところ。ちゃんと見分けることが大切なんだね)


 彩花は自分の担当部分の確認を続けながら、昨日悠真と話したことを思い出した。


 好きなものを大切にするということは、ただ守るだけではない。相手の意見を聞きながら、もっとよい形を探していくことでもあるのかもしれない。


     ◇


 桜華学園では、悠真が放課後の生徒会の仕事を終えようとしていた。


 机の上には確認を終えた書類が重ねられ、窓の外には夕方の光が差し込んでいる。悠真は最後の書類へ目を通し、必要な箇所に印をつけた。


 隣では別の生徒会役員が資料を整理していたが、作業が一段落すると、悠真へ声をかけた。


「九条君、今日の分はこれで大丈夫そうだね。確認ありがとう」


「こちらこそ。気になるところがあれば、また教えてください」


 悠真は書類を揃え、机の端へ置いた。


 以前なら、こうした作業を終えたあとも、何か見落としていることがないか気になって、必要以上に確認を続けていたかもしれない。けれど今日は、確認すべきことを終えたなら、そこで区切りをつけてもよいと思えた。


 それは手を抜くということではない。自分にできることと、他の人に任せてよいことを、少しずつ分けて考えられるようになったということだった。


 生徒会室を出ると、廊下の先で航平が待っていた。


「お疲れ、九条。今日は思ったより早かったな」


「うん。確認が順調に進んだからね。航平も、まだ残っていたんだ」


「ちょっと友達と話してた。帰る方向が途中まで同じだし、一緒に行くか?」


「そうだね。せっかくだから、途中まで一緒に帰ろう」


 二人は並んで廊下を歩き始めた。


 校舎の外へ出ると、朝よりも風が強くなっていた。冬の夕方らしい冷たい空気が頬に触れ、植え込みの葉が小さく揺れている。


「そういえばさ、九条」


 航平が歩きながら口を開いた。


「昨日の図書館で、お前も何か新しい本を見つけたんだろ?」


「うん。古い町並みの写真が載っている本を借りたよ。彩花さんと一緒に見ていたら、もっと詳しく知りたくなったんだ」


「へえ。お前が好きそうな本だな」


 航平はそう言ってから、少し考えるように続けた。


「でもさ、誰かと一緒に本を選ぶと、自分の好みも変わるもんなのか?」


 悠真はその問いにすぐ答えず、歩道の先へ視線を向けた。


「変わるというより、広がるのかもしれないね。俺は今まで、建物の形や時代の変化を見ることが多かったんだけど、彩花さんはそこに暮らしていた人のことを考えるんだ」


「なるほどな。見てるところが違うわけか」


「うん。その違いを知るのが楽しかった。だから、昨日借りた本も、前とは少し違う読み方ができそうなんだ」


 航平は悠真の横顔を見ながら、穏やかに笑った。


「いいじゃん。お前、最近ほんとに楽しそうだよな。前より、自分が何をしたいか話すようになったし」


 悠真は少し照れくさそうに微笑んだ。


「そうかもしれない。彩花さんと話していると、自分の気持ちを言葉にすることが増えたから」


「それなら、これからも大事にした方がいいと思うぞ。誰かと一緒にいて、自分の好きなものまで広がるって、結構いいことだろ」


 悠真はその言葉に頷いた。


 航平は必要以上に踏み込まず、ただ友人として変化を受け止めてくれている。そのことが悠真にはありがたかった。


     ◇


 夕方、彩花が帰宅すると、台所から夕食の準備をする音が聞こえてきた。


 制服から部屋着へ着替えたあと、彩花は机の上へ星模様のノートを広げた。今日は文芸部で部誌の確認をしたこともあり、自分の物語についても少し考えたい気分だった。


 ノートの中では、少女が遠くに住む祖母へ手紙を書こうとしている。


 庭の花がもうすぐ咲きそうなこと。毎朝見ていると、昨日とは少し違うところが見つかること。


 手紙には、まだその二行しか書かれていない。


 彩花は前のページへ戻り、少女が祖母の写真を見つめる場面を読み返した。写真の中の祖母は、じょうろを持って微笑んでいる。少女はその笑顔を見ながら、昔一緒に庭の花を眺めた時間を思い出していた。


 そこへ、今日クラスメイトから聞いた話が重なった。


 何年も大切に残されていた手紙。そこに書かれていたのは、ごく普通の近況報告だったという。


(この子が書きたいのは、特別な出来事じゃなくてもいいんだよね。今日見つけたことを、おばあちゃんに知ってほしい。それだけでも、きっと意味がある)


 彩花はペンを持ち、少女が手紙を書く前の場面へ少しだけ文章を加えた。


 少女は窓の外の庭を眺めながら、遠くで暮らす祖母が今どんな景色を見ているのかを想像する。祖母の家の窓からも、季節の花が見えるのだろうか。朝になれば、同じように庭へ目を向けるのだろうか。


 少女はそれを知らない。


 けれど、知らないからこそ、聞いてみたいと思う。


 彩花はそこまで書いて、静かにペンを止めた。


 手紙の三行目は、まだ書かなかった。少女が祖母へ何を尋ねたいのか、その気持ちをもう少し丁寧に考えたかったからだ。


 ただ、昨日までとは違うものが見えてきた気がした。


 少女は自分の寂しさを伝えたいだけではない。離れていても、祖母の今の暮らしを知りたいと思っている。


 その気持ちは、彩花自身が悠真へ抱いているものと、どこか似ていた。


(私も、悠真君が今日どんなことをして、何を考えたのか知りたい。昨日一緒にいたからこそ、今日のことも聞いてみたくなるんだ)


 彩花はノートを閉じず、しばらくそのページを眺めていた。


 窓の外では夕暮れが深まり、部屋の中の光が少しずつ薄くなっている。彩花は机のライトをつけ、書き加えた文章をもう一度読み返した。


 急いで手紙を完成させる必要はない。


 少女が自分の気持ちを見つけるまで、もう少し一緒に考えていこう。


 そう思うと、彩花は少しだけ安心した。


     ◇


 夜、夕食を終えた彩花は、昨日借りた小説を開いた。


 物語の中では、故郷へ戻った二人が、まだ互いの存在に気づかないまま、それぞれの思い出をたどっている。


 古い駅舎の時計。花壇の隅に咲いていた小さな花。夕方になると聞こえていた列車の音。


 同じ場所にいたはずなのに、二人が覚えているものは少しずつ違っていた。


 彩花はページをめくりながら、昨日悠真と交わした会話を思い出した。


 自分が好きなものを話し、相手が好きなものを聞く。


 それだけで、同じ場所の見え方が変わることがある。


 彩花はしばらく読書を続けたあと、しおりを挟んで本を閉じた。まだ物語は序盤を抜けたところだったが、続きは明日以降の楽しみにしておくことにした。


 机の上のスマートフォンが小さく震えたのは、そのときだった。


 画面には悠真からのメッセージが表示されている。


『彩花さん、今日もお疲れさま。昨日借りた本を少し読んだんだけど、彩花さんと話したことを思い出して、前よりいろんなところが気になったよ』


 彩花は自然に微笑んだ。


『悠真君もお疲れさま。私も今日、昨日借りた小説を少し読んでたよ。まだ二人が再会する前なんだけど、同じ場所を違う思い出として覚えているところが面白いんだ』


 送信すると、少しして返事が届いた。


『それは気になるね。同じ場所でも、二人にとって大切な理由が違うのかもしれない。再会したとき、どんな話をするのか楽しみだね』


『うん。読み終わったら、また感想を聞いてほしいな』


『もちろん。俺も借りた本を読み進めたら、面白かったところを話したいよ』


 彩花は画面を見つめながら、胸が温かくなるのを感じた。


 昨日一緒に本を選んだ時間が、今日の会話にもつながっている。


 図書館で別れたあとも、それぞれの場所で本を読み、気になったことを伝え合える。そのことが、彩花には嬉しかった。


『そういえば、今日学校で昔の手紙の話になったんだ。昨日見た本のことを話したら、友達も興味を持ってくれて。悠真君と一緒に見た本が、別の会話につながって面白かったよ』


 悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。


『そうだったんだ。彩花さんが興味を持ったことを、また誰かが面白いと思ってくれるのは嬉しいね。俺も今日、航平に昨日の話をしたよ』


『森川君に? どんな話をしたの?』


『一緒に本を選ぶと、自分の好きなものが広がる気がするって話したんだ。航平も、それはいいことだねって言ってくれたよ』


 彩花はその文章を読み、少しだけ頬を赤くした。


 悠真が友人へ昨日のことを話してくれた。


 それは特別な報告ではないのかもしれない。けれど、自分と過ごした時間を、悠真も誰かに話したくなるほど大切に思ってくれていたのだと感じた。


(悠真君も、昨日のことを楽しかったって思ってくれてるんだね)


 彩花は指先を動かし、ゆっくり返事を打った。


『なんだか嬉しいな。私も今日、学校で昨日の話をしてたから。悠真君と一緒に見た本のことを、また誰かに話せるのが楽しかったよ』


『俺も同じだよ。昨日の時間が、今日の中にも残っている感じがするね』


 その言葉に、彩花はしばらく画面を見つめた。


 昨日の時間が、今日の中にも残っている。


 まさに、自分が感じていたことだった。


『うん。本当にそうだね。今日も話せて嬉しかった。悠真君、ありがとう』


『こちらこそ、ありがとう。明日も学校だし、無理せず休んでね。おやすみ、彩花さん』


『おやすみなさい、悠真君』


 やり取りを終えたあと、彩花はスマートフォンを机へ置いた。


 窓の外には、冬の夜が静かに広がっている。遠くの家々の明かりが、冷たい空気の中で小さく輝いていた。


 彩花は葉模様の日記帳を開き、今日の出来事を短く書き留めた。


『昨日、悠真君と選んだ本のことを、今日は学校でも話した。好きなものを誰かに伝えると、そこから新しい話が生まれる。悠真君と一緒に過ごした時間が、今日の中にも残っているのが嬉しかった。』


 書き終えると、彩花はペンを置き、日記帳を閉じた。


 机の上には、借りてきた小説と星模様のノートが並んでいる。


 どちらも、まだ途中だった。


 けれど彩花は、その途中の時間を大切にしたいと思った。


 物語の続きを読む楽しみも、自分の物語を書き進める時間も、悠真とまた話せる明日も、今は急いで答えを出さなくていい。


 今日の中に残った昨日の温かさを胸に、彩花は机のライトを消した。


 月曜日の夜は静かに更けていき、窓の向こうでは冬の風が街路樹の枝を揺らしていた。


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