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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第117話 日曜日の図書館で、君が選ぶ物語を知りたい


 日曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、窓の向こうには久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。昨夜まで薄く空を覆っていた雲はどこかへ流れ、隣家の屋根に差し込む朝日が、冬らしい冷たい光を反射している。カーテンの隙間から入ってきた光が机の上を照らし、昨日のうちに用意した鞄の金具を小さく輝かせていた。


 彩花は布団の中で一度だけ伸びをしてから、枕元の時計を確かめた。いつもの休日より少し早い時間だったが、もう一度眠ろうという気持ちにはならなかった。今日は午後一時半に、青凪市立中央図書館の入口で悠真と待ち合わせることになっている。


(まだ午前中も始まっていないのに、もう出かけることばかり考えてる。昨日はちゃんと準備したし、そんなに慌てなくても大丈夫なのに)


 そう思いながらも、彩花の視線は自然と鞄へ向かっていた。昨日読み終えた本を入れた布袋は、そのまま鞄の中に収まっている。財布もハンカチも確認済みで、寒くなったときのための手袋も忘れていない。それなのに、何かを確かめていないと落ち着かないのは、今日が普段の図書館通いとは少し違うからだろう。


 彩花はベッドから降り、窓辺に立った。庭の鉢植えには夜露が残り、葉の先で小さな水滴が揺れている。冬の朝らしく空気は冷えているはずなのに、日差しの当たる場所だけが柔らかく見えた。


 以前なら、こういう景色を見つけたときは星模様のノートへ書き留めることが多かった。今はそこへ、もう一つの気持ちが加わっている。


(悠真君にも、この朝の空を見せたいな)


 同じ青凪市に住んでいても、二人が見ている窓の外は違う。けれど、見つけたものを話すことで、少しずつ相手の毎日を知ることができる。そのことが彩花には嬉しかった。


 身支度を整えて階下へ降りると、台所から食器の触れ合う音が聞こえてきた。母の紗月が朝食を用意しており、父の耕助は食卓で温かいお茶を飲んでいる。姉の凛花はまだ寝間着姿のまま、窓際の椅子で雑誌を読んでいた。


「おはよう。今日はいい天気だね」


 彩花が声をかけると、紗月は振り返って微笑んだ。


「おはよう、彩花。昨日より空が明るいわね。でも、気温は低そうだから、出かけるときは暖かくしていきなさい。図書館の中と外では、かなり違うでしょうし」


「うん。マフラーも手袋も用意してあるよ。帰りが遅くならないようにするね」


 彩花が答えると、凛花は雑誌を閉じて妹を見た。いつものように少し楽しそうな表情を浮かべていたが、今日はすぐにからかうことをしなかった。


「待ち合わせ、一時半だったよね。図書館までの時間を考えても、そんなに早く準備しなくて大丈夫じゃない?」


「分かってるけど、何となく落ち着かなくて。忘れ物がないか気になるんだよね」


「大事な約束があると、そういうものかもね。私も友達と遠出するときは、前の晩に荷物を用意してても、朝になってもう一回確認するし」


 凛花はそう言って、彩花の前へ小皿を寄せた。いつもなら軽く笑われるところだったので、彩花は少し意外に思ったが、姉が自分の緊張を分かってくれていることが嬉しかった。


 耕助は二人の会話を聞きながら、穏やかな声で口を開いた。


「図書館で本を選ぶなら、時間を忘れすぎないようにね。好きな棚を見始めると、思っていたより長く過ごしてしまうことがあるから」


「お父さんも、前に図書館で閉館の案内が流れるまで気づかなかったことがあるんでしょう?」


 彩花が尋ねると、耕助は少し照れくさそうに笑った。


「あれは調べものが途中だったからだよ。もっとも、帰る時間を見ていなかったのは確かだけどね。今日は二人で相談しながら、ゆっくり楽しんでおいで」


 その言葉に彩花は頷いた。自分の家族が悠真との約束を自然に受け止めてくれていることは、思っていた以上に心強かった。


 朝食を終えると、彩花は食器を運び、紗月と一緒に台所を片づけた。水の流れる音を聞きながら、今日の予定を頭の中で確かめる。午後一時半に図書館の入口で待ち合わせ、本を返してから一緒に棚を見て回る。それ以外は何も決めていない。


 けれど、彩花はその余白が好きだった。


(何をするか全部決めていなくても、悠真君とならきっと楽しい。今日は私も、自分の好きな本のことをちゃんと話してみたいな)


 昨日までの自分なら、悠真がどんな本を選ぶか気になるだけだったかもしれない。今日はそこへ、自分の好みも知ってほしいという気持ちが加わっていた。


     ◇


 同じ頃、九条家では悠真が自室の机へ向かっていた。手帳には今日の予定が書き込まれており、その横には読みかけの本が一冊置かれている。窓から差し込む光は明るいものの、ガラスの向こうで揺れる庭木の枝を見ると、外の空気が冷えていることが分かった。


 悠真は手帳を閉じ、昨日彩花と交わしたメッセージを思い返した。彼女が午後一時半という時間を提案してくれたとき、嬉しかったのは都合が合ったからだけではない。彩花自身がどう過ごしたいかを考え、それを言葉にしてくれたことが、何よりも嬉しかった。


(彩花さんは、相手のことを先に考える人だから。自分の希望を聞かせてもらえると、少し安心するんだ)


 悠真は以前、祖父の俊治から聞いた言葉を思い出した。自分にとって大切なことが、相手にとっても同じとは限らない。だからこそ、相手が何を見て、どう感じているのかを知ろうとすることが大切なのだと、祖父は話していた。


 今日の図書館では、自分が知っている本を一方的に勧めるのではなく、彩花が何を選ぶのかを聞きたい。彼女が気になる本を見つけたなら、その理由も知りたいと思っていた。


 部屋の扉が控えめに叩かれ、悠真が返事をすると、妹の琴葉が顔をのぞかせた。


「お兄様、今日は図書館へ行くんでしょう? お母様から聞いたの。彩花さんと一緒なんですってね」


「うん。午後から中央図書館へ行くことになったよ。昨日、予定を確認して決めたんだ」


 琴葉は嬉しそうに微笑み、部屋の中へ一歩だけ入った。悠真は椅子を少し回し、妹の方へ身体を向ける。


「いいなあ。私も図書館は好きだけど、お兄様が誰かと本を選ぶところって、あまり想像できないかも。いつも一人で静かに選んでいる印象があるから」


「そうかもしれないね。でも、彩花さんと一緒にいると、自分だけでは気づかなかった本にも興味が湧くんだ。前に話したことを覚えていてくれたり、違う見方を教えてくれたりするから」


 悠真が答えると、琴葉は少し目を丸くした。兄が誰かの話をするとき、こんなに自然な笑顔を見せることが以前からあっただろうか。琴葉はその変化を嬉しく思いながらも、本人が気づいていないかもしれない気持ちを、わざわざ言葉にすることはしなかった。


「それなら、今日はきっと楽しいね。お兄様が帰ってきたら、どんな本を見つけたのか教えてほしいな」


「もちろん。琴葉が好きそうな本があったら、覚えておくよ」


 琴葉は満足そうに頷き、扉の方へ戻った。悠真は妹を見送ってから、机の上の本へ目を向けた。


 家では本を読むことが当たり前の習慣になっている。けれど、好きな本について話す相手が変われば、同じ物語でも違う部分に目が向くのかもしれない。悠真はそんなことを考えながら、外出の準備を始めた。


     ◇


 昼食を終えた彩花は、自室で服を選んでいた。昨日椅子に掛けておいた二つの候補を見比べ、淡い色のニットに落ち着いた色合いのスカートを合わせることにした。外は冷えているので、上着とマフラーも必要だろう。


 鏡の前で髪を整えていると、扉の向こうから凛花が声をかけた。


「彩花、そろそろ出る時間じゃない? 準備できた?」


「うん、もう少し。鞄は昨日用意したし、あとは上着を着るだけだよ」


 凛花が部屋へ入ってくると、彩花の姿を見て小さく頷いた。


「いいんじゃない? 図書館なら歩きやすい服の方が楽だし、その色、彩花に似合ってるよ」


「ありがとう。ちょっと迷ってたから、そう言ってもらえると安心する」


 彩花は鏡の中の自分をもう一度見た。特別に着飾ったわけではないが、悠真と会う日に何を着るか考える時間は、普段とは少し違って感じられる。


 凛花はそんな妹の様子を見ながら、机の上に置かれた星模様のノートへ目を向けた。


「そういえば、書いてるお話はどう? 昨日も結構長い時間、机に向かってたでしょう」


「少し進んだよ。でも、まだ完成までは時間がかかりそう。主人公が大切な人へ手紙を書こうとしてるんだけど、言葉を選ぶところが難しくて」


 彩花は内容を詳しく話しすぎないようにしながら答えた。悠真には完成してから最初に読んでもらいたいと約束している。姉には普段から創作の相談をすることもあるが、今回は自分の中で物語を育てたい気持ちが強かった。


「そっか。大事な言葉って、すぐに出てこないこともあるもんね。でも、彩花が時間をかけて考えてるなら、きっとその子に合う言葉が見つかると思うよ」


 凛花はそれ以上尋ねず、彩花の肩へ軽く手を置いた。


「今日はそのことばっかり考えないで、図書館も楽しんでおいで。外に出ると、書いてるときとは違う発見があるかもしれないし」


「うん。そうする。帰ってきたら、どんな本を見たか話すね」


 彩花が笑うと、凛花も微笑んだ。


 玄関へ降りると、紗月が上着の襟を整えながら声をかけてくれた。彩花は帰宅の目安を伝え、遅くなりそうな場合は連絡することを約束した。耕助も居間から顔を出し、気をつけて行っておいでと送り出してくれた。


 外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。けれど空はよく晴れており、道沿いの木々の影が歩道へくっきりと伸びている。彩花はマフラーへ顎を埋め、鞄の肩紐を持ち直した。


 中央図書館へ向かう道は、何度も歩いたことがある。初めて一人で本を借りに行った日も、文芸部の参考になりそうな本を探した日も、この道を通った。それでも今日は、歩くたびに少しずつ胸が高鳴っていく。


(悠真君、もう出発してるかな。早く着きすぎても困るけど、待たせたくないな)


 信号の前で足を止めると、彩花は腕時計を確かめた。待ち合わせまではまだ十分に時間がある。慌てる必要はないと分かっているのに、自然と歩幅が少しだけ速くなった。


     ◇


 中央図書館の前に着いたとき、時計は午後一時二十分を少し過ぎたところだった。建物の前には休日らしく何人かの利用者が行き交い、入口付近では親子連れが返却する本の入った袋を持って話している。自動扉が開くたび、室内の暖かい空気が外へ流れ出してきた。


 彩花は入口の脇で足を止め、周囲を見渡した。悠真の姿はまだ見えない。待ち合わせより早く着いたのだから当然だと思いながらも、少しだけ落ち着かなくなった。


 鞄の中の本を確かめようとしたところで、後ろから聞き慣れた声がした。


「彩花さん」


 振り返ると、歩道の向こうから悠真が近づいてきていた。落ち着いた色のコートを着て、片手には小さな鞄を持っている。彩花と目が合うと、悠真は自然な笑顔を浮かべた。


「こんにちは。待たせてしまったかな」


「ううん、私も今来たところだよ。悠真君、こんにちは」


 彩花は笑顔で答えたが、声が少し弾んでしまったことに気づいた。悠真も嬉しそうに目を細め、彼女の隣で足を止めた。


「今日は晴れてよかったね。朝はかなり冷えていたけど、昼間は少し歩きやすくなった気がする」


「うん。私も家を出たときは寒かったけど、歩いてたらちょうどよくなってきたよ。悠真君も、家からここまで寒くなかった?」


「大丈夫だったよ。外を歩いていると空気は冷たいけど、日差しがあるからね。それに、今日は楽しみにしていたから、あまり気にならなかったかもしれない」


 何気なく言われた最後の言葉に、彩花の胸が小さく跳ねた。悠真は照れ隠しをするでもなく、ただ嬉しそうに微笑んでいる。


(私だけじゃなかったんだ。悠真君も、今日を楽しみにしてくれてたんだね)


 彩花はマフラーの端を指先で整えながら、少しだけ頬を赤くした。


「私も、すごく楽しみにしてたよ。昨日から何回も鞄を確認しちゃって、お姉ちゃんに笑われそうになったくらい」


「そうだったんだ。俺も手帳を何度か見返していたから、似ているかもしれないね」


 悠真がそう言うと、彩花は思わず笑った。二人とも同じように今日を待っていたのだと分かると、待ち合わせ前の緊張が少しずつ和らいでいく。


 入口へ向かう前に、悠真は彩花の鞄へ目を向けた。


「今日は返す本も持ってきたんだよね。先に返却してから、ゆっくり棚を見ようか」


「うん。読み終わった本、ちゃんと持ってきたよ。返すのは少し寂しいけど、また新しい本を選べると思うと楽しみなんだ」


 二人は並んで自動扉をくぐった。外の冷たい空気から、暖房の効いた静かな空間へ移ると、彩花は自然と肩の力を抜いた。入口の近くには新着本の案内があり、その奥には見慣れた返却カウンターと本棚が続いている。


 館内では利用者たちが小さな声で話し、遠くからページをめくる音が聞こえてきた。彩花にとって馴染み深い場所だったが、今日は隣に悠真がいる。そのことが、いつもの景色を少しだけ特別にしていた。


     ◇


 返却を済ませたあと、二人は館内の案内板の前で足を止めた。彩花は普段よく見る小説の棚へ向かおうか迷ったが、せっかく一緒に来たのだから、悠真の興味がある場所も知りたいと思った。


「悠真君、今日はどの棚から見たい? 私は小説のところへ行くことが多いけど、他の棚も気になってるんだ」


 悠真は案内板を見ながら少し考えた。


「俺は歴史や文化について書かれた本を見ることが多いかな。でも、今日は彩花さんが普段どんな本を選ぶのかも知りたいから、先に小説の棚へ行ってみない?」


「いいの? 悠真君が見たいところからでも大丈夫だよ」


「うん。今日は一緒に選ぶのが楽しみだったから。彩花さんが好きな本のことを聞かせてもらえたら嬉しい」


 彩花はその言葉に頷き、二人で小説の棚へ向かった。


 本棚の間には柔らかい照明が落ち、背表紙の色が整然と並んでいる。平日の放課後とは違い、休日の午後は利用者が多いものの、皆それぞれ静かに本を探していた。彩花は通路を塞がないよう少し端へ寄り、気になっていた作家の棚を見上げた。


「私ね、登場人物の気持ちが少しずつ変わっていくお話が好きなんだ。大きな事件が起きなくても、何気ない会話とか、毎日の景色の中で何かに気づくような物語」


 悠真は隣で背表紙を眺めながら、彩花の言葉に耳を傾けた。


「彩花さんらしいね。前に話してくれた、季節の手紙が出てくる本も、そういうところが好きだったのかな」


「うん。離れて暮らしている人たちが、手紙を通して少しずつ相手の毎日を知っていくの。大きな出来事があるわけじゃないんだけど、言葉を選ぶ時間とか、返事を待つ気持ちが丁寧に書かれていて」


 彩花はそこまで話してから、少し照れくさくなった。好きな本のことになると、つい夢中になってしまう。けれど悠真は退屈そうな様子を見せず、むしろ続きを聞きたいというように顔を向けていた。


「言葉を選ぶ時間、か。彩花さんが書いている物語にも、そういう大切な時間があるのかもしれないね」


 悠真の言葉に、彩花は一瞬だけ息を止めた。彼は自分の創作の詳しい内容を知らない。それでも、彩花が何を大切にしているのかを、普段の会話から感じ取ってくれているらしい。


「うん。そうかもしれない。まだうまく書けてないところもあるんだけど、急いで答えを出したくないなって思ってるの」


「それなら、納得できるまで考えていいと思う。彩花さんが大切にしているところなら、きっと読む人にも伝わるはずだから」


 彩花は小さく頷いた。悠真の言葉は、ただ褒めるためだけのものではない。彼女が迷っていることも含めて受け止めようとしてくれるから、安心して話せるのだと思った。


 しばらく棚を見ていると、彩花は一冊の本へ目を留めた。淡い色の表紙には、古い駅舎と小さな花壇が描かれている。題名を確かめ、裏表紙の紹介文を読むと、長い間離れて暮らしていた幼馴染たちが、故郷の駅で再会する物語らしかった。


「この本、ちょっと気になるな。再会した二人が、昔と今の違いに戸惑いながら、少しずつ話すようになるんだって」


 彩花が本を見せると、悠真は紹介文へ目を向けた。


「面白そうだね。昔の思い出が同じでも、今の二人が感じることは違うかもしれない。そこからどんなふうに関係が変わっていくのか、気になるな」


「そうなの。昔のままでいてほしい気持ちと、変わったところも知りたい気持ちって、両方あると思うから」


 彩花は本を胸の前で持ち、もう一度表紙を眺めた。駅舎の前に描かれた花壇は、冬の終わりを思わせる色合いをしている。そこにどんな物語が隠れているのか、読んでみたいと思った。


「これ、借りてみようかな」


「いいと思う。彩花さんが気になった理由を聞いていたら、俺も少し読んでみたくなったよ」


 悠真が微笑むと、彩花は嬉しくなった。自分の好きなものを話したことで、相手の興味も広がる。その小さな変化が、二人で本を選ぶ楽しさなのだと感じた。


     ◇


 小説の棚を一通り見たあと、二人は悠真が普段よく立ち寄るという歴史や文化の棚へ向かった。彩花にとっては、いつも通り過ぎることの多い場所だった。背表紙には古い建物や町の成り立ち、暮らしの道具について書かれた本が並んでいる。


「悠真君は、こういう本をよく読むんだね。私、学校の授業で調べるときくらいしか見ないかもしれない」


 彩花が小さな声で言うと、悠真は少し照れくさそうに笑った。


「俺も全部詳しいわけじゃないよ。ただ、昔の人がどうやって暮らしていたのかを知るのが好きなんだ。今は当たり前にあるものも、最初から同じ形だったわけじゃないから」


 悠真は棚から一冊の本を取り出した。表紙には古い町並みの写真が使われており、窓や看板の形が時代ごとに変わっていく様子が紹介されている。


「例えば、こういう建物の写真を見ると、同じ場所でも時代によって景色が違うんだって分かるでしょう。残されたものだけじゃなくて、なくなったものにも、その時代の人たちの暮らしがあったんだと思うと面白いんだ」


 彩花は本の写真を見つめた。石畳の道に並ぶ店先や、古い木造の窓枠。自分が普段書いている物語とは違う分野の本なのに、そこには確かに人の生活が感じられた。


「本当だね。建物の形だけじゃなくて、そこで暮らしていた人のことまで考えると、写真の見え方が変わる気がする」


「うん。俺はそういうところが好きなんだ。歴史の本って、年号や出来事だけじゃなくて、誰かの毎日を知る手がかりにもなるから」


 悠真の声は穏やかだったが、好きなものを話しているときの楽しそうな響きがあった。彩花はその横顔を見ながら、少し前に自分が小説について話していたとき、悠真もこんなふうに聞いてくれていたのだろうかと思った。


(悠真君の好きなもの、まだ知らないことがいっぱいあるんだ。こうやって話してもらうと、もっと聞きたくなる)


 彩花は棚へ視線を戻し、別の本の背表紙を指さした。


「こっちは昔の手紙についての本みたい。文字の書き方とか、使われていた紙のことも載ってるのかな」


 悠真はその本を手に取り、目次を確かめた。


「そうみたいだね。手紙を書く習慣がどう変わってきたかも紹介されているみたい。彩花さん、こういうのも興味ある?」


「うん。私、物語を書くときに手紙が出てくることもあるから、少し気になるな。でも、今日は小説を一冊借りるつもりだったし、どうしよう」


 彩花が迷うと、悠真は本を戻さず、近くの閲覧席へ目を向けた。


「少しだけ中を見てみる? 借りるかどうかは、それから決めてもいいと思うよ」


「そうだね。せっかく見つけたんだし、ちょっと読んでみたい」


 二人は空いている閲覧席を探し、並んで座った。机の上へ本を置くと、彩花は目次から気になる章を選び、ゆっくりページを開いた。


 そこには、昔の人が使っていた便箋や封筒、手紙の書き出しについての説明が載っていた。彩花は写真を見ながら、文字を書くという行為が、今よりずっと時間のかかるものだった時代を想像した。


「こうして見ると、手紙って、書く前の準備から大切だったんだね。紙を選んだり、相手に合わせて言葉を考えたり。今のメッセージとは違うところもあるけど、伝えたい気持ちは似ているのかもしれない」


 悠真は隣で頷いた。


「そうだね。便利になっても、相手にどう伝えるか迷うことは変わらないのかもしれない。彩花さんが好きだって言っていた、言葉を選ぶ時間にもつながる気がする」


 彩花はページへ視線を落としたまま、静かに微笑んだ。自分の創作の中で少女が祖母へ書こうとしている手紙のことが、頭の片隅に浮かぶ。けれど、その詳しい内容を今ここで話すつもりはなかった。


 悠真には、完成してから最初に読んでもらうと約束している。その約束を守りたい気持ちと、今すぐ感想を聞いてみたい気持ちが、彩花の中で小さく重なった。


(完成したら、ちゃんと読んでもらいたい。そのとき悠真君は、どんなふうに感じてくれるんだろう)


 彩花が本を閉じると、悠真は無理に続きを尋ねなかった。彼女が何かを考えていることには気づいたようだったが、今はその時間を邪魔しない方がいいと思ったのだろう。


「この本、今日は借りずに、また気になったときに見に来てもいいかもしれないね」


 彩花が言うと、悠真は頷いた。


「うん。図書館なら、すぐに決めなくてもいいから。気になった本を覚えておいて、次に来たときに読むのも楽しいと思う」


 その言葉に、彩花は胸が温かくなった。次に来たとき、という何気ない表現の中に、また一緒に図書館へ来られるかもしれない未来を感じたからだ。


     ◇


 しばらく本を見て回ったあと、二人は館内の窓際にある休憩用の椅子へ移動した。大きな窓からは午後の光が差し込み、外を歩く人たちの姿が見える。館内は静かだったが、遠くで子ども向けの本を探す親子の声が小さく聞こえてきた。


 彩花は借りる予定の小説を膝の上へ置き、悠真の方へ顔を向けた。


「今日は、悠真君がどんな本を好きなのか少し分かった気がする。歴史の本って難しそうな印象があったけど、暮らしのことを考えながら読むと面白いんだね」


 悠真は微笑み、窓の外へ一度目を向けた。


「俺も、彩花さんが物語のどんなところを大切にしているのか、前より分かった気がするよ。大きな出来事だけじゃなくて、登場人物が少しずつ変わっていくところが好きなんだね」


「うん。たぶん、私が書きたいものもそういうお話なんだと思う。まだうまく言葉にできないところもあるけど」


 彩花はそう言って、膝の上の本を指先で撫でた。悠真は急いで答えを求めず、彼女が続きを話すのを待っていた。


「私ね、前は自分の好きなものを話すとき、相手が退屈しないかなって気にしすぎることがあったの。でも悠真君は、ちゃんと聞いてくれるでしょう。だから、話してるうちに自分でも気づかなかったことが見つかるんだ」


 悠真は少し驚いたように彩花を見た。彼女がそんなふうに感じていたことを、今まで詳しく聞いたことはなかった。


「そう思ってもらえているなら嬉しいよ。俺も彩花さんと話していると、自分が普段見ているものを違う角度から考えられるんだ。だから、今日も一緒に来られてよかった」


 彩花はその言葉に微笑んだ。二人の間に短い沈黙が生まれたが、不思議と気まずくはなかった。窓の外を通り過ぎる人影や、遠くでページをめくる音が、その静かな時間を満たしていた。


 しばらくして、彩花はふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、悠真君。前に川沿いを歩いたとき、冬の景色って静かだけど、よく見るといろんな変化があるって話したよね」


「うん。あの日は、風の音とか、葉が落ちたあとの枝の形とか、普段よりよく見えた気がした」


「今日も似てるなって思ったの。同じ図書館なのに、一人で来るときとは違う本が気になったから」


 悠真は少し考えてから、穏やかに頷いた。


「確かに。俺も今日は、彩花さんが気にした本を一緒に見たから、いつもなら通り過ぎる棚で立ち止まれた。場所が変わらなくても、誰といるかで見えるものが変わるんだね」


 彩花は窓の外へ視線を向けた。冬の午後の光が、図書館の前の木々を淡く照らしている。枝先にはほとんど葉が残っていないが、その向こうの空はよく見えた。


(悠真君といると、同じ場所でも違う景色が見える。たぶん、それが私にはすごく嬉しいんだ)


 彩花はその気持ちを言葉にしようとして、少し迷った。今すぐ全部を伝える勇気はない。それでも、何も言わずにしまっておくのは惜しい気がした。


「今日、一緒に来られてよかった。私、一人で本を選ぶ時間も好きだけど、悠真君と選ぶ時間も好きだな」


 言い終えると、彩花は自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。けれど悠真には届いていたらしく、彼は柔らかく微笑んだ。


「俺もだよ。彩花さんと一緒にいると、本を選ぶ時間まで特別に感じる」


 その言葉を聞いた瞬間、彩花の頬が熱くなった。悠真も少し照れたように視線を落としたが、すぐに彼女の方へ顔を戻した。


 二人はそれ以上、今の言葉の意味を確かめようとはしなかった。ただ、互いに同じ時間を大切に思っていることが分かり、その静かな喜びを胸に留めた。


     ◇


 午後の時間がゆっくり過ぎ、彩花が時計を確かめると、そろそろ帰りのことを考えた方がよさそうな時刻になっていた。窓の外の光は少し傾き、建物の影が長く伸び始めている。


「そろそろ本を借りて、帰る準備をしようかな。お母さんにも、暗くなる前に帰るって話してあるんだ」


 彩花が言うと、悠真は頷いた。


「そうだね。俺も帰る時間を伝えてあるから、無理せず出よう。借りる本は、さっきの小説にする?」


「うん。今日はこれにする。悠真君は何か借りる?」


 悠真は手にしていた歴史の本を見下ろし、少し考えた。


「俺はこの本にしようかな。古い町並みの写真が載っている本。さっき彩花さんと話していたら、もっと詳しく読んでみたくなったんだ」


 彩花は嬉しそうに笑った。自分が選んだ小説と、悠真が選んだ歴史の本。ジャンルは違うけれど、今日二人で話したことが、それぞれの選択に少しずつ残っている。


 貸出手続きを終えると、二人は入口へ向かった。自動扉の前で一度立ち止まり、外の様子を確かめる。午後の空はまだ明るかったが、朝よりも風が強くなっているようだった。


「外、少し寒そうだね」


 彩花がマフラーを整えると、悠真は窓の向こうの木々を見た。


「そうだね。帰り道、風が強かったら無理しないでね。今日は一緒に本を選べて楽しかったし、またゆっくり話せる時間があれば嬉しいな」


 彩花はその言葉に頷いた。今日の約束が終わることは少し寂しい。けれど、また会いたいと思える時間があったこと自体が、何より嬉しかった。


「私も。また一緒に本を選びたいし、今日借りた本を読んだら感想も話したいな」


「うん。楽しみにしてる」


 二人は図書館の外へ出た。冷たい風が頬に触れたが、彩花の胸の奥には、館内で過ごした温かな時間が残っていた。


 帰り道の分かれ道まで並んで歩きながら、二人は今日見つけた本のことを少しずつ話した。彩花は再会を題材にした小説の結末が気になると言い、悠真は古い町並みの写真から、今の青凪市にも残っているものを探してみたいと話した。


 分かれ道に着くと、彩花は足を止めた。悠真も隣で立ち止まり、彼女の方へ顔を向ける。


「今日はありがとう、悠真君。すごく楽しかった」


「こちらこそ、ありがとう。彩花さんと一緒に来られてよかった。また連絡するね」


「うん。気をつけて帰ってね」


 彩花が微笑むと、悠真も柔らかく笑った。二人はそこで別れ、それぞれの帰り道へ歩き出した。


 彩花は少し進んだところで振り返りそうになったが、足を止めずに前を向いた。振り返らなくても、今日の悠真の笑顔は心に残っている。鞄の中には新しく借りた本があり、その本を選んだときの会話も、まだ鮮やかに思い出せた。


(今日のこと、帰ったら日記に書こう。それから、星模様のノートも少し開いてみたいな)


 冬の風が髪を揺らし、歩道に落ちた葉を小さく転がしていく。彩花はマフラーへ頬を寄せながら、家へ向かって歩いた。


     ◇


 夕方、彩花が帰宅すると、玄関には暖かな空気が漂っていた。靴を脱いで居間へ顔を出すと、紗月が振り返り、凛花もソファから顔を上げた。


「おかえり、彩花。寒くなかった?」


「ただいま。帰りはちょっと風が強かったけど、大丈夫だったよ。本も一冊借りてきたの」


 彩花が鞄から本を取り出して見せると、紗月は表紙を眺めて微笑んだ。


「素敵な表紙ね。今日はゆっくり選べた?」


「うん。悠真君と一緒に小説の棚を見て、それから歴史の本のところにも行ったんだ。普段あまり見ない本もあって、すごく面白かった」


 彩花は自然と話し始めていた。悠真が古い町並みの写真に興味を持っていることや、昔の手紙について書かれた本を一緒に見たこと。話しているうちに、今日の出来事が一つずつ思い出される。


 凛花は妹の話を聞きながら、少しだけ目を細めた。彩花が本について楽しそうに話すことは珍しくない。けれど今日は、どんな本を見つけたかだけでなく、誰とその本を見たかが、言葉の端々に表れていた。


「いい時間だったみたいだね。彩花が普段見ない棚まで行ったなら、かなり楽しめたんじゃない?」


「うん。悠真君が好きなものを教えてくれたから、私も興味が湧いたんだ。今度は一人で行ったときにも、あの棚を見てみようかな」


 紗月は娘の言葉に頷き、温かい飲み物を用意してくれた。彩花はカップを両手で包み、冷えた指先が少しずつ温まるのを感じた。


 夕食までの時間、彩花は自室へ戻り、借りてきた本を机の上へ置いた。すぐに読み始めたい気持ちもあったが、まずは今日のことを少し書き留めておきたかった。


 葉模様の日記帳を開くと、昨日書いた待ち合わせの約束が目に入った。昨日の自分は、明日どんな本に出会えるのか楽しみにしていた。その「明日」が終わり、今は新しい本が手元にある。


『今日は悠真君と中央図書館へ行った。小説の棚だけじゃなくて、歴史や文化の本も一緒に見た。悠真君が好きなものを話してくれたとき、いつもより少し楽しそうに見えて、私まで嬉しくなった。』


 彩花はペンを止め、窓の外へ目を向けた。夕暮れの空には薄い雲が広がり、建物の影がゆっくり濃くなっている。今日の図書館で見た窓の外の景色とは違うが、同じ冬の一日の続きだった。


『一人で本を選ぶ時間も好き。でも、悠真君と一緒だと、自分だけでは気づかなかった本に出会える。好きなものを話して、相手の好きなものを聞く時間が、こんなに楽しいなんて思わなかった。』


 そこまで書くと、彩花は日記帳を閉じた。次に星模様のノートを開き、祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語を読み返す。


 少女はまだ三行目を書いていない。庭の花が咲きそうなこと、毎朝見ていると昨日とは違うところが見つかること。その二行だけが、手紙の中に残っている。


 彩花は今日、悠真と本を選びながら、相手の好きなものを知ることの嬉しさを感じた。自分の気持ちを伝えることだけでなく、相手がどんな景色を見ているのか知ろうとすることも、大切なのだと思った。


(この少女も、祖母に自分の寂しさを伝えたいだけじゃないのかもしれない。遠くで暮らしているおばあちゃんが、今どんな毎日を過ごしているのか知りたいんじゃないかな)


 彩花はノートの余白へ、短い覚え書きを残した。手紙の三行目はまだ書かない。けれど、少女が祖母へ向ける気持ちの中に、新しい問いが一つ生まれた。


 それは物語を急に進めるための答えではなく、少女が自分の言葉を見つけるための、小さな手がかりだった。


     ◇


 その夜、悠真は自室で今日借りた本を開いていた。古い町並みの写真が並ぶページを眺めながら、図書館で彩花と交わした会話を思い出す。彼女が写真を見て、そこに暮らしていた人たちのことを考えたと話してくれたとき、悠真は自分が普段見落としていた部分に気づいた。


 歴史の本を読むとき、悠真は建物の形や時代の変化へ目を向けることが多かった。けれど彩花は、そこにいた人の生活や気持ちを想像する。その違いが面白く、もっと話してみたいと思った。


(彩花さんと話すと、同じ本でも違うところが見える。今日一緒に選べて、本当によかった)


 悠真は本を閉じ、机の上のスマートフォンを手に取った。帰宅してからしばらく経っているので、彩花も家で落ち着いている頃だろう。無理に長く話す必要はないが、今日のお礼をもう一度伝えたかった。


『彩花さん、今日はありがとう。家には無事に帰れたかな。図書館で一緒に本を選べて、すごく楽しかったよ』


 送信すると、少しして彩花から返事が届いた。


『悠真君、こちらこそありがとう。ちゃんと帰れたよ。今、今日借りた本を机に置いて、どこから読もうか楽しみにしてたところ』


 悠真は画面を見て微笑んだ。


『俺も借りた本を少し開いていたんだ。彩花さんと話したことを思い出しながら読むと、前よりいろんなところが気になるよ』


『私も同じだよ。今日見た歴史の本、また図書館に行ったときに見てみたいな。悠真君が好きなものを教えてくれて嬉しかった』


 悠真はその言葉をゆっくり読んだ。自分の好きなものを話すことが、彩花にとっても楽しい時間になっていたのだと分かり、胸が温かくなる。


『俺も、彩花さんが好きな物語のことを聞けて嬉しかった。今日借りた本を読み終えたら、また感想を聞かせてね』


『うん。悠真君の本の感想も聞きたいな。今日は本当にありがとう。おやすみなさい』


『おやすみ、彩花さん。また話そうね』


 やり取りを終えたあと、悠真はスマートフォンを机へ置いた。窓の外には静かな夜が広がり、遠くの街灯が淡く光っている。


 今日の約束は、図書館で本を選ぶという、ごく普通のものだった。けれど悠真にとっては、彩花の好きなものを知り、自分の好きなものを伝えられた、大切な一日になった。


 机の引き出しには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまわれている。そこに書かれた「悠真君と話す時間が、私は好きです。」という言葉を思い出すと、今日の彼女の笑顔が自然と浮かんだ。


 悠真は静かに息を吐き、もう一度本を開いた。ページの中には、昔の町で暮らしていた人たちの時間が残されている。その写真を眺めながら、彼は今日の彩花の言葉を思い出した。


 同じ場所でも、誰と見るかで違う景色になる。


 そのことを知った日曜日の夜は、いつもより少しだけ温かく感じられた。


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