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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第116話 約束の日を決める前に、君の好きな本をもう一度


 土曜日の朝、水瀬彩花が目を覚ましたとき、家の中は平日よりも少し静かだった。窓の向こうには薄い雲が広がり、向かいの家の屋根を淡い光が撫でている。昨夜は悠真と中央図書館へ行く話をしたあと、なかなか眠れないのではないかと思ったのに、いつの間にか眠ってしまったらしい。枕元の時計を確かめると、まだ朝食まで余裕があった。


 彩花は布団の端に座り、机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。夜のうちに何度も読み返したメッセージが、そこには残っている。自分から一緒に本を選びたいと伝え、悠真も同じように思ってくれていたことを知った。その事実は、翌朝になっても少しも色褪せていなかった。


(会いたいって言ってよかった。まだいつ行けるか分からないけど、今度は二人で日を考えられるんだ)


 胸が温かくなる一方で、彩花は昨夜の自分の言葉を思い返した。家の予定を確かめてから相談する、と悠真へ返事をしている。今朝はまず、家族に週末の用事がないか聞いてみようと思った。図書館で返すつもりの本も、机の本立てにきちんと収まっている。


 身支度を整えながら、彩花はカーテンを少し開けた。雲の切れ目から射した光が庭の鉢植えを照らし、細い茎の影を地面へ落としている。昨日の晴れた朝とは違う穏やかな景色に、思わず目を細めた。


 階下へ降りると、台所から焼いたパンの香りが漂ってきた。母の紗月が皿を並べ、父の耕助は湯気の立つコーヒーを前に新聞を読んでいる。姉の凛花は食卓に頬杖をつき、週末に読みたい雑誌のページをめくっていた。


「おはよう。今日はみんな、いつもよりゆっくりだね」


 彩花が声をかけると、紗月が笑顔で振り返った。


「おはよう、彩花。学校がお休みだから、朝くらいはね。お父さんも今日は家で片づけたいことがあるんですって」


「大した用事じゃないよ。古い書類を整理しようと思っているだけだから、手伝いを頼むつもりもないんだ」


 耕助は新聞を畳み、娘が席につくのを待ってからカップを持ち上げた。彩花は朝食を受け取り、昨夜から考えていたことをどのタイミングで話そうか迷った。家族に隠すようなことではないが、悠真と会いたいという気持ちまで知られてしまいそうで、少し照れくさかった。


「お母さん、今日か明日って、家で何か予定あるかな。私、中央図書館に本を返しに行きたくて」


 紗月は冷蔵庫の横にある予定表へ目を向け、週末の欄を確かめた。


「家族みんなで出かける予定はないわよ。家の用事が終わってからなら、どちらの日でも大丈夫だと思うけど。図書館には一人で行くの?」


 彩花はパンを持った手を止めた。凛花が雑誌から顔を上げた気配もする。家族の視線を意識すると頬が熱くなったが、昨日は悠真に自分の希望を伝えられたのだと思い直した。


「まだ決まってないんだけど、悠真君と一緒に本を選ぼうって話してるの。お互いの予定を確認してから、日にちを相談することになってて」


 凛花は口元を緩めたものの、すぐにからかうことはしなかった。代わりに雑誌を閉じ、彩花の方へ身体を向けた。


「そっか。じゃあ、向こうの予定が分かったら決めればいいんじゃない? 前から一緒に行きたいって言ってたんでしょ」


「うん。私から聞いてみたの。読み終わった本もあるし、それに……また一緒に本を見たかったから」


 言葉の終わりが少し小さくなると、凛花は柔らかく微笑んだ。紗月も予定表から目を離し、娘へ頷いてみせた。


「自分の気持ちをちゃんと伝えられたのね。相手の予定も大事にして、無理のない時間を選べばいいと思うわ。帰る時間だけ決まったら教えてね」


「ありがとう。決まったらちゃんと話すね」


 耕助はそれまで静かに聞いていたが、彩花が落ち着いたところで声をかけた。


「図書館なら、急いで全部の棚を見ようとしなくてもいいからね。二人で選ぶと、きっと自分だけでは手に取らなかった本も見つかるだろうし」


 彩花はその言葉に頷いた。悠真がどんな本を選ぶのか知りたいと思う一方で、自分が好きな棚も案内してみたい。図書館は二人が出会った場所だから、そこへ一緒に戻ることには、ただ本を借りる以上の意味があるように感じられた。


 朝食のあと、彩花は食器を運びながら紗月と少し話した。紗月は図書館へ行くこと自体より、娘が相手の都合を気にしながらも自分の希望を言えるようになったことを喜んでいるようだった。その表情を見て、彩花は昨夜の緊張が無駄ではなかったのだと改めて思った。


     ◇


 午前中、彩花は自室の机を片づけた。借りていた季節の手紙を題材にした小説を本立てから取り出し、表紙やページの端に傷がないか確かめる。読み終えたときに挟んでいた自分の栞を抜くと、物語の終盤で感じた温かさが蘇ってきた。


 遠く離れて暮らす家族が、すぐには届かない手紙を通じて相手の季節を知っていく物語だった。返事を待つ間に不安になることもあるし、書き手が伝えたつもりのことが、読み手には少し違って届くこともある。それでも、言葉を重ねることで互いの暮らしを知っていく姿が、彩花の心に残っている。


(この本を読んだことも、今書いてる物語につながってるんだろうな。でも、同じように書きたいわけじゃない。私の少女には、あの子だけの言葉を見つけてほしい)


 彩花は返却する本を布製の袋へ入れ、机の脇へ置いた。まだ図書館へ行く日は決まっていないので、鞄に入れっぱなしにはしない。貸出期限も確認し、急いで今日返さなければならないわけではないと分かると、肩の力が少し抜けた。


 次に星模様のノートを開く。祖母へ手紙を書く少女の物語は、庭を眺める場面から少しずつ進んでいる。少女が実際に書いた手紙は、庭の花がもうすぐ咲きそうだという一行と、毎朝見ていると昨日とは少し違うところが見つかるという二行だけだ。そのあとの白い余白は、書けないから残っているというより、まだ言葉を選んでいる少女の時間そのものに見えた。


 彩花は昨日の余白に書いたメモを読み返した。大切なところを残しながら、少しだけ言葉を整える。それは文芸部の表紙について考えたことだったが、少女の手紙にも通じている。祖母を心配させたくない気持ちを消さずに、寂しいことも伝えられるかもしれない。


 ただ、彩花はすぐに三行目を書かなかった。今日はまず、少女が手紙を机に置いたあと、どうやって一日を過ごすのかを考えたかった。手紙を書いていない時間にも少女の生活は続いている。祖母が離れた場所で暮らしているからといって、少女の毎日が寂しさだけでできているわけではないはずだ。


 窓の外で風が吹き、鉢植えの細い茎が揺れた。彩花はその動きを見ながら、ノートへ文章を書き足した。


『少女は手紙を机の上へ残し、台所へ向かった。窓の外に見える庭では、朝の光を受けた花の蕾が小さく揺れている。祖母がいた頃なら、朝食の支度をしながら、あの蕾は昨日より膨らんだかもしれないと話していただろう。


 けれど、今は誰かに知らせる前に、自分で確かめる時間がある。少女は湯気の立つ飲み物を用意し、窓辺へ戻った。花が咲く日を待つことは、祖母がいなくなったあとも続けられるのだと、ようやく思えた。』


 そこまで書くと、彩花はペンを置いた。少女の気持ちを急に明るくしたつもりはない。寂しさがなくなったわけでもない。ただ、祖母の不在を感じながらも、少女が自分の暮らしを続けていることを書けたのが嬉しかった。


 ノートを閉じる前に、彩花は別のページに短い覚え書きを残した。少女の祖母は遠くで暮らしていて、今も手紙を受け取れる相手だ。別れが永遠のものではないからこそ、少女はどんな言葉を渡すか悩んでいる。その前提を曖昧にしないよう、自分自身のために確かめた。


 昼前になると、廊下から凛花の足音が聞こえた。開いた扉の向こうから姉が顔をのぞかせ、彩花が机へ向かっているのを見ると声を落とした。


「書いてるところだった? お昼の前にお茶を淹れようと思ったんだけど、彩花も飲む?」


「うん、飲みたい。ちょうど一区切りついたところだよ」


 彩花が椅子から立つと、凛花は机のノートをちらりと見たものの、中身を覗こうとはしなかった。そのさりげない気遣いがありがたく、彩花はノートを閉じて姉と階下へ向かった。


     ◇


 同じ土曜日の午前、九条家では悠真が父の正樹と話す時間を取っていた。居間には朝の光が差し込み、窓の外では庭木の枝がゆっくり揺れている。正樹は仕事の書類を一度閉じ、息子が話し終えるまで待つ姿勢を見せた。


「昨日、母さんにも少し相談したんだけど、中央図書館へ出かける日を決めたくて。今週末か、難しければ別の休みに時間を取れるか確認したいんだ」


 正樹は頷き、手元の予定を確かめた。悠真は急かさず、窓の外へ一度目を向けた。庭の奥では白い毛並みのハクが歩いており、日なたを探すように場所を移している。


「今週末について、家から必ず参加してもらう予定は入っていない。ただし、来月の家の用事はまだ調整中だから、そちらは日程が決まり次第、改めて伝えるよ。出かけるなら、行き先と帰宅の目安を知らせてくれればいい」


「分かった。まだ相手の予定も確認しているところだから、決まったら伝えるよ」


 悠真が答えると、正樹は予定表を閉じ、息子へ視線を戻した。


「前に話していた水瀬さんと一緒に行くのかな」


「うん。彩花さんと、図書館で本を選ぼうって約束していたんだ。昨日、彼女からもまた一緒に行きたいって言ってもらえて」


 言いながら、悠真は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。正樹は息子の表情に気づいたようだったが、からかうことなく穏やかに頷いた。


「それなら、二人の都合が合う日を相談するといい。こちらの予定が分かったからといって、相手にも同じように空いている時間があるとは限らないからね」


「うん。そこはちゃんと聞くつもりだよ」


 正樹は少し考えてから、言葉を続けた。


「悠真は昔から、約束を守ろうとする気持ちが強い。いいことだけれど、最初に決めた日だけにこだわる必要はないよ。相手が安心して過ごせる時間を選ぶことも、約束を大切にする方法だから」


 悠真はその言葉を胸に留めた。家族の予定を確かめることができ、今度は彩花と相談できる。それだけでも十分嬉しいが、急いで日付を決めるより、彼女の希望を聞いてから考えたかった。


 話を終えて居間を出ると、廊下の向こうから琴葉の声がした。悠真が振り返ると、妹は小さな箱を抱えて立っていた。箱の中には、以前一緒に挟んだ葉を乾かすための紙が入っている。


「お兄様、押し葉の様子を見てもいい? この前はまだ少し湿っていたでしょう。今日は紙を替えるかどうか確かめたいの」


「いいよ。机の上で広げようか。ただ、まだ完全に乾いたとは限らないから、ゆっくり見よう」


 二人は日当たりのよい小さな机へ移動し、箱の中身を慎重に取り出した。琴葉は葉を直接強く押さえないよう気をつけながら、吸い取り用の紙の状態を確かめる。悠真も端の部分に湿り気が残っていないか見て、新しい紙を用意した。


「前より軽くなった気がするけど、まだ少し柔らかいね。もう少しこのままにした方がいいのかな」


 琴葉の問いに、悠真は葉の縁を見つめてから答えた。


「そうだね。急いで取り出すと形が崩れるかもしれないし、今日は紙だけ替えておこう。きれいに残したいなら、待つ時間も必要なんだと思う」


 琴葉は納得したように頷き、取り替えた紙を丁寧に重ねた。葉がずれないように箱へ戻すと、兄を見上げて笑った。


「待ってる間も楽しいね。毎回、少しずつ変わってるのが分かるもの」


「うん。そういう見方もあるね」


 悠真は妹の言葉に微笑んだ。押し葉が完成するまでの時間を、琴葉はただの待ち時間とは思っていないらしい。何かを大切に残そうとする過程そのものを楽しんでいるのだ。


 箱を片づけたあと、琴葉はハクのところへ行くと言って庭へ向かった。悠真は自室へ戻り、机の引き出しへ目を向けた。そこには、琴葉と一緒に扱っている押し葉とは別に、彩花との思い出につながる橙色の葉が包まれている。彩花にはまだ話していない、小さな秘密だった。


 悠真は引き出しを開けず、手帳を取り出した。今週末に大きな家の予定がないと分かったので、彩花へそのことを伝えられる。ただ、午前と午後のどちらが都合よいかも、何時間くらい過ごしたいかも、二人で決める必要があった。


(彩花さんは、本を返す予定もあるんだったな。図書館でゆっくり選べるように、時間には余裕を持ちたい。でも、彼女の家の都合も聞いてからだ)


 悠真は手帳の空いた欄を見つめ、スマートフォンを手に取った。


     ◇


 彩花が昼食のあとに自室へ戻ると、机の上のスマートフォンに新しい通知が表示されていた。悠真からのメッセージだと分かり、彩花は椅子へ腰を下ろしてから画面を開いた。


『彩花さん、こんにちは。今朝、家の予定を確認できたよ。今週末は大きな用事が入っていないから、彩花さんの都合がよければ、図書館へ行く日を相談できそうなんだ』


 彩花は読み終えてから、思わず笑顔になった。昨夜はまだ日付のない約束だったものが、少しだけ具体的になってきた。けれど、返事を急ぐ前に、朝の家族との会話を思い返した。


『こんにちは、悠真君。確認してくれてありがとう。私も家で聞いてみたら、今週末は大丈夫そうだったよ。お母さんには、帰る時間が決まったら教えてねって言われたの』


 送ると、ほどなく返事が届いた。


『よかった。急に今日というのも慌ただしいかもしれないから、明日の日曜日はどうかな。午後なら、落ち着いて本を選べると思うんだけど』


 彩花は窓の外へ目を向けた。明日は日曜日。午後に中央図書館へ行くなら、午前中に家のことを済ませてから出かけられる。帰りが暗くなりすぎないようにすれば、紗月にも安心してもらえるだろう。


『明日の午後、私も大丈夫だと思う。せっかくだから、少し早めの時間にして、暗くなる前に帰れるようにしたいな』


『うん、俺もその方がいいと思う。図書館の開館時間も確認して、待ち合わせは無理のない時間にしよう。場所は中央図書館の入口付近でどうかな』


 彩花は、初めて悠真と出会った図書館の入口を思い浮かべた。自動扉の向こうには静かな閲覧席と本棚が並び、外の喧騒とは違う時間が流れている。何度も通った場所なのに、悠真と待ち合わせると思うだけで、いつもと違って見えそうだった。


『うん、入口付近なら分かりやすいね。時間は午後一時半くらいだとどうかな。お昼を食べてから出られるし、ゆっくり本も見られると思う』


 送信したあと、彩花は自分が具体的な時間を提案できたことに少し驚いた。以前なら相手の希望を待っていたかもしれない。けれど今日は、自分がどう過ごしたいかを考え、その理由も一緒に伝えられた。


 悠真から返事が届いた。


『午後一時半、いいね。俺もその時間なら大丈夫だよ。じゃあ、明日の日曜日、一時半に中央図書館の入口付近で待ち合わせにしようか』


 彩花は画面を見つめた。日付も、時間も、場所も、二人で一つずつ決めた。大きな出来事ではないのかもしれないが、彼女にとっては胸がいっぱいになるほど嬉しいことだった。


『うん。明日の一時半、楽しみにしてるね。読み終わった本も忘れずに持っていくよ』


『俺も楽しみだよ。彩花さんが次にどんな本を選ぶのか、気になってる』


 その言葉を読んだ彩花は、思わず机の上の返却用の本へ目を向けた。悠真は彼女の選ぶ本に興味を持ってくれている。彩花も、悠真がどの棚で足を止めるのか知りたかった。


『悠真君が選ぶ本も見てみたいな。前に話した本のことも、また聞かせてほしい』


『もちろん。明日はお互いの気になる棚を見て回れたらいいね』


 やり取りが一段落すると、彩花はスマートフォンを机へ置いた。すぐに立ち上がる気にはなれず、椅子の背にもたれたまま天井を見上げる。昨夜まで「いつか」だった約束が、「明日」に変わった。その小さな変化が、部屋の空気まで明るくしたように感じられた。


(明日、悠真君に会えるんだ。図書館で一緒に本を選べるんだね)


 彩花は両手を膝の上で重ね、しばらくその嬉しさを味わった。約束が決まったからといって、今すぐ何か特別なことをしなければならないわけではない。けれど、何を着ていこうか、返却する本を忘れないようにしようかと考える時間さえ、楽しくなっていた。


     ◇


 夕方、彩花は母の紗月へ明日の予定を伝えた。台所では夕食の支度が進み、まな板に包丁が触れる規則的な音が響いている。紗月は手を止めずに話を聞き、待ち合わせの場所と時間を確かめた。


「明日の午後一時半に、中央図書館の入口で悠真君と待ち合わせすることになったの。暗くなる前に帰るつもりだから、帰りの時間もちゃんと連絡するね」


「分かったわ。二人で相談して決められたのね。寒い時期だから、帰る頃の気温も考えておくといいわよ」


「うん。手袋も持っていく。返す本はもう用意してあるんだ」


 紗月は娘の声に弾んだ響きがあることに気づいたようだったが、必要以上に尋ねなかった。代わりに、図書館では静かに過ごせるといいわね、と穏やかに言った。


 彩花はその気遣いが嬉しく、野菜を洗う手伝いを申し出た。紗月が頼んだものを流しへ運びながら、明日のことを考える。悠真と会うのは、先週の土曜日に川沿いを歩いて以来になる。あの日も二人で景色を見ながら話したが、明日は本棚の間で新しい発見を分け合えるかもしれない。


 夕食の席では、凛花が彩花の表情を見て、予定が決まったのだろうと察したようだった。けれど姉はからかう代わりに、以前自分が借りた本の返却を忘れかけた話をして、家族を笑わせた。


「私なんて、返却する本を玄関に置いたまま出かけたことあるからね。彩花はちゃんと鞄に入れておきなよ」


「うん、明日の朝にもう一度確認する。今から入れておこうかな」


「早すぎても、別の鞄に替えたら忘れるかもしれないよ。使う鞄を決めてからの方がいいんじゃない?」


 凛花の現実的な助言に、彩花は笑いながら頷いた。楽しみな気持ちが先に立つと、普段なら気づくことも抜けてしまうのかもしれない。だからこそ、落ち着いて準備する時間も大切にしたかった。


 食後、彩花は自室で明日使う鞄を選び、返却する本を布袋ごと入れた。財布とハンカチ、手袋を確認し、必要以上の荷物は持たないことにする。服はまだ迷ったが、図書館で長く過ごしても疲れないものを選ぼうと考え、候補を二つだけ椅子へ掛けた。


 鏡の前でマフラーを合わせてみると、ふと自分の表情が目に入った。少し照れたように笑っている自分を見て、彩花は頬へ手を当てた。


(本を選びに行くだけなのに、こんなに楽しみなんだ。悠真君と一緒だから、なんだよね)


 その気持ちを無理に否定する必要はなかった。好きな人と会えることが嬉しい。まだ相手へその言葉を直接伝える勇気はないけれど、自分の中ではもう分かっている。


     ◇


 同じ頃、悠真は自室で明日の予定を手帳へ書き込んでいた。中央図書館、午後一時半、入口付近で待ち合わせ。文字にしてみると、昼間に交わしたメッセージが確かな約束として形になったことを実感できる。


 机の上には読みかけの本が一冊置かれていた。悠真はその表紙を眺め、明日彩花にどんな棚を見せたいか考える。自分の好みを説明することは難しくないが、彩花が何を面白いと感じるのか聞く方が、きっともっと楽しいだろう。


 窓の外では庭の灯りが点き、ハクが家族の誰かに呼ばれてゆっくり歩いていく姿が見えた。悠真はその様子を眺めながら、彩花と初めて図書館で話した日のことを思い出した。あの頃は、彼女とこんなふうに次の約束を相談できるようになるとは考えていなかった。


(彩花さんが自分から誘ってくれたこと、やっぱり嬉しかったな。明日は俺も、彼女と過ごす時間をちゃんと楽しもう)


 悠真は手帳を閉じ、机の引き出しへそっと手を伸ばした。中には淡い青色の花柄のカードがしまわれている。彩花が自分の好きなものを大切にしてくれることへの感謝と、一緒に話す時間が好きだという気持ちを書いてくれた、大切なカードだ。


 悠真はカードを取り出して少し眺め、元の場所へ戻した。明日、彼女がどんな本を選ぶかは分からない。それでも、好きなものを話すときの彩花の表情を、また近くで見られるのだと思うと、胸が温かくなった。


 別の引き出しにしまった橙色の葉は、そのままにしておいた。あの葉について話す日が来るかどうかは、まだ分からない。今はただ、明日の図書館で彼女と過ごす時間を大切にしたかった。


     ◇


 夜、彩花は葉模様の日記帳を開いた。土曜日は学校のない一日だったが、振り返ると小さな出来事がいくつも重なっている。朝に家族へ予定を聞いたこと、星模様のノートで少女の暮らしを少し書き進めたこと、そして悠真と明日の待ち合わせを決めたこと。


『今日は、悠真君と中央図書館へ行く日が決まった。明日の午後一時半、入口で待ち合わせ。まだ先だと思っていた約束が、急に明日になったみたいで不思議な気持ち。』


 彩花は書いた文字を見つめ、ペン先を止めた。約束を決めるとき、悠真は自分の希望を聞いてくれた。彩花も、早めの時間がいいと伝えられた。どちらか一人が決めたのではなく、二人で選んだ時間だった。


『悠真君は、私の都合を大切にしてくれる。だから私も、悠真君がどうしたいのか聞きたい。明日は本を選ぶだけじゃなくて、悠真君の好きなものをもっと知れたら嬉しい。』


 書き終えると、彩花は日記帳を閉じた。星模様のノートの少女は、まだ祖母への三行目を探している。自分は今日、悠真へ会いたい気持ちを伝えたあと、その先の約束を一緒に決めることができた。


 同じように言葉を選んでいても、進む速さは違う。彩花はそれでいいと思った。少女には少女の時間があり、自分には自分の時間がある。どちらも急いで答えを出さなくていい。


 ベッドへ入る前に、彩花は鞄の中の返却用の本をもう一度確かめた。布袋の口から覗く表紙を見て、明日この本を図書館へ返すのだと思うと、少しだけ名残惜しい気持ちが生まれる。それでも、本を返すことは物語との別れではない。読んで感じたことは、これからも自分の中に残っていく。


 部屋の明かりを落とすと、窓の向こうには静かな冬の夜が広がっていた。彩花は布団の中で目を閉じ、図書館の入口に立つ悠真の姿を想像する。彼が自分に気づいて微笑んでくれる瞬間を思い浮かべると、胸の奥がまた少し温かくなった。


(明日は、どんな本に出会えるのかな。それから、悠真君とどんな話ができるんだろう)


 楽しみな気持ちを抱えたまま、彩花はゆっくり眠りへ落ちていった。明日の午後、二人で選んだ約束の時間が待っている。


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