第115話 冬の表紙に灯る小さな光と、君に会いたい金曜日
金曜日の朝、水瀬彩花は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光が、机の上の星模様のノートを細く照らしている。昨夜の雲はどこかへ流れたらしく、窓の向こうには冬らしい澄んだ青空が広がっていた。
彩花は布団を抜け出し、冷えた床へ足を下ろした。窓を開けるほどの勇気はなかったが、ガラス越しに眺める庭には、昨日とは違う明るさがあった。葉を落とした枝の一本一本が朝日に縁取られ、植木鉢の土にはまだ夜の湿り気が残っている。
(今日は金曜日。文芸部の表紙、少しでも進んでいるといいな)
昨日、表紙を担当する女子部員は、枝先の濃さと下部の小さな文字の見え方を調整していると話していた。最初の表紙が持っていた淡い冬空の雰囲気を壊さないために、何度も比べながら作業を進めている。彩花は完成を楽しみにしている一方で、急かしたくないとも思っていた。
机に置かれた星模様のノートへ目を移す。遠くへ引っ越した祖母に手紙を書く少女は、まだ三行目の言葉を決めていない。昨夜は写真立てを見つめ、祖母が自分の話を最後まで聞いてくれた記憶を思い出す場面を書いた。祖母が恋しいという気持ちを消さず、それでも今の庭を大切にする少女の姿が、少しずつ見えてきている。
(この子も、きっと自分の言葉が見つかるよね。私が代わりに急いで答えを決めるんじゃなくて、もう少し一緒に考えてみたい)
彩花はノートをそっと閉じ直し、制服へ着替えた。階下から食器の触れ合う音が聞こえ、朝食の支度が進んでいることを知らせていた。
◇
食卓では、母の紗月が焼いた卵を皿へ移していた。父の耕助は新聞を脇へ置き、姉の凛花は湯気の立つお茶を飲んでいる。彩花が挨拶をすると、紗月は温かい味噌汁を差し出し、今朝は昨日より冷えるらしいと教えてくれた。
「手袋、忘れないようにね。晴れていると暖かそうに見えるけれど、外の空気は冷たいわよ」
「うん、持っていく。窓から見てると、すごく気持ちのいい朝なんだけどね」
彩花が笑うと、凛花が食卓の向こうから尋ねた。
「そういえば、昨日話してた文芸部の表紙はどうなったの? 最初の雰囲気を残しながら直すって言ってたでしょ」
「まだ作業中だよ。枝の先を少し見えやすくして、下の文字も読みやすくするんだけど、全部濃くしちゃうと空の柔らかさが変わるから、担当の子が丁寧に試してくれてるの」
「直すところが二つでも、全体の印象を守ろうと思うと難しいんだね」
「うん。昨日も、私たちが好きだった部分をちゃんと残したいって話してくれた。だから、出来上がるのが楽しみなの」
凛花は頷き、少し考えるように箸を止めた。
「彩花、前は自分の作品を人に読んでもらうだけでも緊張してたよね。今はほかの人の作品や表紙のことまで、すごく真剣に考えてるんだなって思う」
言われてみれば、そのとおりだった。初めて文芸部で自分の文章を見せた頃は、感想をもらうことだけで胸がいっぱいだった。今は、一冊の部誌として手に取る人のことや、制作に関わった部員たちの気持ちも考えている。
「自分の文章が大事なのは変わらないけど、みんなが大切にしてるものも、ちゃんと形になってほしいんだ。表紙だって、誰かが時間をかけて作ってくれたものだから」
彩花が答えると、耕助が穏やかに微笑んだ。
「一人で作るものとは違う楽しさがあるんだろうね。意見が違うこともあるだろうけど、相手が何を大切にしているかを聞けるなら、いい作品になると思うよ」
「うん。今日は私も、気づいたことがあったらきちんと伝えたいな」
紗月が食器を置きながら、無理に背伸びしなくてもいいのよ、と声をかけた。彩花は頷いた。自分の意見を伝えることは、誰かより正しい答えを出すことではない。みんなで考えるために、自分が見えたものを差し出すことなのだ。
朝食を終え、玄関でマフラーを整えた彩花は、家族へ行ってきますと声をかけた。背中に返ってきた三人の声が、冷たい朝へ踏み出す足を軽くしてくれた。
◇
通学路の角を曲がったところで、彩花は昨日見かけた小さな花壇へ目を向けた。曇り空の下ではひっそりと見えた花が、今日は朝日を受けてはっきりとした色を見せている。信号待ちの間に眺めていると、近くを通り過ぎた人の足音や、車が路面を走る音が不思議と遠く感じられた。
彩花は花壇を見つめながら、昨夜悠真と交わした言葉を思い出した。自分の考えを話してくれるのが嬉しい、と彼は言ってくれた。彩花もまた、悠真が何を見て、どう感じたのか聞ける時間が好きだった。
(今日は金曜日だから、悠真君も週末のことを考えてるかな)
中央図書館で一緒に本を選ぶ約束は、まだ日程が決まっていない。彩花は借りていた季節の手紙を題材にした小説をすでに読み終えていたが、返却はまだ済ませていなかった。次に図書館へ行くなら、その本を返して、悠真とそれぞれ気になる棚を見て回れたら嬉しい。
ただ、九条家には家の予定もある。彼の学校のことも、彩花にはすべて分かるわけではない。自分が会いたいと思うだけで予定を決めるのは違うだろう。
(でも、会いたいって伝えることまで遠慮しなくてもいいのかな。悠真君の都合を聞いて、一緒に考えればいいんだよね)
彩花は昨日、姉が話してくれた言葉を思い返した。上手く言おうとしすぎなくても、まず自分が何を伝えたいのかを考える。言葉を整えるのは、そのあとでもいい。
信号が青に変わり、彩花は歩き始めた。胸の中には、今日の部誌のことと、悠真に話してみたい小さな希望が並んでいた。
◇
教室へ入ると、田辺大地が窓際で友人と話していた。彩花が挨拶すると、大地は手を上げて応じ、机の上のノートを片づけながら笑った。
「水瀬、妹にこの前の話を伝えたらさ、『同じ景色を見つける人がいるんだね』って喜んでたよ。昨日は曇ってたから、晴れた日の窓とどっちが好きか、ずっと考えてた」
「そうなんだ。どっちが好きって言ってた?」
「結局、決められなかったらしい。晴れてると外で遊びたくなるけど、曇りの日は窓から見える花の色が目立つんだって」
彩花は思わず笑みを深くした。今朝、自分も花壇の花を見ていた。違う場所で暮らす大地の妹も、同じように景色の色を気にしていることが嬉しかった。
「どっちも好きでいいと思うな。晴れの日と曇りの日で、見つかるものが違うんだもの。妹さん、よく見てるんだね」
「俺もそう言ったんだけど、本人は『ちゃんと考えたかったの』って真面目な顔してたよ。そういうところ、妙に頑固なんだ」
大地は苦笑したが、声には親しみがあった。彩花は妹の様子を想像し、誰かが自分の好きなものを一生懸命考えている姿は、きっと見ていて嬉しいのだろうと思った。
話が終わると、彩花は自分の席へ向かった。窓際の机には朝日が差し込み、ノートの白い表紙が眩しく見える。鞄から教科書を取り出しながら、彩花は一つのことに気づいた。
昨日までの自分は、誰かの見つけた景色を聞くことが楽しいと思っていた。今日はそこから少し進んで、相手がどうしてそれを大切に思うのかにも興味が湧いている。
それは、悠真に対しても同じだった。
◇
午前中の授業が進むうちに、教室の窓から差し込む光の角度が少しずつ変わった。彩花は授業へ集中しながらも、休み時間になると文芸部の確認用メモを取り出し、昨日佐々木先輩へ伝えた見出しの余白について考えていた。
昨日の確認では、一か所だけ前後のページと余白が違って見えた。設定によるものか、印刷された紙の見え方なのかはまだ分からない。意図された配置なら変更する必要はないが、もし偶然ずれているなら、完成前に確かめておいた方がいい。
彩花は自分のメモに、確認したい点を短く書き直した。決めつけるのではなく、元の意図を聞いてから考える。その順番を大切にしたかった。
昼休みになると、弁当を食べ終えた彩花は星模様のノートを開いた。少女の手紙について考えようとして、ペンを持ったところで、ふと動きを止める。
祖母へ何を伝えたいのか。
少女は、庭の花の変化を知らせたいだけではない。祖母と離れてからも、自分が毎日を過ごしていることを伝えたい。寂しい日があっても、祖母と大切にした庭を見続けていることを知ってほしい。
彩花は少し考えてから、物語の本文ではなく余白へ書いた。
『相手を心配させないことだけが優しさではない。相手が受け取れると信じて、自分の気持ちを渡すことも、優しさかもしれない。』
その言葉を書いた瞬間、昨夜の悠真との会話が重なった。彼は彩花の言葉を嬉しいと言ってくれた。彩花も、悠真が自分の気持ちを話してくれることを嬉しく思っている。
(会いたいって言うのも、私の気持ちを渡すことなんだよね。悠真君に無理をしてほしいわけじゃないけど、私が楽しみにしてるって知ってもらえたら……)
彩花はペンを置き、ノートを閉じた。少女の手紙の三行目は、今日もまだ書かない。けれど、言葉を選ぶために必要なことが、少しだけ分かってきた気がした。
◇
桜華学園高等部の昼休み、九条悠真は生徒会で使う資料を手帳へ挟んでいた。昨日、担当ごとの確認事項を整理したおかげで、今日の作業は予定どおり進んでいる。以前のように自分一人で抱え込まず、必要なところを周囲へ相談できたことが、悠真には小さな自信になっていた。
そこへ森川航平がやって来て、机の上の手帳へ目を向けた。
「九条、今日は珍しく昼休みに余裕ありそうだな。生徒会の方、落ち着いたのか?」
「うん。確認が必要なところは担当の人たちと共有できたよ。午後に少し話せば、今日は大丈夫そう」
「それならよかった。お前、前は一人で先回りして全部やろうとしてたからさ」
航平はそう言って椅子を引き、悠真の隣へ腰を下ろした。窓の外では、冬の日差しが校庭の端を明るく照らしている。
「そういえば、週末は何か予定あるのか?」
航平の問いに、悠真は少し考えた。家族の来月の予定についてはまだ詳細が決まっていないし、今週末に関しても、家で確認しておきたいことがある。彩花と中央図書館へ行く話もしているが、日付は決めていない。
「今のところ、はっきり決めている予定はないよ。ただ、家の方も確認してからにしようと思ってる」
「なるほど。水瀬さんと図書館に行くって話は、まだ決まってないんだっけ?」
「うん。いつか一緒に本を選ぼうって話してるんだけど、具体的な日はまだなんだ」
航平は悠真の表情を見て、少し笑った。
「じゃあ、お互いの予定が合うか聞いてみたらいいんじゃないか。九条、相手に合わせようとして、自分がどうしたいか言うのを後回しにすることあるだろ」
悠真はその言葉に目を瞬かせた。
「……そう見える?」
「見える。相手の都合を大事にするのはいいけど、お前が会いたいって思ってることまで隠す必要はないと思うぞ。無理なら別の日にすればいいだけだし」
航平は何気ない調子で言ったが、悠真はすぐに返事をしなかった。彩花の時間を大切にしたいと思うあまり、自分から具体的な話を切り出すことに慎重になっていたのかもしれない。
(彩花さんがどうしたいか聞くことと、俺がどうしたいか伝えることは、どちらか一つを選ぶ話じゃないんだよな)
悠真はゆっくり頷いた。
「ありがとう、航平。家の予定を確かめたうえで、彩花さんにも聞いてみようと思う」
「それでいいと思う。何か決まったら、また楽しそうな顔で報告してくれよ」
航平の言葉に、悠真は少し照れたように笑った。友人はそれ以上からかわず、午後の授業の話へ移った。
◇
放課後、彩花が文芸部の活動場所へ入ると、いつもとは少し違う空気が流れていた。窓際の机にノートパソコンが置かれ、表紙を担当する女子部員が佐々木先輩と画面を見比べている。机の端には、保護用の透明な袋に入れられた最初の試し刷りが置かれていた。
「お疲れさまです。何か確認しているところですか?」
彩花が尋ねると、佐々木先輩が顔を上げた。
「お疲れさま、水瀬さん。ちょうど表紙の調整案を見せてもらっていたところなんだ。まだ印刷したものじゃないけど、昨日までに話した二か所を、画面上で比べられるようにしてくれたんだよ」
彩花は表紙担当の部員へ目を向けた。彼女は少し緊張したように笑い、画面を彩花にも見える角度へ動かした。
「まだ最終案じゃないんだけどね。元のデータはそのまま残して、枝先と下の文字だけ別の案を作ってみたの。よかったら、水瀬さんにも見てほしくて」
「もちろん。見せてくれてありがとう」
画面には、最初の表紙と、調整を試した表紙が並んでいた。淡い冬空を背景に細い枝が伸び、空の余白が静かな印象を作っている。二つを見比べると、調整した方では枝先の一部がわずかにはっきりし、下部の小さな文字も背景から浮かび上がって見えた。
彩花はすぐに感想を言わず、少し離れた位置から画面全体を眺めた。次に近づき、枝先と文字の見え方を順番に確かめる。
「……すごい。枝が急に太くなった感じはしないのに、先の方まで見えるようになってる。空の広さも、最初に見たときの印象が残ってると思う」
表紙担当の部員は、ほっとしたように息を吐いた。
「本当? そこが一番気になってたの。濃くしすぎると枝ばかり目立っちゃうから、線の全部じゃなくて、見えにくかったところだけ触ってみたんだ」
「うん。私は、このくらいなら自然に見えると思う。でも、印刷するとまた違って見えるかもしれないね」
彩花がそう付け加えると、佐々木先輩が頷いた。
「そうだね。画面で見やすくなっても、紙にすると印象が変わることがあるから、これで決定とはしない方がいいと思う」
表紙担当の部員も頷き、画面の下部を指さした。
「文字の方も、色の差を少し変えただけなの。大きさも位置も触ってないよ。ただ、どの程度なら紙で読みやすくなるかは、まだ分からないから」
彩花は椅子から少し身を引き、遠目に画面を眺めた。下部の文字は最初の案より見つけやすいが、表紙全体の静かな印象を邪魔していないように感じられる。
「前より読みやすそうだね。でも、最初の試し刷りと同じ条件で比べないと、ちゃんと分からないところもあると思う。もし次に印刷して確認するときは、元の方も隣に置いて見たいな」
「私もそう思ってた。最初の試し刷りはこのまま残しておくね」
女子部員は保護袋に入った紙へ目を向けた。彩花もその紙を見た。最初に手にしたときには、淡い空の色と余白の美しさに目を奪われた。今は、どこを変え、どこを残すのかという制作の過程まで、大切に思えている。
佐々木先輩は二人のやり取りを聞き、メモ帳へ確認事項を書いた。
「じゃあ、今の段階では、調整の方向性はよさそう。ただし、まだ画面上の案だから、次に印刷できたときに改めて確認する、ということでいいかな。本文側の確認も終わってから、最終的なことは相談しよう」
「はい。私もそれがいいと思います」
彩花が答えると、表紙担当の部員も頷いた。彼女の表情にはまだ慎重さが残っていたが、昨日までより肩の力が抜けているように見えた。
「みんなが最初の雰囲気を好きだって言ってくれたから、どこを残せばいいか考えやすかった。ありがとう」
「こちらこそ、丁寧に直してくれてありがとう。私、最初の表紙を見たときの気持ちも、今日見比べたときの気持ちも、どっちも覚えておきたいな」
彩花がそう言うと、女子部員は少し驚き、それから嬉しそうに笑った。
「そんなふうに言ってもらえると、作ってよかったって思うよ」
そのあと、彩花は本文の確認作業へ移った。昨日気になった見出しの余白について佐々木先輩と確認したところ、見出しの配置自体は意図されたもので、ほかのページとの違いも構成上の理由があると分かった。彩花は説明を聞き、メモへ「確認済み・変更不要」と書き加えた。
気づいたことを伝えたからといって、必ず修正になるわけではない。確認した結果、そのままでよいと分かることにも意味がある。彩花はそのことを実感しながら、残りの資料へ目を通した。
活動の終わりには、佐々木先輩が部員たちへ今日の進み具合を共有した。表紙は二か所の調整案が画面上で確認できる段階になったが、修正版の印刷はまだ。本文については既存の配置を確かめる作業を続け、最終的な印刷や配布については、必要な確認が揃ってから話し合うことになった。
彩花はその説明を聞き、胸の中で小さく頷いた。
完成したわけではない。それでも、確かに昨日より前へ進んでいる。
◇
校舎を出る頃には、空が夕方の柔らかな色へ変わっていた。朝ほど鮮やかな青ではないが、遠くの建物の上には細い光が残っている。彩花はマフラーを整え、通学路を歩き始めた。
鞄の中には、今日確認したことを書いたメモ帳がある。表紙の枝先が少し見えやすくなったこと、文字の読みやすさが改善されそうなこと、けれどまだ印刷して確かめる必要があること。どれも、家へ帰ったら誰かに話したい出来事だった。
(悠真君にも、今日のことを聞いてほしいな)
そう思ったあとで、彩花は朝から胸に残っていたもう一つの気持ちを思い出した。
中央図書館で一緒に本を選ぶ約束。
借りている本を返しに行きたいという理由もある。けれど、それだけではない。
悠真と一緒に棚を眺め、気になる本を見つけたときに、その場で感想を話したい。互いにおすすめの本を手に取り、どうしてその本を選んだのか聞いてみたい。
彩花は歩きながら、少しだけ頬を緩めた。
(私、やっぱり悠真君に会いたいんだ)
その気持ちは、言葉にしてしまえばとても単純だった。
けれど、単純だからこそ、今まで少し照れくさかったのかもしれない。
悠真の都合も大切にしたい。家の予定や学校の用事があるなら、無理をしてほしくない。だからこそ、勝手に日を決めるのではなく、二人で相談すればいい。
彩花は信号待ちの間にスマートフォンを取り出しかけ、すぐに鞄へ戻した。歩きながら慌てて送るより、家へ帰って落ち着いてから話そうと思ったからだ。
夕方の風が頬を撫でた。冷たかったが、胸の奥には小さな期待が灯っていた。
◇
九条家では、悠真が帰宅後に家族の予定を確認していた。父の正樹はまだ仕事の途中で、母の麗華が居間で書類を整理している。悠真は挨拶をしてから、今週末について家の用事があるか尋ねた。
「母さん、土日について少し聞いてもいいかな。学校の用事ではないんだけど、出かける予定を相談したくて」
麗華は手を止め、息子へ目を向けた。
「もちろん。今のところ、私からあなたにお願いしている予定はないわ。ただ、お父様にも確認した方がいいことがあるかもしれないから、今日のうちに聞いてみましょうか」
「ありがとう。まだ相手とも日程を決めていないから、急ぎではないんだ」
悠真が答えると、麗華は穏やかに微笑んだ。
「水瀬さんとお出かけする相談?」
悠真は少し驚いたが、隠す理由もないと思い、頷いた。
「うん。前に中央図書館で一緒に本を選ぼうって話をしたんだ。まだいつ行くか決めていないから、まず家の予定を確認しておきたくて」
「そう。素敵ね。でも、予定が決まっていないなら、あなた自身がいつ行きたいのかも考えておくといいわ。相手に全部決めてもらうより、相談しやすくなると思うから」
その言葉に、悠真は昼休みの航平との会話を思い出した。相手の都合を尊重することと、自分の希望を伝えることは、どちらも大切なのだ。
「そうだね。俺も彩花さんと一緒に行きたいから、ちゃんと伝えようと思う」
麗華は息子の表情を見て、少しだけ目を細めた。
「ええ。無理のない日を二人で選べるといいわね」
そのあと、悠真は自室へ戻った。机の引き出しには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードが大切にしまわれている。もう一つの引き出しには、以前拾った特別な橙色の葉が、彼女には知らせないまま別に包んで保管されていた。
悠真は引き出しを開けず、机に置いた手帳を見つめた。約束を重ねることは、ただ予定を増やすことではない。互いの時間を大切にしながら、一緒に過ごしたいという気持ちを形にすることなのだと思った。
◇
夕食を終えた彩花は、自室の机に星模様のノートを広げた。今日の文芸部で見た表紙を思い出すと、淡い空の中に伸びる細い枝の形が、目を閉じても浮かんでくる。最初の試し刷りではかすかだった先端が、画面上の調整案では自然に見えるようになっていた。
彩花はノートの余白に、短く書いた。
『全部を変えなくても、伝わりやすくなることがある。大切なところを残しながら、少しだけ言葉を整える。』
それは表紙についての感想だったが、少女の手紙にもつながるように感じられた。寂しさを隠す必要はない。かといって、寂しさだけを大きく書く必要もない。少女が祖母へ本当に伝えたいことを残しながら、言葉を探せばいい。
彩花は物語の続きを書き始めた。
『少女は写真立てを机の端へ戻し、開いたままの手紙を見つめた。庭の花がもうすぐ咲きそうなことも、毎朝少しずつ違うところが見つかることも、嘘ではない。祖母が隣にいなくなってから寂しいと思ったことも、同じように本当だった。
少女は、そのどれか一つを選ばなければならないのだと思っていた。元気な自分を伝えるなら、寂しいことは書いてはいけない。寂しいと書くなら、祖母を心配させてしまう。けれど、今は少し違う気がした。
庭に咲きかけた花を見つけて嬉しかった朝にも、祖母と一緒に見られたらよかったと思うことがある。その二つは、互いを打ち消すものではなかった。
少女は窓の外を見た。夕方の庭には、朝とは違う色の光が落ちている。祖母がいた頃にも、きっと同じような夕方があったはずなのに、その一つ一つを覚えているわけではない。それでも、隣で聞いた声の温かさだけは、今も思い出せた。
手紙の余白は、まだ白いままだった。少女はそこへ急いで言葉を書き足す代わりに、明日の朝、もう一度庭を見てみようと思った。祖母に話したいことが、きっとまた一つ見つかる気がしたからだ。』
彩花はペンを置き、書いた文章を読み返した。手紙の三行目は、まだ書かれていない。けれど、少女が次に庭を見る理由が、少しだけ明確になったように思えた。
(この子は、おばあちゃんがいない庭でも、ちゃんと自分の一日を過ごしてる。それを伝えたいんだよね)
彩花はノートを閉じた。今夜は、物語を無理に先へ進めるより、悠真へ今日の出来事を話したかった。
◇
スマートフォンを手に取ると、悠真からメッセージが届いていた。
『彩花さん、こんばんは。今日は文芸部の活動があったんだよね。表紙の調整はどうだった?』
彩花は自然と笑顔になった。昨日までの話を覚えていてくれたことが嬉しく、机へ少し身を寄せて返信を打った。
『こんばんは、悠真君。今日はね、修正した表紙を画面で見せてもらえたんだ。枝先が少し見えやすくなって、下の文字も前より読みやすそうだったよ。でも、まだ印刷してないから、最終決定はこれからなの』
悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。
『それは嬉しい進展だね。最初の雰囲気を残しながら調整できたんだ。彩花さんが大切にしていた冬空の印象も、ちゃんと残っていた?』
彩花はその問いを読んで、胸が温かくなった。悠真はただ作業が進んだことだけではなく、彩花が何を好きだと言っていたかまで覚えてくれている。
『うん。空の余白はちゃんと残ってたよ。そこが一番嬉しかったかもしれない。担当の子がすごく丁寧に考えてくれたんだ』
『よかった。実際に紙で見るのも楽しみだね。みんなで大切に作っているのが伝わってくるよ』
彩花は少し考えてから、今日確認したことや、見出しの余白について変更不要と分かったことも伝えた。悠真は一つずつ聞き、確認してそのままでよいと分かることにも意味があると返してくれた。
話が一段落したところで、彩花はスマートフォンを両手で持ち直した。
朝から考えていたことを、今なら伝えられるかもしれない。
『悠真君、もう一つ相談してもいい?』
送信したあと、彩花は小さく息を吸った。すぐに返信が届く。
『もちろん。どうしたの?』
彩花は文章を打ちかけ、いったん消した。「図書館の本を返しに行こうと思っていて」とだけ書けば、自然な話題にはなるだろう。けれど、それでは自分が本当に伝えたいことが少し隠れてしまう気がした。
彩花はゆっくりと文字を打ち直した。
『前に話してた、中央図書館で一緒に本を選ぶ約束なんだけどね。私、悠真君とまた一緒に本を見たいなって思ってるの。借りてた本も読み終わったから返しに行きたいし、もし都合が合う日があったら、相談できたら嬉しいな』
送信すると、胸の奥が少しだけ騒がしくなった。
無理に誘ったつもりはない。それでも、会いたいという気持ちが伝わる文章になっただろうかと、少し恥ずかしくなる。
悠真からの返事を待つ間、彩花は机の上のノートへ目を向けた。少女は祖母へ伝える言葉を探している。自分もまた、相手へ渡したい気持ちを言葉にしたばかりだった。
やがて、画面が明るくなった。
『彩花さん、誘ってくれてありがとう。俺も、また一緒に本を選びたいと思ってたんだ。今日、家でも週末の予定を少し確認していたところなんだよ』
彩花は目を見開いた。
(悠真君も、同じことを考えてくれてたんだ……)
嬉しさが胸いっぱいに広がった。けれど、続く文章を読んで、彩花は彼らしい丁寧さに微笑んだ。
『まだ家の予定を全部確認できたわけじゃないから、今すぐ日にちは決められないんだけど、確認してから相談してもいいかな。彩花さんの都合も聞きたい』
『うん、もちろん。私も家で予定を確認するね。急がなくて大丈夫だよ』
彩花はそう返し、少し迷ってから、もう一文を付け加えた。
『でも、一緒に行きたいって思ってくれてたの、すごく嬉しい』
送信した瞬間、頬が熱くなった。けれど今度は、文章を消したいとは思わなかった。
悠真から返事が届く。
『俺も、彩花さんがそう言ってくれて嬉しいよ。図書館でどんな本を見つけられるか、今から楽しみだね』
彩花はスマートフォンを胸元へ寄せた。まだ約束の日付は決まっていない。それでも、二人が同じ場所へ行きたいと思っていることは、確かめられた。
それだけで、金曜日の夜が少し特別なものに感じられた。
◇
悠真はメッセージを終えたあと、しばらく机の前に座っていた。
彩花が、自分と一緒に本を選びたいと伝えてくれた。
借りた本を返すという用事もあるのだろう。けれど、彼女はそれだけではなく、「また一緒に本を見たい」と書いてくれた。
悠真はその言葉を読み返し、静かに微笑んだ。
(彩花さんも、俺と同じように会いたいと思ってくれてたんだな)
昼休みに航平から言われたことを思い出す。相手の都合を大切にするだけでなく、自分の希望も伝えていい。今日、彩花は先にその一歩を踏み出してくれた。
悠真も、次に相談するときには、自分がいつなら動けるのかをきちんと確かめ、彼女へ伝えようと思った。
机の引き出しには、彩花からもらった花柄のカードがしまわれている。そこに書かれた言葉を思い出すと、胸が温かくなる。彩花が好きだと言ってくれた時間を、これからも大切にしたかった。
窓の外には冬の夜が広がっている。まだ次の約束は日付を持っていないが、悠真にはその未定の時間さえ、楽しみに待てるものになっていた。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。
今日の出来事を思い返すと、朝の食卓で交わした話、学校で大地から聞いた妹のこと、文芸部で見た表紙の調整案が順番に浮かんでくる。どれも大切な出来事だったが、最後に悠真と交わした言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ弾んだ。
『今日は、文芸部の表紙の修正案を画面で見た。枝先が少し見えやすくなって、下の文字も読みやすそうだった。まだ紙で確認していないけれど、最初の冬空の雰囲気が残っていて嬉しかった。』
彩花は一度ペンを止め、続きを考えた。
『気づいたことを伝えて、確かめて、必要なら直す。変えなくていいところは、そのまま大切にする。みんなで作るって、そういうことなのかもしれない。』
それから、少しだけ字を丁寧にして書き加えた。
『夜、悠真君に中央図書館へ一緒に行きたいって伝えた。まだ日にちは決まっていないけれど、悠真君も一緒に本を選びたいと思ってくれていた。すごく嬉しかった。』
彩花は書いた文字を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
会いたいと伝えることは、思っていたほど難しいことではなかった。もちろん、送信する前は緊張した。それでも、自分の気持ちを隠さずに伝えたことで、悠真の気持ちも少し知ることができた。
(私、ちゃんと言えたんだよね。悠真君とまた一緒に過ごしたいって)
彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。星模様のノートには、まだ完成していない少女の手紙がある。自分の気持ちを言葉にする勇気を、今日の彩花は少しだけ知った。
けれど、少女の答えを今夜急いで書き足すつもりはなかった。彩花自身が一歩進めたからといって、少女にも同じ速さを求める必要はない。彼女には彼女の時間があり、伝えたい相手との関係がある。
彩花は部屋の明かりを落とし、ベッドへ入った。
明日からは週末。図書館へ行く日はまだ決まっていないが、二人で相談する約束が新しく生まれた。
窓の向こうには静かな夜が広がっている。彩花は布団の中で小さく微笑み、悠真と本棚の前に並ぶ日を思い浮かべた。
(次に会えたら、どんな本を一緒に見つけられるのかな)
その楽しみを胸に、彩花はゆっくりと目を閉じた。




