第114話 まだ名前のない気持ちを、君に伝える言葉に変えて
木曜日の朝、青凪市の空には薄い雲が広がっていた。
水瀬彩花がカーテンを開けると、向かいの家の屋根が淡い灰色の空を背景に浮かび上がった。昨日は朝日を受けて明るく見えた庭木も、今朝は落ち着いた色をしている。窓の隅には夜の冷え込みで生まれた小さな曇りが残っていて、彩花が指先で触れると、ガラスの冷たさが肌へ伝わってきた。
いつもと同じ朝のはずなのに、昨日とは違う。
そう感じたのは、空模様が変わったからだけではなかった。
昨夜、九条悠真と交わしたメッセージが、まだ心の中に残っている。
悠真は、通学路の街路樹が葉を落としたことで、以前は見えなかった建物の屋根が見えるようになったと教えてくれた。彩花は朝日によって落ち葉の色が違って見えたことを話し、二人で同じ青凪市の、それぞれ違う場所にある景色を分け合った。
(悠真君が見ているものを、私も少しだけ知ることができたんだよね)
彩花は窓辺から離れ、制服へ着替える前に机へ目を向けた。
星模様のノートが、昨夜閉じたまま置かれている。
そこには、遠くで暮らす祖母へ手紙を書く少女の物語が綴られていた。
少女は庭の花がもうすぐ咲きそうなことを書き、毎朝見ていると昨日とは違うところが見つかると続けた。けれど、その先の言葉にはまだ迷っている。
祖母と離れて暮らす寂しさを、どう伝えればいいのか。
心配させたいわけではない。だからといって、寂しくないふりをしたいわけでもない。
彩花はノートの表紙に指を置いた。
(この子が伝えたいのは、寂しいっていう気持ちだけじゃないんだと思う。でも、そこを飛ばして明るい手紙にしてしまうのも違う気がする)
昨日の国語の授業では、相手を思うからこそ言葉を選ぶ人物について考えた。
言葉を選ぶことと、言いたいことを隠すことは、きっと同じではない。
彩花はその違いをもう少し考えてみたいと思いながら、ノートを鞄へ入れた。今日は文芸部の活動もある。自分の物語だけではなく、冬の部誌についても、まだ確かめなければならないことが残っていた。
窓の外をもう一度見ると、薄い雲の向こうが少し明るくなっていた。
彩花はカーディガンを脱いで制服の上着を整え、階下へ向かった。
◇
食卓には焼いた鮭と卵焼きが並び、台所から味噌汁の香りが漂っていた。
母の紗月は湯気の立つ椀を運んでおり、父の耕助は新聞を畳んで朝食を始めるところだった。姉の凛花は一足先に席についていて、彩花が入ってくると、温かいお茶の入った湯飲みを少し横へ寄せた。
「おはよう、彩花。今朝は早かったのね」
「おはよう、お母さん。なんとなく目が覚めちゃって。外を見てたら、昨日と空の色が全然違うなって思ったの」
彩花が席につくと、紗月は微笑んで味噌汁を置いた。
「今日は日差しが弱いものね。気温もあまり上がらないみたいだから、帰りは気をつけてね」
「うん。手袋も持っていくよ」
彩花は答えながら、温かい椀を両手で包んだ。指先に伝わる熱が心地よく、窓の向こうに見える冷たい空との違いが、いつもよりはっきり感じられる。
凛花が箸を置き、妹へ目を向けた。
「最近、彩花は朝から楽しそうだよね。前は起きてきても、しばらく眠そうにしてたのに」
「そんなに違う?」
「違うと思うよ。今朝だって、空の色を見てたって言うとき、ちょっと嬉しそうだったし」
からかうような言い方ではなかったが、彩花は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「昨日、悠真君と景色の話をしたからかもしれない。お互いに、通学路で気づいたことを教え合ったんだ」
凛花は納得したように頷いた。
「なるほどね。誰かに話そうと思って見ると、普段よりいろんなものが目に入るのかも」
「うん。悠真君が見つけたものも、私が見つけたものとは違ってて、それが面白かったの」
耕助は二人の会話を聞きながら、穏やかに口を開いた。
「同じ街に住んでいても、毎日歩く道は違うからね。知らない景色を教えてもらえるのは、なかなか楽しいことだと思うよ」
彩花は父へ頷いた。
悠真と自分は、通う学校も違えば、家での過ごし方も違う。
九条家には、彩花がまだよく知らない習慣や予定もあるのだろう。それでも、悠真が何を見て、何を考えたのかを一つずつ聞くことならできる。
「お父さんは、誰かに景色の話をすることってある?」
彩花が尋ねると、耕助は少し意外そうに目を瞬かせ、それから笑った。
「そうだなあ。仕事の帰りに夕焼けが綺麗だった日は、お母さんに話すことがあるよ。写真を撮るほどじゃなくても、誰かに伝えたくなるときはあるからね」
「そういえば、この前も空が赤かったって教えてくれたわね」
紗月がそう言うと、耕助は照れくさそうに笑った。
「覚えてたのか」
「もちろん。あなたが嬉しそうに話していたもの」
そのやり取りを見て、彩花の胸がじんわりと温かくなった。
長く一緒に暮らしている両親でも、互いが見ていない景色を伝え合うことがある。
特別な出来事でなくても、相手に聞いてほしいと思う気持ちは、日常の中に自然と存在しているのだ。
凛花はそんな両親を見てから、彩花へ小さく笑いかけた。
「彩花も、九条君に話したいことがいっぱいあるんだね」
彩花は箸を持ち直し、少し考えてから頷いた。
「うん。話したいこともあるし、聞きたいこともあるよ。学校が違うから、知らないことも多いし……でも、それが寂しいだけじゃなくて、楽しみでもあるんだ」
言い終えてから、彩花は自分の言葉に少し驚いた。
以前なら、離れている時間はただ会えない時間だと思っていたかもしれない。
けれど今は、その時間にそれぞれが経験したことを、あとから伝え合える。
そう考えると、学校へ向かう道さえ、少し違って感じられた。
◇
家を出ると、頬に触れる空気は予想していたより冷たかった。
彩花はマフラーを首元へ寄せ、手袋をはめて歩き始めた。住宅街の道には登校する学生や駅へ向かう人たちが行き交い、道路の向こうからは車の走る音が途切れず聞こえてくる。
昨日、赤く見えた落ち葉があった植え込みの前で、彩花は少し歩調を緩めた。
今朝の葉は、茶色に近い落ち着いた色をしている。
朝日が直接当たっていないからだろう。葉の表面にある細い筋も、昨日ほどはっきり見えなかった。
彩花はその違いを眺めながら、ふと考えた。
(昨日と同じものなのに、今日は違って見える。でも、昨日の色が間違いだったわけじゃないんだよね)
昨日の景色も、今日の景色も、どちらも本当だ。
それは、物語の登場人物が同じ出来事を違う気持ちで受け止めることにも、少し似ているのかもしれない。
彩花は歩き始めながら、鞄の中に入れたノートのことを思い出した。
祖母と一緒に庭を見ていた頃の少女。
今、ひとりで庭を眺めている少女。
同じ場所を見ていても、感じることはきっと違う。
けれど、その違いを寂しさだけで表してしまうと、少女が今の庭で見つけたものを見落としてしまう気がした。
考えながら歩いていると、前方の横断歩道で信号が赤に変わった。彩花はほかの歩行者と一緒に足を止め、道路の向こうにある小さな花壇へ目を向けた。
花壇には冬の寒さに耐える低い花が植えられている。色の濃い葉の間から小さな花が顔を出しており、曇り空の下でも、その色だけは柔らかく浮かび上がっていた。
信号が青になるまでの短い時間、彩花はその花を眺めた。
晴れた日には気づかなかったかもしれない。
明るいものが少ない朝だからこそ、目に留まった色だった。
彩花は横断歩道を渡りながら、小さく微笑んだ。
今日も、悠真へ話したい景色が一つ増えた。
◇
青葉高校の教室へ入ると、窓際では田辺大地が友人と話していた。
彩花に気づいた大地は軽く手を上げ、挨拶を交わしてから、思い出したように声をかけた。
「そういえば、水瀬。昨日、妹にお前の話をしたら、すごく喜んでたよ」
「私の話?」
「うん。朝の光で落ち葉の色が違って見えたって話。自分と同じことに気づいた人がいるって分かって、嬉しかったみたいでさ」
彩花は驚き、それから自然と笑顔になった。
「そうなんだ。私も嬉しいな。妹さんに、教えてくれてありがとうって伝えてくれる?」
「もちろん。たぶん、また何か見つけたら俺に話してくると思うけど」
大地は少し困ったように笑ったものの、その表情には妹への親しみが滲んでいた。
彩花はその様子を見て、心が温かくなった。
「田辺君も、ちゃんと妹さんの話を聞いてるんだね」
「まあ、毎日いろいろ話してくるからな。正直、全部は覚えてないこともあるけど……嬉しそうに話されると、適当に返すのも違う気がして」
大地は照れくさそうに頭を掻いた。
「それに、俺が知らないことも結構あるんだよ。小さいからって、何も知らないわけじゃないんだなって思う」
彩花は頷いた。
「うん。誰かが気づいたことを聞くと、自分の見方も少し変わるよね」
そう答えたとき、彩花の頭に悠真の姿が浮かんだ。
彼も、自分の話を聞いて景色を見るようになったと言ってくれた。
けれど、それは彩花だけが悠真へ何かを与えているということではない。彩花もまた、彼の言葉によって知らなかった景色や考え方に触れている。
大地は彩花の穏やかな表情を見て、少し笑った。
「水瀬って、最近そういう話をするとき、すごく楽しそうだよな」
「えっ、そうかな?」
「うん。前から本の話は楽しそうだったけど、今は本以外の話でも、自分がどう思ったかをよく話すようになった気がする」
彩花はすぐには返事をせず、鞄の持ち手を軽く握った。
姉の凛花も、似たことを言っていた。
以前より、自分の考えを言葉にするようになった、と。
「……そうだったら、嬉しいな」
彩花は少し照れながら答えた。
「まだ上手く言えないことも多いけど、自分が思ったことを、ちゃんと話せるようになりたいんだ」
大地は何気ない調子で頷いた。
「いいんじゃないか。水瀬の話、聞いてて面白いし」
その言葉は、彩花が予想していたより素直に胸へ届いた。
自分の考えを話すことに、以前ほど強い不安を感じなくなっている。
それでも、相手が受け取ってくれたと分かる瞬間には、今も小さな勇気が報われるような嬉しさがあった。
◇
午前中の国語の授業では、短い随筆が取り上げられた。
書き手が子どもの頃に親しんだ庭を、大きくなってから訪れる内容だった。庭の広さも、植えられた木の種類も大きく変わっていないのに、書き手は以前とは違う印象を受けている。
彩花は文章を読みながら、昨日考えたことを思い出した。
同じ場所でも、見る人の気持ちや経験によって印象は変わる。
教師は黒板へ文章の一節を書き、教室へ向き直った。
「この書き手は、昔の庭を懐かしんでいますね。ただ、最後まで読むと、昔へ戻りたいと願っているだけではないようにも見えます。では、今の庭について、書き手はどんな気持ちを抱いているのでしょう」
教室のあちこちで、教科書のページをめくる音がした。
彩花も文章の終わりへ目を向けた。
書き手は、昔の庭にあったものが少しずつ変わっていることを寂しく思いながらも、今そこに咲いている花を見つめている。
過去を大切にすることと、今を大切にすることは、両立できるのかもしれない。
彩花はノートへ考えを書き、隣の女子生徒との意見交換に臨んだ。
「水瀬さん、私は最初、昔の方がよかったっていう話なのかなと思ったんだけど、最後のところが少し違う気がして」
隣の生徒が教科書を指さすと、彩花はその箇所を読み返した。
「私も、昔を懐かしんでいるのは確かだと思う。でも、今の庭にあるものもちゃんと見てるんじゃないかな。変わってしまったことを寂しく思っても、今の景色まで嫌いになるわけじゃないと思うんだ」
「なるほど。寂しいって気持ちと、今の庭を好きだって気持ちが一緒にあるってこと?」
「うん。私は、そう読めたよ。大切な思い出があるからこそ、今の庭も特別に感じるのかもしれないね」
隣の生徒は頷き、ノートへ書き加えた。
「それなら、最後の花の描写も分かる気がする。昔と同じ花じゃなくても、ちゃんと見てるんだね」
彩花はその言葉に微笑んだ。
自分一人で考えていたときよりも、文章の意味が少し広がったように感じられた。
意見交換が終わると、教師は何人かの生徒へ考えを尋ねた。
彩花は指名されなかったが、ほかの生徒の意見を聞きながら、自分とは違う読み方があることを知った。懐かしさを中心に考える人もいれば、時間の経過による成長を読み取る人もいる。
同じ文章を読んでも、受け取るものは一つではない。
(私の物語も、読む人によって違うところを大切に感じるのかな)
彩花はそう考えながら、ノートの端へ小さく書き留めた。
『一つの気持ちだけで決めつけない。寂しさと嬉しさは、同時にあってもいい。』
その言葉は、授業のためのメモであると同時に、星模様のノートへ持ち帰りたい考えでもあった。
◇
昼休み、彩花は弁当を食べ終えると、星模様のノートを取り出した。
窓の外には薄い雲が広がっていたが、校庭では生徒たちが元気に動き回っている。遠くから聞こえる笑い声や、廊下を行き交う足音が、教室の静かなざわめきに混じっていた。
彩花は昨日までに書いた文章を読み返した。
少女は、祖母と一緒に庭を眺めていた頃のことを思い出している。
今は祖母が隣にいない。
それでも、庭の花は変わらず季節を迎えようとしていた。
彩花はその場面を読み返し、少し考えた。
少女が手紙を書く理由は、祖母に寂しさを伝えることだけではない。
離れていても、祖母と一緒に大切にしていた庭を、今も見ていることを伝えたいのだ。
彩花はノートの余白へペンを走らせた。
『祖母と過ごした時間が大切だから、今の庭のことも伝えたい。寂しい気持ちを消さなくても、嬉しい出来事を書くことはできる。』
書き終えると、彩花は少しだけ息を吐いた。
少女の気持ちが、昨日よりもはっきりした気がする。
けれど、手紙の三行目をすぐに書こうとは思わなかった。
その言葉を少女が選ぶまでには、もう少し時間が必要なのだろう。
彩花はノートを閉じかけたところで、ふと手を止めた。
(私も、悠真君に伝えたいことがあるとき、どう言えばいいのか迷うことがあるな)
土曜日の川沿いの散歩。
悠真が自分の服装を褒めてくれたときのこと。
同じ景色を見ながら、互いの考えを話した時間。
あの日が大切だったと、彩花はすでに伝えている。
けれど、それだけでは言い尽くせない気持ちもある。
悠真と一緒だったから嬉しかった。
彼が隣にいることが、自然で、心地よかった。
そして、帰り道には、もう少し一緒にいたいと思っていた。
彩花はペンを持ったまま、少しだけ俯いた。
(好きっていう気持ちを、いつかちゃんと伝えたい。でも、ただ言葉にするだけじゃなくて、私が何を大切に思ってるのかも、分かってもらえたらいいな)
胸の奥が静かに温かくなった。
まだ、悠真へ告白するつもりでいるわけではない。
けれど、自分の気持ちを曖昧なままにしておくのではなく、少しずつ向き合っていきたい。
彩花はノートを閉じ、鞄へ戻した。
窓の外では、雲の切れ間からわずかに光が差し込み、校庭の一角だけが明るくなっていた。
その変化を眺めながら、彩花は午後の授業へ向けて気持ちを整えた。
◇
同じ頃、桜華学園高等部では、九条悠真が森川航平と昼食を終えたところだった。
教室の窓から見える木々は、昨日よりも落ち着いた色をしている。薄い雲の下では遠くの建物の輪郭が柔らかく見え、晴れた日とは違う静かな景色が広がっていた。
航平は飲み物を片づけながら、悠真へ目を向けた。
「そういえば九条、昨日の景色の話はどうだった?」
「うん。彩花さんも通学路の落ち葉の色が違って見えたって話してくれたよ」
「へえ。お前は街路樹の向こうの屋根で、水瀬さんは落ち葉か。同じ街でも、見てるものが全然違うんだな」
航平は窓の外を眺め、少し笑った。
「でも、お前らの話を聞いてると、俺も帰り道で何か探してみようかなって気になるよ」
悠真はその言葉に微笑んだ。
「きっと何か見つかると思うよ。俺も、彩花さんと話していなかったら、気づかなかったことが多いから」
航平は椅子の背にもたれ、少し考えるように悠真を見た。
「九条ってさ、前から人の話はちゃんと聞く方だったけど、最近は自分がどう感じたかもよく話すようになったよな」
悠真は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん。前は、相手が困らないようにとか、何をすればいいかとか、そういう話が多かった気がする。でも最近は、楽しかったとか、嬉しかったとか、そういう言葉も増えた」
航平は何気ない調子で言ったが、悠真はすぐに返事をしなかった。
思い当たることがあったからだ。
彩花と出会ったばかりの頃、自分は彼女が困らないようにしたいと考えることが多かった。
もちろん、今もその気持ちは変わらない。
けれど、それだけではなくなっている。
彩花が何を好きなのか知りたい。
彼女と同じ景色を見たい。
自分が見つけたものを、彼女にも伝えたい。
そうした願いは、相手を助けたいという気持ちとは少し違う場所から生まれているように思えた。
「……そうかもしれないね」
悠真はゆっくり頷いた。
「彩花さんと話していると、自分が何を感じたのかも大切にしたくなるんだ。彼女が、自分の考えをちゃんと聞いてくれるからかもしれない」
航平はその答えを聞き、穏やかに笑った。
「それ、いいことだと思うぞ。九条だって、いつも誰かのために動いてるだけじゃなくて、自分の気持ちを話していいんだから」
悠真は少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう、航平」
航平は軽く肩をすくめ、机の上に置いた教科書を取り上げた。
「まあ、俺としては、お前が最近楽しそうだから、それでいいんだけどな」
その言葉に、悠真は思わず笑った。
午後の授業が始まるまで、まだ少し時間がある。
悠真は窓の外へ目を向けた。
彩花は今頃、青葉高校でどんな時間を過ごしているのだろう。
同じ空の下にいても、二人の一日は違う。
けれど、その違いを夜になって話せることが、悠真には嬉しかった。
◇
放課後、彩花は文芸部の活動場所へ向かった。
廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、階段の窓からは午後の淡い光が差し込んでいた。外の空は相変わらず雲が多かったが、朝よりも少し明るくなっている。
活動場所へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を広げていた。
「お疲れさま、水瀬さん。今日は本文の確認を少し進めたいんだけど、手伝ってもらえる?」
「はい、もちろんです」
彩花は鞄を置き、確認用のメモ帳を取り出した。
窓際では、表紙を担当している女子部員がノートパソコンを開いている。
彩花が近づくと、相手は顔を上げて微笑んだ。
「水瀬さん、お疲れさま。表紙の方、昨日から少し進めてるよ。ただ、まだ全体を見せられる状態じゃなくて」
「お疲れさま。うん、分かったよ。急がなくて大丈夫だからね」
彩花がそう答えると、女子部員は安心したように息を吐いた。
「ありがとう。枝先の線を調整してるんだけど、濃くしすぎると最初の雰囲気が変わっちゃうから、少しずつ試してるの」
画面には、淡い冬空と細い枝を描いた表紙のデータが開かれていた。
彩花は画面を覗き込みすぎないようにしながら、相手の説明を聞いた。
「下の小さな文字も、位置や大きさは変えずに、色の差だけ見直してるところ。まだどれが一番いいか決められてないけど、最初の案は残してあるから、比べながら考えられると思う」
「うん。その方が安心だね。元の表紙の雰囲気、私も好きだから、できるだけ大切にしたいな」
彩花がそう言うと、女子部員は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。私も、最初にみんなでいいなって思ったところは残したいんだ」
彩花は頷き、佐々木先輩のところへ戻った。
表紙の修正はまだ途中で、新しい試し刷りも用意されていない。
だからこそ、今は焦って完成を決めるのではなく、確認できるところから丁寧に進める必要がある。
佐々木先輩は本文の確認用紙を彩花へ渡した。
「今日は、このあたりを見てもらえるかな。内容を直すというより、見出しやページのつながりを確認してほしいんだ」
「分かりました。前に確認したところと照らし合わせながら見ますね」
彩花は紙を受け取り、席についた。
部誌には、さまざまな部員の作品が並んでいる。
詩もあれば、短い物語もある。
自分の作品『いつか、ここに』も、その中の一つとして収められていた。
彩花はページをめくりながら、以前初めて試し刷りを手にしたときのことを思い出した。
画面の中で見ていた文章が、紙の上に並んでいる。
自分の名前が載っている。
その事実に驚き、嬉しくなった。
けれど今は、ただ自分の作品が載ることだけではなく、部誌全体が読みやすい形になることを考えている。
ページの切り替わりが不自然ではないか。
目次と本文のつながりは分かりやすいか。
ほかの部員が書いた作品を読む人にとって、気になるところはないか。
彩花は一つずつ確認し、気づいたことをメモへ書き留めた。
しばらくして、佐々木先輩が隣へ来た。
「どう、水瀬さん。気になるところはあった?」
「大きな問題は見つからなかったんですけど、この見出しのところだけ、前後のページと比べて少し余白が違って見える気がして……。印刷したときの見え方もあると思うので、確認だけお願いしてもいいですか?」
彩花は断定せず、気になった箇所を指さした。
佐々木先輩は紙を受け取り、前後のページと見比べた。
「なるほど。確かに、ここだけ少し違って見えるね。設定の問題かもしれないし、確認してみようか」
「はい。もし意図した配置だったら、そのままで大丈夫だと思います」
彩花が答えると、先輩は穏やかに頷いた。
「ありがとう。水瀬さん、最近こういうところもよく見てくれるようになったね」
彩花は少し照れた。
「まだ分からないことも多いですけど、せっかくみんなで作っているので、気づいたことは伝えたいなって思ってます」
「うん。それでいいと思うよ。気づいたことを話してもらえれば、みんなで考えられるから」
その言葉に、彩花は静かに頷いた。
以前なら、自分が気づいたことを伝えていいのか迷っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
自分の考えが必ず正しいとは限らない。
それでも、伝えることで誰かと一緒に考えられる。
そのことを、少しずつ実感していた。
◇
活動の終わりが近づく頃、部員たちは机の上の資料を片づけ始めた。
窓の外は夕方の色に変わり、校庭の向こうにある建物の輪郭が、薄い雲の下で柔らかく見えている。
彩花も確認用紙をまとめ、佐々木先輩へ渡した。
「ありがとうございました。今日のところは、ここまで確認できました」
「うん、助かったよ。表紙の方も、案がまとまったら改めてみんなで見ようと思ってるから、そのときはよろしくね」
「はい。楽しみにしています」
彩花が答えると、佐々木先輩は微笑んだ。
表紙担当の女子部員も、ノートパソコンを閉じながら顔を上げた。
「水瀬さん、今日もありがとう。まだ少し時間がかかりそうだけど、納得できるところまで調整してみるね」
「うん。私も、完成したらちゃんと見たいな。何か手伝えることがあったら言ってね」
女子部員は嬉しそうに頷いた。
彩花は部員たちへ挨拶をし、鞄を持って部屋を出た。
廊下には、部活動を終えた生徒たちの足音が響いている。
階段を下りながら、彩花は今日の文芸部でのやり取りを思い返した。
表紙担当の部員は、元の雰囲気を大切にしながら、見えにくい部分を調整しようとしている。
佐々木先輩は、気づいたことをみんなで考えられるようにしてくれる。
そして彩花自身も、以前より自分の意見を伝えられるようになっている。
(私一人で作っているわけじゃないんだよね。みんなで考えて、少しずつ形にしていくんだ)
そのことが、彩花には嬉しかった。
冬の部誌はまだ完成していない。
けれど、完成までの時間もまた、大切な経験になっているように思えた。
◇
帰宅した彩花が自室へ戻ると、窓の外はすっかり夕方の色になっていた。
制服から着替え、机に向かうと、星模様のノートを取り出した。
昼休みに書いたメモを読み返し、彩花はしばらく考えた。
『寂しさと嬉しさは、同時にあってもいい。』
その言葉が、今の少女の気持ちに合っているように思えた。
彩花は新しいページを開き、昨日までの文章につながるように続きを書き始めた。
『少女は、机の上に置いた写真立てへ目を向けた。
写真の中では、祖母がじょうろを持って笑っていた。隣に立つ少女は、今よりも少し幼く、花壇の方を指さしている。
あの日、何を話していたのかは、もうはっきり覚えていない。
けれど、祖母が自分の話を最後まで聞いてくれたことだけは、不思議とよく覚えていた。
庭の花が咲いた日も、雨が降って水やりをしなくてよかった日も、祖母は少女の話を楽しそうに聞いてくれた。
少女は写真を見つめながら、手紙へ目を戻した。
今は祖母が隣にいない。
それでも、今日見つけたことを話したいという気持ちは、少しも変わっていなかった。
寂しいと思うのは、祖母と過ごした時間が大切だったからだ。
そして、今の庭を見て嬉しくなるのも、その時間が心の中に残っているからなのかもしれない。
少女はペンを持ち直した。
まだ次の一文は決まらなかったが、何を書きたいのかは、昨日よりも少し分かるようになっていた。』
彩花はそこで筆を止めた。
少女が祖母へ送る手紙は、まだ二行目までしか書かれていない。
けれど、そこへ至る気持ちは、少しずつ形になってきた。
彩花は書いた文章を読み返し、写真立ての描写へ目を留めた。
少女は、祖母が自分の話を聞いてくれたことを覚えている。
それは、庭の花が咲いたという出来事そのものと同じくらい、大切な記憶なのだろう。
(この子は、ただ出来事を報告したいんじゃないんだ。おばあちゃんと話していた時間を、今も大切にしているって伝えたいんだよね)
彩花はペンを置き、少しだけ椅子の背にもたれた。
窓の外では、夕方の光が薄れている。
今日の授業で考えたこと。
文芸部で交わした言葉。
そして、今書いている少女の気持ち。
それぞれ違う出来事のはずなのに、どこかでつながっているように感じられた。
自分の気持ちを言葉にすること。
相手の気持ちを考えること。
そして、伝えるために時間をかけること。
彩花はそのどれも、今の自分にとって大切なのだと思った。
◇
夕食のあと、彩花は居間で紗月と一緒に食器を片づけていた。
台所には水の流れる音が響き、居間では耕助がテレビの音量を少し下げている。凛花は食卓の端で何かを書き留めていたが、彩花が食器を運ぶ姿に気づくと、顔を上げた。
「彩花、今日は文芸部どうだった?」
「うん。本文の確認を少し進めたよ。表紙はまだ調整中だけど、担当の子が丁寧に考えてくれてるの」
「そっか。完成が楽しみだね」
凛花はそう言い、手元の紙を片づけた。
彩花は洗い終えた皿を布巾で拭きながら、少し考えた。
「ねえ、お姉ちゃん。自分の気持ちを誰かに伝えるときって、どうやって言葉を選んでる?」
凛花は少し驚いたように目を瞬かせた。
「急にどうしたの?」
「今日、国語の授業で考えたことがあって。それに、今書いてる物語でも、登場人物が手紙の言葉に迷ってるんだ」
彩花が説明すると、凛花は納得したように頷いた。
「なるほどね。そうだなあ……相手にどう思われるかも考えるけど、そればっかり気にしてると、何も言えなくなることもあるよね」
「うん。私も、そう思う」
「だから私は、まず自分が何を伝えたいのか考えるかな。そのあとで、相手が受け取りやすい言い方を探す感じ」
凛花は少し考えながら続けた。
「でも、上手い言葉が見つからないときは、無理に綺麗にまとめなくてもいいと思うよ。ちゃんと考えてるってことが伝わる場合もあるし」
彩花はその言葉を聞き、手にしていた皿をゆっくり置いた。
「綺麗にまとめなくても、いいんだね」
「もちろん。大事なことほど、簡単に言えないときもあるでしょ」
凛花は妹へ優しく微笑んだ。
「彩花は、言葉を大切にするからこそ、いろいろ考えるんだと思う。でも、相手に伝えるための言葉なんだから、完璧じゃなくてもいいんじゃないかな」
彩花はしばらく黙っていた。
その言葉が、胸の奥へゆっくり染み込んでいく。
自分は、伝えたいことを間違えずに言葉にしようとしていたのかもしれない。
けれど、気持ちは必ずしも最初から整理されているわけではない。
迷いながらでも、相手へ向かって言葉を探すことに意味がある。
「ありがとう、お姉ちゃん。なんだか、少し分かった気がする」
彩花がそう言うと、凛花は嬉しそうに笑った。
「それならよかった。物語のことでも、ほかのことでも、また話したくなったら聞くよ」
彩花は頷き、残りの食器を片づけ始めた。
凛花はそれ以上、何の気持ちを伝えたいのか尋ねなかった。
妹が自分の言葉を探していることを、急かさず見守ってくれている。
その優しさが、彩花にはありがたかった。
◇
同じ夜、九条家では悠真が自室の机に向かっていた。
机の上には学校の資料と手帳が置かれている。
生徒会で確認する必要のある予定を整理し終えた悠真は、手帳を閉じ、少しだけ肩の力を抜いた。
父の正樹からは、来月の家の予定について、詳細が決まり次第改めて相談すると聞いている。
まだ確定していないことが多いため、悠真も自分の予定を勝手に決めるつもりはなかった。
それでも、学校のことも、家のことも、そして自分の大切な時間も、できるだけ丁寧に考えていきたいと思っている。
悠真は机の引き出しへ目を向けた。
そこには、彩花からもらった淡い青色の花柄のカードがしまわれている。
以前、彼女が書いてくれた言葉。
『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』
『悠真君と話す時間が、私は好きです。』
悠真はカードを取り出さず、その言葉を思い出した。
彩花が自分との時間を好きだと言ってくれたことは、今も大切な記憶になっている。
けれど、彼女がどんな気持ちでその言葉を書いたのか、悠真はすべてを知っているわけではない。
自分の気持ちも、まだ十分に伝えられていない。
(彩花さんに、俺がどれだけ一緒にいる時間を大切に思っているか、ちゃんと伝わっているのかな)
悠真は机に置いたスマートフォンへ目を向けた。
彼女と話すとき、自分は嬉しいことを嬉しいと言えるようになってきた。
それでも、まだ言葉にできていない気持ちがある。
彼女を困らせたくない。
急がせたくない。
けれど、いつまでも自分の気持ちを曖昧にしたままでいいとも思っていない。
悠真は少しだけ息を吐いた。
大切なことだからこそ、時間をかけたい。
そして、いつか伝えるときには、彩花が自分の言葉として受け取れるように、誠実に話したいと思っていた。
◇
夜も更け始めた頃、彩花のスマートフォンに悠真からメッセージが届いた。
『彩花さん、こんばんは。今日は学校どうだった?』
彩花は机に置いていたスマートフォンを手に取り、自然と微笑んだ。
『こんばんは、悠真君。今日は国語の授業で、昔と今の景色について考えたんだ。同じ場所でも、時間が経つと違って見えることがあるっていう話だったよ』
送信すると、しばらくして返事が届いた。
『面白そうだね。昨日話した通学路の景色とも、少しつながる気がするよ』
彩花はその文章を読み、嬉しくなった。
『うん。私もそう思ったの。昔の景色を大切にすることと、今の景色を大切にすることは、どっちもできるんじゃないかなって』
悠真からの返事は、少し間を置いて届いた。
『そうだね。前と違うから寂しく感じることもあるけど、今だから見つけられるものもあるんだと思う』
彩花はその言葉を読み、星模様のノートへ目を向けた。
少女の物語について、悠真はまだ詳しい内容を知らない。
完成したら最初に読んでもらいたいと約束しているけれど、今はまだ途中だ。
だから、物語の具体的な内容を伝えるつもりはなかった。
それでも、今日考えたことを彼と分け合いたいと思った。
『今日ね、自分の気持ちを誰かに伝えるとき、どうやって言葉を選ぶんだろうって考えてたんだ』
送信してから、彩花は少しだけ緊張した。
物語のこととして話しているつもりだったが、その問いは自分自身にも向けられている。
悠真はどんなふうに答えるだろう。
少しして、返信が届いた。
『難しいことだね。俺も、相手にどう受け取ってもらえるか考えすぎて、言葉を選ぶのに時間がかかることがあるよ』
彩花は思わず目を瞬かせた。
悠真も、同じように迷うことがある。
いつも落ち着いていて、丁寧に話してくれる彼だからこそ、少し意外だった。
『悠真君も、そういうことあるんだね』
『うん。特に大切な相手には、ちゃんと伝えたいと思うから。でも、考えすぎて何も言えなくなるのも違うんだろうなって、最近は思うようになったよ』
彩花はその文章を、何度も読み返した。
大切な相手。
その言葉が胸に残る。
悠真が誰を思い浮かべて書いたのか、彩花には分からない。
けれど、彼も誰かへ気持ちを伝えることについて考えているのだと知り、少しだけ心が近づいたように感じた。
『私も、そう思う。上手く言えなくても、ちゃんと伝えようとすることが大切なのかもしれないね』
彩花が送ると、悠真から返事が届いた。
『うん。彩花さんは、いつも自分の言葉で話してくれるから、俺は嬉しいよ』
その一文を見た瞬間、彩花の指が止まった。
胸の奥が温かくなり、頬にも熱が集まってくる。
自分の言葉で話している。
悠真は、そう受け取ってくれていたのだ。
(私、ちゃんと伝えられてるのかな。まだ迷うことも多いけど、それでも悠真君は、私の言葉を聞いてくれてるんだ)
彩花は少し時間をかけて、返信を考えた。
ただ「ありがとう」と送るだけでも、きっと気持ちは伝わる。
けれど、今はもう少し、自分が感じたことを言葉にしたかった。
『ありがとう、悠真君。私も、悠真君が自分の考えを話してくれるのが嬉しいよ。学校が違うから知らないことも多いけど、少しずつ知っていけるのが楽しいんだ』
送信すると、彩花はスマートフォンを両手で持ったまま、返事を待った。
画面に文字が表示されるまでの時間が、いつもより少し長く感じられた。
『俺も同じだよ。彩花さんが今日何を見て、何を考えたのか聞ける時間が、すごく楽しみなんだ』
彩花はその言葉を読み、思わず微笑んだ。
彼も同じように感じてくれている。
それだけで、今日一日の出来事が、少し特別なものになった気がした。
『私も楽しみにしてるよ。今日も話せて嬉しかった』
『俺も嬉しかった。明日も学校があるから、そろそろ休もうか』
『うん。悠真君も無理しないでね。おやすみなさい』
『おやすみ、彩花さん。また明日』
最後のメッセージを読み終えてからも、彩花はしばらく画面を見つめていた。
言葉を選ぶことは、難しい。
けれど、相手が受け取ってくれると分かると、次の言葉を探すことが少し楽しみになる。
彩花はスマートフォンを机へ置き、静かに息を吐いた。
◇
悠真もまた、メッセージを終えたあと、しばらくスマートフォンを手にしていた。
彩花が、自分の考えを聞けることを嬉しいと言ってくれた。
学校が違うから知らないことも多いけれど、少しずつ知っていけるのが楽しいと伝えてくれた。
その言葉が、悠真の胸に温かく残っている。
(彩花さんは、俺のことをもっと知りたいと思ってくれてるんだな)
それは、以前から少しずつ感じていたことだった。
けれど、こうして言葉にしてもらえると、改めて嬉しくなる。
悠真は机の上に置いた手帳へ目を向けた。
学校の予定。
生徒会の仕事。
家の予定。
そして、彩花と過ごしたい時間。
どれも大切にしたい。
その中で、自分が何を望んでいるのかを、もっと素直に考えてもいいのかもしれない。
悠真は引き出しの中にしまってある花柄のカードを思い出した。
彩花が、自分との時間を好きだと書いてくれたこと。
その言葉に、どれほど救われ、嬉しくなったか。
いつか、自分も同じように、彼女へ気持ちを伝えたい。
ただ、今はまだ、その言葉を急いで決めたくなかった。
悠真はスマートフォンを机へ置き、部屋の明かりを少し落とした。
明日もまた、それぞれの学校で一日が始まる。
その一日の終わりに、彩花と話せることを楽しみにしながら、悠真は静かに目を閉じた。
◇
彩花は眠る前に、葉模様の日記帳を開いた。
机の上には、星模様のノートと、まだ何も書いていないカードがしまわれた引き出しがある。
彩花は少しだけ引き出しへ目を向けたが、開けることはしなかった。
今は、日記に今日の気持ちを残しておきたかった。
ペンを持ち、ゆっくり書き始める。
『今日は、言葉を選ぶことについて考えた。国語の授業でも、物語を書いているときも、文芸部でも、自分が何を伝えたいのか考える場面があった。』
彩花はそこで少し手を止めた。
今日、悠真と交わしたメッセージを思い出す。
彼は、自分の言葉を聞けることが嬉しいと言ってくれた。
そして、彩花が何を見て、何を考えたのか聞ける時間を楽しみにしているとも伝えてくれた。
彩花はその言葉を思い返しながら、続きを書いた。
『悠真君も、大切な相手にはちゃんと伝えたいから、言葉を選ぶのに時間がかかることがあるって教えてくれた。私だけじゃないんだと思うと、少し安心した。』
ペン先が紙の上を滑っていく。
『私は、悠真君と話す時間が好き。もっといろんなことを知りたいし、私のことも知ってもらいたい。まだ全部を上手く言葉にできるわけじゃないけど、少しずつ伝えていけたらいいな。』
書き終えると、彩花はしばらくその文章を見つめた。
日記帳の中なら、自分の気持ちを素直に書ける。
けれど、悠真へ直接伝えるとなると、まだ少し勇気が必要だった。
それでも、以前より怖くはない。
彼が自分の言葉を大切に受け取ってくれると知っているからだ。
(いつか、ちゃんと伝えたいな。私が悠真君のことを、どれだけ大切に思っているのか)
彩花は日記帳を閉じ、机の端へ置いた。
星模様のノートの中では、少女が祖母へ送る手紙の続きを考えている。
そして彩花自身も、まだ伝えていない気持ちを抱えながら、自分の言葉を探していた。
窓の外では、青凪市の夜が静かに深まっている。
彩花は部屋の明かりを消し、ベッドへ入った。
明日は金曜日。
学校で過ごす一日が終われば、また週末が近づいてくる。
悠真と次に会える日がいつになるのか、まだ決まっていない。
中央図書館で一緒に本を選ぶ約束も、具体的な日程はこれからだ。
けれど、今はその時間を楽しみに待つことができる。
彩花は布団を肩まで引き上げ、静かに目を閉じた。
今日見つけた言葉が、明日にはまた少し違う意味を持つかもしれない。
それでも、自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ前へ進んでいきたい。
そんな思いを胸に、彩花は穏やかな眠りへ落ちていった。




