俺、絶体絶命
残酷な描写があります。
「はあっ……はっ、」
雨が降っていた。
バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が、真正面から吹きつける。混乱の最中、俺は必死に駆けていた。忍び寄るのは、圧倒的な絶望と恐怖。
「……」
悔しくて、情けなくて、でもどうしようもなくて。
俺は、何を信じればいいのか。
てか今、何時だっけ。いる場所は……真っ暗でよく見えない。あれからベルはどうなって……くそ。
「っ、痛ぅ……!」
ズキリと背中の傷が痛む。
それでも無理やり走った。もともとベルと向かう予定だったからか。疲れが溜まった足は、無意識にそこを目指していた。
「ついた……」
逃げ込むように入り口をくぐる。灰色の空へそびえ立つタワーは、じっとりと濡れて黒光りしていた。
『小僧、もうちっと優しく走らんか! 衝撃で吹き飛ぶのじゃあ!?』
頭の上で小さな生き物が悲鳴をあげた。
「るっせぇ、んなヒマあるかよ!!」
しれっとついてきたタヌキに雑に返すと、一気に階段をかけ上がる。
『みぎゃっ!? 舌を噛んだのじゃこのガサツもん!』
「そうかよ悪かった、な!!」
一番上まで上りきる。押し開けた扉の先は、吹きさらしのコンクリートだった。フェンスも何もない、ビルの屋上のような場所。
その先には、夜景。遠くの方では、道路に何台も車が並んでいた。たくさんの、真っ赤なブレーキランプが灯る。
──赤、紅、アカ、あか。赤赤赤赤赤赤赤赤。
喉の奥から吐き気がこみ上げた。
「……っ、うぇっ」
今まで就活に落ちまくって悩んでたことなんか、どうでも良くなっていた。あの酷薄な光景は、俺にしっかりとトラウマを刻みつけたようだ。
「……」
頭から離れない光景。
鉄くさいアカイロの臭い。
アスファルトに広がって止まらない、鮮やかな紅い血。
血溜まりに浮かぶ、銀のツインテール。
地面に倒れ伏した小さなからだ。
光の消えたアメジストの瞳。
背中から貫かれた、ほの暗い光の大剣。
こびりついて離れない、記憶。
◇
黒髪に白いTシャツの青年が、タワーの入り口にさしかかる。その時、剣を持った女が後ろからするりと現れた。青年は気づかない。
そして、獲物を音もなく一閃。
「……あら?」
ポンッと軽い音。
後には笠が落ちていた。僧侶がかぶるような、三角形のものだ。青年の姿は無い。
「偽モノ……」
しばしの沈黙のあと、黄金の天使はタワーの頂上を見上げる。
上から様子を窺っていた俺と、狂った視線がかち合った。
「見ぃつけた」
シーフェは、ニヤリと唇をつり上げた。
◇
『こここ小僧、あっさりワシの術がやられたんじゃが!? 来るのじゃあ!!』
小さな生き物がわたわたと叫ぶ。ボリュームのあるしっぽをぷるぷると震わせた。つぶらな瞳が怯えに揺れる。
「わーってるよオイ他に術とかなんか無いのか!?」
『なっ、あっ、あるわけないじゃろう!?』
カンカンと、のぼる音。
獲物を追い詰める、無慈悲な足音が響く。
「ふふ、ベルに邪魔されてしまったけれど。自分から逃げ場のない場所へ飛び込んでくれるなんて、ねえ?」
階段を上がって来た女は、満身創痍だった。
あちこちから血を流している。腕が片方、変な方向に曲がっていた。明らかに先ほどよりも手傷を負っている。
「ルーフェは、あの子は逃げることすら許されなかった。それに比べれば貴方はとても幸運だわ。さあ、聖杯を受けとりましょう。悪魔にさえも裏切られた、可哀想なお兄さん?」
「……っ、」
シーフェは唇を吊り上げた。
じわりと嫌な汗が全身に浮かぶ。
あぁそうだよこんなとこに逃げこんじまった俺がバカだったよバカ。だけど、ベルがせっかく作ってくれた機会だ。
「……断る。どんなに俺がポンコツ野郎でも、殺されるのはゴメンだ。ベルと婚約するほうが百倍マシだね」
女は傷ついた片翼を引きずって笑う。
「くだらない。どちらも同じことよ。最終的に魂は手中に収まる。過程が違うだけだわ。大人しくワタシの復讐の糧になりなさいな」
それは、いつだか彼女が呟いていた『世界への復讐』というやつだろうか。『何と引きかえにしてでも』とか言っていた気が。
「……アンタこそ、かんしゃく起こして世界がどうのってのは子どもっぽいと思わないのか? 自分は悪くない、コトの発端、原因を考えもしない……人のことがいえるとでも?」
しばらくシーフェは佇んでいたが、ぼそりと呟いた。
「……そう」
「がッ!?」
鋭い衝撃が俺を蹴り転がす。
頭に剣が突きつけられ、こめかみから生温いものが伝った。生理的な涙がにじむ。
口の中を切ったのだろう、口内に鉄の味が広がった。
「お黙りなさい。所詮、ベルに守られているだけのくせに」
背中の傷に足がねじ込まれる。
「ああぁ!!!」
灰色の空は、いまだ変わらず。黒い鉄塔に注ぐ冬の雨は止まない。凍えた雫が背中の傷にしみた。
「う……」
何で、こうなったんだろう。
朦朧とした視界の中で、いつかのトメばあの言葉が浮かぶ。
──『バカだね! 何事も、用意周到に準備しておくのが大事なんだよ』
俺が、準備を怠ったから?
何とかなると、心のどこかで思っていたから?
俺が、なんとなく様子のおかしいベルを気にかけてやれば良かった。
自分から動こうとしなかったから?
めんどくさがって、『聖杯』について、調べようとしなかったから?
自分には必要ないと、不可思議なものから、逃げていたから?
俺に、幼女のような、祓魔師の双子のような、助ける力があったなら。
ベルを、救えたかも知れないのに。
「なぜ何も持たないあなたが。理由もなく、目的もなく、のらりくらりと日々を生きている貴方なんかが」
シーフェが手のひらを向ける。濁った白い光がこぼれ出した。
「魔力もない、強い意思もない。現実は変わらないわ? あなたはここで死ぬ。結局、魂のカケラまで空っぽな、ただの人間なのだから」
「……っ、」
一瞬体がこわばって、すぐに力が抜ける。小さく息をついた。
ああ、多分これで終わりだけど、しょうがない。色々めちゃくちゃだけど、どうでもいい。
──『はるひと』
──『小僧。お主はそうすぐに諦めないで、もっと望んで良いと思うがのう』
──『春人、お前さんが優しいのは、昔から変わらないねえ』
──『はるひと』
──『先輩のこと、私信じてますから!』
──『春人さんなら、大丈夫ですよ』
──『はるひとは、やさしいの!』
──『オッサンは、良いやつだと思う』
──『はるひとー』
──『は、る、ひ、と?』
──『はるひと!』
──『はるひと、大好き!!』
「…………やっぱり、どうでもよくない」
よろけながら、片足に力を込める。なんとか不恰好に立ち上がった。ふりしぼって、吐き出す。
「悪いけどお前より、信頼できる奴らがいんだよ…………あんたの言葉なんか、誰が聞くか」
見つけた。俺の、空白を埋める理由。
「俺にできるのは、信じてやることだけだ」
こんなときに、あの平凡な男の言葉が浮かんだ。とっくに顔も忘れてしまったけれど。
──『前を向いて、背筋をのばしたまえ。そうすれば自ずと、自信が湧いてくるだろう』
背を伸ばす。顔をあげて、前を見据えた。
「あんた、わがままなんだよ」
ピクリと振り下ろそうとした手が止まる。シーフェの表情は動かない。濡れそぼった金髪が、苛立たしげにドレスにへばりついていた。
「……何ですって?」
恐怖を圧し殺して、轟雨に負けじと叫んだ。
「うわべで取り繕ったように世界がどうのとか、全てを滅ぼすとか。何を引きかえにしてでも? 傲慢にもほどがある! 心の中では誰かのために泣いてるだけだろう? 悲しかっただけだろう!?」
「お前の方が空っぽだっていってんだよ!!」
雨の音だけがその場に満ちる。
ゆっくりと、息を吸った。
だめだ、やっぱり俺には許せねぇ。
「聖杯には……俺の魂には、価値があるんだろう?」
「いいさ、くれてやるよ────ただし、お前じゃねえけどな!!!」
いうなり、突進した。
思いっきり相手を突き飛ばす。
ぶつかって、ふいを突かれたシーフェの体は傾き────
そう広くないタワーの屋上。
あっという間に二人の体は宙へ投げ出された。
「な、貴方────!」
目を見開いた女が手を伸ばすが、もう遅い。
片翼の天使は、翔べない。
傷ついて重い翼は、風を受けることも出来ない。地上へ墜ちていくしかない。二人で夜の闇へ、道連れまっしぐらだ。
あの凄惨な光景が脳裏にちらつく。
「……どうでもいいんだ」
怒りが支配していた。
抑えがきかない。
心を、身体中を、黒くて今にも弾けそうなナニカが荒れ狂う。
どうしても、自分を捨て身にしてでも、やり返さないと気が済まなかった。
「……はは、」
狂った笑いが漏れる。
雨に混じって、目から水滴がこぼれ落ちた。悲しいのか苦しいのか、もうわからない。
それでもいい。あの子の敵を討てるならいい。俺がここで犠牲になったって、復讐できるならいい。
だから────
俺の、命に代えても。
全身を浮遊感が襲う。
ぞわぞわと特有の気持ち悪さが押し寄せた。
耳元で、風の吹き荒れる音。
ジェットコースター百年分を一気に体験したみたいだ。
頭から、落ちる。
「これで終わりだ……!」
歯を食いしばった。
眼下の地面がものすごいスピードで迫る。降りしきる雨水が溢れた地上は、わずかな光を反射してかがやいていた。
「……」
これでいい。いや、これが良い。
道連れにして、確実にベルの敵をとる。
頭に、アメジストの瞳と無邪気な笑顔が浮かんだ。
「…………バカだなぁ、俺」
ちびっこの隠しごとなんか、可愛いものに決まってるじゃないか。『一緒にいたい』とか。『デートしたい』とか。『ギョーザが食べたい』とか。
「……お願い、もっと叶えてやれば良かったな」
そして、黒い地面が迫り。俺の意識は消える────ことはなく。
「その言葉、しかと聞き届けた」
大きくはないのに、威圧感と恐怖を与える声。ガクリと体を突き上げるような衝撃が襲った。
「ぐぅッ!?」
思いっきり息が詰まった。
聞こえるのは、静かな雨の音だけ。
「死んで、ない……?」
目を開けたスレスレに、黒いアスファルトがあった。そのままゆっくりと降ろされる。
「死に急ぐ時ではない。杯の贄たる青年よ」
一人の男が宙に浮かんでいた。知らない男だ。
ボサボサの白い髪と、すき間からのぞく紅玉の瞳。
対照的に、ボロボロの外套は闇よりも禍々しい。ゆっくりと薄い唇がひらいた。
「お前には、まだ役目が残っているのだから」




