幕間 密かなる邂逅
残酷な描写があります。
「っ痛ぅ……」
小さな声が上がった。
一人の青年が広場の中央のベンチに腰かけている。その頭上では、可愛らしいクマの銅像がコミカルなポーズを決めていた。
そこは、とある青年と幼女が初めて二人でやって来た、ファミレス前の広場だった。
深夜、暗くなった道に人通りは皆無である。向かいの駅前の電光掲示板は、午前二時すぎを示していた。
それは、丑三つ時。
草木が眠り、人ならざるモノが跋扈し、日常の裏にある異次元へと引き摺りこんでしまう魔の刻。
「やっちゃったかな……」
水色のストライプが入ったワイシャツを捲る腕には、『咒』の文字と黒いアザが浮き出していた。
「げ、やっぱり呪い返し。失敗しちゃったか」
青年は困り顔でため息をついた。
「まあ、今の『聖杯』の状態を考えればそうなるよね。……と、言うことはつまり」
色素の薄い茶髪がこともなげに揺れる。日本人には見えない彫りの深い顔は、それでも誠実で人好きのする雰囲気を纏っていた。
黒いスラックスを払って立ち上がる。
「器をある程度修復してからなら、いけるんじゃない? 完全に穴をふさげば、溜まった魔力が暴発するだけだし……ハルヒト、だっけ。所詮はただの脆弱な人間だ。耐えられる訳ない」
爽やかな顔に似合わず飛び出したのは、トゲのある言葉。
一見、優しく誠実そうな表情が変わることは無い。
しかし低い声の調子は、蠱毒による呪殺がうまく行かなかった事に対して腹を立てているようにも思えた。
「もともと中華系の魔術はあんまり得意じゃないし……」
言い聞かせるように呟く。
青年が皮のブレスレットをつけた片手をかざすと、アザはあっさりと消えていった。
ふと、おぼろげな月が黒い雲に覆われる。かぼそい光が途切れ、夜の闇が濃くなった。
「出来なくてもしょうがな──」
「覚悟……!」
背後から目に追えないほどの速さで飛んできた矢を、青年は振り向きざまに掴みとる。
「なっ!?」
驚く相手へ一気に距離を詰めると、その頸動脈に深く矢じりを突き立てた。
餌食になった弓士の男が、激痛に白眼を剥いて吠える。ドロリと赤い噴水が宙へと吹き上がり、頭上から降りかかった。
「この悪魔、め……我らの神を、返、せ……」
みるみる弓士の貫頭衣が紅に染まる。
男がゆっくりとくず折れた地面には、彼と同じように真っ赤になった人々が倒れていた。ピクリとも動かない彼らは皆、ぼろぼろの白い双翼を持っている。
あたりには、白い羽が飛び散っていた。
「カケラのこと? ……あぁ、天界から盗まれたんだっけ。それなら持ってないよ。君らみたいな天使じゃないけど、俺はむしろ悪とは正反対の人間だ」
乱雑に積みあがるのは、凄惨な死体の山。
血塗れの雨をうけながら、人びとを殺した本人は爽やかに暗い空をあおいだ。頬についた血液をぬぐう。こと切れた男を蹴り転がした。
「これで最後? やっぱりゴミだなあ」
甘いマスクの青年は、氷の瞳で綺麗に微笑む。
「ダメだね、天使って。生ゴミレベルで使えないと思ってたけど、より生ゴミらしくなったんじゃない? 弱くなったよね? 使い物にならない以前に、見向く価値もない。堕ちるところまで行った感じ?」
吐かれた毒を打ち消すように、凍えた風が前髪を揺らす。
「ふふ……正義って、楽しいよね」
青年は、薄氷のごとき目を細めた。くちびるが獰猛に弧を描く。
「襲ってきたんだから、生ゴミを捨てるのは良いことに決まってるし…………、!」
ピクリと指先を動かす。
ざわりと遠くで木々が揺れた。
周囲の音が消える。
漂うのは、痛いほど張りつめた沈黙。暗くて重くて、常人であれば震えて動けなくなってしまうほどの空気。
ひそやかな夜の町に、深淵なる闇が帳を下ろす。
「こんばんは。奇遇だね? そろそろ台風が来るらしいけど、出歩いて大丈夫なの?」
青年は、さわやかな笑みである方向に声をかけた。
「……」
数メートル離れた場所に、ぽつりと。
銀の双尾を夜風に流して、フリルたっぷりのドレスが宵闇に溶ける。紫紺の瞳が爛々とかがやいていた。
「やあ、小さなお嬢さん」
幼女は、僅かに首をかしげた。感情のない暗い瞳は、静かに男を見すえている。それは、おおよそ人間らしさのない、淡々と沙汰をくだす閻魔のごとく。
抑揚のない声が響いた。
「はるひとに苦しいことしたのは、おにいさん?」
偽りを語ることは許さないと、言外に雰囲気が告げる。
「心当たりがないな。何のことだい?」
飄々と青年は笑顔を浮かべた。肩をすくめて、本当に知らないといった風だ。
「そう……」
ぞわり、と。
立ち尽くした幼女から、呼吸さえも忘れる威圧感がこぼれだした。足元がぐずぐずと溶けて、黒いナニカがにじみ出す。
「…………ベルが、気付かないとでもおもったの?」
纏った気配が氷点下まで凍りついた。
「ウソつき。魔力の残り香でわかるもん。おにいさん、蠱毒をつかったよね? はるひとを利用しようとした」
「そうかい?」
圧倒的な恐怖に晒されてもなお、それを歯牙にかける様子はない。青年は、余裕のある表情で唇を吊り上げた。
「……ふぅん。でも、利用しようとしてるのはお嬢さんの方じゃないのかな?」
「………………」
紫紺の双眸が、強烈な怒気をはらむ。
ゆっくりと低くなる、幼い声が凄みを帯びた。
「……はるひとに、嫌なことをした。それだけで万死に値する。はるひとを傷つけた貴様など──」
幼女の足下から、漆黒が溢れた。
「灰塵に帰せ」
世界が黒く塗り潰される。
奈落の底から次々とわき上がるのは、形容し難い、暗澹たる黒いナニカ。淀んだ空気を撒き散らし、あたり一面、おぞましい闇が覆い尽くす。
「!」
とつぜん青年の体が衝撃でくの字に折れ曲がる。
砂煙をあげて吹き飛ばされた。
派手な爆発音。
広場の石畳がめくれ上がる。
ガレキが飛び散った。
青年が起き上がる間もなく。
眼前に、アメジストの冷めた瞳が現れた。
『【破壊セヨ】』
「……っ、」
幼女が構えた手のひらから、黒い光が撃ち放たれた。
青年は横っ飛びにかわして転がる。
かすった毛先が消し飛び、轟音があたりを焦がした。
中央に立っていたクマの銅像が、一瞬で崩れ去る。
広場はあっというまに戦場と化した。
『【喰ライツクセ】』
「っ!」
幼女の言葉に従い、蠢く黒いナニカが一斉に襲いかかった。無様に地面に這いつくばっていた青年の体が、暗い靄に取りつかれて見えなくなる。
「…………」
男が取り込まれた靄を、幼女は無表情に見つめていた。
と、
靄の檻の中から、清烈な光が辺りを照らす。まばゆい白が、黒い世界を吹き飛ばした。
「いやあ、危なかった」
現れた青年は、無傷だった。ほがらかな笑みを浮かべる。
「俺は全てを信じてる。正義って、楽しいよね」
幼女は目を見開いた。
並みの術者では防げない、殺傷力の強い魔法。それを、青年は打ち破ってみせたのだ。
「っ! どうして、」
「さあ?」
幼女が次の行動を起こす前に、へらりと肩をすくめた青年は素早く呪文を口にした。
『【盗人と伝聞の神 ヘルメスに乞い願う 彼の天駆ける脚を我が手に】』
革のブレスレットをつけた手の甲に、複雑な紋様が光った。
身体の周りをきらびやかな光が渦巻く。
ふわりと青年の身が空高く浮き上がった。
「待っ……」
追撃を加えようと手を伸ばす幼女を見下ろして、青年はいった。
「『八珠の祝宴』最有力候補のお嬢さん。悪いけど、やり合うつもりは無いんだ。光の速さで撤退させてもらうよ。……俺には俺の使命があるしね」
そして、青年の姿はかき消えた。




