俺、夜へ逃げる
黒髪に鋭い目つきの少女が、どこまでも冷酷にハンドガンを構える。
「言っとくけど、フリじゃないからな。この対魔族用の銃は本物だ。もちろん人間にだって効く」
不機嫌な声が静かにいった。
ぐっと冷たい物体が押しつけられる。その手には微塵の震えも無かった。相当使い慣れている。
「一緒についてきてもらうぜ」
「……そうか」
視線を下へ向けたまま、俺も落ち着いて答える。虚勢を張っているのは、見抜かれているだろう。
ここから、どうしたらいい。迂闊なことは出来ない。相手は戦闘のプロだ。何か、なにか手は。
「ほら、立てよ」
続く沈黙に、苛立ちを覚えたのだろう。カイが噛みつくようにいった。
「ああ、悪いな」
そういって俺は立ち上がり──────
「わッ!?」
ポケットから取り出した鈴の束を、相手の顔のあたりに投げつけた。
神社参りで後輩にもらってから、入れっぱなしにしていた過去の俺に、最大限の感謝を送りたい。
アスファルトに凛とした音が鳴り響く。相手の様子をかえりみずに走った。
目についた路地裏に飛び込む。
「おい! 大人しくさっさと捕まれよ!!」
カイが、背後で怒ったように叫んでいるのが聞こえた。
「っ、そう簡単に、捕まってたまるかよ!」
呟いて、必死に足に力を込める。
倦怠感のひどい体を無理やり動かした。冷たい風が頬をなでる。
夕暮れの街は、明るい。
ネオンと居酒屋の提灯が、光の軌跡になって視界の隅を流れていく。仕事帰りの人々の喧騒が、遠くなった。
荒い息づかいだけが路地に響く。
得体の知れない恐怖だけが、俺を逃走へと駆り立てていた。
疾駆れ、疾走れ、走れ、ハシレ。
逃げなければ。
出来るだけ、奥へ。
暗がりへ。
もっと細い道へ。見つからない場所へ。
何も悪いことをした覚えはない。しかし、なんとなく捕まったら不味い気はするのだ。
祓霊するとかいって、こないだの犬モドキみたいに祓われてしまうのは勘弁してほしい。二の舞になんかなりたくなかった。
駆ける俺の真上に、黒い影が落ちる。
「おい! どんくさいオッサンらしく、止まりやがれ!!」
チラリと上を見れば、乱立するビルの壁を蹴りながら迫る人影があった。白い街灯の明かりに、十字架のネックレスが反射する。
発砲音と共に、足元に衝撃が撃ち込まれた。
ぞわりと身体中の毛が逆立つ。
息を飲んだ。
「こいつ、撃ちやがった……!」
これ、頭おかしいやつ! 当たったら死ぬぞ! あと身体能力どうなってんだよ!!
「っ、無茶苦茶だっつうの!」
息切れもそこそこに、横手の路地にかろうじて体を滑りこませる。
二発目が爆ぜた。
「これで……」
カイは、路地を走る白いTシャツに向かって狙いを定める。冷徹な瞳が光った。
「終わりだ」
そして、発砲。
静かになった路地。
「なっ!?」
地面に降り立った少女の足下には、唐草模様の笠が落ちていた。僧侶がかぶるような、三角形のものだ。
そこには、誰の姿もなかった。
「いない……?」
その呟きを、俺は建物の陰で聞いていた。
『小僧、神づかいが荒すぎるぞい……』
リュックから、タヌキがはい出してくる。
自称『偉大な変化の神』である、小さな生き物が疲れたように呻いた。
「しっ、静かに」
複雑な通路と、タヌキの幻術。
曲がり角を利用して、俺と、笠が身代わりになった偽物の俺が入れかわったのだ。
「別の道で逃げやがったのか……?」
カイはその場に佇んでいたが、首をひねると引き返していった。そのまましばらく気配を窺うが、戻ってくる様子はない。
ようやく肩の力が抜けた。
「お前のお陰で助かったよ。頼んだ甲斐があったわ」
『ふん、ワシに感謝するのじゃ!』
タヌキがふわふわのしっぽを振った。つぶらな瞳が誇らしげにかがやく。
「ああ、本当にありがとな」
安堵の息をついて、そろりとビルの隙間から出る。ぽつぽつと街灯が夜道を照らしていた。
「念のため、別の道で帰るか」
もう一度見つかって、追いかけられてはたまらない。
俺は今、どこにいるんだろうか。見当をつけずに走り回ったせいで現在地が不明だった。
「こっちでいいかな」
適当に、カイが去った方とは反対の道を選ぶ。疲れた体を引きずって、ゆっくりと歩きだした。
『お主、一体何をやらかしたんじゃ。いたずらか?』
「お前じゃねーんだから、そんなことするわけねぇだろ。でもなあ」
カイは何故俺を狙ってきたのか……『殺人』『敵対』『裏切り』といった、よくない文字が頭をちらつく。
完全に日は沈み、電信柱の明かりがチカチカと光る。また一段、夜の闇が色濃くなった。
網の目状にどこまでも広がる路地は、さながらダンジョンの迷路である。ビルに描かれたスプレーの落書きや、入り組んだ排水用のパイプが雑多なストリート感を醸し出していた。
「なんか、ちょっとした冒険みたいだなあ」
暗がりをしばらく歩いて、角を曲がる。さらに進むと建物の壁が道を塞いでいて、行き止まりになっていた。
「あー……引き返すか」
「その必要は無いですよ」
背後から、優しい声。
天空から、黒い影が降ってくる。
欠けた月を背に、ストンと着地した。
その人物は軽くため息をついて、マウンテンパーカーの裾をはらう。
「まったく、カイがまた乱暴な言い方をしたんでしょうけど」
月明かりに空色の布地が透けて、片耳につけた十字のピアスが鈍く光った。
「まあ、間違ったことは言って無いんですけどね」
穏やかな、双子の片割れ。
ソラは、にこにこと微笑んだ。顔に黒い影が落ちる。
「春人さん、体キツイでしょう? 僕と帰りませんか? 案内しますよ」
「……いや。ありがたいけど、一人で帰るよ」
口もとに引きつった笑みが浮かんだ。
背中に嫌な汗が流れる。
「クソッたれ……」
じくじくと右腕は痛み、痺れていた。しかも、先ほどカイから逃げた時に、足を変な方向にくじいている。頭の上でオロオロしている、タヌキの入れかわりも使えない。
ずしりと圧倒的な疲労感がのしかかる。
何よりも、後ろが壁。
ここは行き止まりだった。
「んー、カイの後じゃ、何言っても信じてもらえないですよね……。困ったな、僕らも仕事があるし……」
少年は首をかしげる。
深海の瞳が悩むようにさ迷った。
「逃がせない、か」
暗い路地に不穏な空気が漂う。
月光が、アスファルトに冷たい道しるべを灯していた。
少年の片手には、いつの間にか小型の黒い銃があった。カイが使っていたのと同じような形をしている。
器用に手のひらで回転させると、こちらへ構える。無機質な金属音が鳴った。
ソラは、おっとりと微笑んだ。
「一緒に来てもらえそうに無いので、一度オチてもらいますね。大丈夫です、実弾じゃないので」
「っ!」
本能的に、まずいと思った。
突っ立っている方が的になる。
所詮、悪あがきになろうが。
少年の脇をすり抜けようと、ジグザグに駆け出した。
銃を向けた少年は、眉を下げてみせた。申し訳なさそうな顔でこちらに告げる。
「ごめんなさい、春人さん。依頼なんです」
その言葉と発砲音を最後に、俺の意識は吹き飛んだ。
「キミは神を信じるかね?」
「え?」
俺は、灰色の地面に寝転んでいた。
空気の冷たさに目を覚ませば、辺りは夜の闇に包まれている。身を起こすと近くにベンチや遊具が見えた。どこかの公園のようだ。
数メートル先。街灯の下に、人が立っている。人工的な光に照されたそいつは、形容しがたかった。
なぜなら、変わり続けていたから。
ぐにゃぐにゃと顔かたちが変わる。
男が女になり、老婆が幼児になる。
こちらへ一歩進むごとに、鈍い骨の粉砕音をたてて身長が伸び縮みし、凄まじい速度で髪と瞳の色が変わり、服が目まぐるしく形をかえた。
「な、にが……」
じりじりと、後ずさる。無慈悲にも背中が硬い壁に当たって、それ以上逃げられなくなった。
落ち着こうと必死に息を吸うが、上手く酸素を取り込んでくれない。焦りと恐怖で手足が強ばった。
悠然と人ならざる影は歩いてくる。
ぱっと見たときに、印象の固定ができない。どう接すればいいのか分からない。想像ができない。そもそもこいつは、人じゃない。人の形態をとった、何かだ。
生理的な嫌悪感と冷や汗が浮かんだ。
とうとう、そいつはすぐ目の前までやって来た。形を変え続ける人物の身長がバキゴキと縮む。
黒いフリルたっぷりのドレスをまとい、どろどろに溶けていた顔が人形のような愛らしい顔立ちに変わる。大きなアメジストの瞳が開き、銀のツインテールが揺れた。
幼い舌ったらずな声が耳朶を叩く。
「こんばんは、はるひとくん。キミは神をしんじるかね?」
見知った人物が、ニヤリと俺を見つめていた。




