第108話 夢と現とを諸共に争うなら
歴史が見える。今夜この月華の間は激動の一点を刻む。
ヨハンネス・ロンカイネンは己を支える背景であるところの伝統を呼吸し、眼前にてまさに唸りを上げている歴史模様を受け止めるべく威儀を正した。下腹に力を溜める。口を引き結ぶ。両の手は手摺りを握り締めて、両の足はやや広げて床の柔らかきを深く踏み締めた。
「あんまり興味深かったので、行儀の悪さを承知の上でも扉に張り付きましてな? こう、耳に手を添えなどして拝聴させていただきましたわ。わっはっは!」
ヨアキム・ベック……白い僧衣を肥満体の曲線で膨らませて、その胸には神の象徴を下げている。清々しいまでの傲慢を聖職の位で包装していて、この月華の間に足を踏み入れてなお僅かにも立ち居振る舞いを緊張させるところがない。
酒場にいい加減を歌うような威勢のままに、拍手すること数回、大声を発した。
「お見それお見それ! やはり王都の北にその人在りと言われる御方は果敢でございますなあ! 誰もが恐れ逆らえぬ者に対しても退かず媚びずの雄々しき威風! さすがはマルヤランタ侯と申し上げましょうぞ! 近頃は王国の貴きお歴々の中にもとんとそのようなご立派をお見かけしないものですからなあ?」
ベック司教は太い体躯を前屈みにするまでしてこちらを睨めつけてくる。ヨハンネスはその態度の滑稽さとおぞましさとを虚心で視界に映した。表情としては笑顔だが、しかし肉をしわ寄せて擬態したその奥ではさぞかし眼光も鋭かろうと察する。そうでなくては対面できない男が司教を睨んでいる。
クラウス・ユリハルシラ侯爵だ。表情の険しさに赫怒を隠しもしない。ゆっくりと吐き出される息にはとてつもない熱が込められているように思う。その熱は当然ながら言葉にも乗る。岩をも溶かしそうな声が絞り出された。
「行儀の悪さを今更に驚くものか。無礼についても然り。下品についてもまた然り」
ゆっくりと立ち上がり、ユリハルシラ侯はベック司教の正面へと歩を進めた。幻聴だろうか。一歩一歩に甲冑の物々しい金属音が聞こえてくるかのようだ。
「しかしそれでも言動には気をつけることだ、ヨアキム・ベック東方司教。ここは月華の間である。王国の誇りと伝統を踏みつけにするなど何人にも許されぬ所業ぞ」
「はっは! さすがはクラウス・ユリハルシラ侯爵閣下であらせられる。忘却癖を随分と都合よく使いこなし、常に新しきを生きておられるようだ。そんな言動をして恥ずかしげもないのだからなあ!」
ベック司教もまたその腹を突き出すようにして前進した。ヨハンネスは強い既視感を覚えたものだ。ここは謁見の間であったろうか。季節は冬であったろうか。
「重ねて言う。口を慎むべし。王国が教会に聖職者の派遣を求めたことをもって何事か勘違いし、居丈高に振舞っているのだとすれば……それは度し難いまでの愚かしさである。訪問を私的なものとし、四侯会議を避けたことの意味を考え直すことだ」
言葉の端々に殺気が瞬いているとでも言うべきか。怒鳴らずともユリハルシラ侯の声音には肌にひりつくような威がある。黒雲が雷を孕むかのようだ。
そしてその発言はヨハンネスにとっても我が意を得たりの内容であった。
東方教会が王国へ働いていた数々の陰謀は、その殆どがベック司教により考案され実施されていたことがわかっている。どれ一つをとっても許しがたいが、何よりも断罪すべきは先王崩御に関する大罪だ。間接的ではある。しかしマルガレータ王女に霊妙の毒薬を渡した意図は明白だ。
東方教会の司教が王の実子を唆して……あるいは共謀して、王を弑逆する。
あってはならないことだ。それがあってしまった。事が公になれば国の権威も教会の権威も諸共に失墜する。社会秩序を支える根本のところが大きく損なわれる。そして大陸の東側に限定されない大混乱が生じるだろう。それが治まるまでにどれほどの犠牲を必要とするのか想像もつかない。
だから四侯会議はその事実を隠蔽した。内乱勃発の緊張が高まる中にあって、争いを超えたところでもって同意が形成されたのである。王国にとっても教会にとってもそれ以外に取り得る選択肢がなかった。
しかし、現在は当時と状況が異なっている。
マルガレータ王女は王位継承権を剥奪され謹慎すべき立場にあったものを、内乱において村落襲撃という協定違反を犯し、更にはカリサルミ領都に火を放つという暴挙をも行った。王権とは離れたところで個人としての罪を重ねたのだ。新王と生母が別ということも好都合である。王国法によって裁くことも可能だ。
今もし秘密を暴露したならば、失うものが多いのは教会の側なのだ。社会不安を招くという意味においては王国にとっても損失はあろうが、しかし相対的優位性をもって譲歩を迫る立場であることには違いない。
そうであればこそ、ベック司教はこの場にサルマント伯とカリサルミ伯も同席させるよう要求して……秘密については何の言及もしない代わりに譲歩するということを暗に示していたのではないか。ヨハンネスはそう了解していたものだが。
笑顔である。ベック司教は動じない上機嫌を表していて、道化じみた態度を崩そうとしない。
「物事とはより大なるものによって塗り潰され、小さきは区別なく意味を失っていくもの。人の営みの功罪についてもその理は貫き通されておりますなあ。過去の罪人も今に功績あらば誇らしげに胸を張ることを許されて……」
指先にまで肉の詰まったその両手でもって指し示しているのはユリハルシラ侯だ。この上更に挑発するとはどういう了見なのだろうか。もしも常人の理解の外にある狂気をもって笑んでいるのだとすれば、この聖職者は怪物だ。怖気を覚えずにはいられない類の化け物だ。
「そしてそしてぇ?」
十本の肉虫めいた指を細かに動かし、ウキウキとするようにして、次には誰を指し示そうというのか。目をまん丸にして見回すその視線が顔を掠めたから、ヨハンネスは思わず身を仰け反らせた。手摺に握力を頑張っていなければ背もたれに倒れたかもしれない。
「今に功績ある英雄も、未来には世界に並ぶ者もなき大罪人として裁きを受けるに至る……というわけですな。いやはや、まったくもって嘆かわしい」
ベック司教の見つめる先には彼がいる。マルコ・ハハトがいる。何が起ころうとも慌てることなど想像もつかない凄まじき彼がいつものように微笑んで……いや、歯を見せて笑っている?
ヨハンネスは素早く瞬きをした。見間違いではない。マルコ・ハハトは常にないほどの笑顔だ。
この緊迫の月華の間において聖職者から不吉な予言をされているというのに、まるで百万の祝福を受けたかのようにして蕩ける愉悦をその顔に浮かべている。妖しいまでの色気が溶け零れて香を放っている。
十指の方もまた奇妙に優しげな動作を見せている。杯を捧げ持つようにして丸みを作っている。それはあるいは抱擁の一種なのかもしれない。ベック司教の視界にあっては、その手の内にマルコ・ハハトの顔が収まっているのかもしれない。
これは……この二人の様子は、何だ? 何だというのだ?
ヨハンネスは理解を置き去りにして目撃している。鮮烈な印象ばかりが心を焼いていて、その意味するところはまるで滲んでこなかった。歴史がその当事者よりもむしろ後世の人間に手によって分析され解釈されるように、いつの日か、今夜この場面を静かに考察できる時が来るものだろうかと思う。
「汝、魔に抗うべし……神は人にそう教えていませんでしたかな?」
再び発音された“魔”という単語が落雷のように鳴り響く。その意味するところの深刻さでもって、聞く者の心に強い衝撃を与えずにはおかない。ヨハンネスは軽く首を振り、居住まいも正した。
「王国の頂き近くにあって己の貴きを疑いもしないお歴々に、拙僧、一つ忠告をば献じましょう。大事な大事な忠告ですぞ? それがためにこうして単身まかり越したのです。忠告の内容が内容なだけに色々と慮りましてなあ……いやあ、拙僧、この国を愛しておりますからなあ」
重そうな身体を捻り、大げさな仕草で祈りの姿勢をとったりなどして……そして、言う。
「その者、マルコ・ハハトには魔人の疑いがありますぞ?」
魔人。
人の形をした魔境にして、世界を闇に閉ざすために現れるという絶対の悪。人間の絶望。神の敵対者。
在ったのならば無くすべし。討つべし、人の総力をもってして。滅ぼすべし、人が滅ぼされるその前に。
まさかとは思っていた。よもやそればかりはと考えていた。しかしどこかでこうなることを予想していた己を発見して、ヨハンネスは咽奥に唸り声を押し殺した。不意に生じた得心……それは私情より発したものだろうか。それとも背負う伝統が回答したものだろうか。
ベック司教が魔という言葉を口にした時、ヨハンネスがまず考えたのは新王即位にまつわる諸々の動きだ。不備はない。理が通っている。祓魔特別教区との交渉は、別離行動を取ったとはいえ東方教会の聖職者が行ったのだ。王国はそれに協力したという体裁が整っている。異端的な何ものもそこにはない。
では何をもって魔か。ユリハルシラ侯か? 違う。冬の表彰式典にてベック司教と弁を戦わせたとはいえ、王国の貴族の長として誰に恥じることもない正道を歩いてきた人物だ。魔とするには無理がある。
マルコ・ハハトしかいない。
いかなる糾弾も受けぬよう万事に細心の注意が払われてきた中で、英雄たる彼ばかりは来歴に隙がある。そう思い至ったことはヨハンネスにとって恐怖でしかなかった。
キコ村の村長の子として生まれた彼は、辺境の開発村の事情もあるとはいえ、生後いかなる祝福も受けずに育ったという。これについては両親が彼の病弱を理由に拒絶していたという話もある。
世に名を知られることとなったパウリーナ王女救命の際も同じだ。貴族の養子になることを固辞したことでやはり祝福されず、第三王女親衛団の末席に加わったところでその集団は教会に無視され祝福されなかった。ただ王女への忠誠をのみ掲げて彼は戦ったのだ。
対帝国戦争における水上大火計は、今や多くの者が彼の戦功であると知る。それは同時に教会の提唱した守護龍伝説の否定をも意味する。そんな彼が皮肉にも龍将軍として任命されたわけだが、その際に名乗ることを求め許された家名はハハト姓……かつて魔人サロモンが名乗っていたものである。
帝国皇帝の心を殺したとも言われる弁論を思う。即位前のパウリーナ王女の剣を肩に受けて宣誓した文言を思う。ここ最近の振る舞いを思う。まるで勇者のように在って、それでいて教会が認めるところの価値のことごとくを無視し踏み躙っていく有り様を。
ヨハンネスは考えのまとまらないままに、何かを占うような気持ちでもって、アドルフ・マルヤランタ侯爵を見やった。共に陸水面の駐屯地を訪問した時のことを思う。あの時は見れなかったものがそこに再びあるものだろうか。
ああ……どうして、貴方という人は。
嘆きを奥歯に噛み殺して、ヨハンネスは老侯爵の笑顔を見つめた。北の怪老などと呼ばれる彼の両の目は爛々としていて、口の端は大いに吊り上がっている。犬歯が覗いている。鼻息が荒い。皺だらけの顔に若々しさが灯っている。
「いやあ、まったく驚くべきことですな!」
ベック司教の独壇場は続く。
「近頃、神の奇跡であるところの帝国船団炎上をば、まるで己の手柄であるとでもいった風に嘯いている輩がいると小耳に挟みましてな? これはしたりと調べさせたところ、何と王国の英雄将軍の名が出てくるではありませんか。いや、参った参った!」
額を打った音には湿り気があった。手が汗ばんでいたのか。それとも頭か。そんなどうでもいいことを脳裏に検討などして、ヨハンネスはただ見、ただ聞くよりない。
「魔の働きとは時に神の奇跡を見た目に模倣するとも言われておりましてな? これはいかんと奇跡調査官を派遣したものですが……何と、誰も帰って来ない。どうにも陸水面の辺りは治安が悪いようだ」
奇跡調査官、と複数名が呟いたようだ。ヨハンネスもまたその内の一人である。
「野盗でしょうかな? それとも獣でしょうかな? あるいは浅黒い肌に銀色の毛並みをした狼かもしれませんなあ……ああ恐ろしい恐ろしい!」
実に楽しげに話しぶりだ。身体を揺すっているから、その内踊り出すのかもしれない。誰もが注目している。何を言われ何を踊られても、誰にも止められやしない。
「そんなわけでして、情けなくもそこのところは調査が完了しておらんのですけれども、それにしたところで聞こえてくる色々と見えてくる諸々とがございましてな? まあ、決定的な証拠がないというだけの話で、まず間違いなくその男は魔人でしょうよ。何しろ神への畏れがない」
それは違うと声を上げられる者の一人として、この場にはいない。
「そして多くの人間に恐れられておりますな。さもあらん、さもあらん。その者一人がいることで、一体どれだけの人間が死ななければならなかったか……しかもまだまだ死を撒き散らす気でいるのだから堪らない。次から次へと戦争を遊んでいるのですよ、その者は。そうやって人間を殺していくのですよ、その者は。この反社会性は魔人の証左ですなあ。どこまでも人に仇なす存在ですなあ」
激しい物音がした。レオ・サルマント伯爵だ。四侯六伯の中で最も軍事に力を入れている彼だから、他の誰よりも激発するものがあったのだろう。今しがたのベック司教の発言には正確さを欠くところが多く、しかも悪意に満ちていた。
噛みつくようにして発せられようとした怒声は、しかし一本の手によって未然に止められたのである。マルコ・ハハトだ。致命的な認定を受けようとしているその当人だ。
しかも変わらずの笑顔である。どうしてそんな顔をしていられるのか。
「帝国軍との大会戦……剣も槍も交えずに帝国皇帝を狂わせるなど、いかにも怪しいですなあ。それ以前の、あれ、帝国の前線砦を焼いたというあれも怪しい怪しい。弓張原会戦とやらも、拙僧、決着の呆気なさを怪しんでおりましてな? 極めつけはカリサルミ領都における騎馬の一周ですな。意味がわからない。いっそあれではないですかな? 領都へ火を放ったのもその者なのではないですかな?」
笑顔だ。この言い掛かりとしか言いようもない弁舌もまた笑顔によって行われている。
どういうつもりなのだろうか……ベック司教も、マルコ・ハハトも。
両者の間にある奇妙が次第次第に広がっていって、今や月華の間を不可解の占拠する空間へと変貌させている。ユリハルシラ侯もサルマント伯も、憤怒の炎を戸惑いの中に持て余している風だ。マルヤランタ侯ですら表情を定めきれていない。カティヤ・カリサルミ女伯爵に至っては泣きそうな顔をして首を右へ左へと動かし続けている。
「どうかな? 己が魔人であると告白してみては?」
とてつもないことを、まるで友人へ茶や菓子を勧めるようにして言う。
「神は慈悲深くていらっしゃるゆえ、浄化するに際しての苦痛を減免して下さるかもしれんぞ? ん?」
ひどく優しい言い様だ。そこには嫌味なところはまるで感じられない。
「神罰の代行たる処刑にも種類がある。私見だが樽を使う類はどれも凄惨だ。毒虫や人喰い虫と共に詰め込まれる蟲刑はおぞましいにも程があるし、樽の内側にびっしりと釘を尖らせる釘刑などは樽を転がすたびに血の川ができる。聖なる作法とはいえ凄惨なことよなぁ……」
頬の肉を揺らせて二度三度と頷き、思いついたようにして、言う。
「水刑などどうだ? 紫雲海へ小舟で流されるというものだ。魔人、魔境へ帰るの図だな。生物としての終わりが溺死になるのか否かは拙僧にもわからんところだが……ふむ、お気に召さない……では、やはりあれか。うむうむ、あれは得意だ。全てを用意して実施したことがある」
ぽんと手を打ち、満面の笑顔でそれを言う。
「火刑だ」
ヨハンネスはあの夜を幻視した。聖なる炎の祝祭の日だ。魔人サロモンが王都に焼かれたあの夜だ。あれは王国史にとってどんな意味を持つものなのか……それを己の身に生じた変化でヨハンネスは知る。悪寒だ。怖気だ。悲鳴を我慢しなければならないほどに身の毛がよだつ。あれは全く酸鼻な出来事だった。
空気が鳴った。いや、割れた? とにかくも鋭利で強烈なものが月華の間に鳴り響いた。
「はは! あはははははは!! はははははははははははは!!!」
笑い声だ。マルコ・ハハトが声を上げて笑っているのだ。
顎を上げて口を大きく開き、その一方で閉じた瞼の端には耐え切れないとばかりに水滴を蓄えて、身も裂けよと言わんばかりに呵呵大笑している。これまでに見たこともない……想像もつかない姿だ。
世界が揺れている。ヨハンネスはそれを錯覚だと思おうとした。己が身の震えが原因であると納得しようとしたのだ。しかしどうにもいけない。それだけでは説明がつかない。誰もが椅子に縋りつくようにしているからだ。地震だろうか。いや、そんな馬鹿な。ベック司教は身動ぎもせずに直立している。
混乱のままに揺られ揺られて、どれほどの時間が経ったろうか。
いつしか音は止み、夜の静けさが舞い散った埃の降り積もる様にも似て月華の間に唯一のものとなっていた。ヨハンネスは己が呼吸していることを確認した。大丈夫、生きている。身中より拍動も聞こえている。この瞬間にも時は刻まれているということだ。
そして……ああ……微笑んでいる。
魔人であるとされた彼は摩訶不思議な色彩の瞳を煌めかせている。暗闇に青光が差して紫雲が艶めかしく対流するような……月無き夜に妖星が昇り輝くような……得体は知れなくとも目の離せなくなる眼光を放って、足を組み座る様も壮麗に、この夜この場へ集った者たちを眺め渡している。
彼は……マルコ・ハハトと名乗っている彼は……あるいは本当に?
「僕を魔人審問にかけるに足る証拠を揃えているかい、ヨアキム」
「揃うていたなら独りで来ない。聖なる行列をもって王都に入り、携えたそれらを掲げて聖歌を歌い、薪の山に油をかけて酒を呷って、黒い冷鉄の鎖でもってお前を縛ったろうさ。そして炎を巻き上げる」
「ふふ……そうだろうね。だから愉快さ。君はまだ僕を策に嵌めたつもりでいる」
これも幻だろうか。二人が会話している。随分と親しげだ。
「ふむ、嵌っていないか? お前は今ここで私といる。その背に翼は生えていまい?」
「君の捨て身に感じ入っただけのことさ」
「はっは! 今更な話だな。もはや矢は放たれているぞ」
「僕がそれを掴み獲るところを、君は見られるかな?」
「お前にそれができたなら見られるのじゃないか? その後は知らんが」
「また楽をしようとしている。悪い癖だ」
「人一人分の仕事とはその程度ということだ。お前のようには在れん」
遠く不思議な言葉が交わされている。本当に親しげだ。気の置けない友人同士が肩肘を張らずに素直なやり取りをしているようにしか見えない。声には真心が込められているようにしか聞こえない。
「まったく……難儀なことだよ」
ベック司教が苦笑を浮かべている。それもまた見たことのない姿だ。ヨハンネスはもはや驚き方を忘れてしまった。この夢か現かも定かでない時間にあっては、きっと何もかもが起こり得るのだ。
そら、マルコ・ハハトの姿も実に非現実的だ。
十九歳の彼が、薄ぼんやりとではあるものの、三十過ぎの見覚えのある男にも見える。魔人から連想したものか。それとも火刑から連想したものか。あるいは両方からか。口にしたならばはっきりもしようか。
「サロ……モン」
呼びかけになった。そして振り向いたのは……常に見る様のマルコ・ハハトであった。
「大丈夫ですか? もう夜も遅い……閣下だけでなく、誰も皆疲れているようですね」
耳奥に轟々と鳴るのは己が血流の音だろうか。それとも現実が立ち返ってきたが為の轟音か。ヨハンネスは瞬きし、首を左右に振って、月華の間に出席するロンカイネン侯たる己を蘇らせた。周囲を見渡す。誰もが夢から覚めたようにして椅子の上の己を発見している。
何かが起きた。それはわかるが頭が働かない。虚脱感が酷い。
だからヨハンネスは見ることしか、聞くことしかできなかった。ただ受け止めるばかりだった。
「おお、そうだ! 拙僧、大事なことを言い忘れておりました!」
おどけた様子でベック司教が手振りした。それも常に見る彼の姿だ。
「先日、エテラマキ領にて奇跡の瑞光が見られましてな? およそ二十年ぶりになりますが、勇者が聖定されたのですよ。いや、素晴らしいことですなあ! 神はいつも我らを守護し祝福して下さっている! ああ、ちなみに皆々様のよく知る人物が勇者でしたぞ? マルガレータ王女です。ま、神の使命を帯びた身に俗世の名など意味をなしませんがね?」
何を……言っている? 何ということを、もののついでのように報告している?
奇跡の瑞光だと? 勇者の聖定だと? マルガレータ王女だと?
いつ、どこで、どうして……何もかも訳がわからない!
ヨハンネスは口を開いたが、しかしどうしても言葉が出てこなかった。この場で発言するためには何かが欠乏していた。息も絶え絶えだった。
「教会としましてはこれこそ魔人討伐のための奇跡であると確信していたものですが……いやはや、ここにいる疑わしき者は自白をしない。困ったことですな。奇跡調査官が報告をもってくればすぐにも審問にかけるところですが……どうにも時間がかかりそうな具合です。王国の英雄相手には冤罪も困りますからな。いやあ、困った困った。ああ、困った」
何がそんなに嬉しいのか。何をそんなに笑うのか。次に何を言おうとしているのか。
「大変に困りましたから、こちらでなくあちらのを優先するよりありませんな! まあ、既に勇者は出発しておりますゆえ、簡単なことです。拙僧からの連絡がなければ勇者の進路は変わらないという手筈でしてな」
何の話だ、と問うたのはユリハルシラ侯だ。絞り出すようにでも発声できたことをさすがと評すべきか。しかし……ベック司教の返答は聞く者を打ちのめすものだった。
「行禍原です! 行禍原ですよ! 何を血迷ったものか禁忌を犯してあの地を開拓しようなどという暴挙が行われているではありませんか! ええ? それは駄目も駄目、許されぬことですぞ? この者が魔人でないとしたら……それはもう、勇者顕現の理由はそれより他にないでしょうよ! いずれどちらも清く正さねばならぬところのものなれば? こちらに時間がかかるものならば? まずはまずはあちらからというだけのことですなあ! 勇者とはそのようにして駆け抜ける! 聖なる使命のままに!」
行禍原開拓計画を正すとはどういうことだろうか。歯痒いまでに働かない頭で、ヨハンネスはそれを思う。口振りからすれば勇者は移動を開始していて、その目的地は王都ではない。駆けるとも言った。駆ける。勇者が駆ける意味とは何だ。単騎で早駆けるわけもない。
まさか……まさか!!
「今更に慌てても無駄ですぞ? 勇者の行動とは神の御心を体現するものであり、教会も助言はすれど命じることなどできんのですからな。罪深き者はひれ伏すまでもなく打ち砕かれましょうぞ! カリサルミ領を踏み崩し、ユリハルシラ領を蹴り除けて、一先ずは新町とやらの焼き討ちですかな? かっはっは!!」
一度駆け出したならば、もはや誰にも止めること能わず。聖なる使命は必ず遂げられるものなり。
それこそが勇者と聖杯騎士団! 神の威光を地に知らしめるべく戦う、聖なる武力集団! 彼らは罪を裁くに際して無慈悲で情け容赦もない……いかなる事情も解さず、抗弁にも嘆願にも耳を貸さず、天災のようにして一切合切を破壊する。殺戮する。塵芥へと戻す。
カリサルミ伯が悲鳴を上げた。恥ずべきことではない。サルマント伯は唸り、ユリハルシラ侯は「馬鹿な」と漏らした。マルヤランタ侯でさえ息を呑んだ。ヨハンネスは息が詰まって声にもならなかった。
笑っているのは……やはり二人だ。
ベック司教は哄笑し、マルコ・ハハトはそれを見つめて微笑んでいる。
それが両者の対決の形なのだ。これが教会と龍将軍の戦争なのだ。恐るべき者たちによる闘争とはかくの如くして戦われるのだ。諸人の理解と想像を超えて、速く、鋭く、強く、凄まじく!
何かが激しく軋む音がする。ヨハンネスの耳に絶叫のようにも聞こえてくる悲響……その正体を思う。
社会か? 国家か? 伝統か? 歴史か?
いずれにせよ、何にせよ、もはや激突は避けられない。世界は激震を体験する。未知なる激しさが天地に吹き荒れて、誰も彼もが恐れ戦くことになる。声もなく震撼させられることになる。
「龍将軍として提案します。ヨアキム・ベック司教を拘束し、心身の状態を精査しましょう。彼は狂っています。それともあるいは、彼こそが魔人なのかもしれません。無辜の民を苦しめる旨の発言をこのように嬉しそうにするのですから」
痺れたように身動きのできない、この凄まじの時の中で……マルコ・ハハトは軽快に立ち上がった。雲の上を歩くかのようにして進み、ベック司教の脇を無造作に通り過ぎて、閉じられた扉へと至った。
「勇者と話してきます」
肩越しにちらと月華の間を振り返り、目元に悦を浮かべて、告げた。
「火刑戦旗を掲げて、ね」
扉は開き、そして閉じた。
軍靴が音を立てて、そして遠ざかっていく。
やがてその音が聞こえなくなり、再びの静寂が訪れてもなおしばらく、月華の間に僅かな物音も生まれることはなかった。深々と降りそそぐ神妙というものがあった。
限度を超えた何かが猛威を振るい終えて……誰もが、身動ぎの一つもできなかったのだ。




