第107話 ようやくとここに会えた君へ
眠ることを許されない夜闇は焦燥を煽るものでしかない。働くことを強いる灯明を忌々しく見やったなら、そこに群がる羽虫の一匹が勢い余って焼け死ぬ様を目撃した。怖気を震う。
カティヤ・カリサルミ伯爵は王城の回廊を行く。目の前には武人然とした背を見せてレオ・サルマント伯爵が先を急いでいる。
「こういうものと割り切るべきとはいえ、まったく腹立たしいことだな!」
それは本音に過ぎた。サルマント伯は憤怒を持て余しているようだ。刃物こそ所持していないもののあからさまに怒気が発せられていて近寄りがたい。さりとてカティヤは追従することをやめるわけにもいかない。
「あの男が脂肪に塗れていることは見ればわかる話であるし、面の皮が重なるほどに厚いことも承知していたものだが……それにしたところで度が過ぎる。馬車ごと燃やしてやったならば、それはさぞかし愉快であったろう」
カティヤは同意できない。その馬車はカリサルミ家の所有する中でも最高級のものであった。中に乗っていた人物を害したいのならばまずは降車させるべきで、しかも己の領地にでも連れて帰ってから実行してほしいところだ。これ以上の災いの種は御免である。
さりとて反意を表明することもできないから、何も言わず後に続く。幾つの灯明を通り過ぎたものか。近づいては遠ざかることを繰り返すそれらの灯りに照らされて、サルマント伯の影は長さを変えもすれば回転もする。カティヤはそれを踏む。あるいは踏まぬ。足音が単調に繰り返されている。
「ふむ……御身には思うところも多い事態だろうが、会場に入っては言動に気を付けることだ。沈黙も時には猜疑を生む」
「……我が家は女王陛下への絶対の忠誠を誓っております。猜疑など」
「重畳。カリサルミ領には我が領軍が配備されている故な」
その発言が恫喝的であったならばいっそ恐れなかったのかもしれない。大きく吠える者の威など高が知れている。こちらの反応により態度を変えもするからだ。交渉の余地がある。
しかし声音には誠実さが乗っていた。つまりは言語道断ということだ。万一にも叛意ありと見なされたならば馬車の内に襲われるのはカティヤということだ。領都領城を含むカリサルミ領の要所にはことごとくサルマント領軍が駐屯している。
寒さが身の内に根を張っていて、いつもどこでも刺々しく心身を苛む。カティヤは下唇を噛んだ。耐えねばならない。家を存えるためにはひたすらに忍従あるのみだ。頼れる者などいないのだから。
「……臨場する前にサルマント伯の御考えを伺っておいてもよろしいでしょうか?」
「御身の忠誠については大いに期待している」
「それは……ありがとうございます。しかし私は馬車の客について伺いました」
「……心情としては先にも言った通りだ」
歩みを緩めることなく、その猛々しい伯爵は言う。
「しかし、実際のところは適任者に任せるよりあるまい。私ではいいように弄ばれた上で足を掬われよう。しかもそれは私個人の無様で済まないのだからな」
「……それほどの相手ですか」
「ヨアキム・ベック……東方教会において最も警戒すべき男だ」
緊張に乾く口中に唾を巡らせ、呑み込み、歩を速める。そして近衛兵により厳重に警備された一画へと至ったならば、一室の扉が大きく開かれていて、夜半にも関わらず中からは貴人の気配が漏れていた。
月華の間……王国最上の格式をもつ応接会議室である。
派手さを排していてもなお薫る贅の重厚というものがあって、それは天井の高きから人を押さえこむようにして威儀と静謐とを強いてくる。足に踏む敷布の柔らかさも同様だ。寛がせるためのものではない。体重に応じてか責任の重さに応じてか、確たる感触でもって熟慮熟考を要求してくる。
カティヤは小さく喉を鳴らした。ここはまさに王政の中心であり権力の最高所である。
集った顔ぶれも錚々たるものと言えるだろう。急報をもってしての集合であるため、王都にいた人間のみではあるが。
侯爵としてはクラウス・ユリハルシラ、ヨハンネス・ロンカイネン、アドルフ・マルヤランタの三人が座っている。誰の表情も重苦しく何を読み取ることもできない。伯爵としてはカリサルミ伯たるカティヤとレオ・サルマントが只今到着したのみだが、これでも四侯六伯の内の五人が集結した形だ。
そしてもう一人……彼がいる。
龍将軍マルコ・ハハト。カリサルミ領都包囲戦において想像を絶する戦果を叩き出した男である。僅かに一昼夜……ただのそれだけで、彼はカリサルミ家の生きていた世界を完膚なきまでに打ち崩した。
若い。しかし得体の知れない若さだ。この場にいる誰よりも沈着な様子でいる。
怖い。憎むべき男であることを頭では理解しているが、それよりも何よりも恐ろしさが勝る。
マルコ・ハハトはカティヤの知る如何なる人間とも異なる在り様を示している。行動も思考も予想がつかない一方で、頭の隅にチリチリと焼ける感覚がある。それは危険を知らせるものだ。いつも理屈は後からやって来る。今はただ警戒感が募るばかりだ。
この人物とは関わり合いになりたくない……それがカティヤの偽らざる本音である。
「両名とも、此度は大変な苦労を働いてもらったようだ」
ユリハルシラ侯が苦々しさを隠しもせずにそう言えば。
「言うべき言葉はあれど、この部屋に入っては何も言いますまい」
サルマント伯が不機嫌も露わにしてそう答える。これには周囲も苦笑いだ。愚痴や悪言を吐かない代わりに、格式に則った表向きの発言もしないという意思表示である。
先の忠告を思えば、これから始まる会談に沈黙を貫くというわけでもあるまい。しかし今夜この場に至るまでの経緯を思えばカティヤとしても全くの同感であったから、出過ぎた行為ではないかと思いつつも、頷くことでもって同意を示した。
本日午後、東方教会中央教区司教ヨアキム・ベックは突如としてカリサルミ領南領境に姿を現した。
事前の連絡など何もない。それどころか随行員もない。身一つだ。軍事的な緊張の漂うその一線を肥満体の身で軽々と踏み越し、警戒するサルマント領兵へ手招きすらして、どう取り繕ったところで敵地でしかないであろう場所へとやって来たのだ。
カティヤにとっては迷惑な話であった。
カリサルミ領における軍事的な諸々は全てサルマント領軍により取り仕切られているが、それはある種の軍政といった有り様で、提案という形式でもって強権的な命令が下りてきてはカティヤを働かせる。この場合においても実に様々な提案がなされて諸々に奔走することとなった。
最高の歓待と最速の移動……言葉にすれば訳もないが、それらを実現するための差配は全てカティヤの仕事であった。しかも秘密裏に事を運ぶ必要があった。司教が自らの行動を非公式なものと宣言したためである。
兵を使った道中警護や四方への早馬などについてはサルマント領軍の役割で、実際に対面しての問答や接待もサルマント伯が行った。前者はともかく後者については傍目に見るだけで不安と緊張とを強いられたものだ。カティヤの目に映ったそれは、猛獣を前にして怪人が挑発を繰り返す光景であった。
堪ったものではない。伯爵位を受爵してからというもの、カティヤは己が従来の何倍もの速度で老化していく気すらしていた。
「卿らのご苦労は察して余りあるが、しかし、司教も随分と珍妙な指定をしてきたものだねぇ?」
場違いな調子で声を張ったのはマルヤランタ侯だ。カティヤは怪老が手に持っている杯の中身を知りたく思った。水のはずだが……あるいは気つけの酒類であろうか。それもあり得るのかもしれない。
マルコ・ハハトへ無遠慮な視線を浴びせているからだ。
「何を話しに来たにせよ……どうして軍人を同席させるのだろうか。私には理解しかねるなぁ」
この国において王に次ぐ最高権威機関と言えば四侯会議であり、六伯を加えた十人会議がそれに続く。王政の上位には軍人が発言するための座席など用意されていないのだ。それは政治に関わる者であれば誰しもの知るところのものだ。そして三侯爵二伯爵が出席するこの場は十人会議に準ずるものと言える。
しかし、何事にも例外というものがある。この場に集う誰もが知らぬはずもない。今やマルコ・ハハトこそがこの国で最も影響力を発揮する人物であることを。
マルヤランタ侯もまたそれを承知していたはずだ。何故、今、怪老という異名の意味を不気味に思い出させるような真似をするのだろうか。不穏な波風を求めるのだろうか。
柔らかな椅子にあって、カティヤは肘置きにも背もたれにも触れられない。
「司教猊下のご指名とあらば欠席するわけにもいきません」
平然として答えるこの男は、確か今年で十九歳だったはずだ。そしてカリサルミ家でも及びのつかないほどの成り上がり者であるはずだ。齢八十に迫る伝統の侯爵家当主に揶揄されてその態度……正気なのか狂気なのか……いずれにせよカティヤの理解を超える光景だ。
「この場にいようといまいと、君はいずれ誰かに全てを説明されるのだろうけれど……君がいるのといないのとでは随分と話せる内容が変わるのだけどな」
「仰る通りですね。四侯会議でない以上は言葉にできることも限られて当然です。閣下が司教猊下に対して何を語りたいのかまでは、僕の知るところではありませんが」
「……十人会議で迎えれば、それで十分ではないかなぁ? たとえ私的な訪問であるにせよ、王国としては念願叶っての東方教会司教の来訪なんだよ? 君がいると色々と台無しだと言っては、少々言葉が過ぎるかな?」
「きっと司教猊下は直接僕の耳に聞かせたい話があるのでしょう。単身王城へ出向いてまでも」
二人を除き誰も言葉を発しようとしない。間もなく登場するはずのベック司教もやって来ない。カティヤは聞こえてくる会話に早くも剣呑な何かを察して唾を飲んだ。椅子の上に姿勢を正したまま、固まる。
「しかし、この部屋の格式というものもあるよ。君の座るその席は、本来ならば六人目の伯爵のためのものだ。残念ながら座る者が定まっていないけれどね」
「格式を問い欠席を憂うのならば、テルヴァハル女伯爵閣下も呼ばれたらいかがですか? 未だ自領へ出立することもなく王都へご滞在なのでしょう?」
「……君ね、時刻を考えなさいな。九歳の彼女を起こすべきではないだろう」
「そうですか?」
「わからないかね?」
「僕が九歳の頃には、夜なべ仕事の果てに朝を迎えることなど当たり前でした」
「ははは、それは勤勉で結構な話だ。しかし、言ってしまっては何だが、所詮は村の生活だろう? 両親に囲まれ、無理をすれば慰められもする……小さくも優しい世界さ。こことは違う」
「ふふ……確かに、こことは随分と違いました」
「尊貴の責務に翻弄される彼女の身の上にも気を遣ってほしいものだね。そうでなければ夢も希望もあったものじゃない。まるで残酷物語だよ。ははは……」
「今夜のマルヤランタ侯爵閣下は面白いことばかりを言いますね。うふふ……」
心を虚ろにして見たならば、それは老いと若きとの談笑なのだろうか。許されるものならばこの部屋からすぐにも逃げ出したいと願いつつ、カティヤは二人のやり取りを聞く。聞こえてしまう。
「一つ、僕の実感を述べましょう。己一人の幸せを求めるだけならば、ここはどこよりも易しい場所ですよ。人間が人間を支配するための塔であるところの、この王都と王城とは」
ほら……恐怖が来た。耳を塞ぐことすら許さずに。
「村には魔境に呑まれまいとする奮起がありました。瘴気に侵されまいとする高潔がありました。なけなしの力を蓄える堅忍があって、その力を研ぎ澄まし前進していく勇猛がありました。どれもがここにはありません。ここにいると、時として、この世界が人間のために用意された理想郷のようにすら見えてきます。安寧として永遠の繁栄を暮らしていけるような気さえしてくるのです。天も地も既にして人の支配するところであるとも……」
くすりと笑う。戦慄を覚える。
「だからでしょうか? 少し前まではお伽噺を夢見ることが最新の流行として持て囃されていましたね。まったく愉快な話です。聞きたいことをのみ聞く者は見たいものをしか見ようとしません。この世界をそうやって生きていけたなら、それはとても幸せな生き方なのでしょうね。食われることを覚悟して餌を食む家畜はいません。まぁ……それであんまり鳴き声がうるさければ、時に厩舎ごと焼き捨てたくもなりますが」
背筋に冷たく刃が走った気がした。耳鳴りはそれがための擦過音に思えた。聞きたくもない。カティヤは膝の上に組んだ己の手を視界の中心に据えて、絶対にそれを動かすまいと決めた。せめてもの行為だ。目を閉じることはきっと許されていない。
「希望の意味をはき違えている方がまだまだ多過ぎますよ、ここは。己を厳しく律し、勇気の気炎で胸を焼く者以外が語るそれは酷く臭います。まるで酒場に英雄を論じて息巻く男の反吐のようです。まるで理想の恋人を惰眠の内に待ち惚ける女のげっぷのようです。そういう人間を甘やかすほどの余裕など、この世界にありはしないのに……」
どうしてここにいなければならないのだろう……カティヤは泣くこともできずに奥歯を鳴らせている。聞いてしまった言葉が一つの確信を生んでいた。考えたくもないことだ。
カリサルミ家とは生き残った家畜である。南部が広く焼け落ちていく中にあって無造作に死から救い上げられ、お前は食われる運命にあったと教えられ震えている家畜だ。火を放ったのはマルコ・ハハトだ。救ったのも彼だ。そして今、薄々と察していた悲惨を言葉で教えている。
あの男を呪うべきだろうか。無理だ。冗談ではない。カティヤはただ身を竦めるばかりだった。いつ止むともしれないこの嵐を忍耐に忍耐を重ねてやり過ごすより他にどうしようもない。
「君は……一体全体、何を知っているんだい? そして何をしているの? その上で……何を語っているつもりなんだろうか?」
この恐ろしの空間にあってもマルヤランタ侯は話すことができる。カティヤは怪老と呼ばれる人物を大いに尊敬する気になった。老いたる声は震えていた。しかしそれでも言葉にはなっていた。
「特別なことなど何もありません。誰も皆同じことです。世界に数多ある欠陥の内の一つを知り、それを改善すべく働いています。そして同じことを周囲へ要求しているだけです。やるべき仕事があるのならば働くべしということですよ。取り扱う“欠陥”の規模にこそ違いはあれど、働く者の熱心には貴賎も老若も関係がありません。怠惰を恥と感じるか否かです。一般的に言って、それは品性の問題でしょうね」
カティヤは見てしまった。耳元でそれが話されたように錯覚してしまったから、思わず、マルコ・ハハトの方へと顔を向けてしまったのだ。
微笑んでいる。
何でもって計るべきかも定かでない異能の彼は、今、ひどく嬉しそうにしている。黒髪の下に青紫色の瞳をやや細ませて、頬を少し紅潮させて、口元には柔らかな曲線を描かせて……誰を見ている? マルヤランタ侯ではない。カティヤでもない。その微笑みが向けられているのは廊下へと続く扉だ。
カティヤが入って閉じられたはずのその重厚なる扉は、今、僅か靴の幅ほどに開いていた。
それが更に開かれていく。人一人を通すにしては多めに開いていって……人一人の横幅よりも随分と肉厚な僧衣が覗けた。どうしてか横歩きなどという滑稽な移動でもって姿を見せたのは、先にカティヤの馬車を我が物顔で占拠していた男だ。
肥満体の聖職者が微笑んでいる。
一体いつからそこに立って話を聞いていたものか。東方教会中央教区司教ヨアキム・ベックは、こちらもひどく嬉しそうにしている。顎から肉が垂れて首の所在も定かでない有り様で、奇妙に福々しい笑顔を浮かべている。
「大変に興味深いお話をしておいでですなぁ。アスリア王国の伝統と格式を担う貴き子らと、どこから来たとも知れぬただ一人の……魔の者よ」
刹那に空気が張りつめた。物音も連続した。息を呑む音の複数。座席に身を動かす音の複数。
今……何と言った?
カティヤは急速に乾ききった口中にて無音を紡いだ。舌が縮こまり動かしにくくもあった。痛みを伴って呼吸する。意識して両目を瞬きする。それでようやく身体が震えだした。
魔の者、と言った。
東方教会の司教職にある者がそう言った。この月華の間において……四侯六伯の内の半数を前にして、はっきりとそう言った。魔の者と言った。マルコ・ハハトに対してそう言ったのだ。魔の者と言ったのだ。
カティヤは己の年齢を呪った。二十五歳では許されない。九歳であることをもって許されるのならば、今この時をその年齢で迎えたかった。血の気が引いていくことがわかった。表情を作る余裕も失った。
始まる。
見たくも聞きたくもないものが、今から始まる。
今夜が忘れがたいものとなることはもはや確定的だ。悪夢の源ともなろう。だからカティヤは目を閉じた。そして長く瞼を開かない。一人分の闇の中に孤独を貪った。
乾きと眩暈を言い訳にして……カティヤは束の間でも心を休ませたかったのだ。




