第106話 新たなる世界を生きる者よ
ユリウスはいつも不思議そうな顔をして世界を見ている。その円らな瞳には一切の汚れも濁りもない。ふくよかな頬をぽってりと余らせて、僅かに開いたままの口からは甘く乳の香りが微息に乗る。
そこには期待も不安もない。真っ新な心には在るがままの世界が映っているに違いない。
ユリウスは赤ん坊のがに股のそのままに、拙く立ち、危うく歩む。どこを目指すでもない。ただ歩けるから歩くといった風だ。進んでは止まり、止まっては進む。時に尻餅をつく。丸く着膨れた尻がまふりと着地する。
行く手には目に見えて何もないが、目には見えない何かがきっとある。
誰しもがかつてはそうであったように、遠く遥かな地平が広がっている。
「今、この世界はお前の物だ。やがて世界がお前を必要とするその時までは……そう思うことを許されているんだよ、ユリウス」
清らかな夏の朝、芝生の庭に我が子の稚い様を見つめて、ダニエルはそう呟いた。涼やかな風が吹いている。それは青い空に白い壮麗を見せる雲の山脈から届くものだろうか。
「君の父親として胸を張るためにもと大いに働いてはきたが……」
ユリウスは座り込んだまま悠然と風に柔らかな髪を揺らせている。小さな背には翼がないことが寧ろ不思議だ。不器用な在り様がどこまでも愛らしい。
「少し……無理が祟ったか」
溜息にすら気を使って、浅く長く、恐々として吐いていった。それでも胸に疼くものがある。
ダニエルは杯の水を舐めた。乾き熱を持つ身に染み渡る。このところは微熱の下がる日もない。眩暈から階段を転げ落ちそうになったのはつい昨日の話で、それがために今日という日を穏やかに過ごすこととなったのだが。
「……情けないことだ。世界には再びの動乱が訪れようとしているのにな」
アスリア王国新時代の夏は、教会との論争によって熱く激しいものとなっている。
女王パウリーナの即位以前も以後も、王国と教会との間には無数の文書が飛び交っている。往復した使者の人数も相当のものだ。エテラマキ伯爵領がその舞台となっているが、王国の一領地だけでも教会に近しく在ることを喜ぶべきだろうか、それとも危ぶむべきだろうか。ダニエルはただそこを最前線であると知るのみだ。
つまるところが教会の橋頭保なのだ。エテラマキ伯爵領は。
王国であって王国でないようなそこには東方教会大司教が君主のようにして滞在している。爵位の継承もなく領地を治めるエテラマキ家を支持しつつ指導している。未だ王位の正統を主張として残す王族クリスティアンを保護している。カリサルミ領との領境には随所に聖杯騎士団の姿すら確認されている。
内乱の三年間は王国と教会の間に剣呑さばかりを醸成したようだ。互いに和することを相手に求め、妥協点を探し着地点を提案するようでいて、その実は軍事力を隠しもせずに主導権を綱引きしている。
さも心配げな顔をして多くを説き、平和を尊んで相手を諭してはいるものの……名分を欲しているだけなのだ。相手を決定的に貶める、事の善悪を歴史に明記するための理由を。根拠を。
一度何らかの切っ掛けを得たならば、それがどのような手段に依るにしろ、激流のようにして物事が動くだろう。そして勝者の正義が大陸に轟くのだ。
目下の争点は行禍原開拓計画である。
それまでの繕いを裏切るようにして打ち出された禁忌の一手は教会からあらゆる罵詈雑言を浴びせられている。曰く、悪行であり蛮行であり愚行である。許されざることであり恥ずべきことである。王国は総出で神の教えに背くの道を志すものか……まさに非難囂々だ。
教会にとって計画の撤回は交渉の大前提であり、その上で女王自身による謝罪釈明のための渡島を求めている。クリスティアンへの王位譲渡の流れも用意しているのかもしれない。
王国は言葉こそ柔らかに装飾しているものの、教会の要求を何一つ容れず拒絶している。新王即位に際し聖職者を召喚できなかったことが理由の内の大きな一つとなった。慣習を先に破ったのは教会であり、そこのところの筋を通さず無理強いのみをするでは過ぎた国政干渉でしかないという理屈だ。
四侯会議による決定だ。六伯については、今は欠員があるため実務についてのみ動いているに過ぎない。
ユリハルシラ侯は教会への不信感を露骨に表明していて、新アハマニエミ侯がそれに続いている。ロンカイネン侯も祓魔師の召喚を決断するなど中立の立場を捨てている。マルヤランタ侯については相変わらずのどちらつかずだが、事ここに至り孤立を選択するような人物でもない。
むしろ王国は教会に対し提案という形で要求をつきつけている。
まずはエテラマキ伯爵領からの聖杯騎士団の撤退だ。関わり難き兵力が存在することにより彼の地を巡る情勢には緊迫感が漂っている。エテラマキ家は内乱における事前協定違反の罪により王権の裁きを受けるべき立場にあり、それを教会が庇い立てしている形だ。看過できるものではない。
次に、新王即位に際し聖職者を派遣しなかった落ち度による、少なくとも司教以上の者の免位だ。狙いどころとしてはヨアキム・ベックである。公にはされていないが、ユリハルシラ侯は彼の者を先王ヴィルヘルム暗殺の首謀者として見ている。その疑惑を表に出しているわけではない。しかし伝わってはいよう。教会がそれを彼の独断として切り捨ててくるのならば望むところだった。
他にも大小様々な要求が矢を射かけ合うようにしてカリサルミ・エテラマキ間領境を北へ南へと放たれている。ダニエルは思う。端的に言って、それは話し合いではなく煽り合いだと。激発すれば隙となる。
そんな論争の結果と言うべきか、行禍原開拓は誰に邪魔されることもなく予定通りに進行している。
ヘンリッキ・ヒルトゥラ辺境伯率いる五千人規模の開拓団は既に出発し、行禍原の東寄りの適地に農地開墾と居住地設営を始めている。第一陣たる彼らはサルマント・ペテリウス両領軍より選抜された兵員により組織されていて、第二陣としての開拓民を迎えるべく街道の整備もまた同時に行っている。
その動きは速い。潤沢な物資と熟達の技術でもって開拓は実施されているからだ。
このためにこそ整備された物流網がダニエルの管理する新町に物と人と富とを集積させた。ペテリウス伯爵領の復興事業においてはまさに開拓の技術と経験とが蓄積された。そして王国でも最も曲者揃いの技術屋集団……ヒルトゥラ家食客衆もまた集結している。彼らは手始めとばかりに“掘り匙”を大いに改良した。以後も必要以上暴走未満のものを随時発明していくのだろう。
二つの理由をもって、エベリア帝国軍が襲撃してくることもあり得ない。
一つに、帝国は行禍原を越えて軍事作戦を実行するための国力に欠けるからだ。
五年前の大侵攻は帝国にとっては悪夢の如き大損害であったろう。ただ行禍原に会戦して敗れたものとは訳が違う。謀将ドナルド・コレトスによる侵攻計画は威力こそ凄まじかったものの、評するならば諸刃の剣とでも言うべき代物だった。
まずは王国軍十二万余を引き込むための意図的な敗戦による損耗があった。昇龍旗を掲げての包囲殲滅と反転攻勢は十万超の帝国兵に行禍原を越えさせ、王国前線砦も瞬く間に占拠したが、その後はサルマント・ペテリウス両領軍による強固な抵抗にあった。ペテリウス領城を壊滅させた際の損耗は予想を上回っていたのだろう。サルマント領城を包囲するに留めたのは、何も速さを求めてだけのことではなかったと思われる。
その後については無残なものだ。霧の東龍河水上に六万将兵を焼かれ、それを維持するための物資を奪われた。チトガ大町に集積した物資も失い、駐屯兵力五千の内三千は陸水面に討たれ、二千は支流南岸に取り残され捕らえられた。この過程でドナルド・コレトスも討ち死にしている。
そして前線砦を後背にして会戦し、これにも敗北した。ダニエルとしては思い出しても恐ろしい戦いであったが、帝国軍は皇帝を逃がすことで精一杯という有り様で行禍原へ駆け散ることと相成ったのである。その損耗は決定的だ。前線砦は彼らの最大の物資集積拠点となっていたのだから。
かくして、帝国は王国から奪った物を取り返されたばかりか、行禍原を越えて持ち込んだ物資をもことごとく奪われたのである。
しかも損耗はそこで終わらない。追撃される中で失ったものも多かろうが、行禍原中央部に設営された中継基地が先回りされ占拠されていたことが致命的だ。クスター率いる特務部隊の仕事である。帝国軍はあるいは全滅するのではないかというところまで討ち減らされた。その過程で皇帝は落命したと見られている。
かつての二の舞だ。帝国は大きく攻め込んだにも関わらず、そのために用意し持ち出した全てを再び失ったのだ。人、物、権威……分類していったところで悲惨が増すばかりである。
ダニエルはそこにマルコの徹底した戦略を見出す。
つまるところが、ドナルド・コレトスの侵攻計画は大いに逆利用されたのだ。初めに敗れて敵を懐深く引き込み、これを本命の戦力でもって徹底的に殲滅する……ここまではまるで相似形だ……しかしそこからが違う。帝国軍は敵国首都を狙った。マルコは自国における保守反抗勢力を狙った。
その違いが二つ目の理由に繋がる。
王国が三年で内乱を終結し、その戦禍を最小限に留めたばかりかむしろ経済構造の改革と発展を成し遂げたのに対して、帝国は混迷のままに今を迎えている。戦争による限度を超えた損耗は、国力の回復に先立って皇帝の不信任問題を惹起したからである。
帝国は未だ南北に分かれて争っている。それは国防の観点からすれば大きな隙である。王国もまた内乱に突入したということで油断したものだろうか……既に王国からは多数の工作員が帝国に潜入して活動している。
だからこそ祓魔師の召喚が叶ったのであり、行禍原に帝国軍が出撃してこないという口約が取れたのだ。
そう、マルコは内々に帝国の北部勢力との間に交渉を持っている。
四伯爵からなる帝国北部勢力は、皇帝イスマエルと近衛騎士団を中核としているものの南部勢力に対して劣勢だ。南部は四侯爵二伯爵により構成され、先帝の姪にあたるプリスシラこそが皇帝に相応しいとして強固に結束している。互いに一歩も譲らないところは国の東西に共通する政治の姿か。
もしも帝国がかくも国力を減退させていなければ、その対立は武力衝突に発展していたに違いない。そしてより武断的な国柄となったろう。そして遠くない未来、帝国軍の翼竜旗は行禍原を越えてきただろう。
しかし、そうはならない。マルコがそれを望まない。
王国軍が行禍原を越えて帝国へと攻め込んでいれば、あるいは帝国も対立を止めて外敵に対して団結したのかもしれないが、マルコはそれをさせなかった。放置することで混乱を助長した。
大穀倉地帯を有する帝国南部勢力が力を蓄えたなら、あるいは限定的な武力行使により北部を平らげたのかもしれないが、マルコはそうさせなかった。その力を間接的に削減したのだ。
教会である。
王国内乱における南部の劣勢を問題視した教会は、帝国の南北対立を比較的放置できるものとして軽視し、帝国南部から人と物とを抽出して輸送した。それが弓張原会戦以降に出没した義勇軍の正体である。
マルコはそれを逃さなかった。偽装船団の南下然り、カリサルミ領都包囲戦然り、義勇軍という名の帝国兵力はマルコによって戦場に引きずり出され駆逐された。偶然ではない。物資にしたところでエテラマキ領からカリサルミ領へと輸送され集積された後に一連の作戦を実行したのだから。
かくして現在に至る。帝国は武力衝突にまで至れず、さりとて国力を増強することも思うままにならなかった。エテラマキ領へは今も聖杯島を介して運ばれるものがあろうから、この形勢が変じる可能性は低い。
帝国北部勢力は行禍原に関して妥協を大盤振る舞いせざるを得ない。口約で済めばありがたかろう。
「行禍原開拓は成る……後は時間の問題だな」
ダニエルは言葉を涼風にそっと乗せた。小さな声だ。ユリウスの冒険を邪魔したくない。
「ヒルトゥラ辺境伯領の創設……それは東西の国に運命づけられた戦争の終わりを意味するのだろうか。それともあの原野をより激戦地たらしめるだけになるのか」
小さな手足が可愛らしく動作し、ユリウスは立った。進みもしなければ退きもしない。一歳にして雄大な立ち姿だと感じるのは親の贔屓目だろうか。ダニエルは己を笑おうとして……しかし目を見開いた。
そこには一つの天啓があった。
盛夏、天地の狭間にあって、そこには人間の尊厳が屹立している。
幼い背筋が凛々しく伸びている。持って生まれたその心身を何ら隠さず偽らず、一人の人間として大自然を相手取っている。待機している。清々しいまでに物怖じもない。
彼の前には全てが開かれているのだ。何もかもが許されているのだ。真実、世界は彼の為にこそ在るのだ。生とは死の始まりである以上に開拓と冒険の日々を人に約束しているに違いない。その行く先に予測などつきはしない。神すらも知るまい。
幸せであればいい。ダニエルは祈念した。
ユリウスの生きる日々が充実したものであればいい。成功し続けろという意味ではない。時に泣き、時に笑い、自分らしく誇らしく在ってほしいのだ。人為の運命になど縛られず、嘘偽りのない人生を送ってほしいのだ。ダニエルはそれを応援する第一人者でありたいと思った。
子よ、健やかに成長せよ。親たる大人は怠らず働こうとも。
何という幸福と充実だろうか。己が子の世界を輝きに満ちたものとするために、ダニエルは己の命を燃やすことができるのだ。
「……やはり、休んではいられないな」
怯えを捨てて、ゆっくりとでも力強く息を吸い込んだ。生命が身体に満ちていく。微かに愛息の匂いも混じっている気がして笑みを誘われた。風はユリウスの側から吹いている。
豊かだ。何もかもが豊かだ。どうして動けないことがあろうか。
ダニエルは立ち上がるための力を足に込めた。
南からの急報が届いたのは、日の暮れ落ちた頃のことだった。
それは災いを告げる警鐘だった。いずれ戦いを告げる陣太鼓にもなろう。
ダニエルは立つ。新しく豊かな世界をその手で創り護るために。




