第109話 勇気ある者は困難へと奔る
甲冑が鳴る。馬鎧も鳴る。肉の身にあり得ざる鋼を響かせている。騒々しいことだ。焦燥を嫌って目を閉じたところで闇は何ら効能を発揮していない。舌打ちする。
甲冑が光る。馬鎧も光る。月光と炬火とを照り返して夜に光沢を揺らめかせている。おどろおどろしいことだ。憩うためにでなく灯された火は不吉なものでしかない。歯軋りする。
夜の湿り気に吐息を捨て零して……セヴェリ・カリサルミは馬上に不快を持て余していた。
「報告! 勇者は進路を北北西にとって西祈浦方面へと向かいました!」
「ご苦労! 続けて周囲の警戒に当たれ!」
枯れ声の指揮官が大声で命じたなら、斥候の軽騎兵は了解と吠えて闇色の丘へと駆け去っていった。遠く見えなくなっていく様は燐光を発する羽虫のようだ。夏にはお似合いといえばお似合いだと思う。
セヴェリは兜の内側の感触に意識を委ねるようにした。無抵抗に暑苦しさを受け入れて、この不毛とも言える追跡行の前途も投げやりにする。
見つけてどうする。追ってどうする。まさか戦う訳にもいくまいに。
重騎兵二個小隊百騎、軽騎兵四個小隊二百騎、槍歩兵二個中隊五百卒、弓歩兵四個小隊二百卒……合わせて千人からなるこの兵力がカリサルミ領軍の成れの果てである。サルマント領兵が我が物顔で領内を闊歩する中にあっては形ばかりの即応遊撃隊だ。
伯爵位を妹カティヤに継承した後のセヴェリは、領政の一切から手を引き、今はこの部隊の重騎兵の一騎として生きている。五十騎を指揮する小隊長という立場である。
「セヴェリ様、我が軍は北西に進路をとり先回りを試みようと思いますが……」
指揮官がわざわざ馬を寄せてきてそんなことを言った。かつても今も領軍大佐であるところの男だ。
「好きにしろ。いちいちに確認するな」
「……ここには我らだけです。やはり本来の序列をもって事に当たるべきではないかと愚考いたします」
「まさに愚かしい考えだ。卿の言う本来とやらは既に存在しない幻だ。現実の職責を果たせ」
セヴェリは兜の面覆いを閉じた。煩わしさを嫌ってのことだ。
かつての伯爵家当主も今は騎士もどきの一兵力に過ぎない。しかも監察される身だ。どこに置いたところで目障りで面倒な存在なのだろうとは察しているから、セヴェリは鋼の小空間に頬を歪めるばかりだ。いずこで死兵となって美談を遺してやったものかと思う。
この夜に討ち死ぬか?
自問するなりセヴェリは鼻を鳴らした。それはあるまいと見切ったからだ。戦いになるわけがない。追えと命じられて追っただけのことであって、討ち死にはおろか抜剣することもないに違いない。
今、千人からなる遊撃隊が追っている相手は特殊にして特別な一軍である。陽光を背に王国最南部エテラマキ領から北上を始めたその五千騎は、白色の兵装も壮麗にして、弓矢と十字鋤を組み合わせた神の象徴をば軍旗として掲げているという。
聖杯騎士団だ。聖杯騎士団なのだ。
聖なる軍にして大陸無双の最強の軍勢だ。王国の法も帝国の法も縛ることの叶わない軍事力だ。倫理道徳すらも彼らの前には存在せず、行動したる後にそれこそが清らかなるものであったと追認されるばかりだ。輝かしくも問答無用の、眩くも物凄まじい閃光……聖杯騎士団とは神威の雷火ようなものである。
そんな五千騎の先頭を行く者とは何者か。神聖なる災いのような軍を率いる者が常人であろうはずもない。
勇者だ。勇者なのだ。
かつてと同じように、まるで歴史が繰り返されるようにして、勇者と聖杯騎士団は南に現れて北へ征く。誰が押し止められようか。疑いようもなく彼らは神の御旗を掲げていて、抗いようもなく強力無比で、情け容赦もなく敵対者を滅ぼすのだから。
領境に警戒していたサルマント領軍は為す術もなく五千騎を見送ったという。セヴェリはそれをやむを得ないことだろうと思う。現実とは時として人に屈辱を強いる。
北上の道すがらにある村々は諸人挙って地に伏せて、求められるよりも早く食料物資を提供したという。セヴェリはそれを仕方のないことだろうと思う。現実とは時として人に隷属を強いる。
どんなにか勇壮に勤勉に在ったとて、所詮は垢に塗れた俗世のことでしかないのだ。それを見下ろし祝福する神々しき領域より来訪するものがあったなら、もう身を投げ出して許しを請うよりないのだ。
天も地も広大に過ぎていて、人などはちっぽけでつまらない存在だ。それが現実だ。
何もかもが無意味であるのに……千人は進む。
斥候の軽騎兵が忙しなく行きつ戻りつする。徒歩兵の隊列は誰に見られるためでもなしに方形に整然としている。私語もなく、生真面目に、誰も彼もが聖なる軍を追い続ける。セヴェリはただ馬に揺られていた。
幾度の休憩を重ね、幾日を黙々として追い続けたものだろうか。
先回りには失敗したようだった。
白き五千騎は速い。無抵抗の野を進むにしても速い。さもあらん、徒歩兵も輜重隊も伴わない純粋なる騎兵の群れだ。軍学兵法からすれば無理であり無茶であり無謀でもあるところの進軍である。兵力とはそのようにして運用すればたちまちに戦闘能力を失う。
だから、戦えるままに進むためには無計画のしわ寄せがあって当たり前だ。
一つの村が潰されていた。
家屋は焼かれ、家畜は屠られ、それらを管理し生活していた者らがあちらこちらに転がっている。物資も奪われていたが、根こそぎというわけではなく、多くは他と同様に燃やされたようだ。
どうやら物資の供出を拒んだことが原因らしかった。
この村には一切の余裕がなかった。先の内乱においてまずは他ならぬカリサルミ領軍により物資の供出を求められ、次いで北部の騎馬軍……あの“火撃”に急襲されて余剰を掠め取られた。中央に管理されるところの領政はそれらの補填よりもまずは再軍備を優先している。むしろ領都の被害修復のために労役を課したかもしれない。
世の中に置き去りにされていたのだ、この村は。奪われ、護られず、汲々とすることを強いられた。だから恨みを持った。頑なになった。そしてそれが致命的な結果を招いた。
「畜生が……どいつもこいつも俺たちを踏みつけにしやがって……馬鹿にしやがって……」
焼け落ちた家の瓦礫を背もたれにして、火傷の無残で肉も服も定かでない男は唸っていた。
「ああ……どうしてだ……何もかも奪われちまう……こんな、世の中、なん、て……」
最後に呪詛を口にして息絶えた男の手は泥塗れだった。傍らにこんもりと土の盛り上がりがあった。セヴェリが二度三度と土を払ったなら、そこには小さな童の死骸が身を縮めるように横臥していて、男が最後の力を費やしたことの意味を伝えていた。血、肉、炭、泥……全てが混じり合ったものを呼吸した。
千人は九百五十人となった。指揮官である領軍大佐が槍歩兵の一個小隊を村に残したからだ。その夜については休まずに進むこととなった。不満の声は上がらなかった。誰もが寡黙だった。
雲がべっとりと垂れこめている。夜は陰気に淀んでいる。幾度でも繰り返され、まるで終わりの見えないこの行進に浸かり疲れて……セヴェリはぽそりと呟いた。
「弱さとは……罪か?」
現実はいつだって残酷だ。矮小さも脆弱さも美徳として持て囃されるものではない。弱きは滅び、強きは興る。それは規模の大小を問わず貫かれる真理だ。そこには善も悪もない。そのようにしてしか世界はあり得ないだけだ。
だからセヴェリは敗れて惨めを生きるのだし、九百五十人からなる遊撃隊は五千騎の後を悄然として追跡するよりない。憂鬱に染まり、虚脱を引き摺り、どこへ向かうとも知れない道を辿っていって……いずれ泥土へと力尽きるのだろうと思う。
弱さが招く結果とはそういうものだ。そうと知っていたはずだ。疑問もなく納得していたところのものが、今はしかし、セヴェリの眉根に皺を寄せさせる。
面覆いを上げた。東の空を見やる。
夜が地平より黄ばんでいく。ぼんやりと散らかっていた雲にも朱色の陰影がついた。壮麗さはない。絵画に描かれる空に比すれば美しいものではない。しかしどうしてか目が離せない。
「これが……」
セヴェリは村に生きる者らを思った。この国で最大多数であるところの地を耕す者らのことをだ。彼らは夜明けと共に粗末な寝床から起き出し、質素な朝食を用意するよりも早く、まずは畑に出て仕事をするという。見たことも体験したこともないが、為政者の知識としてセヴェリはそれを学んだ。
それを知ってはいたのだ。しかし……これは知らなかった。思わず独語していた。
「……これが、朝か」
セヴェリは知った。地と共に生きる者の朝はこのようにして始まるのだと。土の匂いがする。それは先の村にて吸い込んだものとよく馴染んだ。胸の内に広がり根付くものを感得してセヴェリは唸った。
不満の茎が育った。疑問の葉が茂った。
人間の生きる現実とは何事につけ強者にとって都合よくできているとの確信は変わらない。それを理不尽と糾弾するには及ばないほどに人間全体が弱小であり、その中でくらいは強くなくてはなるまいとも思う。弱さを基準にして存続できるほどに社会は強くも豊かでもない。
「この朝は……誰のものだ?」
しかしセヴェリは思うのだ。
たとえ弱く愚かであったとしても、あの村は自己の責任の範疇でしっかりと生活を営んでいたはずだ。カリサルミ伯爵領の領民として、この朝を欠伸を洩らしつつ迎えるべき者らであったはずだ。
敵軍によって蹂躙されたならば、まだいい。賊徒に襲われたのだとしても納得しよう。圧政によって枯死させられたとしても同じだ。人間の営みの残酷として、強者と弱者の在ることを確認するのみだ。怨嗟が生まれて人間が汚れたことを知るのみだ。
集団の興亡と個人の生死……強者生存と弱者滅亡の理……セヴェリはそれを疑ってはいない。
しかし、それは人間の人間による人間のための理のはずだった。勝っても負けても人間は人間であって、全ては人間の在り様として人間が味わうべきもののはずだった。
「勇者……勇者か……」
セヴェリは勇者を神聖なるものとして知る。奇跡が受肉した姿なのだと教会は教えている。神を解釈し神を代弁し神を代行する聖職者という者らが、あれこそは神の意思であると断言している。
「勇敢なる者……偉大な響きを持つ言葉だが……」
納得がいかなかった。
セヴェリは殺し殺されることを今更にどうこう言うつもりなどない。政治に携わっていたし、軍事については今もこうして馬上にある。初心で幼稚な空想を抱いてなどいない。
それでも、そうであっても、何か熱いものが胸にわだかまる。
セヴェリには背負っている罪科があった。王国法によるどうこうではない。人を殺した者の心にこびりつく荒みとも違う。もっと大きなものだ。もっと酷いものだ。その重さを意識したならば、いつでもあの男の声が聞こえてくる。
「貴方の父が率いた十二万将兵、それを支えるために行禍原へ出た三万将兵、前線砦の守備兵、前ペテリウス伯爵を含む一万将兵……帝国人は数えないにしろ、王国側は民も数えていいですか? 合算すれば二十万人くらいにはなりますか。僕の言っている意味……わかりますよね?」
死だ。死の責任だ。カリサルミ家の責任の範疇において生じた大量の死は、爵位を継承したとて些かも減じることなくセヴェリの生を呪っている。決して洗浄することの叶わない汚染だ。苦悶の重鎖だ。
だから恐ろしいと思うのだ。あの男……マルコ・ハハトはまるで魔人のようだ。呪わしく汚らわしい苦しみを同じく背負っているだろうに、断固たる意志でもって揺らぐこともなしに直立している。凄まじい在り様だ。セヴェリには模倣もできない。
しかし、マルコ・ハハトは間違いなく人間なのだ。
人間としての諸々に無自覚や無感覚であったなら、ああも“熱”を発することはできない。人間同士だから命が響き合うのだ。化け物ならばセヴェリという人間を敗北感で打ちのめすことはできない。同じ人間であればこその強弱と勝敗である。
「……神の軍旗……天災の如き破壊……」
あの村の死はそこに置き去りにされていた。勇者と聖杯騎士団は僅かな物資の他に何も拾ってはいかなかった。呪詛も怨嗟も何もかもが行く場もなしに散らかっていた。生存者も、千騎も、誰もがそれを萎れたような顔をして眺めていた。こういうものであると受け入れていた。どうしようもないと項垂れていた。
「聖なる勇者……聖なる騎士団……」
セヴェリは吐く度に熱を帯びていく息で無精髭を湿らせながら、今や明けきった空を見上げて呟きを繰り返した。己が身の内より突き上げてくるものがあった。拍動だ。強い。甲冑すら揺れるかのようだ。
「踏みつけにして……馬鹿にした?」
違う。五千騎は村を省みてもいない。
「世の中が……悪い?」
違う。五千騎は世の中の外側から来て村を潰した。
「弱さの……罪?」
違う。五千騎は強さではなく独善でもって残虐を為した。
憤怒の花が開こうとしていた。鮮やかな激情の色彩を表わそうとしていた。
セヴェリは兜を脱ぎ去って馬上に垢汚れの顔を晒した。汗ばみを撫でていく風に身が震えた。広がった視界に心が怯んだ。まったくもって弱さとは敏感多感なものだ。世界は相も変わらずに厳格である。セヴェリの命を柔らかく包んでくれる気配など微塵もない。
「勇者……勇者、か」
息苦しかった。奥歯が小刻みに音を立てている。首が思うように動かない。頬が痙攣している。甲冑も鳴り始めた。腰に帯びた剣も震えている。
セヴェリには判別がつかなかった。
怒りと怯え……全身を硬直させるこの耐え難さは、そのどちらを原因としたものだろうか。
「勇者が真実として勇敢なる者ならば、どうして人間の穢れを背負わない?」
思いの丈が口を衝いて出た。一度漏れ出たそれは、もう止めようもなかった。
「人間ならば汚れるべきだ。暴力をもって村を焼き、無残を打ち捨てにしておいて、どうして清らかなるままでいられようか。残虐非道の行いを為して何ら恥じることもなく、責められることもなく、無思慮無分別なままに先へと進めるのなら……聖性が絶対的であるのなら……それは人間ではない」
言葉が溢れた。奔流のようだ。セヴェリは堪らず叫んだ。
「人間でない者に……カリサルミの民が殺されたというのか!!」
震えは予兆であったものか、全身に力が漲っていてセヴェリに言葉を吠えさせる。世界へ向けて主張することを後押しする。唾を飛ばしてそれを実行した。
「認めん……私は認めんぞ! 理も情も共有せずして高みから聖なる在り様をのみ示そうなどと……我らを何だと思っている! 人間を何だと思っている! この……化け物めらが!!」
そう言葉にしたならば、後先にはなるがセヴェリは得心したのだった。
「我らが追う相手は、勇者に非ず! 教会がそう認めていようと知ったことか! 聖杯騎士団が付き従っていようと関係ない! 人間でないものがどうして勇気を知ろうか! 勇気を知らぬ者がどうして勇者であろうか! 白色を装って無辜の人間を引き裂いていく彼の者らは……人を人とも思わぬ暴力を無造作に振るっていく彼の者らは……魔境に巣食う者らとどこが違う? 同じだ! 魔物だ! 魔物の群れではないか!!」
血を吐くようにして声を張り上げ、セヴェリは泣いた。嗚咽を伴わない涙が後から後から湧き出でて、荒い呼吸の中にも滾る感情を教えていた。
気付けば九百五十人の歩みは止まっていた。
誰しもがセヴェリを見ていた。誰しもの目に零れ落ちるものがあった。セヴェリは驚きをもって彼らを見渡した。発見だった。そこには九百五十人もの勇気ある男たちが集っていたのである。
「よくぞ……よくぞ仰って下さいました」
進み出てきたのは遊撃隊の指揮官たる領軍大佐である。やはり頬は濡れている。
「我らはセヴェリ様の命に従います。我らの命を用いて……戦って下さいますね?」
セヴェリの首は縦方向へと滑らかに動いた。
晴天にカリサルミ領軍の軍旗が高々と掲げられた。
「敵は速い! 我らも騎兵のみとなって追うぞ! 徒歩兵は後から来い! 必ず追いつけ!」
命令一下、三百騎と六百五十卒とに分かれた勇気の集団は、すぐにも奔り始めた。勇者という名の魔物を討つために……必死の戦いを始めたのである。
されど現実とは残酷無情をもって戦場の理としている。
彼ら九百五十人はことごとく殺されて、その骸は泥土に打ち捨てられた。
勇者と聖杯騎士団は北へ向かう。輝かしい在り様の、そのままに。




