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第4話:ゴブリン亭に泊めてください!

 ゴブリン亭は、近づく前から場所が分かった。


 笑い声。歌声。何かを叩く音。

 窓から漏れる明かりと一緒に、焼いた肉の匂いまで通りに流れ出している。


 看板には、緑色の顔と、大きな酒のジョッキ。

 たぶん、ここだ。


「にぎやかですね……」


 ティアが、私の半歩後ろで立ち止まった。


 城を出てから、姫に教えられた冒険者通りまで、人に道を聞きながら歩いてきた。

 通りには武器や防具を扱う店が並び、その奥に冒険者ギルドの建物が見えた。

 併設された酒場もにぎわっていたけれど、こっちの騒がしさは、それに負けていない。


「大丈夫。飲みに来たわけじゃないから」

「はい。分かっているのですが……」


 中で、ひときわ大きな笑い声が上がった。

 ティアの肩が跳ねる。


 私は手を差し出した。

 彼女は少しためらってから、そっと握ってくれる。


 頼りにされている。

 たぶん、今、かなり頼りにされている。


 口元が緩みそうになって、頑張って引き締めた。

 怖がっている人を連れて、にやにや入店するのは、あまりよくない。


「行こっか」


 扉を押し開けると、熱気が顔にぶつかった。


 大きな剣を壁に立てかけて飲む人。

 傷だらけの腕で、隣の人の肩を叩いている人。

 革鎧を着た女性たちが、一つの皿を囲んで笑っている。


 あ。

 女の人も、いっぱいいる。


 その一人と、目が合った。

 短い髪に耳飾りをつけた、格好いいお姉さんだった。


「おや。綺麗な子連れて、何の用?」

「綺麗ですよね!」


 思わず、力強くうなずいてしまった。


 自慢していいと言われた気がした。

 言われてはいない。


「ゆりあさん。お話を」

「あ、うん。すみません、エスメラルダさんって、どちらにいますか?」


 お姉さんは笑って、店の奥を親指で示した。


「カウンターの奥。煙吐いてるのがそうさ。喧嘩の仲裁なら、あたしより早いよ」


 お姉さんは、ジョッキを持ち上げた。


「スラムの世話まで焼いてる人だからね。話は手短にしときな」

「ありがとうございます。耳飾り、とても似合ってます」

「おや、ありがと」


 笑ってもらえた。

 嬉しい。こういうのを、思ったときに言えるのはいい。


 ティアの手を握り直し、私は店の奥へ進んだ。


 カウンターの端に、白い髪の女性が座っていた。

 肩にゆったりと黒い上着をかけ、長い煙管を指に挟んでいる。

 緑色の肌。細められた目。薄く開いた唇から、煙がゆっくり流れていった。


 ゴブリンの人だ。


 姫とは、ずいぶん印象が違った。

 あの子は、つい顔を近づけてしまいたくなる可愛さだった。

 この人は、近づく前に、こちらの姿勢を正してしまうような綺麗さがある。


 背筋を伸ばしたくなる。

 ちゃんとした言葉で話したくなる。

 できれば、その目で少しだけ褒めてほしい。


 最後のは、今考えなくていい。


「エスメラルダさん、ですか」


 目だけが、こちらを向いた。


「何の用だい」

「お話を聞いてもらいたいんです。ゴブリンのお姫様から、お名前を――」


 煙管が、止まった。


「声を落としな」


 低い声だった。


 彼女はカウンターの奥を顎で示した。

 私たちは、積まれた酒樽の陰になる席へ移る。

 客の姿は見えるけれど、騒ぎが一枚隔てられたように遠くなった。


 エスメラルダは椅子に座ったまま、こちらへ向き直った。


「……会ったのか」

「はい。さっき、城で」

「話はできたんだね?」


 思っていたより、早い問いだった。


 私はうなずいた。

 彼女の指が、煙管の柄を一度だけ強く握る。


「怪我は」

「していました。でも、こちらのティアが治療しました」

「治療……?」


 ティアが、小さく頭を下げた。


「お体の傷は、治しております。ですが、首輪や鎖は、そのままで……」


 エスメラルダの唇が、わずかに動いた。


 それなら、と聞こえた気がした。


 けれど、続きは出てこなかった。

 彼女は煙管を口元へ戻し、私たちの顔を順に見た。


「貴様ら、何者だ」


 私は名前を名乗り、今日、異世界から召喚されたことを話した。

 確かめてもらおうと、勇者の証も出しかける。


 エスメラルダは、それを見て目を細めた。


「王の客ってわけか」

「今は、そうです。でも、あの子を助けたいんです」


 私は札を、手の中へ戻した。


 少しは話を聞いてもらえるかと思った。

 でも、この人から見れば、王様に招かれた人間が、王様の捕まえた姫の話をしに来たことになる。


 そこは、立派な紋章を見せても、どうにもならない。


「姫だけじゃありません。この国で働かされている人たちも、一緒に帰したいんです」

「全員かい」

「はい」

「何人いるか知ってるのか」

「……まだ、知りません。だから、教えてほしくて来ました」


 煙が、私たちの間を通った。


 エスメラルダは、すぐには答えなかった。

 奥歯のあたりが、わずかに動いたように見えた。


「ここに来るまで、あーしが何をしてるかも知らなかったんだろ」

「はい」

「あーしは、戦になる前からここで商売してる。捕虜として連れてこられた連中とは、立場が違うんだ」


 煙管の先が、店内へ向いた。


「この店には、街で行き場をなくした連中も出入りする。飯を食わせりゃ終わりって話でもない。寝る場所も、働き口も要る」


 彼女は、客席へ目を向けた。


「貴様らは、明日にもよその国へ行ける。残る連中は、そうはいかないんだよ」


 ティアが、膝の上で両手を重ねた。


「わたくしたちも、無責任にお約束するつもりはございません」

「なら、約束する前に考えな。人間二人の善意を信じて、こっちは何人の首を賭けることになる?」


 言い返せなかった。


 信じてください、と言いたかった。

 でも、その言葉を言うだけなら、私を騙そうとする人にだってできる。


「あなたも、あの子のことが心配なんですよね」


 エスメラルダの目が、私へ戻った。


「……だから何だ」


 否定は、しなかった。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。

 この人も、気にしてくれていた。

 姫の名前を出したときから、ずっと。


「一緒に考えてもらえませんか」


 彼女は、何かを言いかけた。

 ほんの少し身を乗り出して、それから、私の手元に残る札を見た。


 背もたれが、小さく軋んだ。


「……今夜の話は、聞かなかったことにする」


 声が、低く戻っていた。


「貴様らを信用する道理が、あーしにはない。帰りな」


 私は口を開いた。

 何を言えばいいのか見つからないまま、また閉じた。


 ティアが、隣で頭を下げた。

 私も、立ち上がる。


「お時間、ありがとうございました」


 背を向けたところで、声がした。


「おい」


 振り返ると、エスメラルダはこちらを見ていなかった。

 煙管の先を、じっと眺めている。


「……顔色は、悪くなかったんだね」


「疲れてはいました。でも、ちゃんと話してくれました」

「そうかい」


 それきり、彼女は黙った。


 店を出るまで、その声が耳に残った。


     *


 中央公園の噴水にたどり着いたとき、私はようやく肩の力を抜いた。


 石の縁に座ると、足の疲れが急に分かった。

 考えてみれば、ずっと歩いている。

 ティアも隣に腰を下ろし、小さく息を吐いた。


「難しいね」

「……はい」


 水の音が、夜の公園に響いている。

 通りの明かりを映した水が、ティアの銀髪の端を、淡く照らしていた。


 エスメラルダは、話を聞いてくれた。

 それだけでも、十分だったのかもしれない。

 姫のことを尋ねる声が、嘘だとは思えなかった。


 でも、私たちを仲間にするのは、それとは別の話なのだ。


「あの人が、安心して話せるようにならないとだめなんだろうね」

「姫君のお体を気にかけていらっしゃいました。お力を貸していただけるなら……」

「うん。明日、もう一回考えよう」


 口にしてから、ティアを見た。


 城へ戻ることにも、酒場へ行くことにも、ついてきてくれた。

 慣れていないだろうし、疲れてもいるはずだ。

 それでも、私を一人にしないでいてくれる。


「ねえ。ティアって、天界には帰れるの?」


 ずっと、聞きそびれていた。


 私が連れてきてしまった人。

 自分がこうして隣にいてほしいと思うほど、その人が帰りたがっていたらどうしよう、という気持ちも大きくなる。


 ティアは、少し驚いた顔をした。

 それから、うなずく。


「戻る方法は、ございます」

「あるんだ」

「あなたのギフトは、最愛の伴侶との縁を結ぶものです。今は、わたくしとの間に、その縁が結ばれておりますが……」


 彼女は、自分の手首に目を落とした。


「あなたが、わたくし以上に愛する方と、互いに伴侶として結ばれれば。その方へ縁が移り、わたくしは天界へ戻れます」


 水が、ぱしゃんと音を立てた。


 今の説明を、頭の中で、もう一度なぞった。


 ティアより好きな人を見つける。

 その人と結ばれる。

 そうしたら、ティアは帰れる。


「……それ、難しくない?」

「そ、そうでしょうか?」

「だって、今、ティアが一番好きだよ」


 ティアの指が、手首から離れた。


「今日会った人、みんな素敵だったけど。それでも、一番はティアだもん」


 変えられるなら変えて、と言われても困る。

 さっきまで怖がっていた人が、誰かのためなら城へ戻ってしまう。

 私の傷を、真剣な顔で治してくれる。

 そういうところを知るたび、好きになっているのだから。


 帰れる方法があると聞いて、安心したかった。

 でも、その方法を聞いたら、素直には喜べなかった。


「これから、もっとたくさんの方と出会われますから」


 ティアは、励ますように微笑んだ。


「そのためのお手伝いなら、わたくしもいたします」

「私の恋人探しを、手伝ってくれるの?」

「はい。あなたがお幸せになれるお相手を」


 ああ。そういうことを、そういう顔で言う。


 また、好きになるんだけど。

 この人、本当に自分が帰れる方法を考えているのだろうか。


「でも、素敵な女の子にいっぱい会ったら、みんな好きになっちゃうかも」

「み、皆さまですか?」

「うん。向こうも私を好きになってくれたら、みんなと恋人になりたい」


 今まで、一度も誰かと付き合ったことがない。

 その口で何を、と、自分でも少し思う。


 でも、せっかく正直に生きると決めたのだ。

 好きになった人に、好きだと言いたい。

 言って、笑ってもらえたら、もう最高だ。


「女の子だけのハーレムって、よくない?」

「規模が、急に……!」


 ティアが、困ったように眉を寄せた。


 その顔を見ていると、最初の一人になってほしい、とまた思う。

 ティアを帰したくない気持ちも、本物だ。

 それでも、帰りたい人を困らせ続けたいわけではなかった。


「……とりあえず、今日の続きは明日にしよっか」


 大きなことを二つも考えるには、頭が疲れすぎていた。


「まずは宿。ちゃんと寝て、また考えよう」

「はい。そういたしましょう」


 私たちは、ようやく今夜の寝床を探し始めた。


     *


 なかった。


 一軒目は満室だった。

 二軒目も満室だった。

 三軒目では、もう閉めたあとだと、眠そうな顔で断られた。


 四軒目の主人が教えてくれたところによると、街道から大きな商隊が入っていて、手頃な宿は早い時間に埋まってしまったらしい。


「もう少し高いところなら?」

「そっちも当たったが、空いてないとさ」


 丁寧にお礼を言って、扉を閉じる。


 隣のティアが、私を見た。

 私も、ティアを見た。


「……ハーレム作る前に、家が要るね」

「今は、お一人分でもよいので、お部屋が欲しいです……」


 その言い方だと、一緒の寝床でもいいように聞こえる。

 一瞬、ものすごく元気が出た。


 でも、その寝床がないんだった。

 元気はすぐに帰っていった。


 足の裏が痛い。

 ティアの歩幅も、さっきから少しずつ小さくなっていた。


 大丈夫です、と答えてくれるけれど、こちらへ向ける笑顔まで眠そうだ。

 そんな顔も可愛い。

 可愛いけれど、ちゃんと寝かせてあげたい。


 天界から連れてきて、初日に野宿。

 私が恋人だったら、かなり嫌だと思う。


 まだ恋人ではないけれど。

 そこに救われたくはない。


 私は、足を止めた。


「……もう一回、行ってみよう」


     *


 ゴブリン亭の窓には、まだ明かりがあった。


 けれど、さっきまでの歌声も、笑い声も聞こえない。

 扉をそっと押し開けると、椅子が次々とテーブルの上へ載せられていた。


 カウンターの奥に、白い髪が見えた。


 エスメラルダは、私たちの顔を見るなり、深いため息をついた。


「だから、無理だと言ったはずだ。貴様らを信用する道理は、あーしにゃない」


「ち、違うんです……泊まれる宿がなくて!」


 彼女の目が、わずかに開いた。


「……は?」


「ごめんなさい! 今日一日だけでも、泊めてください!」


 私は、その場で膝をついた。

 両手を床について、頭を下げる。


 人生、初めての土下座だった。

 まさか、異世界に来た初日に使うことになるとは思わなかった。


 床が、ちょっと冷たい。

 でも、外の石畳よりは絶対に温かい。

 今は、そこがとても大事だった。


「お、おい。何してんだ」

「あの、わたくしからも、お願いいたします!」


 隣で、ティアが慌てて膝をつく気配がした。


 私は顔を上げた。


「ティアは立ってていいよ」

「ですが、二人でお願いしたほうが、きっと……!」

「人数で威力が上がるやつなの、これ」


 エスメラルダが、煙管を置いた。


「どっちも立ちな。床を塞ぐんじゃない」


 私は、そろそろと顔を上げた。

 ティアも、ぴたりと動きを止めている。


「金は?」

「あります! ちゃんと払います!」

「宿を取れるところは、もう全部当たったんだね」

「はい……」


 彼女は、私の返事を聞いてから、ティアへ目を向けた。

 外套の裾。重ねた手。半分閉じかけて、慌てて開く目。


 少しの間、黙っていた。


「……もう二時になる。今からうろついたって、ろくなことにはならないよ」


 カウンターの下で、鍵が鳴った。

 小さな鍵が一つ、私たちの前へ置かれる。


「二階の突き当たり。空いてる従業員部屋を使いな。毛布は棚にある」

「いいんですか!?」

「今夜だけだ。余計なところに入るんじゃないよ」


 胸の奥が、ふっと軽くなった。


「ありがとうございます!」

「お代は、明日――」

「その話も明日だ。さっさと寝な」


 ティアの声まで遮って、彼女は手を振った。


 顔を上げたティアと、目が合う。

 ほっとした笑顔が返ってきた。


 その顔が見られただけで、土下座をした甲斐があった。


 立ち上がって、鍵を受け取る。

 エスメラルダは、もう別のほうを向いていた。


「あの、エスメラルダさん」

「何だい」

「……優しいですね」


 目だけが、こちらへ戻ってきた。


「行き倒れに店の前で寝られちゃ、迷惑なだけだよ」


 低い声だった。

 それなのに、さっきより少し、怖くなく聞こえた。


     *


 部屋には、小さな寝台が二つあった。


 二つか。

 そうか、二つか。


 ちゃんと寝かせてあげたい、と、今さっき思ったばかりである。

 一つを期待していた人は、いったん黙っていてほしい。

 私のことなんだけど。


 棚から毛布を出し、ティアに一枚渡す。

 彼女は両手で受け取り、ほっとしたように頬を緩めた。


「よかったですね」

「うん。本当に」


 靴を脱いで、腰を下ろした瞬間、もう立ち上がりたくなくなった。

 荷物をまとめて寝台の脇へ置く。

 向かいでは、ティアが銀の髪を肩から払って、毛布を膝に広げていた。


 同じ部屋に、好きな人がいる。

 これからここで、お互い眠るらしい。


 目の前にある二つの寝台を、もう一度見た。

 贅沢を言っていた自分を、ちょっと反省した。


 寝顔が見える距離である。

 十分すぎる。

 たぶん私、明日の朝も、起きて最初にこの人を見るのだ。


「ゆりあさん」


 呼ばれて、慌てて顔を上げる。


「今日は、ありがとうございました」

「私、お礼言われるようなことした?」

「一緒にいてくださったので」


 ティアは、膝に広げた毛布をそっと撫でた。


「知らないことばかりで、何度も怖くなりました。でも、振り向けば、あなたがいらしたので」


 声が、胸の奥に、ゆっくり入ってきた。


 私は、ティアの手を握りたくて握った。

 そばにいたくて、そばにいた。

 そうしていたことが、この人にとっても、少しはよかったらしい。


 嬉しくて、返事が遅れた。


「……うん。明日も、いるよ」

「はい」


 ティアが笑った。


 帰れる方法を聞いたときの、胸が狭くなるような感じを思い出した。

 いつか、こんなふうに話せなくなるのかもしれない。


 でも、今はここにいる。

 それを、まだ来ていない別れのことで、つぶしてしまいたくなかった。


「おやすみ、ティア」

「おやすみなさい、ゆりあさん」


 毛布を引き上げる。


 眠る前に、もう一回くらい、顔を見ておこう。

 目を閉じたら、どんな顔になるんだろう。

 やっぱり綺麗なんだろうな。


 そう思ったところまでしか、覚えていなかった。


     *


「仕事の時間だ! さっさと起きりゃあ!!」


 扉が開く音と、大きな声で目が覚めた。


 身体が先に起き上がる。

 仕事。遅刻。何時。


 そこまで考えて、止まった。


 待って。

 私、死んだんだよね。

 会社には、もう行かなくていいんだよね。


「……しごと?」


 毛布を握ったままの私たちへ、エスメラルダが言った。


「一階に下りてきな。人手なら、いくらあっても足りないんだよ!」


 第二の人生、二日目。


 どうやら、就職先が決まったらしかった。

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