第5話:口説きながらでも、仕事はできます
「一宿一飯の恩は、きっちり返してもらうよ」
階段を下りきったところで、白い布が飛んできた。
受け止めて広げる。
エプロンだった。
「一宿はありましたけど、一飯はまだいただいてないような……」
「つべこべ言うな。飯も今から食わせる」
「先に恩を増やす方式なんですね」
エスメラルダは、大きな鍋の蓋を開けた。
湯気と一緒に、いい匂いが広がる。
お腹が鳴った。
私のだった。
「返せそうかい」
「精いっぱい働かせていただきます」
食事がつくのなら、話は別だ。
昨日は、まともに食べる余裕もなかった。
隣でティアが、受け取ったエプロンを真剣に眺めていた。
まだ少し眠そうな目をしている。銀色の髪も、片側だけ、ふわりと頬のほうへ跳ねていた。
寝癖だ。
女神さまの寝癖。
昨日、寝顔を見損ねたことを、私は少し引きずっていた。
けれど、これはこれで、かなりいい。
これから毎朝、この髪を直してあげられる立場になりたい。
まずは櫛を買うところから始めようと思う。
どうして就業前に将来の生活設計まで始めているのかは、私にも分からない。
「ゆりあさん。こちらは、このように……?」
「うん。後ろ、結ぶね」
差し出された紐を受け取って、背中側へ回った。
銀の髪を避けてもらい、蝶結びにする。
細い背中だった。
昨日、私を抱き締めてくれた人が、今は私に背中を預けている。
ただエプロンを結んでいるだけなのに、妙に大事なことを任された気持ちになった。
「できた。すごく似合う」
「ありがとうございます」
ティアが振り返り、胸元の布を指で整えた。
可愛い。
このまま台所に立って、私の帰りを待っていてほしい。
いや、仕事から帰ってきたら、こんな人がいる生活って何だ。それはもう帰宅ではなく救済なのでは。
「見つめ合う仕事は、あとにしな」
椀が二つ、カウンターに置かれた。
私は、慌ててティアから離れた。
「見つめていたの、主に私です」
「訂正するところは、そこじゃないよ」
*
朝食を済ませると、エスメラルダは手早く仕事を割り振った。
テーブルを拭く。
椅子を下ろす。
水差しと杯を出す。
開店前に、今日の料理と値段を覚える。
「煮込みにはパンがつく。肉皿は別だ。迷ったら勝手に答えるんじゃない。あーしか、厨房の奴に聞きな」
「はい。お会計は?」
「最初はあーしに回せ。銅貨の種類くらいは分かるのかい」
「そこから教えていただけると助かります」
硬貨を並べてもらい、値段と一緒に確かめる。
店の中を一周して、どこに何があるのかも教わった。
覚えることは多い。
でも、何も分からないまま「適当にやって」と言われるより、ずっとありがたかった。
「そっちの銀髪は、杯を磨いておきな」
「はい! 一つ残らず、綺麗にいたします!」
ティアが、両手で杯を受け取った。
その返事だけを聞けば、店でいちばん頼りになりそうだった。
私は椅子を下ろしながら、厨房へ戻っていくエスメラルダを見た。
昨夜は、ずっと座っていたから気づかなかった。
この人、思っていたより小さい。
百五十センチくらいだろうか。
私より低い背丈に、袖をまくった腕。白い髪は後ろでまとめられ、首筋が見えている。
大きな煙管はカウンターの奥へ置かれ、今は片手に布巾を持っていた。
昨夜は、近づくと叱られそうだと思った。
今も、たぶん、余計なことをすれば叱られる。
でも、少し高いところの汚れを拭くために、つま先が浮いたのを見てしまうと、困る。
あれ。
なんだか、可愛くないか。
綺麗な人なのは、昨日から知っていた。
知っていたけれど、そこに、こういう可愛さまであるのは聞いていない。
「手が止まってるよ」
「すみません」
私は、次の椅子へ向き直った。
見つめる仕事はあと。
さっき、そう教わったばかりだった。
*
「いらっしゃい! おや、今日はずいぶん早いじゃないか!」
開店して、最初のお客さんが入ってきたとき。
私は、手にしていた水差しを、落としかけた。
声が違う。
いや、エスメラルダの声だ。
声なのだけれど、昨夜より少し高くて、よく通る。
「腹が減ってね。まだ肉はあるかい?」
「今から売るんだよ、今から! 貴様らが来る前に売り切ってどうするんだい!」
革の上着を着た女の人が笑う。
エスメラルダも笑った。
目尻が緩んで、頬が上がる。
白い髪の隙間から見えた耳が、わずかに動いた。
あ。
だめだ。
可愛い。
あんなふうに笑う人だったんだ。
昨日の低い声も好きだけれど、今の、こちらまでつられて笑ってしまいそうな顔も、すごくいい。
その笑顔、もう一回、私に向けてもらえないだろうか。
食事を頼めばいいのかな。
今さっき食べたけど、もう一人前くらいなら。
「ゆりあ! 水!」
「はい!」
違った。私が運ぶほうだった。
水差しを手に、席へ向かう。
昨夜、エスメラルダの場所を教えてくれた、耳飾りのお姉さんも座っていた。
「あれ。昨日の子じゃないか。もう雇われたの?」
「泊めてもらったら、こうなりました」
「そりゃそうなるねえ」
なるんだ。
この街では、よくあることなのかもしれない。
「今日は、何になさいますか?」
「肉皿二つ。そっちの子と同じやつ」
「パンは別ですけど、つけます?」
「一つずつ。あと、あたしには薄い酒」
注文を繰り返してから、お姉さんの顔を見る。
昼の光で見ると、昨日より、目の色がよく分かった。
明るい茶色。笑うと、少しだけ細くなる。
「髪、留めるとまた雰囲気が違いますね。そっちも好きです」
「おや。どっちのほうが?」
「それは困ります。下ろしてるときのも、もう一回見たくなるので」
お姉さんは、声を上げて笑った。
よかった。
笑ってもらえると、もっと話したくなる。
でも、隣の席のお客さんが、こちらへ手を上げていた。
「お待たせしました。ご注文ですか?」
向きを変えて、次の注文を聞く。
空いた手で、通り道のテーブルに残っていた杯を二つ回収した。
戻りながら、頭の中で数える。
窓際に肉皿二つ、パン二つ。
入り口側は煮込み三つ。そのうち一人は、水のおかわり。
奥の席には、先に注文を聞きに行く。
順番を決めれば、動ける。
一度に全部を片づけようとしなければ、大丈夫だ。
厨房へ注文を伝え、出てきた皿を受け取る。
薄い酒も、忘れずに盆へ載せた。
「……貴様、口説いてばかりいるんじゃないだろうね」
エスメラルダが、カウンター越しに目を細めた。
「窓際の料理、持っていきます。入り口側は煮込み三つ、厨房に通しました。奥の席は今から聞きます」
彼女は店内を見た。
それから、私の盆を見た。
「……皿、傾けるんじゃないよ」
「はい」
少しだけ、嬉しかった。
元の職場で、私は、感じのいい人でいようとしていた。
先回りして準備をする。呼ばれたらすぐに返事をする。
余計なところを見られないように、できることは、ちゃんとやる。
その癖は、死んだからといって、なくなっていなかった。
ただ、今は、綺麗な人を見ていたことまで隠さなくていい。
「お待たせしました。お肉です」
「ありがと。あんたも、そのエプロン似合ってるよ」
「ありがとうございます。じゃあ、また見に来てください」
口にしてから、頬が緩んだ。
次に会う口実を、こんなふうに作れるんだ。
もう一度会いたいと思っているだけなのに。
それを言えるだけで、仕事の途中でも、胸が少し軽くなる。
*
ティアのほうは、大変なことになっていた。
磨き終えた杯を席へ届けに行ったところで、次々に呼び止められたらしい。
「あの、申し訳ございません。今、お水を……」
「こっち、杯が足りないよ」
「はい! ただいま!」
「銀髪のお嬢さん、注文いいかい?」
「ご、ご注文ですね! 承ります!」
右へ向き、左へ向き、また右へ向く。
手には水差し。
脇には布巾。
そして目の前のお盆には、なぜか空の杯が六つ並んでいた。
全員のお願いを、今すぐ叶えようとしている。
そのせいで、最初に引き受けた水が、まだ誰のところにも届いていない。
「ティア。お水、どこの席?」
「ええと、あちらと、それから、杯が、お二つ……いえ、お三つで……」
「大丈夫。いったん止まろう」
水差しを受け取り、お盆もカウンターへ戻した。
ティアの指先が、布巾をぎゅっとつかんだ。
「申し訳ございません……」
「怒ってないよ。私が注文を聞くから、ティアはこの二つをあっちの席へ。運べたら、ここに戻ってきてくれる?」
杯を二つだけ、別の小さなお盆に載せる。
目線を合わせると、ティアは、こくりとうなずいた。
「二つ、ですね」
「うん。お願い」
彼女はお盆を両手で持った。
慎重に歩き出した背中を見送ってから、私は注文を待っていた席へ向かった。
戻ってくると、ティアも戻っていた。
お盆の上は、ちゃんと空になっている。
「できた?」
「はい。ですが、お食事がとてもおいしいとおっしゃっていただいて、それをどなたにお伝えするべきか、迷ってしまって……」
「エスメラルダさんに言ってあげたら、喜ぶと思う」
ティアは、ぱっと顔を上げた。
そのままカウンターの奥へ、小走りで向かっていく。
そこは、そんなに急がなくてもいい。
でも、悪い知らせも、嬉しい言葉も、あの人にとっては放っておけないものなのだろう。
さっきの慌て方を思い出して、少しだけ笑ってしまった。
仕事は、たぶん、得意ではない。
それでも私は、おいしかったという言葉を、あんなに嬉しそうに運んでいく人が好きだった。
カウンターの向こうで、エスメラルダが何かを言った。
ティアが、胸の前で両手を重ねて笑う。
できれば、今の顔は、こっちにも向けてほしい。
私もおいしかった。
朝の煮込み、とてもおいしかったです。
誰に報告すれば、あの笑顔をもう一度見せてもらえますか。
「おーい、お姉さん」
「はい、ただいま!」
私は、空いた皿を回収しに向かった。
*
昼の混雑が落ち着いたころ、厨房の脇から声がした。
「誰だい、踏み台の上に袋を積んだ奴は……」
エスメラルダが、棚を見上げていた。
つま先立ちになり、上段へ手を伸ばす。
その指が奥の瓶に触れた拍子に、手前の小さな木箱が傾いた。
「あ」
考えるより先に、手が出た。
棚の縁を滑り落ちた箱を、両手で受け止める。
中で、かちゃりと音がした。
蓋は、閉じたままだった。
「大丈夫?」
「……ああ。助かった」
エスメラルダは、伸ばしていた手を下ろした。
私は箱をカウンターに置き、代わりに棚を見る。
「どれが取りたいの?」
「奥の、茶色い瓶だ」
茶色い瓶は、三つあった。
「これ?」
「そりゃ酢だ。隣」
「こっち?」
「その後ろだよ。……違う、蓋が大きいほう」
手前の瓶を少しずらして、奥をのぞく。
私の肩の横から、エスメラルダも同じ場所を見上げていた。
ああ。
そうか。
分かっている人に、取ってもらえばいいんだ。
彼女の腰へ、両手を回した。
膝を軽く曲げ、お腹に力を入れる。
「……ん?」
エスメラルダの靴底が、床から離れた。
「はあっ!?」
「どれ? 届く?」
「き、貴様、何を――」
「ごめん、あんまり長くは無理かも」
腕に、しっかり重さがかかっている。
思いつきとしてはよかった気がするけれど、持久力まで用意されていたわけではない。
エスメラルダは、私の顔と棚を一度ずつ見た。
それから素早く腕を伸ばし、奥の瓶をつかむ。
「取った! 下ろしな!」
「はい」
ゆっくり膝を曲げ、靴が床についたところで手を離す。
腕の力を抜いて、息を吐いた。
よかった。無事に取れた。
背丈のある人が、こういうときに手伝えるのは、嬉しい。
「……椅子」
「え?」
「椅子でも、踏み台でも、持ってくりゃよかっただろうが!」
それは、そうだった。
もっと簡単な方法があった。
どうして本人を持ち上げるほうへ進んでしまったんだろう。
目の前に、腰があったから。
いや、その説明を口に出したら、たぶん、もっと怒られる。
「ごめんなさい。手が届いたら早いかなって」
「上げるなら、せめて先に言いな!」
見上げてくる目が、怒っている。
でも、耳の先の色が、さっきより少し濃くなっていた。
あ。
この顔も、初めて見た。
叱られている最中に、可愛いと思ってしまうのは、本当によくない。
よくないのに、気づいてしまったものは、どうしようもなかった。
「……可愛い」
「何か言ったかい」
「言いました」
「少しは隠せ!」
それだけは、今世では、なるべくしないつもりだった。
けれど、勝手に触ったことへの反省とは別だ。
「次は、ちゃんと声かけます」
「次は、台を持ってきな」
「はい」
エスメラルダは瓶を抱え直し、私から顔をそらした。
白い髪の束が、肩で跳ねる。
「……箱は、そっちでいい。あとで使う」
その声が、ほんの少しだけ、小さかった。
私は、両手を見下ろした。
さっきまで支えていた感触が、まだ少し残っている。
もう一度、と考えかけて、やめた。
次は台だ。
今の私は、ちゃんと教わったことを覚えている。
*
最後の肉皿を運んだあと、右手の指先が、少しひりついた。
熱い皿を持ち替えたときに、縁へ触れてしまったところだ。
一度、水で冷やしたのだけれど、まだ少し赤い。
見下ろしていると、横から声がした。
「ゆりあさん。お手を見せていただけますか」
ティアだった。
「あ、うん。ちょっと熱くて」
差し出した手を、彼女が両手で包んだ。
さっきまで、お盆を持つだけでいっぱいいっぱいになっていた指が、迷わず私の指先へ添えられる。
「このまま、動かさないでくださいね」
声が、落ち着いていた。
淡い光が、重なった手の間にともる。
熱の残っていたところから、痛みが引いていった。
近い。
伏せた睫毛が見える。
頬の横へ落ちた銀の髪が、私の手首をかすめた。
昨日も、治してもらった。
けれど、何度してもらっても、慣れる気がしない。
痛いところを、見つけてくれる。
手を差し出すと、当たり前みたいに受け取ってくれる。
私がこの人の顔を見ている間も、ティアは、私の指先を見ていた。
そのことが、なぜだか、いちばん落ち着かなかった。
「もう、痛くありませんか?」
「……うん」
返事が、小さくなった。
もう少し、ちゃんとした声で話したかった。
「ありがとう。ティア」
彼女の目が、ようやく私へ向く。
ほっとした笑顔だった。
「お役に立てて、よかったです」
そこで手が離れた。
私は、治った指を、そっと握り込んだ。
また好きになった。
たぶん、さっきまでより、また少し。
この人を天界へ帰す条件について、今、考えてはいけない気がした。
「今日は、皆さまにご迷惑ばかりおかけしてしまいましたから……」
ティアは、エプロンの端をつまんだ。
「お水をお運びするだけでも、あんなに慌ててしまって。天界では、これほど何もできないと思ったことが、ございませんでした」
自分の指先へ、目を落としている。
ほんの少し前まで、その手で私の痛みを消してくれた人が。
「今日が初めてだもん」
「ですが、ゆりあさんも、こちらで働かれるのは初めてでは……?」
「そうだけど、人に頼んだり、順番を考えたりするのは、前の仕事でもやってたから」
最初からできたわけではなかった。
電話を誰に取り次げばいいのか分からなくて、受話器を持ったまま先輩を見つめたこともある。
一つ頼まれるたび、前の仕事が頭から抜けて、机の上にやりかけのものばかり増やした日だってあった。
「私も、何年かかけて覚えたんだよ。ティアは、まだ一日目でしょ」
彼女が、ゆっくり顔を上げた。
「それに、困ってる人に気づくの、すごく早いよね」
「……そうでしょうか」
「うん。さっきのお客さんも、こっちを向いただけで行こうとしてた」
持っていたお盆まで置き忘れていたけれど。
そこは、まあ、これからだ。
「全部いっぺんにしなくていいから、一つずつ。今みたいにさ」
治してもらった手を開いて見せると、ティアは、少しだけ頬を緩めた。
「……もう一度、お運びする係をしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。次は、あの席のお皿を一緒に下げよう」
うなずいたティアが、空のお盆を手に取った。
やっぱり、好きだなと思った。
得意なことだけをしていればいいのに、この人は、苦手なことのほうへも戻ろうとする。
そのとき、私が隣にいていいなら、嬉しい。
今度は二人で、客席へ向かった。
*
夕方になると、夜の営業を手伝う店員たちが、裏口から入ってきた。
入れ替わるように、私たちはカウンターの脇へ呼ばれた。
「昼のぶんは、ここまでだ。貴様らは、もう上がりな」
その言葉を聞いた途端、足の裏の疲れが分かった。
ティアも、ほう、と息を吐いている。
エスメラルダは、カウンターへ硬貨を置いた。
「二人分だ。なくすんじゃないよ」
「……これ、お給金ですか?」
「働かせたんだから、払うだろう」
「でも、泊めてもらって、朝ごはんも」
「それなら、とっくに返してもらったよ」
私は、並んだ硬貨を見た。
この世界で、初めて自分で稼いだお金だった。
朝には、なんで死んでまで働くのかと思ったのに。
いざ受け取れるとなると、指で触るのが、少し嬉しかった。
「あの、わたくしは、ほとんど……」
「杯は綺麗になってた。最後は皿も下げてたね」
ティアの言葉を、エスメラルダが遮った。
「あとは、もう少し慌てずにやりな。店の中を走られるほうが困る」
「……はい!」
ティアが、両手で硬貨を受け取った。
その顔を見てから、私はエスメラルダへ向き直る。
「エスメラルダさん。明日、この街を、もう少し見て回りたいんです」
彼女の手が止まった。
「……何を見るつもりだい」
「どこに、どんな人がいるのか。どうやって暮らしてるのか。昨日、何も知らないって言われて、そのとおりだったから」
皿を運ぶ途中にも、席を片づけているときにも、あの子の顔が浮かんだ。
鎖の向こうで、民を置いていけないと首を振った顔。
ただ、思い浮かべるだけでは、城の扉は開かない。
「あの子を助けるために、知っておきたいです」
声を落として、続けた。
エスメラルダは、客席を一度見た。
それから、指先でカウンターを軽く叩く。
「……知らない人間が、捕虜のいる場所へふらふら近づくんじゃないよ。貴様だけじゃなく、話しかけられた相手まで疑われる」
「はい」
そこまで、考えていなかった。
私は口を閉じ、次の言葉を待った。
「明日は仕入れがある。荷を持つ手が要るから、ついてきな」
目を上げる。
エスメラルダは、もう別の皿を手に取っていた。
「道くらいなら、そのとき教えてやる」
「……ありがとうございます」
「荷物持ちだよ。勘違いするんじゃない」
昨夜と同じように、突き放す声だった。
でも、今回は、そのあとに、明日の予定が残った。
「部屋も、しばらく使っていい。朝、叩き起こされる前に下りてくるんだね」
「はい!」
ティアと、顔を見合わせた。
彼女も、嬉しそうにうなずいている。
明日も、ここで働ける。
街を知っている人の隣で、話を聞く機会がある。
私は硬貨をしまい、もう一度、頭を下げた。
「それと」
エスメラルダが、私たちのエプロンを順番に指した。
「それを脱いだら、二人で風呂にでも行ってきな。通りを二つ曲がったところに、公衆浴場がある。湯銭と石鹸代くらいにはなるはずだ」
風呂。
私は、ティアを見た。
ティアは自分の袖口を確かめ、ほっとしたように笑っていた。
「ありがたいです。汗もかいてしまいましたし……」
銀の髪を、耳へかける。
首筋が、少し見えた。
風呂。
二人で。
今、そう言ったよね。
聞き間違いでは、ないよね。
昼間は、女の人の笑顔を見ていても、次の注文を覚えていられた。
今は、通りをいくつ曲がると言われたのか、もう分からない。
「ゆりあさん。一緒に参りましょう?」
「う、うん。もちろん」
ティアが、私のエプロンの紐へ目を落とした。
「後ろ、ほどきましょうか」
私は、返事の代わりに、小さくうなずいた。
今朝、慌てっぱなしだったのはティアだ。
どうやら、次は私の番らしい。




