第3話:救ってもいいんじゃないかな
王城の外は、ずいぶん明るかった。
焼きたてのパンの匂い。荷車の音。店先で笑う人たち。
城の門を隔てただけで、こんなにも違う。
私の腕には、もう傷がなかった。
乾いた血のついた袖を、もらったばかりの外套で隠す。
王様の話が終わると、私たちは別室へ案内された。
そこで渡されたのは、旅費の入った袋と、護身用の短剣。外套や水袋など、旅に必要だという道具がいくつか。
最後に、王家の紋章が刻まれた、小さな金属の札を持たされた。
「勇者の証です。これを示せば、どの国の関所もお通りいただけます」
どこへでも行ける、特別な身分証。
それを渡されている間、私は案内されてきた廊下の角を、何度も振り返っていた。
行きたいのは、まだこの城の中だった。
けれど、案内役の人に食い下がったところで、あの姫に会わせてもらえるかどうかさえ分からない。
一度、二人で話したかった。
「……ゆりあさん」
隣から呼ばれて、顔を向ける。
女神さまの銀の髪が、陽を受けて光っていた。
天界で見たときとは、また違う。歩くたびに細い髪が肩を滑り、ほんの少し触れてみたいと思ってしまう。
そんなことを考えられる自分の頭に、ちょっと呆れた。
彼女は、私の袖を見ていた。
「あの、まだ痛みますか?」
「ううん。全然。ありがとう」
指を開いて、閉じてみせる。
女神さまは、それを確かめてから小さく息をついた。
さっきから、何度もこうして気にしてくれる。
自分だって、知らない場所へ来たばかりなのに。
私の傷を治すときだけは、少しも迷わずに手を伸ばしてくれた。
安心してもらいたくて笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
女神さまも、困ったように視線を落とす。
通りを外れ、建物の陰で足を止めた。
外套も荷物も増えたのに、どこへ向かうかが決まらない。
私も、彼女も。
「お辛いお気持ち、心中お察しします」
女神さまが、私に向き直った。
「あのようなことが行われていたなど……この世界を預かる者として、申し開きもございません」
深く、頭を下げられた。
「街が栄えているのを見て、安心しておりました。そのために、誰が何を強いられているのかも、知らずに」
向こうの通りで、呼び込みの声がした。
焼きたてだよ、と明るい声が繰り返す。
あの人たちにとっては、いつもどおりの一日なのだろう。
パンを買って、誰かの待つ家へ帰る。
私も、あの子を見ていなければ、女神さまを連れて買いに行っていたかもしれない。
初めての異世界の食事だとか、浮かれながら。
「でも、私たちは進まなければなりません」
女神さまの指が、衣を握った。
「魔王を討たねば、いずれこの街にも戦火が及びます。王のおっしゃるとおり、人類には余裕がないのです。まずは魔王を倒し、この世界に平穏を取り戻すことが……あの方を……」
声が、だんだん小さくなる。
私は、続きを待った。
女神さまは顔を上げなかった。
「それ、嘘だよね」
彼女の肩が跳ねた。
「本当は、あの子のところに行きたいんでしょ」
唇が開いて、閉じた。
何度も言葉を探して、結局、何も出てこない。
見覚えがあった。
言ってしまいたい。
でも、言っちゃいけない。
それを口にしたら、今までどおりではいられなくなる。
周りに合わせた声で返事をするたび、喉の奥に残ったもの。
何度も飲み込んでいるうちに、いつの間にか、そこにあるのが当たり前になってしまったもの。
女神さまも、今、そんな顔をしていた。
「無理して嘘なんてつかなくていいよ。つらいだけだよ、そういうの」
彼女の頬を、涙が一粒伝った。
「……まったくの嘘では、ございません」
震える声だった。
「戦が終われば、今より状況がよくなるかもしれません。戦地の人たちも帰ってきて、働き手が増えれば、あのような扱いも……。勇者を導く者として、まずは魔王討伐へ進んでいただくべきなのです」
そこまで言って、声が詰まった。
「でも、それでも……」
彼女は、両手を握り締めた。
「今、目の前で苦しんでいる方に、手を差し伸べられないなんて……!」
次の言葉は、嗚咽に紛れてしまった。
私は黙って、その顔を見ていた。
あの子を助けたい。
私も、そう思っている。
ただ、私の場合は、半分くらい下心だ。
綺麗だった。もっと近くで見たかった。できれば、好きになってほしかった。
救い出したあとに笑ってもらえたら、なんて、そこまで勝手に想像していた。
目の前の人は、違う。
自分が背負っているものを分かっていて、それでも、あの子のために立ち止まりたがっている。
誰かを救う役目のせいで、誰かを見捨てることになる。
それが嫌で、こんなに泣いている。
天界で会ったときは、何でも分かっている人だと思っていた。
私が泣けば慰めてくれて、迷えば答えを教えてくれる。
そういう人なのだと、勝手に決めつけていた。
この人だって、困るのだ。
悩んで、答えが出せなくて、どうしていいか分からなくなる。
そのことが分かったら、ただ見上げていたときよりも、もっと近くにいたくなった。
「……女神さまって、すっごく人間らしいよね。私なんかより、全然」
濡れた目が、私を見上げた。
「私、ですか?」
「うん」
私は、彼女の頭にそっと手を置いた。
銀の髪を、軽くぽんぽんと撫でる。
柔らかかった。
え、何、この手触り。
さっきの、ちょっと触れてみたい、が早くも報われてしまった。
危ない。手を止める理由が見つからなくなる。
今は慰めているところなので、私がうっとりしている場合ではない。
「ねえ。今の女神さまには、あの城をどうにかできるような力ってある?」
「……ございません。地上に降りた今の私にできるのは、治癒だけです」
「そっか。じゃあさ、今の女神さまは、女神じゃないんでしょ」
彼女が、小さく首をかしげた。
私は足元を見た。
女神さまの白い衣の裾に、薄く土がついている。
「今は、私と同じところに立ってるんだよ。遠くから見てなくていいんじゃないかな」
誰が困っているのか。
どんな顔で、助けを求めているのか。
今なら、そばに行って、ちゃんと見ることができる。
撫でていた手を下ろし、彼女の手を取った。
泣いていた私に、そうしてくれた人の手を。
「私に賭けてみてよ。女神さまだって、好きに生きないともったいないよ」
「……私も?」
「うん。救ってもいいんじゃないかな。あたしだって、女神さまだって、今はおんなじ人間なんだもん」
女神さまは、握られた自分の手を見た。
長いこと、そうしていた。
私は、その手を引っ張らずに待った。
私が行きたいからと、また黙ったまま連れていきたくはなかった。
やがて、弱い力で握り返してくれる。
「……助けたいです」
今度の声は、小さくてもはっきり聞こえた。
「あの方を、助けたいです」
「うん。私も」
ようやく、目が合った。
涙でぐしゃぐしゃになっているのに、やっぱり綺麗だ。
それなのに、嬉しかったのは、彼女が自分の言葉で返事をしてくれたことだった。
きっと、まだ怖いのだろう。
握り返す指は、少し震えていた。
それでも、私のほうへ手を伸ばしてくれた。
この手を取ったことを、後悔させたくないと思った。
「ねえ、ティアって呼んでもいい?」
「……ティア?」
「ずっと女神さまって呼んでたら、また女神さまの顔しちゃいそうだから」
彼女は、目元を指で拭った。
「はい。どうぞ、そう呼んでください」
「よろしくね、ティア」
「はい。ゆりあさん」
返事と一緒に、ほんの少し笑ってくれた。
ティア。
たった二音なのに、口にしただけで、さっきより近くなったような気がする。
できれば、もう三回くらい呼びたい。用事は特にない。
「ティアって名前、可愛いね」
「そうでしょうか」
「うん。本人はもっと可愛いけど」
口から、そのまま出た。
ティアはきょとんとして、それから小さく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
さっきまで泣いていた口元が、少し緩んだ。
胸が温かくなった。
ああ。言ってよかった。
好きな女の子が、二人ともつらそうな顔をしている。
そんなものを仕方ないと飲み込んで始める第二の人生なんて、私は嫌だ。
*
その足で、私たちは城門へ戻った。
とはいえ、私には高い壁を飛び越える力も、見張りを倒す力もない。
ティアが使えるのは治癒だけ。
助けたいと決めたからといって、鍵の開け方まで頭に浮かんでくれるわけではなかった。
なので、取り次いでもらうことにした。
「旅立つ前に、あの姫の治療をさせてもらえませんか」
勇者の証を見せ、昼間の魔術師へ伝えてもらうよう頼む。
私の腕を治したティアの力は、向こうも見ている。
姫をこれからも使うつもりなら、傷を治す申し出は、断る理由が少ないはずだ。
そう考えなければ会いに行けないことが、少し嫌だった。
返事が来たのは、しばらく待ったあとだった。
面会は認める。ただし、魔術師の手が空く、日が暮れてから。
それまでは、城の中へも入れてもらえなかった。
私は、門を守る兵士たちを見た。
会って話すためだけでも、誰かの許可が要る。
連れ出すなら、その先が要るのだ。
まずは、あの子の話を聞こう。
何も知らないまま手を伸ばすのは、昼間、一度やった。
*
夜の城は、昼間よりも静かだった。
迎えに出てきた魔術師は、ティアを見るなりうなずいた。
「あれには明日も働いてもらわねばならん。傷を治してもらえるなら、こちらとしても助かる」
私は、奥歯を噛み合わせた。
隣でティアの肩がこわばる。
今日は、会いに来た。
ここで言い返して追い払われるわけにはいかない。
「ただし、治療のみだ。鎖には触れるな」
廊下を歩く魔術師の後ろについていく。
腰の短剣が、歩くたびに腿へ当たった。持っているからって、使えるわけじゃない。
そのことを、いちいち思い出させてくる。
隣から、衣の擦れる小さな音がした。
ティアが両手を握り合わせている。
私は、その片方に手を添えた。
彼女は驚いてこちらを見て、それから、前を向いた。
そのまま歩いてくれたことが、嬉しかった。
案内されたのは、城の奥にある石造りの小部屋だった。
扉を開ける鍵は、兵士が持っていた。
小さな寝台と、水差し。
あの子は、寝台の端に座っていた。
首輪から伸びる鎖は、壁の金具につながれている。
袋はもう、かぶせられていない。
入ってきた私を見て、金色の目を大きく開いた。
「……あなた」
初めて聞く声だった。
少しかすれていたけれど、思ったより、はっきりとした声だった。
「こんにちは。じゃなくて、こんばんは」
こんなとき、最初に何を言えばいいのか分からなかった。
会えてよかった、では違う気がした。
この子にしてみれば、また会いたかったかどうかも分からないのだから。
「私、ゆりあ。こっちはティア。傷を治しに来たの」
魔術師は兵士に見張りを言いつけ、廊下の奥へ去っていった。
開け放たれた扉の外から、兵士がこちらを見ている。
私は寝台のそばにしゃがんだ。
姫の視線が、私の左腕へ落ちた。
「昼間は……噛んでしまって、ごめんなさい」
小さな声で、そう言った。
「腕は?」
「もう治ったよ。ティアが治してくれた」
袖をめくって見せると、彼女はじっとそこを見た。
それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「そう。なら、よかったのだわ」
続けて、きゅっと眉をつり上げる。
「でも、そちらだって、いきなり淑女に触れるのはいかがなものかしら」
「それは、ごめん」
「次からは、気をつけることね」
淑女。
私は、思わず口元を押さえた。
可愛い。
どうしよう。可愛い。
言っていることは、まったくもって正しい。
だから、ここでにやけるのは、たぶん、かなりよくない。
でも、きちんと謝ったうえで、言いたいことは言ってくる、そのちょっと誇らしげな顔が、ものすごく可愛い。
何度も考えるな。顔に出る。
私がうなずくと、姫も小さくうなずき返した。
昼間は、目が合うだけで必死だった。
今、言葉が返ってくる。
怒られているのに、それが嬉しかった。
隣に膝をついたティアが、静かに尋ねた。
「お怪我を診ても、よろしいですか?」
姫は少しためらってから、うなずいた。
差し出された細い腕を、ティアが両手で包む。
光に照らされて、赤く擦れた手首が、元の緑色に戻っていった。
姫の唇が、わずかに開いた。
驚いたように、自分の手首を見つめている。
私も、同じだった。
痛くなくなるのが、こんなにほっとすることだとは知らなかった。
ティアは、残った傷へ順に手を添えていく。
首輪の縁に指が近づくたび、廊下の兵士が目を細めた。
鎖はついたままだ。傷が消えても、それは変わらない。
私は、少し顔を寄せた。
「……ここから、出たくない?」
姫の目が、こちらを向いた。
廊下の兵士は、動かなかった。
私はさらに声を落とした。
「迎えに来たいの。あなたを、ここから連れ出したい」
金色の瞳が揺れた。
一瞬、何か言いかけたように見えた。
けれど、返ってきたのは、首を横に振る仕草だった。
「それは、できないのだわ」
「どうして?」
「この国には、わたくしの民がいるの」
鎖の擦れる音がした。
「坑道にも、採石場にも。わたくしが生きていると信じて、言われたとおりに働いているのよ」
王様の声を、思い出した。
あれを預かっておけば、民もよく働く。
「わたくしだけ逃げたら、残った者たちがどうなるか、分からないもの」
姫は、治ったばかりの手を握った。
「わたくしが嫌だからって、置いていくわけにはいかないのだわ」
何も言えなかった。
あの子をここから連れ出せばいい。
遠くへ行ってしまえばいい。
私は、その先に笑ってくれる顔を、都合よく思い浮かべていた。
そのとき、姫が何を思うかまでは考えていなかった。
この子の目にも、今、誰かの顔が浮かんでいるのだろう。
ここにいなくても、遠くで苦しんでいると分かっている人たちの顔が。
自分が逃げたせいで、その人たちがどうにかされるかもしれない。
そんなことを考えながら、安心して笑えるはずがない。
隣で、ティアが唇を結んだ。
姫の手を、まだ包んでいる。
私も、逃げようよ、と重ねて言うことはできなかった。
それは、姫にも、自分の本心を押し込めてほしいと頼むことになってしまう。
「……そっか」
私は、ゆっくり息を吐いた。
「じゃあ、みんなも一緒に帰らないとね」
姫が顔を上げた。
口にしてから、考えた。
何人いるのかも、どこにいるのかも、私は知らない。
どう連れていくのかなんて、もっと分からない。
分からないなら、まず聞かないと。
「この街に、頼れそうな人はいない? ゴブリンの人たちのことを知ってて、相談に乗ってくれそうな人」
姫は、口を開きかけた。
一度閉じて、扉のほうを見た。
私は待った。
何でもできる顔で、安心して、と言うことはできない。
せめて、話してくれたことを、勝手に都合よく受け取るのはやめようと思った。
やがて、姫は私たちにだけ聞こえる声で、言った。
「……エスメラルダ」
誰かの名前だった。
「冒険者通りの、ゴブリン亭。あの人が今もそこにいるなら」
その名前を口にしたときだけ、姫の声が、少し違って聞こえた。
私は、もう一度その名前を繰り返した。
忘れないように、声には出さずに。
エスメラルダ。
次に会いに行く人が、決まった。




