第2話:勇者の歓迎と、鎖の姫
着地は、お尻からだった。
「いったぁ……!」
石の床は、冷たくて硬かった。
握ったままの手が、ぎゅっと縮こまる。隣では女神さまが、ぺたんと座り込んでいた。
「お、お怪我はありませんか!?」
「お尻以外は大丈夫。女神さまは?」
「私は……私は、大丈夫です。ただ、あの、地上に来てしまったようで……」
長い銀髪を床に広げたまま、彼女はきょろきょろと辺りを見回した。
さっきまであんなに落ち着いていた人が、今は私以上に心細そうな顔をしている。
大丈夫ですよ、と言ってくれそうな人が、今は誰かにそう言ってほしそうにしている。
それが、妙に胸にきた。
手を貸したい。安心させたい。できれば私を見て、ほっとしてほしい。
さっきから、最後にちょっとずつ自分の願望が混ざっている。
手首に絡んでいた光の糸は、薄れて、消えた。
でも、女神さまの手はまだここにある。
私より少し小さな手だった。
握り返されると、細い指が私の手の甲にきゅっと当たる。落ちている間は必死だったのに、助かった途端、その感触ばかりが気になり始めた。
これ、少し指をずらしたら、恋人つなぎになるのでは。
いや、待って。恋人にはなっていない。
好きだとは言ったけど、お返事はまだである。返事をもらう前に、引っ越しだけ済んでしまった。
でも、嬉しい。
あの白い場所でお別れせずに、こうして隣にいてくれることが。
つい嬉しくなって、もう一度握る。
「一緒に来られたね」
「来てしまったんです!」
小声なのに、切実だった。
浮かれている場合じゃない。彼女にしてみれば、いきなり知らない場所に連れてこられたのだ。
私が一緒にいたいと思っただけで、彼女もそう思ってくれているとは限らない。
今、こちらを握る手にだって、不安のせいで力が入っているのかもしれなかった。
この先、一緒に来てよかったと思ってもらいたい。
何ができるかも分からないくせに、それだけは、強く思った。
「ようこそ、異界の勇者たちよ!」
よく通る声が、頭上から降ってきた。
顔を上げて、ようやく気づく。
私たちの周りには、何人もの人がいた。
高い天井。大きな窓。床に刻まれた、光を失いつつある魔法陣。
その先に数段の階段があり、いちばん上の椅子には、王冠をかぶった男性が座っている。
左には、宝石を縫い込んだような長衣の男。
右には、全身を鉄の鎧で覆った大男。
扉の脇にも兵士が立っていた。
あ。これ、完全に王城だ。
「余の招きに応じ、よくぞ参った」
応じたというか、落ちてきたというか。
ともあれ、お尻をさすったまま話す相手ではなさそうだ。
私は女神さまと手を取り合って立ち上がり、軽く頭を下げた。
「栗花落ゆりあと申します。こちらはティアラさんです」
口から出たのは、慣れ親しんだ仕事用の声だった。
異世界に来ても、初対面では名乗ってお辞儀。染みついたものは、死んだくらいでは抜けないらしい。
隣で彼女も頭を下げる。銀色の髪が、私の腕をかすめた。
それだけで、頭の中の自己紹介が少しおかしくなる。
こちらがティアラさんです。とても綺麗で、とても優しくて、さっき私を抱き締めてくれました。
最後の情報は、確実にいらない。
でも言いたい。なんなら、一番そこを自慢したい。
「うむ。そなたらには、この世界を脅かす魔王の討伐を託したい」
王様は、満足そうにうなずいた。
そこから、説明が始まった。
魔王軍によっていくつもの砦が落ち、人類は劣勢に立たされていること。
各国が勇者を召喚し、その力に望みをかけていること。
私が魔王を倒せば、この国にとって大きな栄誉となること。
なるほど。大変なのは分かった。
問題は、それをどうして私に頼むのか、というところだ。
魔法は使えないし、剣を握った覚えもない。高校で合気道をやっていたけれど、魔王を投げ飛ばす練習はしていない。
天界に並んでいた、いかにも強くなれそうなギフトが頭をよぎった。
そのあと、隣にいる女神さまの顔を見た。
……まあ、もう一度選べても、この人と一緒に行きたいんだけど。
そこは、驚くほど迷わなかった。
ただ、その栄誉の話はもう聞いた。
さっき聞いた。たしか二回聞いた。
隣をちらりと見る。
女神さまは両手を胸の前で重ね、まじめに話を聞いていた。その指が、時々落ち着かなさそうに組み替わる。
ああ。手、離さなければよかった。
私の手で落ち着いてくれるなら、いくらでも貸すのに。
右手でも左手でも。なんなら両手でも。
両手をつなぐには向かい合わないといけないから、それも大変よい。
待て。王様のお話の最中に、何を始めるつもりだ。
そっと横顔を見ると、彼女は王様に目を向けたまま、小さくうなずいていた。
同じ話を繰り返されても、ちゃんと聞いてあげるんだな、この人は。
私もあとで、たくさん話を聞いてほしい。
そう思ってから、こちらの話もちゃんと聞かなくちゃ、と前を向いた。
「我が国の繁栄こそが、人類の反攻を支える礎となる。そなたらも、その一翼を――」
じゃら、と音がした。
王様の左側。
長衣の裾の陰で、何かが動いた。
緑色の手。
私は、そちらを見た。
男の足元に、女の子が座り込んでいた。
いや、座っているというより、へたり込んでいる。
小さな身体を覆っているのは、擦り切れた布。
頭には袋がかぶせられ、両手首には鎖が巻かれていた。袋の下から見える首にも、黒い輪がはまっている。
むき出しの腕を、汗が伝っていた。
指先が、ぴく、ぴくと跳ねる。
最初は、具合が悪いのかと思った。
それなら、水でも、横になれる場所でも用意すればいい。
なのに、近くにいる人は誰も、彼女に手を貸そうとしなかった。
少し前まで、私たちも床に座り込んでいた。
立ち上がれたから、立った。
あの子は、立ち上がれないんじゃないのか。
袋の中から息をする音が聞こえて、胸のあたりが、落ち着かなくなった。
「……すみません」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
「あの子、どうしたんですか」
王様が、私の視線を追った。
「ああ。それか」
それ。
耳に引っかかった短い言葉が、頭の中でもう一度響いた。
私が聞いたのは、床の模様でも、飾ってある宝石でもない。
王様は、口元を緩めた。
「近隣にあったゴブリンの国の姫だ。見たことはないか?」
ゴブリン。
ゲームや本でなら、知っている。
でも、あの子は。
「どうして、そんな状態に?」
「少々、魔力を使わせたのでな。此度の召喚にも、役立ってもらった」
私は、足元の魔法陣を見た。
床を走る細い溝の一部は、あの子の座る場所まで伸びていた。
私たちが、さっきまで座っていた場所。
あの子が、今も座り込んでいる場所。
その二つが、床の線でつながっている。
ここへ来られたと喜んでいた間も、この子は、こうして苦しんでいたのか。
浮かれていた頬から、熱が引いていくのが分かった。
役立ってもらった、という声の気安さと、目の前の姿が、どうしても結びつかなかった。
「王族ゆえか、魔力の量だけは並外れておる。人を何十人も集めるより、よほど手間がかからぬ」
長衣の男が、誇らしげに胸を張った。
魔術師なのだろう。片手に杖を、もう片方の手には、あの子の首輪へ続く鎖を握っている。
「捕まえたんですか」
「うむ。向こうの王が病に倒れた折にな。長く争って、兵を損なうこともなかった」
戦争の話だった。
王様の声は、少しも変わらなかった。
「あれを預かっておけば、民もよく働く。坑道、採石場、物資の運搬。人の兵を前線に回せるのも、連中のおかげだ」
王様の指が、玉座の肘掛けを軽く叩いた。
「魔王との戦いには、人手も金も要る。働ける者には働いてもらわねば、国が立ちゆかぬのでな」
何を言っているのかは、分かった。
この国にとって、どう役に立っているのかも。
人手が足りない。戦争を続けるには、お金がかかる。
その事情は、たぶん本当なのだろう。
ここに来たばかりの私が思いつくようなことで、全部が片づくとも思わない。
周りを見ても、誰も驚いていなかった。
この場では、ちゃんと筋の通った説明として、受け取られているのだ。
分かりました、と言えば済む。
余計なことを言わずに、うなずいておけばいい。
今までだって、それは何度もやってきた。
でも、言おうとすると、あの子の震える指が目に入った。
だからといって、あの子が動けなくなるまで使っていいことには、ならない。
奥歯を、強く噛んだ。
隣から、袖をつままれた。
女神さまが青ざめた顔で私を見ている。何か言いかけて、それでも言葉が見つからないように、唇を結んだ。
大丈夫、と目で返そうとした。
うまくできたかは分からない。
ここで怒鳴ったところで、あの鎖は外れない。
扉の両脇に、兵士がいる。
王様のそばには、魔術師と、大きな騎士がいる。
私が何かするより先に、きっと止められる。そのあと、あの子がどうなるのかも分からない。
まず、そばへ行きたい。
顔を見たい。こちらを見てもらって、話ができるなら話したい。
唇を閉じて、息を吐いた。
今、口にしても追い払われない言葉を、一つずつ選んだ。
「その子の顔を、見せてもらえませんか」
王様が片眉を上げた。
「興味があるか」
「はい」
「構わぬ。好きに見るがよい」
私は、ゆっくりと階段を上がった。
一段、二段。
魔術師が、面倒そうに半歩脇へ退く。
近づくほど、細い肩の震えがはっきり見えた。
私が近づいたことに気づいたのか、鎖につながれた手が、床を探るように動いた。
袋のせいで、何が来たのかも分からないのだろう。
できるだけ驚かせたくなくて、私は声を落とした。
「……こんにちは」
膝を折って、目の高さを合わせる。
袋の中から、荒い呼吸が聞こえた。
「これ、外すね」
布の端をつまみ、そっと持ち上げた。
桃色がかった赤い髪が、こぼれた。
次の瞬間、その頭が跳ね上がった。
「っ、あ――!」
とっさに差し出した左腕に、鋭い痛みが走った。
牙だった。
女の子が、私の腕に噛みついていた。
「こらっ!」
魔術師が鎖を引く。
首輪が張っても、彼女は離れなかった。
痛い。
ちょっと待って。痛い。これ、本当に痛い。
さっきまで、頭の中ではいろいろ考えられていた。
近づいて、話して、何かできないか探して。
そんな順番が、全部、痛みでばらばらになる。
口を開けば、大きな声が出そうだった。
びっくりした。怖かった。
自分から近づいたくせに、心の準備なんて、何もできていなかった。
身体が勝手に逃げようとする。
右手で肩を押し返しかけて、止めた。
緑色の頬。
人よりずっと大きな目。
白いはずの部分が真っ黒で、その真ん中の金色だけが、ぎらぎらと揺れていた。
喉の奥で低く唸りながら、彼女は私を睨んでいる。
何なの、と言いたくなった。
助けたいと思って、近づいたのに。
でも、そんなこと、この子には分からない。
頭に袋をかぶせられて、鎖につながれて。
その袋を外したのが、知らない人間だっただけだ。
目が合えば、分かってもらえると思っていたのかもしれない。
助けたいと思っていることも、怖がらなくていいことも、こっちの顔を見れば伝わると。
そんなに都合よくいくはずがなかった。
私の顔だって、今、ひきつっている。
この子から、どんなふうに見えているのかさえ、私には分からない。
「……ごめん」
息を吐くのも、難しかった。
「急に、触ったね」
噛まれた腕は震えていた。
できるなら、今すぐ逃げたい。
それでも、目は逸らせなかった。
赤い髪が、汗を浮かべた頬に貼りついている。
近くで、かすかに花のような匂いがした。
綺麗な子だった。
こんなときに何を、と思う。
でも、黒に浮かぶ銀色の目を見て、そう思ってしまったのだ。
金色の瞳の縁が、黒の中ではっきりと見えた。
息をするたびに、赤い髪が頬の上で小さく動く。
人間とは、全然違う。
それなのに、もっと見たいと思った。
この目が、笑ったらどうなるんだろう。
その笑顔を私に向けてくれたら、どんなに嬉しいだろう。
怖がらせたくなかったのは本当だ。
痛い思いをさせたくないのも、本当。
そこに、好きになってもらいたいという、ずいぶん自分勝手な気持ちまで混ざってきた。
私、この子の笑った顔が見たい。
その目が、ふと揺れた。
唸り声が、一瞬だけ途切れた。
直後、鎖が鳴った。
「――っ!」
彼女の口が、私の腕から離れた。
喉元を引き上げられた小さな身体が、そのまま宙に浮く。
鎧に覆われた太い腕が、首輪のすぐ上で鎖をつかんでいた。
見上げる。
玉座の右に立っていた騎士だった。
大きい。
膝をついている私からでは、顔がひどく遠かった。
「ちょ、その手、放して……!」
「申し訳ない。どうもしつけがなっていないようでな」
低い声が、私の言葉に重なった。
女の子の足が、床を探して動いた。
届かない。
「後で、しっかりしつけておく」
「そうじゃなくて、首が――」
騎士はもう、私を見ていなかった。
ぶら下げた身体を脇へ抱え直し、そのまま玉座の奥へ歩いていく。
私も立ち上がろうとした。
その前へ、魔術師の杖がすっと差し出される。
「勇者殿。お怪我の手当てを先に」
金色の目が、騎士の腕の向こうからこちらを見た。
助けて、と言ったように見えた。
本当にそう思っていたのかは、分からない。
ただ、あの目が扉の向こうへ消えるまで、私はそこから動けなかった。
伸ばしかけた右手が、何もつかめずに残った。
あの大きな背中は、こちらを振り返りもしなかった。
まだ、何もできていない。
話も聞けていないし、苦しくない場所に座らせてあげることさえできていない。
それなのに、目の前からいなくなってしまった。
腕が痛かった。
痛いことに気を取られてしまう自分にも、腹が立った。
「ゆりあさん」
女神さまが、隣に膝をついた。
私の左腕を、両手で包む。
淡い光が、指の間からこぼれた。
傷に触れられて、反射的に肩が固くなった。
けれど、彼女の手は驚くほど優しかった。
私の腕を見つめる目が、真剣だった。
ついさっきまで落ち着かなさそうに動いていた指が、今は迷うことなく、傷のそばに添えられている。
こちらを支える手のひらの温かさに、詰めていた息が少しずつ抜けた。
熱を持っていた傷が、すうっと静まっていく。
痛みも、裂けた皮膚も、彼女の手の下で消えていった。
残ったのは、袖についた血だけだった。
指を動かしてみる。
ちゃんと動く。さっきまで怖くてできなかったことが、当たり前にできた。
女神さまの顔を見た。
腕を押さえてくれていた手も、すぐには離れなかった。
私の表情を確かめるように目を上げ、そこでようやく、少し息をついた。
その顔を見たら、胸がぎゅっとした。
私が痛くなくなったことに、この人も安心してくれている。
好きだ、と口にしたくなった。
でも、その前に、ちゃんと伝えたいことがあった。
「……ありがとう」
女神さまは、うなずいた。
何かを言おうとして、あの子が消えた扉を見て、またうつむいた。
私を治してくれたばかりの手が、今度は、何かに耐えるみたいに握られる。
女神さまも、あの子が気になっている。
もう姿が見えなくなった子のことを、一緒に考えてくれる人がいる。
あの子を置いたまま話が続くこの場で、そのことだけが、少し心強かった。
「騒がせたな。では、旅立ちについてだが」
王様が、話を再開した。
私は、治った腕に触れた。
魔王を倒してほしい。
この国を救ってほしい。
さっきまで、そう言われていた。
私はもう痛くない。
あの子は、今も痛い。
このまま城を出ていく気には、なれなかった。




