第1話:女神さま、あなたが欲しい
「剣を極める才能、尽きることのない魔力、あらゆる物の価値を見抜く目。第二の人生を支える〈ギフト〉として、さまざまな力をご用意しております」
柔らかな声に合わせ、銀色の文字が宙に並んでいく。
それを、私はぼんやりと眺めていた。
足元も、頭の上も、果てのない白。
目の前にいるのは、長い髪を背に流した女性が一人。白と淡い青の衣をまとった彼女は、ティアラという女神さまなのだそうだ。
ここは天界。そして私は、死んだらしい。
栗花落ゆりあ。二十四歳。会社員。
ついさっきまで、そういう人間だった。
「魔王の脅威にさらされている異世界へ、日本で亡くなられた方の中から、勇者となる方をお招きしております。あなたにも、そのお力添えをお願いしたいのです」
なるほど。読んだことのある展開だ。
ここで強い力をもらって、剣と魔法の世界へ。ゲームも読書も百合目当ての私だけど、こういう始まり方には覚えがある。
それで、どの力にするかというと。
正直、全部どうでもよかった。
「……お悩みでしょうか?」
「うん」
「大切な選択ですものね。どうぞ、ごゆっくり。あなたが心から望まれるものを、お一つお選びください」
違う。選べなくて困っているんじゃない。
さっきからずっと、別のことを考えている。
仕事帰りの横断歩道。
隣を歩いていた、同じ部署の女の子。
こちらへ突っ込んでくる車に気づいたときには、彼女の肩を押していた。
手のひらに残った、細い肩の感触。
クラクション。
振り返った彼女の顔。
そこから先は、何も覚えていない。
いつもなら、彼女の隣を歩くときにさえ、距離を気にしていた。もう少し近づきたい。でも、近づきすぎて気づかれるのは怖い。肩が触れそうになるたび、一人で勝手に忙しかった。
あの瞬間だけは、そんなことを考える暇もなかった。
ただ、彼女がいなくなるのが嫌だった。
「あの子は」
女神さまが説明を止めた。
「私と一緒にいた子。あの子、どうなったの?」
押し出した先は歩道だったはずだ。でも、あれで本当に間に合ったのか。
私が死んだのは分かった。そこはもういい。
ただ、彼女まで死んでいたら。
「ご無事ですよ」
胸の奥に詰まっていた息が、ようやく外へ出た。
「お二人とも病院へ運ばれましたが、あの方はほとんどお怪我もなく。その日のうちに、ご自宅へ帰られています」
「そっか……」
膝から力が抜けた。
何もない白い床にへたり込んで、私は自分の顔を両手で覆った。
「よかった。ほんと、よかった……」
死ぬのは嫌だ。まだやりたいこともあった。
それでも、彼女が今もどこかで息をしているなら。
また、あの声で「おはよう」と言うのだろう。
コーヒーを飲んで、仕事をして、ちょっと疲れた顔で笑うのだろう。
私がもう見られなくても、その毎日が続いている。
そう思ったら、胸の奥が痛いくらい温かくなった。
「ええ。今はご結婚もされて、お幸せに暮らしていらっしゃいます」
私は顔を上げた。
「けっこん?」
「はい」
「誰が?」
「あの方が」
「誰と?」
「交際されていた男性と」
白い世界が、もう一段白くなった気がした。
彼氏。
いたんだ。
仕事が終わったあと、彼女が会いたくなる人がいた。
私が一日何度も思い出していた笑顔を、もっと近くで見られる人が。
知らなかった。知ろうともしなかった。
それなのに、お腹の底がすうっと冷えていく。
「ちょっと待って。私、今さっき死んだんだよね? その間に、何が、どこまで進んだの?」
「あなたの魂がこちらで目覚めるまでに、あちらでは一年ほど経っておりますので……。求婚されたのは、事故のあった日ですが」
「事故のあった日?」
女神さまは、胸元へ手を重ねた。
「病院へ駆けつけた恋人の方が、無事なお姿を見て、大変安堵されたそうです。それで、おっしゃったのです。『今度は俺が君を守る。結婚してほしい』と」
ちょっと待て。
「守ったの、私なんだけど!?」
「はい。それはもちろん、あなたです」
「私が守ったその日に!?」
「は、はい……」
「私の死をプロポーズの演出に使わないでよぉ!!」
床をぺちんと叩いた。
痛かった。死んでも手は痛いのか。余計な機能だけ残っている。
「『今度は俺が』って何!? 私の出番、もうないんだけど! バトン渡した覚えもないんだけど!!」
声を張ったら、涙まで出てきた。
ひどい。
彼女が助かって、本当によかったと思っている。
幸せに暮らしているなら、それだって嬉しい。
でも、その幸せな話の中に、私が入る余地はもうなかった。
残業中、机にそっと置いてくれた缶コーヒー。
仕事が片づいたあと、こちらに向けてくれる笑顔。
二人で帰れた日は、駅までの道がいつも短かった。
コーヒーが私の好きな銘柄だった日は、それだけで、帰ってからも機嫌がよかった。たまたまかもしれないのに、覚えていてくれたのかな、なんて何度も考えた。
飲み終えた缶を捨てるとき、ちょっとためらったことまである。
さすがに捨てた。捨てたけど、一度はためらった。
自分でも、そこはどうかと思う。
駅までの信号が赤だと、少し嬉しかった。
立ち止まって、彼女の話の続きを聞ける。その横顔を、あと少しだけ見ていられる。
青に変わるのを残念がっているなんて、きっと知らなかっただろう。
好きだった。
彼女のする何でもないことを、勝手に特別にしてしまうくらい。
彼氏がいるのか、聞いたことさえなかった。
聞いたら、どうしてそんなことを気にするのかと思われそうで。
職場で恋愛の話になれば、「今は仕事かなあ」と笑っていた。
本当は、すぐそばに好きな人がいるのに。
彼女の声が聞こえるたび、用事がなくても振り向きたいくらいなのに。
みんなと同じ調子で相づちを打っている自分の声を、どこか遠くから聞いているような気がした。
女の子が好きだなんて、言えなかった。
一度だけ、言ったことはある。
中学二年の夏。幼馴染の顔と、困ったような「ごめんね」。
あれからは、誰かを好きになるたび、普通の友達のふりをしてきた。
あの夏のあと、教室に入るだけで胸が苦しくなった。
廊下で彼女に会ったら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。昨日まで何も考えずにできていたことが、一つずつ、怖いことに変わっていった。
また、あんなふうになるのが嫌だった。
だから「好き」を隠すことだけは、どんどん上手くなった。
家で読む本や遊ぶゲームの中なら、女の子同士が手をつないでいても、素直に嬉しかった。ようやく想いを伝えた二人に、よかったね、と何度でも思えた。
自分の番になると、たった一言が言えなかった。
「……好きって、言えばよかった」
言ったところで、振られたかもしれない。
それでも、自分で言って、自分で返事を聞きたかった。
最後まで隠したまま、人生が終わるなんて思わなかった。
明日なら、もう少し勇気が出るかもしれない。
次に二人で帰れたら、ご飯に誘えるかもしれない。
そんな「次」を、何度も見送った。
最後の一回にも、ちゃんと次があるつもりでいた。
「好きだったんですね」
女神さまが、私の前に膝をついた。
うなずくと、そっと背中へ腕が回された。
驚いて顔を上げた私を、そのまま胸元に抱き寄せる。
頬に触れた布が、柔らかかった。
近くに人の呼吸がある。背中には、手のひらの温度がある。
一瞬、どこに手を置けばいいのか分からなくなった。泣いているくせに、抱き締められていることまで意識してしまって、身体がこわばる。
それに、なんだか、いい匂いがする。
……いや、今は泣くところでしょ。
なんで鼻だけ急にやる気を出してるの。
「ずっと、お一人で抱えていらしたのですね」
背中を撫でる手は、ゆっくりだった。
女の人を好きだったと分かっても、腕をほどかない。
困った顔も、気まずそうな顔もしない。
そのことが嬉しくて、余計に涙が止まらなくなった。
迷惑じゃないだろうか。服を濡らしてしまっている。
そろそろ離れなきゃ、と思うのに、背中の手が動くたび、もう少しだけと思ってしまう。
おそるおそる、彼女の衣をつかんだ。
追い払われなかった。
こんなふうに、甘えてもいいんだろうか。
好きだった人のことを話して、悲しいと言って、誰かに慰めてもらっても。
私が次の言葉を探して黙ると、女神さまも黙って待ってくれた。
急いで泣きやむ必要がないのだと分かって、ようやく、肩の力が抜けた。
「……もう、嫌だ」
「はい」
「自分に嘘つくの、もう嫌だ。好きなものは好きって、ちゃんと言いたい」
女神さまが、私の言葉を待ってくれている。
私は鼻をすすり、どうにか息を整えた。
「今度は、そうやって生きたい」
可愛いと思ったら、可愛いって言いたい。
一緒にいたいときには、もう少し一緒にいて、と言いたい。
好きな人の隣を歩くときくらい、手が触れるのを怖がらずにいたかった。
少しだけ身体が離れた。
女神さまの指が、私の頬に残った涙を拭った。
「では、そのお気持ちを大切になさってください」
近くで、彼女が微笑んだ。
そこでようやく、私はちゃんと彼女の顔を見た。
肩から滑り落ちる、淡い銀色の髪。
少しだけつり上がった目元は柔らかく、青紫の瞳が、まっすぐ私を見ている。
自分の泣き顔が映りそうなくらい近いのに、こちらが気まずくなるようなそぶりもなく、ただ優しく笑ってくれている。
うわ。
やば。
この女神さま、めちゃくちゃ美人。
目が合う。
それだけで、頬を拭ってくれている指の感触が、急にはっきりした。
近い。綺麗。近すぎる。
さっきまで、この人にしがみついて泣いていたのか、私は。
自分が今、どんな顔をしているのか気になり始めた。目は赤いだろうし、鼻だって、たぶんひどいことになっている。
もうちょっと、どうにかならなかったのか。
第二の人生の初対面である。できれば、可愛い顔で会いたかった。
彼女が首をかしげると、銀色の髪が、頬の横をさらりと滑った。
綺麗。あの髪を毎朝とかせる櫛、ずるくない?
私もなりたい。
いや、人間としてやり直させてもらった直後に、道具への転生を希望するな。
さらりとした綺麗な髪。優しい目元。人を包み込むような微笑み。
昔から、こういう人が好きだった。
女神さまみたいな人と出会えたら、なんて何度も思っていた。
女神さま本人が来た。
「ゆりあさん?」
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。
苗字でも、勇者でもなく、ゆりあさん。
ただ呼ばれただけなのに、私自身を見つけてもらったみたいで、くすぐったい。
返事をしなくちゃいけないのに、声の柔らかさばかりが耳に残る。
今の声、保存できないかな。寝る前に、耳元で聞きたい。
それはもう、寝る気がないのでは。
今の、もう一回言ってほしい。
できれば、明日も。
明後日も、その次も。
朝、顔を合わせて、おはようと言って。
同じものを食べながら、どうでもいい話をして、今みたいに笑ってほしい。
まだ会ったばかりの人なのに、そんな何でもない時間を、いくつも思い浮かべてしまった。
……いや、待とう。
さっきまで別の女の子のことで泣いていた口で、私は何を考えているんだ。
でも、綺麗だと思った。
優しくしてもらえて、嬉しかった。
離れたくないと思ってしまった。
あの子を好きだった気持ちが、なくなったわけじゃない。
思い出せば、今だって痛い。
それでも、頬に触れるこの手を、今、好きになっている。
きっと、ここを出ていけば、彼女はまた誰かを迎えるのだろう。
その人にも、こんなふうに優しく笑うのだろう。
そう考えた途端、さっきまで心地よかった指先が、離れてしまいそうで惜しくなった。
この人の笑顔を、もっと見たい。
その笑顔を向けてもらうのが、私だったらいい。
それを隠して、また何も言わずに別れるのか。
言えば、困らせるかもしれない。
今、私を見ているその目が、変わってしまうかもしれない。
そう思うと、やっぱり喉が狭くなった。
私はまだ、女神さまの衣をつかんでいた。
指を一本ずつほどいて、息を吸う。
もう、自分に嘘はつかない。
今、そう決めたばかりだ。
「あなたが好き」
「……はい?」
女神さまの手が、私の頬に触れたまま止まった。
言えた。
言えてしまった。
一度口にしたら、胸につかえていたものが、すっと抜けた気がした。
恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。
顔が熱いし、返事を待つのも怖い。
でも、彼女に聞こえた。
私がこの人を好きだということが、ちゃんと、私の声で届いた。
それが、信じられないくらい嬉しかった。
「大好き。だから、異世界に行くなら、あなたが欲しい!」
その瞬間、足元が光った。
白い床に銀色の線が走り、私たちの周囲を円く囲む。
宙に並んでいた文字がほどけ、一つの言葉だけが、目の前で強い光を放った。
――最愛の伴侶との縁を結ぶ。
「……あら?」
女神さまが、ゆっくりとその文字を見上げた。
次に私を見る。
もう一度、文字を見る。
「えっ」
「え?」
私の手首から、細い光の糸が伸びていた。
その先は、女神さまの手首につながっている。
「ま、待ってください。このギフトの対象は、あなたが最愛とするお相手で……」
「うん」
「どうして、私に?」
「今、言ったとおりだけど」
「お会いしたばかりですよ!?」
そうなのだ。
私も、それはちょっと思った。
けれど、彼女はまだ私の肩に手を添えてくれている。
こんなに慌てているのに、泣いていた私を気遣ってくれている。
下がった眉も、忙しく私と文字を行き来する視線も、さっきまで知らなかった表情だった。
あ。困っている顔も可愛い。
私が困らせたのに、そんなことを思ってしまう。
笑った顔も、怒った顔も、これからもっと知りたい。
やっぱり好きだ。
「あ、あの、選び直しを……いえ、その前に転送を止めないと……!」
女神さまが私の手を取り、慌てて立ち上がった。
引かれるまま腰を浮かせた瞬間、足元の白が、ふっと消えた。
「ひゃっ!?」
可愛い悲鳴が聞こえた。
光が弾ける。
身体が落ちる。
私はとっさに、つないだ手を握り締めた。
「ティアラさま!」
「は、はいっ!」
「これから、よろしくお願いします!」
「今するご挨拶でしょうかあああ!?」
返事は、どこまでも長く尾を引いた。
こうして、私の第二の人生は始まった。
女神さまの手を、しっかり握ったままで。




