第13話:帰ってこられる場所
目を覚ましたら、女神さまがこちらを見ていた。
銀色の髪が、枕の上へ流れている。
毛布からのぞいた顔は、すぐ近くにあった。
「おはようございます」
小さな声だった。
私は、しばらく返事を忘れた。
おはようございます、って。
それを、その距離で言っていただける朝が、私の人生に存在するんですか。
もう一度寝たら、もう一度言ってもらえるだろうか。
いや、欲張っている間にこの朝を失うのは、あまりにも惜しい。今すぐ起きよう。起きて、目と耳に仕事をさせよう。
「……おはよう」
どうにか返すと、ティアの目元が和らいだ。
「よく、お休みになれましたか」
「うん。ティアは?」
「はい。途中で一度、目が覚めましたけれど」
そう言って、視線が少し下がる。
私は、つられて自分の手を見た。
ティアの袖を握っていた。
きっちりと。
布のしわに、自分の執念が見える。
「あっ、ごめん。引っ張った?」
「いいえ。お眠りでしたので、そのままにしておりました」
慌てて手を開く。
伸びてしまった袖を直そうとして、手がぶつかった。
ティアが、小さく笑う。
私は、その顔を見て、今がどこなのかを思い出した。
ゴブリン王国国境の詰め所。
貸してもらった、休憩用の部屋。
昨日の夜は、空いていた寝具を隣同士に並べた。
横になる前、ティアに、もう少し手を借りてもいいかと聞いた。
借りすぎだった。
朝まで借りるつもりでは、なかったはずなのに。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ティアは体を起こし、私の髪へ手を伸ばした。
「ここ、はねております」
指先が、耳の上をそっと押さえる。
私は、また動けなくなった。
それ、今まで私がやりたかったほうのやつです。
好きな子の寝癖を直して、まだ眠そうな顔に笑って。
そんな朝を何度も想像したことはあるけれど、される側の心構えについては、ほとんど考えてこなかった。
これは、まずい。
この人が毎朝こうしてくれるなら、私は寝癖を直す技術を永久に失ってしまうかもしれない。
「起きたかい!」
扉の向こうで、声がした。
私は反射的に飛び起きた。
「仕事!?」
「飯だよ!」
ちょっとだけ、間があった。
「あーしの声で、何を思い出してんだい」
隣で、ティアが吹き出した。
私は毛布を膝の上へ引き寄せた。
怒鳴られたのに、妙にほっとしてしまった。
朝ご飯を、食べていいのだ。
急いで城へ行かなくても。
誰かの帰りを待ちながら、冷めたパンをかじらなくても。
隣にいる人と一緒に、起きて、食べる。
そんな朝が、ちゃんと来ていた。
*
国境では、二晩休んだ。
帰り先が決まっている人は、迎えの家族や護衛と一緒に、それぞれの村へ向かった。まだ休まなければならない人、住むところを探す人には、詰め所の人たちが話を聞いていた。
ミラさんは、鍋のそばで忙しそうにしていた。
「パンを焼く場所さえ借りられりゃ、こっちでも何とかなるよ」
腰に下げた鍵を、服の内側へしまいながら言った。
あの町の家を、忘れたわけではないのだと思った。
今は、ここで食べるものを作る。
そう決めた人の顔をしていた。
私たちが姫と一緒に出発したのは、その翌朝だった。
ゴブリンの騎士たちが、馬車の前後を守ってくれる。
剣を提げた人が近くにいると、まだ少し、体に力が入った。
けれど、その人たちは、車輪が深い溝にはまらないよう道を確かめてくれたし、休憩になると、先に水を持ってきてくれた。
私は、少しずつ肩を下ろした。
姫は、馬車の窓から外を見ていた。
知っている道へ近づくたびに、顔が動く。
「あそこの水車、羽根が新しくなっているのだわ」
誰にともなく、つぶやいた。
エスメラルダが、身を乗り出して見た。
「まだ動かしてたんだね」
「当然なのだわ。あそこが止まったら、小麦を挽くのに困るでしょう」
言ってから、姫は少し黙った。
窓枠に置いた手の指が、ゆっくり伸びた。
「……動いていて、よかった」
私も、窓の外を見た。
水が、木の羽根を押していた。
姫がいなかった間も、この国で暮らしていた人たちがいる。
壊れたところを直して、水が流れるのを待っていた人が。
あの子が帰ってきたときに見つけられるものを、残してくれていた。
私は、隣のティアへ少し体を寄せた。
ティアは外を見たまま、小さくうなずいた。
*
ゴブリン王国王都は、私が最初に召喚された町よりも小さかった。
石造りの家が並び、通りのところどころに、修理中の屋根が見える。
開いていない店もあった。けれど、パンを売る声はしたし、木箱を運ぶ人が道を横切るたび、馬車の速度が落ちた。
建物の扉が、全体的に低い。
降りて通りを歩くと、私は何度も頭を下げることになった。
エスメラルダは、慣れた様子で少しかがんで通っていく。
この国だと、あの人は背の高いお姉さんなのだ。
いつもより、そのことがよく分かった。
いいな。
人間の町で見る、小柄で迫力のあるお姉さんもいい。
故郷で見る、すらりとした背の高いお姉さんもいい。
一人で二種類のお姉さんを供給できる。
すごい。
私の感性が単純なだけかもしれないけれど、すごいものはすごい。
「足元を見な。段差だよ」
言われて、慌てて前を向いた。
姫の帰還は、すぐに広まった。
呼び止める声がした。
店の奥から人が出てきた。
手を伸ばしかけて、ためらう人には、姫のほうから近づいた。
「戻ったのだわ」
何度も、そう言った。
泣く人もいた。
笑う人もいた。
姫が返す声は、最初の一度より、二度目のほうが、少し大きかった。
お城へ着くころには、その声が、ちゃんと通りに響いていた。
*
姫のお父さんは、生きていた。
戦争が始まったころの病からは、回復していたのだという。
けれど、娘と民を人質に取られたまま、兵を向けることもできずにいた。
出迎えた王様は、姫の顔を見ると、一度、何かを言いかけた。
それから、膝をついた。
姫が立ち止まった。
「……お父様」
そのあとは、あっという間だった。
小さな体が駆け出して、王様の腕の中へ飛び込んだ。
私は、少しだけ後ろへ下がった。
ティアも、隣へ来た。
王様の手が、赤みがかった髪を何度も撫でていた。
姫は何か文句を言おうとしていたけれど、途中からうまく声にならなくなった。
あの子が、こんなふうに泣けるところを、初めて見た。
私は、ここまで来たのだと思った。
お城から外へ出すだけでは、見ることのできなかった顔だった。
王様が私たちへ顔を向けたのは、少ししてからだった。
「娘と、我が民を連れ帰ってくれたと聞いた」
私は、背筋を伸ばした。
王様だ。
ちゃんと話さなきゃ。
そう思ったとき、その頭が下がった。
「礼を言う」
私は、用意しかけていた言葉を忘れた。
どういたしまして、では軽いだろうか。
いえいえ、も違う気がする。
結局、隣を見た。
ティアも、どうすればいいか分からない顔をしていた。
少しだけ安心した。
「……皆で、帰ってきました」
私は、そう答えた。
エスメラルダも。
リゼさんたちも。
仕事場の内側から動いてくれた人も。
馬車を出してくれた人も。
私の隣で、手を伸ばしてくれた人も。
王様は、うなずいた。
それから、入口に近いところへ目を向けた。
エスメラルダが、片膝をついていた。
白い髪が、伏せた顔を隠している。
王様が口を開くより先に、姫が言った。
「エスメラルダには、わたくしから、まだ聞くことがあるのだわ」
その声が、思った以上にはっきりしていた。
「ゆっくり、話をするの。誰にも、途中で出ていけとは言わせないのだわ」
エスメラルダが、顔を上げた。
王様は娘を見て、それから、静かにうなずいた。
その日の夕方、私たちは城の庭へ呼ばれた。
花壇のそばに、低いテーブルがある。
椅子に座ると、私の膝は少し高いところへ来てしまった。
ティアも、座り方を確かめている。
私たちは目を合わせて、ちょっと笑った。
向かいの姫は、薄いクリーム色の服に着替えていた。
柔らかな布の上で、赤みがかった髪が揺れる。
黒い眼の中で、金色の瞳がくるりと動く。今までよりも、ずっと表情が豊かに見えた。
そんなところに皺が寄るのか、と、私は思った。
眉間だ。
主に、エスメラルダを見ているときに寄っていた。
「座るのだわ」
姫が言った。
「その前に、姫――」
「座って、話すのだわ」
エスメラルダが、椅子へ腰を下ろす。
その手前へ、パンの皿が置かれた。
「食べながらで、構わないのだわ」
私は、その皿を見た。
国を出る日に渡した食べ物の話を、思い出した。
エスメラルダも、思い出したのだと思う。
パンには、すぐに手を伸ばさなかった。
「何から、お話しすれば」
「どうして、わたくしに何も説明せずにいなくなったのか。そこからなのだわ」
エスメラルダが、姫を見た。
それから、少し背筋を伸ばした。
冬の村で起きたこと。
部下が、許可を待たずに食料を配ってしまったこと。
足りなくなった物資を、自分の金で補ったこと。
そのあとで、命令書を偽ったこと。
姫は、口を挟まずに聞いていた。
「巻き込みたく、なかったんです」
エスメラルダが言った。
「ご自分の護衛をかばったと、言われるようなことには」
姫は、少しの間、黙っていた。
テーブルに置いた両手を見つめる。
「わたくしが、困ると思ったのね」
「はい」
「……いなくなられたときも、困ったのだわ」
エスメラルダの指が止まった。
「何も聞かせてもらえなかったから。あなたが帰ってこないことしか、分からなかったから」
姫が顔を上げた。
「心配してもいいでしょう。怒ってもいいでしょう。あなたのしたことを聞いてから、わたくしが考えても、よかったでしょう」
声は、最後まで大きくならなかった。
エスメラルダが、頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
姫は、しばらく、その白い髪を見ていた。
それから、パンの皿を、もう少し近くへ押した。
「今度は、食べるのだわ」
エスメラルダが、顔を上げる。
「お話は、まだ終わっておりませんが」
「終わるまで食べないつもりだから、言っているのだわ」
返す言葉を探したらしい口が、閉じた。
私は、うっかり笑いそうになった。
ティアも同じことを思ったのか、杯へ口をつけている。
エスメラルダは、小さく息を吐き、パンを手に取った。
姫は、それを一口食べるまで見ていた。
ああ、この二人。
私は、テーブルの下で足をそろえ直した。
ずっと離れていたのに、こういうところは、少しも離れていなかったんだ。
*
話の途中で、一人の女性が庭へ入ってきた。
騎士団の制服を着た、ゴブリンの女性だった。
緑色の髪を後ろでひとつに束ね、両手で大きな封筒を抱えている。
エスメラルダが、立ち上がった。
「……フィナ」
女性の足が止まった。
「副団長」
「もう違う」
そう返した声が、少しかすれた。
フィナさんは、笑おうとした。
でも、その前に目が赤くなった。
私は、誰なのか分かった。
エスメラルダが話してくれた、あの部下だ。
「姫様から、今日なら会えると聞いて」
封筒を、差し出す。
「手紙です。国境で便りを受けてもらえなくなってからの分も、全部」
エスメラルダは、すぐには受け取らなかった。
フィナさんの顔を見て、それから、肩と腕へ目を動かした。
「怪我は」
「ありません」
「飯は」
「食べています」
聞き覚えのある順番だった。
私は、少しだけ笑った。
姫も、同じ顔をしていた。
エスメラルダは、ようやく封筒を受け取った。
「そうかい」
それだけ言った。
たったそれだけを言うのに、ずいぶん時間がかかった。
フィナさんは、もう一つ、小さな袋を出した。
「返済分です。まだ、全部ではないんですけれど」
エスメラルダが、袋へ目を落とした。
私は、先に謝るのかと思った。
違った。
彼女は、袋を手の上で確かめて、うなずいた。
「受け取った。あとで、残りも書いて渡すよ」
「はい」
フィナさんの声が、さっきよりしっかりした。
「今は、倉の出入りを記録する仕事をしています。配る予定と、残す分も、一緒に見るようにして」
少し、ためらった。
「……分からないときは、聞いています」
エスメラルダが、目を細めた。
「そりゃ、いい」
フィナさんが、今度こそ笑った。
私は、その顔を見ながら思った。
あの冬の話には、続きがあったのだ。
エスメラルダが知らなかった間にも、この人は、覚えることを増やしていた。返すための金を分けて、送れなくなった手紙を書いていた。
もう会えないかもしれない人の話を、私たちは聞いていた。
その人が、今、目の前で笑っている。
ティアの指が、私の手へ触れた。
見れば、嬉しそうに笑っていた。
私は、ほんの少しだけ、身を寄せた。
いい顔をしている女の子が、ここには、たくさんいる。
それでも、こういうときに、まず隣の顔を見てしまうのだ。
*
エスメラルダの話は、そのあと、王様と騎士団にも伝えられた。
私たちは、別の部屋で待った。
待っている間、私は何度か立ち上がりかけた。
うまく話せているだろうか。
今度は、自分だけで全部決めてしまわないだろうか。
でも、姫が一緒にいる。
それを思い出して、座り直した。
夕食の前、戻ってきたエスメラルダは、まず椅子へ腰を下ろした。
「あー、腹が減った」
姫が、その隣に立った。
「帰ってきて、構わないのだわ」
私は、顔を上げた。
「追放を解くと、お父様が。正式な書状も、用意してくださるのだわ」
「……ほんとに?」
「ここで嘘を言ってどうするの」
姫の口元が、少し上がった。
私は、エスメラルダを見た。
彼女は両手を膝の上へ置いていた。
何も持っていない手を、一度、握って開いた。
「国へ帰れと言われたわけじゃない。ここで暮らしていい、ってことだよ」
その言い方が、いかにも、この人らしかった。
私は、うなずいた。
「うん。エスメラルダは、どうしたい?」
彼女は、少し黙った。
それから、窓の外を見た。
庭の向こうで、物資を積んだ車が止まっている。
荷を下ろす人へ、フィナさんが帳面を持って駆け寄っていた。
「……まずは、こっちで働くさ」
エスメラルダが言った。
「家も、店も、直さなきゃならないところが山ほどある。働き口を探してるやつもいる。金の集め方と使い方なら、少しは知ってるからね」
姫の顔が、明るくなった。
エスメラルダは、それを見て、困ったように鼻をこすった。
「騎士に戻るかどうかは、また別の話だよ」
「分かっているのだわ」
返事が、やけに速かった。
「とりあえず、明日は倉を見てちょうだい。それから、職人の組合の人が来るの。お店を出したい人の話も――」
「待ちな。明日が何日分あるんだい」
私は、笑ってしまった。
エスメラルダが、こちらをにらむ。
でも、その顔は、初めて私たちを追い返した夜のものではなかった。
行き先を、選べたのだ。
私たちと一緒に国境を越えるだけでは終わらなかった、この人の帰り道が、ようやく、ここまでつながった。
嬉しかった。
それから、少しだけ、寂しかった。
この人と旅をしたら、きっと楽しいだろうと思っていた。
知らない町で、怖い顔をしたお姉さんが急に可愛い声で注文を取るところを、もっと見てみたかった。
でも、ここにも、私の知らなかった顔がある。
その顔を見られたことが、今は嬉しかった。
翌々日の朝、私たちは改めて王様の前へ呼ばれた。
今度は、ちゃんとした服を着ていた。
私の服は、王都の仕立屋さんが急いで直してくれたものだ。
肩の位置を合わせ、裾を下ろし、胸のところは、一度見ただけで無言になってから、別の布を持ってきてくれた。
すみません。
そこだけ、融通が利かなくて。
ティアは、淡い青色の服を着ていた。
銀色の髪に、とてもよく似合う。
あのリボンも、いつもの位置に結んである。
私は、三回くらい横を見た。
「……何か、ついておりますか」
「もちろん。かわいいお顔がしっかりと!」
「先ほども、伺いました」
小声で返された。
だから、まだ三回しか言っていない。
何回でも言えるし、今なら十回連続で言っても、そのたびに違うかわいいところを添えられる。
でも、さすがに王様の前だったので、残りはあとで言うことにした。
王様はまず、帰還した人々の受け入れについて話した。
国境の守りを増やし、近隣の国へも使者を出したという。
何があったのか、こちらからも伝えなければならない。
人間の王国との話し合いも、これからだった。
全部が片づいたわけではない。
それでも、王様は、戻ってきた民を再び引き渡すことはしないと言った。
姫は、その隣で、まっすぐ前を見ていた。
私は、静かに息を吐いた。
あの子が一人で、帰る人と残る人を選ばされる場所には、戻らなくていい。
それだけは、聞けてよかった。
エスメラルダには、追放を解く書状が渡された。
昔の書類を偽ったことが、なくなるわけではない。
けれど、国を離れてからも民を支え、今度は姫と人々を連れ帰った。その働きを認めてのことだと、王様は言った。
エスメラルダは、短く礼を述べた。
書状をしまうとき、その端を折らないよう、指でそっと押さえていた。
王都へ招かれていたリゼさんたちにも、護衛の礼が伝えられた。
お金の入った袋を受け取る手つきが、堂々としている。
ちゃんと働いて、ちゃんと受け取る。
それも、少し格好よかった。
私たちの名前が呼ばれたのは、そのあとだった。
「ゆりあ、そしてティアラ。二人を、この国の名誉市民として迎えたい」
私は、瞬きをした。
名誉市民。
響きが、急にすごい。
頭の中に、何となく金色の文字が浮かんだ。
私の想像する偉いものは、だいたい金色である。
ティアが、そっとこちらを見た。
私も見た。
二人とも、何を言えばいいか、まだ決まっていなかった。
王様は、そんな私たちの前へ、小さな箱を置かせた。
「城下に、使節や商人を泊めるために建てた家がある。今は空いている。気に入れば、そこを二人に贈ろう」
箱が開いた。
鍵が、二本入っていた。
私は、それを見た。
鍵だ。
家の。
「……住んで、いいんですか」
「もちろんだ」
「一晩ではなく?」
隣でティアが、口元を押さえた。
笑った。
今、笑いましたね。
だって、確認は大切でしょう。
初めてこの世界で確保した寝床は、翌朝になったら勤務先へ変わっていたんだから。
王様も、少し笑った。
「二人の家だ。いつ帰ってきてもよい」
私は、もう一度、箱の中を見た。
鍵は、光り輝くほど立派なものではなかった。
何度も使われたのだろう。持ち手の角が丸くなっていて、片方には小さな傷がある。
でも、そこへ指を伸ばす前に、隣を見た。
「ティアは、どう?」
ティアは、鍵を見つめていた。
「……おうち、ですね」
「うん」
少し、間が空いた。
「帰ってきてもよい場所があるのは、嬉しいです」
その声を聞いて、私も嬉しくなった。
私たちは、うなずいてから、一緒に頭を下げた。
鍵の箱と一緒に、当面の暮らしと旅の足しに、と礼金も渡された。
*
家は、通りから少し入ったところにあった。
小さな庭のついた、二階建てだった。
窓枠の塗装が、ところどころ薄くなっている。
庭には草が生えていた。
けれど、扉はちゃんと閉まるし、屋根にも穴はないらしい。
そして何より、入口が高かった。
普通に、立ったまま入れる。
人間の客を迎えるために建てたのだと、姫が教えてくれた。
「中の掃除は、一度してもらっているのだわ。足りないものは、あとで確かめるの」
姫が、先へ立って庭を歩く。
私は玄関の前で、鍵を手に持った。
差し込む。
回す。
中で、小さな音がした。
扉を押すと、木と、少しだけ古い布の匂いがした。
一階には、テーブルのある部屋と台所。
二階には、寝室が二つ。
棚は空だった。
窓を開けると、庭の草が風に揺れた。
私は、部屋の真ん中へ立った。
何をしてもいいのだろうか。
いや、家を壊すとか、そういう話ではなくて。
棚に本を置いてもいい。
気に入った杯を買って、台所へ並べてもいい。
疲れて帰った日に、上着を脱いで、ちょっとだらしなく椅子へ座ってもいい。
次の日になったら出ていかなければならない部屋ではない。
私は、手の中の鍵を握り直した。
前の世界で、自分の部屋へ帰る時間は、嫌いではなかった。
好きな本を読んで、ゲームをして。
誰にも合わせず、好きな女の子たちの物語を眺められる時間だった。
それでも、玄関の外で飲み込んだ言葉を、部屋の中に持って帰る日はあった。
今日も、本当のことを言わなかった。
そう思いながら、靴を脱いだ日が。
「ゆりあさん」
階段の上から、声がした。
ティアが、手すりのところに立っていた。
「どちらのお部屋に、なさいますか」
私は、その顔を見上げた。
同じ玄関から入って。
別々の部屋で眠るとしても、朝になれば、同じ階段を下りてくる。
そういうことなんだ。
理解が、少しずつ追いついてきた。
女神さまと、同じ住所。
私は思わず、近くの椅子へ手をついた。
「どうなさいました!?」
「大丈夫。今、ちょっと、大きな事実を受け止めてる」
「具合が悪いのですか」
「そういうことではなくて。あの、これって、かなり、その、一緒に暮らす感じだよね」
ティアが黙った。
私も、自分で言ってから黙った。
階段の下で、姫が腕を組んだ。
「二人に家を贈ったのだから、そうなのだわ」
ご説明、ありがとうございます。
そこで、そんなに素直にうなずける精神状態ではないんです、こちらは。
エスメラルダが、窓を開けながら言った。
「屋根の下で口説く暇があるなら、先に荷物をほどきな」
私は、背中の荷物へ手をかけた。
はい。
分かりました。
幸せも、順番に処理しないと、仕事が止まる。
その日の夕食は、新しい家で作ることになった。
食材を持ってきたエスメラルダが台所へ入った時点で、だいたい、そうなる気はしていた。
「鍋はあるね。包丁も、まあ、研げば使えるか」
次々に確かめていく。
私は、戸棚の中を拭きながら聞いた。
「エスメラルダ、ここ、初めて来たんだよね」
「台所だろ。違う場所に火口があるだけだ」
格好いい。
たぶん今の私は、女の子が自信を持って何かをするところに、とても弱い。
いや、慌てながら一生懸命やっているところにも弱い。
何もしていないところにも、別に強くはない。
だいたい、いつも負けている。
「そこの紐、結んどくれ」
エスメラルダが、前掛けの端をこちらへ差し出した。
「はい」
反射的に返事をした。
少し身をかがめて、背中側で結ぶ。
白い髪が邪魔にならないよう、本人が手で持ち上げていた。
うなじが見える。
やめよう。
やめるというのは、見るのをやめるという意味ではなく、今から余計なことを口走りそうな自分を止めるという意味で。
「エスメラルダって、こういう格好も、すごく似合うね」
手遅れだった。
「店でも着てただろ」
「うん。でも、うちの台所にいると、また違って見える」
「うちの、って言いたいだけじゃないのかい」
少し、ある。
かなり、あるかもしれない。
でも、本当に似合っていた。
慣れた手つきで鍋を持つ姿を見ていると、あの酒場で一緒に働いた日が、もう懐かしかった。
「ゆりあさん」
声がした。
振り向くと、ティアが皿を持って立っていた。
「あの、わたくしは……」
途中で言葉を止め、手に持った皿を見る。
「こちらも、わたくしたちの台所に合っているでしょうか」
白い皿だった。
最初から、戸棚に入っていたものだ。
「うん。使いやすそう」
「……そうですね」
ティアは皿を見た。
それから、少しだけ耳を赤くした。
「いえ。何でもございません」
何でもない、という顔ではなかった。
私は、もう一度その皿を見た。
何か、返事を間違えただろうか。
考えていると、姫が台所をのぞき込んだ。
「塩はどこなのだわ?」
「ティア、四人分の器、先に並べられる?」
私の声と重なった。
ちょうど、鍋の蓋も、かたかたと鳴った。
「あ、はい。お塩を、四つ――ではなくて、お皿を、その前に、お鍋が」
ティアの足が、三つの方向へ行きかけた。
「私が火を見るよ」
私は鍋のそばへ行った。
「塩は、姫の右の棚。ティアは、そのお皿をお願い」
「は、はい」
ティアが、皿を持ち直した。
私は蓋を少しずらし、吹きこぼれる前に火を弱めた。
エスメラルダが、切った野菜を寄せながら笑った。
「口を動かしながらでも、手は止まらないね」
「褒められた?」
「仕事の話だよ」
それなら、ちゃんと褒められていた。
ティアは一枚ずつ、皿を運んでいった。
最後の一枚を置き終えると、こちらを見た。
私は、うなずいた。
ほっとした顔が返ってきて、それを見ていたら、もう一度好きだと言いたくなった。
今度は、皿ではなく、本人に。
「ティアも、すごくかわいいよ」
返事の代わりに、置いたばかりの皿の位置が、ほんの少し直された。
ティアの耳は、まだ赤かった。
*
食卓には、四人分の湯気が並んだ。
姫が、焼いた根菜を小さく切っている。
エスメラルダは、椅子の高さを確かめてから座った。
ティアが、杯を置いた。
私の前と、自分の前に、一つずつ。
さっきまで空っぽだった部屋に、食べ物の匂いがしていた。
私は、しばらくその光景を見ていた。
家をもらったことよりも、こうして食卓ができたことのほうが、何だか、落ち着かなかった。
嬉しすぎると、ちゃんと座るのも難しい。
「食べないのだわ?」
姫に聞かれた。
「食べる。今、ちょっと、皆がいるのを見てた」
金色の目が、こちらを見た。
私は、笑った。
「こういうところで、会いたかったんだなって」
姫は、手元へ目を落とした。
首の周りには、柔らかな襟がある。
その下へ、鎖は続いていない。
フォークを持つ指も、誰かの合図を待っていなかった。
「……騒がしい食卓なのだわ」
姫が言った。
「え、嫌だった?」
「嫌とは、言っていないでしょう」
返事は、すぐに来た。
「次は、お城の焼き菓子を持ってくるのだわ。あなたたち、まだ食べていないでしょう」
私は、少しだけ目を開いた。
次。
あの子のほうから、次の話をしてくれた。
「うん。食べたい」
「なら、用意しておくのだわ」
「姫も、また来てくれる?」
姫が、眉を上げた。
「わたくしが、持ってくると言っているのだわ」
胸の奥が、きゅっとした。
私は、たぶん、かなりだらしない顔で笑った。
この返事だけ、額に入れて玄関へ飾りたい。
来るたびに読んで、毎回嬉しくなれる。
でも、実際にやったら、次から来てもらえなくなりそうなので、心の中だけにしておこう。
「エスメラルダも、来てね」
「鍋を焦がしたときに呼ぶんじゃないだろうね」
「普通に、ご飯を食べるだけでも」
エスメラルダが、私の前の皿を見た。
それから、口元を少し緩めた。
「……自分の飯も食えるようになったなら、考えるよ」
私は、慌ててフォークを取った。
隣で、ティアが笑っていた。
王様からいただいた礼金の一部で、エスメラルダの失くしたナイフと、馬車の修理代も分担することにした。
そう言うと、彼女は少し文句を言ったけれど、最後には、後で勘定しよう、と答えてくれた。
お金の話をして。
足りない椅子の話をして。
次は何を食べるか、相談する。
誰かが眠そうになるまで、そんな話をしていた。
*
それからの数日は、驚くほど忙しかった。
荷物をほどいた。
洗濯をした。
庭の草を抜き、きしむ扉の蝶番に油を差した。
私はティアと市場へ行って、杯を二つ買った。
どちらも同じ形で、縁の色が少し違う。
ティアは、選び終わってからも、包みを何度か確かめていた。
「割れてないよ」
私が言うと、少し照れた顔をした。
「早く、使ってみたいと思いまして」
その夜、本当に使った。
少し甘い果実酒を、いつもより少なめに注いだ。
ティアは杯を両手で持ち、香りを確かめるように顔を近づけた。
一口飲んで、こちらを見る。
「こちらは、前のものより、甘いですね」
「うん。好き?」
「はい」
私は、その返事を聞いただけで、同じお酒をもう一本買いたくなった。
好きだと言うものを、覚えておきたい。
この人の前に出せるものを、少しずつ増やしたい。
そう思ってから、ちょっとだけ笑った。
私、本当に、好きな子のことになると忙しい。
昼間は姫が顔を出し、エスメラルダも、用事のついでだと言いながら寄っていった。
約束していた焼き菓子は、本当に届いた。姫が、自分の手で持ってきてくれた。
玄関で誰かを迎えることに、少しずつ慣れていった。
ある夜、私は、片づけたテーブルへ地図を広げた。
ティアが、隣へ杯を置いた。
少しの間、二人で地図を見た。
まだ、知らない国がたくさんあった。
私は紙の端を押さえた。
ここでの暮らしは、楽しい。
明日の朝も、この台所でご飯を作るのだと思うと、嬉しい。
それでも、まだ行きたいところがあった。
話してみたい人がいる。
どんな顔をした女の子たちが、どんなふうに笑っているのか、見てみたい。
この国で出会った人たちを、もう知ってしまったから。
知らないままでいるには、世界の続きが気になりすぎた。
「……出かけたいですか」
ティアが、聞いた。
私は、うなずいた。
「うん」
それから、その顔を見た。
「ティアは?」
ティアは地図を見た。
次に、窓の外へ目を向けた。
夜の庭は静かだった。
昼間、二人で抜いた草が、袋にまとめて置いてある。
「戸締まりを、ちゃんと覚えなければなりませんね」
私は、少し遅れて笑った。
「一緒に確かめよう」
「はい」
ティアも、笑った。
「帰ってきたとき、おうちがそのまま待っていてくれるように」
私は、うなずいた。
帰ってくる。
その予定を、次の旅の話に入れていいのだ。
知らない場所へ行って。
いろいろな人と出会って。
その話をしに、また、ここへ戻ってくる。
姫にも聞いてほしい。
エスメラルダにも、きっと、言いたいことが増える。
私は、棚に置いた鍵を持ってきた。
テーブルへ、二本並べる。
ティアが、片方を手に取った。
「持っていくもの、ですね」
「うん。絶対、忘れないようにしなきゃ」
ティアは、腰につける小さな袋を確かめた。
私は、まだ空にしていなかった旅の鞄を、椅子へ引き寄せた。
用意するものは、いろいろある。
新しい服。
歩きやすい靴。
途中で食べるもの。
それから、この鍵。
私たちは、地図の横へ必要なものを書き始めた。
窓から、少し冷たい風が入ってきた。
私は立ち上がって、閉めた。
振り返ると、ティアがテーブルの向こうで待っていた。
知らない町で過ごす時間も、この家へ帰ってくる日も、あの人と一緒に増やしていけたらいい。
私はそう思いながら、自分の椅子へ戻った。




