↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/14

第13話:帰ってこられる場所

 目を覚ましたら、女神さまがこちらを見ていた。


 銀色の髪が、枕の上へ流れている。

 毛布からのぞいた顔は、すぐ近くにあった。


「おはようございます」


 小さな声だった。


 私は、しばらく返事を忘れた。


 おはようございます、って。


 それを、その距離で言っていただける朝が、私の人生に存在するんですか。


 もう一度寝たら、もう一度言ってもらえるだろうか。

 いや、欲張っている間にこの朝を失うのは、あまりにも惜しい。今すぐ起きよう。起きて、目と耳に仕事をさせよう。


「……おはよう」


 どうにか返すと、ティアの目元が和らいだ。


「よく、お休みになれましたか」

「うん。ティアは?」

「はい。途中で一度、目が覚めましたけれど」


 そう言って、視線が少し下がる。


 私は、つられて自分の手を見た。


 ティアの袖を握っていた。


 きっちりと。


 布のしわに、自分の執念が見える。


「あっ、ごめん。引っ張った?」

「いいえ。お眠りでしたので、そのままにしておりました」


 慌てて手を開く。


 伸びてしまった袖を直そうとして、手がぶつかった。


 ティアが、小さく笑う。


 私は、その顔を見て、今がどこなのかを思い出した。


 ゴブリン王国国境の詰め所。

 貸してもらった、休憩用の部屋。


 昨日の夜は、空いていた寝具を隣同士に並べた。

 横になる前、ティアに、もう少し手を借りてもいいかと聞いた。


 借りすぎだった。


 朝まで借りるつもりでは、なかったはずなのに。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 ティアは体を起こし、私の髪へ手を伸ばした。


「ここ、はねております」


 指先が、耳の上をそっと押さえる。


 私は、また動けなくなった。


 それ、今まで私がやりたかったほうのやつです。


 好きな子の寝癖を直して、まだ眠そうな顔に笑って。

 そんな朝を何度も想像したことはあるけれど、される側の心構えについては、ほとんど考えてこなかった。


 これは、まずい。


 この人が毎朝こうしてくれるなら、私は寝癖を直す技術を永久に失ってしまうかもしれない。


「起きたかい!」


 扉の向こうで、声がした。


 私は反射的に飛び起きた。


「仕事!?」

「飯だよ!」


 ちょっとだけ、間があった。


「あーしの声で、何を思い出してんだい」


 隣で、ティアが吹き出した。


 私は毛布を膝の上へ引き寄せた。


 怒鳴られたのに、妙にほっとしてしまった。


 朝ご飯を、食べていいのだ。


 急いで城へ行かなくても。

 誰かの帰りを待ちながら、冷めたパンをかじらなくても。


 隣にいる人と一緒に、起きて、食べる。


 そんな朝が、ちゃんと来ていた。


     *


 国境では、二晩休んだ。


 帰り先が決まっている人は、迎えの家族や護衛と一緒に、それぞれの村へ向かった。まだ休まなければならない人、住むところを探す人には、詰め所の人たちが話を聞いていた。


 ミラさんは、鍋のそばで忙しそうにしていた。


「パンを焼く場所さえ借りられりゃ、こっちでも何とかなるよ」


 腰に下げた鍵を、服の内側へしまいながら言った。


 あの町の家を、忘れたわけではないのだと思った。


 今は、ここで食べるものを作る。


 そう決めた人の顔をしていた。


 私たちが姫と一緒に出発したのは、その翌朝だった。


 ゴブリンの騎士たちが、馬車の前後を守ってくれる。


 剣を提げた人が近くにいると、まだ少し、体に力が入った。

 けれど、その人たちは、車輪が深い溝にはまらないよう道を確かめてくれたし、休憩になると、先に水を持ってきてくれた。


 私は、少しずつ肩を下ろした。


 姫は、馬車の窓から外を見ていた。


 知っている道へ近づくたびに、顔が動く。


「あそこの水車、羽根が新しくなっているのだわ」


 誰にともなく、つぶやいた。


 エスメラルダが、身を乗り出して見た。


「まだ動かしてたんだね」

「当然なのだわ。あそこが止まったら、小麦を挽くのに困るでしょう」


 言ってから、姫は少し黙った。


 窓枠に置いた手の指が、ゆっくり伸びた。


「……動いていて、よかった」


 私も、窓の外を見た。


 水が、木の羽根を押していた。


 姫がいなかった間も、この国で暮らしていた人たちがいる。

 壊れたところを直して、水が流れるのを待っていた人が。


 あの子が帰ってきたときに見つけられるものを、残してくれていた。


 私は、隣のティアへ少し体を寄せた。


 ティアは外を見たまま、小さくうなずいた。


     *


 ゴブリン王国王都は、私が最初に召喚された町よりも小さかった。


 石造りの家が並び、通りのところどころに、修理中の屋根が見える。

 開いていない店もあった。けれど、パンを売る声はしたし、木箱を運ぶ人が道を横切るたび、馬車の速度が落ちた。


 建物の扉が、全体的に低い。


 降りて通りを歩くと、私は何度も頭を下げることになった。


 エスメラルダは、慣れた様子で少しかがんで通っていく。


 この国だと、あの人は背の高いお姉さんなのだ。


 いつもより、そのことがよく分かった。


 いいな。


 人間の町で見る、小柄で迫力のあるお姉さんもいい。

 故郷で見る、すらりとした背の高いお姉さんもいい。


 一人で二種類のお姉さんを供給できる。

 すごい。

 私の感性が単純なだけかもしれないけれど、すごいものはすごい。


「足元を見な。段差だよ」


 言われて、慌てて前を向いた。


 姫の帰還は、すぐに広まった。


 呼び止める声がした。

 店の奥から人が出てきた。


 手を伸ばしかけて、ためらう人には、姫のほうから近づいた。


「戻ったのだわ」


 何度も、そう言った。


 泣く人もいた。

 笑う人もいた。


 姫が返す声は、最初の一度より、二度目のほうが、少し大きかった。


 お城へ着くころには、その声が、ちゃんと通りに響いていた。


     *


 姫のお父さんは、生きていた。


 戦争が始まったころの病からは、回復していたのだという。

 けれど、娘と民を人質に取られたまま、兵を向けることもできずにいた。


 出迎えた王様は、姫の顔を見ると、一度、何かを言いかけた。


 それから、膝をついた。


 姫が立ち止まった。


「……お父様」


 そのあとは、あっという間だった。


 小さな体が駆け出して、王様の腕の中へ飛び込んだ。


 私は、少しだけ後ろへ下がった。


 ティアも、隣へ来た。


 王様の手が、赤みがかった髪を何度も撫でていた。

 姫は何か文句を言おうとしていたけれど、途中からうまく声にならなくなった。


 あの子が、こんなふうに泣けるところを、初めて見た。


 私は、ここまで来たのだと思った。


 お城から外へ出すだけでは、見ることのできなかった顔だった。


 王様が私たちへ顔を向けたのは、少ししてからだった。


「娘と、我が民を連れ帰ってくれたと聞いた」


 私は、背筋を伸ばした。


 王様だ。

 ちゃんと話さなきゃ。


 そう思ったとき、その頭が下がった。


「礼を言う」


 私は、用意しかけていた言葉を忘れた。


 どういたしまして、では軽いだろうか。

 いえいえ、も違う気がする。


 結局、隣を見た。


 ティアも、どうすればいいか分からない顔をしていた。


 少しだけ安心した。


「……皆で、帰ってきました」


 私は、そう答えた。


 エスメラルダも。

 リゼさんたちも。

 仕事場の内側から動いてくれた人も。

 馬車を出してくれた人も。


 私の隣で、手を伸ばしてくれた人も。


 王様は、うなずいた。


 それから、入口に近いところへ目を向けた。


 エスメラルダが、片膝をついていた。


 白い髪が、伏せた顔を隠している。


 王様が口を開くより先に、姫が言った。


「エスメラルダには、わたくしから、まだ聞くことがあるのだわ」


 その声が、思った以上にはっきりしていた。


「ゆっくり、話をするの。誰にも、途中で出ていけとは言わせないのだわ」


 エスメラルダが、顔を上げた。


 王様は娘を見て、それから、静かにうなずいた。


 その日の夕方、私たちは城の庭へ呼ばれた。


 花壇のそばに、低いテーブルがある。

 椅子に座ると、私の膝は少し高いところへ来てしまった。


 ティアも、座り方を確かめている。

 私たちは目を合わせて、ちょっと笑った。


 向かいの姫は、薄いクリーム色の服に着替えていた。


 柔らかな布の上で、赤みがかった髪が揺れる。

 黒い眼の中で、金色の瞳がくるりと動く。今までよりも、ずっと表情が豊かに見えた。


 そんなところに皺が寄るのか、と、私は思った。


 眉間だ。


 主に、エスメラルダを見ているときに寄っていた。


「座るのだわ」


 姫が言った。


「その前に、姫――」

「座って、話すのだわ」


 エスメラルダが、椅子へ腰を下ろす。


 その手前へ、パンの皿が置かれた。


「食べながらで、構わないのだわ」


 私は、その皿を見た。


 国を出る日に渡した食べ物の話を、思い出した。


 エスメラルダも、思い出したのだと思う。

 パンには、すぐに手を伸ばさなかった。


「何から、お話しすれば」


「どうして、わたくしに何も説明せずにいなくなったのか。そこからなのだわ」


 エスメラルダが、姫を見た。


 それから、少し背筋を伸ばした。


 冬の村で起きたこと。

 部下が、許可を待たずに食料を配ってしまったこと。


 足りなくなった物資を、自分の金で補ったこと。

 そのあとで、命令書を偽ったこと。


 姫は、口を挟まずに聞いていた。


「巻き込みたく、なかったんです」


 エスメラルダが言った。


「ご自分の護衛をかばったと、言われるようなことには」


 姫は、少しの間、黙っていた。


 テーブルに置いた両手を見つめる。


「わたくしが、困ると思ったのね」

「はい」


「……いなくなられたときも、困ったのだわ」


 エスメラルダの指が止まった。


「何も聞かせてもらえなかったから。あなたが帰ってこないことしか、分からなかったから」


 姫が顔を上げた。


「心配してもいいでしょう。怒ってもいいでしょう。あなたのしたことを聞いてから、わたくしが考えても、よかったでしょう」


 声は、最後まで大きくならなかった。


 エスメラルダが、頭を下げた。


「……申し訳、ありませんでした」


 姫は、しばらく、その白い髪を見ていた。


 それから、パンの皿を、もう少し近くへ押した。


「今度は、食べるのだわ」


 エスメラルダが、顔を上げる。


「お話は、まだ終わっておりませんが」

「終わるまで食べないつもりだから、言っているのだわ」


 返す言葉を探したらしい口が、閉じた。


 私は、うっかり笑いそうになった。


 ティアも同じことを思ったのか、杯へ口をつけている。


 エスメラルダは、小さく息を吐き、パンを手に取った。


 姫は、それを一口食べるまで見ていた。


 ああ、この二人。


 私は、テーブルの下で足をそろえ直した。


 ずっと離れていたのに、こういうところは、少しも離れていなかったんだ。


     *


 話の途中で、一人の女性が庭へ入ってきた。


 騎士団の制服を着た、ゴブリンの女性だった。

 緑色の髪を後ろでひとつに束ね、両手で大きな封筒を抱えている。


 エスメラルダが、立ち上がった。


「……フィナ」


 女性の足が止まった。


「副団長」


「もう違う」


 そう返した声が、少しかすれた。


 フィナさんは、笑おうとした。

 でも、その前に目が赤くなった。


 私は、誰なのか分かった。


 エスメラルダが話してくれた、あの部下だ。


「姫様から、今日なら会えると聞いて」


 封筒を、差し出す。


「手紙です。国境で便りを受けてもらえなくなってからの分も、全部」


 エスメラルダは、すぐには受け取らなかった。


 フィナさんの顔を見て、それから、肩と腕へ目を動かした。


「怪我は」

「ありません」

「飯は」

「食べています」


 聞き覚えのある順番だった。


 私は、少しだけ笑った。

 姫も、同じ顔をしていた。


 エスメラルダは、ようやく封筒を受け取った。


「そうかい」


 それだけ言った。


 たったそれだけを言うのに、ずいぶん時間がかかった。


 フィナさんは、もう一つ、小さな袋を出した。


「返済分です。まだ、全部ではないんですけれど」


 エスメラルダが、袋へ目を落とした。


 私は、先に謝るのかと思った。


 違った。

 彼女は、袋を手の上で確かめて、うなずいた。


「受け取った。あとで、残りも書いて渡すよ」

「はい」


 フィナさんの声が、さっきよりしっかりした。


「今は、倉の出入りを記録する仕事をしています。配る予定と、残す分も、一緒に見るようにして」


 少し、ためらった。


「……分からないときは、聞いています」


 エスメラルダが、目を細めた。


「そりゃ、いい」


 フィナさんが、今度こそ笑った。


 私は、その顔を見ながら思った。


 あの冬の話には、続きがあったのだ。


 エスメラルダが知らなかった間にも、この人は、覚えることを増やしていた。返すための金を分けて、送れなくなった手紙を書いていた。


 もう会えないかもしれない人の話を、私たちは聞いていた。


 その人が、今、目の前で笑っている。


 ティアの指が、私の手へ触れた。


 見れば、嬉しそうに笑っていた。


 私は、ほんの少しだけ、身を寄せた。


 いい顔をしている女の子が、ここには、たくさんいる。


 それでも、こういうときに、まず隣の顔を見てしまうのだ。


     *


 エスメラルダの話は、そのあと、王様と騎士団にも伝えられた。


 私たちは、別の部屋で待った。


 待っている間、私は何度か立ち上がりかけた。


 うまく話せているだろうか。

 今度は、自分だけで全部決めてしまわないだろうか。


 でも、姫が一緒にいる。


 それを思い出して、座り直した。


 夕食の前、戻ってきたエスメラルダは、まず椅子へ腰を下ろした。


「あー、腹が減った」


 姫が、その隣に立った。


「帰ってきて、構わないのだわ」


 私は、顔を上げた。


「追放を解くと、お父様が。正式な書状も、用意してくださるのだわ」


「……ほんとに?」


「ここで嘘を言ってどうするの」


 姫の口元が、少し上がった。


 私は、エスメラルダを見た。


 彼女は両手を膝の上へ置いていた。

 何も持っていない手を、一度、握って開いた。


「国へ帰れと言われたわけじゃない。ここで暮らしていい、ってことだよ」


 その言い方が、いかにも、この人らしかった。


 私は、うなずいた。


「うん。エスメラルダは、どうしたい?」


 彼女は、少し黙った。


 それから、窓の外を見た。


 庭の向こうで、物資を積んだ車が止まっている。

 荷を下ろす人へ、フィナさんが帳面を持って駆け寄っていた。


「……まずは、こっちで働くさ」


 エスメラルダが言った。


「家も、店も、直さなきゃならないところが山ほどある。働き口を探してるやつもいる。金の集め方と使い方なら、少しは知ってるからね」


 姫の顔が、明るくなった。


 エスメラルダは、それを見て、困ったように鼻をこすった。


「騎士に戻るかどうかは、また別の話だよ」

「分かっているのだわ」


 返事が、やけに速かった。


「とりあえず、明日は倉を見てちょうだい。それから、職人の組合の人が来るの。お店を出したい人の話も――」

「待ちな。明日が何日分あるんだい」


 私は、笑ってしまった。


 エスメラルダが、こちらをにらむ。


 でも、その顔は、初めて私たちを追い返した夜のものではなかった。


 行き先を、選べたのだ。


 私たちと一緒に国境を越えるだけでは終わらなかった、この人の帰り道が、ようやく、ここまでつながった。


 嬉しかった。


 それから、少しだけ、寂しかった。


 この人と旅をしたら、きっと楽しいだろうと思っていた。

 知らない町で、怖い顔をしたお姉さんが急に可愛い声で注文を取るところを、もっと見てみたかった。


 でも、ここにも、私の知らなかった顔がある。


 その顔を見られたことが、今は嬉しかった。


 翌々日の朝、私たちは改めて王様の前へ呼ばれた。


 今度は、ちゃんとした服を着ていた。


 私の服は、王都の仕立屋さんが急いで直してくれたものだ。

 肩の位置を合わせ、裾を下ろし、胸のところは、一度見ただけで無言になってから、別の布を持ってきてくれた。


 すみません。

 そこだけ、融通が利かなくて。


 ティアは、淡い青色の服を着ていた。


 銀色の髪に、とてもよく似合う。

 あのリボンも、いつもの位置に結んである。


 私は、三回くらい横を見た。


「……何か、ついておりますか」

「もちろん。かわいいお顔がしっかりと!」

「先ほども、伺いました」


 小声で返された。


 だから、まだ三回しか言っていない。

 何回でも言えるし、今なら十回連続で言っても、そのたびに違うかわいいところを添えられる。


 でも、さすがに王様の前だったので、残りはあとで言うことにした。


 王様はまず、帰還した人々の受け入れについて話した。


 国境の守りを増やし、近隣の国へも使者を出したという。

 何があったのか、こちらからも伝えなければならない。

 人間の王国との話し合いも、これからだった。


 全部が片づいたわけではない。


 それでも、王様は、戻ってきた民を再び引き渡すことはしないと言った。


 姫は、その隣で、まっすぐ前を見ていた。


 私は、静かに息を吐いた。


 あの子が一人で、帰る人と残る人を選ばされる場所には、戻らなくていい。


 それだけは、聞けてよかった。


 エスメラルダには、追放を解く書状が渡された。


 昔の書類を偽ったことが、なくなるわけではない。

 けれど、国を離れてからも民を支え、今度は姫と人々を連れ帰った。その働きを認めてのことだと、王様は言った。


 エスメラルダは、短く礼を述べた。


 書状をしまうとき、その端を折らないよう、指でそっと押さえていた。


 王都へ招かれていたリゼさんたちにも、護衛の礼が伝えられた。

 お金の入った袋を受け取る手つきが、堂々としている。


 ちゃんと働いて、ちゃんと受け取る。

 それも、少し格好よかった。


 私たちの名前が呼ばれたのは、そのあとだった。


「ゆりあ、そしてティアラ。二人を、この国の名誉市民として迎えたい」


 私は、瞬きをした。


 名誉市民。


 響きが、急にすごい。


 頭の中に、何となく金色の文字が浮かんだ。

 私の想像する偉いものは、だいたい金色である。


 ティアが、そっとこちらを見た。


 私も見た。


 二人とも、何を言えばいいか、まだ決まっていなかった。


 王様は、そんな私たちの前へ、小さな箱を置かせた。


「城下に、使節や商人を泊めるために建てた家がある。今は空いている。気に入れば、そこを二人に贈ろう」


 箱が開いた。


 鍵が、二本入っていた。


 私は、それを見た。


 鍵だ。


 家の。


「……住んで、いいんですか」

「もちろんだ」


「一晩ではなく?」


 隣でティアが、口元を押さえた。


 笑った。


 今、笑いましたね。


 だって、確認は大切でしょう。

 初めてこの世界で確保した寝床は、翌朝になったら勤務先へ変わっていたんだから。


 王様も、少し笑った。


「二人の家だ。いつ帰ってきてもよい」


 私は、もう一度、箱の中を見た。


 鍵は、光り輝くほど立派なものではなかった。


 何度も使われたのだろう。持ち手の角が丸くなっていて、片方には小さな傷がある。


 でも、そこへ指を伸ばす前に、隣を見た。


「ティアは、どう?」


 ティアは、鍵を見つめていた。


「……おうち、ですね」


「うん」


 少し、間が空いた。


「帰ってきてもよい場所があるのは、嬉しいです」


 その声を聞いて、私も嬉しくなった。


 私たちは、うなずいてから、一緒に頭を下げた。


 鍵の箱と一緒に、当面の暮らしと旅の足しに、と礼金も渡された。


     *


 家は、通りから少し入ったところにあった。


 小さな庭のついた、二階建てだった。


 窓枠の塗装が、ところどころ薄くなっている。

 庭には草が生えていた。

 けれど、扉はちゃんと閉まるし、屋根にも穴はないらしい。


 そして何より、入口が高かった。


 普通に、立ったまま入れる。


 人間の客を迎えるために建てたのだと、姫が教えてくれた。


「中の掃除は、一度してもらっているのだわ。足りないものは、あとで確かめるの」


 姫が、先へ立って庭を歩く。


 私は玄関の前で、鍵を手に持った。


 差し込む。

 回す。


 中で、小さな音がした。


 扉を押すと、木と、少しだけ古い布の匂いがした。


 一階には、テーブルのある部屋と台所。

 二階には、寝室が二つ。


 棚は空だった。

 窓を開けると、庭の草が風に揺れた。


 私は、部屋の真ん中へ立った。


 何をしてもいいのだろうか。


 いや、家を壊すとか、そういう話ではなくて。


 棚に本を置いてもいい。

 気に入った杯を買って、台所へ並べてもいい。

 疲れて帰った日に、上着を脱いで、ちょっとだらしなく椅子へ座ってもいい。


 次の日になったら出ていかなければならない部屋ではない。


 私は、手の中の鍵を握り直した。


 前の世界で、自分の部屋へ帰る時間は、嫌いではなかった。


 好きな本を読んで、ゲームをして。

 誰にも合わせず、好きな女の子たちの物語を眺められる時間だった。


 それでも、玄関の外で飲み込んだ言葉を、部屋の中に持って帰る日はあった。


 今日も、本当のことを言わなかった。


 そう思いながら、靴を脱いだ日が。


「ゆりあさん」


 階段の上から、声がした。


 ティアが、手すりのところに立っていた。


「どちらのお部屋に、なさいますか」


 私は、その顔を見上げた。


 同じ玄関から入って。

 別々の部屋で眠るとしても、朝になれば、同じ階段を下りてくる。


 そういうことなんだ。


 理解が、少しずつ追いついてきた。


 女神さまと、同じ住所。


 私は思わず、近くの椅子へ手をついた。


「どうなさいました!?」

「大丈夫。今、ちょっと、大きな事実を受け止めてる」


「具合が悪いのですか」


「そういうことではなくて。あの、これって、かなり、その、一緒に暮らす感じだよね」


 ティアが黙った。


 私も、自分で言ってから黙った。


 階段の下で、姫が腕を組んだ。


「二人に家を贈ったのだから、そうなのだわ」


 ご説明、ありがとうございます。


 そこで、そんなに素直にうなずける精神状態ではないんです、こちらは。


 エスメラルダが、窓を開けながら言った。


「屋根の下で口説く暇があるなら、先に荷物をほどきな」


 私は、背中の荷物へ手をかけた。


 はい。


 分かりました。


 幸せも、順番に処理しないと、仕事が止まる。


 その日の夕食は、新しい家で作ることになった。


 食材を持ってきたエスメラルダが台所へ入った時点で、だいたい、そうなる気はしていた。


「鍋はあるね。包丁も、まあ、研げば使えるか」


 次々に確かめていく。


 私は、戸棚の中を拭きながら聞いた。


「エスメラルダ、ここ、初めて来たんだよね」

「台所だろ。違う場所に火口があるだけだ」


 格好いい。


 たぶん今の私は、女の子が自信を持って何かをするところに、とても弱い。


 いや、慌てながら一生懸命やっているところにも弱い。

 何もしていないところにも、別に強くはない。


 だいたい、いつも負けている。


「そこの紐、結んどくれ」


 エスメラルダが、前掛けの端をこちらへ差し出した。


「はい」


 反射的に返事をした。


 少し身をかがめて、背中側で結ぶ。

 白い髪が邪魔にならないよう、本人が手で持ち上げていた。


 うなじが見える。


 やめよう。


 やめるというのは、見るのをやめるという意味ではなく、今から余計なことを口走りそうな自分を止めるという意味で。


「エスメラルダって、こういう格好も、すごく似合うね」


 手遅れだった。


「店でも着てただろ」

「うん。でも、うちの台所にいると、また違って見える」

「うちの、って言いたいだけじゃないのかい」


 少し、ある。


 かなり、あるかもしれない。


 でも、本当に似合っていた。

 慣れた手つきで鍋を持つ姿を見ていると、あの酒場で一緒に働いた日が、もう懐かしかった。


「ゆりあさん」


 声がした。


 振り向くと、ティアが皿を持って立っていた。


「あの、わたくしは……」


 途中で言葉を止め、手に持った皿を見る。


「こちらも、わたくしたちの台所に合っているでしょうか」


 白い皿だった。

 最初から、戸棚に入っていたものだ。


「うん。使いやすそう」

「……そうですね」


 ティアは皿を見た。


 それから、少しだけ耳を赤くした。


「いえ。何でもございません」


 何でもない、という顔ではなかった。


 私は、もう一度その皿を見た。


 何か、返事を間違えただろうか。


 考えていると、姫が台所をのぞき込んだ。


「塩はどこなのだわ?」

「ティア、四人分の器、先に並べられる?」


 私の声と重なった。


 ちょうど、鍋の蓋も、かたかたと鳴った。


「あ、はい。お塩を、四つ――ではなくて、お皿を、その前に、お鍋が」


 ティアの足が、三つの方向へ行きかけた。


「私が火を見るよ」


 私は鍋のそばへ行った。


「塩は、姫の右の棚。ティアは、そのお皿をお願い」

「は、はい」


 ティアが、皿を持ち直した。


 私は蓋を少しずらし、吹きこぼれる前に火を弱めた。


 エスメラルダが、切った野菜を寄せながら笑った。


「口を動かしながらでも、手は止まらないね」

「褒められた?」

「仕事の話だよ」


 それなら、ちゃんと褒められていた。


 ティアは一枚ずつ、皿を運んでいった。


 最後の一枚を置き終えると、こちらを見た。


 私は、うなずいた。


 ほっとした顔が返ってきて、それを見ていたら、もう一度好きだと言いたくなった。


 今度は、皿ではなく、本人に。


「ティアも、すごくかわいいよ」


 返事の代わりに、置いたばかりの皿の位置が、ほんの少し直された。


 ティアの耳は、まだ赤かった。


     *


 食卓には、四人分の湯気が並んだ。


 姫が、焼いた根菜を小さく切っている。

 エスメラルダは、椅子の高さを確かめてから座った。


 ティアが、杯を置いた。

 私の前と、自分の前に、一つずつ。


 さっきまで空っぽだった部屋に、食べ物の匂いがしていた。


 私は、しばらくその光景を見ていた。


 家をもらったことよりも、こうして食卓ができたことのほうが、何だか、落ち着かなかった。


 嬉しすぎると、ちゃんと座るのも難しい。


「食べないのだわ?」


 姫に聞かれた。


「食べる。今、ちょっと、皆がいるのを見てた」


 金色の目が、こちらを見た。


 私は、笑った。


「こういうところで、会いたかったんだなって」


 姫は、手元へ目を落とした。


 首の周りには、柔らかな襟がある。

 その下へ、鎖は続いていない。


 フォークを持つ指も、誰かの合図を待っていなかった。


「……騒がしい食卓なのだわ」


 姫が言った。


「え、嫌だった?」


「嫌とは、言っていないでしょう」


 返事は、すぐに来た。


「次は、お城の焼き菓子を持ってくるのだわ。あなたたち、まだ食べていないでしょう」


 私は、少しだけ目を開いた。


 次。


 あの子のほうから、次の話をしてくれた。


「うん。食べたい」

「なら、用意しておくのだわ」


「姫も、また来てくれる?」


 姫が、眉を上げた。


「わたくしが、持ってくると言っているのだわ」


 胸の奥が、きゅっとした。


 私は、たぶん、かなりだらしない顔で笑った。


 この返事だけ、額に入れて玄関へ飾りたい。

 来るたびに読んで、毎回嬉しくなれる。


 でも、実際にやったら、次から来てもらえなくなりそうなので、心の中だけにしておこう。


「エスメラルダも、来てね」

「鍋を焦がしたときに呼ぶんじゃないだろうね」

「普通に、ご飯を食べるだけでも」


 エスメラルダが、私の前の皿を見た。


 それから、口元を少し緩めた。


「……自分の飯も食えるようになったなら、考えるよ」


 私は、慌ててフォークを取った。


 隣で、ティアが笑っていた。


 王様からいただいた礼金の一部で、エスメラルダの失くしたナイフと、馬車の修理代も分担することにした。

 そう言うと、彼女は少し文句を言ったけれど、最後には、後で勘定しよう、と答えてくれた。


 お金の話をして。

 足りない椅子の話をして。

 次は何を食べるか、相談する。


 誰かが眠そうになるまで、そんな話をしていた。


     *


 それからの数日は、驚くほど忙しかった。


 荷物をほどいた。

 洗濯をした。

 庭の草を抜き、きしむ扉の蝶番に油を差した。


 私はティアと市場へ行って、杯を二つ買った。


 どちらも同じ形で、縁の色が少し違う。


 ティアは、選び終わってからも、包みを何度か確かめていた。


「割れてないよ」


 私が言うと、少し照れた顔をした。


「早く、使ってみたいと思いまして」


 その夜、本当に使った。


 少し甘い果実酒を、いつもより少なめに注いだ。


 ティアは杯を両手で持ち、香りを確かめるように顔を近づけた。

 一口飲んで、こちらを見る。


「こちらは、前のものより、甘いですね」

「うん。好き?」

「はい」


 私は、その返事を聞いただけで、同じお酒をもう一本買いたくなった。


 好きだと言うものを、覚えておきたい。


 この人の前に出せるものを、少しずつ増やしたい。


 そう思ってから、ちょっとだけ笑った。


 私、本当に、好きな子のことになると忙しい。


 昼間は姫が顔を出し、エスメラルダも、用事のついでだと言いながら寄っていった。

 約束していた焼き菓子は、本当に届いた。姫が、自分の手で持ってきてくれた。


 玄関で誰かを迎えることに、少しずつ慣れていった。


 ある夜、私は、片づけたテーブルへ地図を広げた。


 ティアが、隣へ杯を置いた。


 少しの間、二人で地図を見た。


 まだ、知らない国がたくさんあった。


 私は紙の端を押さえた。


 ここでの暮らしは、楽しい。

 明日の朝も、この台所でご飯を作るのだと思うと、嬉しい。


 それでも、まだ行きたいところがあった。


 話してみたい人がいる。

 どんな顔をした女の子たちが、どんなふうに笑っているのか、見てみたい。


 この国で出会った人たちを、もう知ってしまったから。

 知らないままでいるには、世界の続きが気になりすぎた。


「……出かけたいですか」


 ティアが、聞いた。


 私は、うなずいた。


「うん」


 それから、その顔を見た。


「ティアは?」


 ティアは地図を見た。

 次に、窓の外へ目を向けた。


 夜の庭は静かだった。

 昼間、二人で抜いた草が、袋にまとめて置いてある。


「戸締まりを、ちゃんと覚えなければなりませんね」


 私は、少し遅れて笑った。


「一緒に確かめよう」

「はい」


 ティアも、笑った。


「帰ってきたとき、おうちがそのまま待っていてくれるように」


 私は、うなずいた。


 帰ってくる。


 その予定を、次の旅の話に入れていいのだ。


 知らない場所へ行って。

 いろいろな人と出会って。


 その話をしに、また、ここへ戻ってくる。


 姫にも聞いてほしい。

 エスメラルダにも、きっと、言いたいことが増える。


 私は、棚に置いた鍵を持ってきた。


 テーブルへ、二本並べる。


 ティアが、片方を手に取った。


「持っていくもの、ですね」

「うん。絶対、忘れないようにしなきゃ」


 ティアは、腰につける小さな袋を確かめた。

 私は、まだ空にしていなかった旅の鞄を、椅子へ引き寄せた。


 用意するものは、いろいろある。


 新しい服。

 歩きやすい靴。

 途中で食べるもの。


 それから、この鍵。


 私たちは、地図の横へ必要なものを書き始めた。


 窓から、少し冷たい風が入ってきた。


 私は立ち上がって、閉めた。


 振り返ると、ティアがテーブルの向こうで待っていた。


 知らない町で過ごす時間も、この家へ帰ってくる日も、あの人と一緒に増やしていけたらいい。


 私はそう思いながら、自分の椅子へ戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。