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第12話:臆病な女神の、たった一つの奇跡

 ゆりあの呼ぶ声が、途中で途切れた。


 綱を引いていた手に、まだ縄の感触が残っていた。

 ティアは、門の反対側から駆け寄ろうとした。

 その目の前を、剣が横切った。


 風が頬に当たった。


「下がれ。お前まで傷つけるつもりはない」


 騎士の声は、落ち着いていた。


 ティアの膝が、勝手に折れかけた。

 剣の届かないところへ逃げなければ、と体が訴えた。


 あの刃が当たったら、痛い。

 きっと、立っていられない。


 それを、知ってしまった。


 天界にいたころ、誰かが傷つくのを見たことはあっても、自分が傷つけられる場所に立ったことはなかった。止まれと言われて、本当に足が動かなくなることも。救いたいと思うだけでは、手が届かないことも。


 ほんの数歩の先に、ゆりあがいる。


 こちらへ伸ばそうとした手が、石の上に落ちている。


 いつもは、すぐに出てくる声がしない。


「ゆりあ、さん」


 もう一度呼んだ。

 返事はなかった。


 騎士が、ティアの腕へ手を伸ばした。


 その手前へ、白い髪が割り込んだ。


「その子に用はないんだろ」


 エスメラルダの刃が、騎士の手を引かせた。


 次の一撃を、まともには受けない。低く身を沈めて剣の下を抜け、騎士がティアへ向かう位置に、自分の体を置き直す。


「行きな」


 短い声だった。


 ティアは動こうとした。

 それでも、足は床に貼りついたままだった。


 エスメラルダの袖から、血が落ちている。

 自分の傷さえ放って、通れる道を作ってくれている。


 分かっている。

 分かっているのに、怖い。


「わ、わたくし」


 口から出た声が、震えた。


 エスメラルダは振り向かなかった。


「怖いままでいいから、行きな!」


 剣とナイフがぶつかった。


 ティアは、その音に肩を跳ねさせた。


 そして、片足を前へ出した。


 たった一歩だった。

 次の一歩は、つまずくようになった。


 それでも、戻らなかった。


 横から兵が来る。

 門の外にいたゴブリンの男が、落ちていた荷役棒を拾い、その兵との間へ突き出した。追い払うように振った棒が、槍の柄を叩く。


「先生、早く!」


 誰に言われたのかを考える余裕もなかった。


 ティアは、ゆりあの隣に膝をついた。


 石の冷たさが、布越しに伝わってきた。

 そんなことを感じる自分が、ひどく遅い気がした。


 頬に触れる。

 顔をのぞき込む。


 胸が、動いていなかった。


 震える手を当てた。

 その下で、命の拍動は返ってこなかった。


「……っ」


 息をのんだ。


 ゆりあが、死んでいる。


 その言葉が頭の中に浮かんだ途端、指の感覚が遠のきかけた。


 違う。

 手を、離してはいけない。


 まだ、呼び戻せる。


 触れた手を通して、魂と体のつながりが、かろうじて残っているのを感じた。完全に失われてはいない。体を治して、こちらへ呼べば、まだ間に合う。


 ティアは、片手を添えたまま、もう一方の手を矢へ伸ばした。


 怖かった。


 傷を見ることよりも、ゆりあが痛いとも言わないことが。


 これほど近くにいるのに、自分を見てくれないことが。


 手のひらに、淡い光がともった。


 矢を取り除き、傷ついた体を治していく。

 破れた服は、そのままだった。こぼれた血も、床から消えてはくれなかった。


 治るのは、傷だけだ。


 ティアは、目の前の顔から目をそらさなかった。


 金属の音がした。

 誰かが叫んだ。


 視界の端で、弩を構え直そうとした兵が腕を押さえた。乾いた音を立てて武器が落ちる。エスメラルダの投げたナイフが、その足元へ転がっていた。


 残った一本で剣をそらし、エスメラルダが後ろへ滑った。


 守ってくれている。


 だから、手を離さない。


「ゆりあさん」


 名前を呼んだ。


 治すべき傷は、もう塞がっていた。


 けれど、まだ胸は動かなかった。


 体だけを治せばよいわけではない。

 こちらへ帰りたいと、本人が望まなければならない。


 そのことを、ティアは自分で説明した。


 無理に連れ戻すことは、できない。


 今、手のひらにある顔が、どこか遠くに感じられた。


 苦しかっただろう。

 痛かっただろう。


 また同じ場所へ帰りたいと、思ってくれるだろうか。


 ティアは唇をかんだ。


 安全な場所にしてから呼んであげたい。

 怖いものを全部なくして、もう大丈夫だと迎えてあげたい。


 それが、できない。


 剣の音はやまないし、自分の手さえ震えている。


 それでも。


「帰ってきて、ください」


 声が、うまく続かなかった。


 一度息を吸って、もう一度呼んだ。


「ゆりあさん。わたくし、ここにおります」


 あの夜、隣を空けておくと約束した。


 次に飲むときも、その次も。

 ゆりあは、そこに座ると言ってくれた。


 そのときの声が、耳に残っている。

 照れた顔も、青いリボンを結ぶ指も。


 気軽に好きだと言うくせに、見つめ返すと、途端に目が泳ぐ人。


 仕事中に何度も女の子へ声をかけて、自分を慌てさせる人。


 その人の帰る場所を、空けておくと言ったのだ。


「まだ、一緒に飲んでいないお酒が、ございます」


 涙が頬を伝った。


「知らない町にも、行くのでしょう。わたくしは、道も分かりませんし、宿を探すのも、あまり得意ではなくて」


 言いながら、声が崩れた。


 旅の段取りなど、今、頼むことではない。

 ゆりあがいなければ困るから、戻ってほしいのでもなかった。


「……一緒が、いいんです」


 やっと、それだけが言えた。


「明日も、ゆりあさんと」


 頬に添えた手を、ほんの少し動かした。


「帰ってきてください。わたくしの隣へ」


 光の中で、指先が動いた。


 ティアは息を止めた。


 手の下に、かすかな動きがあった。


 もう一度。


 胸が、小さく持ち上がった。


     *


 最初に分かったのは、息が吸える、ということだった。


 空気が入ってきた。

 それだけで、体の奥がびっくりした。


 吸える。


 さっきまで、あれほど欲しかったものが、何もしなくても入ってくる。


 私は反射的にもう一度息を吸って、せき込んだ。


「ゆりあさん!」


 すぐ近くで声がした。


 目を開ける。

 うまく焦点が合わなくて、まばたきを繰り返した。


 銀色が、揺れていた。


 その向こうに、知っている顔がある。


 ティアだ。


 青紫の目が、濡れていた。

 頬にも、顎にも、涙がついている。


 ああ。


 私、戻ってこられたんだ。


 そう思った瞬間、腕に力が入らなくなった。

 今まで入っていたのかも、よく分からないけれど。


 怖かった。


 痛かった。


 終わるのだと思った。

 本当に、もう何もできなくなるのだと。


 その続きを、今、吸っている。


「……ティア」


「はい。はい、ここにおります」


 早口で返事をしてくれた。


 すごく、ほっとした。


 何か、言わなきゃ。


 ありがとうとか。

 心配かけてごめんとか。


 格好いいことを言うなら、ちゃんと帰ってきたよ、だろうか。


 頭に浮かんだものが、全部、喉の途中でつかえた。


 私は、顔の横にある手に触れた。


「……声、した」


 それだけ言った。


 何を、どこまで聞いたのかは、思い出せなかった。

 ただ、呼んでくれる人がいると思った。


 そちらへ帰りたいと、思った。


 ティアの口元が、くしゃりと歪んだ。


「……はい」


 目の前の顔が、ぼやけた。


 今度は、私のほうの目が悪かった。


「積もる話は、荷台でやんな!」


 鋭い声が飛んできた。


 続いて、すぐそばで鉄がぶつかる。


 私は、ようやく思い出した。


 そうだった。


 まだ、お城の前だった。


 死ぬ前から持ち越した用事が、がっつり残っている。


 身を起こしかけて、服の重さに気づいた。


 右の胸のあたりが、濡れている。

 指を添えると、布の下に痛みはなかった。


 傷が、ない。


 けれど、私の手は震えていた。


 顔を上げると、騎士がこちらを見ていた。

 エスメラルダの向こうから、私の顔と、血のついた服を。


 何かを言いかけた口が、閉じた。

 次の瞬間には、また剣が動いていた。


「立てますか」


 ティアが、脇へ手を入れてくれた。


「……うん」


 返事をしてから、膝を立てた。

 さっきまで動かなかった足が、ちゃんと床を押した。


 すごい、と思う余裕は、まだなかった。


 起きる。

 門を出る。

 馬車へ。


 目の前のことを、ひとつずつ頭に並べ直した。


「姫、先に!」


 私の声に、門のところにいた小さな顔が振り向いた。


 金色の目が、大きくなる。


「あなた……!」


「あとで。お願い、乗って!」


 姫は、何かを言いかけた。

 けれど、唇を結び、止まっている荷馬車へ向き直った。


 御者のおじさんが、御者台から手を貸す。

 新しい靴の底が、荷台の縁にかかった。


 よし。


 今度は私。


 ティアの肩を借りて、一歩出した。


 門の男の人が、兵へ突き出していた棒を引き、私たちの後ろへ下がった。槍が追ってくる。棒がもう一度ぶつかり、二人ともよろけた。


 私たちを守ってくれていたのだと、やっと分かった。


「走れるなら、走れ!」


 言われて、足を動かした。


 転びそうになった。

 ティアの手に、ぎゅっと力が入った。


 離さずに、二人で門を越えた。


 荷台から、小さな手が伸びていた。


「こっちなのだわ!」


 姫の手だった。


 全部の体重を預けるわけにはいかない。私は縁にも手をかけて、どうにか膝を乗せた。後ろからティアが支えてくれる。


 上がるとすぐに振り返り、今度はその手をつかんだ。


 ひとりで乗れるかもしれない。


 それでも、つかんでいたかった。


 ティアの足が、荷台に入る。


「エスメラルダ!」


 叫んだ。


 白い髪が、門の内側に見えた。


 大きな剣が、低く振られる。

 エスメラルダは後ろへ跳び、半歩だけ踏み込み直した。ナイフが騎士の顔の前をかすめ、追ってきた足が、一瞬止まる。


 エスメラルダが、こちらへ走った。


 最後まで門に残っていた男の人が、長い棒を横へ突き出した。

 追いすがる騎士が、それを剣で弾く。


 棒の先が割れた。


「出しな!」


 エスメラルダが叫んだ。


 馬が動き出した。


 男の人が荷台の後ろへ飛びつく。

 私はその服をつかんだ。姫が私の腰のあたりを引いてくれる。


 その横から、白い影が荷台へ滑り込んだ。


 車輪が跳ねた。


 全員まとめて、床に転がった。


「その馬車を追え!」


 背中のほうから、声がした。


 私は、頭を上げそうになった。


「伏せてな!」


 すぐにエスメラルダの手で押し戻される。


 何かが荷台の外側を叩いた。

 馬のひづめが、石を打つ音が速くなった。


 私は、ティアの袖を握った。


 見えている。

 ここにいる。


 そのことだけ、何度も確かめた。


     *


 角を二つ曲がって、ようやく、エスメラルダが身を起こした。


「怪我は」


 短く聞かれた。


 私は自分の胸を押さえた。


「治ってる……と思う」


「治しております」


 隣から、ティアが言った。


 その声を聞くと、もう一度、息がしたくなった。

 私はゆっくり吸って、吐いた。


 できる。


 何度やっても、ちゃんとできる。


 ティアは私の手を確かめてから、エスメラルダへ向き直った。


「今度は、あなたの番です」


「あーしは、まだ――」


「腕を、お貸しください」


 珍しく、言い切った。


 エスメラルダが、少しだけ目を見開いた。

 それから、血のにじんだ腕を差し出した。


「……頼む」


 ティアの手に、光が戻った。


 私は、その横顔を見た。


 涙の跡が残っている。

 銀色の髪が頬に貼りつき、青いリボンも片方が少し下がっていた。


 そのままで、次の人を治している。


 思い出した。


 倒れる前、騎士が、ティアの行く手をふさいでいた。


「……来てくれたんだね」


 私が言うと、ティアの手が一瞬止まりかけた。


 すぐに、また動いた。


「お呼びに、なりましたから」


 それだけだった。


 胸が詰まった。


 そうだ。

 私は呼んだのだ。


 怖がりな人だと、知っていて。

 剣の向こうにいるのを、見ていて。


 来てほしいと、思った。


 ティアはエスメラルダの腕を治し終えると、こちらを見た。


 何かを言いかけて、言わなかった。


 代わりに、私の手を取った。


 指の間に指を入れる握り方ではなく、逃げてしまいそうなものを、両手で包むように。


 私も、握り返した。


「……生きてるよ」


 ちゃんと伝わってほしくて、口にした。


 ティアはうなずいた。


 それからもう一度、うなずいた。


 姫が、膝の上の布をきつく握っていた。


 私が顔を向けると、金色の目が揺れた。


「わたくし……あなたが、もう」


「うん」


 軽く流せなかった。


 大丈夫だったよ、と言おうとして、やめた。

 今は大丈夫でも、さっきは、そうではなかった。


「ティアが、呼んでくれた」


 姫は、唇を引き結んだ。


 それから小さな手を伸ばして、私の袖をつかんだ。


 さっき、荷台から伸ばしてくれた手だ。


 私は、その上に自分の手を重ねた。


 ひとつ、息をした。


 もう、手のひらに冷たい石は触れていなかった。


     *


 古い荷積み場が見えてきたとき、私はようやく、別の怖さを思い出した。


 ほかの皆は。


 お城から出られても、まだ終わりではない。

 あの子が帰るのを、待っている人たちがいる。


 薄暗くなった広場に、荷車が並んでいた。


 一台。

 二台。


 数えようとして、先に人の多さに目がいった。


 車輪のそばで座り込む人。

 誰かの肩を抱く人。

 水袋を回している人。


 緑色の顔が、いくつもこちらへ向いた。


「こっち!」


 剣を提げた女性が、走ってきた。


 リゼさんだった。


 いつもの、少し気軽な笑い方はしていない。荷台の私を見つけて、眉を寄せた。


「その血、誰の」


「……私の。もう治ってる」


 リゼさんの目が、ティアへ動いた。

 ティアがうなずく。


「分かった。話はあと」


 返事は、それだけだった。


 私は少し、ありがたかった。


「全員、来てるのかい」


 エスメラルダが、荷台から降りながら聞いた。


 名簿を抱えたゴブリンの男性が、近づいてきた。

 指には、黒くこびりついた汚れがある。


「採石場、百四人。鉱山、八十二人。こちらで、もう一度名前を呼びました」


 息を切らしながら、紙を押さえ直す。


「百八十六人。名簿の全員、そろっています」


 私は、男の人の顔を見た。


 もう一回言ってほしいと思った。


 聞こえなかったからではない。

 聞き間違えていないと、確かめたかった。


「……全員?」


「ああ。鉱山のほうは、見張りが増えててな。内側から押さえてくれた連中に時間を稼いでもらって、荷車を回した。知らせを戻すのが遅くなったが」


 男性が、後ろを振り返った。


「自力で歩き通せない十二人も、乗せてきた」


 荷台の奥から、毛布にくるまった手が上がった。


 それを見た瞬間、肩から力が抜けた。


 いる。


 作戦を立てたとき、紙の上で何度も数えた人たちが、今、本当に、ここにいる。


 人数を間違えないように。

 名前を飛ばさないように。


 そればかり考えていた。


 その一人ひとりに、顔があった。


 姫が、荷台の縁へ手をかけた。


 私は、体を支えようとした。

 けれど、その前にエスメラルダが手を差し出した。


 姫は、その手を取った。


 地面へ降りる。

 顔を隠していたフードを、自分で外す。


 誰かが、息をのんだ。


「……姫様」


 その声が、広場の端へ渡っていった。


 姫の口が開いた。


 何かを言おうとして、うまく声にならなかった。


 足元にいた年配の女性が、立ち上がろうとする。

 姫は、そちらへ一歩出た。


「座っていて、ちょうだい」


 自分もしゃがんで、相手の手を取った。


「……来てくれて、ありがとうなのだわ」


 女性の肩が揺れた。


 姫はその手を握ったまま、額を少し下げた。


 私には、次の言葉は聞こえなかった。


 聞こうとも、思わなかった。


 今、あの子が握りたかった手なのだ。

 ちゃんと、握れてよかった。


「ゆりあさん」


 ティアが、小さく呼んだ。


 その手を、私は握り返した。


「うん」


 それ以上言うと、また泣いてしまいそうだった。


「喜ぶのは、国境を越えてからだよ」


 エスメラルダの声で、私は顔を上げた。


 リゼさんの仲間の一人が、荷積み場の入口を見張っていた。

 町のほうを見て、こちらへ手を上げる。


 まだ、誰かが追ってくる。


 私はティアの手を離して、荷台から降りた。


「何を運べばいい?」


「そこの水袋。最後尾の車へお願い」


 リゼさんに言われ、うなずいた。


 持てる。

 歩ける。


 そう確かめてから、抱えた。


 ティアは、荷車の中の人へ声をかけていた。腕を押さえている人、足に布を巻いている人。そのそばへ寄っては、短く様子を聞き、手を当てていく。


 その間に、集落ごとのまとめ役が人を並べ直した。


 歩く人。

 肩を貸す人。

 車に乗る人。


 私たちが全部決めなくても、それぞれに、連れて帰りたい相手がいる。


「馬車、入口をふさぐのに使わせて」


 リゼさんが、御者のおじさんに言った。


 私たちを運んできた荷馬車のことだった。


「修理代は、あーしが持つ」


 エスメラルダが続ける。


 おじさんは、自分の馬車を見た。

 それから、町のほうを見た。


「……馬を外すのを、手伝ってくれ」


 何人かが駆け寄った。


 馬を列に加え、空になった車を、荷積み場の狭い入口へ斜めに押し込む。車輪の下へ石を詰めると、向こうからまっすぐ乗り入れる道がふさがった。


 これで追手が消えるわけではない。


 でも、次の角まで進む時間は、作れる。


「そのナイフ、一本貸しな」


 エスメラルダが、リゼさんの腰を指した。


「なくしたら弁償ね」


「返すよ」


 差し出された短い刃を受け取り、エスメラルダが列の後ろへ回った。


 六台の車が、順に動き始めた。


 姫は、さっき手を握っていた女性と同じ車へ乗った。立ち上がろうとする人を制し、自分も腰を下ろす。


「揺れるのだから、つかまっていてちょうだい」


 小さな声だった。

 けれど、相手の顔を見て言っていた。


 私は、最後尾の車へ水袋を積んだ。


 ティアが、こちらへ戻ってくる。


「歩けますか」


「うん」


 今度は、さっきよりちゃんと答えられた。


 私たちは、荷車の隣を歩き始めた。


     *


 夜の森は、全然きれいではなかった。


 いや、きっと、昼間だったらきれいなのだと思う。


 今の私は、枝が折れる音を聞くたびに振り向いた。

 車輪が石をはじく音に、肩をこわばらせた。


 弩の音を、思い出してしまう。


 一度気づくと、暗がりが全部、誰かの隠れられる場所に見えた。


 さっきまで、怖いなんて言っている場合ではなかった。

 人を数えて、水を運んで、足を動かしていた。


 少し考える余裕ができると、怖さも一緒についてきた。


 私は、服の胸元をつまんだ。


 穴が空いていた。

 そこから夜の空気が入ってくる。


 ティアが貸してくれた布を、肩から掛け直した。


 治してもらった場所は痛まない。


 それなのに、痛かったことを、体のほうが忘れてくれない。


「ゆりあさん」


 呼ばれて、顔を向けた。


 ティアが、片手を差し出していた。


「手を、お借りしてもよろしいですか」


「……うん」


「暗くて、転んでしまいそうなので」


 そう言う本人は、ちゃんと足元を見て歩いていた。


 私は、その手を取った。


 何も聞かれなかった。


 血のついた服のことも。

 音がするたびに、私が黙ることも。


 そのまま、隣にいてくれた。


 私は少しだけ、握る力を強くした。


 いくら歩いても、森は終わらなかった。


 途中、細い橋に差しかかったとき、後ろからひづめの音が来た。


 先を探るために、馬だけで追いついてきたのだと、リゼさんが言った。


「振り返らず、渡って」


 列は止まらなかった。


 私は、車から降りて歩いていた女性に腕を貸した。橋板の継ぎ目を、一つずつ越える。


 後ろで、馬がいなないた。


 見ないように言われても、見てしまった。


 橋の入口に、エスメラルダたちがいた。


 狭い橋へ馬ごと踏み込もうとした兵が、進路をふさがれて止まる。一人が降り、剣を抜いた。リゼさんがそれを受けて、横へ流した。


 別の兵が前へ出ようとする。

 けれど、前の人と馬が、道をふさいでいる。


 私の足まで、止まりかけた。


 助けに行かなきゃと思った。


 同時に、あの剣の前に立つ自分を想像して、足の裏が冷えた。


 女性の手が、私の腕を握った。


「……すまないね」


 私は、その顔を見た。


 今、私が離してはいけないのは、この手だ。


「ゆっくりで、大丈夫」


 言って、足を出した。


 橋を渡り終えたところで、もう一人が反対側から肩を貸してくれた。


 そのとき、また、ひづめの音がした。


 三騎いた兵士の後ろへ、もう一騎が追いついた。


 見覚えのある、大きな鎧。


 背中が、冷えた。


 あの騎士だった。


「待て」


 低い声がした。


 私は、女性をかばうように体をずらした。


 けれど、騎士が止めたのは、剣を交えていた自分の部下だった。


「いったん、引け」


 兵士が、戸惑ったように顔を上げた。

 それでも、剣を構えたまま後ろへ下がる。


 騎士の目が、私に向いた。


 顔。

 血のついた服。

 自分の足で立っている、その足元。


 順番に、確かめるように。


 私は、服を握り締めた。


「……治癒師」


 その視線が、私の隣へ移った。


 ティアが、一歩、前へ出かけた。


 私は、そっと袖に触れた。


 一人で行かせたくなかった。

 さっき、私を追いかけてきてくれた人を。


 ティアは、こちらを見た。


 小さくうなずき、私と並んだところで足を止めた。


「先ほど、ティターニアの御名を口にしたな」


 騎士が言った。


 ティアは、うなずいた。


「……はい」


「我らが救いを祈る、女神の名だ」


 剣を握る部下の手が、わずかに動いた。


 騎士は、ティアを見たまま続けた。


「名乗るだけなら、誰にでもできる。そう思った」


 その目が、もう一度、私へ向いた。


「だが、あの傷を負った者が、もう歩いている」


 門の前で、私を見ていた目を思い出した。


 あのときから、見ていたのだ。


 ティアに支えられ、私が、もう一度立ち上がるところを。


「……あの女を、呼び戻したのか」


 ティアの指が、袖の中で動いた。


「はい」


 今度は、はっきり聞こえた。


 騎士は、しばらく黙っていた。


 川の音が、やけに大きく聞こえる。


「ならば、なぜだ」


 声が、低くなった。


「女神が、なぜ魔物の逃亡を助ける。人間の国を、危険にさらしてまで」


 ティアが、隣の女性を見た。


 私に腕を支えられて、ようやくここまで歩いてきた人だった。


 少し離れた荷車では、姫がこちらを見ていた。

 その隣にも、その次の車にも、人がいる。


 ティアは、もう一度、騎士へ顔を向けた。


「あなた方だけの女神だと、いつ、わたくしが申しましたか」


 騎士の口が、わずかに開いた。


 ティアは、背筋を伸ばした。


「助けてほしいと、声が届きました。帰りたいと、おっしゃいました」


 その声を、私は聞いていた。


「ゆえに、手を差し伸べたまでです」


 袖のそばにある指が、震えていた。


 それでも、目をそらさなかった。


「この方々は、帰ります。剣を収め、お通しなさい」


 私は、ティアの横顔を見た。


 城で聞いた、あの名乗り。

 あのときは、誰も、道を開けてくれなかった。


 そのあとで、ティアは私のところへ来た。

 泣きながら呼んで、ここへ戻してくれた。


 あの名を名乗った人が、何をしたのか。


 騎士も、それを見ていた。


「ですが、王命は――」


 兵士の一人が言いかけた。


 騎士が、片手を上げた。


「分かっている」


 腰の剣へ添えていた手が、ゆっくり離れた。


「神殿へ確認を求める。あの御名と、今夜見た力を、私の判断だけで偽りと決めつけることはできん」


 ティアを見たまま、言った。


「女神その人に剣を向けた可能性を、陛下へ報告せずに追討は続けられぬ」


 兵士たちが、互いの顔を見た。


「今夜の追撃は、ここまでだ。兵を戻す」


 騎士の声が、橋へ響いた。


 私は、すぐには動けなかった。


 兵士が剣を下ろした。

 馬の向きが変わる。


 それを見ても、まだ、足が動かなかった。


 騎士は最後まで、頭を下げなかった。


 すべて納得したわけではないのだと思う。


 けれど、命令に従うだけでよいのかを、一度、考えてくれた。


 それだけの時間が、今の私たちには必要だった。


「行くよ」


 エスメラルダの声がした。


 ナイフを収めないまま、後ろ向きに下がってくる。


「あの男の気が変わるまで、待ってやる義理はない」


 私は、ようやくうなずいた。


 女性の手を支え直す。

 列が、また動き始めた。


 ティアも、隣を歩いた。


 しばらく、何も言わなかった。


 橋が木立に隠れてから、細く息を吐く音がした。


「……立てました」


 聞き取れないくらい、小さな声だった。


「うん」


 私は答えた。


「格好よかった」


 ティアは、首を少し横へ振った。


 私は、続けた。


「ほんとに。大好きな女神さまだなって、思った」


 青紫の目が、こちらへ向いた。


「……そのお話は、あとで」


 さっきまでとは、違う震え方の声だった。


 その返事が嬉しくて、私は小さく笑ってしまった。


 空が白くなるころ、交代で車に乗り、短い休憩を挟むようになった。


 ティアは傷を治してくれた。

 けれど、お腹がすいて歩けなくなった人に、手の光だけで元気を戻すことはできない。


 水を飲む。

 小さくちぎったパンを食べる。

 少し座る。


 それから、また歩く。


 眠いときは眠いし、足は疲れる。


 こんなにも普通の体で、よくあんなことをしたな、と、自分でも思った。


 昼を過ぎても、後ろを見張る人は減らなかった。


 騎士が引き返したからといって、王国の兵がすべて止まったと確かめられたわけではない。

 後ろで物音がするたびに、列の歩みが少し速くなった。


 皆、疲れていた。


 私だけではなく、皆が、それでも足を出していた。


 そして、日が傾き始めたころ。


 谷の向こうに、火が見えた。


 最初は、誰かの持つ明かりだと思った。


 近づくと、柵が見えた。

 見張り台があり、その下に武装した人たちが並んでいた。


 私は思わず、立ち止まりそうになった。


 今度は、誰だろう。


 その前へ、姫が出た。


 ゆっくり車から降りて、エスメラルダに支えられながら歩く。


 見張りの一人が、こちらを見た。


 小さな顔。

 緑色の肌。


 その目が、姫にとまった。


「……姫様?」


 声の調子が変わった。


 近くの兵が、顔を上げる。

 見張り台へ向かって、誰かが叫んだ。


 柵の扉が開いた。


 道の両側へ兵が出て、私たちの後ろへ目を向ける。


 こちらに、武器を向けていなかった。


「全員、中へ! 車を先に通せ!」


 足が、急に重くなった。


 止まってもよいと思った途端、本当に止まってしまいそうだった。


 ティアの手を握り直した。


 一歩。

 もう一歩。


 柵の内側へ入る。


 最後の車が通り、見張りの兵が後ろを固めた。

 来た道を振り返っても、追手の姿は見えなかった。


 初めて、私たちの前ではなく、後ろで門が閉まった。


 ここは、あの子の国だった。


 国境の野営地には、鍋があった。


 大きな、見覚えのある鍋だった。


「冷める前に並んで! 立てない人の分は、こっちで運ぶから!」


 ミラさんが、お玉を片手に声を張っていた。


 町を出る日に、三人がかりで持ち上げた、あの鍋だ。


 その周りで、先に避難していた人たちが器を並べている。

 名前を呼んで走っていく人がいた。

 抱き合ったまま、しばらく動かない人もいた。


 ミラさんは、私たちを見つけると、一度だけ口を押さえた。


 でも、すぐにお玉を握り直した。


「……ほら。あんたたちも、食べなきゃ」


 差し出された器から、湯気が上がっていた。


 受け取った瞬間、お腹が鳴った。


 びっくりするくらい、盛大に。


 ミラさんが笑った。


 つられて、私も笑ってしまった。


 今まで、空腹を忘れていた。


 体は、ずいぶん正直だった。


     *


 皆の手当てが落ち着いたころには、空が暗くなっていた。


 ティアは最後まで、何度も呼び止められていた。

 そのたびに足を止め、相手の顔を見て、手を取った。


 声をかけられると、まだ肩が跳ねる。

 一度に二人から話しかけられると、どちらを向くか迷ってしまう。


 それでも、差し出された手は、ちゃんと取る。


 その横で、姫が人を座らせ、順番に事情を聞いていた。


 エスメラルダは、ようやく借りたナイフをリゼさんへ返した。


「欠けてないだろうね」


「見てみな」


 いつもの調子に近いやり取りが聞こえた。


 私は、水で手と顔を洗った。


 何度か、指の間までこすった。

 爪に残った汚れを落とし、清潔な布で拭く。


 顔を上げると、少し離れた焚き火のそばで、ティアがこちらを見ていた。


 両手に、木の杯を持っていた。


 近づくと、座っている長椅子の隣へ、一つを置く。


「お水ですけれど」


「……うん」


 私は、その隣に腰を下ろした。


 思ったより、ゆっくりした動きになった。


 ここに座っていいのだと分かると、足から力が抜けた。


 杯を取る。

 両手で包む。


 少しの間、二人とも何も言わなかった。


 焚き火がはぜた。


 肩が、わずかに動いた。

 ティアは気づいたと思う。


 でも、そちらを見なかった。


 私は、杯の中の水を見た。


「……ありがとう」


 やっと、言った。


「呼んでくれて」


 隣で、衣擦れの音がした。


「お戻りくださって、よかったです」


 ティアの声は静かだった。


 だからこそ、途中の小さな震えが聞こえた。


 私は、顔を向けた。


 ティアは自分の杯を見つめていた。


「手が、動いていなくて」


 ぽつりと、言った。


「いつも、わたくしを見つけると、何かおっしゃるのに。あんなに近くへ行っても、何も」


 唇を閉じる。


 私は、何も言えなかった。


 死んでいる間のことは、私には分からない。


 でも、ティアは見ていた。


 私が帰りたいと願っていた、その間ずっと。

 帰ってこないかもしれない私のそばに、いてくれた。


「怖かったです」


 ティアが言った。


「剣も、怖かったです。けれど、触ってもお返事がないことのほうが、ずっと」


 声が途切れた。


 私は杯を置いた。


 手を伸ばした。

 途中で、少し迷った。


 今、何を言えば、この人を安心させられるのだろう。


 大丈夫。

 ほら、生きてる。

 ティアがいてくれれば、私は平気。


 いつもの私なら、勢いで言ってしまったかもしれない。


 でも、さっきまで握っていた水袋の重さを思い出した。

 暗い森で、いちいち足が止まりかけたことも。


「私も、怖かった」


 それが、いちばんちゃんと言えることだった。


 ティアが、顔を上げた。


「息ができなくなって、もう戻れないんじゃないかって。最後のほう、ほかのこと、うまく考えられなくて」


 口にすると、指が震えた。


「助けてほしいって、思った」


 伸ばしかけていた手を、ティアが取った。


 私は、その温かさを感じながら続けた。


「ティアのところに、帰りたかった」


 言えた。


 私も、怖かった。

 私も、死にたくなかった。


 姫を助けたことと、それは、両方本当だった。


 ティアの指が、私の手の甲をなぞった。


「……次に怖いときは、笑わなくてもよいです」


「え」


「わたくしに、笑って見せようとなさったでしょう」


 綱を引いていたときのことだと、少し遅れて分かった。


 見られていた。


「うまく、笑えてなかった?」


 ティアは、小さく首を振った。


「分かってしまいました」


 その返事が、胸に残った。


 私は顔を伏せかけて、やめた。


「……そっか」


「はい」


 手が、離れなかった。


 私は少しずつ、握り返した。


「じゃあ、そのときは、手、借りてもいい?」


「はい」


 ティアは、今度はすぐに答えた。


「わたくしも、お借りします」


 強い人の約束では、なかった。


 きっとティアは、明日も慌てる。

 私も、何かの音にびっくりする。


 それでも、隣の人に手を借りられる。


 それが、こんなにほっとすることだとは思わなかった。


 ティアが、そっと身を寄せた。


 肩が触れた。

 次に、腕が背中へ回った。


 私は、動けなくなった。


 すごく慎重に、確かめるみたいに、抱きしめられている。


 自分の腕をどこへ置くべきか、数秒間、本気で分からなかった。


 女の子が大好きな女、栗花落ゆりあ、二十四歳。


 抱きしめられた場合の作法については、未履修である。


 いや。

 ここは抱き返すところだろう。


 分かっている。

 分かっているんだけど、好きな人のほうから来てくれた、という事実を処理する部署が、私の中には存在しない。


 急いで設立してほしい。

 できれば、今。


 ようやく背中へ手を回すと、ティアの肩から力が抜けた。


 その小さな変化に、私も力が抜けた。


 銀色の髪が、頬に触れる。


 触れている。


 私は息を吐いた。


 ティアの肩へ、少しだけ顔を寄せた。


「……大好き」


 いつも言っている言葉なのに、小さな声になった。


「知ってると、思うけど」


 ティアが、腕の中でうなずいた。


「はい」


 少し間が空いた。


「でも、お聞きしたかったです」


 困った。


 それは、困る。


 そんな返事をされると、この先、一日に何回言えば足りるのか分からなくなる。


 今の声を、記憶に保存するだけでいいのだろうか。

 控えを三つくらい取りたい。寝ぼけて思い出せなくなった日の私にも、絶対に聞かせてあげたい。


 私は、言葉の代わりに、もう一度抱きしめた。


 しばらくして、ティアのほうから少し体を離した。


 目が合う。


 顔が近い。


 近い、と気づいたら、急に見ていられなくなった。


 私は視線を逃がして、ちょうどよく青いものを見つけた。


「リボン」


 口に出してから、ちょっと助かったと思った。


「片方、ほどけかけてる」


 ティアが髪へ手をやった。


「本当ですね」


「結び直しても、いい?」


 ティアは、うなずいた。


 こちらへ、背中を向けてくれる。


 私は、リボンをそっとほどいた。


 髪が、指の間を滑った。


 女神さまの後頭部が、こんなに近い。


 落ち着こう。

 今の私に任されているのは、リボンである。

 後頭部のかわいさを味わい尽くす仕事ではない。


 ……多少は、兼任できないだろうか。


 欲張って失敗すると格好悪いので、ちゃんと手元を見ることにした。


 長さをそろえて、結ぶ。


 作戦の前の夜も、その翌朝も、こうした。


 また結ぶよ、と言った。


 その、また、が来ていた。


「できた」


 指を離した。


 ティアが振り向く。

 青いリボンが、銀色の髪の上で小さく揺れた。


「……いかがでしょうか」


 少しだけ、照れたように聞かれた。


 私は、その顔を見た。


 涙の跡が、まだ少し残っている。

 疲れているし、髪も、いつもほどきれいに整っていない。


 それでも、私を見て、笑おうとしてくれている。


「かわいい」


 今度は、ちゃんと声にした。


「すごく」


 ティアは、目元を和らげた。


 私はその顔を見て、もう一度、この人に会いたかったのだと思った。


 何人の女の子をかわいいと思っても。

 どれだけ素敵な人と出会っても。


 帰るとき、真っ先に探したくなる顔は、この人なのだ。


 杯を持ち直す。


 ティアも、自分の杯を取った。


 隣が、温かい。


 私は、ようやく言えた。


「ただいま、ティア」


 ティアが、こちらを見た。


 小さく息を吸って、笑った。


「おかえりなさい、ゆりあさん」


 木の杯が、こつんと触れた。


 水を飲んだ。

 喉を通って、お腹へ落ちていく。


 全部、分かった。


 杯を膝の上へ戻すと、隣から手が伸びてきた。


 私は、その手を取った。


 私の席は、ちゃんと空いていた。


 そして今、そこに、私が座っている。

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