第12話:臆病な女神の、たった一つの奇跡
ゆりあの呼ぶ声が、途中で途切れた。
綱を引いていた手に、まだ縄の感触が残っていた。
ティアは、門の反対側から駆け寄ろうとした。
その目の前を、剣が横切った。
風が頬に当たった。
「下がれ。お前まで傷つけるつもりはない」
騎士の声は、落ち着いていた。
ティアの膝が、勝手に折れかけた。
剣の届かないところへ逃げなければ、と体が訴えた。
あの刃が当たったら、痛い。
きっと、立っていられない。
それを、知ってしまった。
天界にいたころ、誰かが傷つくのを見たことはあっても、自分が傷つけられる場所に立ったことはなかった。止まれと言われて、本当に足が動かなくなることも。救いたいと思うだけでは、手が届かないことも。
ほんの数歩の先に、ゆりあがいる。
こちらへ伸ばそうとした手が、石の上に落ちている。
いつもは、すぐに出てくる声がしない。
「ゆりあ、さん」
もう一度呼んだ。
返事はなかった。
騎士が、ティアの腕へ手を伸ばした。
その手前へ、白い髪が割り込んだ。
「その子に用はないんだろ」
エスメラルダの刃が、騎士の手を引かせた。
次の一撃を、まともには受けない。低く身を沈めて剣の下を抜け、騎士がティアへ向かう位置に、自分の体を置き直す。
「行きな」
短い声だった。
ティアは動こうとした。
それでも、足は床に貼りついたままだった。
エスメラルダの袖から、血が落ちている。
自分の傷さえ放って、通れる道を作ってくれている。
分かっている。
分かっているのに、怖い。
「わ、わたくし」
口から出た声が、震えた。
エスメラルダは振り向かなかった。
「怖いままでいいから、行きな!」
剣とナイフがぶつかった。
ティアは、その音に肩を跳ねさせた。
そして、片足を前へ出した。
たった一歩だった。
次の一歩は、つまずくようになった。
それでも、戻らなかった。
横から兵が来る。
門の外にいたゴブリンの男が、落ちていた荷役棒を拾い、その兵との間へ突き出した。追い払うように振った棒が、槍の柄を叩く。
「先生、早く!」
誰に言われたのかを考える余裕もなかった。
ティアは、ゆりあの隣に膝をついた。
石の冷たさが、布越しに伝わってきた。
そんなことを感じる自分が、ひどく遅い気がした。
頬に触れる。
顔をのぞき込む。
胸が、動いていなかった。
震える手を当てた。
その下で、命の拍動は返ってこなかった。
「……っ」
息をのんだ。
ゆりあが、死んでいる。
その言葉が頭の中に浮かんだ途端、指の感覚が遠のきかけた。
違う。
手を、離してはいけない。
まだ、呼び戻せる。
触れた手を通して、魂と体のつながりが、かろうじて残っているのを感じた。完全に失われてはいない。体を治して、こちらへ呼べば、まだ間に合う。
ティアは、片手を添えたまま、もう一方の手を矢へ伸ばした。
怖かった。
傷を見ることよりも、ゆりあが痛いとも言わないことが。
これほど近くにいるのに、自分を見てくれないことが。
手のひらに、淡い光がともった。
矢を取り除き、傷ついた体を治していく。
破れた服は、そのままだった。こぼれた血も、床から消えてはくれなかった。
治るのは、傷だけだ。
ティアは、目の前の顔から目をそらさなかった。
金属の音がした。
誰かが叫んだ。
視界の端で、弩を構え直そうとした兵が腕を押さえた。乾いた音を立てて武器が落ちる。エスメラルダの投げたナイフが、その足元へ転がっていた。
残った一本で剣をそらし、エスメラルダが後ろへ滑った。
守ってくれている。
だから、手を離さない。
「ゆりあさん」
名前を呼んだ。
治すべき傷は、もう塞がっていた。
けれど、まだ胸は動かなかった。
体だけを治せばよいわけではない。
こちらへ帰りたいと、本人が望まなければならない。
そのことを、ティアは自分で説明した。
無理に連れ戻すことは、できない。
今、手のひらにある顔が、どこか遠くに感じられた。
苦しかっただろう。
痛かっただろう。
また同じ場所へ帰りたいと、思ってくれるだろうか。
ティアは唇をかんだ。
安全な場所にしてから呼んであげたい。
怖いものを全部なくして、もう大丈夫だと迎えてあげたい。
それが、できない。
剣の音はやまないし、自分の手さえ震えている。
それでも。
「帰ってきて、ください」
声が、うまく続かなかった。
一度息を吸って、もう一度呼んだ。
「ゆりあさん。わたくし、ここにおります」
あの夜、隣を空けておくと約束した。
次に飲むときも、その次も。
ゆりあは、そこに座ると言ってくれた。
そのときの声が、耳に残っている。
照れた顔も、青いリボンを結ぶ指も。
気軽に好きだと言うくせに、見つめ返すと、途端に目が泳ぐ人。
仕事中に何度も女の子へ声をかけて、自分を慌てさせる人。
その人の帰る場所を、空けておくと言ったのだ。
「まだ、一緒に飲んでいないお酒が、ございます」
涙が頬を伝った。
「知らない町にも、行くのでしょう。わたくしは、道も分かりませんし、宿を探すのも、あまり得意ではなくて」
言いながら、声が崩れた。
旅の段取りなど、今、頼むことではない。
ゆりあがいなければ困るから、戻ってほしいのでもなかった。
「……一緒が、いいんです」
やっと、それだけが言えた。
「明日も、ゆりあさんと」
頬に添えた手を、ほんの少し動かした。
「帰ってきてください。わたくしの隣へ」
光の中で、指先が動いた。
ティアは息を止めた。
手の下に、かすかな動きがあった。
もう一度。
胸が、小さく持ち上がった。
*
最初に分かったのは、息が吸える、ということだった。
空気が入ってきた。
それだけで、体の奥がびっくりした。
吸える。
さっきまで、あれほど欲しかったものが、何もしなくても入ってくる。
私は反射的にもう一度息を吸って、せき込んだ。
「ゆりあさん!」
すぐ近くで声がした。
目を開ける。
うまく焦点が合わなくて、まばたきを繰り返した。
銀色が、揺れていた。
その向こうに、知っている顔がある。
ティアだ。
青紫の目が、濡れていた。
頬にも、顎にも、涙がついている。
ああ。
私、戻ってこられたんだ。
そう思った瞬間、腕に力が入らなくなった。
今まで入っていたのかも、よく分からないけれど。
怖かった。
痛かった。
終わるのだと思った。
本当に、もう何もできなくなるのだと。
その続きを、今、吸っている。
「……ティア」
「はい。はい、ここにおります」
早口で返事をしてくれた。
すごく、ほっとした。
何か、言わなきゃ。
ありがとうとか。
心配かけてごめんとか。
格好いいことを言うなら、ちゃんと帰ってきたよ、だろうか。
頭に浮かんだものが、全部、喉の途中でつかえた。
私は、顔の横にある手に触れた。
「……声、した」
それだけ言った。
何を、どこまで聞いたのかは、思い出せなかった。
ただ、呼んでくれる人がいると思った。
そちらへ帰りたいと、思った。
ティアの口元が、くしゃりと歪んだ。
「……はい」
目の前の顔が、ぼやけた。
今度は、私のほうの目が悪かった。
「積もる話は、荷台でやんな!」
鋭い声が飛んできた。
続いて、すぐそばで鉄がぶつかる。
私は、ようやく思い出した。
そうだった。
まだ、お城の前だった。
死ぬ前から持ち越した用事が、がっつり残っている。
身を起こしかけて、服の重さに気づいた。
右の胸のあたりが、濡れている。
指を添えると、布の下に痛みはなかった。
傷が、ない。
けれど、私の手は震えていた。
顔を上げると、騎士がこちらを見ていた。
エスメラルダの向こうから、私の顔と、血のついた服を。
何かを言いかけた口が、閉じた。
次の瞬間には、また剣が動いていた。
「立てますか」
ティアが、脇へ手を入れてくれた。
「……うん」
返事をしてから、膝を立てた。
さっきまで動かなかった足が、ちゃんと床を押した。
すごい、と思う余裕は、まだなかった。
起きる。
門を出る。
馬車へ。
目の前のことを、ひとつずつ頭に並べ直した。
「姫、先に!」
私の声に、門のところにいた小さな顔が振り向いた。
金色の目が、大きくなる。
「あなた……!」
「あとで。お願い、乗って!」
姫は、何かを言いかけた。
けれど、唇を結び、止まっている荷馬車へ向き直った。
御者のおじさんが、御者台から手を貸す。
新しい靴の底が、荷台の縁にかかった。
よし。
今度は私。
ティアの肩を借りて、一歩出した。
門の男の人が、兵へ突き出していた棒を引き、私たちの後ろへ下がった。槍が追ってくる。棒がもう一度ぶつかり、二人ともよろけた。
私たちを守ってくれていたのだと、やっと分かった。
「走れるなら、走れ!」
言われて、足を動かした。
転びそうになった。
ティアの手に、ぎゅっと力が入った。
離さずに、二人で門を越えた。
荷台から、小さな手が伸びていた。
「こっちなのだわ!」
姫の手だった。
全部の体重を預けるわけにはいかない。私は縁にも手をかけて、どうにか膝を乗せた。後ろからティアが支えてくれる。
上がるとすぐに振り返り、今度はその手をつかんだ。
ひとりで乗れるかもしれない。
それでも、つかんでいたかった。
ティアの足が、荷台に入る。
「エスメラルダ!」
叫んだ。
白い髪が、門の内側に見えた。
大きな剣が、低く振られる。
エスメラルダは後ろへ跳び、半歩だけ踏み込み直した。ナイフが騎士の顔の前をかすめ、追ってきた足が、一瞬止まる。
エスメラルダが、こちらへ走った。
最後まで門に残っていた男の人が、長い棒を横へ突き出した。
追いすがる騎士が、それを剣で弾く。
棒の先が割れた。
「出しな!」
エスメラルダが叫んだ。
馬が動き出した。
男の人が荷台の後ろへ飛びつく。
私はその服をつかんだ。姫が私の腰のあたりを引いてくれる。
その横から、白い影が荷台へ滑り込んだ。
車輪が跳ねた。
全員まとめて、床に転がった。
「その馬車を追え!」
背中のほうから、声がした。
私は、頭を上げそうになった。
「伏せてな!」
すぐにエスメラルダの手で押し戻される。
何かが荷台の外側を叩いた。
馬のひづめが、石を打つ音が速くなった。
私は、ティアの袖を握った。
見えている。
ここにいる。
そのことだけ、何度も確かめた。
*
角を二つ曲がって、ようやく、エスメラルダが身を起こした。
「怪我は」
短く聞かれた。
私は自分の胸を押さえた。
「治ってる……と思う」
「治しております」
隣から、ティアが言った。
その声を聞くと、もう一度、息がしたくなった。
私はゆっくり吸って、吐いた。
できる。
何度やっても、ちゃんとできる。
ティアは私の手を確かめてから、エスメラルダへ向き直った。
「今度は、あなたの番です」
「あーしは、まだ――」
「腕を、お貸しください」
珍しく、言い切った。
エスメラルダが、少しだけ目を見開いた。
それから、血のにじんだ腕を差し出した。
「……頼む」
ティアの手に、光が戻った。
私は、その横顔を見た。
涙の跡が残っている。
銀色の髪が頬に貼りつき、青いリボンも片方が少し下がっていた。
そのままで、次の人を治している。
思い出した。
倒れる前、騎士が、ティアの行く手をふさいでいた。
「……来てくれたんだね」
私が言うと、ティアの手が一瞬止まりかけた。
すぐに、また動いた。
「お呼びに、なりましたから」
それだけだった。
胸が詰まった。
そうだ。
私は呼んだのだ。
怖がりな人だと、知っていて。
剣の向こうにいるのを、見ていて。
来てほしいと、思った。
ティアはエスメラルダの腕を治し終えると、こちらを見た。
何かを言いかけて、言わなかった。
代わりに、私の手を取った。
指の間に指を入れる握り方ではなく、逃げてしまいそうなものを、両手で包むように。
私も、握り返した。
「……生きてるよ」
ちゃんと伝わってほしくて、口にした。
ティアはうなずいた。
それからもう一度、うなずいた。
姫が、膝の上の布をきつく握っていた。
私が顔を向けると、金色の目が揺れた。
「わたくし……あなたが、もう」
「うん」
軽く流せなかった。
大丈夫だったよ、と言おうとして、やめた。
今は大丈夫でも、さっきは、そうではなかった。
「ティアが、呼んでくれた」
姫は、唇を引き結んだ。
それから小さな手を伸ばして、私の袖をつかんだ。
さっき、荷台から伸ばしてくれた手だ。
私は、その上に自分の手を重ねた。
ひとつ、息をした。
もう、手のひらに冷たい石は触れていなかった。
*
古い荷積み場が見えてきたとき、私はようやく、別の怖さを思い出した。
ほかの皆は。
お城から出られても、まだ終わりではない。
あの子が帰るのを、待っている人たちがいる。
薄暗くなった広場に、荷車が並んでいた。
一台。
二台。
数えようとして、先に人の多さに目がいった。
車輪のそばで座り込む人。
誰かの肩を抱く人。
水袋を回している人。
緑色の顔が、いくつもこちらへ向いた。
「こっち!」
剣を提げた女性が、走ってきた。
リゼさんだった。
いつもの、少し気軽な笑い方はしていない。荷台の私を見つけて、眉を寄せた。
「その血、誰の」
「……私の。もう治ってる」
リゼさんの目が、ティアへ動いた。
ティアがうなずく。
「分かった。話はあと」
返事は、それだけだった。
私は少し、ありがたかった。
「全員、来てるのかい」
エスメラルダが、荷台から降りながら聞いた。
名簿を抱えたゴブリンの男性が、近づいてきた。
指には、黒くこびりついた汚れがある。
「採石場、百四人。鉱山、八十二人。こちらで、もう一度名前を呼びました」
息を切らしながら、紙を押さえ直す。
「百八十六人。名簿の全員、そろっています」
私は、男の人の顔を見た。
もう一回言ってほしいと思った。
聞こえなかったからではない。
聞き間違えていないと、確かめたかった。
「……全員?」
「ああ。鉱山のほうは、見張りが増えててな。内側から押さえてくれた連中に時間を稼いでもらって、荷車を回した。知らせを戻すのが遅くなったが」
男性が、後ろを振り返った。
「自力で歩き通せない十二人も、乗せてきた」
荷台の奥から、毛布にくるまった手が上がった。
それを見た瞬間、肩から力が抜けた。
いる。
作戦を立てたとき、紙の上で何度も数えた人たちが、今、本当に、ここにいる。
人数を間違えないように。
名前を飛ばさないように。
そればかり考えていた。
その一人ひとりに、顔があった。
姫が、荷台の縁へ手をかけた。
私は、体を支えようとした。
けれど、その前にエスメラルダが手を差し出した。
姫は、その手を取った。
地面へ降りる。
顔を隠していたフードを、自分で外す。
誰かが、息をのんだ。
「……姫様」
その声が、広場の端へ渡っていった。
姫の口が開いた。
何かを言おうとして、うまく声にならなかった。
足元にいた年配の女性が、立ち上がろうとする。
姫は、そちらへ一歩出た。
「座っていて、ちょうだい」
自分もしゃがんで、相手の手を取った。
「……来てくれて、ありがとうなのだわ」
女性の肩が揺れた。
姫はその手を握ったまま、額を少し下げた。
私には、次の言葉は聞こえなかった。
聞こうとも、思わなかった。
今、あの子が握りたかった手なのだ。
ちゃんと、握れてよかった。
「ゆりあさん」
ティアが、小さく呼んだ。
その手を、私は握り返した。
「うん」
それ以上言うと、また泣いてしまいそうだった。
「喜ぶのは、国境を越えてからだよ」
エスメラルダの声で、私は顔を上げた。
リゼさんの仲間の一人が、荷積み場の入口を見張っていた。
町のほうを見て、こちらへ手を上げる。
まだ、誰かが追ってくる。
私はティアの手を離して、荷台から降りた。
「何を運べばいい?」
「そこの水袋。最後尾の車へお願い」
リゼさんに言われ、うなずいた。
持てる。
歩ける。
そう確かめてから、抱えた。
ティアは、荷車の中の人へ声をかけていた。腕を押さえている人、足に布を巻いている人。そのそばへ寄っては、短く様子を聞き、手を当てていく。
その間に、集落ごとのまとめ役が人を並べ直した。
歩く人。
肩を貸す人。
車に乗る人。
私たちが全部決めなくても、それぞれに、連れて帰りたい相手がいる。
「馬車、入口をふさぐのに使わせて」
リゼさんが、御者のおじさんに言った。
私たちを運んできた荷馬車のことだった。
「修理代は、あーしが持つ」
エスメラルダが続ける。
おじさんは、自分の馬車を見た。
それから、町のほうを見た。
「……馬を外すのを、手伝ってくれ」
何人かが駆け寄った。
馬を列に加え、空になった車を、荷積み場の狭い入口へ斜めに押し込む。車輪の下へ石を詰めると、向こうからまっすぐ乗り入れる道がふさがった。
これで追手が消えるわけではない。
でも、次の角まで進む時間は、作れる。
「そのナイフ、一本貸しな」
エスメラルダが、リゼさんの腰を指した。
「なくしたら弁償ね」
「返すよ」
差し出された短い刃を受け取り、エスメラルダが列の後ろへ回った。
六台の車が、順に動き始めた。
姫は、さっき手を握っていた女性と同じ車へ乗った。立ち上がろうとする人を制し、自分も腰を下ろす。
「揺れるのだから、つかまっていてちょうだい」
小さな声だった。
けれど、相手の顔を見て言っていた。
私は、最後尾の車へ水袋を積んだ。
ティアが、こちらへ戻ってくる。
「歩けますか」
「うん」
今度は、さっきよりちゃんと答えられた。
私たちは、荷車の隣を歩き始めた。
*
夜の森は、全然きれいではなかった。
いや、きっと、昼間だったらきれいなのだと思う。
今の私は、枝が折れる音を聞くたびに振り向いた。
車輪が石をはじく音に、肩をこわばらせた。
弩の音を、思い出してしまう。
一度気づくと、暗がりが全部、誰かの隠れられる場所に見えた。
さっきまで、怖いなんて言っている場合ではなかった。
人を数えて、水を運んで、足を動かしていた。
少し考える余裕ができると、怖さも一緒についてきた。
私は、服の胸元をつまんだ。
穴が空いていた。
そこから夜の空気が入ってくる。
ティアが貸してくれた布を、肩から掛け直した。
治してもらった場所は痛まない。
それなのに、痛かったことを、体のほうが忘れてくれない。
「ゆりあさん」
呼ばれて、顔を向けた。
ティアが、片手を差し出していた。
「手を、お借りしてもよろしいですか」
「……うん」
「暗くて、転んでしまいそうなので」
そう言う本人は、ちゃんと足元を見て歩いていた。
私は、その手を取った。
何も聞かれなかった。
血のついた服のことも。
音がするたびに、私が黙ることも。
そのまま、隣にいてくれた。
私は少しだけ、握る力を強くした。
いくら歩いても、森は終わらなかった。
途中、細い橋に差しかかったとき、後ろからひづめの音が来た。
先を探るために、馬だけで追いついてきたのだと、リゼさんが言った。
「振り返らず、渡って」
列は止まらなかった。
私は、車から降りて歩いていた女性に腕を貸した。橋板の継ぎ目を、一つずつ越える。
後ろで、馬がいなないた。
見ないように言われても、見てしまった。
橋の入口に、エスメラルダたちがいた。
狭い橋へ馬ごと踏み込もうとした兵が、進路をふさがれて止まる。一人が降り、剣を抜いた。リゼさんがそれを受けて、横へ流した。
別の兵が前へ出ようとする。
けれど、前の人と馬が、道をふさいでいる。
私の足まで、止まりかけた。
助けに行かなきゃと思った。
同時に、あの剣の前に立つ自分を想像して、足の裏が冷えた。
女性の手が、私の腕を握った。
「……すまないね」
私は、その顔を見た。
今、私が離してはいけないのは、この手だ。
「ゆっくりで、大丈夫」
言って、足を出した。
橋を渡り終えたところで、もう一人が反対側から肩を貸してくれた。
そのとき、また、ひづめの音がした。
三騎いた兵士の後ろへ、もう一騎が追いついた。
見覚えのある、大きな鎧。
背中が、冷えた。
あの騎士だった。
「待て」
低い声がした。
私は、女性をかばうように体をずらした。
けれど、騎士が止めたのは、剣を交えていた自分の部下だった。
「いったん、引け」
兵士が、戸惑ったように顔を上げた。
それでも、剣を構えたまま後ろへ下がる。
騎士の目が、私に向いた。
顔。
血のついた服。
自分の足で立っている、その足元。
順番に、確かめるように。
私は、服を握り締めた。
「……治癒師」
その視線が、私の隣へ移った。
ティアが、一歩、前へ出かけた。
私は、そっと袖に触れた。
一人で行かせたくなかった。
さっき、私を追いかけてきてくれた人を。
ティアは、こちらを見た。
小さくうなずき、私と並んだところで足を止めた。
「先ほど、ティターニアの御名を口にしたな」
騎士が言った。
ティアは、うなずいた。
「……はい」
「我らが救いを祈る、女神の名だ」
剣を握る部下の手が、わずかに動いた。
騎士は、ティアを見たまま続けた。
「名乗るだけなら、誰にでもできる。そう思った」
その目が、もう一度、私へ向いた。
「だが、あの傷を負った者が、もう歩いている」
門の前で、私を見ていた目を思い出した。
あのときから、見ていたのだ。
ティアに支えられ、私が、もう一度立ち上がるところを。
「……あの女を、呼び戻したのか」
ティアの指が、袖の中で動いた。
「はい」
今度は、はっきり聞こえた。
騎士は、しばらく黙っていた。
川の音が、やけに大きく聞こえる。
「ならば、なぜだ」
声が、低くなった。
「女神が、なぜ魔物の逃亡を助ける。人間の国を、危険にさらしてまで」
ティアが、隣の女性を見た。
私に腕を支えられて、ようやくここまで歩いてきた人だった。
少し離れた荷車では、姫がこちらを見ていた。
その隣にも、その次の車にも、人がいる。
ティアは、もう一度、騎士へ顔を向けた。
「あなた方だけの女神だと、いつ、わたくしが申しましたか」
騎士の口が、わずかに開いた。
ティアは、背筋を伸ばした。
「助けてほしいと、声が届きました。帰りたいと、おっしゃいました」
その声を、私は聞いていた。
「ゆえに、手を差し伸べたまでです」
袖のそばにある指が、震えていた。
それでも、目をそらさなかった。
「この方々は、帰ります。剣を収め、お通しなさい」
私は、ティアの横顔を見た。
城で聞いた、あの名乗り。
あのときは、誰も、道を開けてくれなかった。
そのあとで、ティアは私のところへ来た。
泣きながら呼んで、ここへ戻してくれた。
あの名を名乗った人が、何をしたのか。
騎士も、それを見ていた。
「ですが、王命は――」
兵士の一人が言いかけた。
騎士が、片手を上げた。
「分かっている」
腰の剣へ添えていた手が、ゆっくり離れた。
「神殿へ確認を求める。あの御名と、今夜見た力を、私の判断だけで偽りと決めつけることはできん」
ティアを見たまま、言った。
「女神その人に剣を向けた可能性を、陛下へ報告せずに追討は続けられぬ」
兵士たちが、互いの顔を見た。
「今夜の追撃は、ここまでだ。兵を戻す」
騎士の声が、橋へ響いた。
私は、すぐには動けなかった。
兵士が剣を下ろした。
馬の向きが変わる。
それを見ても、まだ、足が動かなかった。
騎士は最後まで、頭を下げなかった。
すべて納得したわけではないのだと思う。
けれど、命令に従うだけでよいのかを、一度、考えてくれた。
それだけの時間が、今の私たちには必要だった。
「行くよ」
エスメラルダの声がした。
ナイフを収めないまま、後ろ向きに下がってくる。
「あの男の気が変わるまで、待ってやる義理はない」
私は、ようやくうなずいた。
女性の手を支え直す。
列が、また動き始めた。
ティアも、隣を歩いた。
しばらく、何も言わなかった。
橋が木立に隠れてから、細く息を吐く音がした。
「……立てました」
聞き取れないくらい、小さな声だった。
「うん」
私は答えた。
「格好よかった」
ティアは、首を少し横へ振った。
私は、続けた。
「ほんとに。大好きな女神さまだなって、思った」
青紫の目が、こちらへ向いた。
「……そのお話は、あとで」
さっきまでとは、違う震え方の声だった。
その返事が嬉しくて、私は小さく笑ってしまった。
空が白くなるころ、交代で車に乗り、短い休憩を挟むようになった。
ティアは傷を治してくれた。
けれど、お腹がすいて歩けなくなった人に、手の光だけで元気を戻すことはできない。
水を飲む。
小さくちぎったパンを食べる。
少し座る。
それから、また歩く。
眠いときは眠いし、足は疲れる。
こんなにも普通の体で、よくあんなことをしたな、と、自分でも思った。
昼を過ぎても、後ろを見張る人は減らなかった。
騎士が引き返したからといって、王国の兵がすべて止まったと確かめられたわけではない。
後ろで物音がするたびに、列の歩みが少し速くなった。
皆、疲れていた。
私だけではなく、皆が、それでも足を出していた。
そして、日が傾き始めたころ。
谷の向こうに、火が見えた。
最初は、誰かの持つ明かりだと思った。
近づくと、柵が見えた。
見張り台があり、その下に武装した人たちが並んでいた。
私は思わず、立ち止まりそうになった。
今度は、誰だろう。
その前へ、姫が出た。
ゆっくり車から降りて、エスメラルダに支えられながら歩く。
見張りの一人が、こちらを見た。
小さな顔。
緑色の肌。
その目が、姫にとまった。
「……姫様?」
声の調子が変わった。
近くの兵が、顔を上げる。
見張り台へ向かって、誰かが叫んだ。
柵の扉が開いた。
道の両側へ兵が出て、私たちの後ろへ目を向ける。
こちらに、武器を向けていなかった。
「全員、中へ! 車を先に通せ!」
足が、急に重くなった。
止まってもよいと思った途端、本当に止まってしまいそうだった。
ティアの手を握り直した。
一歩。
もう一歩。
柵の内側へ入る。
最後の車が通り、見張りの兵が後ろを固めた。
来た道を振り返っても、追手の姿は見えなかった。
初めて、私たちの前ではなく、後ろで門が閉まった。
ここは、あの子の国だった。
国境の野営地には、鍋があった。
大きな、見覚えのある鍋だった。
「冷める前に並んで! 立てない人の分は、こっちで運ぶから!」
ミラさんが、お玉を片手に声を張っていた。
町を出る日に、三人がかりで持ち上げた、あの鍋だ。
その周りで、先に避難していた人たちが器を並べている。
名前を呼んで走っていく人がいた。
抱き合ったまま、しばらく動かない人もいた。
ミラさんは、私たちを見つけると、一度だけ口を押さえた。
でも、すぐにお玉を握り直した。
「……ほら。あんたたちも、食べなきゃ」
差し出された器から、湯気が上がっていた。
受け取った瞬間、お腹が鳴った。
びっくりするくらい、盛大に。
ミラさんが笑った。
つられて、私も笑ってしまった。
今まで、空腹を忘れていた。
体は、ずいぶん正直だった。
*
皆の手当てが落ち着いたころには、空が暗くなっていた。
ティアは最後まで、何度も呼び止められていた。
そのたびに足を止め、相手の顔を見て、手を取った。
声をかけられると、まだ肩が跳ねる。
一度に二人から話しかけられると、どちらを向くか迷ってしまう。
それでも、差し出された手は、ちゃんと取る。
その横で、姫が人を座らせ、順番に事情を聞いていた。
エスメラルダは、ようやく借りたナイフをリゼさんへ返した。
「欠けてないだろうね」
「見てみな」
いつもの調子に近いやり取りが聞こえた。
私は、水で手と顔を洗った。
何度か、指の間までこすった。
爪に残った汚れを落とし、清潔な布で拭く。
顔を上げると、少し離れた焚き火のそばで、ティアがこちらを見ていた。
両手に、木の杯を持っていた。
近づくと、座っている長椅子の隣へ、一つを置く。
「お水ですけれど」
「……うん」
私は、その隣に腰を下ろした。
思ったより、ゆっくりした動きになった。
ここに座っていいのだと分かると、足から力が抜けた。
杯を取る。
両手で包む。
少しの間、二人とも何も言わなかった。
焚き火がはぜた。
肩が、わずかに動いた。
ティアは気づいたと思う。
でも、そちらを見なかった。
私は、杯の中の水を見た。
「……ありがとう」
やっと、言った。
「呼んでくれて」
隣で、衣擦れの音がした。
「お戻りくださって、よかったです」
ティアの声は静かだった。
だからこそ、途中の小さな震えが聞こえた。
私は、顔を向けた。
ティアは自分の杯を見つめていた。
「手が、動いていなくて」
ぽつりと、言った。
「いつも、わたくしを見つけると、何かおっしゃるのに。あんなに近くへ行っても、何も」
唇を閉じる。
私は、何も言えなかった。
死んでいる間のことは、私には分からない。
でも、ティアは見ていた。
私が帰りたいと願っていた、その間ずっと。
帰ってこないかもしれない私のそばに、いてくれた。
「怖かったです」
ティアが言った。
「剣も、怖かったです。けれど、触ってもお返事がないことのほうが、ずっと」
声が途切れた。
私は杯を置いた。
手を伸ばした。
途中で、少し迷った。
今、何を言えば、この人を安心させられるのだろう。
大丈夫。
ほら、生きてる。
ティアがいてくれれば、私は平気。
いつもの私なら、勢いで言ってしまったかもしれない。
でも、さっきまで握っていた水袋の重さを思い出した。
暗い森で、いちいち足が止まりかけたことも。
「私も、怖かった」
それが、いちばんちゃんと言えることだった。
ティアが、顔を上げた。
「息ができなくなって、もう戻れないんじゃないかって。最後のほう、ほかのこと、うまく考えられなくて」
口にすると、指が震えた。
「助けてほしいって、思った」
伸ばしかけていた手を、ティアが取った。
私は、その温かさを感じながら続けた。
「ティアのところに、帰りたかった」
言えた。
私も、怖かった。
私も、死にたくなかった。
姫を助けたことと、それは、両方本当だった。
ティアの指が、私の手の甲をなぞった。
「……次に怖いときは、笑わなくてもよいです」
「え」
「わたくしに、笑って見せようとなさったでしょう」
綱を引いていたときのことだと、少し遅れて分かった。
見られていた。
「うまく、笑えてなかった?」
ティアは、小さく首を振った。
「分かってしまいました」
その返事が、胸に残った。
私は顔を伏せかけて、やめた。
「……そっか」
「はい」
手が、離れなかった。
私は少しずつ、握り返した。
「じゃあ、そのときは、手、借りてもいい?」
「はい」
ティアは、今度はすぐに答えた。
「わたくしも、お借りします」
強い人の約束では、なかった。
きっとティアは、明日も慌てる。
私も、何かの音にびっくりする。
それでも、隣の人に手を借りられる。
それが、こんなにほっとすることだとは思わなかった。
ティアが、そっと身を寄せた。
肩が触れた。
次に、腕が背中へ回った。
私は、動けなくなった。
すごく慎重に、確かめるみたいに、抱きしめられている。
自分の腕をどこへ置くべきか、数秒間、本気で分からなかった。
女の子が大好きな女、栗花落ゆりあ、二十四歳。
抱きしめられた場合の作法については、未履修である。
いや。
ここは抱き返すところだろう。
分かっている。
分かっているんだけど、好きな人のほうから来てくれた、という事実を処理する部署が、私の中には存在しない。
急いで設立してほしい。
できれば、今。
ようやく背中へ手を回すと、ティアの肩から力が抜けた。
その小さな変化に、私も力が抜けた。
銀色の髪が、頬に触れる。
触れている。
私は息を吐いた。
ティアの肩へ、少しだけ顔を寄せた。
「……大好き」
いつも言っている言葉なのに、小さな声になった。
「知ってると、思うけど」
ティアが、腕の中でうなずいた。
「はい」
少し間が空いた。
「でも、お聞きしたかったです」
困った。
それは、困る。
そんな返事をされると、この先、一日に何回言えば足りるのか分からなくなる。
今の声を、記憶に保存するだけでいいのだろうか。
控えを三つくらい取りたい。寝ぼけて思い出せなくなった日の私にも、絶対に聞かせてあげたい。
私は、言葉の代わりに、もう一度抱きしめた。
しばらくして、ティアのほうから少し体を離した。
目が合う。
顔が近い。
近い、と気づいたら、急に見ていられなくなった。
私は視線を逃がして、ちょうどよく青いものを見つけた。
「リボン」
口に出してから、ちょっと助かったと思った。
「片方、ほどけかけてる」
ティアが髪へ手をやった。
「本当ですね」
「結び直しても、いい?」
ティアは、うなずいた。
こちらへ、背中を向けてくれる。
私は、リボンをそっとほどいた。
髪が、指の間を滑った。
女神さまの後頭部が、こんなに近い。
落ち着こう。
今の私に任されているのは、リボンである。
後頭部のかわいさを味わい尽くす仕事ではない。
……多少は、兼任できないだろうか。
欲張って失敗すると格好悪いので、ちゃんと手元を見ることにした。
長さをそろえて、結ぶ。
作戦の前の夜も、その翌朝も、こうした。
また結ぶよ、と言った。
その、また、が来ていた。
「できた」
指を離した。
ティアが振り向く。
青いリボンが、銀色の髪の上で小さく揺れた。
「……いかがでしょうか」
少しだけ、照れたように聞かれた。
私は、その顔を見た。
涙の跡が、まだ少し残っている。
疲れているし、髪も、いつもほどきれいに整っていない。
それでも、私を見て、笑おうとしてくれている。
「かわいい」
今度は、ちゃんと声にした。
「すごく」
ティアは、目元を和らげた。
私はその顔を見て、もう一度、この人に会いたかったのだと思った。
何人の女の子をかわいいと思っても。
どれだけ素敵な人と出会っても。
帰るとき、真っ先に探したくなる顔は、この人なのだ。
杯を持ち直す。
ティアも、自分の杯を取った。
隣が、温かい。
私は、ようやく言えた。
「ただいま、ティア」
ティアが、こちらを見た。
小さく息を吸って、笑った。
「おかえりなさい、ゆりあさん」
木の杯が、こつんと触れた。
水を飲んだ。
喉を通って、お腹へ落ちていく。
全部、分かった。
杯を膝の上へ戻すと、隣から手が伸びてきた。
私は、その手を取った。
私の席は、ちゃんと空いていた。
そして今、そこに、私が座っている。




