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第11話:私は嫌、だから止める

 騎士は、差し出した手を、すぐには引かなかった。


 私の顔を見る。

 次に、私が握っている、姫の手を。


「どういうことをしているのか、分かっているかね」


 低い声だった。


 怒鳴られたほうが、まだよかったかもしれない。

 この人は、私がまだ事情を分かっていないだけだと思っている。


 説明すれば、戻す。

 ちゃんと理解すれば、その手を離す。


 そう言われているような気がした。


「……分からないことも、いっぱいあります」


 喉が、少しひっかかった。

 私は、一度、唾を飲み込んだ。


「でも、この子が、ここを出たいって思ってることは知ってます」


 騎士の目が、細くなった。


 背後で、門が閉まった。

 太い横木が、両側の金具へ下ろされる。


 持ち上げていた綱から兵士が手を離すと、木が、重たい音を立てた。


 道が、なくなった。


 さっきまで、あそこに外が見えていた。

 そのことを覚えているぶん、目の前の木の厚みが、ひどく大きく感じられた。


「東の採石場の騒ぎも、君たちか」


 私は、答えなかった。


 御者の男性が、荷台の脇で動きを止めている。

 ティアも、私の後ろにいた。


 エスメラルダのナイフだけが、少し低く構え直された。


「働かされている人たちも、帰りたいんです」


 そう答えると、騎士は、ようやく手を下ろした。


「それで、空いた仕事を、誰がする」


 すぐには、言葉が出なかった。


「坑道が止まれば、鉄が届かなくなる。採石場が止まれば、砦の修繕が遅れる。その穴を埋めるために兵を戻せば、今度は前線に穴が開く」


 騎士の指が、閉まった門の向こうを示した。


「そこを魔王軍が通れば、街道沿いの村から焼かれる。君がまだ顔も見ていない人間が死ぬ。彼らを、どう守るつもりだ」


 私は、厨房で見た湯気を思い出した。


 明日、国境へ出る人たち。

 その人たちに、温かいものを食べさせたいと言っていた女性。


 お腹を空かせた顔が、私にはまだ思い浮かばない。

 でも、あの鍋の向こうには、確かに誰かがいた。


「……すぐに、代わりを用意することは、私にはできません」


 認めると、騎士はうなずいた。


「ならば、今は、戻しなさい」


 姫の手が、わずかにこわばった。


「君には別の役目がある。魔王を倒すことだ。それが済めば、この国にも、ほかを考える余裕ができる」


 魔王を倒せば。


 何度も聞いた言葉だった。

 きっと、大事なことなのだ。


 ティアだって、最初はそう言っていた。

 言おうとして、途中で、泣いてしまった。


「その子の魔力も必要だ。君たちの召喚に使った力を、何だと思っている」


 私は、姫の手を見た。


 そうだ。

 私は、この子の力で、ここへ来た。


 この世界に来られたことを喜んでいたとき、この子は、床に座り込んでいた。

 立ち上がれないくらい疲れていたのに、周りの人たちは、うまくいったと笑っていた。


 その光景へ、私も、うなずけばいいのか。


 必要なことだから、と。


 この国を救いたい人にとっては、話がつながっている。

 私が考えるよりもずっと多くの人の、明日の命がかかっている。


 そのことまで、嘘だとは思わなかった。


 分かりました、と言いかけた。


 話の意味が分かった、というだけで言ってしまう、昔からの癖だった。


 でも、今、その言葉を口にしたら。

 次は、この手を離すことになる。


 私は、姫を見た。


 フードから、赤い髪がのぞいていた。

 さっき履かせた靴が、石の上にそろっている。


 首には、もう、何もついていない。


「……お願いすれば、よかったのだわ」


 姫の声がした。


 騎士の目が、そちらへ向く。


「鉄も、石も、魔力も。必要だと言って、わたくしたちに話せばよかったのだわ」


 声は、小さかった。

 けれど、目はそらしていなかった。


「わたくしたちにも、守りたい国がある。帰りたい家がある。それを奪ったあとで、ほかの者のために我慢しなさいと、言うのね」


「対等な取引をしている余裕など、こちらにはない!」


 返事は、早かった。


 姫の口が、少しだけ開いた。

 それから、きゅっと結ばれる。


 私は、その横顔を見ていた。


 この子は、ちゃんと、言った。

 怖い相手の前で、自分の言葉を使った。


 ここで、私が、仕方ないねと言うのか。


 今はそういう世界なんだよ、と。

 あなた一人の気持ちより、大事なものがあるんだよ、と。


 それは、私がずっと、自分に言ってきたことと、よく似ていた。


 今は、言わなくていい。

 波風を立てなくていい。

 周りと同じ顔をしていれば、そのうち、苦しくなくなるかもしれない。


 そんな日は、来なかった。


「私、この子のこと、好きなんです」


 口から出た声は、思ったよりも、はっきりしていた。


 騎士が、眉を動かす。


「何だと」


「可愛いと思った。笑ってるところを見たいと思った。もっと話したいし、私のことも、好きになってもらえたら嬉しい」


 姫が、こちらを見た。

 その視線は感じたけれど、今は騎士を見ていた。


「さっき、首輪が外れたとき、この子、笑ったんです」


 金色の目が、少しだけ細くなった。

 あの顔が、頭に浮かぶ。


 思い出しただけで、頬が緩みそうになる。

 そのくらい、嬉しかった。


「それを見たあとで、やっぱり戻って、もう少し我慢してって。私、言いたくない」


 騎士は、黙っていた。


「魔王と戦う人にも、ご飯は食べてほしいよ。村が焼かれるのも嫌だ。どうしたらいいのか、考えなきゃいけないと思う」


 握った手が、温かくなってきた。

 私の手も、汗ばんでいた。


「でも、その答えが出るまで、あの子に首輪をつけておくのは嫌です」


「君の好き嫌いで、国は動かない」


「うん」


 私は、うなずいた。


「だから、私が動いてる」


 エスメラルダの肩が、ほんの少し動いた。

 笑ったのかもしれない。


 でも、騎士から目を離す余裕はなかった。


「私は嫌、だから止める」


 言った。


「この子を、あの部屋には戻さない」


 騎士は、しばらく私を見ていた。

 それから、視線を私の後ろへ移した。


「治癒師殿も、同じ考えか」


 ティアが、息を吸う音がした。


 返事を待っていた私の隣へ、一歩、足音が並んだ。


 顔を向けて、言葉を失った。


 ティアの雰囲気が、変わっていた。


 背筋が、まっすぐに伸びている。

 わずかに顎を上げ、青紫の瞳で、騎士を見据えていた。


 銀色の髪が、肩から静かに流れる。


 その手には、何もない。

 剣も、杖も、持っていない。


 それでも、ただそこに立っているだけで、そばにいる私まで、背筋を伸ばしてしまった。


「貴殿ら! 誰の前だと心得る!」


 声が、庭に響いた。


 私は、息を止めた。


 聞き慣れた声だった。

 なのに、聞いたことのない声だった。


「わたくしは、ティアラ・ティターニア!」


 ティアが、一人ひとりの顔を見るように、兵士たちへ視線を向ける。


「女神の御前ぞ! 退かぬならば、その不敬、万死に値する!!」


 鎧の触れ合う音が、途切れた。


 近づきかけていた兵士が、足を止めていた。

 誰かが、小さく息をのんだ。


 私は、ティアの横顔を見ていた。


 知っていたはずなのに。


 この人が、女神さまだということを。

 あの白い場所から、一緒にここへ来たのだということを。


 それなのに、今、初めて見た気がした。


 誰かの背中に隠れることなく、顔を上げて立つ、女神の姿を。


 そのとき、視線の端で、小さな動きがあった。


 服の脇で握り締めた、ティアの手。


 指先が、震えていた。


 私は、唇を閉じた。


 怖いんだ。


 あんな声で名乗っても、怖くなくなったわけではない。

 私が知っている、臆病で、すぐに慌ててしまうティアも、ちゃんと、ここにいる。


 それでも、顔を下げない。

 足を引かない。


 震えながら、堂々と立っている。


 その二つが、同じ人の中にあった。


 好きだな、と思った。


 こんなときまで、と思うより先に、胸の奥が熱くなった。


 抱きしめたい。

 その手を取って、私もここにいると伝えたい。


 でも、今、この人は、自分の足で立っている。


 だから私は、ティアの隣で、背筋を伸ばした。


「……女神を名乗るか」


 騎士が、低く言った。


 その手が、腰の剣へ伸びる。


「ならば、説得は、ここまでだ」


     *


 剣が、鞘から抜かれた。


 長い。

 近くで見ると、幅も、厚みもあった。


 私は、反射的に半歩下がった。


「姫と治癒師は、生かして押さえろ」


 騎士の声が、庭へ広がった。


「ほかは、抵抗するなら斬って構わん」


 腹の奥が、冷えた。


 私も、ほか、に入っている。


 分かっていたはずなのに、実際に言われると、足の裏が石へ張りついたみたいになった。


 ここで振り回されるものは、当たったら減る数字ではない。

 私の体だ。


 傷つくし、痛い。

 そのまま、終わってしまうかもしれない。


 斜め前で、白い髪が動いた。


「後ろへ下がりな」


 エスメラルダが、頭巾を外した。


 白い髪が、肩へ落ちる。

 二本のナイフが、その下で低く光った。


「あーしの背中より、前へ出るんじゃないよ」


 店で、仕事を言いつけられたときと、同じ声だった。


 そのことに、少しだけ息ができた。


「ティア、姫をお願い」


 私は、つないでいた手を、彼女の手へ預けた。


 姫が、私を見る。


「あなたは?」

「門を、何とかする」


 自分で口にしてから、閉ざされた扉を見た。


 どうやって。

 それは、まだ、全部は分からない。


 でも、ここでエスメラルダが勝ってくれるのを待つだけでは、ほかの兵士が増える。

 皆が、外で待っている。


 私ができることを、探さないと。


 剣が動いた。


 風を切る音がした。

 エスメラルダの頭が、私の視界から消える。


 低く沈んだ体が、そのまま横へ滑った。

 白い髪を追うように、ナイフが伸びる。


 金属がぶつかる音。


 騎士の肘の内側へ向かった刃が、手甲に弾かれた。


 エスメラルダは止まらない。

 もう片方の刃を返し、踏み出してきた足の外側へ回る。


 速かった。


 それ以上に、近かった。

 あの大きな剣の、すぐ内側にいる。


 見ている私の肩のほうが、勝手に縮んだ。


 けれど、騎士も、遅くはなかった。


 腕が曲がる。

 剣の柄が、エスメラルダのいたところへ振り下ろされる。


 彼女が跳び退いたあとで、石の上へ、硬い音が響いた。


 鎧が重いなら、動きも遅いのではないか。

 そんな、ゲームで覚えた程度の期待は、そこで消えた。


 これは、この人が着慣れている重さなのだ。


 横から、兵士が近づいてきた。


 私は、ティアと姫を荷台の陰へ押すように促した。


 その途中で、腕をつかまれた。


「動くな」


 痛かった。

 指が、腕へ食い込む。


 引き戻される。


 倒れそうになって、足を踏み出した。


 肘を下げる。

 腕だけで引っ張り返さず、体の向きを変える。


 昔、何度もやった動きだった。


 きれいには、できなかった。

 相手が倒れることもなかった。


 それでも、つかまれた手から、腕が抜けた。


 私は、荷台の角へ逃げ込んだ。


 息が、一度に出た。


 合気道部。


 入った理由を思い出すと、先生に向ける顔はない。

 でも、あのとき真面目に練習した時間へは、今、心の底から感謝したかった。


 女の子の手首を合法的に触るために覚えた動きが、まさか、こんなところで役に立つとは。


 役に立ったからといって、入部動機が立派になるわけではないけれど。


 兵士が、もう一度、こちらへ来ようとした。


 その膝が、横へ折れた。


 エスメラルダが、低い位置から体ごとぶつかっていた。

 兵士の肩を荷台へ押しつけ、その間に、私へ顔を向ける。


「止まるな!」


 私は、うなずいた。


 好きだ。

 めちゃくちゃ格好いい。


 そして、今は、それを眺めている場合ではない。


     *


「門だ! 横木を上げりゃ、開く!」


 御者の男性が、声を上げた。


 彼も、荷台の反対側へ身を隠していた。

 手には、荷を固定するための太い棒を持っている。


「両端の綱だ。あれを、同時に引く!」


 私は、門を見た。


 太い横木。

 両端から上へ伸びる綱。

 それが壁の滑車を通り、左右の脇へ下りている。


 さっき、兵士たちが手を離した綱だ。

 そのあとで、横木が下がった。


 開く。


 その言葉だけで、足が動いた。


「ゆりあさん!?」


 後ろで声がした。

 振り返る前に、荷台の脇へ出ていた。


 壁際に、綱が見える。


 あれを引けばいい。


 頭の中が、それだけになっていた。


「頭を下げろ!」


 御者の声に、反射的に身をかがめた。


 車輪が動く音がした。

 御者が手綱を引き、荷車を斜めに寄せてくれる。


 私と兵士の間へ、荷台が入った。


 その向こうで、弩を持った兵士が位置を変えた。


 弩。


 見えた。

 でも、もう走り出していた。


 壁へ手をつき、転びかけた体を支える。

 そのまま、綱へ飛びついた。


 引いた。


 動かなかった。


 思わず、もう一度引っ張る。

 指の間で、綱が擦れた。


 重い。


 そこでようやく、向こう側を見た。


 もう一本の綱は、誰も握っていなかった。


 両端を、同時に。


 さっき、そう言われたのに。


 誰がもう片方を引くのか、確かめもしなかった。


「姫を、お願いいたします!」


 ティアの声がした。


 振り向くと、彼女が姫の手を御者へ預けていた。


「ゆりあさんのところへ、行きます!」


 姫が、その顔を見上げた。

 何かを言いかけて、それから、手を離した。


「……行ってらっしゃいなのだわ!」


 御者が、姫を荷台の陰へ入れる。


「こっちは任せろ!」


 その返事を聞くと、ティアが駆け出した。


 銀の髪が、大きく揺れた。


 私は、目を見開いた。


 来る。


 あの人が、こっちへ来る。


「ティア! なんで来たの!?」


 叫んだ。


 今、自分が立っているところが、急に、怖くなった。


 あんなふうに走ってきたら、狙われる。

 転んだら、どうする。

 誰かに腕をつかまれたら。


 私が飛び出す前にも、考えなければならなかったことばかりだった。


 ティアは、途中で一度、足をもつれさせた。


 荷台の角へ手をつく。

 その向こうで、御者が棒を突き出し、近づいてきた兵士を押しとどめていた。


 ティアが顔を上げる。


「あなたを一人にさせるわけないじゃないですか!!」


 声が、まっすぐ飛んできた。


 私は、息をのんだ。


 ティアは、向こう側の綱へ手を伸ばした。

 両手で握り、腕を引く。


「わたくしも、引きます!」


 頬が赤くなっていた。

 肩で息をしている。


 怖くないはずがなかった。

 その手だって、まだ震えていた。


 それでも、私を見ていた。


 姫を任せたつもりだった。


 その間に、私が何とかすればいいと思っていた。

 あの人が私を見ていることを、考えから抜かしていた。


 一人で飛び出した私は、一人では開けられない門の前に立っている。


 その、反対側に。


 ティアが、来てくれた。


「……ごめん」


 口からこぼれた。


 ティアが、綱を握り直す。


「あとで、伺います! 今は、こちらを!」


 怒られていた。


 なのに、胸の奥が熱かった。


 私は、息を吸った。


「一緒に、引こう!」


「はい!」


「せーの!」


 引いた。


 腕だけでは、無理だった。

 膝を曲げ、体重を下へかける。


 向こうで、ティアも膝を曲げた。


 横木が、少し持ち上がった。


 動いた。


「もう少し!」


 私が言うと、ティアがうなずいた。


 靴が、石の上で滑る。

 彼女は慌てて踏み直し、体を後ろへ倒すようにして綱へ体重をかけた。


 私も、引いた。


 腕が、痛い。

 手のひらが、熱い。


 それでも、木と金具の間に隙間ができていく。


 後ろで、金属のぶつかる音がした。


 見たい。

 エスメラルダがどうなったのか、確かめたい。


 でも、今、綱を離したら。

 向こうで一緒に引いてくれている人まで、振り回すことになる。


 私は、前を見た。


 もう少し。


 もう少しだけ。


 横木の端が、受け金具から浮いた。


「開けて!」


 声が出た。


 御者が、姫と一緒に荷台の陰から出てきた。

 棒を足元へ置き、扉に肩をつける。


 姫も、外套の裾を持ち上げて、その隣へ向かった。


「わたくしも、押すのだわ!」


 靴の音がした。


 さっき、階段を一段ずつ下りていた足だ。

 今も、速くはない。


 それでも、門へ向かっていた。


「足、挟まれるなよ!」


 御者が言った。


 姫が、扉へ両手をつく。


 二人が、押した。


 最初は、何も変わらなかった。


 もう一度。


 姫の靴が、石を踏ん張る。

 御者の肩が、前へ下がる。


 私とティアは、綱を引き続けた。


 扉が、わずかに動いた。


 細い光が、真ん中へ生まれた。


 外だ。


 私は、その隙間を見つめた。


 向こうで、ティアが、私を見た。


 息を切らしたまま、ほんの少し、笑った。


 開けよう。


 声にしなくても、同じことを思っている気がした。


     *


「門から離れろ!」


 騎士の声がした。


 大きな影が、こちらへ向きを変える。


 その前へ、白い髪が飛び込んだ。


 エスメラルダのナイフが、剣を持つ腕の内側へ伸びる。

 騎士が、身をひねった。


 刃が、鎧の隙間をかすめる。

 男の足が、初めて、大きく止まった。


 けれど、次の一撃は、そのまま返ってきた。


 エスメラルダが横へ逃げる。


 袖が、裂けた。


 私は、息をのんだ。


 緑色の腕に、赤い筋ができていた。


 エスメラルダは、ナイフを離さなかった。

 握り直して、もう一度、騎士の前へ立つ。


 ティアが、そちらを見た。


「エスメラルダさん――」

「今は、綱を離すな!」


 声が返る。


「あとで、まとめて頼むよ!」


 ティアの顔が、歪んだ。


 あの人なら、治せる。

 触れれば、あの傷だって、消せるはずなのだ。


 でも、そこへ行けば、今度は門が止まる。

 剣が振られている場所まで、近づかなければならない。


 できることがあるから、何でもできるわけではない。


 私は、綱を握り直した。


「ティア!」


 彼女が、こちらを向いた。


「開けよう!!」


 私の声も、少し震えていた。


 ティアが、うなずいた。


 ティアが、もう一度、綱を引いた。

 私も、体重をかけ直した。


 御者と姫が、扉へ肩をつける。


 四人で、門を開けている。


 その間、エスメラルダが、後ろを守ってくれている。


 綱の重さが、手の中で小さく変わった。

 向こうのティアが、握り方を直していた。


 私は足を踏み直して、そのぶんを支えた。

 私が持ち直すと、今度は、向こうから強く引いてくれる。


 自分が引いたぶんだけ、扉が動いていく。

 今は、それだけを見ていた。


 外の光が、広がっていく。


 門の向こうで、誰かが声を上げた。


 私たちを待っていた、連絡役のゴブリンだった。


 扉の隙間へ、体を寄せてくる。

 こちらの様子を見て、すぐに外側から扉へ手をかけた。


 開く速さが、少し変わった。


「荷車を通す! そっち、引いてくれ!」


 御者が叫んだ。


 外の人が、うなずく。


 私は、息を吐いた。


 もう、金具へ横木を戻さなくても済むところまで、開きかけていた。

 あと少し、扉が動けばいい。


 そのとき、荷台の端で、兵士が動いた。


 弩を持っていた人だった。


 箱をよけて、横へ回る。


 構えた先が、もう片方の綱を引くティアのほうを向いた。

 それから、こちらへ動いた。


 私の胸のあたりで、止まる。


 目が合った。


 たぶん、私が綱を引いていることを、見たのだ。


 私が止まれば、門を開けるのも止まる。

 それが、相手にも分かった。


 綱を離せば、壁の陰へ下がれる。


 思った。


 今、ここから、一歩。

 体を横へ動かせば、あの人から見えなくなる。


 でも、横木は、まだ、扉の金具の上を通っていた。

 今落とせば、途中で引っかかる。


 御者と姫が、向こうを押している。

 反対側では、ティアが綱を握っている。


 ほんの、少しだった。


 もう少し扉が開けば、手を離せる。


 私の体は、逃げようとした。


 肩が引ける。

 足が、半歩ずれた。


 怖かった。


 死んだことがあるからって、慣れるものではなかった。

 もう一度あの痛さを知りたいなんて、思わない。


 ティアなら、治せるかもしれない。

 呼び戻してくれるかもしれない。


 その、かもしれない、に全部を預ける怖さだって、ちゃんとあった。


 それでも、私は、綱を握り直した。


 今は、これを引く。


 私にできるのは、これだ。


「そのまま、押してえええ!!」


 声を張った。


 ティアが、一瞬、こちらを見た。

 私の顔を見て、何かに気づいたように、目が開く。


 私は、笑おうとした。


 うまくいったかは、分からなかった。


 乾いた音がした。


 体へ、強い衝撃が来た。


     *


 最初は、殴られたのかと思った。


 息が、抜けた。

 吸い直そうとして、うまくいかなかった。


 綱が、指の中を少し滑る。


 慌てて、握った。


 右の胸の下が、熱かった。


 見下ろす。

 見慣れないものが、服から出ていた。


 短い矢の軸。


 ああ。


 当たったのか。


 理解したあとで、痛みが来た。


 膝が折れそうになった。

 歯を食いしばる。


 まだ。


 扉は。


 顔を上げた。


 姫と御者が、向こう側へ足を踏み出していた。

 外から引いてくれた手に助けられて、扉が、大きく開く。


 横木が、金具の位置を通りすぎた。


「もう、離していい!」


 誰かが言った。


 私は、手を離した。


 力が、全部、一緒に抜けた。


 石の床が近づいた。

 手をつこうとして、腕が、うまく前へ出なかった。


 倒れたのだと分かったのは、頬に石の冷たさが触れてからだった。


 痛い。


 息を、したい。


 当たったところを押さえようとして、手が温かいものに触れた。

 見ないほうがいい気がして、そのまま目を上げた。


 門は、開いていた。


 それは、見えた。


 馬が、前へ進む。

 御者が叫んでいる。


 車輪が、石の継ぎ目を越えた。


 ちゃんと、通れる。


 よかった。


 そう思ったのに、ほっとするための息も、うまく吸えなかった。


「ゆりあさん!」


 ティアの声がした。


 振り向きたかった。

 顔が、少ししか動かなかった。


 反対側で、綱が壁を叩いた。

 銀色が、門の脇から動いた。


 ティアが、こっちへ来ようとしている。


 その手前を、大きな剣が横切った。


 私は、声を出そうとした。


 危ない。


 言えたのかどうか、分からない。


 白い髪が、その間へ入った。

 金属の音が、また響く。


 エスメラルダが、騎士を押し戻そうとしている。


 来てほしい。


 でも、ティアまで、傷つかないでほしい。


 考えが、まとまらなかった。


 さっきまでは、何をするか、順番に並べていたのに。

 綱を引く。門を開ける。皆を外へ出す。


 それが、もう、ばらばらだった。


 息が欲しかった。

 ティアに会いたかった。


 胸が、痛い。


 痛いことしか考えられなくなるのが、嫌だった。


 私は、石の上で、指を動かした。


 昨日、リボンを結んだ指だ。

 今朝も、もう一度結んだ。


 姫の靴の紐も、結んだ。


 あの子たちは、ちゃんと、外へ向かっている。


 そのことを、もう一度考えた。


 少しだけ、怖さの向こうに、別のものが残った。


 これで終わりにしたいわけではない。


 姫の、お城じゃないところでの顔も見たい。

 エスメラルダが、故郷でどんなふうに呼ばれるのかも、聞いてみたい。

 リゼさんとの約束だって、まだ、果たしていない。


 それから、ティア。


 隣を、空けておいてくれると言った。


 次に飲むときも。

 その次も。


 私は、そこへ座りたい。


 まだ、飲んだことのないお酒を買って。

 今度は何の味がするか、二人で確かめて。

 ティアが笑うところを、すぐ隣で見たい。


 杯をふたつ並べる夜へ、私は、どうしても帰りたかった。


 青いものが、視界の端に揺れた。


 リボン。


 あの色を、知っている。


 私は、手を伸ばそうとした。


 指先が、少しだけ石の上を滑った。


「……ティア」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 返事があった気がした。

 名前を呼ばれた気がした。


 目の前が、暗くなっていく。


 違う。


 帰らないと。


 あの人が、呼んでくれるところへ。


 もう一度、名前を言おうとした。

 唇が動いたのかも、分からなかった。


 だから、頭の中で思った。


 呼んでね、ティア。


 ちゃんと、戻りたいと思っているから。


 私の席、空けておいてよ。

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