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第10話:ゴブリン姫奪還作戦

 城門が、背中のほうで閉まった。


 振り返らなかった。

 いつもの治療に来た。それだけの顔をして、案内の兵士についていく。


 ティアの手は、少し冷たかった。

 握り返してくる力が、普段よりも強い。


 私は、その指へ、軽く力を返した。


 大丈夫、と言う代わりに。

 大丈夫にするために、今から動くのだと、自分にも言い聞かせながら。


「こちらで待つように」


 通された控えの間で、しばらく待たされた。


 椅子が四つ。

 壁には、花を生けた小さな壺。

 廊下の向こうでは、誰かが食器を運んでいる。


 いつもと、あまり変わらなかった。


 そのことに、少し驚いた。

 今日は私にとって、とんでもない日なのに。この城では、今日も夕食が作られ、床が掃かれ、明日の話がされている。


 私たちのほうが、そこへ、とんでもないことをしに来たのだ。


 膝へ置いた手を見た。

 指先が、落ち着かない。


 魔法は使えない。

 腰に刃物が二本あったって、急に剣の振り方が分かるわけでもない。


 それでも、今日は、それを知っている人が隣にいる。


「肩」


 頭巾の奥から、エスメラルダが短く言った。


「上がってるよ」


 私は、息を吐いた。


「……そんなに?」

「見て分かる程度にはね」


 反対側で、ティアまで自分の肩を下げた。


 私に言われた言葉を、自分にも使っている。

 真面目だ。

 そして、可愛い。


 こういうときまで可愛いと思える自分の頭には、ちょっとだけ感心する。

 できれば、その余裕を、今、膝の上で握ったり開いたりしている手にも分けてほしい。


 ティアが、髪の結び目へ触れた。

 青いリボンの端が、指の下で揺れる。


 私と目が合うと、少しだけ笑ってくれた。


 昨日、私が結んだものだ。

 今朝、ほどけないように、もう一度結び直した。


 ちゃんと帰って、また結びたい。


 その願いは、ここへ来るまでより、少し具体的になっていた。

 この廊下を歩いて。あの扉を開けて。姫と一緒に、外へ出る。


 私は、頭の中でもう一度、順番を確かめた。


     *


 迎えの兵士が来たころには、窓から差す光が、ずいぶん低くなっていた。


 歩き慣れてきた廊下を進む。

 途中、食事を運ぶ人たちが曲がっていく角を、横目で確かめた。


 あそこだ。


 姫に教えてもらって、前の面会の帰りにも確かめた場所。

 今日は、あの先へ行く。


 石造りの小部屋の前で、鍵が鳴った。


「荷物は中へ。使わないものは、通路に出すな」


 兵士の言葉に、エスメラルダが頭を下げる。


「はい」


 短い返事だった。

 店で働いているときより、ずっと低く、目立たない声。


 私が先に部屋へ入り、ティアが続いた。


 姫は、寝台に座っていた。


 私たちを見る。

 それから、湯の入った桶を運んできた三人目へ、目が止まる。


 金色の瞳が、大きく開いた。


 エスメラルダは、寝台の脇へ桶を置いた。

 布を取り出すために、頭を下げる。


 頭巾の端から、白い髪が、少しだけこぼれた。


「……ずいぶん、待たせるのね」


 姫の声がした。


 廊下の兵士は、こちらを見た。

 面会の時間のことだと思ったのか、何も言わずに、扉の横へ戻る。


 エスメラルダの手が、布の上で止まっていた。


 私は、持ってきた籠を置いた。

 その陰で、腰のナイフを、鞘ごと一本ずつ彼女へ渡す。


 緑色の指が、いつもどおり、確かにそれを受け取った。


 けれど、その手の甲へ落ちた白い髪は、少し揺れていた。


 エスメラルダが、寝台の前へ膝をつく。


「……お迎えに、参りました」


 私たちにだけ聞こえる声だった。


 姫の唇が動いた。

 すぐには、言葉にならなかった。


 視線が、エスメラルダの顔をたどる。

 白い髪。頬。頭巾の下から見上げる目。


 本当にそこにいるのかを、確かめるみたいに。


 姫の手が伸びた。

 エスメラルダの上着を、指先でつかんだ。


「遅いのだわ」


 さっきよりも、小さな声だった。


「申し訳ございません」


 エスメラルダは、言い返さなかった。

 姫の手を、ほどくこともしなかった。


 私は、少しだけ目を伏せた。


 昨日までの話では、追い出された人と、置いていかれた人だった。

 でも、今、目の前にいるのは、それだけではなかった。


 相手の顔を見つけただけで、声が変わってしまう二人だ。


 胸の奥が、きゅっとした。


 抱き締めてあげたい人が、目の前に二人いる。

 隣のティアにも使いたいので、本当は、三人ぶんの腕が欲しかった。


 増えないのだろうか。

 こういうときだけでいいので。


「……ゆりあさん」


 ティアに、小さく名前を呼ばれた。


 はい。

 今、私の二本でできることをします。


 私は、姫のそばへしゃがんだ。


「両方から返事が来た。皆、準備できてるって」


 姫の目が、こちらへ向く。


「予定どおり、鐘が鳴ったら動くよ」


 上着を握っていた手に、少し力がこもった。

 姫は、エスメラルダを見た。


「今度は、勝手にいなくならないでちょうだい」


 エスメラルダが、目を上げた。


「……お叱りは、帰ってから、いくらでも」

「そのつもりなのだわ」


 姫は、ようやく、その手を離した。


     *


 ティアが、いつものように傷を診始めた。


 私は、使う布を順番に並べる。

 エスメラルダは、桶の脇で布を絞った。


 扉の外の兵士には、今までどおりの治療に見えているはずだった。


 姫の手首へ、淡い光が落ちる。

 ティアは、そっと腕を支え、痛くないかを尋ねた。


 少し前まで、私の手を強く握っていた指だ。

 今は、相手の肌へ触れる強さを、ちゃんと選んでいる。


 やっぱり、すごいなと思った。


 怖さが消えたわけではないはずだ。

 それでも、その手を必要としている人がいれば、この人は、ちゃんとそちらを見る。


 ティアが、姫の顔をのぞき込んだ。


「お首の下も、診せていただきますね」

「ええ」


 私は、扉へ目を向けた。

 兵士は、廊下を一度見てから、こちらを見直した。


 もうすぐだった。


 さっきから、廊下を通る食器の音が増えている。

 夕食の支度が整う時間。

 窓の外の空も、橙色の下に、薄い青が広がり始めていた。


 エスメラルダが、絞った布を、畳んだ。


 一度。


 私は、立ち上がった。

 扉の近くへ、使い終えた布を入れる籠を運ぶ。


 ティアが、顔を上げた。


「恐れ入ります。こちらへ、来ていただいてもよろしいでしょうか」


 声が、少しだけ震えた。


「何だ」

「首輪の下を、診ますので。その……姫が動かれないよう、鎖を持っていただけますか」


 私は、床を見た。


 その言葉を、練習した。

 何度も。


 鎖を持ってもらう。

 あの子が、動かないように。


 終わったら、もう、そんなことを頼まなくてよくなる。

 それだけを、考えた。


 兵士が、部屋へ入ってきた。


 腰で、鍵束が鳴る。

 壁へつながれた鎖に、手が伸びる。


 エスメラルダは、邪魔にならないように見える位置へ、身を引いた。


 姫は、動かなかった。


 怖くないはずがない。

 この人が鎖へ触れるたび、今まで、どんなことが起きていたのか、私は知っている。


 それでも、姫は、自分の手を膝へ置いていた。


 窓の外で、鐘が鳴った。


 最初の一つが、空気を震わせた。


 私は、扉を閉めた。


「な――」


 兵士が振り返ろうとした。


 そこから先は、ほとんど、見えなかった。


 エスメラルダの体が、低く動いた。

 兵士の肩が傾き、膝が折れる。


 私は、籠から用意した布を抜いた。

 差し出す。


 次に見たときには、兵士は床へ伏せられていた。

 口元を布で押さえられ、腕を背中側へ固定されている。


 倒れる音は、鐘の響きよりも小さかった。


「声を出すんじゃないよ」


 エスメラルダの声は、もう、荷運びの声ではなかった。


 抜いたナイフが、兵士の視界へ入る位置にあった。


「じっとしてりゃ、これ以上、痛いことはしない」


 兵士の目が、大きく開いていた。

 何か言おうとして、動きを止める。


 私も、息を止めていた。


 強い。


 知っていたはずなのに、思った。

 店で酔っ払いをにらみつける姿とも、重い樽を動かす姿とも、違った。


 この人は、人が何をしようとするかを見て、その前に動けるのだ。


「鍵」


 声をかけられて、はっとした。


 私は、しゃがんだ。

 兵士の腰から、鍵束を外す。


 金具へ、指がうまくかからなかった。


 一度、空振りする。


 怖いのだ。

 今さらみたいに、それが分かった。


 でも、怖いからできませんと言っている間にも、エスメラルダは、この人を押さえてくれている。


 指先を見る。

 もう一度。


 外れた。


「取れた」


 姫のそばへ戻る。


 先に、手首の金具を開いた。

 両手の間で短く揺れていた鎖を外し、ティアの差し出す布へ載せる。

 姫が、そっと指を開いた。


 次は、首輪だ。

 いくつもある鍵のうち、小さいものを選んだ。

 首輪の錠へ差し込もうとして、先がぶつかる。


「ひとつ、隣なのだわ」


 姫の声がした。


「そっちの、先が細いものよ」


 私は、うなずいた。

 言われた鍵を、持ち直す。


 今度は、入った。


 回す。


 かちり、と、小さな音がした。


 首輪が緩む。


 私は、落とさないように両手を添えた。

 ティアが、その下へ畳んだ布を差し入れる。


 鉄の重さが、私の手へ移った。


 こんなに、重かったのか。


 両手なら、持てる。

 でも、これを首につけて、そこから鎖まで引かれていたのだ。


 姫の喉が、小さく動いた。


 一度、息を吸う。

 もう一度。


 私は、首輪を布へ包んだ。

 あの子のほうを見た。


「……痛くない?」


 姫は、自分の首へ手を伸ばしかけた。


 その前に、ティアが尋ねる。


「最後に、ここも治してよろしいですか?」


 姫は、うなずいた。


 淡い光が、緑色の肌へ落ちた。

 首輪の下に残っていた傷が、指の先から消えていく。


 今度は、その上へ、鉄を戻さなくてよかった。


 ティアが、手を離す。


 姫は、そっと首へ触れた。

 鎖が鳴らない。


 それが、たまらなく嬉しかった。


 私は、笑おうとした。

 変な顔になった気がする。


 あの謁見の間では、私だけが、先に痛くなくなった。

 あの子は、そのまま連れていかれた。


 今は、違う。


「よかった」


 小さく言うと、姫が、こちらを見た。


「……ええ」


 返事と一緒に、ほんの少し、口元が緩んだ。


 金色の目が、細くなる。

 黒い部分に浮かんでいた強い色が、少しだけ柔らかく見えた。


 ああ。


 この顔だ。


 見たかった。

 ずっと、見たかった。


 こんなところで満足して、座り込むわけにはいかない。

 それでも、今の顔だけは、絶対に忘れたくなかった。


「ゆりあさん、お靴を」


 ティアが、そっと言った。


 私は、大きくうなずいた。


     *


 姫の前へ靴をそろえ、片膝をついた。


「足、触るね」

「お願いするのだわ」


 差し出された足へ、靴を合わせる。

 少し余裕はあったけれど、紐を締めれば、抜けずに済みそうだった。


 私は、結び目を作った。


 昨夜は、ティアの髪にリボンを結んだ。

 今日は、お姫様の靴を履かせている。


 これだけ並べたら、とても華やかな第二の人生だ。

 背景が、床に兵士の転がっている石の部屋でさえなければ。


「きつくない?」

「大丈夫よ」


 もう片方も履かせる。


 顔を上げたとき、姫は、じっとこちらを見ていた。


「どうしたの?」

「……本当に、来たのね」


 私は、手を止めた。


「来るって言ったよ」


 言っただけで、信じてもらえるとは思っていなかった。

 私だって、エスメラルダに一度断られている。


 それでも、こうして目の前まで来たことなら、今、あの子にも分かる。


 姫の指が、膝の上で重なった。


「ええ。聞いていたのだわ」


 少しだけ、目が伏せられる。


「聞いていたけれど……来てくれて、ありがとう」


 私は、結び目を見た。


 危なかった。

 顔を上げたままだったら、たぶん、ものすごく締まりのない顔を見せていた。


 好きだな。


 気の強い言い方も。

 ちゃんと目を見てお礼を言ってくれるところも。

 怖くても、自分で帰りたいと口にしてくれたところも。


 この子に好きになってもらえたら、嬉しい。

 やっぱり、そう思う。


 そのためにも、まずは、城の外だ。


 私は、立ち上がった。


「手、貸すよ」


 姫の手が、私の手のひらへ重なった。


 細い指が、ぎゅっと握る。

 寝台から腰が浮いた。


 一歩。


 足が、少し震えた。


 私は、引っ張らないように支えた。

 反対側から、ティアも手を添える。


「急がなくて大丈夫。まず、立ってみよう」


 姫は、唇を結んで、うなずいた。


 魔法で傷が消えても、しばらく使っていなかった足の動かし方まで、すぐ元どおりになるわけではない。

 ティアが、昨日言っていたことを思い出す。


 私は、歩幅を小さくした。


 もう一歩。


 靴の底が、石の床を踏んだ。

 鎖は、ついてこなかった。


 姫が、振り返る。


 壁の金具と、布に包まれた首輪。

 空になった寝台。


 その視線が、ゆっくり前へ戻った。


「……歩けるのだわ」


 私は、うなずいた。


「うん。一緒に歩こう」


 そのころには、エスメラルダは兵士を縛り終えていた。

 武器も手の届かないところへ移してある。


 ティアが、兵士のそばへ膝をついた。


 兵士が、身をこわばらせる。

 彼女は、腫れかけた手首へ、そっと手を添えた。


 淡い光が、もう一度、部屋を照らす。


 エスメラルダは止めなかった。

 扉の向こうの気配を聞きながら、それを待った。


 ティアは、兵士の顔を見て、静かに頭を下げた。


「少しの間だけ、そのままでいてください」


 兵士の目が、こちらへ動いた。

 何を思っているのかは、分からなかった。


 分かってもらう時間も、今はなかった。


 私は、姫へ外套を差し出した。


 布が顔の近くへ来たところで、あの子の肩が、わずかに上がる。


 私は、手を止めた。


 姫も、その布を見ていた。

 しばらくして、自分から手を伸ばす。


「頭のところは、自分でかぶるわ」

「うん」


 外套を渡す。

 姫が、赤い髪を収め、フードの縁を自分で引いた。


 顔を上げれば、こちらが見えるくらいの深さだった。


「これで、いいかしら」

「うん。よく似合う」

「隠れるためのものにまで、そういう感想をつけるのね」


 私は、口元を押さえた。


 だって、似合うものは似合うのだ。

 欲を言えば、もっと明るい色の服も、選んであげたい。


 それは、帰ってから。


 エスメラルダが扉を少し開き、廊下を確かめた。


「今だ」


     *


 姫が、部屋の外へ出た。


 自分の足で。


 私は、その半歩先を歩いた。

 手を離さず、急ぎすぎないように。


 後ろで、エスメラルダが扉を閉める。

 鍵をかける音が、やけに大きく聞こえた。


 見張りがいなくなったことに気づかれるまで、どれくらいあるのか。

 それは、分からない。


 だから、進む。


 エスメラルダが先へ出た。

 ナイフは上着の内側へ隠れ、腕には使い終えた布が抱えられている。


 ティアは、空になった桶を持っていた。

 姫には軽い布だけを渡し、私のそばを歩いてもらう。


 通りすがりに見られても、治療の片づけをしている人たちに見えるように。


 曲がり角で、人の声がした。


 私は、足を止めかけた。


 エスメラルダは止まらなかった。

 声のしたほうへ目をやり、普通の速さで進む。


 止まるほうが、不自然なのだ。


 私も、歩いた。


 向こうから、木箱を抱えた給仕の女性が来る。

 腕の中には、重ねられた皿。


 目が合った。


 私は、小さく頭を下げた。

 相手も、少し顎を引いてくれる。


 それだけだった。


 通りすぎてから、ようやく息を吐いた。


 姫の手が、私の手を少し強く握った。


 大丈夫、と言いかけた。

 今度も、言葉にはせず、握り返すだけにした。


 廊下の先に、階段が見えた。


 姫が、ほんの少し顔を上げる。


「あそこよ」


 声は小さかったけれど、迷いはなかった。


 階段には窓があった。

 下から、煮炊きをする匂いが上がってくる。


 私たちは、そこを下りた。


 一段ずつ。

 姫の足が、次の段へ着いたことを確かめながら。


 急いでいる。

 早くしたい。


 でも、ここで転ばせるほうが、ずっと怖かった。


 途中で、姫が私を見た。


「遅くて、ごめんなさい」

「私、好きな女の子と手をつないで歩くとき、わりとゆっくり歩きたいほうなんだ」


 姫の目が、丸くなった。


 そのあと、少しだけ眉が上がる。


「……今は、急ぐところなのだわ」

「うん。だから、これでも結構我慢してる」


 返事は、なかった。


 でも、次の段へ足を下ろすとき、握られた手の力が、少しだけ変わった。

 しがみつくようだった指が、私の指の間へ、ちゃんと収まった。


 胸が、きゅっとした。


 私のほうが、足元を見ないと危なかった。


     *


 階段の下には、荷物が積まれていた。


 木箱。

 麦の袋。

 その向こうには、給仕や料理人が行き来している。


 庭へ続く扉は見えた。

 けれど、その手前で、横に傾いた荷箱が通り道をふさいでいた。


「すみません、通れますか」


 声をかけると、袖をまくった女性が振り返った。


「ああ、ごめんよ。そこ、今、直すから」


 彼女は箱の端を持ち上げようとして、顔をしかめた。

 別の袋の紐が、下へ引っかかっている。


 エスメラルダが、廊下のほうを見た。


 待っている時間は、長く感じた。

 でも、押しのけて通れば、今度は、こちらのことを覚えられる。


 私は、姫をティアへ預けた。


「こっち、少しだけ持ってもらっていいですか。下の紐を抜きます」


 箱の角へ手をかける。

 エスメラルダが、反対側を持った。


 少し浮かせる。

 女性が紐を引き抜いた。


 箱を下ろし、壁際へ寄せる。


 腕が、じんとした。

 持ち上がったからといって、軽かったわけではない。


 エスメラルダは、もう持ち直している。

 やっぱり、あの人とは、使える力が違う。


「助かったよ。今日は急に食べる人数が増えてね」


 女性が、額を拭った。


「明日、国境へ出る兵隊さんたちの分。せめて、出る前くらいは、温かいものを食べさせてやりたくてさ」


 奥で、大きな鍋の蓋が開いた。

 白い湯気が、天井へ上がっていく。


 私は、そちらを見た。


 この人も、誰かに食べさせたいと思っている。

 それは、エスメラルダがしてきたことと、似ていた。


 私は、何も言わずに、最後の袋を寄せた。


「これなら、通れるね。ありがと」


 女性が笑った。


 私は、うなずいた。


「こちらこそ。通してくれて、ありがとうございます」


 姫の手を、もう一度取る。


 温かい料理の匂いを背中に、私たちは、庭へ続く扉を抜けた。


     *


 外の風が、頬に触れた。


 思わず、空を見た。


 壁と屋根の間に、夕暮れの色が広がっている。

 部屋の小さな窓から見るより、ずっと広かった。


 隣で、姫も顔を上げていた。


 歩みが、一瞬だけ止まる。


 私も、止まった。


 ほんの一呼吸だけ。


 フードの下で、金色の目が、空を見ていた。


 私は、また、その手を引いた。


「もう少し」


 姫が、こちらを見る。

 うなずいて、歩き出す。


 庭の端に、荷車が待っていた。


 空になった箱と、畳まれた覆い布。

 手綱を持つゴブリンの男性が、こちらを見つける。


 朝、エスメラルダに紹介してもらった御者だった。


「来たか」


 小さな声だった。


 エスメラルダが、周りを確かめながら近づいた。


「外は」

「採石場の列は出たそうだ。門のところまで、連絡の子が知らせに来た。坑道のほうは、まだ返事が来てない」


 私は、姫を見た。


 あの子も、聞いていた。


「……採石場の人たちは、出られたんだね」


 口に出して、確かめた。


 全員が揃ったかは、まだ分からない。

 坑道からも、知らせは来ていない。


 それでも、動いた。


 紙の上に書いた百四人が、今、帰るために歩いている。


「合流場所で、リゼたちが受け入れる。こっちは、姫を連れていくよ」


 エスメラルダが言った。


 私は、うなずいた。


 荷台の奥には、人が身を隠せるよう、空箱と布で場所を作ってあった。

 姫がそこを見た。


「門のところだけ、隠れてもらってもいい?」


 私は、顔をのぞき込んだ。


 姫は、少しだけ、その暗がりを見ていた。


 やがて、自分で荷台の縁へ手を置く。


「ここに入るのね」

「うん。上には布をかけるけど、顔のところは空けられるよ」


 私は、覆い布を持ち上げて見せた。


「自分でも、動かせる」

「……分かったのだわ」


 姫は、うなずいた。


 私とエスメラルダで、体を支える。

 荷台へ上がった姫は、自分で奥へ座り、外套の裾を整えた。


 私は、布を渡した。


 あの子が、自分の手で引き寄せる。

 顔の前へ、小さな隙間が残った。


 そこから、金色の目が、こちらを見た。


「門を出たら、教えて」

「もちろん」


 私は、うなずいた。


「そしたら、一緒に外を見ようね」


 姫の指が、布の端を、軽く握った。


 ティアが荷台へ上がり、その近くへ座った。

 箱の陰にいる姫へ、いつでも手を伸ばせる場所だった。


 私は、その隣へ腰を下ろした。


 青いリボンが、目の前で揺れる。


 ティアの手が、私の指へ、そっと触れた。


 目が合った。


 言いたいことは、たくさんあった。

 よかった、とも。

 ありがとう、とも。

 やっぱり大好き、とも。


 全部、城門の外で言おう。


 今は、彼女の手を、一度だけ握った。


 エスメラルダが、荷台の後ろへ乗った。

 御者が、手綱を動かす。


 車輪が、石の上を転がり始めた。


 進んだ。


 姫を乗せて、ちゃんと、進んでいる。


 私は、正面の門を見た。


 あそこを通れば、城の外だ。


 まだ終わりではない。

 皆と合流して、谷まで行かなければならない。


 それでも、あの扉より向こうへ。


 あと、少し。


 門の外で、馬の蹄が鳴った。


 速かった。

 さっきまで庭を行き来していた荷馬車とは、全然違う音だった。


 兵士が一人、そちらを向く。


 門の脇で、声が上がった。


「東の作業場で――」


 続きは、馬のいななきに紛れた。


 御者の手が、止まった。


 私も、息を止めた。


 エスメラルダが、ゆっくり顔を上げる。


「荷車を止めろ」


 低い声がした。


 よく通る声だった。

 大声ではなかったのに、門の近くにいた兵士たちが、一斉に動いた。


 私は、その声を知っていた。


     *


 門の陰から、鎧の男が出てきた。


 大きい。


 荷台に座っている私から見ても、肩の位置が高かった。

 全身を覆う鉄の、厚みまで見える。


 腰には、幅の広い剣。

 歩くたびに、鞘が脚の鎧へ当たった。


 あの日、玉座の右側にいた騎士だ。


 姫の首輪をつかんで、軽々と持ち上げた人。

 私が放してと言ったのに、こちらを見もしなかった人。


 左腕が、少しだけ痛んだ気がした。


 傷は、もうない。

 それでも、あのときの、どうにもならなかった感じだけが、体の中に残っていた。


「出入りを止める。中の荷を、確かめろ」


 騎士の言葉に、兵士が荷車へ近づいてきた。


 御者が、手綱を持ったまま答える。


「食料を納めた帰りでして。空の箱と、治療に来られた勇者様たちを――」


 騎士の目が、私へ向いた。


「勇者殿か」


 私は、うなずいた。


 喉が、ひどく乾いていた。


「治療は、終わりました」

「そうか。それは、ご苦労だった」


 返事は、落ち着いていた。


 その声のまま、騎士は、荷台の奥を見る。


「では、そちらの布をどけてもらおう」


 私の隣で、ティアの指がこわばった。


 エスメラルダは、まだ動かなかった。

 でも、上着の陰へ入った手が、何を握っているのかは分かった。


 ここで、隠し通せるだろうか。


 何か言って、目をそらしてもらって。

 その間に、門の外へ。


 頭の中で、言葉を探した。


 いつもなら、勝手に口から出てくるくせに。

 必要なときには、こんなにも、見つからない。


 兵士の手が、布へ伸びた。


 その前に、布が、内側から動いた。


「触らないでちょうだい」


 小さな声だった。

 けれど、はっきりしていた。


 私は、振り返った。


 姫が、自分で布を持ち上げていた。


 赤い髪が、フードの縁からこぼれる。

 金色の瞳が、まっすぐ騎士へ向いた。


 あの子の指は、震えていた。


 それでも、布を放さなかった。

 自分の顔を、自分で見せた。


「わたくしは、帰るのだわ」


 騎士の目が、細くなった。


 彼は、姫の首を見た。

 何もついていない、緑色の肌を。


 それから、エスメラルダへ目を移す。


 頭巾の下から、白い髪がのぞいていた。


 彼女は、ゆっくり立ち上がった。


「……なるほど」


 騎士が、短く言った。


 門のほうで、重たい木が動く音がした。

 開いていた扉が、兵士たちの手で、少しずつ狭くなっていく。


 別の兵士が、荷車の横へ回り込んだ。

 ここに座ったままでは、姫もティアも、荷台の奥へ追い込まれる。


 私は、荷台から下りた。


 足が、石の上へ着く。

 思ったより、膝が頼りなかった。


 でも、立てた。


 姫にも手を伸ばした。


 あの子は、一瞬、私を見た。

 それから、その手を取った。


 荷台から下りる体を支える。

 足が着くまで、ゆっくり。


 私は、姫と騎士の間へ立った。


 エスメラルダが、私の斜め前へ下りてくる。

 二本のナイフが、ようやく、上着の外へ出た。


 後ろで、ティアも荷台を下りた。

 青いリボンが、一度、風に揺れた。


 騎士は、私たちを見た。


「その子を、こちらへ」


 手が、差し出された。


 鎧に覆われた、大きな手だった。


 私は、あの日のことを思い出した。


 伸ばしかけた右手。

 何もつかめなかった指。

 扉の向こうへ消えていく、小さな体。


 今は、その右手に、姫の手がある。


 冷たくて、少し震えている。

 でも、こちらを握り返してくれている。


「嫌です」


 思ったことが、そのまま口から出た。


 今度は、離さなかった。

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