第10話:ゴブリン姫奪還作戦
城門が、背中のほうで閉まった。
振り返らなかった。
いつもの治療に来た。それだけの顔をして、案内の兵士についていく。
ティアの手は、少し冷たかった。
握り返してくる力が、普段よりも強い。
私は、その指へ、軽く力を返した。
大丈夫、と言う代わりに。
大丈夫にするために、今から動くのだと、自分にも言い聞かせながら。
「こちらで待つように」
通された控えの間で、しばらく待たされた。
椅子が四つ。
壁には、花を生けた小さな壺。
廊下の向こうでは、誰かが食器を運んでいる。
いつもと、あまり変わらなかった。
そのことに、少し驚いた。
今日は私にとって、とんでもない日なのに。この城では、今日も夕食が作られ、床が掃かれ、明日の話がされている。
私たちのほうが、そこへ、とんでもないことをしに来たのだ。
膝へ置いた手を見た。
指先が、落ち着かない。
魔法は使えない。
腰に刃物が二本あったって、急に剣の振り方が分かるわけでもない。
それでも、今日は、それを知っている人が隣にいる。
「肩」
頭巾の奥から、エスメラルダが短く言った。
「上がってるよ」
私は、息を吐いた。
「……そんなに?」
「見て分かる程度にはね」
反対側で、ティアまで自分の肩を下げた。
私に言われた言葉を、自分にも使っている。
真面目だ。
そして、可愛い。
こういうときまで可愛いと思える自分の頭には、ちょっとだけ感心する。
できれば、その余裕を、今、膝の上で握ったり開いたりしている手にも分けてほしい。
ティアが、髪の結び目へ触れた。
青いリボンの端が、指の下で揺れる。
私と目が合うと、少しだけ笑ってくれた。
昨日、私が結んだものだ。
今朝、ほどけないように、もう一度結び直した。
ちゃんと帰って、また結びたい。
その願いは、ここへ来るまでより、少し具体的になっていた。
この廊下を歩いて。あの扉を開けて。姫と一緒に、外へ出る。
私は、頭の中でもう一度、順番を確かめた。
*
迎えの兵士が来たころには、窓から差す光が、ずいぶん低くなっていた。
歩き慣れてきた廊下を進む。
途中、食事を運ぶ人たちが曲がっていく角を、横目で確かめた。
あそこだ。
姫に教えてもらって、前の面会の帰りにも確かめた場所。
今日は、あの先へ行く。
石造りの小部屋の前で、鍵が鳴った。
「荷物は中へ。使わないものは、通路に出すな」
兵士の言葉に、エスメラルダが頭を下げる。
「はい」
短い返事だった。
店で働いているときより、ずっと低く、目立たない声。
私が先に部屋へ入り、ティアが続いた。
姫は、寝台に座っていた。
私たちを見る。
それから、湯の入った桶を運んできた三人目へ、目が止まる。
金色の瞳が、大きく開いた。
エスメラルダは、寝台の脇へ桶を置いた。
布を取り出すために、頭を下げる。
頭巾の端から、白い髪が、少しだけこぼれた。
「……ずいぶん、待たせるのね」
姫の声がした。
廊下の兵士は、こちらを見た。
面会の時間のことだと思ったのか、何も言わずに、扉の横へ戻る。
エスメラルダの手が、布の上で止まっていた。
私は、持ってきた籠を置いた。
その陰で、腰のナイフを、鞘ごと一本ずつ彼女へ渡す。
緑色の指が、いつもどおり、確かにそれを受け取った。
けれど、その手の甲へ落ちた白い髪は、少し揺れていた。
エスメラルダが、寝台の前へ膝をつく。
「……お迎えに、参りました」
私たちにだけ聞こえる声だった。
姫の唇が動いた。
すぐには、言葉にならなかった。
視線が、エスメラルダの顔をたどる。
白い髪。頬。頭巾の下から見上げる目。
本当にそこにいるのかを、確かめるみたいに。
姫の手が伸びた。
エスメラルダの上着を、指先でつかんだ。
「遅いのだわ」
さっきよりも、小さな声だった。
「申し訳ございません」
エスメラルダは、言い返さなかった。
姫の手を、ほどくこともしなかった。
私は、少しだけ目を伏せた。
昨日までの話では、追い出された人と、置いていかれた人だった。
でも、今、目の前にいるのは、それだけではなかった。
相手の顔を見つけただけで、声が変わってしまう二人だ。
胸の奥が、きゅっとした。
抱き締めてあげたい人が、目の前に二人いる。
隣のティアにも使いたいので、本当は、三人ぶんの腕が欲しかった。
増えないのだろうか。
こういうときだけでいいので。
「……ゆりあさん」
ティアに、小さく名前を呼ばれた。
はい。
今、私の二本でできることをします。
私は、姫のそばへしゃがんだ。
「両方から返事が来た。皆、準備できてるって」
姫の目が、こちらへ向く。
「予定どおり、鐘が鳴ったら動くよ」
上着を握っていた手に、少し力がこもった。
姫は、エスメラルダを見た。
「今度は、勝手にいなくならないでちょうだい」
エスメラルダが、目を上げた。
「……お叱りは、帰ってから、いくらでも」
「そのつもりなのだわ」
姫は、ようやく、その手を離した。
*
ティアが、いつものように傷を診始めた。
私は、使う布を順番に並べる。
エスメラルダは、桶の脇で布を絞った。
扉の外の兵士には、今までどおりの治療に見えているはずだった。
姫の手首へ、淡い光が落ちる。
ティアは、そっと腕を支え、痛くないかを尋ねた。
少し前まで、私の手を強く握っていた指だ。
今は、相手の肌へ触れる強さを、ちゃんと選んでいる。
やっぱり、すごいなと思った。
怖さが消えたわけではないはずだ。
それでも、その手を必要としている人がいれば、この人は、ちゃんとそちらを見る。
ティアが、姫の顔をのぞき込んだ。
「お首の下も、診せていただきますね」
「ええ」
私は、扉へ目を向けた。
兵士は、廊下を一度見てから、こちらを見直した。
もうすぐだった。
さっきから、廊下を通る食器の音が増えている。
夕食の支度が整う時間。
窓の外の空も、橙色の下に、薄い青が広がり始めていた。
エスメラルダが、絞った布を、畳んだ。
一度。
私は、立ち上がった。
扉の近くへ、使い終えた布を入れる籠を運ぶ。
ティアが、顔を上げた。
「恐れ入ります。こちらへ、来ていただいてもよろしいでしょうか」
声が、少しだけ震えた。
「何だ」
「首輪の下を、診ますので。その……姫が動かれないよう、鎖を持っていただけますか」
私は、床を見た。
その言葉を、練習した。
何度も。
鎖を持ってもらう。
あの子が、動かないように。
終わったら、もう、そんなことを頼まなくてよくなる。
それだけを、考えた。
兵士が、部屋へ入ってきた。
腰で、鍵束が鳴る。
壁へつながれた鎖に、手が伸びる。
エスメラルダは、邪魔にならないように見える位置へ、身を引いた。
姫は、動かなかった。
怖くないはずがない。
この人が鎖へ触れるたび、今まで、どんなことが起きていたのか、私は知っている。
それでも、姫は、自分の手を膝へ置いていた。
窓の外で、鐘が鳴った。
最初の一つが、空気を震わせた。
私は、扉を閉めた。
「な――」
兵士が振り返ろうとした。
そこから先は、ほとんど、見えなかった。
エスメラルダの体が、低く動いた。
兵士の肩が傾き、膝が折れる。
私は、籠から用意した布を抜いた。
差し出す。
次に見たときには、兵士は床へ伏せられていた。
口元を布で押さえられ、腕を背中側へ固定されている。
倒れる音は、鐘の響きよりも小さかった。
「声を出すんじゃないよ」
エスメラルダの声は、もう、荷運びの声ではなかった。
抜いたナイフが、兵士の視界へ入る位置にあった。
「じっとしてりゃ、これ以上、痛いことはしない」
兵士の目が、大きく開いていた。
何か言おうとして、動きを止める。
私も、息を止めていた。
強い。
知っていたはずなのに、思った。
店で酔っ払いをにらみつける姿とも、重い樽を動かす姿とも、違った。
この人は、人が何をしようとするかを見て、その前に動けるのだ。
「鍵」
声をかけられて、はっとした。
私は、しゃがんだ。
兵士の腰から、鍵束を外す。
金具へ、指がうまくかからなかった。
一度、空振りする。
怖いのだ。
今さらみたいに、それが分かった。
でも、怖いからできませんと言っている間にも、エスメラルダは、この人を押さえてくれている。
指先を見る。
もう一度。
外れた。
「取れた」
姫のそばへ戻る。
先に、手首の金具を開いた。
両手の間で短く揺れていた鎖を外し、ティアの差し出す布へ載せる。
姫が、そっと指を開いた。
次は、首輪だ。
いくつもある鍵のうち、小さいものを選んだ。
首輪の錠へ差し込もうとして、先がぶつかる。
「ひとつ、隣なのだわ」
姫の声がした。
「そっちの、先が細いものよ」
私は、うなずいた。
言われた鍵を、持ち直す。
今度は、入った。
回す。
かちり、と、小さな音がした。
首輪が緩む。
私は、落とさないように両手を添えた。
ティアが、その下へ畳んだ布を差し入れる。
鉄の重さが、私の手へ移った。
こんなに、重かったのか。
両手なら、持てる。
でも、これを首につけて、そこから鎖まで引かれていたのだ。
姫の喉が、小さく動いた。
一度、息を吸う。
もう一度。
私は、首輪を布へ包んだ。
あの子のほうを見た。
「……痛くない?」
姫は、自分の首へ手を伸ばしかけた。
その前に、ティアが尋ねる。
「最後に、ここも治してよろしいですか?」
姫は、うなずいた。
淡い光が、緑色の肌へ落ちた。
首輪の下に残っていた傷が、指の先から消えていく。
今度は、その上へ、鉄を戻さなくてよかった。
ティアが、手を離す。
姫は、そっと首へ触れた。
鎖が鳴らない。
それが、たまらなく嬉しかった。
私は、笑おうとした。
変な顔になった気がする。
あの謁見の間では、私だけが、先に痛くなくなった。
あの子は、そのまま連れていかれた。
今は、違う。
「よかった」
小さく言うと、姫が、こちらを見た。
「……ええ」
返事と一緒に、ほんの少し、口元が緩んだ。
金色の目が、細くなる。
黒い部分に浮かんでいた強い色が、少しだけ柔らかく見えた。
ああ。
この顔だ。
見たかった。
ずっと、見たかった。
こんなところで満足して、座り込むわけにはいかない。
それでも、今の顔だけは、絶対に忘れたくなかった。
「ゆりあさん、お靴を」
ティアが、そっと言った。
私は、大きくうなずいた。
*
姫の前へ靴をそろえ、片膝をついた。
「足、触るね」
「お願いするのだわ」
差し出された足へ、靴を合わせる。
少し余裕はあったけれど、紐を締めれば、抜けずに済みそうだった。
私は、結び目を作った。
昨夜は、ティアの髪にリボンを結んだ。
今日は、お姫様の靴を履かせている。
これだけ並べたら、とても華やかな第二の人生だ。
背景が、床に兵士の転がっている石の部屋でさえなければ。
「きつくない?」
「大丈夫よ」
もう片方も履かせる。
顔を上げたとき、姫は、じっとこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……本当に、来たのね」
私は、手を止めた。
「来るって言ったよ」
言っただけで、信じてもらえるとは思っていなかった。
私だって、エスメラルダに一度断られている。
それでも、こうして目の前まで来たことなら、今、あの子にも分かる。
姫の指が、膝の上で重なった。
「ええ。聞いていたのだわ」
少しだけ、目が伏せられる。
「聞いていたけれど……来てくれて、ありがとう」
私は、結び目を見た。
危なかった。
顔を上げたままだったら、たぶん、ものすごく締まりのない顔を見せていた。
好きだな。
気の強い言い方も。
ちゃんと目を見てお礼を言ってくれるところも。
怖くても、自分で帰りたいと口にしてくれたところも。
この子に好きになってもらえたら、嬉しい。
やっぱり、そう思う。
そのためにも、まずは、城の外だ。
私は、立ち上がった。
「手、貸すよ」
姫の手が、私の手のひらへ重なった。
細い指が、ぎゅっと握る。
寝台から腰が浮いた。
一歩。
足が、少し震えた。
私は、引っ張らないように支えた。
反対側から、ティアも手を添える。
「急がなくて大丈夫。まず、立ってみよう」
姫は、唇を結んで、うなずいた。
魔法で傷が消えても、しばらく使っていなかった足の動かし方まで、すぐ元どおりになるわけではない。
ティアが、昨日言っていたことを思い出す。
私は、歩幅を小さくした。
もう一歩。
靴の底が、石の床を踏んだ。
鎖は、ついてこなかった。
姫が、振り返る。
壁の金具と、布に包まれた首輪。
空になった寝台。
その視線が、ゆっくり前へ戻った。
「……歩けるのだわ」
私は、うなずいた。
「うん。一緒に歩こう」
そのころには、エスメラルダは兵士を縛り終えていた。
武器も手の届かないところへ移してある。
ティアが、兵士のそばへ膝をついた。
兵士が、身をこわばらせる。
彼女は、腫れかけた手首へ、そっと手を添えた。
淡い光が、もう一度、部屋を照らす。
エスメラルダは止めなかった。
扉の向こうの気配を聞きながら、それを待った。
ティアは、兵士の顔を見て、静かに頭を下げた。
「少しの間だけ、そのままでいてください」
兵士の目が、こちらへ動いた。
何を思っているのかは、分からなかった。
分かってもらう時間も、今はなかった。
私は、姫へ外套を差し出した。
布が顔の近くへ来たところで、あの子の肩が、わずかに上がる。
私は、手を止めた。
姫も、その布を見ていた。
しばらくして、自分から手を伸ばす。
「頭のところは、自分でかぶるわ」
「うん」
外套を渡す。
姫が、赤い髪を収め、フードの縁を自分で引いた。
顔を上げれば、こちらが見えるくらいの深さだった。
「これで、いいかしら」
「うん。よく似合う」
「隠れるためのものにまで、そういう感想をつけるのね」
私は、口元を押さえた。
だって、似合うものは似合うのだ。
欲を言えば、もっと明るい色の服も、選んであげたい。
それは、帰ってから。
エスメラルダが扉を少し開き、廊下を確かめた。
「今だ」
*
姫が、部屋の外へ出た。
自分の足で。
私は、その半歩先を歩いた。
手を離さず、急ぎすぎないように。
後ろで、エスメラルダが扉を閉める。
鍵をかける音が、やけに大きく聞こえた。
見張りがいなくなったことに気づかれるまで、どれくらいあるのか。
それは、分からない。
だから、進む。
エスメラルダが先へ出た。
ナイフは上着の内側へ隠れ、腕には使い終えた布が抱えられている。
ティアは、空になった桶を持っていた。
姫には軽い布だけを渡し、私のそばを歩いてもらう。
通りすがりに見られても、治療の片づけをしている人たちに見えるように。
曲がり角で、人の声がした。
私は、足を止めかけた。
エスメラルダは止まらなかった。
声のしたほうへ目をやり、普通の速さで進む。
止まるほうが、不自然なのだ。
私も、歩いた。
向こうから、木箱を抱えた給仕の女性が来る。
腕の中には、重ねられた皿。
目が合った。
私は、小さく頭を下げた。
相手も、少し顎を引いてくれる。
それだけだった。
通りすぎてから、ようやく息を吐いた。
姫の手が、私の手を少し強く握った。
大丈夫、と言いかけた。
今度も、言葉にはせず、握り返すだけにした。
廊下の先に、階段が見えた。
姫が、ほんの少し顔を上げる。
「あそこよ」
声は小さかったけれど、迷いはなかった。
階段には窓があった。
下から、煮炊きをする匂いが上がってくる。
私たちは、そこを下りた。
一段ずつ。
姫の足が、次の段へ着いたことを確かめながら。
急いでいる。
早くしたい。
でも、ここで転ばせるほうが、ずっと怖かった。
途中で、姫が私を見た。
「遅くて、ごめんなさい」
「私、好きな女の子と手をつないで歩くとき、わりとゆっくり歩きたいほうなんだ」
姫の目が、丸くなった。
そのあと、少しだけ眉が上がる。
「……今は、急ぐところなのだわ」
「うん。だから、これでも結構我慢してる」
返事は、なかった。
でも、次の段へ足を下ろすとき、握られた手の力が、少しだけ変わった。
しがみつくようだった指が、私の指の間へ、ちゃんと収まった。
胸が、きゅっとした。
私のほうが、足元を見ないと危なかった。
*
階段の下には、荷物が積まれていた。
木箱。
麦の袋。
その向こうには、給仕や料理人が行き来している。
庭へ続く扉は見えた。
けれど、その手前で、横に傾いた荷箱が通り道をふさいでいた。
「すみません、通れますか」
声をかけると、袖をまくった女性が振り返った。
「ああ、ごめんよ。そこ、今、直すから」
彼女は箱の端を持ち上げようとして、顔をしかめた。
別の袋の紐が、下へ引っかかっている。
エスメラルダが、廊下のほうを見た。
待っている時間は、長く感じた。
でも、押しのけて通れば、今度は、こちらのことを覚えられる。
私は、姫をティアへ預けた。
「こっち、少しだけ持ってもらっていいですか。下の紐を抜きます」
箱の角へ手をかける。
エスメラルダが、反対側を持った。
少し浮かせる。
女性が紐を引き抜いた。
箱を下ろし、壁際へ寄せる。
腕が、じんとした。
持ち上がったからといって、軽かったわけではない。
エスメラルダは、もう持ち直している。
やっぱり、あの人とは、使える力が違う。
「助かったよ。今日は急に食べる人数が増えてね」
女性が、額を拭った。
「明日、国境へ出る兵隊さんたちの分。せめて、出る前くらいは、温かいものを食べさせてやりたくてさ」
奥で、大きな鍋の蓋が開いた。
白い湯気が、天井へ上がっていく。
私は、そちらを見た。
この人も、誰かに食べさせたいと思っている。
それは、エスメラルダがしてきたことと、似ていた。
私は、何も言わずに、最後の袋を寄せた。
「これなら、通れるね。ありがと」
女性が笑った。
私は、うなずいた。
「こちらこそ。通してくれて、ありがとうございます」
姫の手を、もう一度取る。
温かい料理の匂いを背中に、私たちは、庭へ続く扉を抜けた。
*
外の風が、頬に触れた。
思わず、空を見た。
壁と屋根の間に、夕暮れの色が広がっている。
部屋の小さな窓から見るより、ずっと広かった。
隣で、姫も顔を上げていた。
歩みが、一瞬だけ止まる。
私も、止まった。
ほんの一呼吸だけ。
フードの下で、金色の目が、空を見ていた。
私は、また、その手を引いた。
「もう少し」
姫が、こちらを見る。
うなずいて、歩き出す。
庭の端に、荷車が待っていた。
空になった箱と、畳まれた覆い布。
手綱を持つゴブリンの男性が、こちらを見つける。
朝、エスメラルダに紹介してもらった御者だった。
「来たか」
小さな声だった。
エスメラルダが、周りを確かめながら近づいた。
「外は」
「採石場の列は出たそうだ。門のところまで、連絡の子が知らせに来た。坑道のほうは、まだ返事が来てない」
私は、姫を見た。
あの子も、聞いていた。
「……採石場の人たちは、出られたんだね」
口に出して、確かめた。
全員が揃ったかは、まだ分からない。
坑道からも、知らせは来ていない。
それでも、動いた。
紙の上に書いた百四人が、今、帰るために歩いている。
「合流場所で、リゼたちが受け入れる。こっちは、姫を連れていくよ」
エスメラルダが言った。
私は、うなずいた。
荷台の奥には、人が身を隠せるよう、空箱と布で場所を作ってあった。
姫がそこを見た。
「門のところだけ、隠れてもらってもいい?」
私は、顔をのぞき込んだ。
姫は、少しだけ、その暗がりを見ていた。
やがて、自分で荷台の縁へ手を置く。
「ここに入るのね」
「うん。上には布をかけるけど、顔のところは空けられるよ」
私は、覆い布を持ち上げて見せた。
「自分でも、動かせる」
「……分かったのだわ」
姫は、うなずいた。
私とエスメラルダで、体を支える。
荷台へ上がった姫は、自分で奥へ座り、外套の裾を整えた。
私は、布を渡した。
あの子が、自分の手で引き寄せる。
顔の前へ、小さな隙間が残った。
そこから、金色の目が、こちらを見た。
「門を出たら、教えて」
「もちろん」
私は、うなずいた。
「そしたら、一緒に外を見ようね」
姫の指が、布の端を、軽く握った。
ティアが荷台へ上がり、その近くへ座った。
箱の陰にいる姫へ、いつでも手を伸ばせる場所だった。
私は、その隣へ腰を下ろした。
青いリボンが、目の前で揺れる。
ティアの手が、私の指へ、そっと触れた。
目が合った。
言いたいことは、たくさんあった。
よかった、とも。
ありがとう、とも。
やっぱり大好き、とも。
全部、城門の外で言おう。
今は、彼女の手を、一度だけ握った。
エスメラルダが、荷台の後ろへ乗った。
御者が、手綱を動かす。
車輪が、石の上を転がり始めた。
進んだ。
姫を乗せて、ちゃんと、進んでいる。
私は、正面の門を見た。
あそこを通れば、城の外だ。
まだ終わりではない。
皆と合流して、谷まで行かなければならない。
それでも、あの扉より向こうへ。
あと、少し。
門の外で、馬の蹄が鳴った。
速かった。
さっきまで庭を行き来していた荷馬車とは、全然違う音だった。
兵士が一人、そちらを向く。
門の脇で、声が上がった。
「東の作業場で――」
続きは、馬のいななきに紛れた。
御者の手が、止まった。
私も、息を止めた。
エスメラルダが、ゆっくり顔を上げる。
「荷車を止めろ」
低い声がした。
よく通る声だった。
大声ではなかったのに、門の近くにいた兵士たちが、一斉に動いた。
私は、その声を知っていた。
*
門の陰から、鎧の男が出てきた。
大きい。
荷台に座っている私から見ても、肩の位置が高かった。
全身を覆う鉄の、厚みまで見える。
腰には、幅の広い剣。
歩くたびに、鞘が脚の鎧へ当たった。
あの日、玉座の右側にいた騎士だ。
姫の首輪をつかんで、軽々と持ち上げた人。
私が放してと言ったのに、こちらを見もしなかった人。
左腕が、少しだけ痛んだ気がした。
傷は、もうない。
それでも、あのときの、どうにもならなかった感じだけが、体の中に残っていた。
「出入りを止める。中の荷を、確かめろ」
騎士の言葉に、兵士が荷車へ近づいてきた。
御者が、手綱を持ったまま答える。
「食料を納めた帰りでして。空の箱と、治療に来られた勇者様たちを――」
騎士の目が、私へ向いた。
「勇者殿か」
私は、うなずいた。
喉が、ひどく乾いていた。
「治療は、終わりました」
「そうか。それは、ご苦労だった」
返事は、落ち着いていた。
その声のまま、騎士は、荷台の奥を見る。
「では、そちらの布をどけてもらおう」
私の隣で、ティアの指がこわばった。
エスメラルダは、まだ動かなかった。
でも、上着の陰へ入った手が、何を握っているのかは分かった。
ここで、隠し通せるだろうか。
何か言って、目をそらしてもらって。
その間に、門の外へ。
頭の中で、言葉を探した。
いつもなら、勝手に口から出てくるくせに。
必要なときには、こんなにも、見つからない。
兵士の手が、布へ伸びた。
その前に、布が、内側から動いた。
「触らないでちょうだい」
小さな声だった。
けれど、はっきりしていた。
私は、振り返った。
姫が、自分で布を持ち上げていた。
赤い髪が、フードの縁からこぼれる。
金色の瞳が、まっすぐ騎士へ向いた。
あの子の指は、震えていた。
それでも、布を放さなかった。
自分の顔を、自分で見せた。
「わたくしは、帰るのだわ」
騎士の目が、細くなった。
彼は、姫の首を見た。
何もついていない、緑色の肌を。
それから、エスメラルダへ目を移す。
頭巾の下から、白い髪がのぞいていた。
彼女は、ゆっくり立ち上がった。
「……なるほど」
騎士が、短く言った。
門のほうで、重たい木が動く音がした。
開いていた扉が、兵士たちの手で、少しずつ狭くなっていく。
別の兵士が、荷車の横へ回り込んだ。
ここに座ったままでは、姫もティアも、荷台の奥へ追い込まれる。
私は、荷台から下りた。
足が、石の上へ着く。
思ったより、膝が頼りなかった。
でも、立てた。
姫にも手を伸ばした。
あの子は、一瞬、私を見た。
それから、その手を取った。
荷台から下りる体を支える。
足が着くまで、ゆっくり。
私は、姫と騎士の間へ立った。
エスメラルダが、私の斜め前へ下りてくる。
二本のナイフが、ようやく、上着の外へ出た。
後ろで、ティアも荷台を下りた。
青いリボンが、一度、風に揺れた。
騎士は、私たちを見た。
「その子を、こちらへ」
手が、差し出された。
鎧に覆われた、大きな手だった。
私は、あの日のことを思い出した。
伸ばしかけた右手。
何もつかめなかった指。
扉の向こうへ消えていく、小さな体。
今は、その右手に、姫の手がある。
冷たくて、少し震えている。
でも、こちらを握り返してくれている。
「嫌です」
思ったことが、そのまま口から出た。
今度は、離さなかった。




