最終話:ハーレム作りは、これからです!
出発の前日、私は、女神さまの鞄から鍋を取り出した。
「ティア」
「はい」
「これ、持っていくの?」
「外でお食事を作ることも、あるかと思いまして」
実にもっともな理由だった。
私はうなずき、鍋の底に入っていた小鍋も取り出した。
「こっちは?」
「温かいお飲み物を」
「なるほどね」
さらに、小鍋の中から茶こしが出てきた。
ティアと目が合った。
青紫の瞳が、ほんの少し、泳いだ。
「……飲むときに、葉が入ると、お困りかと」
かわいい。
出発前から、かわいいが鞄に詰まっている。
この人は、知らない道を何日も歩く準備をしながら、旅先で私がお茶の葉を飲み込まないように心配してくれたのだ。
好きだ。茶こしにすら嫉妬しそう。私もそのくらい丁寧に選んで鞄へ入れてほしい。
いや、入りたくはない。重い女にも限度がある。
「考えてくれたのは、すごく嬉しいんだけどね」
私は鍋を床へ並べた。
「まず、その鞄、背負ってみようか」
ティアは、素直に両腕を肩紐へ通した。
立ち上がろうとした。
座り直した。
銀の髪が、ふわりと膝へ落ちる。
「……ゆりあさん」
「うん」
「鍋は、一つにいたしましょう」
大事なことに、自分で気づける女神さまだった。
私は笑いながら、鞄を支えた。
ティアはちょっと唇を尖らせたけれど、私が手を差し出すと、ちゃんとつかんで立ち上がってくれた。
同じ家で暮らして、数日。
こういう何でもないところで、手が触れる。
そのたびに嬉しくなっていることは、そろそろ顔に出さずに済むようになりたい。
出さずに済んだ記憶は、今のところ、ない。
「おや。引っ越しかい?」
開けていた玄関から、声がした。
エスメラルダだった。
白い髪を後ろへ流し、片手に書類の束、もう片方に細長い包みを持っている。腰の左右には、ナイフの鞘が一つずつ揺れていた。
「鍋を減らす相談中」
「先に中身を減らしな。あんたら、台所ごと歩く気かい」
彼女は食卓へ書類を置いた。
机の上には、昨日から広げている地図と、私が書き直した持ち物の一覧がある。
エスメラルダはそれを一度眺めてから、隣に置いていた勘定書きを指でたたいた。
「こっちは、もう済んでるのかい」
「うん。旅費と、家に残しておく分と、何かあったときのお金。分けた」
ナイフの代金と、荷車の修理に出す分も、渡してある。
食費は少し多めに見た。ティアと二人で知らない町へ行くのだ。おいしそうなものを見つけたとき、私だけ無言で財布を閉じるような旅行にはしたくない。
「……店じゃ、あれだけ口を動かしてたくせにねえ」
「手も動かしてたでしょ?」
「動いてなきゃ、首根っこをつかんで放り出してたよ」
エスメラルダは、口の端だけで笑った。
褒められた。
たぶん、かなり褒められた。
私は自分に都合のいい受け取り方をしつつ、彼女の腰を見た。
「新しいの、届いたんだ」
「ああ」
ナイフの柄へ、節の目立つ指が触れる。
「悪くないよ。馴染むまでは、少しかかるだろうがね」
それで、十分だった。
失くしたものを全部元どおりにできるとは、思っていない。
でも、あの人がまた両手を使えるようになった。そのために少しでも役に立てたのなら、貰ったお金をこれより上手に使う方法は、私には思いつかなかった。
エスメラルダは、地図の南側を指した。
「明日は、この街道だ。ベルナへ行くなら、途中の分かれ道で西へ入るんじゃないよ」
「私たちを召喚した王国のほうに戻っちゃうんだよね」
「そうさ。余計な顔見せは、しなくていい」
次の目的地は、南にある交易国ベルナ。
大きな川に沿って町が並び、荷物も人も、いろいろな国から集まるらしい。
エスメラルダが取引をしたことのある商人も、そこにいるという。
知らない国の食べ物。
見たことのない服。
まだ出会っていない、かわいい女の子たち。
そして、それを隣で見ているティア。
行きたい理由を並べるだけで、今から靴を履きたくなる。
「ここと、ここ。日が暮れるまでに、宿場へ入れるように歩きな。道を外れて近道なんざ、考えるんじゃないよ」
「はい」
「気になる女が森へ入っても、ついていくな」
「どうして私にだけ、そんな具体的な注意を?」
「あんた以外の誰に言うんだい」
ティアまで、横でうなずいていた。
心外だった。
少なくとも、声をかけてからにする。
……この反論は、たぶん、言わないほうがいい。
エスメラルダは、細長い包みをこちらへ押し出した。
ほどくと、布を巻いた金属の杯が二つと、折りたためる小さな調理用の道具が入っていた。
「持っていくなら、そっちだ。落としても割れない」
「これ、くれるの?」
「返しに来るつもりで、持っていきな」
私は、包みから顔を上げた。
彼女はもう、床に並んだ鍋のほうを見ていた。
「そのでかいのは、置いていきな。帰ってきたとき、湯を沸かすものも要るだろう」
ティアが、両手で小鍋を持ち上げた。
「はい。そういたします」
声が、嬉しそうだった。
私も、包みを抱え直した。
「ありがとう。大事に使う」
「へこませたら、へこませたで、持ってきな。なくすよりゃましだよ」
それから彼女は、一番上の書類を裏返した。
家の修繕を頼む相手。
便りを届けてもらう、城の窓口。
雨漏りや、庭のことで困ったとき、誰に連絡すればいいのか。
そういうことが、ひと通り書いてあった。
「留守の間は、あーしが時々見とくよ。作ってもらった合鍵は、城で受け取る」
「忙しいのに、ごめんね」
「前から残ってた家まで腐らせてたら、建て直すほうが高くつくんだよ」
そっけなく言いながら、彼女は庭へ目を向けた。
抜ききれなかった草が、塀の根元に残っている。
ちょっとだけ、眉が寄った。
たぶん、次に帰ってくるときには、あそこもきれいになっている。
「エスメラルダ」
私は、呼んだ。
「一緒に来たいって、ちょっとは思った?」
口にしてから、少しだけ、欲張ったと思った。
彼女がここで働くと決めたことは、もう聞いている。
応援したい。ちゃんと、そう思っている。
でも、帰る場所になってくれた人と、行く場所も一緒にしたかった気持ちまで、なくなったわけではなかった。
エスメラルダは、私を見た。
「ああ」
返事は、短かった。
私は、思っていたより、何も言えなくなった。
「……あ。うん」
「自分で聞いたんだろ。何だい、その顔は」
大きな煙管の先で、額を軽く指された。
火は入っていなかった。
「見てみたい場所くらい、あーしにだってあるさ。ほかの国の酒場を回るのも、悪くない」
「うん」
「ただね。ここでやりたいことが、先にある」
食卓の書類へ、彼女の指が戻った。
途中まで書き込まれた金額の横に、何軒かの店の名前が並んでいる。
「働く場所を作って、金が回るようにして。あの子が何でも一人で抱え込まなくて済むようになったら、そのときは、少し留守にするかもしれないね」
あの子。
誰のことかは、聞かなくてもわかった。
「そのときは、誘っていい?」
「手紙が届く場所くらい、知らせておきな」
「知らせる。すごく知らせる」
「一通で読めるように、まとめるんだよ」
私は、何度もうなずいた。
隣でティアも、柔らかく笑っていた。
エスメラルダは、二人の顔を見てから、わざとらしく息を吐いた。
「……先に食える飯の種類くらい、増やしとくんだったね」
「また教えてくださいませんか」
ティアが、言った。
彼女に、まっすぐ向き直っていた。
「まだ、鍋から目を離してしまいますけれど。次は、もう少し、落ち着いて作れるようになりたいのです」
エスメラルダが、少しだけ目を細めた。
「教えるほうの飯も、作ってくれるんだろうね」
「はい。ぜひ」
迷わず返った声を聞いて、彼女は笑った。
「そりゃ、帰ってくるまで、腕を落とせないねえ」
私も食べたい、と言いかけて、やめた。
今は、二人の約束を、ちゃんと聞いていたかった。
*
その夜、家は、いつもより広く見えた。
畳んだ服は、もう鞄に収まっている。
洗濯物も、残っていない。
台所の隅には、留守番を言い渡された鍋が、大きい順に並んでいた。
私は、明日の朝に食べるパンへ布をかけた。
手を拭いていると、ティアが、棚から杯を二つ取り出した。
同じ形で、縁の色が違う、あの杯だった。
「これでいただくのは、しばらく、お休みですね」
「うん。帰ってきたら、また使おう」
旅に持っていく金属の杯は、もう鞄に入れた。
家で使うものを、家に残していく。
ただ、それだけのことに、こんなにそわそわするとは思わなかった。
私は果実酒の瓶を持って、窓際の小さな机へ移った。
庭の向こうで、どこかの家の明かりが消えた。
涼しい風が、銀の髪の先を揺らしている。
「少しだけ?」
「はい。明日は、早いですものね」
ティアは私の手元を見て、注がれたお酒がいつもの半分くらいになったところで、小さくうなずいた。
その仕草だけで、加減がわかるようになった。
最初は、お酒を勧めること自体、ちょっと申し訳ないくらいだったのに。
「すっかり慣れたね」
「……そんなに、飲んではおりませんよ」
「量の話じゃなくて」
私が笑うと、ティアは杯を見下ろした。
指先で、縁の色をそっとなぞった。
「一日が終わってから、お話をするのが、楽しみになりました」
何を言ったらいいか、少しわからなくなった。
ああ、だめだ。
この人は、こういうことを、こちらの準備に関係なく言う。
今の言葉だけを何度も聞ける道具があったら、絶対に買う。一日中聞いて、本人に話しかけられたとき聞き逃すような、かなり終わった使い方をする自信がある。
私は杯へ口をつけた。
まだ一口なのに、顔が熱い。
「……私も」
「はい」
「明日からも、話そうね。宿に着いたら」
「はい」
ティアの返事が、少し弾んだ。
私はようやく、ちゃんと彼女を見た。
夜の薄い明かりの中で、目元が柔らかく緩んでいる。
好きな顔が、増えたと思う。
この人を初めて見たときから、きれいだと思っていた。
思っていたけれど。
お皿を選んでいる顔も、焦げた鍋を前に困っている顔も、好きなお酒をひと口飲んだあとの顔も、あのときの私は、まだ一つも知らなかった。
知るたびに、その分だけ好きになる。
こんなの、困るくらいに、増える一方だった。
「ティア、かわいい」
「……ありがとうございます」
杯の向こうで、彼女の頬が赤くなった。
それから、ちょっとだけ眉が下がった。
「明日からは、おっしゃる相手が、また増えるのでしょうね」
「え?」
私が目を開くと、ティアは慌てて杯を置いた。
「い、いえ。ベルナには、たくさんの方がいらっしゃるそうですから。ゆりあさんが、その……運命の方に、出会えるかもしれませんし」
その言葉に、私は、机へ置いてあった地図を見た。
最愛の伴侶との縁を結ぶ。
天界で選んだギフトは、今も、私とティアを結んでいる。
私がティアよりも好きになった誰かと、互いに伴侶となること。
それが、ティアが天界へ帰れるようになる条件だった。
もっとも。
どれだけ地図を眺めても、目の前の人より好きな相手が、どこにいるのか、私にはさっぱり見当がつかない。
「かわいい人には、会いたいよ」
「……はい」
「仲良くなりたいし、好きになったら、ちゃんと言いたい」
ティアは、うなずいた。
私は、その顔を見たまま続けた。
「でも、今、これを一番一緒にしたいのは、ティアだよ」
地図の端へ、指を置いた。
「知らないご飯を食べてさ。おいしかったら、そっちもひと口もらって。変なもの見つけて、二人でびっくりして」
何となく、笑ってしまった。
「たぶん私、ティアがいなかったら、どこへ行っても、ティアにも見せたいなって思う」
言っているうちに、自分でわかった。
私は、地図の先だけを楽しみにしているわけではなかった。
その隣に、誰がいるのか。
私にとっては、それが、ものすごく大事だった。
「だから、ティアが一番。そこは、今も同じ」
ティアは、何も言わなかった。
両手で包んだ杯へ、視線を落としている。
私は、少しだけ背筋を伸ばした。
しまった。
好きだと言えば言うほど、帰れませんと言っているようにも聞こえる。
私には嬉しいことでも、ティアが同じように嬉しいとは限らないのに。
「……ごめん。帰りたいって話をしてるのに」
「違います」
思ったより、早く返事が来た。
ティア自身も驚いたように、顔を上げた。
「あの……」
唇が動いた。
言葉を選んでいる、その間、私は黙って待った。
「天界のことを、忘れたわけではございません。帰らなくてもよいと、簡単に申し上げることも、できません」
私は、うなずいた。
ティアは、机の上で両手を重ねた。
「けれど、今のお話を、嬉しいと思ったのは、本当です」
風が、机に広げた地図の端を持ち上げた。
ティアが押さえた。
その指に、青いリボンの先が、かすかに触れた。
「わたくしも、楽しみにしております。次の町で、何があるのか。ゆりあさんが、何を見て笑うのか」
彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「ですから、謝らないでくださいませ。今のお話、聞けてよかったです」
私は、口を閉じた。
開いた。
また、閉じた。
さっきまで、自分から好きだの一番だの言っていた口が、急に、まるで役に立たなくなった。
どうしよう。
この人、私が笑うのを楽しみにしてくれている。
その返事をするべき私が、今、たぶん、笑うというより、顔全体の形を保つので精いっぱいになっている。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、一緒に楽しもう」
「はい。ぜひ」
伸ばされた手が、机の上にあった私の手へ重なった。
指先が冷たくて、手のひらは、温かかった。
私は、危うく杯を倒しかけた。
「ゆ、ゆりあさん?」
「大丈夫。手が、ちょっと、嬉しくて」
「手が?」
「私も」
ティアが、瞬きをした。
それから、肩を揺らして笑った。
何なら、もっと笑ってほしかった。
そのためなら、多少おかしな日本語を喋ったくらい、安いものだった。
*
翌朝は、私が先に目を覚ました。
窓を開けると、まだ冷たい空気が入ってきた。
自分の寝台を整えて、空になった棚を見る。
借りた宿では、出る前に忘れ物がないかを確かめる。
この家では、置いていくものが、ちゃんとあるかを確かめた。
昨日のうちに洗って伏せた、二つの杯。
壁に掛けた、台所用の布。
まだ使いかけの油の瓶。
また使うつもりのものばかりだった。
階段を下りたところで、上から足音がした。
「おはようございます」
ティアが、手すりを持って下りてくる。
きれいに整えた銀髪に、青いリボン。
旅の服は、前の日に二人で確かめたとおり、裾が足へ絡まない長さにしてある。
彼女は私を見ると、少し立ち止まった。
「……曲がっておりませんか」
リボンへ、手をやった。
「大丈夫。かわいいよ」
「そちらは、まだ聞いておりません」
「聞かれる前に答えちゃった」
「もう」
笑って下りてくる足元を見て、私は自分の鞄を少し横へずらした。
通り道を、空けた。
こういうことなら、私にもできる。
ちゃんと前を見て、危ないものがあれば、先にどけておく。
この人が駆け出してから、どうして来たの、と驚くよりも、ずっと前に。
朝食を済ませて、火の始末をした。
窓を閉め、掛け金を確かめた。
ティアが読み上げる順番に、一つずつ見て回る。
「台所は?」
「大丈夫」
「お二階は?」
「二部屋とも、窓、閉めた」
「鍵は」
「あるよ。ティアは?」
小さな腰の袋から、彼女も自分の鍵を取り出した。
二本の鍵が、朝の光を受けた。
私は鞄を背負い、玄関の扉を開けた。
最後にもう一度、振り返った。
昨日の夜、二人で座っていた机が見える。
今度帰ってきたら、庭に何か植えたい。
ティアが好きな花を、聞いておかなきゃ。
そう考えてから、扉を閉めた。
鍵を回す音が、思っていたより、はっきり響いた。
「……いってきます」
言ってみると、少し照れくさかった。
隣で、ティアも家へ向き直った。
「いってまいります」
それから二人で顔を見て、小さく笑った。
*
南門には、もう、皆が集まっていた。
姫とエスメラルダ。
少し後ろに、フィナさん。
それから、門の柱へ肩を預けている、リゼさんの姿もあった。
「早いね。もう少し、家から出てこないかと思った」
「リゼさんこそ。お仕事は?」
「これから。見送りくらいは、できるよ」
片手が、ひらひらと振られた。
短い髪からのぞく耳飾りが、朝日を受けて揺れる。
相変わらず、立っているだけで絵になる人だった。
こういう人に門の前で待っていてもらえる人生が、ある。
以前の私に教えたら、まずゲームの話だと思うだろう。
「会えて嬉しい。今日も、すごく格好いいね」
「ありがとう。出発前でも、元気だねえ」
リゼさんが笑った。
私のすぐ隣で、鞄の肩紐が、きゅっと鳴った。
振り返ると、ティアが、持ち方を直していた。
目が合う。
にっこりされた。
何だろう。
笑っているのに、今、私、何かを確認された気がする。
「ゆりあ」
姫が、呼んだ。
私は、しゃがんで顔の高さを近づけた。
淡い色の外套から、ふわふわした赤い髪がこぼれている。
金色の瞳が、少し不満そうに私を見ていた。
「本当に、もう行くのだわね」
「うん」
「せっかく、おうちをあげたのに」
「ちゃんと帰ってくるよ」
「わかっているのだわ」
すぐに言ってから、姫は、私の鞄へ目を落とした。
少しだけ、唇が動いた。
「……でも、もう少し、一緒にお茶を飲むのかと思っていたのだわ」
胸の真ん中が、柔らかいもので押されたみたいになった。
困った。
そんなことを言ってもらえるなら、もう一日くらい、と思ってしまう。
きっと明日になったら、明後日も、と言いたくなる。
私は、その気持ちごと、ちゃんと姫を見た。
「次に帰ってくるまでに、おすすめのお菓子、増やしておいて」
「そんなに食べるつもりなの?」
「姫が好きなの、いろいろ知りたいから」
金色の目が、一度だけ大きくなった。
「……では、選んでおくのだわ」
姫は、フィナさんから、小さな包みを受け取った。
「これは、今日の分」
「ありがとう」
「一度に全部、食べてしまわないこと。ティアラと、半分ずつにするのだわよ」
「わかりました」
「途中でお腹が空いても、知らない実を食べてはいけないのだわ」
「私、そんなに食いしん坊に見える?」
「何も考えずに口へ入れそうなところが、心配なのだわ」
言葉に詰まった。
ちょっと、反論しきれないところがあった。
ティアが隣で、もう一度、うなずいていた。
姫は、それを確かめると、今度は筒に入った書状を差し出した。
「こちらは、お父様から。ベルナでお世話になれるように、お手紙を書いていただいたのだわ」
私は、両手で受け取った。
旅の鞄には、勇者としての身分証も入っている。
どの国の関でも通行を認めてもらえる、召喚されたときに渡されたものだ。
それに今は、この国の王様が、私たちについて書いてくれた手紙も加わった。
「ありがとう。お父様にも、伝えておいてくれる?」
「ええ」
姫は、うなずいた。
「わたくしたちが、ここに帰ってきたことを、向こうの人たちにも知ってもらいたいのだわ」
「うん。話す」
何をしたのか。
どうして、そうしたかったのか。
あの王様にとって都合のいい説明だけが広がってしまうのは、私も嫌だった。
エスメラルダが、煙管を持つ手を下ろした。
「そのことだがね。ティアラ」
少しだけ、声が低くなった。
「向こうの国境にいる商人から、便りが来た。騎士が神殿へ、あんたのことで判断を求めたらしい」
「……わたくしの」
「ああ。ティターニアの御名を名乗った治癒師と、死んだはずなのに起き上がった勇者の話が、出回り始めてる」
私は、思わず右の胸元へ手をやった。
服の下に、傷はない。
息も、普通に吸えている。
でも、指がその場所に触れただけで、足元の石が少し冷たく感じられた。
すぐそばで、ティアの手が動いた。
何かを確かめるように、私の袖へ触れた。
私は、そのままにしておいた。
「今すぐ、どこかの神官が迎えに来るって話じゃない。だが、顔を見たがる奴は増えるだろうね」
「はい」
ティアは、少しの間、考えた。
それから、顔を上げた。
「あの方々が、故郷へ帰りたかったことも、一緒に伝わるとよいのですが」
エスメラルダが、ティアを見た。
「あーしたちも、伝えるさ」
短い返事だった。
ティアは、深く頭を下げた。
私は、その横顔を見ていた。
何も持っていなかった手。
震えながら、まっすぐ立っていた姿。
あのとき、私は、彼女の本当の名前を聞いた。
今、その名前が、私たちの知らないところでも呼ばれている。
少し怖い。
けれど、あの場で彼女が立ったことを、私たちだけの記憶にして終わらせてしまうのも、違う気がした。
姫が、ティアの袖を、そっと引いた。
「わたくしも、お話しするのだわ」
ティアが、膝を折る。
姫は、その目を見た。
「あなたが、わたくしたちのところへ来てくれたことを」
ティアの唇が、少し震えた。
私は、視線を、包みへ落とした。
見ていたい顔ばかりで、ずっと見ていたら、私のほうが泣きそうだった。
「ほら。あんまり引き止めると、宿場へ着く前に日が暮れるよ」
エスメラルダが、手をたたいた。
いつもの、店で聞いた声だった。
姫が、少しだけ鼻を鳴らして立ち上がった。
私は鞄へ手紙とお菓子をしまい、フィナさんにも挨拶をした。
「エスメラルダのこと、よろしくね」
「はい」
返事は、きびきびしていた。
「休みを取っていただけるように、帳面は先に片づけておきます」
「余計な相談をするんじゃないよ」
エスメラルダが眉を寄せる。
でも、フィナさんは、ちょっとだけ笑っていた。
こちらで暮らす彼女を、心配してくれる人がいる。
それがわかって、私は、もう一つ安心した。
「リゼさんも、またね」
「うん。今度は、落ち着いて一杯やろう。前の約束、忘れてないから」
前の約束。
川向こうのお店。
かわいい女性と、お酒。
私の中で、かなり元気な部署が、早速、予定表を広げた。
「も、もちろん」
「わたくしも、ご一緒してよろしいでしょうか」
隣から、声がした。
ティアだった。
リゼさんが、私とティアを見比べた。
それから、楽しそうに笑った。
「いいよ。じゃあ、三人で」
「はい」
ティアがうなずいた。
私は、二人を交互に見た。
好きな人が二人いて、同じ席でお酒を飲む。
それは、かなり、私の思い描いていた将来に近い。
近いはずなのだけれど。
今のやり取りには、私だけが読めていない何かが、あったような気がした。
「……その顔で出ていくなら、まあ、大丈夫かね」
エスメラルダが、笑った。
私は、彼女に向き直った。
「泊めてくれて、ありがとう」
「今さらかい」
「言ってから、行きたくて」
最初の夜。
戸口で頭を下げたことを思い出した。
泊まるところさえ見つけられなかった私たちに、彼女は、眠る場所をくれた。
朝になったら、やることもくれた。
仕事があって。
帰れば、明かりがついていて。
そこから、知っている人が増えていった。
「ゴブリン亭に、行ってよかった」
エスメラルダは、少しの間、黙っていた。
それから、手を伸ばした。
私の襟元を、指でつまむ。
ずれていたところを直し、そのまま、肩を一度だけたたいた。
「あーしも、あんたらを泊めてよかったと思ってるよ」
私は、笑った。
うまく笑えたかどうかは、ちょっと、自信がなかった。
ティアも隣で、お礼を言った。
途中で言葉が詰まって、エスメラルダが、何も言わずに、その肩にも触れた。
「元気でね」
「あんたたちもね」
私は、一歩下がった。
姫が、外套の端を握っていた。
「ゆりあ」
「うん?」
「お手紙を、書くのだわよ」
金色の目が、私を見た。
「どんなところにいるのか、わかるように」
「書くよ。ティアと二人で」
隣を見ると、ティアも、うなずいた。
「お返事が届く場所も、ちゃんとお知らせいたします」
姫は、ようやく、外套から手を離した。
小さな手が、こちらへ伸びた。
私は、両手で包んだ。
あの日、私へ噛みついた子が、今は自分から、手を出してくれている。
その手を引いて連れ出さなくても、この子は、ここで暮らしていける。
「いってくるね」
私が言うと、姫は、しっかりとうなずいた。
「いってらっしゃいなのだわ」
*
門を出てから、何度も振り返った。
姫が手を振っていた。
フィナさんも。
リゼさんは片手を高く上げて、エスメラルダは、その隣で煙管を持ち上げた。
ティアと二人で、大きく手を振り返した。
街道が、低い丘の裾を曲がる。
城壁が見えなくなるまで、思っていたより、長くかかった。
見えなくなってからも、しばらく、胸の中に、皆の顔が残っていた。
鞄の中には、お菓子と、書状と、借りた杯。
それから、家の鍵。
出てきたばかりなのに、もう、帰るときのことが楽しみになっている。
「……少し、寂しいですね」
ティアが言った。
「うん」
私は、素直にうなずいた。
「でも、帰ってきたら、また、あんなふうに会えるよ」
「はい」
彼女は、前を向いた。
青いリボンが、背中で揺れる。
私は、その横へ並んだ。
遠くに、荷車が何台か見える。
街道の左右には畑があり、朝の仕事を始めた人たちが、こちらへ軽く手を上げてくれた。
知らない道が、続いていた。
鞄の重さは、ちゃんと両肩にある。
靴の中の足も、痛くない。
隣から、ティアの足音が聞こえる。
私は今、生きていて。
この人と、次の町へ向かっている。
「ティア」
「はい」
「着いたら、何したい?」
「まず、お宿を探しましょう」
即答だった。
私は、思わず笑った。
「そうだね。それ、大事」
「お部屋が決まるまでは、寄り道をなさらないでくださいね」
「わかった。荷物を置いたら、ご飯と、お風呂と」
「はい」
「女の子がたくさんいる、お店も見つけたい」
「……お宿を、先に、です」
なぜか、一つずつ区切って言われた。
私は、肩紐を握り直した。
わかっている。
寝る場所も、ご飯も、明日の準備も、大事だ。
その上で。
「せっかく異世界まで来たんだからさ。やりたいこと、ちゃんとやりたいんだよね」
言ってから、ティアを見た。
少しだけ眉を下げた顔が、こちらへ向く。
私は、笑った。
「私のハーレム作りは、これからですから!」
「道の真ん中で、宣言なさらないでください!」
少し先を歩いていた人が、振り返った。
ティアが、慌てて小さく頭を下げた。
私は、笑ってから、彼女へ手を差し出した。
ティアが、私の顔を見る。
「……何でしょうか」
「一緒に行こうと思って」
「今も、ご一緒しておりますけれど」
「うん。もうちょっと、しっかり」
青紫の瞳が、私の手へ落ちた。
ほんの少し、口元が緩んだ。
「では、歩きやすい速さで、お願いいたします」
「了解です」
指が触れた。
握ってもらった。
嬉しくて、少し、足が速くなりそうだった。
私は一度、歩幅を小さくした。
隣を見ると、ティアも、こちらを見ていた。
まだ知らない町で、この人の好きなものが、また一つ見つかるかもしれない。
そう思いながら、私たちは、南へ続く道を歩き始めた。
*
「ねえ。どっち?」
古い見張り塔の上で、少女が尋ねた。
朝の風が、金色の髪を持ち上げている。
その髪を押し分けるように伸びた巨大な角は、鮮やかなピンク色をしていた。
腰から延びる太いしっぽが、崩れかけた縁へ巻きついている。
背中の翼が、ゆっくり開いた。
赤い鱗が、重なり合って光を返した。
「こ、こちらへ、上げていただければ……」
男の声は、少女の足元よりも、ずっと下から聞こえた。
彼は、片足をつかまれていた。
頭を下にして、塔の外へぶら下げられていた。
小さな少女の体には似合わない、ドラゴンそのもののような、大きな爬虫類の手。
硬い鱗に覆われた指が、男の足首を握っている。
爪の一本が、靴の革へ食い込んでいた。
「見つけてくれたら、上げるって言ったでしょ?」
少女は、楽しそうに笑った。
腕が動く。
男の体が、塔の壁から離れた。
空いた両手が、何もないところをかいた。
「ほら。こっちのほうが、よく見えるよ」
「ひ、姫様、どうか――」
「どっち?」
声は、明るいままだった。
男は、震える指を街道へ向けた。
「あ、あの、銀髪の女が……女神を名乗った治癒師です。その、隣が、勇者で……」
少女の深紅の瞳が、細くなった。
遠くの道で、二人の女が歩いていた。
手をつないでいる。
銀髪の女が何か言うと、隣の女が笑った。
「あれかあ」
少女は、つかんでいた男を引き上げた。
そのまま、塔の床へ放した。
男は腕から落ち、短く叫んだ。
起き上がろうとして、すぐに片腕を抱え込む。
「……あ。また?」
少女は、小首をかしげた。
ピンクの角が、ゆっくり傾いた。
「下まで落としてないのに。すぐ痛くなるんだね」
男は、返事をしなかった。
額の汗を、動くほうの腕で拭った。
彼の目の前にいるのは、ジャブジャブ。
魔王軍四天皇の一人を親に持つ、竜族の第二王女だった。
最強種と呼ばれる竜たちの中で育った彼女には、ほかの生き物が、どうしてこうも簡単に壊れるのか、よくわからなかった。
「それで、ほんとに死んじゃったの?」
ジャブジャブは、街道から目を離さずに聞いた。
「弩で、胸を射抜かれたと……。その後、治癒師が触れて、起き上がったそうです。神殿へ照会が出されたことも、確認が取れております」
「ふうん」
「ですが、本当に女神であるかまでは……」
ジャブジャブは、もう、男を見ていなかった。
手すりの石へ、大きな手をつく。
指を曲げると、古い石が、爪の形に欠けた。
「じゃあ、途中で動かなくなっても、また遊べるんだ」
しっぽの先が、機嫌よく、石の上をたたいた。
男が、顔を上げた。
「殿下。お戻りになるようにとの――」
「あとで」
返事は、軽かった。
街道では、栗色の髪の女が、隣の女の歩く速さに合わせて、歩幅を狭めていた。
ジャブジャブは、その姿を、じっと見つめた。
治すほうの子には、見ていてもらえばいい。
遊び相手が動かなくなるたびに泣かれるのは、面倒だった。
でも、何度でも直せるのなら。
今度は、まだ遊び足りないのに、終わりにしなくて済むかもしれない。
「いいなあ」
小さな唇が、笑みの形に開いた。
「わたしも、混ぜてもらおうっと」
街道を歩く二人は、まだ、塔の上を見ていなかった。
赤い翼が、音もなく、折り畳まれた。
深紅の瞳が、その背中へ、狙いを定めた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は、この第一章をもって、ひとまず完結とさせていただきます。
今後の反響によっては、続編の執筆も考えております。ゆりあたちの旅の続きを読んでみたいと思っていただけましたら、感想や評価などで応援していただけると嬉しいです。
ゆりあとティアラ、そして仲間たちの物語を最後まで見届けてくださった皆様に、心より感謝申し上げます。




