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最終話:ハーレム作りは、これからです!

 出発の前日、私は、女神さまの鞄から鍋を取り出した。


「ティア」

「はい」

「これ、持っていくの?」

「外でお食事を作ることも、あるかと思いまして」


 実にもっともな理由だった。


 私はうなずき、鍋の底に入っていた小鍋も取り出した。


「こっちは?」

「温かいお飲み物を」

「なるほどね」


 さらに、小鍋の中から茶こしが出てきた。


 ティアと目が合った。


 青紫の瞳が、ほんの少し、泳いだ。


「……飲むときに、葉が入ると、お困りかと」


 かわいい。


 出発前から、かわいいが鞄に詰まっている。


 この人は、知らない道を何日も歩く準備をしながら、旅先で私がお茶の葉を飲み込まないように心配してくれたのだ。


 好きだ。茶こしにすら嫉妬しそう。私もそのくらい丁寧に選んで鞄へ入れてほしい。


 いや、入りたくはない。重い女にも限度がある。


「考えてくれたのは、すごく嬉しいんだけどね」


 私は鍋を床へ並べた。


「まず、その鞄、背負ってみようか」


 ティアは、素直に両腕を肩紐へ通した。


 立ち上がろうとした。


 座り直した。


 銀の髪が、ふわりと膝へ落ちる。


「……ゆりあさん」

「うん」

「鍋は、一つにいたしましょう」


 大事なことに、自分で気づける女神さまだった。


 私は笑いながら、鞄を支えた。


 ティアはちょっと唇を尖らせたけれど、私が手を差し出すと、ちゃんとつかんで立ち上がってくれた。


 同じ家で暮らして、数日。


 こういう何でもないところで、手が触れる。


 そのたびに嬉しくなっていることは、そろそろ顔に出さずに済むようになりたい。


 出さずに済んだ記憶は、今のところ、ない。


「おや。引っ越しかい?」


 開けていた玄関から、声がした。


 エスメラルダだった。


 白い髪を後ろへ流し、片手に書類の束、もう片方に細長い包みを持っている。腰の左右には、ナイフの鞘が一つずつ揺れていた。


「鍋を減らす相談中」

「先に中身を減らしな。あんたら、台所ごと歩く気かい」


 彼女は食卓へ書類を置いた。


 机の上には、昨日から広げている地図と、私が書き直した持ち物の一覧がある。


 エスメラルダはそれを一度眺めてから、隣に置いていた勘定書きを指でたたいた。


「こっちは、もう済んでるのかい」

「うん。旅費と、家に残しておく分と、何かあったときのお金。分けた」


 ナイフの代金と、荷車の修理に出す分も、渡してある。


 食費は少し多めに見た。ティアと二人で知らない町へ行くのだ。おいしそうなものを見つけたとき、私だけ無言で財布を閉じるような旅行にはしたくない。


「……店じゃ、あれだけ口を動かしてたくせにねえ」

「手も動かしてたでしょ?」

「動いてなきゃ、首根っこをつかんで放り出してたよ」


 エスメラルダは、口の端だけで笑った。


 褒められた。


 たぶん、かなり褒められた。


 私は自分に都合のいい受け取り方をしつつ、彼女の腰を見た。


「新しいの、届いたんだ」

「ああ」


 ナイフの柄へ、節の目立つ指が触れる。


「悪くないよ。馴染むまでは、少しかかるだろうがね」


 それで、十分だった。


 失くしたものを全部元どおりにできるとは、思っていない。


 でも、あの人がまた両手を使えるようになった。そのために少しでも役に立てたのなら、貰ったお金をこれより上手に使う方法は、私には思いつかなかった。


 エスメラルダは、地図の南側を指した。


「明日は、この街道だ。ベルナへ行くなら、途中の分かれ道で西へ入るんじゃないよ」

「私たちを召喚した王国のほうに戻っちゃうんだよね」

「そうさ。余計な顔見せは、しなくていい」


 次の目的地は、南にある交易国ベルナ。


 大きな川に沿って町が並び、荷物も人も、いろいろな国から集まるらしい。


 エスメラルダが取引をしたことのある商人も、そこにいるという。


 知らない国の食べ物。


 見たことのない服。


 まだ出会っていない、かわいい女の子たち。


 そして、それを隣で見ているティア。


 行きたい理由を並べるだけで、今から靴を履きたくなる。


「ここと、ここ。日が暮れるまでに、宿場へ入れるように歩きな。道を外れて近道なんざ、考えるんじゃないよ」

「はい」

「気になる女が森へ入っても、ついていくな」

「どうして私にだけ、そんな具体的な注意を?」

「あんた以外の誰に言うんだい」


 ティアまで、横でうなずいていた。


 心外だった。


 少なくとも、声をかけてからにする。


 ……この反論は、たぶん、言わないほうがいい。


 エスメラルダは、細長い包みをこちらへ押し出した。


 ほどくと、布を巻いた金属の杯が二つと、折りたためる小さな調理用の道具が入っていた。


「持っていくなら、そっちだ。落としても割れない」

「これ、くれるの?」

「返しに来るつもりで、持っていきな」


 私は、包みから顔を上げた。


 彼女はもう、床に並んだ鍋のほうを見ていた。


「そのでかいのは、置いていきな。帰ってきたとき、湯を沸かすものも要るだろう」


 ティアが、両手で小鍋を持ち上げた。


「はい。そういたします」


 声が、嬉しそうだった。


 私も、包みを抱え直した。


「ありがとう。大事に使う」

「へこませたら、へこませたで、持ってきな。なくすよりゃましだよ」


 それから彼女は、一番上の書類を裏返した。


 家の修繕を頼む相手。


 便りを届けてもらう、城の窓口。


 雨漏りや、庭のことで困ったとき、誰に連絡すればいいのか。


 そういうことが、ひと通り書いてあった。


「留守の間は、あーしが時々見とくよ。作ってもらった合鍵は、城で受け取る」

「忙しいのに、ごめんね」

「前から残ってた家まで腐らせてたら、建て直すほうが高くつくんだよ」


 そっけなく言いながら、彼女は庭へ目を向けた。


 抜ききれなかった草が、塀の根元に残っている。


 ちょっとだけ、眉が寄った。


 たぶん、次に帰ってくるときには、あそこもきれいになっている。


「エスメラルダ」


 私は、呼んだ。


「一緒に来たいって、ちょっとは思った?」


 口にしてから、少しだけ、欲張ったと思った。


 彼女がここで働くと決めたことは、もう聞いている。


 応援したい。ちゃんと、そう思っている。


 でも、帰る場所になってくれた人と、行く場所も一緒にしたかった気持ちまで、なくなったわけではなかった。


 エスメラルダは、私を見た。


「ああ」


 返事は、短かった。


 私は、思っていたより、何も言えなくなった。


「……あ。うん」

「自分で聞いたんだろ。何だい、その顔は」


 大きな煙管の先で、額を軽く指された。


 火は入っていなかった。


「見てみたい場所くらい、あーしにだってあるさ。ほかの国の酒場を回るのも、悪くない」

「うん」

「ただね。ここでやりたいことが、先にある」


 食卓の書類へ、彼女の指が戻った。


 途中まで書き込まれた金額の横に、何軒かの店の名前が並んでいる。


「働く場所を作って、金が回るようにして。あの子が何でも一人で抱え込まなくて済むようになったら、そのときは、少し留守にするかもしれないね」


 あの子。


 誰のことかは、聞かなくてもわかった。


「そのときは、誘っていい?」

「手紙が届く場所くらい、知らせておきな」

「知らせる。すごく知らせる」

「一通で読めるように、まとめるんだよ」


 私は、何度もうなずいた。


 隣でティアも、柔らかく笑っていた。


 エスメラルダは、二人の顔を見てから、わざとらしく息を吐いた。


「……先に食える飯の種類くらい、増やしとくんだったね」

「また教えてくださいませんか」


 ティアが、言った。


 彼女に、まっすぐ向き直っていた。


「まだ、鍋から目を離してしまいますけれど。次は、もう少し、落ち着いて作れるようになりたいのです」


 エスメラルダが、少しだけ目を細めた。


「教えるほうの飯も、作ってくれるんだろうね」

「はい。ぜひ」


 迷わず返った声を聞いて、彼女は笑った。


「そりゃ、帰ってくるまで、腕を落とせないねえ」


 私も食べたい、と言いかけて、やめた。


 今は、二人の約束を、ちゃんと聞いていたかった。


     *


 その夜、家は、いつもより広く見えた。


 畳んだ服は、もう鞄に収まっている。


 洗濯物も、残っていない。


 台所の隅には、留守番を言い渡された鍋が、大きい順に並んでいた。


 私は、明日の朝に食べるパンへ布をかけた。


 手を拭いていると、ティアが、棚から杯を二つ取り出した。


 同じ形で、縁の色が違う、あの杯だった。


「これでいただくのは、しばらく、お休みですね」

「うん。帰ってきたら、また使おう」


 旅に持っていく金属の杯は、もう鞄に入れた。


 家で使うものを、家に残していく。


 ただ、それだけのことに、こんなにそわそわするとは思わなかった。


 私は果実酒の瓶を持って、窓際の小さな机へ移った。


 庭の向こうで、どこかの家の明かりが消えた。


 涼しい風が、銀の髪の先を揺らしている。


「少しだけ?」

「はい。明日は、早いですものね」


 ティアは私の手元を見て、注がれたお酒がいつもの半分くらいになったところで、小さくうなずいた。


 その仕草だけで、加減がわかるようになった。


 最初は、お酒を勧めること自体、ちょっと申し訳ないくらいだったのに。


「すっかり慣れたね」

「……そんなに、飲んではおりませんよ」

「量の話じゃなくて」


 私が笑うと、ティアは杯を見下ろした。


 指先で、縁の色をそっとなぞった。


「一日が終わってから、お話をするのが、楽しみになりました」


 何を言ったらいいか、少しわからなくなった。


 ああ、だめだ。


 この人は、こういうことを、こちらの準備に関係なく言う。


 今の言葉だけを何度も聞ける道具があったら、絶対に買う。一日中聞いて、本人に話しかけられたとき聞き逃すような、かなり終わった使い方をする自信がある。


 私は杯へ口をつけた。


 まだ一口なのに、顔が熱い。


「……私も」

「はい」

「明日からも、話そうね。宿に着いたら」

「はい」


 ティアの返事が、少し弾んだ。


 私はようやく、ちゃんと彼女を見た。


 夜の薄い明かりの中で、目元が柔らかく緩んでいる。


 好きな顔が、増えたと思う。


 この人を初めて見たときから、きれいだと思っていた。


 思っていたけれど。


 お皿を選んでいる顔も、焦げた鍋を前に困っている顔も、好きなお酒をひと口飲んだあとの顔も、あのときの私は、まだ一つも知らなかった。


 知るたびに、その分だけ好きになる。


 こんなの、困るくらいに、増える一方だった。


「ティア、かわいい」

「……ありがとうございます」


 杯の向こうで、彼女の頬が赤くなった。


 それから、ちょっとだけ眉が下がった。


「明日からは、おっしゃる相手が、また増えるのでしょうね」

「え?」


 私が目を開くと、ティアは慌てて杯を置いた。


「い、いえ。ベルナには、たくさんの方がいらっしゃるそうですから。ゆりあさんが、その……運命の方に、出会えるかもしれませんし」


 その言葉に、私は、机へ置いてあった地図を見た。


 最愛の伴侶との縁を結ぶ。


 天界で選んだギフトは、今も、私とティアを結んでいる。


 私がティアよりも好きになった誰かと、互いに伴侶となること。


 それが、ティアが天界へ帰れるようになる条件だった。


 もっとも。


 どれだけ地図を眺めても、目の前の人より好きな相手が、どこにいるのか、私にはさっぱり見当がつかない。


「かわいい人には、会いたいよ」

「……はい」

「仲良くなりたいし、好きになったら、ちゃんと言いたい」


 ティアは、うなずいた。


 私は、その顔を見たまま続けた。


「でも、今、これを一番一緒にしたいのは、ティアだよ」


 地図の端へ、指を置いた。


「知らないご飯を食べてさ。おいしかったら、そっちもひと口もらって。変なもの見つけて、二人でびっくりして」


 何となく、笑ってしまった。


「たぶん私、ティアがいなかったら、どこへ行っても、ティアにも見せたいなって思う」


 言っているうちに、自分でわかった。


 私は、地図の先だけを楽しみにしているわけではなかった。


 その隣に、誰がいるのか。


 私にとっては、それが、ものすごく大事だった。


「だから、ティアが一番。そこは、今も同じ」


 ティアは、何も言わなかった。


 両手で包んだ杯へ、視線を落としている。


 私は、少しだけ背筋を伸ばした。


 しまった。


 好きだと言えば言うほど、帰れませんと言っているようにも聞こえる。


 私には嬉しいことでも、ティアが同じように嬉しいとは限らないのに。


「……ごめん。帰りたいって話をしてるのに」

「違います」


 思ったより、早く返事が来た。


 ティア自身も驚いたように、顔を上げた。


「あの……」


 唇が動いた。


 言葉を選んでいる、その間、私は黙って待った。


「天界のことを、忘れたわけではございません。帰らなくてもよいと、簡単に申し上げることも、できません」


 私は、うなずいた。


 ティアは、机の上で両手を重ねた。


「けれど、今のお話を、嬉しいと思ったのは、本当です」


 風が、机に広げた地図の端を持ち上げた。


 ティアが押さえた。


 その指に、青いリボンの先が、かすかに触れた。


「わたくしも、楽しみにしております。次の町で、何があるのか。ゆりあさんが、何を見て笑うのか」


 彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。


「ですから、謝らないでくださいませ。今のお話、聞けてよかったです」


 私は、口を閉じた。


 開いた。


 また、閉じた。


 さっきまで、自分から好きだの一番だの言っていた口が、急に、まるで役に立たなくなった。


 どうしよう。


 この人、私が笑うのを楽しみにしてくれている。


 その返事をするべき私が、今、たぶん、笑うというより、顔全体の形を保つので精いっぱいになっている。


「……そっか」

「はい」


「じゃあ、一緒に楽しもう」

「はい。ぜひ」


 伸ばされた手が、机の上にあった私の手へ重なった。


 指先が冷たくて、手のひらは、温かかった。


 私は、危うく杯を倒しかけた。


「ゆ、ゆりあさん?」

「大丈夫。手が、ちょっと、嬉しくて」

「手が?」

「私も」


 ティアが、瞬きをした。


 それから、肩を揺らして笑った。


 何なら、もっと笑ってほしかった。


 そのためなら、多少おかしな日本語を喋ったくらい、安いものだった。


     *


 翌朝は、私が先に目を覚ました。


 窓を開けると、まだ冷たい空気が入ってきた。


 自分の寝台を整えて、空になった棚を見る。


 借りた宿では、出る前に忘れ物がないかを確かめる。


 この家では、置いていくものが、ちゃんとあるかを確かめた。


 昨日のうちに洗って伏せた、二つの杯。


 壁に掛けた、台所用の布。


 まだ使いかけの油の瓶。


 また使うつもりのものばかりだった。


 階段を下りたところで、上から足音がした。


「おはようございます」


 ティアが、手すりを持って下りてくる。


 きれいに整えた銀髪に、青いリボン。


 旅の服は、前の日に二人で確かめたとおり、裾が足へ絡まない長さにしてある。


 彼女は私を見ると、少し立ち止まった。


「……曲がっておりませんか」


 リボンへ、手をやった。


「大丈夫。かわいいよ」

「そちらは、まだ聞いておりません」

「聞かれる前に答えちゃった」

「もう」


 笑って下りてくる足元を見て、私は自分の鞄を少し横へずらした。


 通り道を、空けた。


 こういうことなら、私にもできる。


 ちゃんと前を見て、危ないものがあれば、先にどけておく。


 この人が駆け出してから、どうして来たの、と驚くよりも、ずっと前に。


 朝食を済ませて、火の始末をした。


 窓を閉め、掛け金を確かめた。


 ティアが読み上げる順番に、一つずつ見て回る。


「台所は?」

「大丈夫」

「お二階は?」

「二部屋とも、窓、閉めた」

「鍵は」

「あるよ。ティアは?」


 小さな腰の袋から、彼女も自分の鍵を取り出した。


 二本の鍵が、朝の光を受けた。


 私は鞄を背負い、玄関の扉を開けた。


 最後にもう一度、振り返った。


 昨日の夜、二人で座っていた机が見える。


 今度帰ってきたら、庭に何か植えたい。


 ティアが好きな花を、聞いておかなきゃ。


 そう考えてから、扉を閉めた。


 鍵を回す音が、思っていたより、はっきり響いた。


「……いってきます」


 言ってみると、少し照れくさかった。


 隣で、ティアも家へ向き直った。


「いってまいります」


 それから二人で顔を見て、小さく笑った。


     *


 南門には、もう、皆が集まっていた。


 姫とエスメラルダ。


 少し後ろに、フィナさん。


 それから、門の柱へ肩を預けている、リゼさんの姿もあった。


「早いね。もう少し、家から出てこないかと思った」

「リゼさんこそ。お仕事は?」

「これから。見送りくらいは、できるよ」


 片手が、ひらひらと振られた。


 短い髪からのぞく耳飾りが、朝日を受けて揺れる。


 相変わらず、立っているだけで絵になる人だった。


 こういう人に門の前で待っていてもらえる人生が、ある。


 以前の私に教えたら、まずゲームの話だと思うだろう。


「会えて嬉しい。今日も、すごく格好いいね」

「ありがとう。出発前でも、元気だねえ」


 リゼさんが笑った。


 私のすぐ隣で、鞄の肩紐が、きゅっと鳴った。


 振り返ると、ティアが、持ち方を直していた。


 目が合う。


 にっこりされた。


 何だろう。


 笑っているのに、今、私、何かを確認された気がする。


「ゆりあ」


 姫が、呼んだ。


 私は、しゃがんで顔の高さを近づけた。


 淡い色の外套から、ふわふわした赤い髪がこぼれている。


 金色の瞳が、少し不満そうに私を見ていた。


「本当に、もう行くのだわね」

「うん」


「せっかく、おうちをあげたのに」

「ちゃんと帰ってくるよ」

「わかっているのだわ」


 すぐに言ってから、姫は、私の鞄へ目を落とした。


 少しだけ、唇が動いた。


「……でも、もう少し、一緒にお茶を飲むのかと思っていたのだわ」


 胸の真ん中が、柔らかいもので押されたみたいになった。


 困った。


 そんなことを言ってもらえるなら、もう一日くらい、と思ってしまう。


 きっと明日になったら、明後日も、と言いたくなる。


 私は、その気持ちごと、ちゃんと姫を見た。


「次に帰ってくるまでに、おすすめのお菓子、増やしておいて」

「そんなに食べるつもりなの?」

「姫が好きなの、いろいろ知りたいから」


 金色の目が、一度だけ大きくなった。


「……では、選んでおくのだわ」


 姫は、フィナさんから、小さな包みを受け取った。


「これは、今日の分」

「ありがとう」


「一度に全部、食べてしまわないこと。ティアラと、半分ずつにするのだわよ」

「わかりました」

「途中でお腹が空いても、知らない実を食べてはいけないのだわ」

「私、そんなに食いしん坊に見える?」

「何も考えずに口へ入れそうなところが、心配なのだわ」


 言葉に詰まった。


 ちょっと、反論しきれないところがあった。


 ティアが隣で、もう一度、うなずいていた。


 姫は、それを確かめると、今度は筒に入った書状を差し出した。


「こちらは、お父様から。ベルナでお世話になれるように、お手紙を書いていただいたのだわ」


 私は、両手で受け取った。


 旅の鞄には、勇者としての身分証も入っている。


 どの国の関でも通行を認めてもらえる、召喚されたときに渡されたものだ。


 それに今は、この国の王様が、私たちについて書いてくれた手紙も加わった。


「ありがとう。お父様にも、伝えておいてくれる?」

「ええ」


 姫は、うなずいた。


「わたくしたちが、ここに帰ってきたことを、向こうの人たちにも知ってもらいたいのだわ」

「うん。話す」


 何をしたのか。


 どうして、そうしたかったのか。


 あの王様にとって都合のいい説明だけが広がってしまうのは、私も嫌だった。


 エスメラルダが、煙管を持つ手を下ろした。


「そのことだがね。ティアラ」


 少しだけ、声が低くなった。


「向こうの国境にいる商人から、便りが来た。騎士が神殿へ、あんたのことで判断を求めたらしい」

「……わたくしの」

「ああ。ティターニアの御名を名乗った治癒師と、死んだはずなのに起き上がった勇者の話が、出回り始めてる」


 私は、思わず右の胸元へ手をやった。


 服の下に、傷はない。


 息も、普通に吸えている。


 でも、指がその場所に触れただけで、足元の石が少し冷たく感じられた。


 すぐそばで、ティアの手が動いた。


 何かを確かめるように、私の袖へ触れた。


 私は、そのままにしておいた。


「今すぐ、どこかの神官が迎えに来るって話じゃない。だが、顔を見たがる奴は増えるだろうね」

「はい」


 ティアは、少しの間、考えた。


 それから、顔を上げた。


「あの方々が、故郷へ帰りたかったことも、一緒に伝わるとよいのですが」


 エスメラルダが、ティアを見た。


「あーしたちも、伝えるさ」


 短い返事だった。


 ティアは、深く頭を下げた。


 私は、その横顔を見ていた。


 何も持っていなかった手。


 震えながら、まっすぐ立っていた姿。


 あのとき、私は、彼女の本当の名前を聞いた。


 今、その名前が、私たちの知らないところでも呼ばれている。


 少し怖い。


 けれど、あの場で彼女が立ったことを、私たちだけの記憶にして終わらせてしまうのも、違う気がした。


 姫が、ティアの袖を、そっと引いた。


「わたくしも、お話しするのだわ」


 ティアが、膝を折る。


 姫は、その目を見た。


「あなたが、わたくしたちのところへ来てくれたことを」


 ティアの唇が、少し震えた。


 私は、視線を、包みへ落とした。


 見ていたい顔ばかりで、ずっと見ていたら、私のほうが泣きそうだった。


「ほら。あんまり引き止めると、宿場へ着く前に日が暮れるよ」


 エスメラルダが、手をたたいた。


 いつもの、店で聞いた声だった。


 姫が、少しだけ鼻を鳴らして立ち上がった。


 私は鞄へ手紙とお菓子をしまい、フィナさんにも挨拶をした。


「エスメラルダのこと、よろしくね」

「はい」


 返事は、きびきびしていた。


「休みを取っていただけるように、帳面は先に片づけておきます」

「余計な相談をするんじゃないよ」


 エスメラルダが眉を寄せる。


 でも、フィナさんは、ちょっとだけ笑っていた。


 こちらで暮らす彼女を、心配してくれる人がいる。


 それがわかって、私は、もう一つ安心した。


「リゼさんも、またね」

「うん。今度は、落ち着いて一杯やろう。前の約束、忘れてないから」


 前の約束。


 川向こうのお店。


 かわいい女性と、お酒。


 私の中で、かなり元気な部署が、早速、予定表を広げた。


「も、もちろん」

「わたくしも、ご一緒してよろしいでしょうか」


 隣から、声がした。


 ティアだった。


 リゼさんが、私とティアを見比べた。


 それから、楽しそうに笑った。


「いいよ。じゃあ、三人で」

「はい」


 ティアがうなずいた。


 私は、二人を交互に見た。


 好きな人が二人いて、同じ席でお酒を飲む。


 それは、かなり、私の思い描いていた将来に近い。


 近いはずなのだけれど。


 今のやり取りには、私だけが読めていない何かが、あったような気がした。


「……その顔で出ていくなら、まあ、大丈夫かね」


 エスメラルダが、笑った。


 私は、彼女に向き直った。


「泊めてくれて、ありがとう」

「今さらかい」

「言ってから、行きたくて」


 最初の夜。


 戸口で頭を下げたことを思い出した。


 泊まるところさえ見つけられなかった私たちに、彼女は、眠る場所をくれた。


 朝になったら、やることもくれた。


 仕事があって。


 帰れば、明かりがついていて。


 そこから、知っている人が増えていった。


「ゴブリン亭に、行ってよかった」


 エスメラルダは、少しの間、黙っていた。


 それから、手を伸ばした。


 私の襟元を、指でつまむ。


 ずれていたところを直し、そのまま、肩を一度だけたたいた。


「あーしも、あんたらを泊めてよかったと思ってるよ」


 私は、笑った。


 うまく笑えたかどうかは、ちょっと、自信がなかった。


 ティアも隣で、お礼を言った。


 途中で言葉が詰まって、エスメラルダが、何も言わずに、その肩にも触れた。


「元気でね」

「あんたたちもね」


 私は、一歩下がった。


 姫が、外套の端を握っていた。


「ゆりあ」

「うん?」


「お手紙を、書くのだわよ」


 金色の目が、私を見た。


「どんなところにいるのか、わかるように」

「書くよ。ティアと二人で」


 隣を見ると、ティアも、うなずいた。


「お返事が届く場所も、ちゃんとお知らせいたします」


 姫は、ようやく、外套から手を離した。


 小さな手が、こちらへ伸びた。


 私は、両手で包んだ。


 あの日、私へ噛みついた子が、今は自分から、手を出してくれている。


 その手を引いて連れ出さなくても、この子は、ここで暮らしていける。


「いってくるね」


 私が言うと、姫は、しっかりとうなずいた。


「いってらっしゃいなのだわ」


     *


 門を出てから、何度も振り返った。


 姫が手を振っていた。


 フィナさんも。


 リゼさんは片手を高く上げて、エスメラルダは、その隣で煙管を持ち上げた。


 ティアと二人で、大きく手を振り返した。


 街道が、低い丘の裾を曲がる。


 城壁が見えなくなるまで、思っていたより、長くかかった。


 見えなくなってからも、しばらく、胸の中に、皆の顔が残っていた。


 鞄の中には、お菓子と、書状と、借りた杯。


 それから、家の鍵。


 出てきたばかりなのに、もう、帰るときのことが楽しみになっている。


「……少し、寂しいですね」


 ティアが言った。


「うん」


 私は、素直にうなずいた。


「でも、帰ってきたら、また、あんなふうに会えるよ」

「はい」


 彼女は、前を向いた。


 青いリボンが、背中で揺れる。


 私は、その横へ並んだ。


 遠くに、荷車が何台か見える。


 街道の左右には畑があり、朝の仕事を始めた人たちが、こちらへ軽く手を上げてくれた。


 知らない道が、続いていた。


 鞄の重さは、ちゃんと両肩にある。


 靴の中の足も、痛くない。


 隣から、ティアの足音が聞こえる。


 私は今、生きていて。


 この人と、次の町へ向かっている。


「ティア」

「はい」

「着いたら、何したい?」

「まず、お宿を探しましょう」


 即答だった。


 私は、思わず笑った。


「そうだね。それ、大事」

「お部屋が決まるまでは、寄り道をなさらないでくださいね」

「わかった。荷物を置いたら、ご飯と、お風呂と」

「はい」

「女の子がたくさんいる、お店も見つけたい」

「……お宿を、先に、です」


 なぜか、一つずつ区切って言われた。


 私は、肩紐を握り直した。


 わかっている。


 寝る場所も、ご飯も、明日の準備も、大事だ。


 その上で。


「せっかく異世界まで来たんだからさ。やりたいこと、ちゃんとやりたいんだよね」


 言ってから、ティアを見た。


 少しだけ眉を下げた顔が、こちらへ向く。


 私は、笑った。


「私のハーレム作りは、これからですから!」


「道の真ん中で、宣言なさらないでください!」


 少し先を歩いていた人が、振り返った。


 ティアが、慌てて小さく頭を下げた。


 私は、笑ってから、彼女へ手を差し出した。


 ティアが、私の顔を見る。


「……何でしょうか」

「一緒に行こうと思って」

「今も、ご一緒しておりますけれど」

「うん。もうちょっと、しっかり」


 青紫の瞳が、私の手へ落ちた。


 ほんの少し、口元が緩んだ。


「では、歩きやすい速さで、お願いいたします」

「了解です」


 指が触れた。


 握ってもらった。


 嬉しくて、少し、足が速くなりそうだった。


 私は一度、歩幅を小さくした。


 隣を見ると、ティアも、こちらを見ていた。


 まだ知らない町で、この人の好きなものが、また一つ見つかるかもしれない。


 そう思いながら、私たちは、南へ続く道を歩き始めた。


     *


「ねえ。どっち?」


 古い見張り塔の上で、少女が尋ねた。


 朝の風が、金色の髪を持ち上げている。


 その髪を押し分けるように伸びた巨大な角は、鮮やかなピンク色をしていた。


 腰から延びる太いしっぽが、崩れかけた縁へ巻きついている。


 背中の翼が、ゆっくり開いた。


 赤い鱗が、重なり合って光を返した。


「こ、こちらへ、上げていただければ……」


 男の声は、少女の足元よりも、ずっと下から聞こえた。


 彼は、片足をつかまれていた。


 頭を下にして、塔の外へぶら下げられていた。


 小さな少女の体には似合わない、ドラゴンそのもののような、大きな爬虫類の手。


 硬い鱗に覆われた指が、男の足首を握っている。


 爪の一本が、靴の革へ食い込んでいた。


「見つけてくれたら、上げるって言ったでしょ?」


 少女は、楽しそうに笑った。


 腕が動く。


 男の体が、塔の壁から離れた。


 空いた両手が、何もないところをかいた。


「ほら。こっちのほうが、よく見えるよ」

「ひ、姫様、どうか――」


「どっち?」


 声は、明るいままだった。


 男は、震える指を街道へ向けた。


「あ、あの、銀髪の女が……女神を名乗った治癒師です。その、隣が、勇者で……」


 少女の深紅の瞳が、細くなった。


 遠くの道で、二人の女が歩いていた。


 手をつないでいる。


 銀髪の女が何か言うと、隣の女が笑った。


「あれかあ」


 少女は、つかんでいた男を引き上げた。


 そのまま、塔の床へ放した。


 男は腕から落ち、短く叫んだ。


 起き上がろうとして、すぐに片腕を抱え込む。


「……あ。また?」


 少女は、小首をかしげた。


 ピンクの角が、ゆっくり傾いた。


「下まで落としてないのに。すぐ痛くなるんだね」


 男は、返事をしなかった。


 額の汗を、動くほうの腕で拭った。


 彼の目の前にいるのは、ジャブジャブ。


 魔王軍四天皇の一人を親に持つ、竜族の第二王女だった。


 最強種と呼ばれる竜たちの中で育った彼女には、ほかの生き物が、どうしてこうも簡単に壊れるのか、よくわからなかった。


「それで、ほんとに死んじゃったの?」


 ジャブジャブは、街道から目を離さずに聞いた。


「弩で、胸を射抜かれたと……。その後、治癒師が触れて、起き上がったそうです。神殿へ照会が出されたことも、確認が取れております」

「ふうん」


「ですが、本当に女神であるかまでは……」


 ジャブジャブは、もう、男を見ていなかった。


 手すりの石へ、大きな手をつく。


 指を曲げると、古い石が、爪の形に欠けた。


「じゃあ、途中で動かなくなっても、また遊べるんだ」


 しっぽの先が、機嫌よく、石の上をたたいた。


 男が、顔を上げた。


「殿下。お戻りになるようにとの――」


「あとで」


 返事は、軽かった。


 街道では、栗色の髪の女が、隣の女の歩く速さに合わせて、歩幅を狭めていた。


 ジャブジャブは、その姿を、じっと見つめた。


 治すほうの子には、見ていてもらえばいい。


 遊び相手が動かなくなるたびに泣かれるのは、面倒だった。


 でも、何度でも直せるのなら。


 今度は、まだ遊び足りないのに、終わりにしなくて済むかもしれない。


「いいなあ」


 小さな唇が、笑みの形に開いた。


「わたしも、混ぜてもらおうっと」


 街道を歩く二人は、まだ、塔の上を見ていなかった。


 赤い翼が、音もなく、折り畳まれた。


 深紅の瞳が、その背中へ、狙いを定めた。

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作は、この第一章をもって、ひとまず完結とさせていただきます。

今後の反響によっては、続編の執筆も考えております。ゆりあたちの旅の続きを読んでみたいと思っていただけましたら、感想や評価などで応援していただけると嬉しいです。

ゆりあとティアラ、そして仲間たちの物語を最後まで見届けてくださった皆様に、心より感謝申し上げます。

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