第7話 決断
朝のまだ人の気配が少ない時間の廊下を抜け、総統室の扉が開き、蒼真が入ってくる。
いつも通りの何も変わらない場所。
――の、はずだった。
机へ向かい椅子に座ろうとすると、ふと足が止まる。
「……」
視線がわずかに落ちた机の下には、影に隠れる位置に設置された小型の酸素キットだった。
目立たない
だが、確実に使える場所
「……」
何も聞いていない、だけど誰が置いたのかは明白だ。
椅子を引き、いつも通りに座る。
けれど足元の存在だけは消えない。
「……」
小さく息を吐き、机の上の書類に目を落とす。
仕事は進む
いつも通り
判断も変わらない
声もブレない
――ただ呼吸だけがわずかに浅い瞬間が訪れる。
数秒が数十秒に代わり、ペンが止まる。
ほんの一瞬、迷って机の下へ視線を落とす
見えない位置、けれど手を伸ばせば届く距離。
「……」
しかし手が伸びる事はなく、まだ選ばない。
椅子に深く腰を預け、ゆっくり息を吐くと
「……まだだ」
誰にも聞こえない声で小さく呟く。
扉の外で足音が一つ止まった。
ノックはなく、ただそこにいる気配が伝わる。
蒼真は顔を上げなかった。
「……分かってる」
小さく吐き捨てたその言葉に返事はなかった。
足音はそのまま遠ざかっていき、総統室は静寂に支配される。
机の下には置かれたままの酸素キット。
触れられないまま、そこにある。
無線が短く鋭い音でなる。
その音は第一の無線音だった。
蒼真は顔を上げ、すぐに応答した。
「……状況は」
『第一より本部、現場進行中。だが内部構造が想定より脆い』
奏の声は落ち着いているようだが僅かに速い。
『二次崩落のリスクあり。判断を仰ぎたい』
蒼真は目を閉じ、短い指示を飛ばす。
「……全員、一度下げろ」
その瞬間、胸が詰まり呼吸が浅くなる。
『了解』
奏は即答し、無線が切れる。
「……」
蒼真は立ち上がると椅子が小さく音を立てる。
机の下へ視線が一瞬だけ落ちた。
視線だけを向けた酸素キットに触れることなく、そのまま歩き出し扉へ向かう。
扉を開いた廊下には、蓮が立っていた。
視線が合うが何も言わない蓮。
それでも全部分かっている目だ。
「……行く」
蒼真が言うと蓮は一瞬だけ間を置く。
止めることも出来る
でも
止めない
「……分かった」
短い返答を蓮は返すと2人は並んで歩き出した。
崩落現場へ向かう車内にはエンジン音だけが低く響く。
蒼真は窓の外を見ていた。
呼吸は落ち着いている。
――今は
「……」
ほんのわずかに胸が重いが無視できる範囲だ。
「まだいける」
誰にも聞こえない声で呟く。
蓮は何も言わず前を見ていた。
その足元には黒いバッグが一つだけ存在していた。
現場外周、規制線の手前にまで瓦礫の匂いと粉塵が混じる空気が漂っていた。
真壁は腕を組んだまま立ち、視線は現場に向いている。
だが見ているのは現場ではなかった。
頭の中にあるのは昨日の光景だった。
廊下
膝をついた姿
酸素
「……」
小さく息を吐き、記憶を否定する。
あれはきっと、一時的なものだ。
そういう状況だった。
そう考える方が自然だ。
「……」
しかし、思い返しても何もない廊下。
ただ歩いていただけだ。
「……違う」
自分に言い聞かせるように納得させるように呟いた。
その時、規則正しい迷いのない足音が後ろから聞こえてきた。
真壁の視線がそちらへ向く。
蒼真だった。
その後ろには蓮がいつも通りの距離、いつも通りの立ち方で何も変わらない2人がいた。
――はずだった
蒼真の足がほんのわずかに止まり、一瞬呼吸が乱れた。
気にしなければ見逃すほどの違和感。
だが真壁は見逃さなかった。
「……」
真壁は鋭い視線で蒼真を見ていた。
蒼真はそのまま何もなかったかのように歩き現場へ向かう。
蓮は何も言わない。
けれど、その視線だけが蒼真から外れる事はない。
一瞬だけ蒼真がまた足を止める。
視線を下げ、何かを探すようにポケットへ手を入れ一瞬、悩んで手を出し歩く。
「……持ってねぇのか」
思わず零れた小さな声に真壁自身が一番驚いた。
何を見ているのか
何を気にしているのか
理解してしまいそうになる
それを振り払うように
首を振り「……関係ねぇ」と吐き捨てる。
だが視線は外れる事はなく蒼真の背中を追う。
その背中はいつも通りに見える。
けれどいつもとほんの少しだけどこか違う。
崩れそうな何かを抱えたまま立っているように見える。
「……」
真壁はゆっくりと息を吐き、一歩踏み出すと蒼真と蓮を追って現場へ向かった。
規制線の向こうには崩れた建物。
粉塵が舞い、空気が重い。
奏が振り返る
「総統」
短い挨拶に蒼真は軽く頷くと「状況」とすぐに確認へ入る蒼真。
「内部構造が想定以上に脆く、支点が不安定です」
「要救助者は?」
「奥に二名。ただ、通路が――」
言葉を聞きながら蒼真の視線はすでに内部を見ていた。
呼吸がわずかに乱れても、気づかないふりをする。
「全体下げろ」
蒼真は即断だった。
「……え」
一瞬の迷いの声が聞こえる。
「行けます」
瀬戸が強く出たがその声に蒼真の中で何かが引っかかった。
「行けるかどうかじゃない」
低く、瀬戸へむけて落とす。
「帰すかどうかだ」
そのひと言で空気が変わる。
奏が息を吐き「……一度下がる」と蒼真と判断が揃った。
その瞬間
ーガラッ
瓦礫が崩れ、粉塵が一気に舞い上がり視界が白で埋め尽くされた。
「――っ」
蒼真の呼吸が崩れる。
一気に肺が空気を拒んだ。
「……は……っ」
抑えきれない呼吸が音になる。
膝が揺れても、それでも立つ。
けれど視界が揺れ、音が遠くなっていく。
「総統!」
誰かの声は聞こえるのに、遠い。
聞こえてはいるのに届いてこない。
「……っ」
無理やり息を吸うがそれでも肺に入らない。
酸素が足りないのは体が分かっていた。
「……」
その時、視界の端に黒いバッグが飛び込んだ。
蓮は何も言わず、ただ開くと中から取り出したのは試作マスクだった。
目の前に蓮から差し出されたマスクを蒼真は見つめた。
「……」
分かっている
これを使えば、楽になる。
そして戻る事は出来なくなる。
一瞬、時間が止まった気がした。
「選べ」と言う白石の言葉がよぎる。
麗華の静かに寄り添う姿
リビングに響く子供達の声
「……」
息が入らず視界が暗くなり始めた。
倒れるか
選ぶか
「……帰す」
小さく呟き、手が動いた。
蓮の手からマスクを取る。
一瞬だけ、躊躇う。
それでも蒼真は自分で装着をする。
シュー……
空気が入る
肺が開き、一気に酸素が戻ってくる感覚だった。
「……は……っ」
深く息を吸いこみ、立つ。
視界が戻り、音が戻って来た。
蒼真は崩落現場をしっかりと見据えた。
「奏」
低くはっきりとしたマスク越しでも通る声。
「ルート再構築。支点変えろ」
「了解!」
即応する第一特務遊撃隊。
奏の指示が回。全体が動きだす。
蒼真はそのままその様子を立って見つめた。
隠せない。
「全員、帰すぞ」
短い声で、けれど確実に響く声がその場の全員に届く。
誰も迷わず動き出した、その中心に蒼真がいた。
瓦礫の奥では担架が引き上げられ救助が進んでいる。
「二名とも意識あり!」
張り詰めていた空気が一気に緩むが誰も止まらない。
「全員、撤収準備!」
奏の声が飛び、第一は統制が取れている。
迷いがない動きで隊員達が一斉に動き出す。
蒼真は救助の様子の全体を見ていた。
マスク越しの呼吸は安定している。
一人また一人と危険なラインを越えていくのを確認している。
「……」
最後の一人が安全圏へ出ると「全員、離脱完了!」と奏の声が響いた。
蒼真の視線が全体を見渡す。
「……帰したな」
小さく確かに呟くと蒼真はマスクを外した。
瞬間、肺に流れ込む空気が変わった。
「……っ」
呼吸が一気に崩れ、膝が揺れた。
視界だけが落ち、崩れかけた体が支えられた。
蓮が何も言わず、ただ蒼真を支えていた。
蒼真は息を整えようとするがすぐには戻らない。
「……っ、は……」
かすれる呼吸の中で口だけが動く。
「……帰っただろ」
絞り出すような蒼真の声に蓮は一瞬だけ目を細めた。
「……ああ」
短い蓮の返しはいつもの2人だった。
そのやり取りを少し離れた位置から見ていた真壁は動けず、蒼真から目を逸らせずにいた。
さっきまで立っていた男が
今は支えられている。
だが、全員が帰っている。
「……」
頭の中で何かが繋がっていく。
止めるべきだったのか?
行かせるべきじゃなかったのか?
違う
そうじゃない
「……違う」
蒼真から視線を外す事なく呟いた。
あの状態で、あそこまで立ち続け
あの状態で、指示を出していた
あの状態で――全員を帰した
「……お前」
言葉が続かなかった。
理解してしまった
理屈じゃない
思想でもない
ただの現実だったのだと
「……そういうことか」
小さく落ちたその声は誰にも届かない。
真壁はゆっくりと自分の手へ視線を落とした。
気が付かないうちに握っていたその拳には力が入っていた。
「……」
ほんのわずかに力を抜くと顔を上げ、蒼真を見る。
その視線はもう変わっていた
否定ではない
敵意でもない
「……帰したな」
今度ははっきりと
言葉にする
その一言だけだった。




