第8話 お父さん
ー3年後。
神代家のリビングには静かな時間が流れていた。
蒼真はソファに腰掛け目を瞑り酸素を吸っていた。
機械の小さな音だけが静かに流れている。
「ねぇ」
声が聞こえ、蒼真が目を開けると悠真がしゃがみ込み酸素キットをじっと見ている。
「これさ」
指でチューブをつまんでいる。
「美味しい?」
「……触るなよ」
穏やかな声で蒼真が答える。
「えー、気になるじゃん」
懲りること無く、さらに手を伸ばそうとする悠真の手を蒼真が掴み止める。
「壊すなよー」
「壊れんの?」
「壊れる」
悠真は機械と蒼真の顔を交互に見て真剣な表情をした。
「じゃあ危ないやつじゃん!」
「そうだ」
「じゃあなんでパパ使ってんの?」
一瞬、2人の間に間が落ちた。
キッチンに居た麗華は手を止めこちらに視線だけを向けていた。
蒼真は悠真の目を見て、ほんの一瞬だけ考えると
「……父さんには必要なんだ。悠真には危ないかな」
と優しく微笑んで答えた。
悠真は首を傾げ「ふーん」と分かってないような、でも納得した顔をしている。
「じゃあさ、それ終わったら遊べる?」
蒼真は小さく息を吐き、再びソファに背中を預けた。
「……うん」
「やった!」
ニコニコと笑顔で走り去って行く悠真。
静かになったな…と蒼真が再び目を閉じようとした時だった。
「ぱぁぱー」
酸素の機械とは反対側から、蒼真の服の袖をくいっと引っ張る小さな手の感覚と可愛らしい声が蒼真の耳に届く。
華凛だ。
蒼真はマスクをつけたまま、華凛を見つめる。
「抱っこぉー」
と手を伸ばす華凛。
「お膝の上の抱っこでもいい?」
蒼真がそう言うと、華凛は笑顔でこくんっと頷く。
酸素のチューブを巻き込まないように華凛を座ったまま抱き上げる。
「ぱぱ、大好きー」
華凛は大人しく蒼真の膝の上に座り、持って来ていたぬいぐるみで遊び出した。
ほんの僅かに蒼真の口元が緩んだ。
「相変わらず、大人気だね」
麗華が蒼真の隣へ腰を下ろした時だった。
「ねぇ、お父さん、宿題教えてー!」
今度は蒼志が自室からリビングへやって来た。
「これ、終わったらでいいか」
「いいよー」
宿題の紙をテーブルに広げ「待ってる」と椅子に座り、蒼真を見つめている。
「……慣れたな」
小さく独り言のように蒼真が落とす。
麗華は一拍だけ置き
「……うん」
それだけ返した。
蒼真は目を閉じ、マスク越しに息を吐く。
喋った事でほんの少しだけ呼吸が浅くなったが、苦痛ではなかった。
「……楽ではねぇな」
ほんの少しだけ、麗華には本音が出る。
麗華は何も言わず肩がわずかに触れる距離にいる。
それでいい
蒼真は目を閉じたまま、華凛の頭を撫でながら
「……でも」
一拍、間を開けて
「これでいい」
静かに言い切った。
麗華はわずかに目を細めたが、肯定も否定もしない。
ただ静かに隣にいる。
リビングにはまた穏やかな時間が流れていた。
「パパ、まだ終わんなーい?」
リビングの外から悠真の声が響き渡ると「悠真、うるさい!」と蒼志が怒るいつもの日常がきこえる。
ーここが帰ってくる場所。
夕方の庭には心地よい風が流れていた。
悠真と蒼志がボールを持って立っている。
「パパー!」
元気な悠真の声が響く。
蒼真は少し離れた場所で2人を見ていた。
マスクは外し、呼吸は落ち着いている。
――今は。
「キャッチボールしよ!」
「……一回な」
短く答える蒼真に「えー!一回だけぇ?」と悠真は不満そうだ。
「俺とやればいいじゃん。お父さんは1回だけなんだよ!」
蒼志が悠真をなだめようとしてくれている。
蒼真は肩をすくめると
「一回で決めろよ」
「無理だって!」
悠真が笑いながらボールを投げた。
少し高めのボールを蒼真は視線で追う。
一歩、踏み出し、無駄のない動きでキャッチする。
「ほら」
軽く投げ返すと悠真が受け取る。
「もう一回!」
「悠真!」
蒼志が悠真をまた叱りつける。
その様子を笑いながら蒼真は見ると、一瞬だけ空を見上げ息を整える。
「よし……悠真、あと一回だけだからな」
「やったぁ!」
もう一度投げたボールは今度は低い。
蒼真はしゃがまず、最小限で取りすぐに返す。
「はい、終わりな」
「えー!」
不満全開の悠真。
「父さん、ここで見てるから2人でやりな」
蒼真はそのまま近くの椅子に腰を下ろし穏やかな表情で蒼志と悠真を見つめる。
諦めたのか悠真は蒼志に向き合うとキャッチボールを始めた。
呼吸が少しだけ乱れる。
だけど気づかないふりをする。
「悠真、下手くそー!」
「兄ちゃんもだろ!パパのはもっと取りやすかった!」
いつもの口喧嘩をし始める2人に蒼真はいつも笑ってしまう。
「ぱぱ、また笑ってる!」
華凛がトコトコと麗華と庭へ出てきた。
「なんで、いつもお兄ちゃん見て笑うの?」
首を傾げ、きょとんと蒼真を見つめる華凛。
「んー?なんでだろうね?」
蒼真の華凛と同じく首を傾げた。
「似てるからでしょ?」
麗華の優しい声が蒼真の耳に響く。
「……どうだろうな」
自分でもわかってる。
息子達の口喧嘩が若い頃のしょーもない口喧嘩をする自分と蓮に似ている事は。
麗華もわかってる。
穏やかに庭に風が吹き、髪を揺らす。
子供達の笑い声だけが響き、時間が穏やかに流れていく。
夕食後のリビングには子供達の声がまだ残っている。
賑やかな笑い声と小さな喧嘩。
蒼真は静かな呼吸でソファに座って子供たちを眺めていた。
その時、ソファのサイドテーブルの上のスマホが震える。
蒼真の視線がスマホへ落ちる。
着信――蓮
「……」
今日は蓮の言いつけで蒼真の休養日だった。
その蓮からの着信はトラブルだろう…。
蒼真はゆっくりスマホに手を伸ばし着信を取る。
「……どうした」
低く、いつもの声で蒼真が出る。
『……国から通達が来た』
蓮の短い報告に蒼真の目がわずかに細くなった。
その様子に子供たちと遊んでいた麗華が気が付き、視線を蒼真に向ける。
「内容は」
『特定地域で地震活動が活発化してる』
蓮の声が蒼真の耳だけに響く。
子供達の笑い声は変わらずに響いていた。
『小規模な揺れが短期間で増えてる』
「……規模は」
『まだ小さい…だが、頻度が異常らしい』
蓮の声はいつもより静かな声に思えた。
まだ焦るような段階ではないということなのか…。
「……予測は」
『大規模地震の可能性あり』
その一言だけで十分だった。
静かな声の理由が蒼真には分かった。
「……分かった」
短くそれだけ返し、蒼真は通話を切った。
通話を終えると麗華の視線に気が付く。
少しだけ麗華の表情が曇って見えた。
「トラブル?行くの?」
「いや…蓮からの定時連絡」
「そう」
麗華は特にそれ以上聞くことはなかった。
蒼真の休みの日に蓮からの定時連絡はよくあることだからだ。
体の事で心配をかけている分、余計な心配はかける必要はないだろうと不器用な蒼真なりの優しさだった。
「パパー!」
悠真の声が響き蒼真は視線を蒼真に向ける。
その表情はいつもの優しいお父さんの顔。
「……ん?」
「見てこれ!」
悠真の掲げた紙には、家族5人がリビングで過ごす絵。
「……うまく描けたな」
その一言だけで、悠真が笑顔になる。
蒼志と華凛も描いた絵を見せにやってくる。
3枚の絵の中で蒼真が酸素マスクをつけずに笑っていた。
「3人ともうまいじゃん」
蒼真が微笑むと子供たちがそれぞれに自慢げな顔をして、誇らしげだ。
どうか、この日常にいつも帰れますように。




