第5話 向き合えないもの
朝の空気はすでに張り詰めていた。
既に連絡は蓮からもらっていた。
都市部近郊の小規模崩落事故だ。
本部に設置された対策本部の会議室へ蒼真が入ると、部屋の空気が一瞬だけ締まった。
蒼真は何も言わず、自席へ向かうと机の上の資料の束に目を通しながら、蓮へ声をかける。
「状況は」
「負傷者数名出てる。建物の老朽化が原因だ。第一が対応中」
「現場指揮は」
「奏」
蓮は短く返した。
「……そうか」
蒼真も短く返したが視線はわずかに鋭くなる。
老朽化した建物となると、コンクリートや鉄筋が脆い。
二時崩落の危険度が高いことから第一が出たのだろう。
無線が入る
『第一より本部。現場到着、これより救助開始』
奏の声がいつもより少しだけ速く感じた。
蒼真は無線に触れる事はなく、聞くだけだった。
「……」
呼吸が、わずかに浅い。
けれど何もなかったかのように静かに呼吸を整えた。
無線の向こうで瓦礫の音が響く。
『足場不安定、注意しろ』
奏の指示が飛ぶ。
一拍
『……大丈夫です、行けます』
瀬戸の声だ。
少しだけ強く、少しだけ速い。
無線を聞いていた蒼真の指が無線のボタンを押していた。
「止まれ」
小さく呟く。
蒼真の無線の声が本部と奏に届いた次の瞬間。
ーガラッ。
瓦礫の崩れる音が届く。
『っ——!』
無線が乱れ、一瞬の沈黙が会議室を支配する。
「状況」
蒼真の低い声が響く。
『小規模崩落、巻き込みなし!』
すぐに奏から返答があり、張り詰めた会議室の空気がまた喧騒へと変わって行く。
『全員、一度下がれ。確認してから進む』
奏のさっきより低い声が無線から聞こえてくる。
蒼真の呼吸が再びわずかに浅くなったのを蓮は見逃さなかった。
「蓮、後は任せた」
蒼真はそれだけ言うと立ち上がり、会議室から出てゆく。
「書類やっとけ」
「鬼の補佐官様だわ」
「……馬鹿が」
蓮は誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
誰も居ない、総統室への廊下。
蒼真の足音だけが響いていた。
ただ、歩いているだけなのに…呼吸が浅くていつもより息苦しい。
一瞬、目の前が霞んで、体がフラつき壁に手をつく。
「……」
蒼真はポケットから携帯酸素を取り出し、吸う。
何度か吸うと落ち着いていく呼吸。
「……はっ…ダセェな、おい」
蒼真は自分で自分を鼻で笑ってしまった。
そのまま、総統室へ辿り着くと中へと姿は消えて行く。
(…なんで、今…?)
人の気配はないと思っていた。
一定のリズムで足音が近づいてくる。
だがわずかに乱れた。
真壁は足を止め、視線だけを向けた。
蒼真が歩いている。ただ、それだけの光景――のはずだった。
「……」
一瞬、蒼真の足が止まり、壁に手をつく。
ほんの短い間、呼吸が崩れる。
音になるほどではないが明らかに浅い呼吸。
真壁の目が細くなる。
蒼真は何もなかったかのようにすぐに体勢を戻した。
だが、ポケットに手を入れる動きだけが遅れていた。
取り出されたのは携帯酸素だった。
シュー……
その場には不釣り合いな音だ。
蒼真は何も言わず、ただ数回吸うとそのまま歩き出した。
真壁は動かず思い出したのは
瓦礫の中
テント
酸素
――粉塵対策
そう思っていたが今は違う。
何もない廊下だ。
「……気のせいか」
小さく吐き捨てた。
視線は外れる事はなく蒼真の背中が見えなくなるまで真壁はそこに立っていた。
静まり返った空間に扉が閉まる音だけが響く。
蒼真はそのまま数歩進み、机に手をついた。
「……っ」
呼吸が整いきらない。
ゆっくりと息を吐き、目を閉じる。
数秒、何も考えないようにする。
それでもさっきの感覚が残っている。
「……なんでだ」
蒼真の声が誰もいない部屋に静かに落ちる。
視線を上げると机の端には試作の酸素マスクが置かれている。
「……」
視線が止まって動かない。
ほんの少しだけ、また呼吸が乱れる。
自分で分かっている。
それでも手は伸びない。
「……いらねぇ」
吐き捨てるように呟いた。
けれど目は逸らせなかった。
「……まだだ」
小さく呟くと蒼真は椅子に腰を落とす。
机の上には触れられていないままの試作酸素が置かれていた。
静まり返った空間に時計の音だけが小さく響いていた。
蒼真は椅子に腰を落としたまま動けずにいた。
机の端には試作の酸素マスク。
蒼真の視線はそこに落ちたままだった。
「……」
呼吸は落ち着いている
だが、さっきの感覚がまだ残っている
ノックの音が響いても返事はしなかった。
それでも扉が開くとそこに居たのは蓮だった。
蒼真は顔を上げる事もなく、視線も動かない。
蓮は何も言わずに数歩だけ近づいた。
机の上の試作酸素を一瞥する。
「使わなかったか」
短い声だった。
「必要ない」
蒼真は間をおかずに即答した。
蓮はそのまま机の前に立ち、試作酸素に手を伸ばすと軽く触れた。
「必要になる」
「ならねぇよ」
視線は逸らさなかった。
「なる」
蓮の一言で空気が張り詰めた。
ぶつかるでもなく。
ただ押し合うだけの圧。
「……持っとけ」
それだけ言葉を蓮は落とすが返事はなかった。
蓮はそのまま踵を返し、扉が閉まる。
誰も居なくなった部屋で机の上の試作酸素を見たまま蒼真は動かなかった。
「……」
ほんのわずかに呼吸が乱れても、それでも手は伸びない。
だけど、視線だけは外すことが出来なかった。




