第二十一話 新たな願い(1)
除夜の鐘が、静かに遠く響いている。わたしはベッドに身を沈め、両手でスマートフォンを握りしめていた。ちらりと確かめた画面には、二十三時五十分の数字。あと十分で、今年が終わる。天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
――今年は本当に、いろんなことがあったな。
カナデに出会って、トランペットに触れて。笑って、泣いて、必死で音を追いかけて。そして、何より――初めて誰かを、本気で好きになった。それも、女の子を。
一年前のわたしが聞いたら、きっとびっくりするだろう。今はもう、その気持ちを間違いだとは思っていない。ただ――この想いはずっと、胸の底にしまっておこうと決めた。
『これからもずっと、ミナは私の大事な友達だよ。誰よりも特別で、誰よりも大切だ』
カナデの音のように沁みる声が、耳の中でよみがえる。わたしもだよ、カナデ。カナデはわたしの――誰よりも特別で、誰よりも大切な友達。それでいい。だって、それ以上を望むには、怖すぎるから。
スマートフォンを放り出して、枕元のぬいぐるみを抱きしめる。白くて、ふわふわのアザラシ。カナデが、わたしにくれたもの。ぎゅっと抱き寄せると、ほんの少しだけ、カナデに触れられているように錯覚する。そんなはずないとわかっていても、カナデのぬくもりが――まだ、この子には残っている気がして。触れられないはずの手を、今だけは重ねられるみたいで。
――来年は、どんな年になるんだろう。
少しだけ――ほんの少しだけ、期待している自分がいる。でも、このままが続けばいいとも思っている。欲張っちゃいけない。わたしは、カナデの友達なんだから。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。はっとして手に取ると、画面に浮かぶ名前に胸が跳ねる。慌てて起き上がり、つい手櫛で髪を整えてしまう。整えたところで、画面越しには見えないのに。
「……ええと、もしもし。カナデ?」
震える指先で通話ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てる。ほんの少し声が上ずって、頬がじわっと熱を持った。その向こうから、ふふっと柔らかく笑うカナデの息遣いが伝わってくる。その声が聞こえた瞬間、不思議なくらい、張っていた心が緩んでいった。
『ミナ、元気にしてる? そろそろ、年が明けるんじゃないかと思ってね』
「うん、元気だよ。あと少しで日付が変わる……。カナデのところは今、何時なの?」
『えーと……朝の五時前、かな。なんか眠れなくてさ。ふらふらしてた』
カナデの穏やかな声が、耳に柔らかく届いてくる。声はこんなにも近いのに――今、カナデは海の向こうにいる。わたしなんかには手の届かない、六千六百キロも離れた距離。同じ今のはずなのに、空の色が違うんだ。
カナデはいつだって――わたしが一歩ずつ歩いてきたこの世界とは、まるで別の場所を生きているみたいだった。カナデが見る空も、感じている風も、わたしのそれとはきっと違う。だけどどうして、こんなにも近く感じてしまうんだろう。
「ハワイかあ……いいなあ。わたし、海外なんて行ったことないのに……」
『そうなの? ミナ、きっと好きだと思うよ。青い海とかスイーツとか……あと、すごくのんびりしてるから』
「わあ、いいなあ……! やっぱりカナデの家って、お金持ちだよね……」
『別にそんなことないって。普通だよ。ただ、親が旅行好きで……毎年付き合わされてるだけ……』
そう言ってカナデは笑ったけれど――年末年始に海外旅行へ行ける「普通」は、わたしには遠い世界だ。毎年地元で過ごしてきたわたしと、さらっと外国を歩いてしまえるカナデ。
その差を、ほんの少しだけ遠く感じてしまう。わたしにはきっと、一生届かない場所。だからこそ――そんなカナデの隣にいられる今が、どこか夢みたいで。
「……ねえ、ハワイって、やっぱり楽しい?」
わたしはぬいぐるみをそっと撫でながら、問いかける。目を閉じると、カナデが見ている景色が浮かんできた。透き通るような青い海、白い砂浜、どこまでも澄んだ空。そんなところでカナデと一緒にいられたら、どんなに幸せなんだろう。
『んー、どうだろ。家族と一緒だから、そんなでもない。邪魔な兄貴もいるし。……あ、でも、パンケーキがすごかった。ミナが好きそうな、フルーツがたくさん乗ってるやつ』
「ええ~……羨ましい……!」
カナデの声に、ほんのり甘い香りが重なったような気がして、思わず笑みが零れた。だけど心の奥で、ひとつ息を呑む。
『そんなに良いかな……じゃあ、そのうち。いつか、ミナと来れたらいいよね。ミナと一緒なら、きっと楽しいよ』
「えっ……」
そのカナデの言葉に、胸が詰まった。呼吸の仕方を忘れて、言葉が出てこない。
――「いつか」なんて、来ないかもしれない。だけどそんなの、叶わなくたっていい。ただ、今この瞬間、わたしの名前を未来にカナデが置いてくれた――それが嬉しくて、たまらなかった。
「……うん。じゃあそれまでに、お金を貯めて……ダイエットもしとかないと」
『え? ミナ、別に太ってないでしょ。でも、そうだね。貯金しとかないとだ』
カナデの声が笑い混じりに落ちて、わたしもくすりと笑い返す。なのに、胸が少しだけ痛かった。
わたしの見たことのない世界を、カナデはいつも当たり前みたいに教えてくれる。その景色の中に、わたしは本当にいられるんだろうか。友達のままで、その未来に届くんだろうか。手を伸ばすには遠すぎて、心が締めつけられる。
ふと壁の時計に目をやると、針が日付を跨いでいた。「あっ」と声が漏れ、慌てて姿勢を正す。
「気づいたら、年が明けてしまいました……。ええと、カナデ、あけましておめでとうございます」
『何そのキャラ。はい、あけましておめでとうございます。今年もよろしくね』
「こちらこそ、よろしくお願いします。……ふふ。でも、カナデのところは、まだ年が明けてないんでしょ? なんか不思議な感じ」
そう言って笑いながら、わたしはぬいぐるみを抱えたまま、マットレスの上で身を丸める。年が明けて、最初に声を交わした相手が――カナデだった。それだけのことなのに、胸がじんとあたたかくなる。来年も、その先もずっと。きっとわたしはこうやって、カナデに染まっていく。
『四日には帰るからさ。その後、一緒に初詣でも行かない?』
四日。その数字を心の中でなぞっただけで、喉元がふわりと緩んだ。遠いはずのハワイが、急に数える距離になる。
「うん。じゃあその日まで、初詣は取っておくね。今年は……何をお祈りしようかな」
わたしは唸りながら、去年の自分を思い返す。中学三年生の年明け。きっと受験のことを祈ったんだと思うけど、もう何も思い出せなかった。
あのときのわたしは、まだ知らなかった。こんなにも、心を奪われる相手に出会うことなんて――きっと、教えてあげたって信じないだろうな。
『私はもう、決まってるよ』
「そうなの? ……なに?」
『内緒。でも、ミナのこと』
さらりと言われた言葉に心臓が跳ねて、熱が一気に顔に上がる。スマートフォンのスピーカーからふっとカナデの息が漏れて、次の瞬間にはくすくすと笑う声が重なった。
『……ははっ、ミナ、今絶対照れてたでしょ。分かりやすすぎ』
「えっ! ……別に、そんなことないから!」
動揺を誤魔化すように、ぬいぐるみに顔を押しつける。カナデは一通り笑って呼吸を落ち着かせようとしていたけれど、乱れた息遣いのまま話し始めた。わたしはこめかみまでじんじんと熱くて、息を整えるのがやっとだった。
『ほんと、ミナってからかい甲斐あるよね……。はー……笑いすぎて涙出てきた……』
カナデの楽しそうな声が、電波を越えて波のように届いてくる。なんて無防備で、なんて優しい声。わたしは黙って、その音に耳を澄ませることしかできない。恥ずかしくて、情けなくて、それでも――嬉しかった。
『からかったお詫びに教えてあげると、今年……クラス替えあるでしょ? だからさ、ミナと同じクラスになれますようにってお願いするんだ。もう新町先生には結構言ってるんだけどね。神頼みもしとこうかと思って』
ふいに、心臓が跳ねた。まぶたがじんと熱くなって、スマートフォンを思わず強く握りしめる。
「……わたしも一緒に、お願いしよ。同じクラス、なれるといいよね。でも……カナデはまず……留年しないようにしないと」
『最近はちゃんと行ってるじゃん。まあ、ミナに連れて行ってもらってるだけなんだけどさ』
肩を揺らすように笑う声が、すぐそばに感じられて――それがなんだか心地よくて、わたしは目を閉じた。カナデの声を聞いているだけで、どうしてこんなに、心が満たされていくんだろう。
この時間が、ずっと続けばいいのに。でもそれは、叶わないってわかっている。ガラス越しのようなこのやりとりは、時差の向こうにある現実の中で、すぐに終わってしまう。
だから、いまだけは。
「ねえ、カナデ……」
『ん?』
小さく息を吸って、意を決する。届くはずのない想いでも、せめて、声だけは。隠した想いは海を越えて、カナデの元に届くと良い。
「……大好きだよ」
ほんの少しの沈黙のあと、カナデの声が柔らかく返ってくる。
『改まってどうしたの。急に言われるとなんか、照れるね。……ありがと、私も大好きだよ』
カナデが躊躇いもなく言ってくれたその言葉を、何度も何度も、胸の内で繰り返す。大好き――その言葉の意味が違うことは、ちゃんとわかっている。
でも今は、それでもいい。この言葉を今のわたしにくれたことが、何よりも嬉しかった。
今年最初の祈りは、たったひとつ――今年も、カナデの隣にいられますように。




