第二十話 大好きな君と(2)
***
「奏っちと美奈ちー、おつかれー。マジ最高だったよー!」
本番の熱がまだ腕に残ったまま、終演後の公会堂に、柚希の明るい声が響く。楽器を抱えたわたしたちの元に勢いよく駆け寄ってくるその姿に、自然と肩の力が抜けた。その後ろには、少し緊張した面持ちのほのかも立っていた。
「……でさ! 最初の約束じゃ、助っ人は今日までって話だったっしょ? これからふたりはどうするー? 私らとしてはさ、できればこのまま入団してもらえたらって、思ってんだけど。ね、ほのちー?」
視線を向けられたほのかが、勢いよく頷いた。その一言が、わたしの中にふわっと温かく染み込んできた。こんなふうに、笑顔で迎えてもらえるなんて――それだけで、もう泣きそうだった。
わたしは隣にいるカナデと目を合わせて、小さく息を吸う。カナデはわたしに、何も言わずに微笑んだ。その笑顔に頷き返しながら――わたしは、少し前の海辺を思い出していた。
『ねえ、ミナ。助っ人期間は、コンサートまでだったでしょ? この後、どうするか……決めた?』
いつもの防波堤で、ふたり並んで練習していたとき。波音の合間にふと落とされたその問いかけに、わたしの心臓はひとつ大きく音を立てた。いつか聞かれるだろうと思っていた。でも、すぐには答えられなかった。
『……カナデは、どうするの?』
わたしの質問に、カナデは少しだけ沈黙した後、水平線の向こう側を見つめて答えてくれた。
『私は……これを機に、もう一度吹奏楽に挑戦してみたいと思ってるよ。今なら、昔よりも……ずっと上手くできる気がするんだ』
その横顔には、もうあの日の影がなかった。後悔も、痛みも乗り越えて――今のカナデは、ちゃんと前を向いている。
――よかった。
気づかれないように、胸の中でそっと息を吐いた。けれど、次に返ってきた言葉は、わたしの心をまた締めつけた。
『ミナは、どうする?』
カナデは一度だけこちらを見て、すぐに視線を逸らす。照れ隠しみたいに、短く笑った。
『正直に言うとさ、私は……ミナと一緒に続けられたら、すごく嬉しい』
その一言で、頬が熱くなった。だけどカナデは、そこで押してこない。まるでわたしが逃げられる余白をちゃんと残すみたいに、声を落として続けた。
『……でも、無理しなくていいよ。元々、私のために始めてくれたんだし』
その声は、とても優しかった。カナデはわたしの気持ちを大切にしてくれていると、わかっている。わたしが「やらない」と言っても、カナデはきっと、笑って頷いてくれるんだろう。その優しさがなんだか少し、怖かった。
――わたしは、どうしたいんだろう? 自信なんて、まだ全然ない。いつもカナデに引っ張ってもらってばかりだし、まわりの人はレベルが高くて到底追いつけないし、やっぱり怖い。でも、それでも――わたしは。
『わたしね……』
俯いたまま、手の中のトランペットをぎゅっと抱きしめた。震えていた日々も、失敗ばかりだった練習も、全部この手が知っている。それでも――この楽器が、好きだった。
『……合奏をして、楽しいなって思ったの。カナデの隣で音を出して……混ざり合って、それがひとつの音楽になっていくのが、すごいなって……いつも思うの』
顔を上げると、カナデの瞳が、真っ直ぐにわたしを見ていた。
『わたし、まだまだ技術も全然足りないけど……カナデの隣で、音楽をするのが好き。だから……だからわたしも、一緒に入って、いいかな』
波の音はまだ聞こえているのに、しんと空気が澄んだような気がした。カナデの瞳が、ふっと揺れる。次の瞬間――カナデは言葉より先に、手を伸ばしてきた。指先がわたしの手に触れた瞬間、鼓動が跳ねる。楽器の上で重なった手は、少しだけ震えていた。強く握るでもなく、離すでもなく――確かめるみたいに、そっと。
『……ミナ』
低く呼ばれた名前に、喉がきゅっと詰まる。カナデが顔を上げた。潤んだ瞳で、ただわたしだけを見つめていた。
『私も、ミナと一緒に音楽をするのが好きだよ』
一拍置いて、カナデは小さく笑った。
『ありがとう。……これからも、よろしくね』
たったそれだけの言葉なのに、心が溶けそうだった。嬉しくて、切なくて、愛しくて。
――これからもずっと、一緒にいたい。
そう思った瞬間、こみ上げてくる想いを喉の奥で飲み込んだ。この気持ちは、言っちゃいけない。伝えちゃいけない。だって、わたしたちは仲間として、今ここにいる。恋なんて、持ち込んじゃいけない。欲張りになっちゃいけない。
だからわたしは、笑った。気づかれないように、そっと笑って、カナデの手を握り返した。
『うん。……わたしこそ、よろしくね。カナデ』
それだけで、今は充分だと思った。一緒にいられる。カナデの隣で、音を奏でる。それが、わたしの願いだったから。
――そして、今。
「ユズちゃん先輩、わたし……入団してみても、いいですか」
「私も。このまま続けたいと思ってます」
わたしたちの言葉が重なった瞬間、柚希の顔がぱあっと輝いた。
「マジで? よかったー!」
叫ぶようなその声と同時に――ほのかが勢いよく、まるで抱きつくようにわたしたちに飛び込んできた。反射的にぐっと身体を押しつけられて、思わず息が詰まる。カナデが「うっ」と小さくうめいて、息を止めた。
「美奈ちゃん、奏……! 本当に、ありがとう……!」
ほのかの声が、震えていた。それは、喜びのあまり泣きそうな子どものようで。だけど、まっすぐな言葉の重みが、じわりと胸に染みてきた。
「ほのかったら、またなの? 本当大げさ……」
カナデは苦笑しながらも、ぎゅうぎゅうと抱きついてくるほのかの背中に、どこか照れくさそうに片手を添える。わたしも静かに、そのぬくもりを受け止めた。
ほのかの目元には、うっすらと涙が滲んでいた。それでもぐしゃぐしゃの笑顔のまま、「嬉しいよ……」と何度も何度も繰り返していた。
その顔を見た瞬間、胸の中にあった何かがふっとほどけた。
わたしはもう、ほのかに嫉妬していない。以前は、ほのかが怖かった。わたしには何もなくて――カナデがほのかに取られてしまうんじゃないかって、そればかりを考えていた。
でも今は――わかる。カナデとほのかの絆が本物だからこそ、きっとわたしは安心できる。こうして三人で笑い合えることが、ただただ嬉しかった。
このふたりの間に、一度だけ立ってみたあの日。間違ってばかりだったけれど、それでもあのとき、逃げずに踏み出してよかった。今、この瞬間の笑顔を見るために、あの日のわたしは頑張ったんだ。
わたしはカナデと目を合わせる。カナデは困ったような、それでも優しい笑みを浮かべて、ほのかの肩に手を添えていた。その姿に、また胸が疼く。なんて優しい時間なんだろう。小さく笑い返して、わたしはぎゅっと、ほのかの背中に手をまわした。




